カキぴー

春が来た

映画「ライアンの娘」を生んだ、アイルランド荒涼の地 

2011年11月30日 | 映画
「読み進み、あるところではっと気がついて前のページを読み直し、通り過ぎた時に気ずかなかったさりげない一文に深い意味を発見するということは、本などでしばしばある。 デヴィッド・リーンという監督は、映像でそれをやってのける作家である。 だからモザイクのように繋げられていく場面は、どれ一つとして見逃せない・・・」。 これは10年ぐらい前に「高樹のぶ子さんと見るライアンの娘」 として朝日新聞に載った文章の一部。 この映画は彼女がもっとも惹かれる特別なベスト作品で、著書「熱い手紙」の中にもこの映画が出てくる。 文章は続く、「神はしばしばスケープゴートを造って、出会ってはならない相手とめぐり合わせる。 これには誰もあらがえない・・・」。

北大西洋の東部に位置する「アイルランド島」、南側6分の5がアイルランド共和国で、残りは北アイルランドでイギリス領。 両方を合わせると北海道よりやや広く、東のアイリッシュ海を挟んだ目と鼻の先がイギリス本土のグレートブリテン島。 1968年の秋、イギリスの生んだ不世出の巨匠デヴィッド・リーン監督が、アイルランド南西の端ディングル岬の先端に立ち、長く連なる断崖絶壁に打ち狂う巨大な白波と、荒涼たる大自然の風景にしばし見入ったあと、ここが絶好のロケ地と確信する。 それから6ヵ月後にはこの荒々しい不毛の海岸に、石・スレート・タール・草ぶき屋根の町並み、学校の校舎、イギリス軍兵舎、古いパブ、教会などが完成し、イギリス映画「ライアンの娘」の撮影が始まった。

映画の舞台は、反英独立運動が秘かに行われている1910年代アイルランドの寒村。 冒頭のシーンで、断崖から海に向かって日傘が落ちていく。 傘の持ち主は古い因習を嫌う若く美しい娘ロージー(サラ・マイルズ)のもので、この傘は小船で海に出ていた知恵遅れで口も体も不自由な村の男マイケル(ジョン・ミルズ)に拾われる。 墜ちていった女を神は無知ゆえに善なる男を借りて救う、というストーリーを暗示させる場面。 彼女は年の差が離れた教師チャールズ(ロバート・ミッチャム)と結婚式を挙げる。 しかし彼に満足できないロージーは、こともあろうに赴任してきた英国将校ランドルフ(クリストファー・ジョーンズ)と恋に落ちる。 反英感情渦巻く村でである。 

ある嵐の夜、武器を陸揚げしていた独立運動の男達が英軍に逮捕される事件が起き、ロージーは密告者の烙印を押されリンチを受け、髪を切られる。 そんな彼女を救うのは、彼女が裏切り続けてきた夫のチャールズと、コリンズ神父(トレバー・ハワード)。 結末は、ランドルフが呵責の念で自ら死を選び、ロージーとチャールズは元の鞘に収まった振りをして、堂々と村を出て行く決心をする。 海岸のバス乗り場まで送ってきたのは牧師のコリンズと、ロージーに想いを寄せながら彼女に嫌われていたマイケル。 最後にロージーは彼にキスをする。 バスの走り出す間際に牧師はチャールズに聞く、「ロージーと分かれるつもりか?」、彼は黙ったまま、牧師は言う、「私は離婚することを疑問に思う。 それが私のはなむけだ・・・」

