カキぴー

春が来た

治療から3年、次の癌に備える

2010年05月31日 | 健康・病気

前立腺がんの放射線治療から3年が経ち、半年振りに東北大学病院泌尿器科のトップ、荒井教授の診察を受けた。 早めに病院に入り、まず採血を済ませてから診察を待つ、結果が出るまで1時間余、10時過ぎには呼び出しがある。 今回、前立腺がんの検診で指標となる 「PSA値」が、前回の0.059ng/ml から0.098ng/mlに上昇してしていて不愉快。

僕から質問をする前に、教授からPSA上昇についての説明がある。 PSAと密接な関係を持つのが 「テストステロン」。 テストロンは男性ホルモンの一種で、筋肉の増大、体毛増加などの効果がある。  またテストステロンはやる気を促し、快楽をもたらすため、アメリカではうつ病の治療薬としても使用されている。

僕は放射線治療を受けるまで、約8年間もホルモン治療を受けている。 この治療は男性ホルモンの活動を抑えることで、男性特有の病気である前立腺がんの細胞増殖も、抑えようとするもの。 だから放射線線治療を終えて、1年経過した時点でのテストステロン値は、通常の約50%も減少して1600。 しかし2年目の数値は1700まで回復、そして今回は2538まで急上昇した。

前置きが長くなったが教授の説明によると、長期のホルモン療法で女性化してた僕の体は、徐々に男性化してきており、ここにきて急回復してきた。 当然、連動してPSA値も上昇したわけで、癌細胞の再活動とは全く無関係とのこと。 上がった数値も0.00台の範囲で想定内で、因みに癌が疑われるPSA値は、4~10ng/ml。

また放射線治療には、「晩期障害」という副作用がある。 これは治療を終えて3~5年後に排尿、排便時に起こるさまざまな症状。 しかし僕の受けた 「IMRT」は、正常な細胞への被ばくが少ないため、ほとんど軽微に済みそう。 それより心配なのは次に罹るであろう癌、予防のため「治療時の生活習慣}を、今も頑なに守り続けている。 


「新しいこと」を、考えてる人に。

2010年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

先日の日経新聞文化欄で、作家の池井戸 潤氏が、「作家を目指すひとたちへ」と題して、いいアドヴァイスをしていた。 作家志望者に限らず、日頃文章を書くことが多い人を、複雑な心境にさせる内容だったので、参考までに要点をまとめてみた。

まず好き嫌いだけの基準で作品を書いていたのではいけない。 それでは作家に求められる要件を満たすことが難しいからだ。 その要件とは何か? ごく簡単にいってしまえば、「新しい」 ということ。 書いたものを読んで、「この人はあの作家が好きなんだな」と、すぐにわかってしまう作品はダメ。 すでに洗練された作品を書く作家が存在しているから。

「自分にしかかけない世界を書くこと」。 華麗な文体も、奇抜なトリックも必要ない。 文体にこだわってる人は、物書き初心者。 求めるべきは、いままで誰も書いたことのない、読んだこともない、新しさだ。 作家になるためには、それを見つけること。 次は登場人物を造形し、ひたすら動かすことを考えよう。

登場人物は読者にとって物語上の架空の人物ではない。 共感し一体化する実在の人物。 乗り越えるべき苦難を抱え、時にはうちひしがれながら歯を食いしばる人生を生きている。 プロットをなぞるために、登場人物の人生を歪めてはいけない。歪めたとき読者は離れていく。 「こんなひといるわけないじゃん」のひと言で、本は閉じられる。

新しい小説を書け。 その新しさは自分自身の中にある。自分の興味、専門知識、関心、それを見つめ、膨らませ、自分の世界観を表現することこそ重要だ。 ここまで読むと、なにかに共通するものがあると、気がつきませんか?・・・・ そう、これから新しいことをしてみよう、新しい仕事を初めよう、とする人にとってのヒントが、しっかり詰っていました。


