カキぴー

春が来た

懐かしの「南回り欧州線」と、「ナイル」の旅」(1)

2011年04月30日 | 旅行記
1988年7月、僕は3人の友人と日航473便・南回りヨーロッパ線で、エジプト・カイロに旅発った。 機種はDC-10-40、経由地はタイ・バンコック、アラブ首長国連邦・アブダビ、クエートで、18時間半のフライトでクルーは3回交代した。 日本航空は1980年代の後半まで、石油会社や商社、建設会社関係者などの往来のため、主要産油国を経由した「南回りヨーロッパ線」を運行している。 しかしこのルートは飛行距離や飛行時間が長く、乗客から不評だっただけでなく、パイロットやキャビン・アテンダントなどの乗員管理が難しいという問題もあった。

元日航国際線チーフ客室乗務員で、横浜エアライン学院長、講師として活躍中の「田村淑子」氏がブログに書いている。 「私が現役乗務員だった頃の一番長いフライトは、南回りヨーロッパ線。 成田を発ち、バンコック、ニューデリー、アブダビ、カラチ、アテネを通ってローマやロンドンへ。 帰りもほぼ同じルートを、今度は反対に辿って戻ってきます。 その期間は最長のもので17日間、乗務に次ぐ乗務を繰り返すというかなりハードなフライトでした」。

さらに中東戦争や印パ戦争などの政情不安、加えて特異な気象条件と寄航先空港の不備などが、かねてから問題になっていた。 実際に1972年発生した「日航ニューデリー墜落事故」では、搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡したが、この事故原因が空港の不正確な「着陸誘導装置」(ILS)に起因するもでははないかと推測されている。 我々のフライトではトランジェットの度に手荷物検査が厳しく行われ、頭上の手荷物格納扉をすべて開けてくまなく点検するなど、ほとほと嫌気がさし帰路の便はモスクワ経由に変更して帰国している。 

とは言え2001年に実施した小型機による[AOPA-JAPAN・世界一周フライト」では、地中海からエジプト・ルクソールを経て中東に入り、この南回りルートで帰国しているので、今になってみるとこの路線には郷愁のようなものさえ感ずる。 その後、1991年に湾岸戦争が勃発し、さらに1997年11月17日エジプト・ルクソール・「王家の谷」近くの「ハトシェプト女王葬祭殿」の前で、イスラム原理主義テロ集団による観光客襲撃事件があり、日本人10名を含む61人の観光客が殺害される痛ましい惨事が起きる。 そんなことから南回りヨーロッパ線は次第に敬遠され、主流から外れていった。

エジプト・カイロ国際空港は、ヨハネスブルグ国際空港に次いでアフリカで2番目に乗降客の多い空港。 僕たちを出迎えてくれたのはJTB推薦の女性ガイドMさん。 20台後半?で素人っぽい印象だったが、その後ナイル沿いに訪れた多くの観光地では、彼女の持つ広いネットワークと巧みなアラビア語によっていつも特別待遇を受けることができた。 さらに男性だけのディナーに引け目を感ずる我々にとって彼女は欠かせない存在となり、旅行中はガイドとしてではなくメンバーの1人として、互いに楽しい旅をエンジョイすることができた。


「憂いを含んで、ほのかに甘く」

2011年04月25日 | 小説
ニューヨーク・マンハッタンにオフイスを構える法律事務所のジュニア・パートナーである私に、女性秘書が告げた。 「ミスター・ロイヤルお電話です、ミス・ハントとおっしゃる方・・・」 私は一瞬ためらって危険を測った。 「お忙しいからと言いましょうか?」 「・・・いや、電話に出よう」 2年ぶりにキャロルの声を聞いた。 「わたし、今日の午後3時半の列車で故郷のサンフランシスコに帰るの、お会いすべきか何週間も悩んだけど、貴方にどうしてもお話しておきたくて・・・」。 お昼を食べようと言ったが彼女の都合がつかず、汽車がペンシルヴァニア・ステーシヨンから出るので、道を隔てたところにあるスタットラー・ホテルのバーで、2時半に会うことにした。

