カキぴー

春が来た

「難病」について考える

2010年08月30日 | 健康・病気

女房の友人Sさんが8月の初旬に亡くなった、直接の死因は「関節リウマチ」。 リウマチと聞くとポピュラーな病気で神経痛ていどの認識でいたが、実は根治することのない不治の病で、厚生労働省が指定する「特定疾患」に該当する難病。 最後の1年間は関節以外にも全身の臓器に障害が及び、さらに薬による副作用で、悲惨とも言うべき闘病生活だった。

特定疾患は、医療費の自己負担部分の一部または全額の助成を、公費で受けることのできる「治療研究対象疾患」だけでも、2009年10月1日現在「56疾患」ある。 その一つに指定されている「潰瘍性大腸炎」の女性が僕の身内に居るが、大腸のほかにも関節や皮膚、眼などの合併症と、長期にわたるステロイドや免疫抑制剤の副作用で、本人はもちろん看護する亭主を見ていても、難病の厳しさを教えられる。

この病気は、関節リウマチと同じく「免疫の異常」が原因で、女性に多いことが特徴。 本来細菌・ウイルス・腫瘍などの異物を認識し、排除する役割を持つ免疫系が、自分自身の正常な細胞や組織に対してまで、過剰に反応し攻撃してしまう疾患。 全国で10万人の患者が居るといわれるが、癌などと違ってマイナーな病気なので、残念ながら世間の関心は薄い。

紀元前100年ころの英雄 ユリウス・カエサルは、関節リウマチにかかっていたと考えられる。 また、これも免疫異常が原因の疾患「膠原病」の証拠を残す最古のものが、アメリカテネシー州で発掘された、紀元前4500年頃のインディアンの人骨に残されている。 難病といわれる病気の多くは古代から存在し、今なお人類は克服できずにいる。

しかし、IPS細胞の実用化や遺伝子レベルの治療まで可能になった現在、そう遠くない将来かなりの難病が解明され、根治治療の確立が期待される。 しかし一方で現代人の生存環境は悪化し、それに伴って新たなウイルスや疾患も増えてきそう。 人は、自分自身や身内・知人などが難病になって始めて病気の実態を知るわけだが、もっと多くの人が情報を共有し関心を深めていくことが、難病対策の充実につながるのではないだろうか。  

 

  


終わり良ければ、すべてがいいか?

2010年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

「終わり良ければすべてよし」 このフレーズは世界中で広く使われ、ウイリアム・シェイクスピアの戯曲にもなっているが、人の最後においても、みんな本気でそう思っているのだろうか?。 途中経過がどうあろうと、最後にうまくいけば全てが良いという考え方には、かなりの無理があるし、紆余屈折をたどりながら終焉を迎えた長い人生を、一刀のもとに評価していいものだろうか。

もうひとつの疑問は、最後の良し悪しの判断は誰がするのだろうか、客観的に良しと判断しても、主観的にもそうだとは限らないし、その逆もあるだろう。 さらに公的な評価と個人的な幸せを、一緒くたに論ずるのにも疑問を感ずる、例えば事業経営はうまくいったが、家庭的には不幸だったという場合は、どちらに重きをおくのだろうか。

「死に際に多くの人から惜しまれるなら、その人の人生は成功であったといえよう」 などと真顔で言う人もいるが、この場合「人生」という言葉を使わないほうがいい。 社会的な成功者と、人生の成功者とはまったく別物だからだ。 また「多くの人に愛されて亡くなった」 という弔辞の文句より、「一人の人に深く愛されて逝った」 と語ったほうが参列者に与える感銘は大きい。

政治家や指導者の中には、「結果は歴史が証明するであろう」 と評価を後世に託しながら亡くなる人もいるし、芸術家や文学者の中には、不幸にして死んだ後に再評価される人も多い。 しかし、そうした人たちが後の世で結果を知ることはできない。 高い志と信念を持つ人は別として、死んだ後のことまで気に病みながら、生きてる人の心理は理解し難い。 

人生の最後に報われなかった人にも、途中経過では充実した時代や、懐かしい思い出、忘れえぬ出会いなどがあったはず。 そう考えると、「終わりよければ総てよし、途中よければそれもよし」 ぐらいに捉え、人生をいくつかに区切って、振り返りながら生きたほうが現実的なのではあるまいか?。 いい思い出をいくつも持った人は、悔いることなく死ねる。 「敗軍の将」として謹慎中だった僕は、時効を終えたいま自分なりに良い時間を求めて、残りの人生を終えたいと思っている。

 

  