「コレステロール」 を考える

2010年05月29日 | 健康・病気

僕は毎年1回4月に健康診断を受けているが、今年の結果が出た。 検査項目の多くは、経過観察や生活習慣の改善などだったが、要治療と指摘されたのが「コレステロール」。  正確には「脂質異常症」という病名もつけられた。 HDL(善玉コレステロール)と中性脂肪は基準内に収まっているのだが、LDL(悪玉コレステロール)が158(基準値60~119)と高いため、総コレステロールが271(基準値140~199)となり、病人にされた次第。

総コレステロ-ルの算出公式は 「総コレステロール=HDL+LDL+中性脂肪×0・83」で概ねつじつまが合うようだ。 ところでコレステロールには、もともと善悪の区別があったわけではなさそう。 肝臓で作られたコレステロールを、血管壁などいろいろ組織に運ぶ乗り物がLDL、逆に組織で余ったコレステロールを捨てに行くための乗り物がHDL。

戦後の食糧難の時代、摂取する脂が少なかったから、肝臓からどんどん運んでくれるLDLこそ善玉であり、せっかく作ったものを捨ててしまうHDLは、むしろ悪玉だったはず。 そうした意味で善玉悪玉という言い方は、動脈硬化の立場からのみの見方で、「コレステロール全体の働きからみると、必ずしもそぐわない」 と考えるべき。

これまで高コレステロール血症が、循環器疾患を引き起こす危険因子なので、コレステロール値の大小が、寿命に影響を与えると考えられてきた。 ところが1980年度から1989年年度まで、福井市で行われた26000人を対象とした調査の結果がある。 それによると、男女ともコレステロール値が低い人ほど、癌などの死亡率が高かった。

卵は一日1個ぐらいまでは問題なしと思っていたが、食品中でコレステロール値の最も高いのが卵黄で、1mg中1400、ただし鶏全卵だと420。 以下 するめ(乾物)980、たたみイワシ710、筋子510。 低いほうからだと、牛肉67、豚肉71、鶏肉98、バター210、豚レバー250。 日頃の認識と、かなり差があったのは意外だった。

 

   


シドニー・ポラックと、「恋の行方」

2010年05月28日 | 映画

僕のもっとも敬愛する映画監督が、アメリカ人の 「シドニー・ポラック」。 俳優として活躍する傍ら、映画も監督するようになり、「ひとりぼっちの青春」や「追憶」で高い評価を得る。 1985年の 「愛と哀しみの果て」で、アカデミー監督賞を受賞。 俳優、監督、プロジューサーとして数々の名作を送り出したが、2008年5月26日、癌によりロスアンゼルス市内の自宅で、その生涯を終えた。 行年73歳。

僕が何度か見た映画 「恋の行方/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」 は、ポラックのプロジュースによるもの。 そしてメイン・テーマの作曲と、映画の中で使われるスタンダード・ナンバーの選曲が、ポラックとのコンビが多い映画音楽作曲家、「デイブ・グルーシン」。 映画とジャズが見事に溶け合って、グラミー賞の映画音楽部門でベストアルバム賞を貰っているのも、さもありなん。

映画の冒頭に描かれる街、シアトルの表情がとくにいい。素晴らしいカメラワークで主人公の部屋まで引きずりこまれる。 監督はこの映画でデビューした 「スティーブ・クローズ」で、当時なんと29歳。 30前の青年に、男女の心の機微をこれほどに理解できるものかと、感心すると同時に、彼を起用したポラックの彗眼に脱帽。

主役のピアニストを演じたジェフ・ブリッジスのセクシーさは、ヒュー・グラントとラッセル・グロウを足したような雰囲気。 兄貴役のボー・ブリッジスとは実の兄弟で、父親は「真昼の決闘」で保安官助手を演じたロイド・ブリッジス。 そして、この映画を観た男性の全てを、イカレさせてしまったのが、やせて尖って鋭利な感じで下品さを品よく演じた 「ミッシェル・ファイファー」の魅力。

