カキぴー

春が来た

南洋開拓者「玉置半右衛門」と、鳥島&南大東島 (1)

2012年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
東京から南へ約600km離れ面積約45平方kmの「鳥島」、この島にはアホウドリがびっしり群生し、かって世界で唯一のアホウドリ生息地だった。 当時1000万羽以上居たとされるこの鳥を、10数年でほぼ絶滅寸前まで撲殺し続け、巨万の富を得た男が「玉置半右衛門」。 彼は1838年(天保9年)伊豆・八丈島で生を受ける。 江戸時代の八丈は流刑の島、6歳になると賭博の罪で島送りとなった大工の棟梁から大工の技術を学んでいる。 やがて開港前のブームに湧く横浜へ行き腕を磨くが、横浜の外国人居留地で仕事中、そこに運ばれてくる軽くて暖かい寝具が鳥の羽根でできた羽毛布団であることを知る。 半右衛門にとっては運命的な羽毛布団との出会い。

1861年(文久元年)徳川幕府は外国奉行水野築後守を父島に派遣、小笠原諸島が日本であることを宣言し欧米諸国もこれを認める。 幕府は領土確定のため八丈島から父島へ移住民を募った。 応募した者は夫婦15組、大工などの職人8名の計38名、この中に横浜の仕事を終え八丈島へ戻っていた半右衛門が居た。 翌年の夏、移住民が父島二見港に入港、大工の棟梁として父島に渡った半右衛門は24歳になっていた。 実はこの時に乗った船の船長が、あの有名なジョン万次郎(中浜万次郎)。 土佐の漁師だった万次郎は14歳のとき出漁中に遭難、無人島の鳥島に漂着しおよそ5ヶ月をこの島で過ごした後、アメリカの捕鯨船に救助されている。

この船で万次郎はアメリカへ渡り、帰国後日米和親条約の締結などに尽力したのち通訳や船長として活躍していた。 半右衛門はたぶん万次郎の漂流談を船中で聞いた筈。 鳥島というところは数えきれない程のアホウドリがおり、5ヶ月もの漂流生活を支えたのは、僅かな雨水とアホウドリの肉であったということを・・・そしてこのとき横浜で知った羽毛布団と、無数に存在するアホウドリとの接点に気ずいたところが半右衛門の凄いところ。 ジョン万次郎の先導で父島に入植した半右衛門たちだが、同年秋には幕府の命により住民全員の引き上げが通告される。 半右衛門は再び八丈島で大工を続けるが1868年(明治元年)倒幕、1876年明治政府より小笠原・父島再開発の命が下り、半右衛門も13年ぶり41歳で父島に向かうが、政府方針の食い違いで再び島を去る。 半右衛門41歳。

半右衛門は鳥島開拓の夢を諦めていない。 1887年(明治20年)彼は東京府に「鳥島拝借と寄港願い」を提出し、この時点で拝借は許可されなかったが、寄港だけは許される。 そしてたまたま南方に出る探検船の情報を得た彼は、それに便乗し帰りも東京まで送るという約束を取り付ける。 鳥島に上陸した半右衛門ら数名は仮小屋を作り島中を調査したが、困ったのはどこを掘っても熱湯が沸き出すだけで水がまったく出ないこと。 6日が過ぎ約束の船が寄港する日となったが船は来ない、これが「鳥島置き去り事件」。 東京で大騒ぎとなり、直ちに救助船が手配される。 一行が救助されたのは上陸後44日目、その間あらゆるところに井戸を掘り、ついに水源を発見している。

半右衛門は改めて「鳥島拝借願い」を提出するが、アホウドリのことは一言も触れず羊や牛の牧畜を行うと書いている。 東京府の役人は彼の野望を知る由もなく1881年(明治21年)、「10年にわたり鳥島を無料で貸しわたす」との許可が下り、半右衛門は家財道具一切を売り払い、妻と入植者53人をを連れて鳥島に渡る。 アホウドリは渡り鳥で毎年10月に飛来し、翌年4月に飛び去る。 入植した最初の半年で彼らは10万羽以上のアホウドリを撲殺し、羽根を羽毛布団の原料として輸出し、肉は缶詰めに、骨は肥料として内地に送った。 アホウドリが去った4月以降は糞を回収し肥料としている。 これらの事業により、東京で設立した「玉置商会は」は飛躍的に成長し、8年後長者番付に名を連ねるようにまでなる。


