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春が来た

山口果林著「安部公房とわたし」 伏せられてきた「前立腺がん」

2013年08月18日 | 健康・病気
[現代文学を代表する作家と女優の、28年に及ぶ不倫の告白」 それだけではこの本を発売日に買ってまでは読まなかったと思う。 死去した作家の強い意志で、慎重に封印されてきた「前立腺がんとの闘病生活」を、死後20年を経て初めて明らかにした事実が、今もこの病気と長く関わり続けている僕の関心を刺激したのが理由。 作家が聖路加病院に検査入院したのは1987年11月。 病状が進んでいることは、泌尿器科医に整形外科医も加わった事から容易に想像できる。 この癌はまず骨に転移するからだ。

作家の癌は第4期で、リンパ節を越え頭蓋骨、大腿骨までも転移していた。 この段階になると摘出手術も放射線治療もやらず、癌を増殖させる男性ホルモンをブロックするホルモン療法で経過観察となる。 しかしこの治療はいわば薬物による去勢に等しく、男性機能を著しく減退させる。 その覚悟をして欲しいと告げられ作家は、「別れたほうが良いかもしれない」と女優に言う。 50歳半ばでこの治療を拒絶した僕の知人が居たが、理由は再婚した奥さんがあまりに若かったから。

二人は率直に話し合った末に治療を受け入れ、関係を続けることで互いに納得する。 23歳年下の女優はこの時45歳、作家の心境が痛いほどよく分かる。 「治療は安部公房の筋肉を奪っていった。 身体は丸くなり、体毛は減り、硬かった髪の毛も柔らかくなった。 反比例するように、意識の中では性的な関心がどんどん膨らんでいくと話していた」。  1988年9月睾丸摘出手術。 ホルモン療法の効果を上げるためと女優は書いているが、実際は予想以上に「耐性」の生じるのが早く、薬の効きが鈍ってきたため、最後の手段として本物の去勢に踏み切ったと思われる。 

残酷な感じはするが、ホルモン療法が普及する前は、日常的に行われていた治療法。 摘出手術の1年後、放射線治療を受けているが、これは骨へ転移した癌の痛みを和らげるための処置かと思われる。 ともかく作家は治療開始から6年間を生き続けたが、女優が気になることを記している。 「裁判に訴えようよ!のちに私は安部公房に言った。 東大医学部時代の友人の診断で、前立腺がんが判明していたらと残念でならない」。 これがいつの時点なのか不明だが、せめて転移一歩手前の第三期で発見できてれば、二人の人生も変わっていただろうし、作家はノーベル賞を受賞してたかもしれない。

「退院後も安部公房は定期的に東海大病院に通う。 私は何度も同行した。 しかし病状について一度も説明を受ける機会はなかった。 これが籍を入れていない関係の本質なのだ」 「安部公房が亡くなって以来、遺族から一切、連絡は入らなかった。 蚊帳の外に置かれ、まるで私が存在していなかったような世間の空気だった。 この間、安部公房の人生から消された『山口果林』は、ひとり生き続けた」 「あれから長い時間が経つ。 自分の人生を振り返る機会をいただいた。 飾らず、素直にと、肝に銘じて綴りました」  ・・・・・・ この本がたくさん売れて欲しいと思った。