ピアノの上で細い肢体をくねらせながら、彼女の歌う 「マイ・ファニー・バレンタイン」は、この映画の白眉。 1987年 「イーストウイックの魔女たち」ですこし注目していたが、たった2年でここまで魅力的に化けるとは驚き。 いろいろ観た中でも 「恋の行方」は、ミッシェル・ファイファーの魅力を、トップクラスに味わえた秀作。

   


「短命な時代」に、長生きするには

2010年05月27日 | 健康・病気

人間も含めて、なぜか動物は 「眠らなければ生きていけない」ように、神はお創りになった。 人は人生のほぼ3分の1を睡眠に当てているし、犬を見てると1日3分の2ぐらいは、いつも寝ている。 もっとも繋がれていて自由の無い犬は、せめて眠ることによって救われているのかもしれないが、人の場合、もう少し睡眠が短くてすめば、世の中変わっていたかもしれない。

「毎日どのぐらい寝れば健康上ベストなの」?と考えている人は多い。 熟睡すれば短くていいという説もあるが、僕はそうは思わない。 あくまで 「何時に寝たか?」が問題で、具体的には 「夜12時前の睡眠が、12時過ぎの睡眠と比して中実が1.5倍ぐらいは濃い」 と僕は思っている。 この仮説に従い、9時就寝3時起床が長い間のパターン。 睡眠は6時間だが実質7.5時間は寝てることになり、体調は極めていい。

睡眠については、まだ分からないことが多く、これまで膨大な数の大規模調査が行われており、多くのエビデンスも得られている。 アメリカで約100万人を対象にして、睡眠時間と6年後の死亡率との関係を調査した結果、1日7時間寝てた人の死亡率がもっとも低かった。 また寝不足より、寝すぎた人の死亡率が高かったのは意外。

このかた何年間も食事時間、就寝起床時間が正確に決まっている僕と生活を共にする女房は、せめて日曜の朝ぐらいはゆっくり起きて、ブランチを楽しむ他所の家庭が羨ましいと言う。 しかし僕はその要望に応えるわけにいかない、僕の体内時計は一度狂うと、元に戻すのに最低3日から1週間も要するからだ。

睡眠、食事に限らず、体内時計の命ずるままに、規則正しく生活することが健康維持の基本。 これから世界中がグローバル化し、昼夜の区別がつきにくくなる時代、人の寿命が短くなるのは避けられないように思う。 これから先も健康長寿を願うなら、自分のライフサイクルが守れる生き方を、選択するしかないかもしれない。 

  

 

  


「ムーン・グロー」&「ピクニック」

2010年05月26日 | 映画

昨夜のNHK深夜便 エンジョイ・ジャズは、ベニー・グッドマンの特集。 ラジオのスイッチを入れた時流れていたのは、「ムーン・グロー」。 ピアノ テディ・ウイルソン、ライブラホン ライオネル・ハンプトン、ベース ジーン・クルーパー、そしてクラリネットがベニー・グッドマン。 この豪華なメンバーによる演奏は、1936年の録音。

ジャズのスタンダードナンバー ムーン・グロー を有名にしたのが、「ウイリアム・ホールデン」と「キム・ノバグ」が主演した 1995年のアメリカ映画 「ピクニック」。 他所からやってきた放浪者のホールデンと、町の箱入り娘 キム・ノバグがピクニックの野外で、ムーン・グローをバックに踊るダンスシーンが、観客を魅了した。

この映画をラヴストリーとして観た場合、どうしても説得力の無さが感じられたのは、描かれてる期間がたった2日間であること。 大事に育てられ、町の裕福な家の息子と婚約中の娘が、よそ者の若者と出逢って3日目の朝、駆け落ち同然に町を出て行くのを正当化するには、もっと必然的なストーリーが用意されるべき。 当時57歳の僕は、そんな印象を持ったのを覚えている。