「段差」のある生き方を選ぶ

2010年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

郊外の田園地帯に移り住んで7年目、農作業も脳作業に進化させ、かなり楽になった。 さらに野菜の収穫期を2~3回に分割して、旬を引き伸ばすことも覚えた。 最初に植えた夏野菜の収穫が終わる9月中旬ごろに、次の収穫がはじまるわけで、秋口のキュウリや枝豆は引っ張りだこの人気。 また気温が下がるので害虫の被害も抑えられ、まさに一石二鳥。 

野菜作りは土作り。 巨木が多く、,落ち葉が大量に出る我が家では、これを囲いの中で圧縮して腐葉土とし、牛糞や鶏糞の代りに毎年畑に入れてきた結果、さらさらして黒味を帯び、ミミズのすむ美味しそうないい土が出来上がった。 「ペーハー」はほとんど中性で、石灰を撒く必要はない。 いま秋野菜の植え付け時期を迎え、苗作りや畝作りで忙しい。

野菜作りの他にも、ここで美しく暮らしていくためにはかなりの労働を強いられる。 庭木の手入れ、雑木林の下刈り、梅や柿ノ木の剪定消毒、休耕してる畑の草刈り、家の掃除、朝晩2回の犬の運動、それに松くい虫にやられた樹齢50年ぐらいの松ノ木を、毎年2 ~3本ぐらいは切り倒さなければならない。 そんなわけでスポーツクラブなどに行かずとも、日常の生活の中で十分な運動量が得られる。

「家も生き方も『段差』をなくすな」と説くのは、聖路加国際病院の日野原理事長だが、女房もここに越してきてから、3度の食事作りと階段の上り下りだけで足腰がかなり強くなった。 家の段差や階段は体力を鍛え、「健康でなければ今の生活を維持できない」という精神的段差(ストレス)は、気力を培ってくれてるようだ。

僕は3年前に進行した癌を、近代医学と環境それに生き方を変えることで克服した。 そして肉体的にも精神的にも「自分を甘やかさない」生き方で、次なる癌や認知症に備えたいと思っている。  それにしても今年の夏は暑い、一日が終わりストレッチとシャワーのあと、雑木林を渡ってくる心地よい風と、ヒグラシの声を聞きながら冷たいビールを傾け、ささやかな幸福感に満足しているこの頃である。   

  


「終戦の日」に想う

2010年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

僕の親父は、終戦間際に近い昭和20年3月1日33歳で戦死している。 フィリッピン近海で乗船してた輸送船が撃沈されたらしいが、詳しいことは何も知らされていない。 受け取ることを拒否できない 「赤紙」(召集令状)を手にしたときの親父はどんな心境だったか、残していく妻子や老いた両親への思いは・・・・・。 この年になっていろいろ知りたくなり、Nちゃんを訪ねた。

親父はいずれ召集されることも考えてたのだろう、将来両親の面倒をみさせるため、農家からいわゆる「口減らし」の女の子を貰い受け、養女にしたのがNちゃん。 9歳で貰われてきたがよく出来た子で、親父を実の兄のように慕い、戦死後は両親の面倒を見ながら、母や僕ら兄弟を何かと可愛がってくれた。 現在80歳。 

「赤紙」は実家へ深夜届けられ、村の兵事係(今の戸籍係)職員が、「召集令状を持って参りました、おめでとうございます」と、決まり口上を述べたという。 日清戦争にも参戦した祖父は、「これでうちも肩身の狭い思いをせずにすむ」と言ったそうだが、急遽勤務先の横浜から呼び戻された親父は、「気の毒なほど悲しそうな顔が忘れられない」と、Nちゃんは言う。

「私が持っていても仕方がないから」と、彼女が大事にしてた親父からの郵便はがきを僕に渡してくれた。 「軍事郵便」と赤い字で書かれた下に「検閲済」の印がおしてあり、差出先は「中支派遣登1630部隊北川隊」とある。 「母上様、父上様の御孝行をして下さり有難う」と、Nちゃんへの労いの言葉に続いて、残してきた幼子への思いが読み取れる。

「写真を送りたいのですが、幼年兵のため勝手が出来ずまだ写して居りません。 正月に出された結構な乾薯の小包異常なく受け取り、非常に嬉しく御座いました。 これから乾薯など食べ物は私の方より、横浜の一郎や二郎に送ってあげて下さい。いま横浜の方などはきっとおやつなどは何もないとおもいますので」。        

 


バーディゴ(空間識失調)の恐怖 (2)

