カキぴー

春が来た

集団自決 「マサダ」の悲劇とイスラエル

2010年11月29日 | 旅行記
 
死海を囲む山々の一つに 「マサダ」(ヘブライ語で要塞の意味)がある。 死海からの高さは400m、全周を断崖に囲まれた天然の要塞で、周りは緑の一葉も見えない赤茶けた荒野である。 ユダヤ戦争におけるユダヤ人の集団自決の場所として知られ、2001年ユネスコ世界遺産に登録された。 僕がここを訪れたのは1993年の7月、麓から見上げるその枯れた岩肌は、何者をも寄せ付けない威圧感で迫る。

この要塞は紀元前100年台 大祭司ヨナタンによって築かれ、後にユダヤ国王ヘロデにより改修・強化された。 兵士1万人分の武器、ワイン・脂・小麦粉・ナツメヤシ・木の実・オリーブ油・干し果物などの食料、5万立方m以上の貯水槽を備えていた。 水は年に2~3回やってくる砂漠の鉄砲水を上手く利用した。 マサだの西麓にある2つの乾いた川(ワデイ)にダムを築き、大量の水をせき止め、水路を通して斜面にくり抜かれた12個の洞窟に蓄えられた。 さらにこの水は奴隷や荷役獣によって、山頂の水槽へと運ばれた。

マサだは、BC4年のへロデの死ともに息子に引き継がれたが、間もなく彼の統治はローマの直接支配に取って代わられ、ローマ軍駐屯兵の守る前哨基地となる。 紀元66年ローマに対する公然のユダヤ大反乱が起こり、駐屯兵を降伏させマサダは武装ユダヤ人陣地となる。 紀元70年のエルサレム陥落後、マサダはエルサレム生き残りの人達によるユダヤ人最後の拠点となったのである。

マサダに籠城して3年の紀元73年、ユダヤ人たちは最後の戦いを迎える。 ローマ軍は27mもの攻城塔を西の壁側に運び上げ、破城槌によって城壁に穴を空け夜明けを待っての最終攻撃に備える。 自決を決断した指揮者ベン・ヤエルは、967人全員に呼びかける。 「高潔なる同志たちよ、我々はかってローマ人にも、また神以外のいかなるものにも仕えないと決心した。今こそ我々の決意を行動によって証明するときが来た・・・・」。 ユダヤ教では自ら命を絶つことは許されざる罪、兵士達はまず己の家族を殺し、次に籤で選ばれた10人の兵士が他の兵士を殺し、ベン・ヤイルがその10人を殺し、最後に自決する。 全ての罪を己一人が被ったのである。

ひっそりとしたマサダ山頂の夜明け、朝の静けさはイスラエル装甲部隊の新入兵士達によって破られる。 現代イスラエル国家への忠誠を誓っているのだ。 儀式は、「マサダは二度と落とさせない」という厳かな言葉で締めくくられる。 歴史の中で「キリスト殺し」の罪を背負いながら他教徒からの迫害を受け、第2次世界大戦ではホロコーストの悲劇を乗り越え、さらに4度にわたる中東戦争を勝ち抜き、現代までユダヤ人が滅びることはなかった。 虐げられてきた国民は本当に強い ことを実感しながら、その原点は「マサダ」に起因するように思えてならない。 



   


「日航446便」墜落事故 秘話

2010年11月24日 | 乗り物
昨年末、僕の著書 「前立腺がん 根治を諦めない人のために」 の出版記念パーティーでゲストスピーチをお願いしたのが、実は日航446便事故で生き残った、元スチュワーデスの畑中紀子さん。 彼女は現在、僕が顧問として籍を置くパイロットの世界組織、「AOPA」の日本支部「AOPA-JAPAN」の事務局長として活躍し、海外フライトなどのコーディネーターとして無くてはならない存在。 とくにお願いして「奇跡の生還」について語って頂けることになった次第。

日本航空446便 はデンマーク・コペンハーゲン発、モスクワ経由、東京国際空港行きで運行されされていた。 1972年11月28日午後7時51分(現地時間)、モスクワ・シェレメーチエヴォ国際空港を離陸したDCー8-62が、離陸直後100mほど上昇した時点で失速し、滑走路端から150mの雪原に墜落した。 交代要員を含むパイロット6名、客室乗務員7名、日航職員1名、乗客62名(内日本人52名)の合計76名中、62名が死亡した。 事故原因は副操縦士によるスポイラーの誤操作。

生存者は主に、機体前方のファーストクラスに着席していた客室乗務員5名、乗客9名(日本人8名)の計14名で、いずれも重傷を負った。 その中の1人が畑中紀子で、最後まで乗客の避難誘導をしたのち気を失ったが、幸い機外に運び出された直後に炎上してた機体が爆発した。 直ちにモスクワの病院に搬送され、しばらく応急処置で入院後、日本の病院で本格的な治療を受けて完治した。