ホールデンは沢山のいい映画を残しているが、 僕が最初に観た映画は、1951年日本公開のアメリカ映画 「サンセット大通り」。 いわゆるフイルム・ルノアールで、サイレント映画時代の大女優 グロリア・スワンソンの相手役に選ばれ、アカデミー主演男優賞にノミネートされる。 当時僕はまだ13歳で、土曜の夜10時から始まるナイトショーでこの映画を観た。

晩年のホールデンは不遇だった。 事業の不振や呼吸器疾患、年下の女優 ステファニー・パワーズとの関係悪化などから、アルコール依存症だったという。 1981年、酔って自宅の階段から転倒し、頭を大きく切ってしまい、出欠多量が原因で急死。 発見されたのは死後数日経ってからだった。 行年63歳。

 

 


下水道の歴史と、文化果つる処

2010年05月25日 | 社会・経済

世界で最も古い下水道は、今から約4000年ほど前に古代インドの都市 「モヘンジョ・ダロ」(インダス文明最大級の都市遺跡、ユネスコ世界遺産に登録されている) で造られている。 ここの下水道はレンガでできており、各戸の汚水を集めて川に流す役目をしていた。 その後地中海沿岸の都市や、古代エジプト、古代ローマなどで、下水道が造られる。

中世に入るとヨーロッパでは、都市人口の増加に伴い、汚物が道路に投棄されるようになり、都市の衛生状態は極度に悪化した。 ペスト等の伝染病も流行したが、下水道施設の本格的整備には至っていない。 産業革命後さらに都市の集中化が進むと、深刻な不衛生状態となり、1370年ようやくパリに下水道が出来る。

下水道施設を、本格的に推し進めるきっかけとなったのは、19世紀ヨーロッパ各地で大流行した伝染病のコレラ。 ハンブルグ(ドイツ)、シカゴ(アメリカ)、ロンドン(イギリス) などで次々と下水道が完成した。 しかしその頃の汚水は全て川への放流、1914年になって微生物を利用した下水処理法が開発され、ロンドンに最初の処理場が完成する。

当時の下水道を改めて紹介したのは、イギリス映画 「第三の男」。 この下水道はオーストリア・ウイーンの森から流れ出るウイーン川を、ハプスブルグ家統治時代の1900年代初めに、深く掘り込み、さらに下流の旧市街地に近ずく付近は蓋がかぶせられた。 すっかり有名になったウイーンの下水道は、いまや市内観光の目玉として、多くの人が訪れる。

諸外国の下水道の普及率は、イギリス96%、スウェーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%で、日本は65%。 イギリスはここまで進めるのに150年かかっており、日本はまだ数10年とはいえ、かなりのスローペース。 私の住む地域などは、いまだに普及率ゼロを誇る。 まさに 「文化果つる処」。


奥尻島

2010年05月24日 | 旅行記

奥尻島は北海道南西部 渡島(としま)半島の約20kmにある日本海の島。 函館市の五稜郭駅から出る江差線の終点、江差町からフェリーで約2時間の距離。 また函館空港から北海道エアシステムが、1日1便SAABー340Bで運行している。

1993年(平成5年)5月12日夜の「北海道南西沖地震」は、奥尻町北方沖の日本海海底で発生した地震で、マグネチュード7.8、日本海側で発生した地震としては最大規模。 奥尻島を中心に火災や津波で大きな被害となり、死者230名、行方不明者29名を出した。 当日、奥尻港に停泊していたのが定期フェリー「おくしり」。

船長が日本海中部地震を経験してたことから、地震を感じた直後乗船してた船員に 「総員緊急配置、エンジン始動、直ちに出港」を指示する。 舫い綱全てを鉈で叩き切り脱出、防波堤を超えたところで第一波と遭遇したが、何とか突破して沖に逃れ、第一管区保安本部(小樽)に船舶電話で 「大津波襲来被害多数至急救援求む」と連絡。 これが奥尻島被災の第一報となった。

