カキぴー

春が来た

「コックピット09」 の読者さまへ

2010年06月26日 | ブログ

キャプテンの先崎です。 いつも飛ばない飛行機の操縦席にお立ち寄り頂き、うれしく思っています。 昨年11月 「『前立腺がん』根治を諦めない人のために」を出版したあと、ポッカリ穴が空いたような状態になりました。 でも身体は忙しいのです。 辺鄙なところに住み、広い家の管理と庭の手入れ、雑木林の下刈りと耕作放棄地の草刈り、野菜作りと2匹の犬の世話、女房の運転士、どれも手を抜きたくないからです。

さらに、ここ桜ヶ丘の地は本にも書きましたが、夏涼しく冬寒いところです。 暖房は越してきた年から薪ストーブに頼っています。 ひと冬に焚く薪の量は中型トラック1台分にもなりますから、秋になると薪作りもやらなければなりません。 そんなわけで身体は使っていますが、頭の方は運動不足。 そこで思いついたのが、「ブログなるものを書いてみよう」となったわけです。

去年の12月から書き始めて、実は今日で半年になりました。 30日×6ヶ月=180回、中味はともかくこんなに毎日書けるとは思いませんでしたが、一日も休まず続けられたのは、読んでくれてる人が居たからです。 ブログは何時にどれだけの人が読んでくれたか、記録に残ります。 真夜中や早朝に読んでくれる人、休みの日にまとめて読んでくれる人などさまざまですが、アクセス総数が今朝で5425回にもなりました。

ところが近ごろ書いていて、物足らなさみたいなものを感じ始めました。 その正体が何なのか分かりませんが、自分なりの充実感が湧いてこないのです。 考えない人ほどよく喋ると言われますが、書くことにも同じことが言えるということに、気がついたのかもしれません。 僕はこれを一つのステップとして捉えることにしました。

回りくどく申し上げましたが、この辺で「ペースダウン」し、新たな気持ちで再スタートすることを、読者の皆様にお伝えしたかったのです。 これからは、読み手の興味を引くものを書こうとするのをやめ、書き手と読み手、さらに読み手どうしも一体感を感じられるような内容にできればと考察中です。 週一度ぐらいアクセスしてみていただければ幸いです。 

 

 

 

 


「ラ・マルセイエーズ」

2010年06月25日 | 音楽

HHKの深夜番組「母を語る」で、作家の澤地久枝氏が、フランス国家「ラ・マルセイエーズ」を、亡くなった母親がフランス語で口ずさんでいたという話を聞いた。 おそらく世界で最も有名なこの国歌については、フランス在住の作曲家 吉田進氏による著書 「ラ・マルセイエーズ物語、国家の成立と変容」を読むと、この歌が激動する歴史の中で辿った運命と、作者「ルジェ・ド・リール」の波乱に満ちた人生に、心を動かされる。

1946年のアメリカ映画 「カサブランカ」は、モロッコのカサブランカが舞台。 北アフリカなどのフランス植民地において、親ドイツ政府であったヴィシー政権に抵抗していた「自由フランス」を支持する 「反独シーン」が多く登場する。 僕が感動したシーンは、ハンフリー・ボガードの経営する 「リックの店」での出来事。

占領中のドイツ軍人たちが、権威を見せ付けるように軍歌 「ラインの守り」を歌いだす。 するとイングリッド・バーグマンの夫で、レジスタンスの指導者ラズロが楽団に 「ラ、マルセイエーズ」を演奏させ、フランス人の誇りを取り戻すため、命がけでタクトをふるう。 それに力ずけられたフランス人客が全員起立し、「ラ・マルセイエーズ」を涙を流しながら歌う。

1950年反乱を起こしたロシアの戦艦 「ポチョムキン」、吹奏楽団が行進の先頭に立って演奏したのが 「ラ・マルセイエーズ」。 亡命していたレーニンが民衆の待ち受けるペトログラード駅に到着し、車両の扉を開けたとたんに演奏されたのも、「ラ・マルセイエーズ」。 戦後では1956年ハンガリーの反ソ内乱、体制の自由化を要求して国民の歌ったのが、「ラ・マルセイエーズ」。

