カキぴー

春が来た

ヴィシー傀儡政権と、「フィリップ・ペタン」

2011年08月30日 | 戦争
B級映画の傑作と比喩されながらもアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞を受賞し、さらに文化的、歴史的、芸術的に重要な映画フィルムを保存するために始まった「アメリカ国立フィルム登録簿」に、最初にセレクトされたのが1942年公開のアメリカ映画 「カサブランカ」。 巻頭でレジスタンスのフランス人が警官に撃たれるシーンのバックに、親独ヴィシー政権の首班である「フィリップ・ペタン元帥」の肖像があったし、エンディングではフランス警察のルノー署長が「ヴィシー水」のボトルを屑籠に落とし蹴飛ばすiシーンがあった。 これまで製作側はこの作品がプロパガンダ映画であることを一言も表明してないが、この映画には前述の2つを含め5つの反抗シーンがあり、見事な反ナチプロパガンダ映画であることは間違いない。

「ヴィシー」はパリから南に300km、フランス中央高地に位置する温泉保養地で、第2次世界大戦期のナチス占領下で、政権が置かれた場所として知られる。 ヴィシー水はここで産出される天然微炭酸のミネラルウオーターで、世界的に愛飲されフランスでは多くのレストランやホテルに置かれている。 アメリカの第2次世界大戦参戦で、親独のヴィシー政権が「敵国」となりヴィシー水の輸入も禁止されたため、映画で使われたボトルは、ロスアンゼルス近辺のホテルに残っていた空き瓶をやっと見つけ出して撮影に供された。 

1940年5月ドイツ軍は、フランスとの国境沿いにベルギーまで続く、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞「マジノ線」(小説・『西部戦線異常なし』に克明に描かれている)を迂回し、アルデンヌ地方の深い森を機動化部隊で突破し、フランス東部に侵入する。 敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、フランス軍を敗北させたドイツ軍は6月14日パリに無血入城しエトワーール凱旋門で凱旋式を挙行。 これはフランス人にとって屈辱であると同時に、フランス降伏を予期させた。 そしてポール・レノー首相ら抗戦派に代わって、和平派が政権を握り6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となると、ペタン政府はドイツとイタリアに休戦を申し入れ、6月22日独仏休戦協定が締結される。

レノーやアルベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためカサブランカに逃亡を計るが身柄を拘束される。 一方レノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ドゴール准将は、ロンドンに亡命し「自由フランス」を結成する。 フランス政府は7月1日臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市ヴィシーに移転した。 英国は降伏したフランス人に同情したものの、ドイツに協力的な親ドイツ派ヴィシー政権は徹底して嫌われた。 「降伏は奴隷、飢餓、そして死を意味する・・・占領したフランス人を強制労働に従事させるドイツ・・・・」 これがこれが英国、米国が抱いた敗戦国フランスのイメージだった。  しかし多くのフランス人はヴィシー政府の統治を受け入れ、一部の人々はドイツに対して協力の姿勢をとり、それ以外はヴィシー政府下の平穏を受け入れ、沈黙を守った。

戦後ペタンはドイツからスイスを経由してフランスに戻り逮捕され、裁判で死刑を宣告される。 しかしドゴールよって高齢を理由に無期禁固刑に減刑され、1951年流刑先であるブルターニュ地方のユー島で95歳の生涯を閉じた。 フランスにおける彼への評価は、一般にナチス・ドイツへの協力者として批判があるものの、「ペタンの降伏がフランス全土を廃墟となる事態から救った」という評価も、いまなお根強く存在する。 しかしフランスの歴史家ジャン・マルク・ヴァローは、ペタンを「人命と物財を守った代わりに国家の名誉を失った」と述べ、アメリカの歴史家バート・バクストンは、「ヴィシーを理解することは、ますます魅力的なそして未完の事業」と言い、将来の議論に期待感を示す。  


「航空母艦」の進化と、「原子力・空母」(2)

