カキぴー

春が来た

「都市ホテルOB」 二人の成功者

2011年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
僕の住む郡山市の繁華街に 「源氏}なる焼肉の店がある。 焼肉といってもいわゆるコーリャン風のイメージとは異なり、僕が食べる「三焼味」は、上質ロースの豚肉をステーキ肉の如く200グラムぐらいにカットし、フライパンで表面に火を入れてから、フライパンごとオーブンに入れ、じっくり時間をかけて焼き上げる。 肉を大皿に盛り秘伝の醤油タレをたっぷりかけ、トウモロコシと茹でたじゃが芋を添えて出来上がり。 これにご飯、サラダ、味噌汁が付いて1300円の価格は、ここ10年来一度も変っていない。 少し濃い目のタレ味がしっかりしみこんだ肉はやわらかくジューシー、ご飯と一緒に食べると実に美味い。 これだけのものをこの価格で出せるのは、自社ビルの2階に店を構え夫婦二人で商売をしているから。

口の肥えている友人が来ると、ワイン持込でこの店に連れて行く。 ホテルで修行した主人を紹介するときの決まり文句は、「ホテル・ニューオータニのOBで成功してるのは、僕の知る限りこのご主人と作家の森村誠一氏だけ」 と言うことにしている。 こうして食べる前に少々過分な紹介をしておくと、先入観が働くのか客の反応はすこぶる良く、「確かにこれは一級の豚肉料理、世界に通用する和風焼肉だ!」などと絶賛してくれる。 これに気をよくした女将が自慢のぬか漬けや、自家用の酒の肴などを出してきて気前良く振舞うので、カウンター席は食い物の話で大いに盛り上がる。

作家の梶山季之氏は1962年からホテルの一室を借り切って仕事場にしており、1975年彼が食道静脈瘤破裂と肝硬変のため45歳で死去するまで続いた。 そのホテルでフロントクラークとして勤務していたのが森村氏で、梶山氏が書き上げた原稿を編集者に渡す仕事は彼に任されていた。 そんなことで部屋に入る機会も多かったことから盗み読みをするうちに、門前の小僧何とやらで当時自分の書いたものと比較しながら勉強し、物書きへの自信を深めていったという話を先日のラジオ深夜便で聞いた。 後になってこのことを白状すると、梶山氏から「君はモグリの弟子というわけか」 と言われたらしい。

ホテルマンとは「自分の個性を徹底的に消す職業」。 森村氏はそんな職場環境を「鉄筋の畜舎」と感じ、ホテルに見切りをつけ作家に転職するが、ホテルでの大きな収穫は「人間観察」、この経験が無かったら社会的視点での作品は書けなかったろうと振り返る。 氏は今年78歳、他の職業であればとっくにリタイヤしてる年齢だが、「作家に終わりは無く幾つまでまもやれるし、やれないと忘れられていく、年に5冊程度の執筆がこれからも目標」 と老いに立ち向かう意欲を見せる。 同時に自由奔放な生活が許される職業にあって、自分に厳しい規則を課し健康状態をベストに保っているのは立派。 この春、2011年の吉川英治文学賞を受賞している。  

一方の成功者、焼肉店の主人もいまだ引退のそぶりすら見せない。 大震災のさなかにもいち早く営業を再開して常連を感激させ、新しい顧客も増やした。 しかし自分の料理に誇りと自信を持ちながらも、店を大きくしたり子供に継がせようなどという考えはまったく考えていない。 一日も休むことなく商売を続けながら年に数回、夫婦で古いベンツのジーゼル・ワゴンに乗り、食べ歩きの旅に出るが唯一の楽しみ。  同じホテルで修行した二人の間に接点は無い、共通点があるとしたら早めに見切りをつけ、リスクを背負って独立したこと。 そして今なお現役働き続けているが、それが幸せかどうかは、当人たちにしか分らない。  





 


  


「デコンプ」(与圧装置の故障)と、低酸素症の恐怖

2011年07月25日 | 乗り物
2005年8月14日午前9時(現地時間)キプロス共和国のLCC、ヘリオス航空の522便ギリシャ・アテネ経由チェコ・プラハ行き、ボーイング737-300型機が、キプロス・ラルナカ国際空港を離陸した。 9時20分巡航高度のFL350(35000feet、10700m)に到達し、9時37分ギリシャ領空に入った。 しかし航空管制センターへのコンタクトがなく、再三の呼びかけにも応答しないため10時30分、「Renegade alert」(指示に従わない航空機がいる旨の警報)を発効、10時55分ギリシャ空軍のF-16戦闘機がスクランブル発進した。