最近では1989年の天安門事件で、民主化を求める行動の中で 「ラ・マルセイエーズ」の歌声が響いた。 1792年の4月、ストラスブールで工兵大尉の 「ジュ・ド・リール」によって一晩で作られた軍歌。 この歌は紆余屈折の末、ついに「フランス国歌」と決定される。 そして218年を経た現在も、国境を越えて、全世界の自由を愛する人々に、歌い継がれている。

 


「F・スコット・フィッツジェラルド」 との再会

2010年06月24日 | 小説

2010年は、アメリカの小説家・脚本家 F・スコット・フィッツジェラルドの没後70年にあたる。 僕がスコット・フィッツジェラルドの作品に接したのは、1955年に日本で公開されたアメリカ映画 「雨の朝パリに死す」を観て、原作の短編 「バビロン再訪」」を読んだのが初めて。 その後 「グレート・ギャッビー』を読み、映画を観た。

スコット・フィッツジェラルドは、わが国のみならず、本国アメリカやヨーロッパにおいても、長いこと忘れられた作家だった。 20代にして、アメリカでもっとも有名な作家になったこの天才は、「アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ物無き美女」 と言われたゼルダ・セイヤーを妻にめとり、ジャズ・エイジと呼ばれる 「狂乱の20年代」の象徴として華やかな生活を送り、多くのスキャンダルを撒き散らした。

しかし1929年の大恐慌を境に、あっという間に時代遅れの小説家となり、生活のための短編をグラビア雑誌に書きちらし、ハリウッドでその日暮らしの脚本稼業に手を染めたものの、「風と共に去りぬ」の仕事から追い出され、アル中と心臓病で人知れず死んでいった・・・・。 これがしばらく前までの、作家フィッツジェラルドの一般的なイメージだった。

ほぼ同年代の生まれで、作家としては後輩にあたるヘミングウエイやフォークナーが、フィッツジェラルドの死後にノーベル賞を得て、ほとんど永遠と思われる名声を享受していたとき、フィッツジェラルドは彼らの周辺を取りまく2流のマイナー作家という格好に見えた。 ところが芸術家の運命とは、不思議なものである。

フォークナーはともかくとして、あれほど神秘的な文学の巨人像を体現したへミングウエイの栄光にいまや影がさし、フィッツジェラルドの名声と人気は、いまやへミングウエイを凌ぐものさえ感じさせる。 わが国でその最も大きな功績があるのは、作家の村上春樹氏。 そういう僕もなにを隠そう、氏の再評価に引かれてフィッツジェラルドとの再会を果たせた、幸運な読者の一人。


急がれる 「ゼネラル・アビエーション」の改革

2010年06月23日 | 未分類

「プライベート・ジェット を日本でも普及させなければ」 と主張しているのが、森ビルの森 稔社長。 プライベートジェットとは、数人~10数人程度を定員とする小型の航空機で、公共交通ではなく、個人や企業が対象の 「ゼネラル・アビエーション」を想定して設計・製造されているもの。 日本では、いまだに「特権階級の贅沢な乗り物」としてのイメージが強く、普及率は極めて低い。

また中国・韓国・台湾などでは、いま世界から要人・有名人などをたくさん呼び込もうと、施設の整備や専用空港の設置に力を入れていると、森氏は心配する。 さらに 「日本に本社機能を置くか、投資をするかどうかは、経営者が判断する。 そういう人たちは世界中を飛び回っていて、プライベート・ジェットがないと仕事にならない」 と言う。

しかし日本の実情は、空港への着陸制限・ランプ使用制限など、運行に対する規制が多過ぎる。 これは航空法自体が、大手の航空会社を想定して制定したもので、ゼネラル・アビエーションへの対応が遅れているから。 例えば事前に許可を取得する必要があり、突然の離発着が出来ない。(フライトプランの提出は7日以上前の提出が義務化・東京国際空港)

さらに先進国に比べ滞空証明・予備品証明など各種書類の手続きが複雑。 最大離陸重量が5.7tを超える飛行機は、技能検定に合格した運行管理者(ディスパッチャー)が必要。 格納庫の使料料もべらぼうに高価。 こんな現状から、定置場をマニラやバンコックに置き、必要に応じて日本に呼び寄せ、今後は韓国や台湾に移したいという企業もある。