「鳥島」 漂流者の命を繋いだアホウドリ

2012年01月25日 | 食・レシピ
江戸時代(1603年~1868年)のいわゆる無人島時代には、多くの漂流船が「鳥島」に流れ着いている。 当時徳川幕府の鎖国政策で大型船の建造や外洋航海が禁じられていたため、諸外国と比べ日本の航海技術は著しく遅れていた。 海岸の地形や山並みを目視しながらの沿岸航海では、ひとたび天候が崩れ視界が悪くなれば航行不能となり、りシケで沈没すれば溺死、大洋に流されれば漂流の末餓死・病死のいずれかで死亡した。 たまたま外国船に救助され者は異国の地で暮らすか、運がよければ帰国できる者もいた。 しかし幕府は異国からの帰還者がキリスト教信者になっていることを警戒し、徹底した厳しい取調べを受けるため、異国に留まり生涯を終えた者も多かった。

鳥島は太平洋・伊豆諸島の南端に位置し江戸から南に約600km、八丈島の約300km南で、島の直径が約5km・周囲約7kmの火山島で、最高峰は硫黄山で394m。 島は記録に残るだけでも過去4回の噴火が確認されており、植物類は貧弱だがアホウドリの繁殖地として世界最大。 しかし噴火の影響と、羽毛採取・食肉の目的で明治20年(1887年)から昭和8年までに推定1000万羽が乱獲されたことから、捕獲が禁止された当時は50羽ほどまで激減し絶滅寸前だった。 鳥島を有名にしたのは、幕末の日本で日米和親条約締結に尽力した「ジョン万次郎(本名中浜万次郎)」で、彼は天保12年(1841年)漁師仲間4人と共に遭難、5日間の漂流を経て奇跡的に鳥島に漂着している。

彼らは143日間島で生活し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されているが、その命を繋いだのがアホウドリ。 実はそれから遡ること56年前の天明5年(1785年)、万次郎と同郷で土佐の運搬船で働く「長平」(野村長平)が他の乗組員4人と共に鳥島に漂着し、彼だけが実に12年間生き延び故郷に生還している。 島での生活体験は幕府役人の聞き取りによって詳しく記録されており、その情報は地元にも広く伝わっているので、おそらく万次郎たちはアホウドリが貴重な食料であり,その捕獲・保存・調理法を始め,島で生きていくための知識がかなり役立ったはず。 

作家・吉村昭」氏の著書「漂流」にその辺のところが詳しく記述されている。 長平たち4人の乗った三百石船は、10日以上も強風と激浪の荒れ狂う中で舵を壊され、帆柱を切り倒しながら沈没を免れ、10日以上も漂流して鳥島に流れ着く。 命は助かったものの食料や生活道具を船とともに失い、磯で拾った貝や海草を食べ空腹をしのぎながら人家を探しすが、やがて無人島と知って絶望する。 彼らはようやく崖の上によじ登ると思いがけぬ光景をみて立ちすくむ、今まで眼にしたことのない異様な鳥の大群がひしめき合うように地表を覆っている。 近ずいても逃げず大きな石で頭た叩いて殺しても、近くの鳥はまったく動揺しない。

生肉を海水でもみ洗いして食べると肉がしまり歯ごたえもあってたいへん美味く、内臓も上質な貝を口にするような新鮮さがあった。 肉の量も多く、4人で1日1羽を食べれば十分だったが問題は飲料水の確保、この島は井戸を掘っても硫黄を含んだ温水しか出てこない。 これも無数に有るアホウドリの卵に雨水をためることで解決する。 長平の偉いところはアホウドリが渡り鳥で、春から秋までは島に居なくなることに早く気ずいたことで、この期間は多くの干し肉を貯蔵することで乗り切った。 しかし3年間で長平を除く仲間の全てが病死、彼はその後流れ着いた別の漂流者と共に流木で船を作り、ついに八丈島を経由して土佐に帰り着く。 24歳で行方不明になった長平は37歳になっており、その後妻帯し子にも恵まれた。 文政4年(1822年)60歳で死去、墓碑には「無人島野村長平」と刻まれている。 