2010年08月10日 | 乗り物

僕がアメリカのフロリダでライセンスを取得したのが50歳のとき。 しばらく一人では飛べないので、先輩の古いセスナ機で訓練を受けていた。 先輩といっても飛行経験はまだ300時間足らず、しかし度胸がよくて、仙台から北海道や伊豆大島あたりまで足を伸ばし、天候が悪くてもあまり気にする様子は見せず、当時ぼくは尊敬のまなざしで接していた。

そして忘れもしない真夏の夕暮れ近く、仙台から北へ20分ほど飛んだところにある、個人所有の小さな飛行場で離着陸の訓練を終え、仙台空港へ帰る途中のこと。 だんだん視界が悪くなってきたが、わずかな距離なので引き返さずに進むうち、完全なインクラウド(視界ゼロ)の状態に突入してしまった。

このとき僕は初めて「バーディゴ」なるものを経験した。 いつもは自信たっぷりの先輩が、突然慌てふためいて顔面蒼白、それもそのはず外は真っ白で何も見えず、まるで牛乳瓶の中に閉じ込められた状態。 本来計器を見て、高度や進行方向を確認すべきなのに、彼はもう何も見てない、下降に入ってエンジン音が高くなると、あわてて操縦桿を後ろに引き上昇を止めるのが精一杯で、顔には猛烈な汗が噴出している。

そんな中で僕が一番怖かったのは山に激突すること。 高度を上げ、へディング(方向)を東に向け海の方に出るよう大きな声で叫んだが、彼はもう精神錯乱状態で、何を言っても無駄なことを知り、その時点で「助からないかもしれない」と思った。 航空自衛隊の松島基地も近いので、レーダーで誘導してもらうことも頭にひらめいたが、それも諦めた。 姿勢制御もできない状態で、高度やへディングの指示を受けても、何の役にも立たないことを悟ったからだ。

どのぐらいの時間が経ったのか覚えてないが、突然雲の間からチラッとドライブインの赤い屋根が見え、「鳴子温泉」の文字が読めた。 飛行機は最も危惧した栗駒山系に入り込んでいたのだ、しかし出発した飛行場に近く、ここからなら地形もわかる。  少しでも地上が見えるとバーディゴは一瞬に解消される、「助かった!」。   すっかり暗くなった田舎駅のホームで鈍行列車を待つ間も、体の震えが止まらない。 うるさいほどの蛙の鳴き声だけが、いつまでも耳に残った。 


バーディゴ(空間識失調)の恐怖 (1)

2010年08月05日 | 乗り物

人は誰しもゾッとするような、死の危険を経験したことがあるはず。 僕の場合は小型機のライセンスを手にした頃の夏、死にかけたことがある。 しかしこの体験がトラウマとなって、2000時間からのフライトを、死なずに生き延びてきたとも言える。 これまで何人かの飛行機仲間が事故で亡くなったが、そのうちの多くが「死の恐怖」を経験しなかった人か、あってもそれを生かせなかった人。

飛行機の操縦は、航空身体検査に合格しライセンスを取得しても、すぐに好きなところに飛んでいけるわけではない、フライトには天候や気象の変化が大きく影響するからだ。 またライセンスには「有視界飛行」と「計器飛行」との2種類があり、僕も含めて自家用パイロットの90パーセント以上が有視界飛行の資格しか取得してない。

有視界飛行の資格では、雲の中に入ることを禁じられており、視界が得られない悪天候下では飛ぶことができない。 しかし厳密にこれを守っていては、飛行場の上空しか飛べなくなってしまうから、視界不良の場合でも、短時間であれば計器で飛べるような訓練を受けている。 さらに飛行時間が増え技量が上達してくると、万一に備えて計器で着陸する訓練もしている。 現に僕もこれで助けられたことがある。

ところで雲の中が何故それほどに恐ろしいのか?。 濃い霧の中や夜間の飛行などで地平線(水平線)が見えない状況で飛行する場合、機体の姿勢(傾き)や進行方向(昇降)の状態を把握できなくなってしまう。 つまり自身に対して地面が上なのか下なのか、機体が上昇してるのか下降しているのかわからなくなる。 しばしば航空事故の原因にもなる非常に危険な状態が、「バーディゴ」(空間識失調)。

1990年に公開された映画 「BEST GUY」 (ベストガイ)は、航空自衛隊の撮影協力で日本版 「トップガン」を目指して作られたもの。 このなかで、パイロットに与えられる最高の栄誉 ベストガイに挑戦する有能なパイロットが、スクランブルでソ連の偵察機を追い払っての帰途、バーディゴに陥る場面がある。 彼は慌てふためき機体を捨て、パラシュートで脱出するが、僕が死にかけた体験が、これと同じ。