私がキャロルに逢ったのは、ニューヨークに来て間もなく参加した演劇関係のカクテル・パーティーで、彼女自身まだ大きな役についたことがなかったので、名前も知らなかった。 私は彼女を見て、これまでに逢った女の中でいちばん美しいと思った。 一眼を引く容貌ではなかったが、清潔な春のように溌剌とした美しさに輝く小柄な金髪の娘だった。 それから私は毎晩のように彼女に会い、3ヵ月後、結婚を申し込んだ。

「一つ忘れないでいただきたいことがあるの、わたしが大女優になるつもりだということ」 「いいとも、それでもいい」。 彼女はわたしにキスをし、それから祝杯をあげるために酒場に行き、6月ごろ式を挙げることに決めた。 その頃には彼女が出る芝居も公演を終えてるはずだった。  3週間後、私は昼食をとるためオフイスを出たとき新聞を買った。 第一面にキャロルの写真が、サミュエル・ボレンセンという男の写真の隣に載っていた。

男がその朝の4時半に、ボストンのホテルのキャロルのベッドで死んでいるのが発見されたのだ。 ボレンセンは国際的な著名人だったが、私は会ったことがないし、キャロルが彼を知っていることも知らなかった。 私はすぐホテルに電話を入れた。 「キャロル、ピーターだよ、君は僕に来てもらいたいか?」 「いいえ」 「弁解することは?」 「ないわ」 「それじゃ」 私は言った。「さようなら」 「さようなら、ピーター」。   彼女はこの事件がきっかけに同情を集め、演技力もつき大女優になるかに見えた・・・しかし不思議に成功しなかったのである。

キャロルは2時半きっかりに入ってきた。 「こんなことになって気の毒だと思うよ」 「貴方の肩にすがって泣くために来たんじゃないの」。 彼女はあの夜、共演相手の大女優アイリーン・マンシングと同じホテルに泊まり、実はアイリーンの部屋で男は死んだのだ。 キャロルは賭けてみる決心をする、「夜が明ける前に死体をわたしの部屋へ運んだほうがいいわ」。  「なぜ最後になって僕に話してくれたのかな」 「私たちはたぶんもう二度と会えないでしょう。 だから、わたしは、あなたを裏切らなかったことを解っていただきたかったの。 あなたにいい印象を残してお別れしたかったの」。  夏樹静子著「Wの悲劇」は、このアーウイン・ショーの短編 「憂いを含んで、ほのかに甘く」の、肝心な部分に酷似しており、僕の好きな短編だけに残念でならない。    


「アーウィン・ショー」 を携えながら・・・

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
「麗しのサブリナ」のヒロイン、サブリナが尊敬する父親は「本が読める」という理由でお抱え運転手になった人。 僕の場合は「待ち時間」が長くても、本があれば苦にならないタイプ。 大震災から1ヶ月が経とうとする4月の初め、冬タイヤを換えるため、カー用品の店へ行くときも、ショーの名作「ピザンチウムの夜」を持参した。 混雑を避けて昨年より遅くきたつもりだったが、冬が長かった所為か待ち時間は1時間、料金を払い携帯の番号を教えてから近くのファミレスへ、ランチに出かけた。

かってジャズ・スタンダードナンバーの曲を店名にしていたそのレストランは、そこそこ賑わっている。 幼児連れの女性客が数の上でも、声の大きさでも圧倒的な存在感を示し、常連らしきビジネスマン・グループの横柄さが若干気になる。 僕のように一人で訪れた年配客は、場違いな感じを恥ながら片隅のシングル席に座る。 笑顔を絶やさず、されど応対は極めてビジネスライクなウエイトレスに、小振りのステーキとフランスパンをオーダーし、セルフ・サーヴィスのスープを取ってくる。 外食で肉料理が食べたくなるのは、家で滅多に口にできないから。

