カキぴー

春が来た

イスラエルへの誘い (2)

2010年02月28日 | 旅行記

私がイスラエル入国の玄関口に選んだ、フランクフルト国際空港は、ヨーロッパで、ロンドンのヒースロー空港に次ぎ、2~3番目に大きい国際的なハブ空港。  またベルリンがドイツの政治都市なら、フランクフルトは経済の中心都市で、世界各国の大手銀行が軒を並べる。 しかし市民はそれよりもこの街が、ゲーテを生んだ街として誇りにしている。 またこの都市が発展したのは、多くのユダヤ人を招いたからだといわれ、大きなユダヤ人街(ゲットー)が、現在も存在する。

イスラエルへの出国検査は、かなり厳しいと聞いていたが、まさに期待を裏切らなかった。 下着入れから洗面用具、果ては虎屋の羊羹から剣先するめまで、すべて裸にされてしまった。 1人に要する時間はおよそ10分、しかし皆んな当然のこととして受け止めている、テロの怖さが身に染みているからだろう。 テルアビブ行き ルフトハンザ航空686便(DC10-30)は、ビジネスクラスを含めて満席。 30分遅れ テルアビブに向けて離陸した、 ランチは機内食を断って、日本から持参したバッテラを、ブルゴーニュの白とともに食べる。 4時間後、飛行機はファイナル・アプローチに入る。

1972年5月30日、テルアビブのロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)で、日本赤軍による乱射事件が起きた。 これを英語では  「LodAirport  Massacre](ロッド空港の虐殺) と呼ばれ、心の傷は当時も残っていた。

実行犯は日本人大学生の3人、チェコスロバキア製のⅤz58自動小銃を乱射し、26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。 死者の中にはイスラエルの著名な科学者、アーロン・カツィール教授も含まれている。 犯人の2人は銃撃戦の末に死亡、1人(岡本)は警備隊に取り押さえられた。 当然国際的な非難は高まり、日本赤軍に対し、比較的同情的であった中東諸国も、これを機に距離を置くようになる。 またヨーロッパの各誌は、三島事件以上の衝撃を持って、「ハラキリ」 「ジャブ」 「カミカゼ」 など日本人が異質な人種であるかのような論評をしたといわれる。 忘れてしまいたい事件だが、私は間接的な加害国側の1人として、頭に留めながら入国した。

到着後、空港から車でエルサレムへ直行する。 50分ほどの距離だったが、地中海から内陸部に入った、標高800mの小高い丘の上に位置する。 人口732100人(2007年)で、全国最大の都市。 古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかって存在した。イエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、共通の聖地となっている。

ホテルはエルサレム・ヒルトン、ロビーは素晴らしかったが、部屋はお粗末。 夕食は食堂で済ませたが、休息日のためサービスは良くない。 9時過ぎ、室外のプールで1時間ほどゆっくり泳ぐ、背泳ぎで空を見上げると、星や 点滅する飛行機の灯火が美しい。

 


イスラエルへの誘い (1)

2010年02月27日 | 旅行記

日本オーナーパイロット協会の、上部組織である 国際オーナーパイロット協会(IAOPA) の第25回世界大会が、今年6月6日~11日、イスラエルのテルアビブで開催される。 私はこれまで世界各地を旅したが、17年前に訪れたイスラエルは、行って良かった と思う国の上位に挙げることができる。 

パレスチナ情勢の不穏も影響してか、日本からこの国に行く人は少ないように思う。 しかしイスラエルには、ユダヤ、キリスト、イスラム、4000年の歴史があり、 まさに古代史の宝庫。 そして小さい国なので、少ない移動時間で、多くのスポットを周れるのものも魅力。 さらに、概して食べ物が旨い。 たとえばネゲブ砂漠で、遊牧民が連れ歩く羊。 わずかな草を求めて長い距離を歩くので、痩せて身が引き締まっている。 これを焼肉で食べた時の感動が忘れられない。 これほど美味な羊肉は、後にも先にも食したことがない。          

会員の方々には、是非この機会に行かれることをお勧めしたい。 そんな思いで、遠い記憶を手繰りながら、私のイスラエル旅行を、記述してみたい。

平成5年7月9日17時 JAL407便(B747) はフランクフルトに向けて離陸。 ハバロスクを過ぎると、サンクト・ぺテルブルグまでシベリアの荒野を飛び続ける。 このコースが開設されてから、ヨーロッパは近くなった。 所要時間は11時間30分とのアナウンス。 ウエルカム・シャンパン とオレンジジュースを貰って、ミモザ・カクテルを作る。 

夕食は和食をチョイス、そこそこ食べられる。 大吟醸は、くど過ぎて量が飲めない。 デザートは果物、 食後酒にクルヴァジエを飲んで、2時間ほど眠る。 映画は「泥棒成金」、行きつけのバーのマダムが、「日本にはケーリーグランドが居ない」 と嘆いていたが、確かに彼は大人の男を感じさせ、色気のある俳優だ。 グレース・ケリーの母親が、ホテルのバーでバーボン・ウィスキーをオーダーする場面があり、アメリカ人がヨーロッパへ来て、堂々と品のなさを見せ付けるところが、面白かった。