「まずは羽田や成田の発着枠を増やすこと、難しければ首都圏に近い地方空港を、専用空港として利用する。 またプライベート・ジェットに対する税金保険料の引き下げ、税関・入国検査・検疫の簡素化」 これらを早急に実現し、日本を再度アジアのビジネス・センターにしたいと森氏は説く。 菅政権は新成長戦略のなかで、「外国企業の誘致」を閣議決定しているが、はたしてゲネラル・アビエーションの改革まで踏み込めるか、大いに期待したい。


「ビジネスジェット」の展望

2010年06月22日 | 乗り物

2001年9月11日朝、マサチューセッツ州ボストン空港、バージニア州ダレス空港、ニュージャージー州ニューアーク空港、の3飛行場からを飛び立った4機の旅客機。 午前8時46分~10時03分までの間に乗客乗員265人全てが死亡。 さらに巻き添えになった人を含めると、死亡者2993人、負傷者6291人、行方不明者24人。(テロリスト19名を含む)  これが旅客機を使った「アメリカ同時多発テロ事件」。

この事件は世界中に衝撃を与え、搭乗の際のボディーチェックや手荷物検査が、一段と強化された。 しかしその後も検査をすり抜けたテロ未遂事件が起きており、航空機関連のテロを今後防ぎきれるかどうか、疑問が残る。 多くの飛行機の運航を一括管理する 「コントロールシステム」や、悪天候時の離着陸に使用される「誘導システム」などに対する防御も、万全なのかどうか心配。

搭乗の際に預けるトランクなどにしても、現在のレントゲン検査だけで本当に大丈夫だろうか、また貨物室に積み込む積載物のチェックに死角はないか、などなど心配したらキリがない。 航空機に対する安全対策と、テロリスト達の考え出す攻撃手段は、9・11を例にとるまでもなく、どこまでいっても 「いたちごっこ」。

テロの標的とされる可能性が低く、空港検査に時間を取られない 「ビジネスジェット」に対する関心と需要は、景気回復にあわせて急速に高まる可能性が高い。 これから著しい発展が期待される中国・アジア諸国・南米など、ビジネスのグローバル化には、ますますスピードが要求されるからだ。

巡航速度約800km/時、計器飛行航続距離2200km、6-7人が乗れる 「ホンダ・ジェット」。 機体に炭素繊維などの複合材を使って軽量化し、主翼形状などと会わせて同クラスのライバル機との比較で、30~35%の燃費向上を実現した。 標準仕様の価格が4億円弱、高額の年収を得る企業のトップ達が、効率良く仕事をする足として、決して贅沢品ではあるまい。 発売が待ちどおしい。

 


もう一つの がん制圧法(2)

2010年06月21日 | 健康・病気

医師のH教授は42歳の若さで大腸がん、転移性肝臓がんを患っているが、原因ははっきりしている。 1、偏った食事、(高塩分、高脂肪、高動物性蛋白、野菜不足) 2、アルコールの過量摂取(ワインなど) 3、睡眠不足 4、精神的ストレス 5、虫垂炎手術の既往(手術の際リンパ節を切除するため、腹部の癌に罹りやすいらしい)。

つまりゲルソン療法的食事と正反対の内容。 その結果1990年3月、左下腹部痛、下血、テネスムス(しぶり腹)などの症状で、S状結腸癌と診断され根治手術を行う。 しかし組織学的にしょう膜にまで達しており、局所リンパ節にも2ヶ所の転移を確認する。 その後抗がん剤を7ヶ月間服用したが、食事は従来どおりだった。

同年10月、全身に倦怠感を覚え、専門医による肝エコー検査を受けたところ、肝右葉と左葉に1.5cmの転移性肝臓がんを2ヶ所発見。 この癌はPEIT(エタノール局所注入)で潰したが、この時点で抗がん剤の服用と手術は断り、教授が 「独自に修正したゲルソン療法」 を開始する。