11時20分、F-16が552便に接近しコクピットを目撃した結果、副機長(右席)が操縦桿にもたれかかっており、機長の姿は確認できなかった。 同機はアテネ国際空港に近い地点を降下しながら飛行し、2000フィートまで高度を下げて数回旋回した後、高度を7000フィートまで上昇し、12時5分、アテネの40kmに位置するGrammatikosから2kmの山岳地帯に激突炎上し、乗客・乗員121名全員が死亡した。 事故機があと5分飛行を続けていた場合、アテネ市街地に墜落の危険性を回避するため、撃墜命令を出す態勢にあった。

事故の原因は機体の与圧系統に異常が発生し、操縦室で急減圧を起したため、機長・副機長が同時に低酸素症に陥り意識を失なったもの。 機はオートパイロットで飛び続け最終的に燃料切れで墜落したものだが、墜落直前の10分間酸素マスクを装着し、操縦席に座って操縦を試みた人物が居たと、事故調査官は語っている。 それを裏ずけるものとして、ボイスレコーダーには緊急事態を告げるメイデイ(mayday)を発する男性の声が録音されてが、アテネの航空管制センターでは受信されておらず、異なる周波数で送信してたものと推測される。

こうした緊急事態に備えて、正・副パイロットの手の届くところに酸素マスクが常時備えられており、何をさて置いてもこれをまず装着し、3000mまで一気に降下するようエマージェンシー・マニュアルに定められている。 さらに客室の酸素マスクも自動的に降りてきて、乗客も酸素を吸いながら一定高度に達するのを待つことになる。 ところが事故機の場合減圧が余りにも急激であったため、パイロットは数秒で意識を失なったものと思われる。 それほどに低酸素症は恐ろしく、1998年にもプロゴルファー「ペイン・スチュワート」の乗ったプライベートジェット機が、45000フィート(13700m)上空でデコンプのためパイロットが意識を失い、自動操縦のまま幽霊飛行し、4時間後サウスダゴダ州アバディーンの草原に墜落、乗客4名とパイロット2名が落命している。

僕の乗っていた小型機は与圧装置がなく、9000フィート(3000m)を酸素なしの上昇限度としてフライトしていた。 しかし気象条件によっては12000フィート(3600m)を超えることもあり、この場合は必ず酸素マスクを装着し、30分おきに「血中酸素濃度」を測定し、90パーセント以上を保つよう心がけた。 一般的に「有効意識時間は、高度2万フィートで5~10分」とされており、運輸省航空局が監修するAIM-JAPANには、「20000フィートでは5~12分で、修正操作と回避操作を行う能力が失われてしまい、間もなく失神する」 と記載されている。 ところで「国際宇宙ステーション」の高度は120万フィート(400km)、もしここでデコンプがおきたら・・・などと考えると気が遠くなるので止めにしよう。


「3・11」 Ken・中野氏の短くて幸せな生涯

2011年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
大震災から間もなく1ヶ月が過ぎようとする週末の朝、横田基地へ向かう車中から、「NPO法人:AOPA-JAPAN」の畑中紀子事務局長の電話が入った。 仙台空港近辺で津波に飲み込まれ、行方不明となっていた会員の中野氏が遺体で発見されたという知らせが、来日している夫人のマユミさんから入ったという内容。 中野氏は昨年の夏、ビジネス・ジェット運行支援の会社「FBO・仙台」を立ち上げており、地震の報を受け空港内のオフイスに急ぐ途中の災難だった。 初仕事は、仙台市内で開催された講演会に出席する米ゼネラル・エレクトリック社(GE)のジョン・ライス副会長を乗せ香港から飛来した、自家用ジェット機のハンドリング受注で、関係者から注目されていた。

お別れ会は7月10日、台場のホテル日航東京で行われ、日本貿易振興機構(JETRO)や宮城県、仙台市の幹部、航空関係者など80余名が出席し、志なかばで世を去った中野氏の早すぎる死を惜しんだ。 夫人からの案内状は「Celebration of ken Nakano‘s Life」 となっており、冒頭には 「故人の59年の幸福な生涯を偲び・・・」と書かれている。 「Celebration」 は日本語で祝い事と訳されるが、米国ではお別れ会であっても氏のように好きな飛行機への夢を追い続け、幸せな生き方をしたような場合には、ふさわしい言葉として使われているようだ。 僕も「寄せ書き」にこう記した。 「不運と不幸は別物、彼の短い人生は本当に幸せだった」