フランクフルト到着まで2時間、 お澄ましも、漬物も付いたうなぎ弁当が出る。 この頃,日本人客がJALを指名するのが良くわかる。 他のエアラインが真似られないほど、食事も、サービスも、気配りも、素晴らしかった。 すっかり変わり果てたJALの現状など、誰が予想できただろうか・・・・             


国の衰退と、個人の自立

2010年02月26日 | 社会・経済

「会社は潰れるものと考えて、常に自分の実力を高め、転職に備えよ」 私は社長在任中、そう言い続けてきた。 しかし今思うと、そんなことを口にすべきではなかった、その通りになってしまったからだ。 だが社員や役員は、私に言われたことを実感したようだ。 当社の営業権を買い取り、事業を引き継いだ会社は、社員のレベルの高いことで知られた、中央の大手企業。 しかし厳しい面接と試験ををクリアーし、全従業員の80%が、会社に留まることができたからだ。 さらに彼らが中心となって、倒産後初めての決算で、億単位の利益を上げ、さらに自信を深めることができた。

日本航空の倒産は、日本を代表する大企業に就職しても、決して安泰ではなく、企業年金も、まともに当てにできないことを、 改めて多くのサラリーマンに再認識させた。 しかし、厳しい認識は民間企業までで、 公務員のレベルでは、これまでの給与水準も、受け取る年金も大きく減ることはないと、危機感は薄い。 そしてこれを国に置き換えてみると、 国民の大多数は、 国が潰れることはない、いざとなったら国が何とかしてくれる筈だ、 と思ってるのではあるまいか?

平成不況が始まって10年、 日本経済は、政府の財政支出によって、最悪の事態を回避してきた。 つまり収入を上回る予算を組み、差額の赤字を、事実上の借金である国債や地方債で先送りしてきた。 きっと景気が回復すれば、借金も返せるはずだとの思惑で。 しかし今や税収を上回る国債を発行し、返済や金利を払うために、また国債を発行しているのが現状。 これから先も発行額は増え続け、仮に景気回復を見込んでも、元金返済など 夢のまた夢。 国債は、いわば国が振り出した約束手形だ。 この先決済できなくなれば、不渡りとなり、国は倒産する。 その前兆として、国債の金利が上昇し、続いて暴落。 被害者は、これを保有してた国民や、銀行など、こんなことが現実にならなければ良いのだが。

現政権が、こうした事実を、包み隠さず国民に説明し、人件費や経費の更なる削減、消費税の引き上げなど、痛みの伴う改革に本気で取り組めるだろうか?  政治と金の問題でさえ自浄作用が働かず、大臣が政府専用機を飛ばして、ダボス会議の「様子を見に行く」現状を見てると、 可能性はきわめて薄い。

しかし、国が滅びるのを、黙って見過ごすほど国民は愚かとは思わない。 与えられた1票に、期待をこめて行使できる 政党の出現を待ちたい、 同時に個人も精神的に自立することが大事。 「自分を救えるのは自分だけ」 そんな心構えで、新しい時代に立ち向かって欲しい。


神は、自ら助くる者を助く

2010年02月25日 | 健康・病気

先週末、しばらくぶりに上京し、入院中の友人を見舞ってきた。 大学病院の盛況ぶりは凄い、増築に次ぐ増築、アメーバーのごとく拡張を続け、さながら一つの街を形成している。 それでも需要に追いつかず、入院の待機期間も長引く一方だと聞いた。 個室の費用は地方の約3倍、都心の地価や経費を考慮すると、そうなるのだろうが、長期の入院で、同じ水準の医療を受けられるのであれば、 これから治療環境に適し、入院費の安い地方の病院が、選択誼に入ってくるのではないかと思った。

悪性腫瘍で手術のあと、科学療法を受けてる友人は、想像してたより元気で 見てくれもそれほど悪くない。 副作用の弊害で苦しんだ これまでの抗がん剤治療と比較して、近年の著しい進化を実感する。 彼はかなり以前にも癌を患っている。 数回の手術を経て奇跡的に全快したが、この時は、いわゆる西洋医学だけに頼らず、玄米食をはじめとする自然療法を、積極的に取り入れ、免疫力を高めたことが、回復につながった。 

今回の癌と前回の癌との関連性は薄い。 しかしここ数年の厳しい経済環境は、彼の会社においても例外ではなく、心身ともに疲労が重なっていたことは確か。 また前回の癌を克服してから年数がたったことで、第2、第3の癌に対する備えが、疎かになってたこともまた事実。 

これらの悪材料が、今回の引き金になったことを彼も自覚しており、 これからは病気を治すことを最優先にし、 それ以外はすべて犠牲にすることを決心をしたようだ。 まず経営から完全に身を引き、当面の治療が済んだら、軽井沢の別荘に移り住んで、間欠的に東京へ通院する予定。 そして恵まれた自然環境の中、自然食を主とした食事療法と、日常的な運動で、「癌が治りやすい体質」 ずくりをめざす。 また家族や友人たちに、頻繁に来てもらえるよう、年内に離れを増築することに決めた。