脚本はデヴィッド・リーン監督の常連で、「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の映画脚本で知られるイギリスの劇作家・脚本家ロバート・ボルトのオリジナルで、完成に1年を要した。 撮影はイギリスで最も著名な撮影監督の一人フレディ・ヤング、彼はリーン監督のアラビアのロレンス、ドクトル・ジバゴ、ライアンの娘でアカデミー撮影賞を受賞している。 雨雲の動き、月夜の美しさ、白い砂浜に残る男女の足跡など、どの場面もまるでスクリーンに絵画を見るよう。 映画の全編に流れる「ロージーのテーマ」は、これまたリーン監督の常連で多くの映画音楽を作曲したモーリス・ジャールで、アカデミー音楽賞にノミネートされた。 また神業ともいえる汚れ役を演じたジョン・ミルズはアカデミー助演男優賞を受賞。 しばらくぶりにDVDの鮮明な画像でこの名作を観ながら、グレアム・グリーンの言葉を思い出した。 「宗教心の無いところに、不倫小説は生まれない」 



   


極秘潜水空母・「伊400型潜水艦」&搭載機「晴嵐」

2011年11月25日 | 戦争
「戦争は発明の母」と言われるが、航空機を潜水艦に搭載するというアイデアは古くからあり、第一次世界大戦後も各国で実用化が試みられたが実現できなかった。 ところが第二次世界大戦の末期、日本海軍は攻撃機3機を搭載する「潜水空母」とも言うべき空前の大型潜水艦建造を、最高機密のもと決定する。 これが史上類を見ない潜水空母「伊400型潜水艦」で、全長122m、全幅12m、水中排水量6千500トンは駆逐艦に匹敵する。 注目すべきは驚くべき航続距離、14ノットで7万km、地球の直径が4万kmなのでらくに1周半が可能、世界中どこへでも無給油での往復出撃が可能だった。

これに要する燃料の積載量も膨大なもので、重油1750トンを内郭外と内郭内に各々3/4,4/1とに分けて搭載した。 建造には多くの技術的難問を抱えていた。 それは従来の小型偵察機より重量が3倍もある攻撃機を収容する起倒式クレーン、カタパルト(射出機)、3機の機体を収納する巨大な格納筒と水密扉の開閉装置など、設計製作ともに高度な技術を要するもであった。 さらに極めて大きな船体の機密性、水中旋回力、安定性と操縦性、潜航時間の短縮(秒単位)、復元力、など大型潜水艦の持つ宿命的課題を、戦時下での資材不足の中、技術陣は見事に難問を解決し世界に類を見ない潜水空母を完成させる。

一方搭載する攻撃機「晴嵐」(M6A1)の設計生産は、母艦と同時に開発に着手され1943年11月に試作機が完成。 乗員2、出力1400HP、最大速度474km/h(フロート投棄時560km/h)、航続距離1540km、実用上昇限度9640m、武装:機関銃13・0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kgは4発)、または45cm魚雷×1。 実戦における攻撃時に大型爆弾の場合、フロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は母艦近くに着水または落下傘で乗員を収容し機体は放棄した。 また母艦には予備爆弾・魚雷が準備され再出撃も可能、ただし唯一にして最後の出撃時は「特攻」扱いとなっていた。

晴嵐は飛行機格納庫に収めるため、主翼はピン1本を外すと90度回転して後方に、水平尾翼は下方に、垂直尾翼は右横に折りたためる。 また暖機のため加温した潤滑油・冷却水を注入するなどして3分で発進可能、しかしカタパルト発艦にはリスクが伴うため、搭乗員には訓練時一回の発艦につき6円の危険手当が加算された(当時の大卒初任給は60円)。 なお晴嵐は、潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、また任務によっては世界のあらゆるところでの飛行を可能にするため、ジャイロ・コンパスを装備するなど1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当した。

1945年4月25日、第一潜水戦隊全艦による「パナマ運河夜間攻撃計画」が公表され、晴嵐は全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となる。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、南洋群島ウルシー環礁に在泊中の米機動部隊空母群に目的変更となる。 7月20日伊400と伊401は舞鶴港を出航、8月17日を攻撃予定日として航海を続けていたが、8月16日終戦による作戦中止命令を受け帰港中、米軍に捕獲される。 その後日本の潜水艦技術がソ連に渡ることを恐れた米軍は、2隻をハワイ沖で海没処分したが、水密格納筒の構造は後のミサイル搭載潜水艦の建造に生かされている。   
 