さて記念パーティーの席で発起人代表の挨拶をして下さったのが、元宮内庁東宮大夫として皇太子殿下のお世話をされ、またオマーン、ルーマニア、アイルランドの大使を歴任した 「古川 清 氏」。 僕とはワインがご縁で知り合った長いお付き合いで、互いにフランス・ノルマンディー地方の林檎酒、カルヴァドスをこよなく愛する。 話は少し長くなるが、退屈はさせないからと前置きした上で語り始めたのが、なんと446便事故に関わる秘話で、畑中さんもびっくり。

古河氏は当時 外務省ソ連課に在籍し、通産省の職員2名を案内してモスクワに出張し、446便で帰国の予定だった。 ところが出発前にロンドンに急用ができ直行、仕事を終えて日本に帰国直後、外務省に事故の一報が入り、氏が事故処理の責任者に任命される。 急遽白木の棺と遺族を特別機に乗せ、モスクワに向かったが、棺は荷物室に積みきれず、客室にまで溢れたという。 心配してた通産省の職員2名の内、幹部職員の1人は、日航が気を利かせてファーストクラスに席を取ったため助かった。 死亡者の中には僕の地元出身のビジネスマンも2名居り、そのうちの一人は高校の同学年。 パーティーから1年が過ぎ、年明けには古川氏、畑中さんとの3人で会食の計画をしている。


人間爆弾 「桜花」

2010年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
桜花は大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器。 機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が操縦して目標に体当たりさせる。 正規軍の正式兵器としては世界に類を見ない「有人誘導式ミサイル」で、その構想を聞いた設計担当者の中から「技術者としてこんなものは承服できない、恥です」という強硬な反対を押し切って実用化された。

1945年3月31日桜花実戦部隊として初出撃以来、合計10回にわたる攻撃の結果、桜花パイロット55名、その母機の搭乗員368名の死者に対して、桜花が与えた確実な戦果は、同年4月12日沖縄戦においてアメリカ海軍の駆逐艦マナート・L・エベールの撃沈1隻のみ。 あまりにも犠牲に見合わない戦果で終わった。 マナート・L・エベールに突入した桜花の搭乗員は、土肥三郎中尉22歳、そして最後に母機と桜花を切り離す「投下索」を引いたのが、菅野善次郎二飛曹(当時18歳)。

菅野氏は戦後福島県庁に勤務し、定年後私の経営していた会社に6年間席を置いてた人。 福島市の生まれで、福島商業から予科練に進み、攻撃708飛行隊で「一式陸上攻撃機」の乗組員として訓練を受けていたが、1944年9月「桜花特攻作戦攻撃隊」に配属され、宮崎基地で始めて「桜花」を見た。 その印象を「綺麗な灰色で頭部にピンクの桜が描かれていて、それがあざやかでしたね」と語る。

飛行隊長の足立次郎少佐から 「おまえ達は敵を発見したら、桜花を落として帰ってくればいいんだ」と言われたが、爆弾搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全備重量2・3トンの桜花は非常に重く、限界ギリギリの離陸可能重量。 最高速度も時速300kmがやっとで、時速600kmの迎撃戦闘機グラマンF6に捕捉されれば逃げ切れる可能性は極めて低く、死を覚悟した。 しかしグラマン編隊を避け、激しい対空砲火にさらされながらも、運よく桜花の航続距離37kmの投下範囲に入る。

土井中尉は飛行帽、救命胴衣を脱いでハチマキを締め直し、自決用のブローニング拳銃を菅野二飛曹に渡すと、「宮下中尉に俺の遺品だと言って渡してくれ」と言い残し、真下に吊り下げられた桜花に移乗した。 発信のブザーが鳴り、機長が投下用爆管のボタンを押したが作動せず、合図を受けた菅野二飛曹が投下索を引いた。 母機が急旋回して機体を立て直したとき、眼下には数百メートルまで黒煙が立ち昇り、周りの海面は西日に照らされた重油が黒く盛り上がって見えたと言う。 菅野氏に託した遺品のブローニングを受け取った宮下中尉は、2日後の14日桜花の搭乗員として出撃し、再び戻ることはなかった。