私の住む街から30分ほど南の三春町に、有名な秋田の玉川温泉と同じく、癌などの病に効くと言われる、ラジウム鉱泉があり、その存在が全国的に広まりつつある。 友人は、当初玉川温泉へ通うつもりだったが、三春の情報を人ずてに聞き、私が資料を送った結果、 距離的にも近く、治療効果も期待できそうと判断し、3泊4日で月に1~2回、4月から来ることになった。 何といっても、我が家から近いのが最大の利点、彼が常飲している玄米スープや、旨くて体に良いものを、せいぜい食べさせたいと、今から楽しみにしている。

「信じるものは救われる」 良いと言われることは、何でも試してみるのが、彼のいいところ。 前回の癌もそうして治した。 「神は自ら助くる者を助く」  私も固くそう信じている。  


再び、アブサン登場

2010年02月24日 | 映画

「人生は時として、できの悪い映画に似て、うまくいきすぎる はじめから終わりまで決まっていたかのように。 彼女は伯爵夫人でも、映画スターでもなかった。 マドリードの踊り子だった」。  雨が降りしきる墓地、傘も差さずに伯爵夫人の埋葬をじっと見守る男。 ハンフリー・ボガード 演ずる映画監督の、画面に重なる錆びた独白である。

1954年のアメリカ映画 「裸足の伯爵夫人」 は、製作 監督 脚本が、ハリウッドの巨匠  ジョセフ・L・マンキーウイッツ。 自由奔放な女がたどる悲劇的な生涯を、巧みな語り口の回想形式で描いた作品。 主題曲 「裸足のボレロ」 は、ハリウッドの美の女神と言われた エヴァ・ガードナー が、ジプシーに囲まれ、「靴は嫌い、裸足だと安心する」 と裸足で踊るボレロ、 ウインター・ハルター楽団の演奏で、世界的にヒットする。 曲の中の手拍子が当時話題となり、挑戦するのだが 難しく、 結局誰も真似できなかったのを、懐かしく思い出す。

映画の落ちぶれた監督役で、渋く光った ボギーこと ボガードは、1899年生まれ。 「マルタの鷹」 「カサブランカ」 等の作品でハードボイルド・スターの地位を確立。 後年演技派としても活躍し、「アフリカの女王」(1951年) では、アカデミー賞 主演男優賞を受賞している。 彼ははヘビースモーカーとして知られ、 トレンチコートの襟を立て、紙巻タバコをキザに咥えて吹かす姿を、若者は好んで真似てたものだ。 タバコは、指に挟むのではなく、親指と人差し指で、つまんで持つ、しかめ面で。 彼はまた酒豪で、愛飲するのはドランブイ(スコッチ・ウイスキー ベースの薬用酒)、飲んだ量に比例して毒舌が激しくなると言われた。    

57年の生涯で、離婚を3度経験、4度目の妻、ローレン・バコールとは相性がよく、1979年発刊され、ベストセラーとなったバコールの自伝によると、ボガードは亡くなるまで、彼女を「キッド」 と呼んでいた。 キッドは2人が主演した映画 「脱出」 でバコールが演じた役名。 ボガード 57歳没、 食道癌だった。

酒場のダンサーを見染め 妻に迎えた伯爵、 実は戦争による性的不能者。 妻の不貞 妊娠を知り射殺、 そして冒頭の場面となるのだが、 「日はまた昇る」 の主人公ジェイクも、同じ障害者。 彼に思いを寄せる人妻ブレットとの関係が痛ましい。 しかし戦争もなくなり、こうした障害を見つけるのが難しくなった現在、 映画や小説で使えるとしたら? かって多くの男性をインポにした酒 「アブサン」 しか思いつかないのだが、 ほかに何かあるだろうか。 

     


第三の男

2010年02月23日 | 映画

昨日、平成22年2月22日2時22分22秒。 すべての願い事が叶うと言われる貴重なこの時間、 残念なことに、多くの人は寝てたんじゃないだろうか? 私はあのデズニーランドの曲、「星に願いを」 を聞きながら、世界の平和 を祈っておりました(笑)

「イタリーでは、ボルジア家30年の圧政の下で、ミケランジェロ、ダヴィンチや、ルネッサンスを生んだ。 スイスでは、500年の同胞愛と平和を保って何を生んだか? 鳩時計さ」 名セリフ中の名セリフ、1952年日本で公開された 「第三の男」 で、ハリー・ライムの発言。 実はグレアム・グリーンの執筆した脚本の原稿にこのセリフは存在せず、ライム役を演じた オーソン・ウエルズの提案によるもの。 製作者の デヴィット・O・セルズニック は、当初ウエルズの起用に反対していたが、最終的にウエルズを強く推す監督の キャロル・リード に同意せざるを得なかった。 この起用は結果的に正解だった。

映画の撮影前にウイーンを訪れたリードは、ツィター奏者 アントン・カラス と出会い、彼の演奏に感銘を受けたリードは、既に用意されていたものをキャンセルし、カラスの曲を映画のBGMに起用する。 映画の公開後このテーマ曲は、1950年代最大のヒット曲となった。

