カキぴー

春が来た

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2015年01月08日 | 未分類

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「飛行船空母・メイコン」&「搭載機・F9Cスパローホーク」

2014年06月12日 | 戦争
戦争はとてつもないものを発明する。 「メイコン」は偵察任務を目的に1931年アメリカ海軍によって計画され、グッドイヤー社で建造された「空飛ぶ航空母艦」の2号機。 金属の骨組みをアルミニウム製の外皮で覆い、浮力はヘリウムを満たしたゼラチンラテックス製気嚢15個が主役。 全長239m・全高45?・重量198トン・乗員91名・積載量72トン、8基のガソリンエンジン(560馬力)によって最高速度は140km/h。 最大の目玉は「F9C複葉戦闘機」5機の搭載が可能なこと。

1920年代アメリカが軍事目的として飛行船に着目した理由は、長大な航続距離と積載量。 遠方にある敵国基地などの周辺まで飛行船で到達し、搭載機を目標上空まで飛ばしての強硬偵察を計画していた。 飛行船の先進国ドイツが第一次世界大戦で敗戦国となり多くの賠償金を課せられると、アメリカはその一部として建設中の飛行船一隻を要求し、引き渡しを受ける。 これが「メイコン」開発の第一歩。

ところで搭載機・愛称スパローホーク(猛禽類のハイタカのこと)だが、カーチス社製で乗員1名・全長6m・全幅7m・エンジン415HP・最大速度283km/h・航続距離475km・武装2×7ー62mm機銃1基。 小型で大型飛行船の搭載に最適と評価され採用されたが、もう一つの大きな選択理由は、この複葉機が飛行船に合わせて飛ぶことのできる「低速性能」にきわめて優れていたこと。 

さてこの搭載機をどうやって離発艦させるのか? パイロットたちからトラピーズ(空中ブランコの意)と呼ばれた飛行船の係留装置に、機体の上翼の上に取り付けられたフックで吊るして船外に降ろされ、エンジン出力を上げて飛行船のスピードを上回るとフックが外れる仕組み。 着艦は飛行船との速度を合わせながら接近し、フックを係留装置の受け口に引っ掛けてエンジンを切る。 まさに空中サーカスさながらの神業だが事故はなかったという。

飛行船の最大の欠陥はタービランス(乱気流)に弱いこと。 1号機のアクロンは1933年ニューイングランド沖合でタービランスに遭遇して墜落、指揮官以下乗員73名が犠牲となった。 それから2年後、メイコンもカリフォルニア沖で大型のタービランスによって墜落、死者2名。 これで世界から注目された飛行船空母も、わずか数年で消え去った。 その後に起こる歴史的惨事が1937年の「ヒンデンブルク号爆発事故」。 これが致命傷となって華やかな飛行船の時代も、あっけなくその幕を閉じた。

  


作家・渡辺淳一氏の逝去と、前立腺がんの神秘

2014年05月18日 | 国際・政治
先月の末、渡辺氏の訃報に接し、やはり僕の予想した病気が間違ってなかったと確認するとともに、同病を患う一人としてやはり落ち込んだ気分に浸った。 氏は自らの病を公表してない、にもかかわらず僕が病名を早い時点で想定できたのは、時折テレビでみる顔面の著しい浮腫み。 この症状は、男性ホルモンの分泌や働きを抑えることで、前立腺がんの増殖を抑制するホルモン療法特有の副作用だからだ。 常に女性を意識してきた氏にとって、かなり辛かったはず。

去年の秋、おそらく最後の作品ではないかと思う「愛ふたたび」を読んで、氏の病名にいっそうの確信を持っに至った。 突然に男性機能を失った高齢の整形科医が絶望と苦悩のどん底で、「別な形で」恋人を満足させられることを知り、愛と自信を取り戻していくというのが本の内容。 そして氏の人相を変えてしまった治療薬のもう一つの深刻な副作用は「薬物による去勢」。 この二つを繋げれば、主人公の医師が渡辺氏本人であることを疑う余地はまったくなくなった。