僕が直近、奥尻に行ったのは昨年の4月。 福島空港から小型機で山形、秋田を経て、被災後、滑走路が1500mに延長された奥尻空港に着陸した。 所要時間は2時間。 宿泊は島の西側で唯一温泉の出る、湯浜地区のホテル。 温泉は赤褐色で不透明だが湯質が良く、かけ流のしいい風呂。 夕食はアワビの地獄焼き、うに、山菜の天麩羅などの他、今年発売する自家製の白ワイン(シャルドネ)を、ボトルで試飲させてもらった。

翌朝5時に起きて付近を散策、島で最高点の神威(ムカイ)山がすぐ近くに見える。 神威脇漁港に向かって山道を降りていくと、独特の作りの古い木造家屋が点在しており、朝食を用意してるのか煙突から煙が出ている。 この辺のには北方領土からの移住者が多いことを後で知った。    


高貴な酢、バルサミコ酢

2010年05月23日 | 食・レシピ

女優の 川島なお美は大変なワイン通で、ソムリエの資格も有するほど。 そんな彼女がこんな文章を書いている。 「シャトー・オーゾンヌの1928年・マグナムを、ワインラヴァーのメンバーとご一緒に開ける機会に恵まれた時のこと。 残念ながらボトルの肩より、うんと目減りしている状態から、「酸化」は99パーセント予想できた。

でもその緋色がまだ輝きを保ち健全そうなので、わずか1パーセントの望みに皆ですがりついた。 恐る恐る香りを確かめてみると・・・・飲んでみるまでもない、やっぱり完全なる酸化状態。 とはいえ素晴らしい熟成を経た極上の バルサミコ酢のようでもあった。 私は皆にヒンシュクをかうだろうことも忘れて、『これサラダのドレッシングにしましょうよ』と叫んでいた。

真っ先に賛成してくれたお店のソムリエ氏が、そのマグナムボトルを厨房へ持っていき、数十分後私たちの目の前に運ばれてきたものは、ガーネット色のドレッシングをまとったグリーンサラダ。 ほのかに甘く、酢もエレガントでコクがある。 それは世界一贅沢なドレッシングだった。 萎れてた72歳のオーゾンヌは、ヴァージンオイルに助けられ、鮮やかな大輪の薔薇となって甦ったのだ」。

なかなか優れた文章だと感心が、ここに登場したバルサミコ酢は古い歴史を持ち、19世紀頃バルサミコ酢の製造は、一つのステイタスとなり、富裕層はこぞって工房を作った。 またバルサミコ酢は、結婚持参金の一部になったといわれる。 時代とともに商業的価値が高まり、偽者も横行するようになり、イタリア政府は地域を指定し、基準を満たすものにのみ特定原産地の名称を付して、販売することを許す制度(DOP)を法制化した。

DOPの指定を受けられるのは、イタリアエミリア・ロマーナ州のデモナと レッジョ・エミリアの2地区で基準を満たして造られ、最低12年の成熟を経たものだけ。 ちなみに日本での価格は100mlの小瓶で2万~3万円、まさに調味料のキャビア。 しかし擬似商品は本物と比べ格段に安いが、通常の食酢と比べれば高価で、粗悪品というわけではない。


ガーシュインと、「ラプソディ・イン・ブルー」

2010年05月22日 | 音楽

曲の最初がクラリネットの、低音からのグリッサンドで始まる 「ラプソディ・イン・ブルー」は、アメリカの作曲家 ジョージ・ガーシュインの作品で、アメリカ的な芸術音楽の代表格。 当初楽譜にはグリッサンドではなく、17音の上昇音階で記されていたが、クラリネット奏者がふざけてグリッサンドで演奏したところ、ガーシュインが非常に気に入り、書き改められたと伝えられる。

曲の冒頭の部分は、仕事でボストンに向う際に乗った列車の走行音から、着想を得たとされる。 ガーシュインはこの曲を自身が弾くピアノと、小編成のジャズバンド向けの曲として、約2週間で一気に書き上げた。 彼はウイーンでも仕事をしていて、宿の隣部屋の住人は連日の騒音に文句を言ったが、主が「ラプソディ・イン・ブルー」の作曲家と知ると、あきらめた。 