映画の冒頭で、アメリカの売れない小説家 ホリー・マーチンス (ジョゼフ・コットン)が、親友ハリー・ライムの招きでウイーン駅に着き、 まだ止まってないない列車からホームに飛び降りるシーンがあった。 当時このスタイルが世界中で流行り、私もレインコート姿でバッグを片手に、このシーンを真似ていたのが懐かしい。 列車に自動ドアなど無く、とやかく言われない、いい時代だったのだ。

私は多くの場合、映画を観てから本が読みたくなり、それが気に入れば、作者の書いたものを次々に読み漁る。 グレアム・グリーンが、「読んでもらうためにではなく、観てもらうために書いた」  第三の男 もこのパターンで、その後  情事の終わり、 燃えつきた人間、 落ちた偶像、 ヒューマン・ファクター、などを読んだ。 カトリック作家としても著名な彼の作品には Love・Affair 系のものも多く、 宗教を持たない日本人には難解な感じを受けた。

映画史に残る名場面で、カット無しで撮影されたラストシーン。 グリーンの脚本では通俗的なハッピーエンドだったが、プロジューサーのセルズニックが、強引に変更させたものだ。                    金も出すが、口も出す いつの世も金主元は強い。  


シアトルから、イエローナイフまで  (3)

2010年02月22日 | 旅行記

「積み込む荷物を減らしたほうがいい」 セフティーパイロットの言ったことが、やっと分かってきたのが、ロッキー山脈を越えるために上昇を始めてからだ。 ターボチャージャーなしの我が機は、高度が上がって空気密度が低くなるに従い、出力も落ちてくる。 3000mを超えて、酸素を吸い始めたころから、極端に上昇率が悪くなってきた。

良くないことに、予報通り雲が多くなってきて、ほとんど下は見えない。 山との衝突を避けるためできるだけ早く、安全な高度4100mまで到達したいのだが、高度計の上り方が遅い。 じりじりハラハラしながら、ついに神頼みだ。 「神様、無事イエロー・ナイフに着けましたら、トランクを2個減らしますから、どうか無事山越えをさせてください。」 (事実、船便で送り返すことになる)

ようやく予定高度まで上昇して下を見ると、雲の切れ目から、切り立ったロッキーの頂きが見え隠れする。 もしあそこに突っ込んでたら全員アウト、 急に咽がからからなのに気がついた。 薄暗くなった彼方に、カナダ・エドモントンの灯が見えてきて、タワーとの忙しい交信が聞こえてると、ここが北部地域のハブ空港であることを実感する。 少々ホールドを指示されてから、着陸許可が出る。 着いたらすぐ酸素ボンベの充填を、頼まなければならない。

次の日。 巡航高度2500m無風快晴、飛行は順調に続く。 眩しいほどに白い、永久凍土の平原だけが延々と続く。 怖気付いてた出発前の心配は嘘のよう。 かなり大きなグレート・スレーヴ湖を北に渡りきると、湖畔にイエロー・ナイフの街が見えてくる。 カナダ ノース・ウェスト準州の州都で、北極圏からおよそ400km南に位置し、人口約19000人。19世紀のゴールドラッシュで都市としての成長を始め、1920年代には、航空機による北極圏探索の基地となった。 現在はダイアモンド鉱業の、中心都市として栄えている。

現地のパイロット仲間が出迎えてくれ、ホテルに着いて以外だったのは、フロントに日本人スタッフが居り、和食のレストランが在ったことだ。 ここはオーロラベルトのほぼ真下に位置し、年間を通してオーロラの出現率が高い。 また2004年、織田祐二、矢田亜希子主演のTVドラマ、「ラストクリスマス」 で知名度が上がったことから、日本人観光客が多いことを知った。

5月31日に千歳を発ったグループは、ロシアの通過に手間取り、数日遅れるとの情報が入る。 その間に、ここから出発する事務局のH嬢と、会員のTさんが、飛行機を乗り継いで到着した。 元スチュワーデス、お洒落で国際色豊かな美女が加わり、毎日が急に活気ずく。 短い夏を貪る様に過ごす、現地の人たちと一緒に、我々も束の間の美しい季節を愉しんだ。 たぶん二度と来ることはないだろう、と思いながら。

 


シアトルから、イエローナイフまで  (2)

2010年02月21日 | 旅行記

我々の飛行機に同乗してくれる セフティーパイロットは、 水上機を含めて豊富な経験を持つ 小柄なカナダ人。 但し、イエローナイフまでの飛行経験は無い。 温和な性格だが、こと安全に関しては、絶対譲歩しない頑固さに、かえって安心感を抱かせる。 

彼がまず指摘したのは、積載する荷物が多すぎること。 私と友人のトランクが4個、氷海に落ちても4時間は生きていられるという エマージェンシー・スーツ2枚(これががさばる) 食料品、オイルや予備の部品、酸素ボンベを4本、マップや資料、簡易トイレや、斧まで入れると、かなりの量と重さになる。 

3列6人乗りシートの、最後列を外してスペースを作り、荷物は収まったが、予備タンクの増えた分も含めると、重量オーバーとなる。 トランク2個は置いていくよう、彼は主張したが、いずれも長期の旅行に欠かせない物ばかり、なんとか説得して準備は完了した。