その内容は、大量・多種類の野菜ジュース(2000ML/日、後に1000ML/日)の摂取、脂肪分・塩分・動物性タンパク質の制限、玄米・豆類・海藻類などを中心としたゲルソン療法的食事を実行する。 コーヒー浣腸(解毒作用を促すため)はしていない。 その結果、結腸がん・転移性肝臓がんは、発症後19年以上経過するが、再発なく現在に至っている。

「栄養・生活習慣(ライフスタイル)を変えることで、遺伝子レベルで癌を征圧できる」 と教授は言う。 さらに前述のM氏とも共通してることは、癌を克服した後も基本的に療法的食事をけ、療法的生活習慣を持続していることだ。 つまり 「癌に根治ない」 ことを肝に銘じており、再発の可能性を意識しながら日常を過ごしている。 3人に1人が癌で亡くなる時代だが、寿命を延ばすことは可能なことを教わった勉強会だった。


もう一つの がん制圧法(1)

2010年06月20日 | 健康・病気

昨日は、「癌の勉強会」に行ってきた。 主催しているのは、僕と同じ市内に住み、末期の前立腺癌から生還したM氏で、講師は米国で栄養学を勉強し、末期癌の治療を指導しているT医師と、これまた末期癌を克服した精神内科のH教授。 そして集まった人の多くは、手術、抗がん剤、放射線治療などの現代医療に見放された患者やその身内。

話の内容に我田引水的なところも多く、また成功例ばかりで、生存できなかったケースの紹介がないのが気になったが、少しでも生きるチャンスと希望があることは、末期患者にとって大きな支えとなることは確か。 さらに癌を経験している僕にとっても、参考となることや、思い当たることも多々あり勉強になった。

特徴的なのは、免疫力の向上を癌治療の基本と考える点。 つまり本来自分の体に備わっている 「自己治癒力」を高めて癌の増殖を抑える考え方。 具体的には栄養療法(ゲルソン療法)、サブリメント、免疫細胞療法、精神腫瘍学的療法(カウンセリング)などが中心。 さらに、身体にやさしく元気に日常を送れる、外来通院で行う、癌が大きくならないことを目指す、科学的・理論的根拠がある、などを治療の目標としている。

「ゲルソン療法」の考案者、マックス・ゲルソン博士は、ノーベル賞受賞者アルバート・シュバイツアー博士の主治医。 シュバイツアー博士は70代で糖尿病を患い、精神まで不調をきたして うつ状態となり、自殺も考える。 しかしゲルソン療法で回復し、90代まで健康を保つ。 彼はゲルソン博士のことを、「医学史上稀有な天才」と褒め称えている。

この療法を癌治療に使ったのは1928年(昭和30年)。 ゲルソン博士は説く 「医学会は腫瘍のみが癌だと錯覚している。 これは最大の間違いで、癌腫瘍は癌の症状の一つで、癌の全てではない。 癌とは、がん細胞や腫瘍を生み出すような 『身体全体の栄養代謝の乱れ』なのだ。 腫瘍に目を向けるのでなく、栄養代謝の乱れを改善すれば、癌は治る」。 つまり癌は局所の病気でなく、全身の病気だと捉えている。

 

  


尿瓶と俳人の話し

2010年06月19日 | 健康・病気

高齢化の影響か、「尿瓶」が売れているらしい。 子供のころ見たものは記憶にあるが、最新のものも容器がガラスから塩化ビニールに変わり、蓋がついたぐらいで、さほどの進化は見られない。 価格は男性用で1000円~1500円程度で、容量は1100ccと在るから、充分一晩は使えそう。 通販の宣伝文はが涙を誘う、「誰にも知られず、商品名も出さずにお届けします」。

自ら尿瓶を愛用し、さかんにこれを推奨してるのが俳人の 「金子兜太」(かねことうた)氏、91歳。 氏の父が88歳で亡くなっているが、死因がトイレだったことを教訓として、80歳になってから夜間はぜったいトイレに立たない。 尿瓶は初め億劫だったが、慣れてくるrと手放せなくなると言う。 透明な壜でいつも尿を観察してると、健康状態が分かるらしい。