「スティーブ・ジョブズ」 膵臓がんとの壮絶な闘い

2011年11月20日 | 未分類
2005年6月12日、アメリカ・スタンフォード大学の卒業式でスピーチに立ったIT企業「アップル」のカリスマ経営者 スティーブ・ジョブズ氏は自らの病気について語った。 「2003年、私は癌と診断されました。 朝の7時半にCTスキャンを受けたところ、私の膵臓にクッキリと腫瘍が映っていたのです。 私はその時まで膵臓が何たるかも知りませんでした。 医師たちによるとほぼ確実に治癒が難しい種類の癌であり、余命は3~6ヶ月しかないので、やるべきことを済ませるよう助言を受けました。 私は診断書を一日抱えて過ごしました。 そしてその日の夕方には生体検査を受けました。 喉から内視鏡をいれ、膵臓に針を刺し腫瘍の細胞を採取しました。」 

「私は鎮静状態でしたが、妻の話によると医師たちが顕微鏡で細胞を覗くとかなり驚き、そして泣き出したそうです。 というのは膵臓癌ではきわめて稀な、手術で治せるタイプのものと判明したからです。 そして私は手術を受け、有難いことに今もこのように元気に仕事をしています。  これが最も死に近ずいた私の経験です。 誰も死にたくはない、天国を信じる人でさえ死にたいとは思わない、しかし死から誰も逃れなれない。 死はチェンジエージェントだから旧くなったものを捨て、新しいものを生み出してくれます。 時間は限られていて他人の人生をうらやむ余裕などない、だから他人の意見に惑わされてはいけない、自らの内なる声を聞き自分の直感を信じなさい、あなたが為すべきことは、あなた自身が全て知っている筈です。」  スピーチは多くの共感と感動を与え、結びの言葉で締めくくられた。 「ハングリーであれ!、愚かであれ!」

膵臓癌は早期発見が極めて困難なうえに進行が早く、予後が悪いことから、「癌の王様」と言われて最も恐れられる病気。 僕の友人も2006年この病気に見舞われ、長時間の手術で癌は摘出できたものの一年も生きられなかった。 しかしジョブス氏の場合は幸運にも「膵内分泌腫瘍」と呼ばれれる癌で、通常の膵癌とは区別され、進行が遅く悪性度の低い病気だった。 その発症率は膵臓癌全体の2パーセント前後、人口10万人当たりの発症率は1人以下。 わが国における悪性膵内分泌腫瘍の手術例、132例の術後5年生存率は76パーセントとかなり良好だが、肝転移、リンパ節転移などの予後管理が重要。

ジョブズ氏が摘出手術を受けたのは病気が判明してからおよそ1年も経ってから。 医師団をはじめ家族は急いで手術を受けるよう再三忠告したが、なぜか頑なに拒否し、免疫療法や食事療法で完治を試みている。 私見だが、こうした補助医療は手術と平行して行なったほうがより有効で、もっと長生きできたように思えてならない。 9ヵ月後の検査で癌が大きくなっていることが確認され、2003年8月ごく親しい人以外には秘密にして摘出手術を受けている。 氏の健康問題がマスコミに騒がれたのは、2008年6月の第2世代Iphoneの発表時で、異常なほど痩せ過ぎた姿で登場したため騒然となった。 重病説や辞任説については否定したものの、実際は肝臓への転移が判明し、深刻な容態であった。 

2009年6月の公式発表によるとその後、重度の肝疾患という認定を受け、移植待機リストで最優先ランクの位置ずけをされて肝移植が行われ、良好に回復しているということだつた。 事実、移植後いったん体調は回復し、2010年5月には家族とお忍びで京都旅行にも来ている。 しかし2011年に入り癌が再発、遺伝子配列を調べたり分子標的治療など最新の治療を受けたものの、その進行を食い止めることはできなかった。 2011年10月5日15時、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により、妻のローレン・バウエルや親族に看取られながら、シリコンバレー北部の町パロアルトの自宅で死去。 遺体は町の無宗派墓地に埋葬された。 彼は難しい病気と見事に闘い、神もまた彼の価値を存分に認め、その寿命を最大限に引き伸ばしてくれたように思う。 ご冥福をお祈りする