「緩和ケア」現状と考察

2010年11月14日 | 健康・病気
 中川恵一×養老孟司著 「自分を生ききる」 を読み、モルヒネあるいは類似薬物(オピオイド)を口から飲んで、末期癌の強烈な痛みを和らげるのが「緩和医療」の基本であることを知った。 モルヒネを注射すると中毒症状はあるが、口から飲むと血中濃度の変化が緩やかなので中毒症状は起こらない。 しかし日本では麻薬に対する警戒感、嫌悪感が非常に強く、痛みに耐えながら亡くなるのが現実。 だからこの国はモルヒネの使用量は極めて少ない、カナダ・オーストラリアの7分の1、アメリカ・フランスの4分の1と言う。

中川氏は東京大学医学部助教授で 専門は放射線医学、同大学付属病院緩和ケア診療部長を兼務する50歳。 「緩和ケアは医療の現場でさえ理解は不十分で、日本で一番遅れている分野」 と氏は指摘する。 現実に 「WHO式がん疼痛管理プログラム」 を知らない医師も多く存在するらしい。 因みにプログラムの要点を6つ記述すると、 ①昼夜にわたる除痛。 ②原則的に経口投与、もしくはチューブレスで行う。なるべく簡便な経路で投与するのが望ましい。 ③時刻を決める。冬痛効果が切れる1時間前に次回分を投与し、決して頓用(一時的に用いることで、規則的に使用しない)の指示をしない。 

④段階を踏む。鎮痛薬の選択はまず非オピオイド系の薬から始め、適切に増量しても十分な効果が得られない場合は、順次弱オピオイド系、強オピオイド系、モルヒネに切り替える。それでも効果が得られなければ神経ブロックなど薬以外の方法を考える。 ⑤個々に合わせる。疼痛に必要な適切量は患者によって異なるので、少量で投与開始し、効果に応じて暫時増量し痛みの消失に到達するようにする。またモルヒネの使用は予測される生存期間ではなく、疼痛の強さで決める。 ⑥副作用対策は前もって立てる。モルヒネの副作用として便秘がある。この便秘も終末患者では痛みを起こすので、予め下剤などを使用する。効果の見通しと予想される副作用に関しては、予め説明しておく。

昔観たアメリカ映画で題は忘れたが、主役の女性が 「私は末期癌だから麻薬が許される」 と語る場面を思い出す。 彼女が何をどう鎮痛に用いたか説明はないが、苦痛に耐えることなく人生の総仕上げを終え、安らかな最後を迎える。 そうした意味で考えると、癌は末期の激痛からさえ開放されれば、さほど悪い病気ではなく 「死ぬなら癌」というフアンが多いのもうなずける。 脳卒中や心臓病と比べてかなりの時間的余裕を与えてくれるからだ 

アヘンの歴史は古く、紀元前400年ころのギリシャでは、アヘンを痛みを和らげる医薬品として使うことを推奨している。 またヨーロッパではアルコール溶液(アヘンチンキ)が外傷用だけでなく手軽に飲める鎮痛剤として流行した。 お馴染みの軟膏薬タイガーバーム(万金油)も、昔はアヘン入りが売られており、痛み止めに良く効いたらしい。 さてモルヒネを飲むのとアヘンを喫煙するのとは、血中濃度が穏やかに変化する点で共通している。 もし叶うことなら僕の場合、タイのチェンマイあたりで美女に囲まれ、アヘンを吸いながら死を迎えるのも悪くないなと思っている。


「経済大国」の次に目指すもの

2010年11月09日 | 国際・政治
日本国民はいま、ある種の屈辱と苛立ちを感じているのではあるまいか? ひとつは経済大国として第2位の地位を中国に奪われることが確実になったこと、もうひとつは中国、ロシア2つの大国から領土問題で見くびられていることだ。 しかもこれららが同時進行してることで、不愉快な感情が増幅してきている。 まず後者においては日米関係を強化した上で、順序として粘り強い交渉、それで埒が明かなけれ第三者による仲介、そして最終的には国際司法裁判所において国際法にのっとった解決を、柔軟に且つ毅然として図らねばなるまい。  

前者について悲観することはない、当然のことながら国ごとに人口が違うので、各国の経済状況を比較するには通常のGDPではなく、「1人当りのGDP」で論ずるべきである。 因みに2010年4月の、IMF(国際通貨基金)発表の1人当りGDPリストによると、GDP世界第2位となる中国は世界第97位で、3678USドル(人口13億4571万人)。 一方GDPで3位に転落する日本は世界17位で、3万9731USドル(人口1億2716万人)。 但し為替レートベース。

そこで 「国民の幸福度世界第一位」にランキングされる北欧デンマークの数字を見てみると、1人当りのGDPは世界第5位で、5万6115USドル(人口551万1000人)。 北欧諸国のうち国土面積が日本より広いのはスエーデンだけ、デンマークは九州よりやや大きいくらい。 デンマークは優れた福祉国家として知られている。 充実した社会福祉を支えているのはきわめて高い税金。 世界でもトップレベルの高い課税水準にあり、個人収入の実に49・5%が所得税、また消費税は25%にも上る。 