90歳過ぎまで生き抜いて、今なお現役で活躍してる人の生活習慣や考え方は、さまざまな示唆を与えてくれる。 生まれ育ったのは秩父で、山河に囲まれて育っている。 その頃の、野菜中心の食生活や、早寝早起きで体を動かす習慣、穏やかで健康的な環境などが、丈夫な体作りの基礎となっているようだ。 因みに氏の母は104歳まで元気に生き、父も尿瓶を使ってれば100歳までは生きられたろうとおっしゃる。

この歳まで生きれば、妻に先立たれる可能性は高いし、癌に見舞われる。 頑強な氏も妻を失ってから、顔面神経麻痺や癌を患う。 腎臓癌は肺まで転移したが、基本的に西洋医学に頼らず、鍼灸療法で進行は抑えられている。 若い人の癌は進行が早いと言われるが、いま小児がんや60歳未満の人の脳腫瘍においては、完治する可能性が高い。 若い人ほど強い抗がん剤や、放射線治療の副作用に耐えられる体力があるからだ。

高齢の金子氏が東洋医学を主に、癌と共存することを選択したのは正解。 それに加えて、毎日決まったスケジュールで生活しており、一日も無駄にしてない。 また晩酌は、日本酒やワインなどの醸造酒を控え、焼酎やウオッカなどの蒸留酒に替えて飲み続けている。 さらに強調しているのは、欲望を捨てない、義務を果たさない、頭を使え。 これから癌と上手く付き合えれば、100歳までの健康長寿は可能なことを、氏は教えている。 


ヴァレット・パーキング

2010年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

「ボルダー」 はアメリカ・コロラド州ボルダー郡に位置する、人口91.685人(2005年)の都市。 州都デンバーの北西40kmにあり、標高が1655mと高いため、陸上選手などが高地トレーニングを行うことで知られる。 ロッキー山脈の自然と調和の取れた美しい街ボルダーは、山形市と姉妹都市の関係にある。

ボルダー郊外の山中に在るレストランが 「Flagstaff House」。 傾斜屋根で木材をふんだんに使った山荘風のレストランは、大人相手の落ち着いた高級レストラン。 当時デンバーに留学してた息子の案内で、僕たち夫婦がこの店に行ったのは、夏の日の夕方。 そして今回は飲み食いの内容とは別の話。

正面玄関に車を着けると、正装したボーイ風の男性が駆け寄ってきてドアを開けてくれる。 息子からキーを預かると、笑顔で 「どうぞごゆっくりエンジョイなさってください」 と言って我々を見送った後、車を駐車場に運ぶ。 そして食事を終え玄関ロビーへ戻ると、車を運んできて横ずけする。 窓ガラスは綺麗に磨かれおり、うやうやしくドアを開けられると、すっかりいい気分になって10ドルを渡してしまう仕組み、これが 「ヴァレット・パーキング」。

欧米では日常生活の中に溶け込んでいる「チップ」の決まりだが、日本では習慣として定着しなかった。 それが言いか悪いかはさておき、こうした習慣のある国とない国とのサービスは、あきらかに差がある。 この国でタクシーに乗って、行き先を言っても返事をしない運転手は、さすがに少なくなったが、大きな荷物を持っていても、トランクを開けて出し入れしてくれる運転手は、そう多くない。

感謝の気持ちをお金であらわすことが、当たり前になってしまった国も寂しい。 そしてチップの制度がなくても、分け隔てなく扱うこの国の国民性を、本当に素晴らしく思うし、誇りを感ずる。 しかしチップはやらなくても、いいサービスを受けたとき、せめて感謝の言葉ぐらいは欲しい。 「ありがとう」 という言葉の持つ力は大きい。

 


カナダのプチ・リゾートホテル

2010年06月17日 | 旅行記

大自然に囲まれたロッジ風のホテルは、カルガリー国際空港から車で3時間ほどのところに在った。 赤い屋根と、木材の持つ素朴な暖かさを生かした3階建ての建物は、かなりの歴史を感じさせるが、良く手入れが行き届き、磨きこんである。 花と芝生と川が流れている庭からは、カナディアンロッキーの険しい頂を間近に見ることができる。

