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春が来た

第2次世界大戦で犠牲となった 「ノルマンディー」と「沖縄」

2012年04月05日 | 戦争
ドイツと日本は先の大戦で、互いに同盟国として連合軍と戦い共に敗れた。 そして本土決戦の前に救いようのない殉難を強いられたのが、当時ドイツの占領国でヨーロッパ大陸への上陸地点となったフランス・「ノルマンディー地方」と、本土防衛の盾となった「沖縄諸島」。 ドイツ本土を目指す連合軍にとって上陸地点の候補地は数ヵ所に絞られたが、最終的にポイントになったのが空軍の(とくに航続距離の短い戦闘機)行動範囲だった。 第2次世界大戦は空軍の戦闘力が勝敗を決する戦争になっていた。 上陸海岸の制空権を取らずに上陸するのは自殺行為であり、上陸後も輸送船団や補給港を空軍の支援なしでは保持できないからだ。 空軍の基地はイギリス本土にあり、この起点からヨーロッパの地図を検討すると候補地はライン川の河口付近からコタンタン半島の海岸に限定された。

当初はバ・ド・カレー海岸が有望と思われた。 イギリス・フォーランドからフランス・カレーまでのドーバー海峡最狭部は僅か34kmしかないし、ノルマンディーに比べてドイツ国境に近く、フランスとドイツの連絡線を絶つことでドイツ軍の撤退を誘うことができる。 しかし決定的な欠点があった。 補給の拠点となる大きな港が無いのだ。 ノルマンデーの近くにはシェルブールという大きな港があり、しかも上陸部隊の発進基地としてイギリス海軍の一大拠点であるポーツマス軍港が近かったことが、ノルマンディー地方の住民にとっては不運であった。 しかし彼らがある種の生け贄になることで、パリをはじめととするフランスの残り多くの地域が救われたのは、紛れもない事実なのである。 僕が沖縄を比較対象にした理由もここにある。

連合軍の上陸からノルマンディー開放までのあいだに殺されたフランス民間人は1万9890人を数え、それをはるかに上回る数の人びとが重傷を負った。 ノルマンディーの人的被害はそれだけではなく、1944年1月から5月までの「オーヴァーロード作戦」にいたる期間(作戦開始日は6月6日)にも、ノルマンディーを中心に連合軍は準備爆撃を実施している。 それによるフランス人の被害は死者が1万5000人、負傷者が1万9000人に達しており、戦争の全期間を通じ、連合軍の手によって命を落としたフランス人の数は7万人に及ぶ。 この数は、ドイツ軍の空爆で殺されたイギリス人の総数を上回っており、当然ながらそこまで破壊する必要があったのかという議論は、その後長いあいだ続くことになる。

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的戦闘は6月20日に終了した。 日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄出身者が12万2228人、その内9万4000人が民間人で多くは住民犠牲者。 日本第32軍司令官(沖縄守備軍最高指揮官)・牛島満中将が自決。 一方アメリカ側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者は7万2012人。 アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)・サイモン・バックナー中将は、前線視察中に砲撃を受けて戦死したが、これはアメリカ軍史上最高位の階級で戦死した唯一の軍人。 余談だが僕の在学してた中学にどんな事情があったのか、牛島中将のご子息が一級上のクラスに半年ほど居られたのを思い出す。 話を交わしたことはなかったが、さすがにいい身なりをして上品な雰囲気の上級生だった。 

牛島は戦況が日増しに悪化する1944年9月沖縄に赴任すると、軍民一体となったサイパンの「玉砕」を繰り返してはならないと、老人・児童・これを世話する女性を北部に疎開させた。 また「やんばる」に逃れた大半は栄養失調や餓死であったことから、住民の栄養失調や餓死をを防ぐため、軍用糧食を住民に配る覚悟をし部下に指示を出している。 沖縄陥落から3日後の23日牛島は礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座、名刀「来国俊」を手に割腹、介錯を頼まれた坂口大尉が首を切り落とした。 行年58歳。 戦後の米軍による統治下でも沖縄の住民はさまざまな苦渋を強いられ、今なお基地問題で戦後を引きずっている。 「沖縄基地移転先と、3・11ガレキ置き場の選定は似ている」と言ったのは、作家・宗教家の玄侑宗久氏。 どこかが引き受けなければと思っているが、いざ自分のところとなると反対するからだ。 



 

     

     


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