AOPA-JAPANが21世紀の記念事業として、2001年に実施した「小型機による世界一周フライト」に参加した「ビーチ・ボナンザ・A-36」は、増槽タンク取り付けや、エンジン載せ換えなどの大掛かりな改修を、北米・シアトルの会社に依頼した。 ボーイング社と取引のあった中野氏が住んで居られ、いい整備会社をお世話頂いたからだ。 僕は飛行機を共同所有してたSさんと一緒に何度かシアトルを訪れ、郊外の山腹に建つ瀟洒な中野宅で、毎回マユミ夫人の手料理をご馳走になった。 またシアトル・マリナーズの本拠地・セーフコ・フィールドのナイターにも連れてってもらい、メジャーリーグ駆出しの頃のイチローを応援したのを懐かしく思い出す。

「シアトル周辺のオーナーパイロット達が、週末に家族と過ごすリゾートを一度見ておくといい」 中野氏に言われて飛んで行った先がシアトルから40分ほどで着く小さな島。 すべてがセルフ方式で無人の飛行場は、日本では考えられないほどシンプルな運営で、まさに自己責任の極致。 森林公園の中に作られた500mほどの滑走路は田舎道にしか見えず、その先はヨット・ハーバー。 上空から見ただけで自信を無くし引き返そうと思ったが、中野氏にトライしてみろ!と背中を押され、ローパスの後フラップを一杯に降ろし、ビビりながらの着陸だったが、上り勾配になっているので案じたより楽で、驚くほど短距離で止まった。 僕のすぐ後にライトをつけたキング・エアーが着陸態勢に入っており、夕暮れの中で見事なランディングを見せてくれた。 降りてきたのは3人の子供と家庭教師らしき女性それにオーナー夫妻、夫人が大事に抱えていたアイスボックスの中身は、たぶんキャヴィアではないかと推察した。

お別れ会でマユミ夫人が思いがけない発表をし、出席者を驚かした。 シアトルを引き払って日本に移住し、亡き夫君の後を継いで会社を存続させるというもので、8月には小型機のライセンスも取得できる見通しだと言う。 日本の現状ではFBOのマーケットは小さく、リスクの高い事業であることを認識してるのか?老婆心ながら聞いてみると、収入の道は複数考えているが、例えばこれまで続けてきた英語教師の経験を生かし、日本の自家用パイロットに必要な英会話を教えながら、本業を軌道に乗せたいとおっしゃる。 航空法が変わり英語力がないと海外フライトができなくなったことを、ちゃんと知っているのだ。 長年の外国生活ですっかりたくましくなった彼女に接しながら、中野氏はよくよくラッキーな男だと感じた次第 。    


医師・作家「大鐘稔彦氏」に見る、外科医の魅力(2)

2011年07月15日 | 健康・病気
「平成天誅団」 なる組織をご存知だろうか?、これは大鐘氏が創作した「仕事請負集団」。  アメリカには一般に「メーガン法」と呼ばれる法律がある。 性犯罪者たちの個人情報がインターネット上で公開され、顔写真や、氏名、生年月日、犯した犯罪の種類、人種、身長、体重、目の色、髪の色などなどが掲載されている。 メーガンという名の由来は、1994年ニュージャージー州住むメーガンちゃんが、近所の男によってレイプされ、殺されたことが発端。 犯人の前科を調べると、小児性愛の常習犯であることは判明し、両親の運動によって1996年メーガン法が成立し、その後合衆国レベルで法が制定され、現在50の州で性犯罪者の情報を公開するようになった。

メーガン法というのは、性犯罪者を追い払うのではなく、共存しながら地域全体で監視していこうというもの。 しかし我が国では、加害者の人権が尊重される割には被害者の存在や苦悩が軽視され、泣き寝入りしているのが現実。 これを見かねて現れたのが平成天誅団、具体的に天誅団とは性犯罪者の男根を絶ち、睾丸を抉り取る仕事請負人集団。 実は過去、死刑に次ぐ酷刑として世界的に「去勢」が行われていた。 日本では「宮刑」と呼ばれ、土御門天皇の時代・1207年法然の弟子である法本坊行空と安楽坊尊西が、女犯の罪で宮刑に処せられたとの記録がある。 現在でも「去勢刑」が行われているのが米国、多くが薬物注射で睾丸を萎縮させる「科学的去勢」だが、テキサス州においては1997年と2007年外科手術による刑が実施された。 大鐘氏の義憤を背負った、仕置き人の活躍に期待したい。