カナダの内陸部に位置する 「エドモントン」 は、アルバーター州の州都で、人口75万。 ここがイエロー・ナイフへの中間点で、我々は、まずここへ飛ぶことにした。 距離は、シアトルから約1000km。 紀元前1万年前には、この地域に人が住み始めたと言われる。 季節は短い夏と、長く厳しい冬によって構成される。 夏は10度~35度、冬は-5度~-35度、 2009年12月には-46度を記録している。

飛行ルートの途中、長く横たわるのが、北アメリカ大陸を、南東に走るロッキー山脈。 長さは、カナダ ブリティシュ・コロンビア州の最北部から、ニューメキシコ州の州都サンタフェまで、4800kmを超える。 最高峰は、コロラド州のエルバート山で4399mだが、今回のルートで最も高所は3700m。 クリアランスを400mプラスして、4100mの高度で、ロッキーを横断することにした。

上空では、3300mを超えると障害閾となり、頻脈、視力障害、精神障害、呼吸障害など、高山病に似た、低酸素症状を起こす。 7000m以上は危険閾とされ数分間で意識を失う。 以前、著名なゴルファーなどが乗った小型ジェット機が、与圧装置の故障で全員が意識を失ったまま、飛び続ける事故が起こった。 結局燃料切れで墜落し、全員が死亡したが、地上への危険を避けるため、一時は軍用機が撃ち落とす体制をとったことがあった。 旅客機では12000mの高度で、1500m相当高度の気圧を常に維持している。  我々は、3300mを超えた時点で、酸素を吸うことに申し合わせた。

ごく少数の人達が見送る中、ずっしりと重い機体が、いつもより長く滑走して、ゆっくりと機首を上げた。 1分間に150メートルの上昇率で、2500mの高度まで上昇した後、 機体を水平に戻し、機首をエドモントンの方向に向け、オートパイロットのスイッチを入れた。 ロッキー越えを心配しながら・・・

 

 

 


シアトルから、イエローナイフまで  (1)

2010年02月20日 | 旅行記

2001年、小型飛行機による世界一周飛行の話は、2月6日のブログ 「植村直巳氏の記念碑」 で、いきなりグリーンランドから始めてしまったが、今回はシアトルまで戻って、記述してみたい。

当時、友人と共同所有する私の小型機は、満タンクにすると、およそ1300キロの飛行が可能。 そして一周飛行計画で最も長いルートは、 エジプトのルクソール空港から、バーレーン国際空港までの距離で約1000km。 一般的に燃料は間に合う計算なのだが、 飛行機は常に万が一のことを想定しておかなければならない。 例えば向かい風が強く、予想以上に燃費が多くなったり、 目的の空港まで行っても、視界が悪くて着陸できず、他の空港へ、行き先変更をする場合もあるからだ。

そんなことで私達は、日本で装着の難しい、2個の予備タンクを、飛行機の翼端に取り付ける工事と、長旅に備えた総合整備に、「シアトル」 を選んだ。 ここがボーイングの本拠地で、技術者のレベルが高いのと、 日本オーナーパイロット協会のメンバー Nさんの家がここに在ったからだ。 そして、遅れて日本を発つ他の飛行機との合流場所が、カナダの「イエロー・ナイフ」と決まった。

アメリカ人が住みたい都市のベスト3に、必ず選ばれるのがシアトル。 太平洋岸北西部最大の都市で、人口は56万3374人。 秋から春にかけて雨は多いが、海洋性気候により、緯度の割には冬でも暖かく、夏は涼しい。 水と緑に囲まれた豊かな自然環境と、洗練されたいい規模の街。 ミシエル・ファイファーが主演で、 音楽が素晴らしかったアメリカ映画 「恋の行方」 もシアトルが舞台。 息子が半年ほど住んでたこともあり、私が好きな街だ。 イチローがマリナーズを離れないのは、この街に魅せられてしまったからだと、私は思っている。

合流場所のイエローナイフは、北極圏から約400キロ南に在る。 途中永久凍土の氷原を長時間飛ばなければならず、必需品を買い求めたアウトドア専門店では、 熊の出没する地域への不時着に備え、銃の携帯を勧める。 それはとても無理だと説明すると、それではと、大きな斧を持参することになった。 とても勝ち目はないだろうが、熊と戦うためと、救助を依頼しても、発見に時間がかかるので、それまで暖を取ったり、煮炊きをするための薪を作るのに、不可欠だと説得されたからだ。

出発前にすっかり出鼻をくじかれ、弱気になっていくばかり。 ついに友人と二人だけでのフライトを断念し、現地のパイロットを、北極圏を渡り終える、イギリスのグラスゴーまで同乗させることに決めた。  早速交渉に入ったが、 リスクが高いことを理由に断られる始末、 何とか粘って、イエローナイフまでなら、ということで、やっと頼み込むことができた。

 


禁断の酒、アブサン

2010年02月19日 | お酒

アーネスト・へミングウエーの短編に、「白い象に似た山々」 がある。  乗り換えの列車を待つ男女、 ローカル線のホームは、夏の日差しを浴びて暑い。 前方の山並みは、岩が白くて像のように見える。 冷たい飲み物を買うため、男は向い側の駅舎まで、何度か往復する。 飲み物が何かは説明なし、「アニスのような香りがする」 それだけがヒント。 さらに男は、女がこれから受ける治療について、「難しくない、簡単なんだ」 と盛んに繰り返す。 黙って聞いてた女がついにたまりかねて、「やめて、やめて」 とヒステリックに叫ぶ。 男は沈黙。 暫くして、もう一杯飲むかと女に聞く、女は頷き、男はまた飲み物を買いにいく。