2011年08月25日 | 戦争
空母艦載機にとって離艦以上に難しいのが着艦で、「制御された墜落」と呼ばれる由縁。 パイロットは操縦桿を2週間握らなかった場合空母への着艦資格を失い、再び地上訓練から始めて、日本なら硫黄島か厚木の基地でランディング・ポイントへ正確に降りられる訓練を重ねる。 やっとOKが出ると空母への着艦が許されるが、さらに最終資格審査の難関を経てやっと着艦資格を得ることができる。 夜間訓練では真っ暗闇の中に光る小さな点と飛行甲板の左にあるライトだけを頼りに自機の高度と左右のズレを調整しながら滑走路センターラインに並ぶ27個のランディングライトを目標に目視で着艦する。 飛行甲板には4本のアレスティングワイヤーが張られ、それをフックで引っ掛け時速200km以上で着艦する艦載機を、数秒で停止させる。  

第2次世界大戦まで「空母機動部隊」は存在しなかった。 実戦活動で史上初めて登場したのが1941年の「真珠湾攻撃」で、これをきっかけとしてアメリカは空母を中心とする機動部隊の威力を再認識するとともに、日本海軍のシステムを進化させ、さらに東西冷戦の中で巨大な戦略システムとして発展させる。 またベトナム戦争の経験から用兵思想を変化させ、長距離核ミサイルにより一挙に決着を計るそれまでの考え方から、通常兵力を海兵隊と一緒にどうやって迅速に上陸展開させるかに移っていき、空母機動部隊の重要性が高まる。 そして世界初の原子力空母「エンタープライズ」の出現は、航空母艦の航続距離と巡航速度を飛躍的に向上させるとともに、最長3ヶ月に及ぶ戦闘作戦を可能にした。

いま世界で保有する原子力空母は12隻、1隻はフランスの「シャルル・ド・ゴール」(40・600t、最大速度27ノット以上、搭載機40機、乗員2000名、原子炉2基)、11隻はすべてアメリカが所有しエンタープライズ級が1隻、ミニッツ級が10隻。 それぞれの艦は概ね排水量10万トン、速力30ノット以上、搭載機90機、乗員6000名、搭載原子炉は最初に建造されたエンタープライズの8基を除いて全て2基。 「空母打撃群」(CSG)の艦隊は空母を中心にして潜水艦1隻、補給艦1隻、イージス巡洋艦・イージス駆逐艦各1隻、駆逐艦1隻の6隻から構成される。 これは基本構成で、緊迫する局面では原潜が増えたりイージス艦が増えたりする。

アメリカ海軍は大西洋、太平洋、中東地域、3つの重要地域に海軍部隊を常時展開できる戦力を維持している。 しかし普通型空母にまったく興味が無い、最大の理由は燃料の問題で一緒に行動できないから。 横須賀をベースとして活躍し、2008年原子力空母ジョージワシントンと交代した空母「キティーホーク」の場合、重油で運行するため日本からペルシャ湾に向けて航行中、4日ごとの燃料補給が必要。  しかしジョージワシントンは燃料分78000トンにかわり1・5倍の艦載機燃料と1・8倍のミサイル爆弾を搭載できる。 また普通型では1日1人あたり2リッターに制限されてた水の使用量も、豊富な電力で大量に生産されるため無制限。

ジョージワシントンでは乗員の3分の2が後方支援要員、空母の攻撃能力の中核である戦闘機パイロットは僅か5%以下で、300名に満たない。 また全体の約30パーセントが女性、男女間のトラブルやセクハラなどの問題を防ぐためにも、このぐらいの比率がベストらしい。 乗員6000名分の給食は3食プラス夜食で一日およそ1万8000食以上、ファミレス程度のメニューは揃っている。 数ある食堂で最も重視されるのは階級別に幾つかある「ロードルーム」(士官室を兼ねる)。 艦内の仕官社交場でもあるので全員が正装つまり制服着用で、テーブルごとに給仕が付く。  まさにアメリカの国力を象徴するような原子力空母機動部隊だが、同盟国日本としては紛争抑止力として期待するとともに、「トモダチ作戦」で見せてくれたような災害救助や人道支援でも活躍し、世界平和にも貢献してくれるようことを願ってやまない。      