北アメリカ・コロラド州デンバーに留学してた息子を、夫婦で訪ねたのは21年前の夏。 4日ほど彼のアパートに滞在し、大学のキャンバスを見学したり、 大きなショッピングセンターへ通ったりしながら、大都市に住む人たちの日常にも触れて過ごした。 その後3人でカナダのスポケーン経由でカルガリーに入り、空港からレンタカーでホテルに着いた。

気温15℃湿度50%。 高原の空気を満喫しながらの散策のあと、暖炉の燃えるロビーで一杯飲み終わるころ、我々はこのホテルがすっかり気に入ってしまった。 ロケーションの素晴らしさと静寂さ、ヨーロッパ風のインテリア、従業員のホスピタリティーは洗練され細やか。 それにフランス料理の流れを汲むここの夕食が期待を裏切らなかったら、このあと予定している2つのホテルをキャンセルして、ここに残ろうと決めた。

ディナーは8時45分からの席を選んだ。 アペタイザーはオリジナルのパスタとサーモンのマリネー、ロブスターのスープ、いずれもシェフの腕は悪くない。 アントレーはグリル風の魚料理、皮がカリカリに焼けておりトマトソースとぴったし、虹鱒のグリルも焼き具合は絶妙。 唯一の肉料理タックのステーキも、焦げた皮がおいしい。 ヴァンムースとワインはナパヴァレーのものを飲んでみたが、カリフォルニア・ワインの品質を再認識した次第。

メインの料理は3人でシェアーして食べたが、ウエイターの切り分けが見事だった。 デザートは、甘さを抑えた自家製のチョコレートケーキで、僕と息子は締めくくりに、カルヴァドスのオンザロックをダブルで貰った。 満足して食べ終わったのは11時過ぎ、もちろん2泊を追加したことは言うまでもない。 親子3人での旅はこれが最後となってしまったが、いい宿はしっかりと記憶に残っている。   

 


「ブルートレイン」と「帯状疱疹」

2010年06月16日 | 乗り物

サッカーワールドカップに湧く 南アフリカの行政首都プレトニアから、南ア第2の都市、ケープタウンまでの1600kmを、26~27時間・1泊2日で結ぶ豪華寝台列車が、「ブルートレイン」。 ギネスブックにも、「世界一の豪華列車」と記載されている。 女房とこの列車に乗ったのは、2001年の8月。

僕はオリエント急行に乗ったことはないが、現役の長距離寝台列車としては、ブルートレインがその設備、乗り心地、サービスなどにおいて、まさに群を抜いていることを実感した。 午前のゆっくりした時間に乗車して、沿線の風景を眺めながら時を過ごし、夕暮れ時になるとシャワーを使い、正装して食堂車でのディナー。 ワインを選びコースメニューを終えるまで2時間、食後は展望車で夜景を見ながら、食後酒とピアノ演奏を楽しめる。

ブルートレインの歴史は古い。 ボーア戦争で勝利したイギリスは、1910年南アフリカ連邦を樹立する。 その後海外から訪れる多くの富豪のため、ブルートレインの原型となる 「ユニオン・リミテッド」という豪華列車が運行を開始する。 この列車は、当時から電気照明、冷温水設備、高級感あふれる内装と、乗務員のサービスレベルにおいて、オリエント急行など欧州の豪華列車の水準に匹敵するものだった。

1933年には、振動をより少なくした食堂車が、1939年には空調装置を備えた寝台車の連結が開始された。 アパルトヘイトの廃止される1991年までは、白人以外乗車できなかったが、日本人は 「名誉白人」として乗車が可能だった。 なお2009年現在治安悪化のため、ヨハネスブルグ・パーク駅は、通過駅となっている。

実はこの豪華列車の旅だが、僕は旅行の前日 「帯状疱疹」を患い、皮膚科に駆け込んで薬を貰っての出発だった。 ところがドクターは鎮痛剤を処方してくれなかった。 ピリピリとした神経の痛みが絶えず腹部を駆け巡る。 腹をおさえ、前かがみになってのディナーは正直なところ辛かったが、今となっては、いい思い出。 