男性特有の病気である「前立腺がん」は、精巣および副腎か分泌される男性ホルモンにより増殖される。 治療法の一つである「ホルモン療法」は、注射や内服薬によって男性ホルモンの分泌や働きを抑えることで、がん細胞の増殖を抑制する治療法。 この治療薬が開発される以前は、睾丸を摘出する外科手術が治療の主流だった。 そこで思い出すのは古代中国に伝わる「宦官」(かんがん)。 王の宮廟に仕える男性は去勢された者を用いたため、彼らを宦官と呼ぶようになった。 そこで提案だが、天誅団によって去勢された性犯罪者の使い道が、何かないだろうか?。

これまでの主流であった外科治療に代って出現してきたのが、放射線治療や化学療法。 しかし日本における「外科医」の地位や発言力は今なお高いように思う。 病院の稼ぎ頭であることも影響してるのかもしれないが、患者サイドから考えれば、あらゆる面から検討して最も適した治療法を選択できることがベスト。 大鐘氏は外科医のこれからについても助言する。 「専門領域だけの医師は、いずれ行き場を失ってしまう。 貪欲に専門外のことも勉強しておけば、第二の人生の選択伎が広がるのではないか」。

「神は二物を与えず」 と言うが大鐘氏は文才にも恵まれ、外科医としての豊富な経験と知識から数々のヒット作品を生み出してきた。 また「コミックの読者はメディアとして使える」ところに着眼し、肝移植をテーマにした「メスよ輝け!」の原作をはじめ多くの単行本を書き上げてこられたのは流石。 「ペンはメスよりも強し」、氏が神から授かったペンの威力を、地域医療や移植医療発展のため、そして高い志を持って医療の道に励む若き医師たちのためにも縦横に発揮され、これからも鋭い切れ味のメッセージを送り続けて欲しいと願ってやまない。


医師・作家「大鐘稔彦氏」に見る、 外科医の魅力(1)

2011年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
明治、大正、昭和の三代にわたって精力的に活動したジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家の「徳富蘇峰」が、ジャーナリストの条件として、「エヴリィシィングについてはサムシィングを知らなければならない」、そして同時にサムシィングすなわち [自分の専門分野については、エヴリィシィングを知らなければならない]と言っている。 一方,大学病院や民間病院で外科医として6000件に及ぶ手術を経験した後、僻地医療に転じた「大鐘稔彦」氏自身も、まず専門である怪我の縫合や小手術など外科的な応急処置から、水虫の診断・治療にいたるまで幅広く対応している。 氏はおっしゃる、「本来、僻地の医師を採用するする際には、外科の手術ができるかどうかを尋ねるべきですが、人手不足の折、どんな医者でも来てもらえれば有難いという訳で、ここの診療所でも耳鼻科医を採用したことがありました」。 

この国では「プライマリーケア」(初期医療・ホームドクター)の専門医を本気で育成しているのだろうか?、僕はかねがね疑問を抱いていたが、大鐘氏はプライマリーケアについても的確に言及する。 プライマリー医の使命として、氏は次の7項目を挙げている。 1)、正確な診断を下す。 2)、レパートリーを広く持つ。 3)、できるだけ通院で治す努力をする。 4)、「送り医者」(自分では血液検査とX線ぐらいしかできず、患者をすぐ大病院などへ送ってしまう医師)にならない。 5)、照会先(2次医療機関)のレベルを良く知ること。 6)最先端の医療を常に把握しておくこと。 7)、紹介した患者を見舞うこと。

あえて8)番目を加えるとしたら、「難しいことを分かり易しく説明できるコメント力」身につけて欲しい。 患者に説明してる内容が相手に通じているのかどうかを、考えながら対応してる医師が、余りにも少ないからだ。 もちろん簡単な外科的処置も必須項目で、こうした専門医が地域に配置されれば患者にとって心強いだけでなく、2次医療に従事する医師にとっても大きな刺激になリ、且つ医療費の抑制にも繋がるはず。 外科医の寿命は短く、大鐘氏によればメスを下ろす平均年齢は55歳前後。 しかし外科医は「潰しがきく」ことは確か、メスの代わりに包丁を持って、しゃぶしゃぶの肉なんか切らしたらったら最高だろうな、などと思うこともあるが、第2の人生はぜひ初期医療の分野でも活躍して欲しい。

第二次世界大戦前夜のパリで亡命者として暮らし、無能な病院長の代わりに麻酔をかけた後に現れ、難しい手術をこなす幽霊医師が、ベルリンの元大病院外科部長で、ユダヤ系オーストリア人の外科医「ラヴィック」。 ストイックで極めて魅力的な一人の外科医の生き方を描いたベストセラー小説 「エーリッヒ・マリア・レマルク」の「凱旋門」は、何度となく読み返した僕の愛読書。 大戦が終わった翌年の1946年に出版されると、世界中で外科医を志望する若者が続出し、彼が愛飲するフランス・ノルマンディー地方の林檎酒 「カルヴァドス」が飛ぶように売れた。  