「航空母艦」の進化と、「原子力空母」(1) 

2011年08月20日 | 戦争
先の第2次世界大戦(1939~1945)ではっきりしたことは、その主役が船から飛行機に移ったこと。 そして陰の主役が、飛行甲板を持ち、航空機を離艦・着艦させると同時に航空機に対する燃料・武器の補給や整備能力を有し、海上において単独で航空戦を継続できる「航空母艦」。 空母が実践で登場したのは第一次世界大戦(1914~1918)だが、それ以前の1910年に米国の巡洋艦に仮設甲板を設け、飛行機の離陸に成功している。 ライト兄弟が初の有人飛行に成功した7年後のことだが、その2ヵ月後には装甲巡洋艦に設置した仮設甲板に、飛行機の原型ともいえるような布張りで、体むき出しのパイロットの操縦する複葉機が、特別に考案されたフックを使って無事着艦している。

1905年(明治38年)日露戦争時に香港からウラジオストクに向かっていた英貨物船「レシントン」を、対馬海峡で捕獲没収し、改装したのが日本海軍初の水上機母艦「若宮」。 前部船倉に航空機格納所や弾火薬庫、後部船倉に兵員室を設け、甲板上にキャンパス製の天蓋をつけた簡単な改装だった。 航空機は前後甲板上に各1機、格納所に分解した2機の計4機を搭載でき、航空機の発進は海上に吊り降ろして行われた。 日英同盟を締結していた当時、第一次世界大戦勃発と同時に日本はドイツに参戦、若宮も「青島攻略戦」に参加しドイツ軍基地を攻撃したのが、洋上を発進した航空機による世界初の実戦活動。

海軍の水上機はそれなりの活躍をしたが、大きなフロートを装備してるため飛行性能では通常の陸上機に比べて劣った。 各国の海軍からは、性能の良い航空機の離発着が可能な母艦が強く望まれ、本格的な航空母艦の開発へと進展していく。 第一次世界大戦での経験から英・日の海軍は、既存艦船の改装によらない本格的航空母艦の建造に着手した。 初めから設計された艦で最初に起工されたのは、イギリスの「ハーミーズ」だったが完成が遅れ、最も早く完成したのは日本の「鳳翔」で1922年の就役。 満載排水量10・500トン、飛行甲板168・5m、重油・石炭ボイラー4基で30・000馬力、航続距離14ノット/10・000海里、最大25ノット、乗員550名、搭載機21機。 第2次大戦の開戦時に海軍に在籍し、無傷で終戦を迎えたのは鳳翔のみ。

「カタパルト」は、航空機を航空母艦の短い滑走路から、瞬時で離陸速度まで加速させる「射出装置」。 大日本帝国海軍では、航空機の連続発射に不可欠なカタパルトの開発に失敗したため、航空母艦ではカタパルトがまったく装備されなかった。 カタパルト未搭載の空母は搭載機の離艦時、風上に向かって高速で航行しなければならず、そのため戦艦並みの大型空母であっても、巡洋艦並みかそれ以上の高速性能が求められ、建造と運用上の大きな制約となった。 一方アメリカ海軍は連続使用が可能な油圧式カタパルトを実用化し、日本の空母に比べ迅速且つ大量の発艦が可能であった。 また小型・低速の空母であってもカタパルトを搭載すれば十分に活用でき、戦局に大きく寄与した。

現代の航空母艦では、第2次世界大戦後にイギリス海軍で考案され,アメリカ空軍において実用化された「蒸気式タパルト」が主流。 蒸気は推進用のボイラーからから圧力タンクに貯めておき、航空機の発進時、一気にシリンダーへ送り込み、カタパルトに連動するピストンを動かすもの。 中国は「大国で空母を保有してないのは中国だけ」と、1988年進水の旧ソ連製空母 「ヴァリヤーグ」(67500トン)を購入し大連造船所で改造中。 完成後は主に練習用空母として離着艦訓練などに利用される見通しだが、別に上海の造船所では初の国産空母を建設中と見られ、最終的には原子力空母2隻を含む5~6隻体制にする見込み。 しかし各国の専門家からこの計画が疑問視されている大きな理由は、「カタパルトの開発が非常に難しいから」。