前立腺がんは進行が遅く、生存率・治癒率が高いといわれるが、個人差も大きい。 僕に例をとれば、病院のミスで癌を見落とし、すでに手遅れで摘出手術は諦め、ホルモン療法を始めたのが18年前の1996年。 PSA値が正常範囲まで下がり、根治したかと喜んだが、数値は徐々に再上昇を始めた。(薬に耐性ができて効かなくなる、この治療法の宿命) 2007年当時最新の放射線治療「IMRT」を東北医大で受け、PSA値は正常に戻る。 しかし2年後から再上昇。

その後5年間の経過観察を経て数値が上限まで達し、骨シンチ・MRI・PETなどの検査で「転移」のないことを
確認して、今年の4月からホルモン療法を再開。 ただし今回の治療法は数値が下限に達したら中止し、何か月か後に上限に達したら再開する「間欠療法」を採用した。 7年間休んでいた薬は劇的に効き、1カ月で1/4まで減少したが安心してない。 ここまで翻弄されると、最後はこの病気で死ねるのだろうかという疑問さえも抱くこの頃だ。

ざっと濃縮して僕の経緯を記したが、経過観察中にも「放射線ホルミシス」や「ざくろエキス」なでを試したりしてそれなりに時間稼ぎもした。 それにしても前立腺がんは分からないことが多すぎ、気まぐれでミステリアス。 医師でもあり、女性扱いに長けていた渡辺氏は、こいつとどう付き合って逝ったのだろう?。 2年前に亡くなった同じ病気仲間の米長邦雄棋聖は、最後まで男の欲望とプライドを優先して寿命を犠牲にしたと聞くが、この辺のドラマを氏にはぜひ本にして残して欲しかった。  



   



 



  

 



 


カルメン故郷に帰る 島で出逢った「チョッといい女」

2014年04月21日 | 旅行記
東京に春の嵐が吹き荒れた3月中旬の午後、キャプテンIさんの愛機にライセンサーのKさんと僕が同乗し、仙台空港を離陸して90分後、強風に翻弄されながら伊豆の新島空港に着陸した。 キャプテンは3・11の震災で愛機が水没全壊してから3年、以前と同じ「PA-46-マリブー」を入手し、今日が入念に整備してからの初フライト。 6人乗りの同機は与圧式で高度8000mまで上昇でき、時速400㎞で6時間のフライトが可能な高性能機、自家用パイロットにとって、いつかは・・・・的存在。

出迎えのワゴンで着いた宿は、十数年前まで頻繁に通った村営の温泉ロッジ。 さっそく浴衣に着かえて、太平洋を見下ろす高台にある村営の温泉まで5分ほど歩く。 目の前にに式根島、遥か遠くに神津島を望む露天風呂に浸たりながら落日を拝み、宿に帰ると夕食が待ち遠しい。 さて久しぶりのレストランはさま変わりしており、島焼酎と並んで有名日本酒がずらり並び、「みかさ」という固有名詞までついている。 なんとなくワクワクしてきた。 そして・・・・

大皿に盛りつけられた刺身を運んできた女性を見て、三人とも一瞬沈黙。 濃い赤の長袖Tシャツに黒い細身のパンツ、髪の毛を無造作に後ろでまるめ、ひも付きの眼鏡を胸にぶら下げている。 「美人は遅れて暮れる」というが、もう孫のいる年頃だろうに垢抜けており、会話が楽しい。 島焼酎のボトルを空ける中で分かったことは、彼女はこの島で生まれ育ち、早くに上京して高級クラブの売れっ子となり、著名人との交流の中でさまざまなことを学んだようだ。

人口2700人の島にいつ・なぜ戻ったのかは聞き漏らしたが、しばらく村で居酒屋をやった後に、リスクが少なく自由度の高いここの飲食部門の経営を引き受けたようだ。 部屋に帰って伊豆七島の事情に詳しい「AOPA」の畑中紀子事務局長に情報を求めると、「彼女は聡明な有名人よ、石原前知事などとも懇意で、伊豆の島に来ると必ず立ち寄ってるみたい」。 なぜか木下恵介監督・高峰秀子主演の古い映画、「カルメン故郷に帰る」を連想し、いずれドン・ホセとのロマンスも聞いてみたいと思った。