美味くも不味くもないランチメニューを、若干紫煙の漂う禁煙席で食べ終わり、お冷を飲みながら読みかけの本を開く。 原題名 「Evening in Byzantium」は800枚を超える長編で、Byzantiumは言うまでもなく、かって東ローマ帝国の都でのちのコンスタンティノーブル現在のイスタンブール。 Eveningは日没、たそがれ、つまりさしもの栄華を誇った一大帝国の衰退期を意味し、同時に人生の晩年にさしかかった主人公の劇作家「クレイグ」の心境、そしてまた彼の最後の残照を表現している。

この本の最後のほうに懐かしいページがある。 カンヌ映画祭への出席を終えてニューヨークへ帰るクレイグが、見送りにきた若い女性の映画ジャーナリスト「ゲイル」と、シャンパンをボトルでとって別れを惜しむところが、「ニース・コートダジュール国際空港」のテラス・レストラン。 実は僕も2001年の夏、同じ場所に座って、33年前に訪れたときの記憶を辿りながら、よく冷えたキール・ロワイヤルを飲んだことがあるのだ。 小型機で世界一周をしたときのことだ。 「二人は滑走路の彼方の青い海を眺めながら、シャンパンを呑んだ。 2本マストの帆船が帆をいっぱいにふくらませて、泡立つ波の上で船首をイタリアの方角に向けていた」。

タイヤ交換の現場に戻り順番を確認するとまもなく作業にかかるところ、自販機の暖かいミルク・ココアを飲みながら本を開く。 「ショーの長編小説のベスト」 と言われるこの本が出版されたのは、1973年でショーが60歳のとき。 「男というのはこうやって生きていくんだ。 あるいは男いうのはこうやって死んでいくんだ」、みたいなところが鮮やかに描かれている。 「男女は平等と言われるが、ショーの作品には女が真似したくてもできない男の姿を見ることができる」 と訳者の小泉喜美子氏が、あとがきで書いている。 彼は1984年、僕が患ったと同じ前立腺癌のためスイス・ダヴォスの病院で死去。 71歳。      











   


「DCー10」を、空母に着艦させる話。

2011年04月15日 | 乗り物
快晴のサンフランシスコ国際空港滑走路28-Lから、センチュリー航空101便・DC-10-30型機が離陸し、1万1000キロ離れた北京へ向かった。 この機は中国本土直行の第1便で、アメリカ副大統領夫妻をはじめ国務長官、中国駐在大使、センチュリー航空社長など多くのVIPや政府関係者、報道関係者、警備要員などの乗る特別フライトで、11時間に及ぶ飛行に備え、フライトエンジニアを含む4人のパイロットが乗務している。 他にセンチュリー航空を引退したばかりの名パイロット「ダンカン・マニング」が、合衆国大統領の特別招待客として搭乗していた。

東京国際空港との中間に設定する 「ポイント・オブ・ノーリターン」(最終引返し点)を通過して間もなく、過熱気味だった第3エンジンが砕け散った・・・すざまじく、完璧に。  多くの金属片が翼の下側や機体に突き刺ささり、第3エンジンの燃料残量計のデジタル表示がみるみる200ポンド下がっていった。 コクピットではパイロットが瞬間的に酸素マスクをつけ、毎分1000フィートで機を降下させ始めた。 応援のためコクピットに駆けつけたマニングが訊ねる、 「左右の燃料バランスの限界はフライトマニュアルで幾らだ?」 「・・4000ポンド・・」 計器は重量差限界の7000ポンドを指しており、すぐに燃料投棄を指示した。 

ざっと計算して飛べるのはあと2時間、アリューシャン列島の米軍基地は雪で閉鎖、ミッドウェーまで1105マイルは遠すぎる。 残るはカムチャッカ半島の先端にあるコジルクフスコエだ、そこはソ連領だが・・・」。  「その飛行機をソ連へ着陸させてはいかん!」 緊急連絡で晩餐会から呼び出された合衆国大統領は命じる。 打ち明けられない重大な理由があったのだ。 苦渋の判断で101便を不時着水させることが決まり、ミッドウエーの北で演習中の米空母艦隊10隻を、着水区域に向かわせる。 