第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦ではドイツ軍に占領された。 戦後「NATO」に、1973年には「EC」にも加盟し、後にNATOと対立したとはいえ「ノルデイックバランス」(北欧の均衡)を守り抜き、国連の非常任理事国も担当している。 平和維持活動にも積極的に参加しており、コソボ治安維持軍に380人、アフガニスタンに700人、海軍の最新鋭艦が海賊対策でソマリア沖に、イラク戦争では500人が戦後の復興活動に従事。 総兵力は少ないが、兵士の質の高さから国際社会からは非常に高い評価を受けている。

人口の差が大きいとはいえ、日本がデンマークから学ぶべきことは多い。 まず第一に 「自分たちの国をどんな国にしたいか」 この一点が明快であり、高福祉高負担に対する国民的コンセンサスがとれていること。 次に自国を守るため国際貢献に力を入れ、万が一他国からの侵略を受けても、国際世論を味方にできる素地を日頃から整えていること。 また教育と人材育成に力を入れ、競争力のある独自の産業育成に成功していること。 遅ればせながら我が国も今回の屈辱を機に、あらためて 「これからどんな国を目指すのか?」 これをまずはっきりさせ、国民の合意を図りながら、思い切った改革を進めるべきではないだろうか?。 それにつけても 「優れたリーダー」の出現が待たれてならない。 

 


サンセット大通り

2010年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦で日本が負けたのは1945年。 これを境にハリウッド映画がどっと押し寄せ、僕らの世代はそのすべてを見逃すまいと、トイレの匂いがこもる映画館でむさぼり観た。 その中で印象に残ったものの一つが、1951年に公開された 「サンセット大通り」。 サイレント・ムービー時代の栄光が忘れられない往年の大女優の妄想と執念が、悲劇の結果をもたらすフイルム・ルノアール。 この映画を僕は中学生のとき、夜10時から始まるナイトショーで観た。 

当時まだ中学生の少年がこの映画を理解するのは無理、それでも印象に残っているのは、小学校で同じクラスだった女の子とそのナイトショーでばったり出遭ったから。 彼女は病気をしたため一歳年上で、なぜか「それいゆ」などという年不相応な雑誌を読んでいた。 その夜は彼女が両親と一緒だったので言葉も交わさず、それから一度も逢うことはなかったが、互いにまだ子供の領域に居ながら、深夜に大人の難しい映画を観たという優越感・共有感みたいなものを抱いていた自分を、いま懐かしく想い出す。

さて作家の村上春樹氏が著書の中で、サンセット大通り をこんな風に紹介している。 「ビリー・ワイルダーの映画のタイトルでその名を知られるようになったサンセット大通りは、おそろしく距離の長い通りである。それはダウンタウン・ロスアンゼルスに端を発し・・・このあたりがハリウッド地区である。・・・ビヴァリイ・ヒルズ地区を横切り、最後はサンタモニカの海岸に出て、あたかもモルダウ河のごとく太平洋にそそぎこむ。なにしろ長い道路である」

さらに文章は続く、「1937年の7月、一人の作家がシナリオ・ライターとしてこのハリウッドの街にやってきた。彼は週給千ドルで六ヶ月の契約をMGMと結んでいた。悪くない条件である。悪くないどころか破格といってもいいくらいのものだ。MGMがそのような好条件を提示したのは、べつに彼の中にシナリオ・ライターとして素晴らしい資質を見出したという理由からではなく、また彼がその分野で輝かしい実績を残したという理由でもなかった。それどころかそれまでの二度にわたるハリウッド滞在で、彼の才能がシナリオ執筆にあまり向いているとはいいがたいことを証明したくらいなのである。おまけに最近はアルコール中毒気味で、本業の小説の評判もあまり芳しくない。それでもMGMは彼を雇った。なぜなら彼の名前が F・スコット・フィッツジェラルド だったからである」

スコットがが死んだのは1940年の12月21日で、愛人シーラ・グレアムのハリウッドのアパートメントで息を引き取った。 葬儀は簡素で短く、参列者もごくわずか、このさびしい葬儀は彼の代表作 「グレート・ギャツビー」 の埋葬シーンを彷彿とさせる。村上氏はこう書いている 「時の流れの不思議な作用によって 木が沈んで石が浮く ということが起こり得る、つまり一般的に重いと考えられていたのが風化してしまい、逆に軽いと考えられていたものがしっかりと残ってしまう。この現象はヘミングェイとフィッツジェラルドの作品の今日的意味を比較していただければ分かり易い」