朝食後、昨夜食べ残した刺身の煮つけと朝採りの明日葉を土産に用意し、「これから墓参りに行くので、お見送りできません」と言い残しカルメンは早々と出かけて行った。 風は昨日にも増して木々がごうごうと音を立て、海面の白うさぎが飛び跳ねており、連絡船はすべて欠航。 にもかかわらず三人は大島に降りてバラ寿司を食べることになった。 大島空港へのアプローチは予想通り断崖の真上で猛烈な下降気流に見舞われ、滑走路に叩きつけらかと思いきや、キャプテンはスロットルを巧みに操作し、見事なランディングでフライトの見せ場を締めくくった。



     






 



      







 






唯一ユダヤ難民を受け入れた「上海」と、杉原千畝

2014年03月16日 | 戦争
2月22日に報道された「アンネの日記損壊事件」の犯人が、3月10日には早くも特定され、とくに背後関係もなく早期に解決をみることができた。 事件後イスラエル大使館からアンネ関連の書籍が届いたりして、杉原千畝領事の築いた日本との絆があらためて確認された感じ。 ところで「セントルイス号の悲劇」をご存知だろうか。 1938年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合すると、大量虐殺から逃れようとする12万人の在独ユダヤ人が、ビザを求めて各国の大使館や領事館の外に並んだ。 

しかしアメリカ・メキシコ・カナダ・中南米諸国・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・ヨーロッパ諸国とその植民地のすべてが、避難民を拒んだ。 そんな中、キューバ政府が難民を受け入れると表明し、937人のユダヤ系難民が最後の望みをかけ、1939年5月13日、ハンブルク港から遠洋汽船セントルイス号に乗船しハバナへ向かった。 5月27日ハバナに到着したがなかなか下船できない、当時のキューバ大統領の心変わりで、条件を満たした31人を除く全ての入国を拒否したからだ。 

やむなく最終目的地としてビザに記載した米国が入国を許可してくれることに望みを託しながら、6月2日船はフロリダに向かって出港する。 しかし埠頭に入ることさえ拒絶されたセントルイス号は、ヨーロッパに引き返すことを余儀なくされる。 最終的にヨーロッパの国々が受け入れに同意、ベルギーのアントワープに入港すると、乗客はベルギーに214人・オランダに181人・フランスに224人・英国に287人が、それぞれの国に散っていった。 しかしその後ナチスがイギリスを除く国々に侵攻すると、乗客は強制収容所送りとなり、無残な死を迎える。

「上海共同租界」は1842年の南京条約によって設置された。 1937年の第二次上海事変で租界は大日本帝国に占領されたが、日本軍と南京国民政府はパスポートに関する社会体制を整えなかった。 このためナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ系難民にとって上海は、世界で唯一ビザなしで逃げ込める「天国」となり、およそ2万人が終戦以降まで暮らすことができたことは、ほとんど知られていない。 そしてロシア系ユダヤ人の多くは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝に救われた人たち。

「世界の脇の下、東洋のスラムで肥溜め、中国の皮の上の膿んだできもの、そう称された都市の強烈な匂い・・・しかし上海は決定的におかしくなってしまった故郷から逃げてきた私たちに、避難場所を提供してくれました・・・戦争は終わり、私たちは600万人ものユダヤ人のたどった悲惨な運命について知りました・・・ヒトラーの死の収容所の恐怖の前には、地域に閉じ込められた暮らしの厳しさなど比較にならないと悟りました・・・上海よ、ありがとう、ありがとう!」。 1939年~1947年まで上海で暮らした 「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」の著者、ウルスラ・ベーコンの言葉。
  

  





  


引き裂かれた「アンネの日記」関連図書、報道で思ったこと。

2014年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
いずれもナチス・ドイツ占領下のパリ。 ユダヤ人一家に起きた悲劇を描いたフランス映画・「サラの鍵」、フランスのアンネ・フランクと呼ばれる女子大学院生が綴った・「エレーヌ・ベールの日記」。 たまたまこの二つを観て読んだ一週間後の2月22日に、都内複数の図書館でタイトルの損壊事件が起きた。 被害数294冊。 すぐさま米ロスアンゼルスに本部を置くユダヤ系人権団体が、日本当局に加害者を特定し、対処するよう求める声明を発表した。

