カキぴー

春が来た

”プル・アップ”(機首を引き起こせ!) 「325便」への考察

2010年10月29日 | ニュース
もし「地上接近警報装置」(GPWS)が作動してなかったら、大惨事になっていたであろうアクシデントは、北海道・旭川空港の東30キロの大雪山系上空で、同空港に向かっていた中部空港発の全日空325便(B737-800形、乗客乗員57人)が地面に異常に接近したもの。 国土交通省は27日地面まで520mだったと発表した。 原因は札幌航空交通管制部(札幌コントロール)の管制官による「管制ミス」と報道された。      

「GPWS」は、パイロットが気ずかないまま地表や山に衝突する事故を防止するために開発された装置。 FAA(アメリカ連邦航空局)により、1975年12月1日以降、米国籍の民間大型機はすべてにGPWSを装備することが義務ずけられ、わが国でも同様に対応している。 音声による警報は2段階に分かれており、パイロットに地面衝突の危険性を知らせる”テレイン”(地表)と、”ドント・シンク”(降下するな)の音声、さらに地表衝突の危険性が高くなると、”プル・アップ”(引き起こせ)というウオーニング音声が発せられる。 325便の機長は、1段階の警報から2分後に機体を上昇させたという。

一般的に僕らが乗っていた自家用の小型機には、GPWSなどという高価な機器は装備していない。 だから今回のアクシデントのように管制官から誤った高度を指示され、その通り降下していれば間違いなく山に激突することになる。 しかし実際には四方を高い山に囲まれた盆地で、レーダー施設の無い空港にでも安全に着陸することは可能。 この場合管制官の指示は無く、今回の気象条件のようにインクラウド(雲中で視界ゼロの状態)であっても、アプローチ・チャート(計器進入方式)に従って操作すば、確実にランウエイに着地できる。 

パイロットが常に意識してるのは 「自機が現在どこの位置にいるか?」の確認である。 位置がわからなくなる状態を 「ロスト・ポジション」と言い、悪天候の中でこのロス・ポジに陥り、命を落としたアマチュア・パイロットも多い。 しかし衛星を利用した 「現在位置確認システム」(GPS)が開発されてから、フライトの安全性は格段に向上した。 さらにB737-800のような新鋭機には「グラスコックピット」と呼ばれる液晶デイスプレイが装備され、すべての情報や画像が画面に集約表示される。 これにより視界不良時の離着陸は、あたかも晴天時と同じく行なえるようになった。

にもかかわらず機長は 「ずっと雲の中で視界がなく、管制官の指示に従った」と話し、管制官は 「最低誘導高度を失念してしまった」と説明している。 お粗末なことだが管制官のミスはありうる。 多くの生命をあずかる機長は、少なくとも空港周辺の地形や高度を熟知し、自機のポジションを常に確認しながら、管制官の指示を受けるべき。 以上はあくまでアマチュアパイロットの考察だが、再発防止のため多角的に「問題の本質」を見極めて欲しいものだ。

 


「人間万事塞翁が馬」

2010年10月25日 | 小説
作家で精神科医の加賀乙彦氏が、36年も前から軽井沢・追分の住人であることを始めて知った。 実は僕のブログで時々紹介する「軽井沢に別荘を持つ友人」は、長く旧軽井沢で過ごしていたが、湿気が多く、賑やかにになり過ぎたのを嫌い、昨年自然の多く残る「追分」に居を新築して移り住んだ。 信濃追分は軽井沢町西端に位置し標高1000メートル、軽井沢の一部ではあるが軽井沢の華やかさはなく、美しい森と広大な畑と宿場町としての歴史と堀辰雄や立原道造などの文学がある。

加賀氏は81歳、すでに日本人男性の平均寿命を上回り、一日に原稿用紙一、二枚を書き上げるのがやっとの状態。 2年前奥さんに先立たれ、自身も心臓に持病を抱える。 老いた者、弱った者にとって自然が与える喜びはかけがいない、今は追分の大いなる自然の中に身を置きながら、小説を書ける限り書き続けるのが最高の幸福だとおっしゃる。 そんな中で昨年末に書き上げたのが 「不幸な国の幸福論」。