「ムルソー」と「カミユ」

2010年06月15日 | お酒

フランス・ブルゴーニュ地域圏、コートド・ボーヌ地区にある人口1600人ほどの村 ムルソー。 この村から産出される 「ムルソー」は、僕の大好きな白ワイン。 シャルドネのほか、ピノ・ブランの使用が認められているが、シャルドネ100%のものが多い。 鮮やかな明るい黄色で、十分なコクと香りを楽しめて、お値段は数千円~1万円ほど。

アルジェリア生まれのフランス人作家 アルベール・カミユの代表作の一つ 「異邦人」の主人公も、なぜか 「ムルソー」。 カミユとムルソーとの接点は見当たらないが、あえて言えば、彼の父親が葡萄酒輸出業の会社に勤めていたことぐらい。 しかし彼もこの白ワインが好きで、よく飲んでいたことをあとで知った。

「きょう、ママンが死んだ」で始まる異邦人は、人間社会に存在する不条理について書かれている。  ムルソーは酷暑の中で喧嘩に巻き込まれ、ナイフをかざして襲ってきたアラブ人に、ピストルの弾を4発撃ち込んで殺す。 裁判官から殺人の動機を聞かれ、「太陽が眩しかったから」とだけ答え、死刑を宣告される。

ムルソーは死刑にさえも関心を示さず、上訴も拒否して刑が確定する。 悔いを改めるよう諭す司祭さえも追い返す。 留置場の中で彼は、死刑の瞬間に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望として死を迎える。 異邦人が出版されたのは1942年、フランスと戦うアルジェリアは、まだ戦火の中にあった。

1960年カミユは、友人の運転する車(ファセル・ベガ)で彼の家族と一緒にパリへ帰る途中、ヨンク県ビルヴァンにおいてタイヤがパンクし、立ち木に激突。 助手席に乗っていた彼は即死、友人も数日後死亡、友人の妻と娘は一命を取りとめる。 その2時間前の昼食時、彼らがレストランで空けた2本の白ワインが、「ムルソー」。  

  


パラパラスホテル(イスタンブール)

2010年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム

オリエント急行の終着駅トルコ・イスタンブール。 1883年開通の国際列車は、フランス・パリから当時のコンスタンチノーブルまで、3500kmを81時間41分かけて到着した。 長旅から開放された欧州の上流社会の旅人が旅装を解いたのが、1892年オリエント・エクスプレスの旅行者用に建てられた 「パラパラスホテル」。 このホテルが、長い全館改修工事を終えて、今年の9月1日にグランドオープンする。

ホテルに泊まったゲストで最も有名なのが、トルコ建国の父 故アタテュルク大統領で、使用するのはいつも101号室。 この部屋は博物館として保存されてきたが、改築後もそのまま残され公開される。 他にも歴史上の有名人が多数宿泊している。 マタ・ハリ、クレタ・ガルボ、アーネスト・へミングウエイ、ジャックリーヌ・ケネディー、国王エドワード8世、皇帝フランツ・ジョセフ、マリア・かラスなど。

411号室は、推理作家 「アガサ、クリスティ」の部屋。 彼女は1934年出版の 「オリエント急行の殺人」を、この部屋で執筆した。 411号室は改築後もゲストルームとして、一般に開放されるという。 1926年彼女は彼女はロンドン郊外の田園都市、サニングデールの自宅 「スタイルズ荘」から突然姿を消し、行方不明となる。

これが推理小説の歴史に名を残す大事件、「Agasa Missing]。 事件は11日後にヨークシャー北部のホテルで、別人名義で宿泊していたところを家族に保護され決着する。 何故失踪したのかについては諸説があるが、解明されていない。 彼女は当時珍しかった車を自ら運転して家を出ており、秘書と夫に手紙を残している。 しかし何が書かれていたかは、今もって謎のまま。

東洋のエキゾシズムを取り入れながらも、基本的に古き良きヨーロッパスタイルを残しながら、115年の歴史を刻んできた パラポラスホテル。 アガサ・クリスティが風邪をこじらせ、静養先のイギリス・ウオリングフオードの自宅で亡くなって34年。 この秋、ホテルと411号室がどんな姿で蘇るのか、待たれるところ。

  

 