声明で、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の犠牲になった著者のユダヤ人少女アンネ・フランクが、日本で親しまれていることに理解を示し、事件は「偏見と憎悪に満ちた」一部人間の行為と指摘。 その上で「アンネはホロコーストで犠牲になったユダヤ人の子供150万人の中で、最も知られた代表であり、その記憶を侮辱する組織的計画だ」と述べた。 これに対し菅官房長官も、「極めて恥ずべきこと」と批判した。

ところでユダヤ人と日本を繋ぐ糸といえば、「命のビザ」で知られる杉原千畝(ちうね)の存在。 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害により隣国ポーランドやヨーロッパ各地から逃れてきた難民の命を救うべく、本国からの命令に反して大量のビザを発給し、およそ6000人の避難民を救った。 海外では杉原を「日本のシンドラー」と呼ぶが、オスカー・シンドラーが虐殺から救ったユダヤ人は1200人。

第二次大戦終結後、ソ連軍に身柄を拘束されてた杉原一家は1947年帰国を許され、厳寒の長旅を経て4月に興安丸で博多に着く。 しかし杉原に対する外務省の対応は厳しく、退職通告書が送付され、6月7日外務省を依願退職。 さらに杉原の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対しても、「存在しない」と回答している。 また外務省筋から「杉原はユダヤ人から金をもらってやったんだから金に困らないだろう」と根拠のない噂を流された時も、新聞はそれを否定しなかった。

杉原がイスラエル政府から多くのユダヤ人の命を救出した功績で「ヤド・バシェ厶賞」を受賞したのは、終戦から40年後の1985年で、亡くなる一年前。 そして日本政府による公式の名誉回復がなされたのは、21世紀も間近の2000年10月10日だった。 さて話はユダヤ系人権団体の声明に戻るが、声明文の中でせめて少しでいいから杉原千畝について触れて欲しかった。 そうしたら「遅ればせの受賞」についてのわだかまりも解けただろうにと、残念でならない。


 



   


「恋と水素」& ヒンデンブルク号爆発事故

2014年01月15日 | 航空機
「恋しくて」 Ten Selected Love Stories は、村上春樹が編訳したアメリカの作家による短編恋愛小説9篇と、訳者自身の書き下ろし1篇を加えて1冊に収めたもので、発行部数が伸びてるらしい。 その中の一つ「恋と水素」Love And Hydorogenを、奇妙なタイトルに惹かれて真っ先に読み始めたが、飛行機マニアの僕にとってはたまらない一遍だった。 1937年に起きた飛行船「ヒンデンベルグ号爆発事故」の原因と、ナチ党員でゲイのカップルである乗組員を絡めたストーリーの発想が奇抜。

飛行船は空気より比重の小さい気体をつめた気嚢によって機体を浮揚させ、これに推進用の動力をつけて操縦可能にした航空機。 機体の大部分を占めるガス袋(気嚢)には水素もしくはヘリウムが使われ、乗組員や乗客を乗せるゴンドラやエンジン・プロペラなどは外部に取り付けられている。 機体後部に取り付けられた水平尾翼で機体を安定させ、垂直尾翼で方向を変えるのは通常の飛行機と同じ構造。

20世紀前半までは大西洋・太平洋横断航路などに就航していたが、フランクフルトからリオデジャネイロまで3日半、ニューヨークまで2日のスピードは、当時の特急列車並み。 ヒンデンブルグ号の船室は特等室並みの快適さで、世界最初の空に浮かぶシャワーで身体を洗うことができた。 ダイニングルームは一流ホテルの光景そのもの。 ディナーのあとは、ウエイターがバーカウンターからラウンジや読書室に食後酒のグラスを運び、窓から見える雲の上側は月光に照らされ、砕ける波のように明るい。

