カキぴー

春が来た

末期がんの友人に頼られたら・・・・(1)

2012年02月25日 | 健康・病気
「彼」が訪ねてきたのは暮れも押し詰まった日の午前。 久々の再会だったが顔からは生気が失われ、前かがみで歩く姿は僕よリひと回り下とは思えないほど老けてみえた。 話を聞くと、総合病院で診察を受けたのは、倦怠感や腹部のしこりで胃が圧迫され食欲が落ちてきた昨年11月初めで、診察・検査の結果「原発性肝細胞がん」の末期と診断され、なんと余命3ヶ月。 肝臓内には12cm×5cmの大きなものを含め4個以上の腫瘍が認められた。 沈黙の臓器と言われ自覚症状のない肝臓の癌は怖い。 すっかり諦めの境地に入っていた彼だが長男ガ嫁を貰うまでは生きたいと、がん体験のある僕を頼ってきた彼を前にして、僕に何ができるだろと考えながら、助けたいという想いが次第に強くなってきた。

肝臓がんの病期分類は、「腫瘍が一つ」 「大きさが2cm以下」 「血管への浸潤がない」 この3つの条件をクリアーし、さらに「リンパ節転移・遠隔転移が無い」 が加わって「ステージ1」。 3つのうち2つの条件を満たし、転移の無い場合「ステージ2」。 3つのうち1つの条件を満たし、転移の無い場合「ステージ3」。 3つの条件全てが合致せず転移の無い場合が「ステージ4」となる。 転移がある場合は3つの条件に関係なく「ステ-ジ4」。 ステージ1~2の治療法は摘出手術・経カテーテル肝動脈塞栓法・エタノール注入療法など。 ステージ3になると原則手術は対象外で塞栓法・エタノール療法・化学療法・放射線療法・肝移植などが行われる。 ステージ4になると対症療法・緩和療法のみとなる。

さて病期分類を彼に当てはめてみると該当するのは「ステージ4」。 つまり一般的には対症療法か緩和療法になるが、彼の体の状態が治療に耐えられると判断した担当医は、12月に入って入院させ、放射線科で「冠動脈塞栓術」の治療を行っている。 肝癌は進行すると癌への栄養補給をするため血流が豊富になる。 そこで足の付け根の大腿動脈からカテーテルを挿入し、肝臓内の癌に通ずる細い動脈まで進んで、癌の位置を確認したら抗がん剤を注入し、さらに塞栓剤で血流を遮断しがん細胞を壊死させるのが「塞栓術」。 つまり化学兵器と兵糧攻めで癌を死滅させる戦術で、副作用として彼の場合痛みや発熱、吐き気などに加えて肝臓がかなり肥大するようだ。

1回目の治療を終え、心身ともに弱っている彼に対し僕が思いついたのは、全国区で末期がん患者の相談に応じているT医師に引き合わせること。 連絡を取ると年末の飛込み依頼にもかかわらず、その日の午後予約をとってくれた。 T氏は僕が参加している前立腺がん患者の会で度々ゲストスピーカーでお招きし、再発や転移で苦しむ患者に新しい情報や元気をいただいている人。 医学部卒業後東京の総合病院医長を経て米国の大学院博士課程を修了し開業しているが、末期癌患者の最後の拠りどころとして心身のケアに尽力している。 その日彼が受けた助言は「ゲルソン療法食」(動物性蛋白質・塩・砂糖・油脂、抜き)や、「抗がん物質を多く含む食材」、「作用の違う数種類のサブリメントの組み合わせ」、など。

これらに加えて「超濃度ビタミンC点的療法」や「免疫細胞療法」などのプログラムも説明を受けたが、彼の場合は経済的な理由で無理、しかしT医師は末期がんを克服した幾つかの事例を示し、決して諦めてはいけないと励ましてくれた。 60分のカウンセリングは彼に生きる希望を与えたようで、かなり元気を取り戻していた。 最後に僕が「彼に試してみたいと」T医師に見せたのは、昭和27年以前に採掘された秋田・玉川温泉のラジウム鉱石。 実は僕も補助医療として使用中だったが、頼ってきた彼を助けたかったので、優先順位を彼に与えようと思ったからだ。 医師は線量を計測した後、「私も多くの石を見ていますが、これだけ高い数値のものは初めてです。 これによって抗がん剤治療による副作用の減少が期待できるでしょう」と、使用を薦めてくれた。  