「トロッコ」の記憶

2010年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

「トロッコ」は、芥川龍之介が1922年(大正11年)に発表した短編小説。 幼い少年が大人の世界を垣間見る体験をつずった物語で、今も時代を超えて読まれている名作。 一部の中学校の教科書にも採用されてる。 僕が幼い頃に読んだこの物語を、ずっと記憶しているのには訳がある。

小説のあらすじは、ざっとこんな内容だ。 小田原・熱海間に軽便鉄道敷設の工事が始まった。 8歳の良平が、その工事現場で使う土砂運搬用のトロッコに興味を持っていた。 ある日トロッコを運搬している土工と一緒に、トロッコを押すことになった。 良平は、最初は有頂天だったが、だんだん帰りが不安になってくる。

だいぶ遠くまで来て土工から、「俺達は泊まりになる、遅くなると家で心配するから帰れ」と言われ、良平は暗くなるなか「命さえ助かれば」と、線路沿いに駆け続ける。 そして家に着いたとたん、大声を上げて泣きじゃくる。 父や母は彼の泣く理由を尋ねるが、今までの心細さを振り返ると、どんなに泣いても、泣き足りなかった。

僕も良平と同じ年頃、こんな経験をしたことがある。 身内にトラックの運転手がいて、ときどき乗せてもらうのが待ち遠しかった。 当時の車は木炭が燃料、送風機を回して手伝ったりするのが嬉しかったのだ。 トラックの行き先を聞いていたある日、帰りの車に乗せてもらおうと、家から2時間ほど離れた処まで歩いていき、道端で待っていた。

しかしいくら待っても車は来なかった。 乗せてもらう約束もしてないから、誰に文句も言えない、半分泣きながらの帰リ道は遠かった。 その後もトラックには乗せてもらったが、このことは話してない。 子供心にも話したくなかったし、話すべきでないと思ったからだ。 幼い頃の少年はいろんなことを経験し、その中からいろんなことを学んで大きくなっていく。 

  


「ジーンズ&Tシャツ」の季節を迎えて

2010年06月12日 | お洒落

山奥で広大なイングリシュガーデンを作り、一人住まいしている老人の話は、前に僕のブログで紹介した。 彼の趣味が彫刻で、作品は「ジーンズ」を浅めに穿いた女性の、ヒップ部分だけのものが多い。 見どころはヒップ・ポケットとベルトの細部にわたる造作と、ヒップから背中にかけて露出したくぼみの部分で、硬軟二つの組み合わせが、見事なエロティシズムを醸し出す。

大戦後、世界中に蔓延した 「アメリカ製」が3つあった。 ジャズにコーラにジーンズ。 ジーンズを発明したのは リヴァイ・ストラウス。 1849年カリフォルニア州サクラメント河畔で、砂金が発見される。 これに始まるカリフォルニア詣でが俗に言う 「ゴールド・ラッシュ」。 一攫千金を夢見て、金探しに出かけた連中のことを、「フォリィナイナー」(49年野郎)と呼んだ。 

リヴァイ・ストラウスは別にフォリィナイナーではなかった。 彼はドイツのババリアからの移民で、サンフランシスコに雑貨店を開いていた。 ある時、老フォリィナイナーがやってきて言うには、「お前さんは丈夫なズボンを扱うべきだ。 金を探すには、なんといっても丈夫なズボンが必要なんじゃ」。 このアドヴァイスから、幌馬車の幌布で作ったズボンが生まれた。 1850年彼が20歳の時だった。

ジーンズの出現は長い間、若者の意識の底でくすぶり続けてきたものに、火をつけたように思う。 1950年代に入って、映画にもそうした傾向が見られる。 「乱暴者」ではマーロン・ブランドが、Levi‘s501ⅩⅩを、「理由なき反抗」ではジェームズ・ディーンが、LeeRIDERS101を着用している。

1970年代の中ごろを境として、ジーンズはいっそうの定着、浸透が進むのだが、言い方を替えれば、それは風化でもあった。 洗いざらしのジーンズが登場したことで、闘争的、反体制的意識を、文字どうり洗い流したような気がする。 難しいことは別にして、これからのシーズン、 ジーンズとTシャツ、素足にローファーの靴を履いて過ごしたい。 そんな訳で、せいぜいシェイプアップに努めねばと思っている。