ゲイのカップルで年上の恋人は乗客の若い娘に気があるそぶりで、彼を一途に想う年下の青年は嫉妬の念で平常心を失っている。 そんな状態で点検締め付け中のボルトは、ちぎれそうな悲鳴を上げた。 目的地で繋留用マストに向けて飛行船が急回転したとき、構造体は過度の圧力を受け、締め過ぎたボルトがライフルの弾丸のように勢いよく弾け飛ぶ。 その反動で跳ね返ったワイヤーがガス袋をざっくり切り裂き、漏れた水素が飛行船のてっぺんで光っている静電気の火花に引火し、目も眩む光が下方にあるすべてを包み込む。

LZ129・ヒンデンブルグ号は5月3日ドイツ・フランクフルトを発ち、2日半の大西洋横断後、ニューヨーク近郊の空軍基地着陸の際、突如爆発炎上しながら墜落し、乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡。 この事故で水素を利用した飛行船の信頼性は失墜し、その役割を終えた。 原因が「ナットの締め過ぎ」は勿論フィクションだが、諸説ある中で可燃性外皮塗料への空中放電説が有力。 ところで短編集で僕の選んだベスト1は 「モントリオールの恋人」。 訳者の言葉を借りれば「大人の練れたラブストーリー」


「航空大学帯広分校・事故報告書」 を読んで・・・。

2013年12月23日 | 航空機
12月20日の午後から僕のブログへのアクセスが急増したのは、2年5ヶ月を経て運輸安全委員会からの報告書が提出されたからで、事故への関心の高さが伺える。 報告書を一読してまず注目されるのは、?訓練機は平成23年7月28日9時11分に帯広空港を離陸し、「11分後の9時22分」 には剣山山腹に衝突し、学生1名と教官2名の3名が死亡し、学生1名が重症を負った。 ?教官Aは、「通常の訓練空域とは別の、地面との間隔が狭くなる山岳地帯を訓練空域として撰定している。」

?雲中飛行に不安を感じ、安全確認をした学生Aに対し、教官Aは「クリアー」(大丈夫)と返答している。 一般に悪天候で山に衝突する飛行機事故の多くは、自分の位置がわからなくなり(ロスト・ポジション)、迷走の末に衝突するものだが、1~3の事実から推測すると、教官Aは迷うことなく空港から衝突現場の方向に直行し、視界不良を心配する学生の助言も無視して事故を起こすに至っている。 まことに不可解なこの事故について、報告書は次のように結論ずけている。

「教官が山を覆う雲に接近または入ったのは、何らかの意図を持って行われた行為であった可能性が考えられるが、本人死亡のためその意図を明らかにすることはできなかった。」 さらに自らの生死に関わる異常行為に対し、後部座席にいた教官Bが沈黙していた理由については、「教官Aが主宰する訓練について、異論を唱えることを遠慮した可能性が考えられる。」 もう一つ気になった一行がある。 「教官Aは事故発生時にショルダーハーネスを外していた可能性が考えられる。」

アメリカの国家安全委員会(NTSB)に該当する、我が国の運輸安全委員会(JTSB)は国土交通省の外局の一つ。 航空・鉄道・船舶の事故や重大イシデントの原因究明調査を行うとともに、調査結果に基き国土交通大臣や原因関係者に対し、必要な施策・処置の実施を求める権限を有する。 今回は、教官Aが以前にも航空法に違反した訓練を繰り返していたと指摘、監督官庁である国土交通省の大田大臣と、大学校の紀(きの)理事長に対しよくぞ、安全対策や指導の徹底を求める異例の勧告を行っている。

独立行政法人・航空大学校に対する「24年度業務実績評価」は、23項目中SSがゼロ、Sが2個、Aが21個、B・Cはゼロ と総合評価は極めて高い。 帯広校の事故を含め、23年度まで立て続けに起きた事故を踏まえての評価であり、危機感の欠如において民間企業との認識の差を痛感する。 人も組織も、競争の無い世界に身を置いていることは怖い、競争こそが変革を生み人を成長させるからだ。 指摘にあった「企業風土と意識の改革」は容易ではない、民営化するぐらいの決断が必要なのかもれない。