「前立腺がん」 杉原プロの逝去と、米長永世棋聖の再発

2012年01月20日 | 未分類
プロゴルファーの杉原輝男氏と米長邦雄氏、お二人を結ぶ接点は唯一つだけで、それが「前立腺がん」。 そして杉原氏が昨年暮れの28日この癌の転移により74歳で亡くなられた。  一方米長氏は放射線治療で前立腺がんを克服した翌年、自らの闘病体験を著書 「癌ノート/米長流 前立腺癌への最善手」にまとめて出版されたが、昨年10月のラジオインタヴューで癌が再発したことを明らかにした。 今年1月14日に行われた将棋ソフトとの対局で負けたのも、再発の影響が大きかったと僕は思っている。 こと前立腺がんに関してはお二人の先輩格に当たる僕が自分の辿った闘病の経緯を振り返りながら、両氏の病気に対するスタンスや治療法の違いなどを比較してみると、治療に伴う副作用が及ぼす難しい問題点などが見えてきて興味深い。

杉原プロが癌の宣告を受けたのは1998年で、発病から13年生きられたのだから一般的には諦めがつくのかもしれないが、本来ならもっと生きられたはず。 何故なら氏の癌は比較的初期のもので、その人相(悪性度)も悪くなく回復が期待できたからだ。 担当の医師からは摘出手術か,ホルモン療法で癌の成長を抑制する方法のいずれを選択するか、,家族とも相談するよう求められたが氏の考えは決まっていた。 「最初から手術を受ける気はなかったですね、手術すれば完治する可能性が高い言われても、クラブを握れるまでに3ヶ月かかるということでしたから、それはできんと思いました」 とプロは語っている。 しかしホルモン療法を続けるうちに大きな問題が出始める。 

ホルモン療法を端的に言えば、「薬剤による去勢」(男性ホルモン抑制剤が開発される前は去勢によって癌の進行を止めるのが大勢だった) その結果パワーも筋力も衰え、ドライバーの飛距離も落ちて来るのは必然の結果だった。 杉原プロはゴルフを優先し、ホルモン療法の中止を決断する。 その結果35歳の筋肉といわれるまでに回復したが、医者が猛反対したとおり、癌の進行を示す「PSA」は上昇する。 「がん治療とトーナメントプロの継続」、この難しい選択で下した氏の結論が、あながち間違ってたとは言い切れない。 念願通りプロとしての生活を10年以上も続けることができ、輝かしい成果を挙げることができたからだ。 

一方米原棋聖の発病は2008年。 棋聖独特のジョーキングを交えて明らかにしているところでは、「癌治療と男性機能の両立」に重きを置き治療法を選択している。 性機能障害はホルモン療法に限らず、手術でも放射線でも大なり小なり影響が出るのは前立腺がんの宿命だが、棋聖の癌も初期段階のものでPSAは10ng/ml、悪性度を測るグリーソンスコアの数字は6、しかし癌の範囲が広いので念のため「中リスク」に分類された。 治療は僕と同じ「強度変調放射線治療」に加えて 「高線量率組織内照射」のダブル治療により、PSAはコンマ以下まで低下しその後、男性機能の回復も顕著で治療は成功したかに見えたが・・・。

棋聖は摘出手術をするか、放射線治療をするかで4ヶ月間迷っている。 主治医もセカンドオピニオンも全摘手術を薦める中で自らも情報を集め勉強しながら、最後は絶妙のタイミングで邂逅した先輩の、「とにかく切るなよ!」の一言に背中を押され決断を下している。 しかし治療後3年で再発、やはり手術すべきだったのだろうか?、そんな想いがいま棋聖の胸中を去来しているはず。 然らば手術していれば再発はなかったのか? 僕は否定したい、手術後の再発を幾つも知っているからだ。 とにかくこの病気はまだ分からないことが沢山あり、棋聖の場合まさにもそれに当てはまるように思う。 とは言え棋聖はこれから先10年単位で日常にに支障なく生きられることは確か、新薬の開発が進みホルモン療法の有効期間が飛躍的に延びているのもその理由のひとつ。 あとはこれまで通り憎まれ口をたたきながら歳をとることが長生きの秘訣・・・何故ならいい人から先に亡くなるのが世の常だから。 