第2次世界大戦の名機、「B-17戦略爆撃機」

2011年11月15日 | 航空機
2001年の6月小型機による世界一周飛行の折、給油のためデンマーク領・グリーンランド島の南部にあるナルサルスクの空港に降りて1泊した。 ホテルのバーカウンターに座り、北極の氷をオンザロックにしてパチパチはじける音を聞きながら、老バーテンの話に耳をかたむける。 そもそもここの空港は第2次世界大戦中、アメリカ本土からヨーロッパの連合国に,物資や兵員を運ぶための重要な中継基地として長い滑走路が造られた。 大量の物資や兵器を積んだ輸送機や爆撃機が、本土から大西洋をダイレクトに横断するには距離が長すぎるし、途中の天候不良や機体のトラブルを考えると、緊急着陸の可能な北極航空路が必要だったのだ。

航路はアメリカの各地を出発してカナダ、グリーンランド、アイスランド経由イギリス行きで、途中地点に位置するナルサルスクに、各種施設を完備した空港が設置された。 しかしここは地形的に離着陸が難しいうえに、天候の変わりやすいパイロット泣かせの空港で、周辺に広がる厚い氷の下には、当時空港に降りられず雪原に不時着した「ボーイングB-17爆撃機」の巨大な機体が多く埋もれているという話を聞いた。 また戦場からの帰り便には、米兵の遺体がいったんここで降ろされ、修復を施してからアメリカ本土に送り返されていたという。

第2次大戦中の大型爆撃機といえばB-17とB-24。 共に生産数や性能などに大きな違いはないものの、親近度はB-17が圧倒的に高く、多くの著書や映画を通して今なおそのフアンは多い。 1943年からドイツ本土へ出撃するようになったB-17の編隊は、当時護衛戦闘機の航続距離が充分でなかったため、ドイツ迎撃戦闘機の餌食となり、出撃ごとに10%を超える損害を出していた。 そこで考案されたのが「密集隊形」で、編隊機どうしができるだけその間隔を縮め、濃密な防護砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃から身を守る戦法で、逆に敵機を撃墜することも多かった。 しかし後継機となるB-29のように与圧装置や空調設備も無く、皮の航空服をまとい酸素マスクをした乗員が寒さの中何とか動けたのは、電熱服を着込んでいたから。

それでもB-17に対する乗員の評価がずば抜けて高かったのは、その優秀な防弾装備で生還率が高かったから。 機体主要部にはことごとく防弾が施され、その頑丈な造りは少々の被弾にはビクともしなかった。 また豊富な防御火器を備え、後期型のG型では実に13丁の「12・7mmブローニングM2重機関銃」を装備しており、ドイツ軍機からも恐れられた。 これらの重装備に加え、さらに2~4トンの爆弾を半径3000kmまで運び、最大時速500kmの驚異的性能を支えたのが、1200馬力×4基のターボチャージャー付エンジン。 空気密度の薄い高空でもレシプロエンジンの高出力を確保できたため、これの開発が遅れたドイツや日本の戦闘機は、高空から進入するB-17の迎撃には非常に苦戦した。

第2次大戦中、イギリスに駐留し、ドイツに対し危険な白昼爆撃の任務を繰り返すアメリカ第8空軍では、25回の出撃を達成した搭乗員を、本国へ帰国させることになっていた。 裏返せば、B-17に随伴できる護衛戦闘機が無かった1943年頃までの無事帰還が、いかにに難しかったかを物語る。 そんな中で唯一24回の出撃まで残ったB-17が実在した。 最後の飛行が無事終われば10人のクルーは英雄として故郷に帰れる。 果たして結果は・・・・この実話を映画化したのが1944年公開のアメリカ映画「メンフィス・ビル」。 この映画を観て感じるのは、B-17と搭乗員との運命を共有する一体感。 同じレシプロ機でもB-29になると何故かもうそれが感じられない。 レシプロ機らしさを残す爆撃機は、B-17が最後だったのかもしれない。    