   

  

   


「ぼくたちが孤児だったころ」と、上海租界&キャセイホテル

2012年02月20日 | 小説
1900年代の初め、上海の「租界」に住んでいたイギリス人の少年クリフトファー・バンクは、10歳で孤児となりロンドンの伯母の元で育てられる。 まず貿易会社に勤める父が突然失踪し、続いて反アヘン運動に熱心だった美しい母が忽然と姿を消してしまったからだ。 両親の失踪事件がトラウマとなり、成長するとともに探偵になることを夢に見てきた彼は、ついに著名な探偵となり両親がいまだに上海のどこかに幽閉されていると信じ、日中戦争のさなか現地調査に乗り出す。 クリフトファーに残されたのは消え行く昔の遠い記憶だけ、物語はこの主人公が語り手となって一人称で語られていくが、前半は抑制の効いた文章が「日の名残り」を連想させる。

2000年4月イギリスで出版された「ぼくたちが孤児だったころ」(When We Were Orphans)は、発売と同時にベストセラーとなった。 著者のカズオ・イシグロは、「語り手の言うことを全て信じないように。 語られていない部分、言葉の裏にある部分を読み取って欲しい」とインタビューで言っているが、後半になると現実と幻想との境界線が次第にあいまいになリ、読者もまた探偵になることを強いられる。 結末を明かすと、父親の失踪は愛人との逃避行だったが、母親の場合は息子の命を救うため、彼女に迫る中国人大物の愛人となって人生の終盤を迎え、香港の高級老人施設でひっそり生きていた。 イギリスにおける息子の養育・教育費も全てこの大物から支払われていたのだ。 

クリフトファーはついに母親との再会を果たすのだが、すでに記憶を失った状態の母が自分の息子と分かったかどうか定かではない。 しかし彼は知るのである。 母がどれほど自分を愛していたかを・・・。 僕にとってイシグロとの出会いは「日の名残り」で、映画を観てから本を読んだ。 プロフィールを簡単に紹介すると1954年長崎で生まれ、5歳のとき海洋学者の父がイギリス政府に招かれたのに伴い渡英し、以後イギリスに在住しイギリス国籍を取得。 ケント大学英文学科、イースト・アングリア大学大学院創作学科を卒業、1989年英連邦最高の文学賞であるブッカー賞を受賞し、わずか35歳の若さで現代イギリスを代表する作家のひとりとなった。

「租界」とは清国(後の中華民国)内に行政自冶権や治外法権を持つ外国人居留地のことで、アヘン戦後の不平等条約により中国大陸各地の港湾地域に設けられた。 「上海租界」は上海市に置かれ、フランス・日本・イギリス・アメリカ・ニュージーランド・オーストラリア・デンマークが管理していた区域で、1842年~1943年まで実に101年にわたって続き、太平洋戦争終結によって姿を消した。 欧風建築が立ち並ぶ上海随一の観光エリアである「バンド地区」は、黄浦西海岸通りに沿った全長1・1kmの旧祖界地区で、ここに「ぼくたちが孤児だったころ」の中で度々登場する「キャセイ・ホテル」(現在・和平飯店北楼)が在る。 世界的に有名な名門ホテルで、上海を訪れる大使や有名人の多くがゴシック建築のこのホテル滞在した。

チャールズ・チャップリンも1936年内縁の妻ポーレット・ゴダードと新婚旅行をかねた世界旅行の途中、キャセイ・ホテル5階A室に宿泊しているし、僕の知人で時おりブログにも登場する在日ドイツ人のT氏は、1942年(昭和17年)高校入学のため空路スイス・チューリッヒに向かう途中、やはりこのホテルに泊っている。 今もこのホテルで有名なのが1階のジャズバーで、平均年齢75歳のオールドジャズマン達が夜毎懐かしいジャズの名曲を聞かせてくれる。 ところで今ではノスタルジックさえ感じさせる死語になってしまった「租界」だが、考えてみれば欧米などの列強が何かと「なぐせ」をつけて居座り、半植民地支配の拠点とした反面、インフラ整備や近代文明を導入した一面もある。 そして今や中国は世界の列強を脅かす存在、時代の流れは分からないものだ。     