大統領はマニングを呼び出して訊ねる 「空母ヴァリアントは一昨年完成した世界最大の原子力空母だ、DC-10はその空母に降りられないだろうか?」。 マニングは情報を集めて計算する。 ストール・スピードは余裕を見て110ノット、空母は45ノットで風上に向かっている。 風速は15ノット、つまり機は50ノットのスピードで着艦できる。 着艦に使う斜め甲板の長さは800フィート、幅の方はかなり厳しいが273フィート・・・「降りられるんだ!」。  

マニングはらくらくと飛ばした。 いい感じだ!320度から風速18ノット、ギア・ダウンしフラップを下げると進入角度表示電波をキャッチした計器バーがゆっくり下がった。 フラップを最大の50度にし、グライド・スコープに乗せ続けるためパワーを少し入れる、スピード115ノット、機体は飛行と失速とのきわどい狭間にある。 高度50フィート、30,20・・ 車輪が金属製の甲板を激しく叩き4本のタイヤが破裂した。 間髪を入れずブレーキを踏むとウイングスポイラーが自動で開き、滑走制止用ネットをかぶった全長182フィート、翼幅165フィートの巨体が、甲板の先端から28フィート手前で停止した・・・。  このストリーは現職ライン・パイロット 「オースチィン・ファーガンス」の小説 「101便 着艦せよ」。 プロットのたて方に難はあるものの、緊迫した流れはそれを忘れさせ、充分に楽しませてくれる。 



 


故「リズ・ティラー」の男運と、「雨の朝パリに死す」

2011年04月10日 | 映画・小説
世界の災害史に残るであろう 「東日本大震災」から12日を過ぎた3月23日、映画史に名を残す大女優 「エリザベス・テイラー」(愛称リズ)が79歳の生涯を終えた。  これまで彼女に関するコメントは出尽くした感があるので、僕は8回の結婚暦を通して、リズの「男運」を切り口に一言申してみたい。 リズの初婚は18歳で、相手はホテル王の御曹司「コンラッド・ヒルトン・ジュニア」 しかしこの華やかな組み合わせは、夫の酒癖と暴力が原因で僅か8ヶ月で破局を迎える。 そして最後の相手は土木作業員の「ラリー・フォーテンスキー」。

リズがアルコール依存症で入院中に知り合い、親友「マイケル・ジャクソン」の邸宅で豪勢な式を挙げるが、5年後に離婚、このときリズ64歳。 これで彼女の男性遍歴も終止符と思いきや、それから10年後、ハワイで知り合ったアフリカ系アメリカ人ビジネスマンと交際を始め、9回目の結婚成るかと話題をまいたが、既に体はボロボロで車椅子の身、最後の夢は叶わなかった。 しからばリズが最も愛した男性は?・・・・2児を授かった「マイケル・ワイルディング」ではなく、やはり2度も結婚した「リチャード・バートン」が本命だったようで、彼から最後に届いた1通の手紙を抱いて墓に入った。

「男運」と気張らずとも 「人生の幸せ」をキーワードに考えたとき、リズとの比較対象になるかどうかは別にして、僕は故「高峰秀子」の生き方に惹かれる・・・というよりデコちゃんの聡明さに共感を覚える。 女優としての絶頂期、彼女に関心を示す巨匠「黒澤明」などを外し、ほとんど無名の映画監督を伴侶に選び、惜しげもなく「普通の女」に戻って幸せな一生を終えたからだ。 とは言え人それぞれに考え方は異なるので多くを語るのは控えるが、「美人薄命」なる格言を広義に解釈すると、リズ・ティラーにも当てはまるような気がしてならない。

さて数多い彼女の出演映画から好きなものを選ぶ作業は、選ぶ人の全人格的なものまで憶測されかねないので難しい。 しかし敢えて1本選ぶとしたら、他人と同じものを避けたい気持ちも含めて、1955年公開の「雨の朝パリに死す」を挙げたい。 僕はこの映画の「タイトルに惹かれ」17歳のとき映画館に出向いたが、当時22歳で主役のリズは、透き通るように美しかった。 原題は 「The Last Time I Saw Paris」 (私がパリを見た最後)、「もし直訳してたら僕はこの映画と縁が無かった」 と思うぐらいによくできた邦題。  尚、サウンド・トラックで映画の随所に流れる「ジェローム・カーン」の曲(原題と同名)がいい。