ガーシュインは、ジャズのスタンダードナンバーもたくさん残している。 そして美しいバラード 「われらが愛はここに」(OUR LOVE IS HERE TO STAY) を書き上げる途中、脳腫瘍で急逝する。 残されたのは20小節のスケッチだけ、幸い親友の1人がメロディーを覚えていて、何とかこの曲を完成させた。

ガーシュインの曲に、たくさんの歌詞を書いたは、兄のアイラ・ガーシュインで、弟とはことごとく対照的な兄弟。 天才肌で奔放な弟に対し穏やかで常識家の兄、弟に欠けていた社会性を一手に引き受けた。 弟ときたら1週間25ドルの収入しかないのに、22ドルの靴を買ってしまい、 放っておけばどこかのパーティーで、夜どおしピアノを弾きまくる始末だった。

なによりもピアノを愛したガーシュインが、2番目に愛したのは女性だった。 彼が愛した女性はなぜか人妻が多かった。 チャーリ-・チャップリン婦人の女優 ポーレット・ゴダードとは、本気で結婚を考えが、彼女は結局チャップリンと別れたあと、「凱旋門」の作家エリッヒ・マリア・レマルクと結婚してしまった。

 


砲艦サンパブロ

2010年05月21日 | 映画

僕がリピートで数回は観た、1966年公開のアメリカ映画 「砲艦サンパブロ」の製作費は、驚くなかれ戦争映画の大作 「史上最大の作戦」(1962年)を上回っている。 当時アメリカはベトナム戦争が激化しており、この戦争を間接的に批判していた、監督のロバート・ワイズは、是が非でもこの社会派作品を撮りたかったようだ。 これに20世紀フォックスのダリル・F・ザナック社長も賛同して、巨額な予算は認められた。

とくに大金を投じたのは、この作品に登場する砲艦の製作費、撮影に使われた砲艦は、香港で建造され、ロケの行われた台湾の基隆(キールン)まで回航された。 ジャンクやサンパンといった中国特有の船も、わざわざ映画撮影のため製作されている。 メカ好きな主役のスィテーブ・マックィーンは、実際に航行できるサンパブロ号の機関に習熟し、周囲を驚かせたという。

映画の背景となったのは、1927年の南京事件で、国民軍総司令蒋介石の軍隊が3月24日南京に入城する。 当初は平和裏に入城していたが、まもなく反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が、外国の領事館や居留地などを襲撃して、日、米、伊、仏などから、死者、行方不明者が出る。 米英両軍は城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。 

サンパブロ号も米国人宣教師とその娘を救出するため、揚子江を遡る。 河川で運用する砲艦は概ね浅喫水で、大洋の航海には耐えられないため、本国で作られ、分割して別の船で運ばれ、現地で再び組み立てられた。 伝道所に到着した艦長や宣教師は、中国側の追っ手によって射殺され、娘を逃がすため、マックィーンも擬性になる。

宣教師の娘役を演じたのが女優、写真家のキャンディス・バーゲンで、当時20歳、そして兵士役のスティーブ・マックィーンが36歳。  マックィーンは1966年この映画のプレミアで、作品の舞台となった上海に向かう途中、妻の二ールを帯同して来日。 但し滞在時間はわずか20時間だった。 1980年11月7日没、満50歳。 

      

 


クリムトの「接吻」と、愛人エミーリエ

2010年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨーロッパを旅行したら、それぞれの国のヴァンムース(発泡酒)を観察し、飲んできて欲しい。 僕の手元にオーストリアの空き瓶が保存してある。 大事にとってあるのは、ラベルに帝政オーストリアの画家 グスタフ・クリムトの 「接吻」が使われているから。 金箔を大胆に使った彼の代表作は、1908年総合芸術展で大好評を博し、展示会終了と同時に、オーストリア政府に買い上げられている。