 


「パリは燃えているか」 ドイツ占領下で戦勝国となったフランス

2012年02月15日 | 戦争
前から観たいと思っていた1966年公開のアメリカ・フランス合作映画、「パリは燃えているか」をオークションでやっと入手した。 この作品は第2次世界大戦末期におけるドイツ占領下のパリを舞台に、「パリを救った人物」として歴史に名を残したドイツ軍・パリ都市圏防衛司令官「ディートリヒ・フォン・コルティッツ大将」の思惑と動きを追いながら、パリ開放に向けて活躍したレジスタンスと連合軍の駆け引きなどを、ほぼ史実に基いて映画化したもの。 パリ開放の前哨戦となったフランス・ノルマンディー上陸作戦を描いたアメリカ映画「史上最大の作戦」と同様、各国のトップスターが総出演する3時間に及ぶモノクロの大作。

タイトルの「パリは燃えているか?」は、総統大本営で会議中のヒトラーがパリ陥落を知り、傍らのヨードル元帥に問いかけた台詞。 ドイツのフランス占領から4年、ノルマンディーに上陸した連合軍はパリを目指して進行しており、激しさを増すレジスタンスの抵抗でパリを守備するドイツ軍は、日ごとに追い詰められていた。 そんなさ中、コルティッツはパリ占領司令官の辞令を受けるべくヒトラー総統の元へ向かう。 前任者はヒトラー暗殺にかかわったとして解任されていた。 直々に面接した総統はヒステリックに命ずる。 「連合軍の侵攻と同時にパリを破壊し焼き払え!エッフェル塔もノートルダムもルーブルも、決して敵に渡してはならぬ。」

ところで1945年9月2日東京湾上の米・戦艦ミズリー号で行われた日本の降伏調印式で、ドイツの占領下にあったフランスが、なぜ戦勝国の一員としてセレモニーに参列しているのか?、僕は少なからず疑問を感じたものだ。 1940年ナチス・ドイツの侵攻でフランスは敗北する。 ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となり、独仏休戦協定が締結された。 レノーやベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためカサブランカに逃亡しようとしたが、身柄を拘束される。 一方レノー政権の国防次官でペタンの部下であったシャルル、ドゴール准将はロンドンに亡命、「自由フランス」(FFI)を結成し、ロンドン・BBC放送を通じて対独徹底抗戦とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかける。

1944年7月、自由フランス軍司令官ドゴールは焦っていた。 パリ開放が近いことを察知したレジスタンスの動きが活発となる中、FFI と共産党系レジスタンスとが勢力争いを始めている。 もし共産党系が勢力を握ってパリ開放の英雄になれば、フランスは共産国になってしまう。 また連合軍総司令官アイゼンハワーはパリを無視することにきめている。 もしパリを開放したら大量の物資を回さなければならないし、進軍スピードも落ちてドイツ到着が遅れるからだ。 さらにアメリカ第3軍パットン将軍もパリは眼中にない、彼は一刻も早くドイツを陥落させたいだけ。 こうした複雑な状況下ドゴールは腹を決める。 連合国軍として戦っている自由フランス第2装甲師団を引き抜き、単独でもパリ開放に向かわせると脅し、これが功を奏する。

ドイツ総司令部から発せられるパリ爆破命令は、コルティッツ司令官の胸三寸だったが彼は実行しなかった。 「ヒトラーはなぜパリを破壊するのだ?」スエーデン領事・ノルドリンクの問いにコルティッツは答える、「彼は正気ではないのだ」。 8月25日パリは開放された。 ドゴールは自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ大通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びる。 この時点でフランスは戦勝国としての存在を世界に印象ずけたのだ。 コルティッツは1947年4月釈放され、1966年長年患っていた肺気腫のため死去、72歳。 葬儀にはドイツ連邦軍とフランスの将校が参列し、花束を供えた。 