映画「チャンス」と、天才喜劇俳優「ピーター・セラーズ」

2011年08月15日 | 映画
物心ついてから数十年間、屋敷から一歩も外に出ず住み込みで庭師の仕事をし、テレビだけを楽しみに生きてきた知的障害を持つ初老の男「チャンス」(ピーター・セラーズ)。 屋敷の当主が亡くなり、彼は生まれて初めてワシントンの街に出る。 当主のお下がりの高級なスーツ・コート・鞄・帽子で身を繕っているが、知能指数は5歳程度。 当てもなく街を彷徨っているうちに貴婦人「エヴァ・ランド」(シャーリー・マクレーン)の乗る高級車に接触し、怪我をする。 気遣う彼女は、余命いくばくもない財界立役者の夫「ベンジャミン・ターンブル・ランド」(メルヴィン・ダグラス)が、その大屋敷に雇う専従の医師に治療してもらうことを勧め、車に乗せる。 読み書きさえできず無教養であるにも拘わらず、その言動の純真無垢さが夫妻の心を掴み、その寡黙さが気品と受け取られ、邸宅に滞在することになる。

庭の手入れや植物の成長の話しかしないチャンスを、ベンジャミンは不況下のアメリカを立て直す暗喩に違いないと勘違いしてしまい、彼を見舞いに来た米合衆国大統領の「ボビー」(ジャック・ウォーデン)に、チャンスを紹介する。 政治の話で「秋がきて冬になっても、根さえしっかりしていれば春には必ず芽が出る」というチャンスの言葉を、「不況の最中でも政治の根幹がブレなければ、春には必ず景気は上向く」 と解釈し、大統領も深い感銘を受け、「我々の国には彼のような助言者が必要だ!」と考える。 

大統領が早速、政府財務委員会のスピーチでチャンスの言葉を引用したため、彼は演説の草案者として一躍、全米の脚光を浴びるようになる。 さらに正体不明・経歴不詳、そして「新聞を見ない」のは人の評価など気にしない大物、といったエピソードが謎めいた魅力となって、ついにテレビ出演までもする国民的人気を得てしまう。 やがて死期を悟った「キングメーカ」のベンジャミンは、すっかりチャンスの虜になったエヴァを彼に託し、チャンスを次期合衆国大統領候補に指名して息を引き取る。 そんな話に無頓着なチャンスは、湖水の上を歩いて(水上を歩く奇跡を行ったという「イエス・キリスト」のバロディー)去っていく。

1981年日本公開のアメリカ映画「チャンス」は、ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」を下敷きにした「ジャージ・コジンスキー」の原作・脚本を、「夜の大走査線」「華麗なる賭け」の「ハル・アシュビー」が監督し、アメリカ政界を皮肉たっぷりに風刺した極上のコメディー映画。  主役のチャンスを演じるのが、 「ピンク・パンサーシリーズ」でクルーゾ-警部を演じたイギリスの喜劇俳優 ピーター・セラーズ。  晩年のチャップリンプを思わせるような静かな演技で、この作品をしっとりした上品なものに仕上げている。

1950年代のロンドンで人気ラジオ番組に出演するピーターは、妻アンと2人の子供そして両親と、つつましくも幸せな日々を送っていた。 ところが映画「求むハズ」で大女優の「ソフィア・ローレン」の相手役に選ばれた彼は、勝手に彼女に惚れこんでしまったことから人生の歯車が狂い始める。 傲慢、わがままのし放題、家庭を顧みず浮気に走り家庭崩壊、離婚・結婚を繰り返したあげくに、1980年夏、持病の心臓発作のため54歳で急逝。 遺作といってもいい 「チャンス」の素晴しい演技・人柄とは、およそ裏腹な役者人生だった。      