この絵のモデルは クリムト自身と愛人のエミーリエ・フレーゲ。 クリムトは生涯未婚だったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非摘出子の存在も多数判明している。 その中でも著名で特別な関係にあったのが エミーリエ。  彼女は当時の社会では新進的な、女性ブテイック経営者で、亡くなったクリムトの弟エルストンの、妻の妹。

彼女は夏になると必アッター湖畔で、クリムトと安らぎに満ちた日々を過ごし、自由な関係を保ちながらも、信頼しあっていたことをうかがわせる。 この時期に官能的な生涯の傑作 「接吻」は生み出されている。 クリムト最後の言葉は 「エミーリエを呼んでくれ」。 彼女はクリムトの死後、彼と交わしたすべての手紙を処分し、生涯独身を貫いた。

前世紀末のウイーンで、絵のタブーであった裸体、妊婦、性模写、エロテックでスキャンダラスなクリムトの画風は、当時ごうごうたる非難を浴びる。 そうした非難は、人の心の深層にくすぶる欲望と真実を、あっさりと描きぬいた彼の才能と勇気に、素直な理解を示すだけの、自由な社会的背景が無かったからに他ならない。

2006年、「クリムト」のタイトルで映画も作られている。 オーストリア、イギリス、フランス、ドイツの合作で、主役は、一時ミッシェル・ファイファーとの交際相手だった。、ジョン・マルコヴィッチ。 グスタフ・クリムト1918年没、56歳。 曰く、「私の自画像はない、絵の対象として自分自身に興味がない。 むしろ興味があるのは他人、特に女性」。 


がんと塩分との関係

2010年05月19日 | 健康・病気

1866年、ドイツの医学博士ブッシュが、丹毒や高熱を伴う病気にかかると、がんが治ってしまう患者がいることを、科学的に報告した。 それ以来 「発熱とがん治療」に関する論文は、数多く発表されている。 1900年代の初頭、ニューヨーク記念病院の整形外科医、コーリー博士も 「発熱とがん治療」に関する文献を公表し、「手術不能のがん患者で、丹毒感染した38人中、20人が完全治癒している事実を確認している。

体重の200分の1しかないが、体温の9分の1を産生する心臓や、赤血球が集まり、体温の高い脾臓でのがん発生は皆無に近く、逆に周りにしか細胞がないため、体温の低い肺、食道、胃、大腸、子宮などの管膣臓器などに癌ができやすいことからも、「がんは熱に弱く、低体温で増殖する」ことがわかる。

がん細胞は35.0度で一番繁殖するといわれる。 医学大辞典には、「日本人の平均体温は36.8±0.38度」と記されているが、医師の証言では、平熱が36.8度もある患者は皆無で、高い人でも36.23度、ほとんどの人は35.0度台というのが現状。 ここ30年間の、日本人のがん死激増の背景にあるのは、「日本人の低体温」が原因であることは、疑っていい。

体温を上げてがんを予防するには、体温の4分の1以上を産出している、筋肉を使った運動や労働を十分にやること。 またお風呂はシャワーで済ませずに、湯船につかる入浴や、サウナ浴などを習慣にすべき。 また日頃体を冷やす食物を少なめにして、体を温める食物を十分に摂る必要がある。

病弱な体質を改善したいと、ある高名な医師の診察を受けた私の知人が、最後にに言われたことは 「もっと塩分を摂りなさい、塩は体温を高める作用が強力です」。 言われた通り、沖縄から取り寄せた自然の塩を、日常の料理から摂取したところ、驚くほど健康を取り戻した。 あまりにも行き過ぎた塩分制限が、がん激増の一因かもしれない。