          


「ギムリー・グライダー」 エア・カナダ143便を救った「ラムエア・タービン」

2012年02月10日 | 航空機
「ギムリー・グライダー」とは、民間航空史に残る極めて稀有な事故を起こした旅客機の通称。 1983年7月23日、エア・カナダ143便(ボーイング767-200・乗客乗員69名)はケベック州・モントリオールから、オタワ経由でアルバータ州・エドモントンへ向けて飛行中、高度41000フィート(約12000m)上空で燃料切れを起こした。 エンジン停止後はまさにグライダーの如く滑空し、マニトバ州ギムリーにあったカナダ空軍基地の滑走路跡に無事着陸した。 燃料の量を計測する機器の故障や、ヤード・ポンド法とメートル法の混同によるヒューマンエラーが事故の主因。

B767ー200は1981年に就航した中型双発旅客機、グラスコックピットを装備した「ハイテク機」と呼ばれ、自動着陸を含むオートパイロット機能を持つ。 当機の給油は「燃料搭載情報システム」(FQIS)を使用して行うが、事故当時のFQISは異常を示しており、タンク内の燃料量は燃料計測棒による直接測定を行っている。 事故の直接の原因となる過失はモントリオールからエドモントンまでのフライトに必要な給油量の計算時に起こった。 当時のエア・カナダではヤード・ポンド法からメートル法への移行中で、しかも事故機がメートル法を用いる最初の機体であったことが事故の背景にある。

必要な燃料量のを算出するまでは正しかったが、モントリオールでの燃料残量をリットルからキログラムに換算する際、誤ってリットルとポンドの換算係数を使用してしまった。 その結果として22300kg必要な燃料が実際には10115kgしか搭載されず、到底足りる量ではなかったが、給油後事故機の航法装置には燃料搭裁量として22300kgがインプットされてしまった。 経由地のオタワを発ってオンタリオ州・レッドレーク上空を飛行中、コクピットの警報装置が4回警告音を発し、間もなく2回目の燃料圧力警告が鳴ったため、機長はカナダマニトバ州・ウィニペグの空港へのダイバード(目的地変更)を決断する。

しかしそれから数秒後に左エンジンが停止、続いて右エンジンも長い警告音を発して停止し、コクピットは一瞬の静寂に包まれるが、この時点での高度は28000フィート(8534m)でかなり降下していた。 全エンジンの停止は多くの計器、通信機器、操縦に必要な油圧システムなどが止まり操縦不能になることを意味し、さらにAPU(補助動力源)も燃料がなくては動かせない。 そこで登場したのが「ラムエア・タービン」、これは大型の航空機に装備される風車型の非常用動力源で、全エンジンとAPUが停止すると自動的に機外に飛び出し、機体に当たる気流で風車を回転させ油圧ポンプと発電機を稼動させるなど、飛行に必要な最低限の動力を供給する装置。 これが69名の生命を救うことになる。 

ピアソン機長は最良の効率が得られる220ノット(407km/h)で機体を滑空させ、副操縦士クインタルがウイニべグまで到達できるかどうかを試算したが、辿り着ける可能性はゼロであることがはっきりする。 そこで彼は以前に勤務したことのあるカナダ空軍のギムリー基地に着陸するしかないと判断し、機長の了解を得る。 やがて滑走路が視界に入ってきたが高度がかなり高すぎる、機長は空気抵抗を増し高度を下げるため、小型機で行うフォワードスリップ(機体を斜めにして降下する方法)の手法を使って、何とか着陸に成功する。 前輪が固定されてなかったため、前傾姿勢での胴体着陸となリ軽傷者が出たものの、61名全員が助かる。 それにしても近代技術の粋を集めたハイテク機が、昔ながらの風車式動力装置に救われたところに、何か教訓めいたものを感じてしまう事故。    


南洋開拓者「玉置半右衛門」と、鳥島&南大東島 (2)