僕の友人は黄疸症状が出て診察を受けたところ、膵臓癌と診断され、地元の総合病院で「膵頭十二指腸切除」の手術をしたが一年を経ずに他界した。 たいへん難しい大手術と聞いていたが、朝手術室に入り、終わったのが夕方近かった。 ところが大金氏の恩師で故羽生富士夫教授は、最短でも8時間かかる難手術を約半分の時間で終らせ、しかも世界でこの手術を1000例やった2人のうちの1人。 こうした技術は数多く手術を見て盗み取るしかなく、大鐘氏も2週間おきに東京女子医大に通ってこの技術を学んだと言うが、外科医の醍醐味は、即結果が出るところにあるようだ。

 


低レベルの放射線は有益? 「ホルミシス仮説」への考察

2011年07月05日 | 健康・病気
福島第一原発から直線で55kmに位置する郡山市に「前立腺がん患者の会」が在り、定期的に情報交換と勉強会を行っているが、6月19日に行われた会合のテーマが、「放射線物質からいかにして身を守るか」。 ところが注目を集めたのは「放射線ホルミシス仮説」なる理論。 ホルミシスとはギリシャ語のホルメに由来し、「刺激する」の意味で、結論から言うと 「高レベルの放射線は生体に有害であるが、低レベルの放射線は有益である」 つまり毒にも薬にもなるとというもの。 ちなみに人間の健康にとってにとって最適の数値は、年間60~100ミリシーベルトとのこと。 この仮説は米ミズリー大学の生化学教授 「トーマス・D・ラッキー」博士が1982年、米保険物理学会誌で発表した。

先日、産経新聞の「正論」に、元駐タイ大使の「岡崎久彦」氏が、「低レベル放射能 それほど危険か」を寄稿していた。 その中で、米有力シンクタンク「ヘリテージ財団」が、東日本大震災への対応ぶりをレビューして、今後の米国への教訓とするために発表した報告書を紹介している。 報告書はまず称賛、「日本国民は素晴らしい規律と耐え忍ぶ能力とを示し、暴動や大混乱などは生じなかった」と。 他方、日本政府の対応の中で最も問題だったのは、「低レベル放射能にどの程度のリスクが有るかを、有効に伝えることができなかったことである。」 と指摘している。 

そして米国は将来の同様な危機に際して、「低レベル放射能についての正確な情報の提供に努力すべきである」と唱えている。 もっと詰めて言えば、「あるレベル以下の放射能は危険でないということを、初めからはっきり国民に知らせられれば、今回の日本のような混乱は避けられる」と言っている。 注目されるのは2008年発表されたラッキー博士の論文で、これは広島・長崎の被爆者8万6543人の健康状態を追跡調査した学術報告である。 まず被爆者の両親から生まれた子供に、遺伝子上の奇形児は一人も見つかっていない。 また低レベル放射線を浴びた母親から生まれた子供達の方が、一般平均と比較して死産、先天性異常、新生児死亡 などの比率が低い。 

がんについては平均的被爆者の白血病による死亡率が、市外の2つの町の人々より低かった。 約20ミリシーベルトの被曝線量を浴びた7400人のグループでは、がん死亡率の著しい低下が見られた。 結論として低線量放射線は、「日本の原爆生存者の健康に生涯にわたり寄与した」と言っている。 「ホルミス効果」とは生物に対して有害なものが微量である場合には、逆にいい結果を表すという「生理的刺激効果」のこと、つまり毒を薄めれば薬になるということ。 しかしラッキー博士の論文はこれまで世界の放射線学会を支配してきた 「どんな微量でも放射線は危険である」という学説と真っ向から対立し、その主張は省みられないまま片隅に埋もれてきた。

ところが近年、多くの専門家たちによる研究・実験により、ラッキー理論のメカニズムが明らかにされされ、これまでの学説を覆す研究も発表され、現実に放射線ホルミスは臨床の現場で、医療の補助として用いられるようになってきている。 前述の患者の会の中でも、末期の前立腺がんや薬の耐性により治療方法が無くなってしまった会員がすでにホルミシス療法を実践し、良い結果も報告されてきている。 しかし全国民がナーバスになっている昨今、放射線に関し肯定的な話は反発を招く恐れもあり、多くを語るのは控えた方がよさそうだ。