原作は「F・スコット・フィッツジェラルド」が1925年に書き上げた短編 「バビロンに帰る」をモチーフとして、「リチャード・ブルックス」が監督した。 酒浸りで落ち目の作家と自由奔放ゆえに哀しく美しい妻、浮気を思い止まって朝帰りするがドアが開かない、酔ってドアチェーンをかけ階段で寝込ん夫を、雨に濡れながら必死に呼ぶが届かない。 諦めて再び冷たい雨の中へ・・・これがもとで亡くなる妻、この夫婦のモデルがスコットと妻の「ゼルダ」。 「悟るのが遅すぎた悲劇」をリズが演じた。   








  

 


砂漠戦の「ロンメル」と 「コンドル作戦」 

2011年04月05日 | 戦争
第二次世界大戦の数ある著名な戦闘の中で北アフリカにおける砂漠戦は、悲劇の将軍「エルウィン・ロンメル」と,彼の率いるドイツ・アフリカ軍団の勇名を世界的に高めたことで知られる。 さらに戦場における彼の人道的騎士道精神は、敵国イギリスの「ウィンストン・チャーチル」をして「ロンメルは聖者だ!」 と言わしめている。 ペットとして狐を飼っていたことから後に「砂漠の狐」と仇名されるロンメルは、1941年2月リビアのトリポリに第一歩を印す。

戦況はトリポリタニア(首都トリポリを含む地域)のイタリア軍部隊が、イギリス軍機械科部隊よって地中海に突き落とされる寸前。 ロンメルは戦車連隊の到着とともに反撃し、ヒトラー総督とベルリン参謀の予想を裏切って、イギリス軍をベンガジの東へ押し戻してしまう。 さらに破竹の進撃を続け11月にはエジプト国境真近まで迫るが、ドイツ統師部は充分な兵力と物資の補給を渋り続け、これが砂漠戦の最後まで独伊枢軸軍の泣きどころとなる。

その頃ドイツ諜報機関トップのカナリア提督は、ドイツ軍将校エプラーをスパイとして、リビアのエルアゲイラから全行程3000キロの砂漠越えでエジプト・カイロへ潜入させる計画を立て、これを「コンドル作戦」とし、暗号名を「サラム」と名ずける。 そしてエプラーが暗号作成に使用した「コード・ブック」が、ダフネ・デュ・モーリアの名作「レベッカ」だった。 ナチスの粋なセンスはともかく、この事実を基にして小説に仕立てたのがイギリスの作家「ケン・フォレット」で、タイトルは「レベッカへの鍵」。

「正午、駱駝の最後の一頭がつぶれた。 キレナイカのジャロで買った5歳の白の雄で、3頭いたうちで一番若く、強くて、大人しいやつだった。 男は駱駝の鼻綱をぐいと引いたが駱駝は起き上がらない、脇腹を3回、4回と思いきり蹴飛ばしたがだめで、ついに先のとがった剃刀のように鋭い半月形のべドウイン・ナイフを駱駝の臀部に突き刺した。 傷口から血がほとばしり出たが、駱駝は振り向きもしなかった。 やってみる方法は二つある、鼻腔に駱駝が溺死しそうになるまで水を注ぎ込むのと、脇腹の下で火を焚くというやり方だ・・・・・・」

これは冒頭の書き出し部分だが、コンドル作戦は受信する側のドイツ軍無線車が連合軍に奪われ、結局失敗に帰し、ロンメルの命運もこの辺までで尽きる。 連合軍の物量作戦で守勢に追い込まれる中、ロンメル自身が病気悪化のため戦場から去らねばならなくなる。 そして1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件発生。 10月14日、この計画への関与を疑われた療養中のロンメルの自宅に、ヒトラーの使者として2人の将軍が訪れる。 「裁判を受けるか、名誉を守って自殺するか」の選択を迫られたロンメルは、暗殺への関与に一切弁明することなく服毒自殺を遂げる。 享年52歳