「モレンスキン」 のノート

2010年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

第2次世界大戦下、墜落されたイギリスの複葉機から、全身に火傷を負った男が助けられる。 彼は記憶を失っていたために、「英国人の患者」と呼ばれることになった。 収容された野戦病院で、看護婦ハナが1冊の「ノート」を見つける。 患者が肌身離さず大事にしてたもので、彼女の介護を受け少しずつ記憶を取り戻す中で、このノートが重要な役割を果たしていく。

1996年のアメリカ映画 「イングリッシュ・ページェント」を観て、このノートが妙に印象に残ったが、それから10数年経って、その正体を知ることができた。 とは言っても確たる証拠はないが、多分かなりの確率で、このノートは 「モレンスキン」(moresukine)。 モレスキンは2000年の歴史を持つフランスのノートブランド。

画家のゴッホやマティス、作家のへミングウェイ、そしてブルース・チャットウイン等が愛用してたもの。 ところが1986年に廃業、そして8年前イタリア・ミラノの出版社が復活させている。 モレンスキンの宣伝文句に、こう書いてある。 「有名な画家の作品のスケッチや、人気作家になる前の走り書きは、まずは、このモレンスキンのノートに書き留められていったのです。」

「ノートを取ってもいいかい?」 「もちろん。」 僕はポケットから黒いノートを取り出した。 オイルクロスの表紙、留め具用にゴムバンドがついている。 「いいノートだね」 「パリでよく買ったんだ。 でも、もう製造中止なんだよ。」  これはブルース・チャトウインの遺作となった著書 「ソングライン」の中で、主人公のアカルデイが、著者に語り始めるシーン。

世界中を旅浪していたチャトうインは、記録を書き記したノートと、そこに差し込んだスケッチやメモ書きを、もしも紛失したときのために、2ヶ国語の住所を記載し、さらに謝礼、報奨金まで記していた。 彼はこう言っている 「パスポートを失くすことはなんでもないけど、自分のノートを失くすことは、僕にとって破滅を意味する。」

 


高峰秀子から学ぶこと

2010年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

僕の友人は、「3つのない」 を生き方の指針としていた。 そしてそのような人生を送った。 彼の生き方を見てて、人はここまで自分の意思を貫けるものかと、感慨をもって接してきたが、彼は決してそれを他人に無理強いするようなことはことはなかった。 彼の言ってる意味が本当に分かったのは、会社を倒産させてからだ。

今さらこんなことを書くのは、斉藤明美著 「高嶺秀子の流儀」を女房から借りて読んでみて、通称 「デコちゃん」の考え方、処し方が、死んだ友人のそれとかなり酷似してたからだ。 彼女は大女優になることの怖さ、有名になることの恐ろしさを本能的に察知しており、友人の彼も、会社のトップとなり、いつの間にか「周りから、自分が変えられていく」怖さを知っていた。

「こだわらない」、「縛られない」、「とらわれない」、これが彼をいつも戒めとしていた 「3つのない」。 この格言を私の反省に置き換えて説明すると、例えばマスコミの怖さだ。 私の会社は、地方のサブコン(専門建設業)で始めて上場したこともあり、日経の記者などががよく取材に来ていた。 タダで自社の宣伝が出来るのと、知名度も上がるので、情報を提供しても損はない、利用したほうがトク、それが私の浅はかさだった。

トップが取材で発言し、記事になるということは、上場会社の場合、選挙の公約にかなり近い。 株主にとってそれは今後の業績や、成長見通しなどの判断材料となり、株価にも影響を及ぼすからだからだ。 従っていつの間にか自分の発言に縛られ、前言にこだわるようになる。 無理をしてでも公約を守ろうと、背伸びをし続けた結果が、破滅に繋がっていった。

デコちゃんは聡明な人だ。 女優を続けていても、必ず終わりがくることを知っていて、平凡な結婚を選択し、結果として幸せな余生を送っている。 ところで友人の彼は、僕の会社が危なくなってきた段階で、多額の第三者割り当てを引き受けてくれ、それをドブに捨ててしまった。 しかし何も言わず、死ぬまで付き合ってくれた。 お金にもとらわれない稀有な人だった。