  


「低線量被ばく」 に関する考察

2011年11月10日 | 健康・病気
10月末、都内で開かれた国際シンポジウムに出席した細野原発事故担当大臣が、国内外の研究者を前に、「低線量被ばく」に対して長期間の研究が必要性なことを訴えた。 大臣は、「年間の被ばく線量が100ミリシーベルト以上の場合は、過去の原発事故によって、健康にある程度の影響が出ることは分かっている。 しかしすでに拡散した放射性物質の低線量被ばくをどう考えるか、もう少し深く分析しなければならない。 20ミリシーベルトで線を引いて、国としての考え方を整理したい」 と述べ、有識者による作業チームを作り調査する考えを示した。 そんな中、福島大学医学部に新設された放射線専門講座2講座のうち、これまで人類が経験したことのない低線量被ばくの影響を究明する 「放射線生命科学講座」の教授に、坂井晃教授(51歳)が11月の始めに就任した。 

坂井教授は、これまで広島大の原爆放射能医学研究所の血液内科などに勤務、被ばく者の医療にも携わってきた。 悪性リンパ腫や多発性骨髄腫など、リンパ球がどのようにがん化するかを追求してきた実績を、今後の研究に生かす。 教授はこう語る。 「原爆の高線量被ばくと異なり、低線量被ばくははっきりした影響がわからない。 影響があるのか、影響がないにしても調査を積み重ねなくては分からない。 20年後、30年後に結果を日本をはじめ世界に発信できるよう、長い研究の下準備に取りかかりたい」。 というわけで、これまで実態がよく分からないままに議論され、騒がれ、風評被害をも生んできた低線量被ばくの本格的研究が、原発事故のお膝元福島大学で始まる。

それにしても原爆担当大臣が低線量被ばくに対する調査・研究の必要性に言及し、大学の研究機関で長期にわたる追跡調査を実施するということは、「どんなに微量でも放射線は危険である」という国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に対し、我が国として「安全量の見極め」をしようとする点で、大きな意義がある。 実は微量でも有害とされる放射線を、われわれは日夜浴びながら生活している。 地球上では1人当たり年間平均して2・4ミリシーベルトの放射線を浴びており、また1回のCTスキャン検査で6・9ミリシーベルトもの放射線を浴び、もし患者が毎月1回のスキャンを受けたと仮定すれば、年間80ミリシーベルト以上の放射線を浴びる勘定になる。

高度1万メートルの上空での放射線量は、地上の150倍に達する。 成層圏を飛ぶ国際線のパイロットやフライトアテンダントは、東京・ニューヨークの往復で0・2ミリシーベルトの放射線を浴びている。 週に1回日米を往復するだけで、年間10ミリシーベルトを浴びていることになるが、彼らに放射線被ばくによる障害が起きたということはなく、むしろ時差による体内時計の狂いが問題視されている。 さらに世界には自然放射線量の極めて強い地域が存在する。 たとえば中国広東省陽江県の線量は年間6・4ミリシーベルト、ブラジル・ガラバリ海岸では最高6ミリシーベルトに達する。 このうち中国・陽江県における調査では、年間死亡率で一般の10万人当たり6・7人に対し当県は6・1人、癌死亡率では10万人当たり66人に対し58人という平均より低い結果となっている。

こうした事実があってもなお、国民が低線量放射線に対してナーバスに反応するのは、原発事故以来、東京電力や原子力安全保安院に対する不信感が鬱積してるから。 故に現在の状況下で、「低線量の放射線は害にならない」 などと言おうものなら袋たたきに合うことは必至。 したがって関係者は例え正論であろうとも、この件でものを言わなくなっているし、ものが言えなくなる社会では必ず良くない結果をもたらす。 ついては不信感の払拭が最優先課題で、まず迅速な情報開示と隠蔽体質を取り除くことに加えて、納得するに足るデータを示すことが急がれる。 そんな意味では遅きに失した感はあるが、国が本腰を入れて低線量被ばくの実態調査に踏み出したことは、評価していいと思うのだが如何だろうか?