 


「航大小型機」、墜落事故への考察

2011年08月10日 | ニュース
去る7月28日、航空大学校帯広分校の小型機が剣山(1205㎡)の山腹に激突し、3人が死亡1人が重症を負った事故は、まさに起こるべくして起きた印象が強い。 事故機のビーチクラフト社製「ボナンザАー36」はかって僕が乗っていた小型機と同型で、単発レシプロエンジン6人乗りの機体は分厚い翼の形からして見るからに堅牢さを感じさせ、事実かなりのハード・ランディングをしても、びくともしない。 操縦して感ずるのはどっしりとした安定感で、その前に乗っていたセスナ172と比較して横風や乱気流に強く、航大において訓練機として多く採用されてる理由がわかる。 操縦桿や計器類は左右に同じものがダブルで装備され、機長は左側のシートに座る。

機長席で事故機を操縦していた川口訓練生の証言は生々しい。 頭に取り付けたフードを下ろし計器盤以外は見えない状態で、「雲の中を出入りするような感じを受けながら」計器飛行の訓練をしていた。 突然右シートに座る機長の「あっ」という声がしてフードを上げると、目の前に山が迫り回避する間もなく樹木に激突、直後にコクピットは火に包まれ火傷を負いながら機外に転がり出たという。 僕は昨年8月5日のブログ、「バーディゴ(空間識失調)の恐怖」(1)(2)の中で、飛行機が雲の中に入ることがどれほど危険かについて、自分の体験を通して記述しているが、通常のフライトでも天候の急変や雲を避けきれずに入ってしまうことは、よくあること。

そのため 「ホライゾン・インジケーター」(姿勢儀)という姿勢制御計器を中心に高度計、速度計などをまんべんなくチェックしながら、15分ぐらいは雲の中を飛べないと、ライセンスは取得できないし、取得したあともこの訓練も欠かせない。 事故機は9時11分に帯広空港を離陸し、9時30分には高度750mでレーダーから機影が消えている。 つまりこの19分の間に早くも計器飛行の訓練をしていたことになる。 しかし提出されていた訓練予定項目には、「低空空中操作」と記録してあり、訓練内容が大きく異なリ疑問が残る。 小型機には事故解明に不可欠な「フライトレコーダー」や「ヴォイスレコーダー」は装備されてない、だから今回もし生存者が居なかったとしたら、事故の原因究明はかなり難航したはず。

「計器飛行訓練」を雲中で行うことはない。 山岳地帯を避け充分な高度と視程を確保した上で、教官は必ず前方・周囲の監視しながら、いま何処を飛んでいるかの位置確認を常に怠らず、さらに訓練生がもしバーディゴに陥ったり、視界が悪くなった場合、すぐに操縦を代わるのが訓練の基本で常識。 飛行時間5000~9000もの経験を持つベテラン教官が2人も同乗しながら、なぜ自殺行為に等しい状態で訓練をしてたのかが謎。 それにしても難関を勝ち抜いて航大に入学し、避けられた事故で死傷した訓練生が、あまりに気の毒。  パイロットの世界的組織「AOPA」の傘下にある 「NPO法人・AOPA-JAPAN」で、技量保持委員長を務める 野村達夫氏が航大の事故に関してこんなことを書いている。

「拙速な事故原因の推測を、法的な部分を除いて言えば、今回ハンディータイプの『ガーミンGPS』を積んでいたならこの事故は100%防げた種類の事故かもしれない。 昨年航大仙台校でハンディータイプGPS・ZAON-TCASの搭載が表沙汰になり、これらの機器を法に従い撤去したと聞いた記憶がある。 今回の事故機もそのような機体であったとしたら、法と引き換えに命を絶った方々はさぞ無念であったろうと思う。」  (エアラインなどでは「T-CAS」と呼ばれる「衝突警告装置」の設置が義務化されているが、小型機では価格が高いこともあって装備されてない。 一方安価なハンデータイプが日常的に使われているのは誰もが承知の事実。 しかし法的には認められていない)   いずれにせよ事故の謎と疑問を解明すると同時に、再発防止策を「多角的且つ柔軟に議論して」今後にに生かさなければ、犠牲者が浮かばれまい。