ざっとこんなストリーだったが、「治療」 はおおよその想像がつく。 そして、わけありの男女が飲む酒は、どうやら 「アブサン」 ではないかと思う。 理由はヘミングウエーの好きな酒だったからだ。

アブサンが商品化されたのは1797年、19世紀フランスの芸術家たちによって愛飲され、絵画や小説などの題材とされた。 薬草系リキュールの一つで、ニガヨモギ、アニス、ウイキョウなど、数種のハーブ、スパイスが主成分である。 アルコールは60~75度と強く、水を加えると白濁する。 この酒には幻覚、向精神などの中毒作用があるとされ、20世紀初頭には発売禁止となる。 この酒の中毒で身を滅ぼした有名人としては、 詩人ヴェルレーヌや、画家のゴッホ、ロートレックなどがいる。

この、いわくつきの酒の飲み方に、「アブサンカクテル・ボヘミアンスタイル」 がある。 簡単なので試してみるといい。 1、小振りで背の低いグラスに氷を入れる 2、グラスの上にスプーンを置き、その上に角砂糖を乗せる 3、角砂糖にアブサンを垂らすように注ぎ、火をつける 4、燃え尽きるころ、砂糖の上に水を注いで火を消し、グラスに落としてかき混ぜれば、出来上がり。

アブサンが禁制となり、まがい物として 「パステス」 が作られる。 ベストセラーとなったピーター・メイルの 「南仏プロヴァンスの12ヶ月」 で紹介され、日本でも一躍有名になったのがこの酒。 パステストして知られるものに、リカールやぺルノーがあり、本の中では、確かシャンパンとのカクテルで飲んでたように思う。

日本では太宰治が 「人間失格」で、アブサンを登場させている。 しかし太宰が成人した頃、アブサンは日本でも禁制品となっていたから、常連だった銀座のバー「ルパン」あたりで、秘蔵してたものを、坂口安吾などと、飲んでたのではあるまいか。

ロミオとジュリエットの時代から 禁じられればこそ求めてしまうのが世の常。  「人生には、アブサンの残酷な苦さが混じっている」 セヴィニエ夫人。  多くの人の人生を狂わせ、不幸を生んだ禁断の酒。 一方で芸術や文化に寄与しながらも、 今はその存在さえ忘れらている。

 

 


チャールズ・チャップリン

2010年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨夜 湯川れい子さんがゲストのNHK番組で, マイケル・ジャクソンが歌う 「スマイル」 を初めて聞いた。 湯川さんの解説によれば、チャールズ・チャップリンの葬儀で、マイケルがこの曲を捧げたそうだが、 作曲者チャップリンへの想いを、しっとりと歌い上げており、さぞかし弔問客に感動を与えたろうと思った。 それにしても 「モダン・タイムス」 のラストシーンで、スマイルは印象的だった。

神は二物を与えずと言われるが、 湯川さんに限って、映画評論、作詞、翻訳、と、まことに不公平な扱いと思わざるをえない。 そしてご自身を、評論家でなく解説者とおっしゃる。 私もニュアンス的に、解説者の方がいいように思う。 、聞き手、読み手との関係がフレンドリーな感じで、双方向の会話が交わせそうだし、解説者の考察が、同じ目線で受け止められるからだ。

それにしても解説者の影響力は恐ろしい。 正直に言うと、私は湯川さんご贔屓の マイケル・ジャクソンも、 エルビス・プレスリー も、敢えて聞かなくてもいいほうだった。 一昨夜までは。 しかし彼らに対するアカデミックなコメント、エピソード、そして彼女が選曲する数曲を聴いてる、わずか30分余の間に、二人に抱いていたイメージが、すっかり変わってしまい、愛着さえ感じるようになった。 さらに、再度偉大なチャップリンを思い起こすチャンスをくれた。 

1936年のアメリカ映画 モダンタイム の監督 製作 脚本 作曲を担当したチャップリンは、 この映画で、資本主義が進み、 すべてが機械化されていく社会の中で、人間の尊厳が失われ、 機械の部品のようになっていく世の中を、笑いの中で痛烈に風刺している。 やがて第二次世界大戦が終結し、東西の冷戦が始まると、アメリカでは、いわゆる赤狩りが進み、チャップリンの作品が容共的であると指摘を受け、1952年「ライムライト」のプレミアムでロンドンに向かう途中、国外追放となる。 しかし1954年、世界平和協議会は、彼に平和国際賞を贈り、1965年にはエラスムス賞を受賞、1971年フランス政府よりレジオンドヌール勲章が贈られ、 著書「私の自叙伝」は、空前のベストセラーとなる。

1972年、チャップリンは、アカデミー賞受賞のため、20年ぶりにアメリカの地を踏む。 彼が受けた特別賞は、彼を守りきれなかった映画界からの、せめてもの罪滅ぼしだったのだ。 そして会場を埋め尽くした映画関係者は、舞台に登場するチャップリンを、スタンディングオベーションで迎える。 拍手は5分間以上鳴り止まなかったという。