  





 

 


僕の「乗り物遍歴」50年、自転車~飛行機まで (2)

2012年01月15日 | 未分類
僕が4輪車の免許取得に挑戦したのは高校3年の夏休み、福島市にあった県内唯一の自動車教習所へ汽車とバスを乗り継いで20日ほど通って合格した。 昭和30年(1955年)当時の4輪免許は普通と大型に区分されておらず、教習は大型トラックとバスを使って行われたが、ギヤチェンジでダブルクラッチが上手く噛み合わず、ガリガリ音を立てると減点だった。 当時2種免許の区分も無かったから4輪免許一枚で、営業用の車両も含め何でも運転できたわけ。 高校卒業(1956年)と同時に乗った車がトヨタ「マスターライン・ピックアップ」で、商用貨物車でも乗用車並みの乗り心地や仕様が売り物だったが、エアコンはおろかヒーターさえもなく、ラジェーターから取り出したホースを、露出した丸い温水ヒーターに繋いで暖をとった。

プロパンガスの事業も軌道に乗り、8トントラックや10トンタンクローリーで千葉や和歌山の製油所と郡山の備蓄基地を往復するようになると、運転手のやりくりがつかないときなど、僕の大型免許が結構役に立った。 当時は長距離トラック同士の殺傷事件も多く、運転席に日本刀を積んでた時代だ。 1954年~73年にかけての高度経済成長期、会社も恩恵を受けて成長し、1962年発売になったばかりの「日産セドリック・ステーションワゴン」を購入する。 リヤゲートは電動昇降式のウインドウを下ろしたあと下に開く構造で、客室にジャンプシートが設けられた8人乗り、僕たち夫婦はこれで1泊2日の新婚旅行に出かけている。 

やがて息子が生まれる頃になると社有車を私用には使いずらくなり、プライベートに買ったのが「日野・ルノー」で1963年生産中止になった最後の車。 リヤエンジン・モノコックボデーの4人乗り748cc21馬力の小さな車だったが、そのころ東京都内のタクシーで最も多かったのがこのルノーで、とにかくタフな車だった。 その後この車を下に出して取り替えたのが、同じ日野自動車から発売された「コンテッサ1300・クーペ」。 設計はBMW・トライアンフ・マセラティなどのデザインを手がけた、イタリアの著名な工業デザイナー「ジョバンニ・ミケロッティ」。 その優雅なスタイリングは、イタリアのコンクール・デレガンスで数年にわたり多数の賞を受賞する成功作となり、今なお国内にコンテッサクラブが存在し、僕の長男も会員の一人だった。

クルマの方はこれぐらいにして飛行機に移るが、最初に空を飛んだのはハング・グライダーにエンジンを付けたような代物で、車輪やシートの装備はなし。 離陸はスロットルを全開にしコントロールバーを握って走り、スピードがついて地面から浮いてきたら、垂れ下がった帯に足を突っ込んでスーパーマンのように飛ぶ。 これが進化して登場したのがアルミパイプに布張りで、飛行機として最低の機能を備えたウルトラ・ライト(超軽量飛行機)二人乗り。 最高スピードが時速80kmで約1時間のフライトが可能、郡山の河川敷から飛び立ち、伴走車からの給油を受けながら水戸市まで飛んだのが最長記録。 夏はフロートを付けて猪苗代湖や田沢湖などで遊び、冬はスキーを付けて磐梯山麓を飛び回ったりしたものだ。

本物の小型機を操縦したいと思ったのは、1986年公開の映画「愛と哀しみの果て」(アウト・オブ・アフリカ)の影響で、ロバート・レッドフォードが複葉機の前席にメリル・ストリーブを乗せ、アフリカの大地を舞うシーンにすっかり魅せらてしまったから。 2年後フロリダのスクールに入学し1ヶ月ほどでライセンスを取得、当時日本に存在する最も古い「セスナ・170」を4人で共同所有し、仙台をベースに腕を磨いた。 2番目に乗ったのが継続機種の「セスナ・172」、3番目が「パイパー・ターボアロー・PA-28RT]。 そして最後が「ビーチクラフト・Aー36・ボナンザ 」、この機体で2001年念願の世界一周フライトを果たすことができた。 終わりよければ全て良しといわれるが、人生ではその時期でしか経験できないことがある。 70才半ばになってからも、ワクワクするような乗り物に乗ることができるだろうか?    