   


「Uボート・ブンカー」と、地中貫通弾「トール・ボーイ」

2011年11月05日 | 戦争
1981年公開のドイツ映画「Uボート」。 敵艦隊に損害を与え、難関ジブラルタル海峡を通過中のドイツ潜水艦Uー96は、予想通り敵駆逐艦の攻撃を受け致命的な損傷を被る。 エンジン停止の状態で水深280mの海底に沈み、酸欠と水圧の恐怖に怯えながらも必死の修復作業で浸水を食い止め、見事に浮上する。 翌朝死線を乗り切った乗組員の眼前に、ナチス占領下にあるフランス、ラ・ロシェルの母港が見えてきた。 そして衝撃のラストシーン・・・盛大な出迎えに沸くUー96の頭上に突如連合軍機の編隊が襲いかかり、そこは修羅場と化し、艦長は沈んでいくUー96を人生最後の網膜に焼き付けなが息をひきとる。

第2次世界大戦中ヒットラーは、連合軍の空襲から係留中や修理中のUボートを守るため、ぶ厚い鉄筋コンクリート造りの堅牢な防空施設「ブンカー」建設を命ずる。 最初のUボート専用ブンカーは、北海のヘルゴラント島に造られ、続いてハンブルク、キールと建設が始まり、労働者2万人以上が徴用され、1箇所につき7ヶ月の工期で続々と竣工した。 これに対しイギリスはUボートの戦争遂行能力を奪うため、ブンカーを破壊する重さ5トンの大型爆弾を1944年に開発した。 その渾名が「トールボーイ」で、外装が破壊されないままで硬い目標を貫徹するために、爆弾の外板は強靭な材質が要求された。

トールボーイの外装は高張力鋼で鋳造され、これにより目標に着弾し貫通した後で爆発することを可能にした。 高高度から投下することも相俟って落下速度は音速を超えているが、V2ロケットのように爆発音の後で落下音が聞こえたという。 また尾部に改修がなされフィンをひねった結果、爆弾が回りながら落ちることでジャイロスコープ効果が得られ、ピッチングとヨーイングが無くなり空力と命中精度が大きく改善された。 2万フィート(約6096m)上空から落下させた場合、深さ24m、直径30mのクレータができ、また約5mのコンクリートをも貫通した。

W・S・ローレンスは彼の著書「第5爆撃機集団」の中で、トールボーイについて次のように書いている。 「それは異常な兵器だった。 この爆弾はそれ一つで巨大かつ大容量の炸裂爆弾として高い爆破能力を持っており、かつ、徹甲爆弾としても高い貫通力を持っていた。 着弾した際、3万平方メートルもの面積を更地にし、クレーターを作るときに、おそらくは5000トン近い土を吹き飛ばした。 完璧な空力性能を有し、その結果きわめて高い終端速度は、単純に見積もって3600~3700フィート/毎秒(約1100~1130m/S)に達した。」

アドルフ・ヒトラーは1945年4月30日午後、ベルリンの総統官邸地下壕「ヒトラーブンカー」の自室で、長年の愛人エヴァ・ブラウンと自殺する。 ブンカーは連合軍によって繰り返し調査された後、当時の東ドイツ政府によって破壊、封鎖された。 連合国側はブンカーの存在と位置を正確に把握していたが、できれば生きたままで、最悪でも遺体を確認できる状態でヒトラーの身を確保したかったので、トールボーイを使用することはなかった。 しかし二人の遺体は自殺直後に非常階段から官邸の庭に運ばれ、遺言通り大量のガソリンをかけて焼却された。 その前々日に銃殺され、愛人クラレッタと共にミラノ市の広場に吊るされた盟友ムッソリーニの最後を、ヒットラーは恐れていたに違いない。