「スペイン内戦」が残したもの

2010年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

何度も読み返す本が名作だとしたら、映画もそれに当てはまると思うのだが、そんな中の名画、 「誰だために鐘は鳴る」 を先週末にまた見てしまった。 1943年の製作、ゲーリー・クーパー42歳。イングリッド・バーグマン28歳。 この時期の2人は、まさに輝いている。 「摩天楼」でクーパーと共演した女優のパトリシア・二ールが、彼に妻子がいると知りつつ、子供を身ごもったのも頷けるし、原作者のアーネスト・へミングウエーが、映画化に当たって、主演女優にバーグマンを指名した彗眼は、流石だと思った。 と同時に、この映画の背景にあるスペイン内戦についても、思いをめぐらした。

「スペイン内戦」 は、左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコ率いる右派の反乱軍が戦った内戦。 左派側をソビエト連邦とメキシコが支援、一方右派側には隣国ポルトガルの他、イタリアとドイツが支援した。 3年におよぶ戦闘は、第2次世界大戦の前哨戦としての様相を呈し、戦車と航空機が主要な役割を果たし注目された。 3年に及ぶ戦闘は、右派フランコ側の勝利で終結する。 フランコは独裁政治を樹立し、ファシスト体制へ傾斜していく。

この内戦では、多くの国際的反ファシズム運動が結束し、義勇兵による国際旅団が組織される。 構成員の20%が学生や知識人で、作家のアーネスト・へミングウエー 、後のフランス文相アンドレ・マルローなども参戦、 日本人では、北海道出身のジャック・白井なる人物が、アメリカで募兵に参加し、1937年ブルネテの戦いで戦死。 青山の無名戦士の墓に銘がある。 また、ロバート・キャパは、この内戦で初めて報道写真家として名を成し、パブロ・ピカソを一躍有名にした「ゲルニカ」は、バスク地方ゲルニカが、ドイツ軍による空爆で、多くの犠牲者が出た惨状を題材にしたもの。

アメリカの義勇兵として、左派のゲリラとともに戦う主人公、ロバート・ジョーダン(クーパー)。彼に一目惚れする、ゲリラに救われた薄幸な娘、マリア(バーグマン)。 2人に残された時間は3日3晩。 夜、野外に寝てる彼の寝袋へ行くよう促すのは、2人に時間がないことを不憫に思う、ゲリラの首領の妻、ピラー(ラティーネ・バクシー) 彼女は助演女優賞を受賞する。さらに他の多くの脇役も好演。 かくして名作が、名画となった。 

「他国の戦争に命をかけて戦う」  この理解しがたい現象が、スペイン内戦を題材にした数々の芸術作品を生んだ。  


スリーピー・ラグーン

2010年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

赤紙(召集令状)がきて、3日後には戦地に赴く兄が、残していく母と妹が心配で、防空壕を掘っている。 作業をしながら兄が吹く口笛のメロディーが、あまりに美しいので、妹は 「なんていう曲?」 と聞くと、「僕が作った曲だ」 と兄は答える。

そして終戦、兄は戦死。 あるとき妹が、ラジオから聞こえてくる進駐軍放送を聴いていると、兄が口笛で吹いていた曲が流れている。 ハリー・ジェームス楽団の演奏するジャズの名曲、「スリーピー・ラグーン」。 これで妹はすべてを理解する。 戦時中、アメリカの音楽が厳しく禁じられていた時代、兄は密かにこの曲を聞いていたのだ。 そして妹に迷惑が及ぶのを避け、自分の歌だと嘘を言っていた。

その後、妹はジャズを専門とする音楽雑誌を立ち上げ、音楽評論家としても名を成し、今も現役で活躍している。 その名は 「湯川れい子」。 冒頭の話は、昨夜の深夜放送で聞いたのだが、終戦時のひっそりと心温まる いい話だ。

実は私の父も、出征して間もない終戦の年、フィリッピン海域で輸送船が撃沈され、戦死している。 33歳だった。 赤紙が来たときの、悲しげな父の顔が忘れられないと、近親者から聞いた。 妻と二人の幼子を置いて、敗戦の色濃いさ中、死を覚悟して戦地に向かう心境は、察して余りある。 

父の記憶はほとんどない、しかし本を沢山読む人だったようだ。 まだ少年の頃、何冊か手にしたのを覚えているが、読んではいない。 もし残されてれば、父の人物像や、考え方を探ることができるのだが、疎開、終戦のゴタゴタですっかり失ってしまった。 今になって残念で仕方がない。 生きていれば98歳になる。

湯川さんは、私の一つ下で、1939年生まれ。 私と同じ年で注目される女性に、作家の塩野七生さんが居られる。 この年頃は戦前派でも、戦後派でもなく、どちらにも属さないが、どちらのこともよく知っている、いわば戦災派で、きわめて貴重な存在。 まだ利用価値ありと思うのだが、お声がかからない。 同じ戦災派でも個人差があるようで、 私の場合賞味期限が過ぎてしまったらしい。 