僕の「乗り物遍歴」50年、自転車~飛行機まで (1)

2012年01月10日 | 乗り物
自転車の「三角乗り」をご存知だろうか? これを知ってる最後の年代は現在70歳前後の人ではないかと思うが、当時子ども用の自転車を持っている子など居らず、みんな大人の自転車を乗り回していた。 しかし体が小さいのでサドルに跨ると足が地面に届かず自転車を支えられない、そこで考えたのが「三角乗り」。 まず左足をぺタルに乗せて右足で地面をけってスピードつけ、足を離しても自転車が倒れないようになったら三角フレームの間から右足を突っ込んで右のぺタルにのせ、自転車を傾けることでバランスをとりながらぺタルを漕ぐ。 上手に乗りこなせるようになるまで何度も転びながらコツを覚えていくのだが、僕はいつも膝小僧の生傷が絶えなかった。

この三角乗りで砂利道の国道を走って隣町まで行ったりしてたのだから、当時の子供は逞しかったと思う。 やがて小学生も高学年になって大人の自転車が乗りこなせるようになると、担任の先生を中心にクラスの15人ぐらいの自転車好きが集まり、日帰りの遠乗りに出かけたりしていた。 当時は舗装道路が少なく、遠乗りでは必ず2~3台の自転車が釘を拾ってパンクした。 するとパンク修理の得意な生徒がタイヤをめくってチューブを引き出し、穴のあいた部分をヤスリでこすってから接着剤を塗って、古いチューブの切れ端をくっつけて修理したものだ。 タイヤが破ければ用意してある短く切ったタイヤを被せ、ゴトゴトするが結構走ることができた。

僕が中学に入る頃になると本田技研工業が50ccの自転車用補助モータ(小型エンジンキット)を売り出す。 エンジン搭載位置は後輪側面、駆動系統もすべて後輪回りで完結する構造で、純白の丸い琺瑯タンクと「Cub」のロゴの入った赤いエンジンカバーの組み合わせがひときわ目立った。 当時家業としてキャラメルの製造をしており、エンジンキットを取り付けた太いタイヤと大きな荷台の自転車に製品を積んで、遠方まで配達に行くことが嬉しかった。 しばらくすると原動機付き自転車にも運転許可書が必要となり、僕は許可年齢の14歳になっていたので、すぐに許可書の申請を済ませた。

警察署から呼び出しがあり受け取りに行くと、僕が第一号ということで交通部長から直々に許可書を手渡しされたのを懐かしく覚えている。 やがて家業の仕事も軌道に乗りオート3輪を使うようになり、助手をしながら運転を覚え、また僕の通う工業高校でも父兄から寄付されたマツダ・オート三輪を使って分解・修理の実習を受けていたので、16歳になるのももどかしく東京鮫洲の試験場まで行って免許を取得した。 当時福島県を縦断する高校駅伝があり、マラソン当日は僕の運転するオート三輪に応援団を乗せ、県南の白河市から県北福島市まで選手の伴送をするが僕の担当だった。

高校を卒業する頃、家業はキャラメル作りから、プロパンガスの販売に変わった。 大学に行かず家業を継ぐことにした僕を不憫に思ったのか、養父が僕に高価なスクーターを買ってくれた。 その名は「ホンダ・ジュノー(JUNO)K型」で、189cc4サイクル短気筒エンジンを搭載していた。 ボディデザインは当時特撮映画の美術を手がけていた小松崎茂氏で、最大の特徴はアクリル樹脂製の大型ウインドシールドと上部に収納された雨よけ用のルーフで、「全天候型スクーター」を目指した野心作。 また軽量化を図ってボディはFRP製、さらに当時は珍しいセルモーターを搭載していた。 しかし残念ながらパワー不足のため実用には適さなかった。       