「予期せぬとき、予期せぬせぬ形で・・・」 プレゼントの極意

2011年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
話は20年以上も遡るが、ヨーロッパ旅行の最終地パリでの出来事。 僕より一回り年下のH君が、どうしても買って帰りたいワインがあるので付き合って欲しいといわれ、名の知れた専門店の地下深くにある石がむき出しの広大なセラーで、彼が時間をかけて探し出してきたのが1960年代の「シャトー・マルゴー」。 それから暫らくして彼は離婚しその後再婚したが、その相手が実はマルゴーの贈り主で、ビンテージは彼女の誕生年だったことを、二人の間に子供が生まれてから知らされた。 手間ひまかけて拘った1本のワインが、彼女の心を揺り動かしたのは確か。

ワインをプレゼントに使った映画で、記憶に残るシーンがあった。 作品は1981年公開のサスペンスドラマで、僕の好きな監督シドニー・ポラックが手がけたアメリカ映画「スクープ」。 「ポール・ニューマン」が女性記者の家を訪ねるとき持参するのが、心憎いばかりにラッピングされたワイン。 さりげなくグランドピアノの上に置くのだが、ドアを入った時点からあらかじめ計算し尽くされていると思われる行動を、悟られずに振舞う演出が際立った。 酒に関係するビジネスをしてる主人公だから、それなりの物を選んだに違いない、だからこそ立派な木箱などに入れず、ラッピングだけでぶら下げてきたところがグッド・センス。 

「プレゼントの効果は、予期せぬとき・予期せぬ形で貰ったときの衝撃に尽きる」 と言ったのは「伊丹十三」氏だったと思うが、サプライズは確かに物を贈るときの大事なコンセプトの一つ。 プレゼントを予告すれば、相手の女性は心待ちにするものと決めてかかり、早くからのアナウンスメントを常としている男を知っているが、待ち時間が長くなると期待値も高まり、現物との落差が大きくなることもあってか、その見返りは限りなく低かった。 プレゼントが「教養の集大成」とまでは言わないが、ある種の頭脳作業であることは確かで、送り主に下心があれば尚さらのこと策を練らなければ、成功はおぼつくまい。

今年の誕生日に僕が貰ったプレゼントで嬉しかったのは、或る女性からのもので、一品ではなく詰め合わせ。 メインはイタリアの「ボディー・ミスト」と、車のポケットやクローゼットに吊るして香りを楽しむ「アロマ・ドク 」。 とくにミストの方はオーデコロンよりさらに微香性で、幾つかのの香料や果実エキス、ヒアルロン酸などが成分、すっかり気に入って今年の夏は忙しく愛用している。 女房への配慮も忘れず鎌倉の老舗で作る「和生菓子と小鳩豆楽」が入っており、さらに気の利いたメッセージに加え、なぜか紀伊国屋のビーフカレーなどが入っているあたりは、贈り主自身もプレゼントを楽しんでいる感じ。

貧しいがとても仲の良い若夫婦が居て、明日がクリスマスなのにプレゼントを買うお金がない。 二人には誇るべき宝物が二つあった。 妻デラの長い髪の毛と、夫ジムの金時計。 デラは髪の毛を売って時計鎖を買い、ジムは時計を売って髪に飾る櫛を買う。 二人は互いのために宝物を台無しにしてしまうのだが、この短編の作者の「О・ヘンリー」は、「贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢者だった」 と締めくくっている。 この短編は言うまでもなく 「賢者の贈り物」。 最も賢者だったと言う意味は? さまざまな考え方があるだろうが、「プレゼントの良し悪しは、あとの結果が全て」 と解釈してみると、やはりその極意を、極めてみる必要がありそう。