飲める人、飲めない人

2010年02月15日 | お酒

アメリカ映画で、男が女を、ヨットの昼食に招く場面があった。 しかし用意されてた食事はハンバーガー。  されどガッカリするなかれ、 洒落たランチョンマット、お皿に盛ったバーガー、フォークとナイフ、 そして一本の赤ワインと大ぶりのグラス。 これだけ脇役が揃うと、ハンバーガーランチも捨てたもんじゃない。 これに降り注ぐ太陽と、いい会話があったら、これ以上なにを望むものがあろうか。

飲酒運転がゼッタイできなくなった昨今、飲めないドライバーを大事にしよう、 ゆめゆめ割り勘の対象にしてはならない。 とブログで前述した。 しかし、私が20代の頃は、夜しっかり飲んでから、車を飛ばして遠くの湖まで、泳ぎに行ったものだ。 また初めてアメリカに行った30代の初め、レンタカーで、サンフランシスコからラスベガスに入った。 夕食を済ませて外に出ると、ポリスが二人待ち構えていて、「ワインを飲んでいたろう?」。 逆らっても無駄、そう思ってあっさり認めると、道路に白墨で長い線を引いた。 何をするのか心配していると、線の上をまっすぐ歩けと言う、その通りにすると、「OK」。 すぐに放免された。 いい時代だったのだ。

ところで、われわれモンゴロイド(黄色人種)は、とりわけお酒に弱いのを知っているだろうか?。 アルコールは肝臓の働きで、分解され、無害な酢酸に変わるのだが、分解速度の早い活性型、遅い方の低活性型、まったく分解されない非活性型、に分類される。 そして日本人の37~38%は低活性型で、6~7%は非活性型。 非活性型は、モンゴロイドのみに見られる特徴で、コーカサイド(白人系)やネグロイド(黒人系)には、低、非活性型ともに存在しない。 自分がどの形を持っているかは、親から受け継ぐ遺伝子の組み合わせで決定され、後天的に変わることはない。

飲酒の害は、肝臓障害、アルコール依存症、カロリーオーバー、栄養バランスの崩れ、などがある。 一方効用もある。 動脈硬化を予防するといわれるHDLコレステロールは、少量の酒でも増加するし、人間関係の円滑化、精神的ストレスの発散、に役立つ。

私は、これらの学説に反論する根拠を何も持たないが、一つだけ分からないことがある。 「後天的に変わることがない」 この一説だ。 若い頃、バーやクラブなどずいぶん飲み歩いたが、 まったくお酒の飲めない女性が、3ヶ月も過ぎると例外なく飲めるようになる。 この辺の疑問を、ぜひ新しい学説に加えてほしいと思っている。  


アルコール・ストーブと電気コンロ

2010年02月14日 | 食・レシピ

ラヴィックは自分の部屋に帰って、包みを解いた。もう何年も使わなかったアルコール・ストーヴをさがして、見つけ出した。またほかの場所を探して、固形アルコールの包みと小さな鍋を見つけた。彼はその燃料を二個とって、鍋の下に入れ、それに火をつけた。小さな青い炎がちらちら揺れた。

バターを一塊り鍋の中に投げ込み、卵を二つ割って、かき混ぜた。それから、新しい歯切れのよい白パンを切り、新聞紙を二、三枚重ねて下敷きにして、鍋をテーブルの上に置き、ブリーをあけ、ヴーヴレーの壜を一本とってきて、食事を始めた。

こういうことは、もう長いことしなかった。明日は固形アルコールの包みを、もっと買ってこようと思った。アルコール・ストーブは、楽に収容所に持ち込むことができる。折りたたみになっているからだ。 ラヴィックはゆっくり食べた。ボン・レヴェックも味わってみた。 ジャンノーの言うとうり、上等の食事だ。

これは元ドイツ人作家、エリッヒ・マリア・レマルクの 「凱旋門」の一場面。 パリへ亡命中のドイツ人外科医ラヴィックは、かってベルリンの有名な病院の、40歳を超えた名外科部長。 名を隠して手伝う友人の病院で、交通事故にあった少年ジャンノーの片足を切断する。 保険金を受け取った少年は、母親と念願だった牛乳店を開き、ある日世話になったラヴィックを訪ねる。 そのときの手土産が、 店で扱うパン、バター、チーズ、卵、の包み。 ラヴィックは、少年が帰った後アパートの部屋で、久しぶりに一人だけの夕食を、ゆっくり味わう。

フランスでは、パンとチーズとワインがあれば、立派な食事になる。 さらにラヴィックの食卓には卵とバターが加わる。 そしてここの主役は、ヴーヴレの白ワインではなく、アルコール・ストーブ。 時は第二次世界大戦勃発前、恐怖と絶望の中にあって、つかの間の豊かな食事。 この後ラヴィックは、避難民と一緒に警察のトラックに乗せられ、パリを去る。 あんまり暗くて凱旋門さえ見えない。

スイッチを入れると、ニクロム線が赤くなる電気コンロ。 これでスルメを焼き、一升瓶からの酒を、茶碗で飲んだり、 七輪で焼いた秋刀魚を、白ワインのサンセールで食した頃を、懐かしく思い出す。