伊豆八丈、「島送り」と「島抜け」

2012年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
小型機で飛んでいた頃、一番多く行ったのが伊豆諸島の島々。 島の魅力は湯量の豊富な温泉と旨い魚、それに地元で作られる年代物の焼酎だったが、もう一つ僕の興味を引いたのが今なお島に痕跡を残す「遠島」の歴史。 遠島は島流しのことで流罪とも呼ばれ死罪に次ぐ重刑、原則29年間は流刑地に留め置かれた。 江戸からの場合、大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の7島のうち罪が重いほど遠方に送られたというが、距離とは別に流人にとって評判の良かったのは大島・八丈・三宅。 流人は3島のいずれか行きを願ったが、嫌われたのは神津・御蔵・利島の3つ、とくに御蔵島の生活環境は最悪だったらしい。 

大きな島ほど評判が良かった理由は住民が多く住み、着の身着のまま置き去りにされる流人達にとって、それぞれの技術や才能を生かして職を得る機会が多かったからではないか。 それにしても伊豆諸島は気候温暖で食べ物も比較的豊富、佐渡のように極寒で、しかも金山の重労働にこき使われることもなく、恵まれた流刑地だったと思う。 江戸時代に八丈に流された流人は1800人ほどで政治犯・思想犯などが主であるが、そのうち武士は約30%、他に僧侶が13%で、女の流人はおよそ70人。 流刑と決まると小伝馬町の牢で風待ちとなり、出航が決まるとその前夜、身分に応じ僅かな手当が支給された。 

江戸から八丈までは約300kmで、50~80トンの帆船が出港するのは春か秋。 まず三宅島に着き、そこで半年ほど風待ちしてから八丈に送られた。 流人が港に着くとクジ引きで村割りを決め、預かった村では農家5世帯が1組となって1坪足らずの小屋に住まわせ、農業を手伝わせながら生活の面倒を見た。 絶海の孤島に暮らす島民にとって流人はさまざまな知識を持ち、江戸の様子や内地の新しい情報をもたらしてくれる貴重な存在でもあった。 また武家や僧侶出身の有識者は、学問を受ける機会のない村人や子供達を集め、寺子屋の師範として教育の普及に貢献した。

1722年~1873年のおよそ150年間に八丈から「島抜け」(船による脱出)した回数は18件、しかし確実に内地にたどり着いたのは1回のみ。 この話は後に歌舞伎でも上演されているが、幕末期の天保9年(1838年)、男女の流人が八丈で運命の出会いををする。 島抜けをするのはこの二人で3下総(千葉)佐原の大百姓の息子「本郷喜三郎」と元吉原の女郎「花鳥」。 他の5人と共に小船に乗って島を脱出、時化で帆柱を折られながらも鹿島・荒野浜へ流れ着き、二人は江戸に潜伏後、下関へ向かう途中で別々に捕らえられ、花鳥は死罪と決まる。 華やかな衣装で馬に乗り市中引き回しのうえ斬首となるが、死に臨んでいささかも動じず、7代目首切り浅右衛門を感動させたという。 花鳥28歳。

喜三郎は父親の金力で死罪を免れ永牢となるが、調べに当たったのが時の勘定奉行遠山の金さんこと、遠山左衛門尉景元。 やがて喜三郎は牢名主にまで出世し、文才・画才を生かして「朝日逆島記」を著し幕閣に提出したことが評価され、江戸十里四方追放に減刑され釈放されるが、長年の牢暮らしが原因で翌月病死、39歳。 逆島記には流罪となり船で運ばれる道中のこと、伝馬町牢内の絵や文章などを残し、江戸期の貴重な資料として八丈支庁に保管されている。 作家の吉村昭氏が2002年、流刑・脱島・漂流・逃亡を題材に種子島に流された流人たちの壮絶な逃避行を描いた「島抜け」を発表しているが、そのうち是非読んでみたいと思っている。