2012年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム
1893年(明治26年)、当時鳥島には200人を越す労務者が従事していたが、島の一角に「玉置村」を設置し、「15年以上鳥島に定住し開拓事業に従事したものには500坪の土地を無償で与える」という口約束をしている。 しかし1902年(明治35年)鳥島は突如大爆発を起こし島に居た労務者125名全員が死亡、しかし半右衛門門一家は9年前にアホウドリの捕獲を島の責任者に任せ、東京に引き上げていて無事、 悪運が強いとしか言いようがない。 これで鳥島における半右衛門の事業は幕を下ろすが、15年間に殺戮したアホウドリの数は推定実に500万羽におよび、当然のことながら、鳥島における彼の事業はまったく評価されることなく現在に至っている。 

大乱獲と噴火の結果、鳥島のアホウドリは絶滅したと思われていたが、昭和7年(1932年)の調査で僅かに50羽程度の生息が確認され、また2008年には推定2000羽まで繁殖が進んでいる。 しかし将来の噴火を考慮し、鳥島から南東に360km離れた小笠原諸島の聟島(むこじま)列島に少数の幼鳥を空輸し、移住・繁殖を進めているが、かってアホウドリが生息してた島々なので期待できそう。 鳥島での事業が軌道に乗っていた頃、半右衛門が次に眼をつけたのは「南大東島」。 沖縄本島の約400km東方に位置する大東諸島の島で、面積31平方kmサンゴ礁が隆起してできた周囲が断崖絶壁の孤島。 20世紀になるまで漂着者が着くだけの未開拓の地だったため、独自の生態系を保っていた。

僕がこの島を訪れたのは1500mの滑走路を備えた新空港が完成した1997年。 ここでの半右衛門は大東島諸島開発の偉人・英雄として銅像や記念碑まで建てられており、碑の側面には明治の地理学者・文化人の志賀重昂の文章で、「明治の一偉男子」と賞賛している。 しかし一方で鳥島の土地譲渡と同じく、この島の入植者にも同じ口約束が交わされていたという話も聞いた。 30年間開拓に従事すれば土地を無償で与えるという約束で、入植者にしてみればこの約束があったからこそ自作農の夢を見て、八丈島から1000キロも離れた無人島に入植する決心をしたのではないか・・・・この約束は結局反古にされ、口約束の有無が後にこの島をめぐる大きな問題へと発展していく。

南北大東島の貸与が許可されたのは1899年で半右衛門60歳、大実業家となった今、自ら開拓の指揮を執ることはなく入植者の乗った船を八丈で見送っただけで、事業は信頼する船長に任せる。 島の開墾作業は雑木や雑草を切り倒し、枯れた頃に焼くという焼畑農業で進められ、野菜やイモ類、綿や麦など何十種もの試作を重ねた結果、サトウキビが最も有望であることがわかり、島の主要産業に発展していく。 1902年頃になると島の事業も軌道に乗り道路や港の整備、今も島の観光名物となっている軽便鉄道(シュガートレイン)によるサトウキビ運搬も始められた。 また個人に土地が貸し与えられたが、島民が待ち望む譲渡ではなく小作人としてであり、作物の代金や賃金は玉置商会が発行する「玉置紙幣」で支払われたが、これは密出島を防ぐため。

1910年(明治43年)玉置半右衛門73歳で死去、創業者が亡くなると3人の息子達の出来が悪いこともあり、玉置王国は数奇な運命に翻弄される。 彼が死んで僅か6年後の1916年(大正5年)玉置商会は経営難から東洋精糖に事業売却、この時点で島の人口は3500人を超えている。 昭和に入ると東洋精糖が合併で大日本精糖に移り1945年(昭和20年)終戦。 そして1946年(昭和21年)一企業が支配する類い稀なる制度が、村制の施行により「東大東村」が生まれることで大きく変わる。 そして大日本精糖は本土に引き上げ、地元によって大東糖業社を設立される。 しかし土地は大日本製糖の所有のままで、島民との口約束は通用せず裁判にまで発展したが、それを解決したのはキャラウエイ高等弁務官の英断。 1964年(昭和39年)7月30日、農地や土地は無償で島民に譲渡される。 入植から64年、南大東島にとってこの日は歴史的な日となった。