「幸福を定義してはいけない」 これは氏が80年の人生の中で読書を重ね、自分なりに考えた果てに気ずかされたこと。 幸福について誰かがした定義を鵜呑みにしてはいけない、幸福とはこういうものだと考えた途端、その定義と自分の状態とを引き比べ、何かしらのマイナスを見つけてしまう傾向が人間にはあるからだ。 「そもそも幸福とは定義できないもの」  もっと乱暴な言い方をすれば、幸福や不幸などというものは世の中に存在しない。 ただ人間がそういう言葉を作り、ある状態に対して評価をしてるだけ。

自分の置かれている状況に対する本人の評価が低ければ、別な人にとって幸福だと感じる状況でも不幸と思える。 何を幸せだと感じ、何を不幸と感じるかはその人の捉え方、受け止め方によって異なるはず。 また長い人生においては「万事塞翁が馬」の故事が示すように、幸福だと思ったことが不幸に転じ、不幸だと思ってたことが幸福に転ずることもしばしば起こる。 また 「禍福は糾える縄の如し」と言うが、時にはほんの一瞬のうちに幸と不幸が逆転することもあり得る。 要は「幸も不幸もその人の考え方次第」 考え方ひとつで幸せにも、不幸にもなる。

僕がこれまでの人生を振り返って思うことを、加賀氏は文章にまとめてくれたように思う。 30歳で創業し、女房の協力も得ながら会社を大きくし、息子も経営に参画して、念願の株式上場まで果たしたら倒産。 ところがこの倒産で命を救われた。 厭世状態となって居を移し、ゼロから始めた田園生活が僕の肉体と精神を作り変え、治らないはずの「前立腺がん」を克服できたらだ。 倒産の後始末を終え東京へ出て行った息子も、逆境を乗り越え強くなり、独立し事業を始めた。 農業の傍ら趣味となったブログを豊かな自然の中で執筆しながら、人生まさに「塞翁が馬」・「禍福は糾える縄の如し」を実感している。 そして「神は耐えられないような苦痛を人に与えない」ことも。


コレステロール・コントロール

2010年10月20日 | 健康・病気
今年の4月に受けた健康診断で「脂質異常症」と認められ、医療機関を受診するよう指示を受けた。 指数は総コレステロール271、LDLコレステロール158、HDLコレステロール102、中性脂肪66。 LDLとHDLが昨年比で大きく上昇したしたため、総コレステロール値も高くなった。 原因として思い当たる節もあったので、食事面で多少意識しながら6ヶ月が経過し、昨年インフレエンザの予防注射をしたことのある近所の内科医院で受診した。

前年との比較も記した「健康診断結果報告書」を前もって受付に提示し、60才台半ばのドクターの診察を受けたところ、飲み薬による治療を3ヶ月ほどやって結果を見ましょうと言われた。 なるべくなら薬物療法を避けたかったので、食事療法などで改善できないか質問したところ、僕のように標準体重以下の患者は体重を減らして下げることが難しいので、効果が期待できないと説明された。 であれば仕方がないので薬の副作用や量などについて質問したところ、治療は血液検査をしてからにしましょうとの結論に至った。

実はその前日、ヨットでの昼食に牛肉のたたきを食べワインをしっかり飲んでいたので、検査結果はヤバイぞと覚悟していたが、4日後の結果はLDLが130・HDL93まで下がっており、経過観察となった。 僕が今回の受診で不満を感じたのは、LDLとHDLとの相関関係についてまったく説明がなかったこと。 「悪玉が増えても善玉が増えていればそんなに心配ない」、どこかで聞いたことのあるフレーズが記憶に残っていたからだ。

そんなことがあってから数日後、まるで僕の不満と疑問に答えるかのような全面広告が、日経新聞にタイミングよく掲載された。 アストラゼネカ・シオノギ製薬の文字は見落とすぐらい小さく、薬品名も書いてない興味を引く企画。 これを読むとこれまでのLDL(悪玉)中心の診断基準に対し、HDL(善玉)の数値を重視してることに気付く。 とくに「LH比」(LDL÷HDL)に着目しており、まずLDLを目標値(140)まで下げた上で、高リスクの人は「LH比1・5以下」が望ましいとの仮説を立てている。 因みに僕のLH比(再検査後)は1・4。

日本動脈硬化学会では「6つの危険因子」を定めコレステロールの目標値を定めている。 ①年齢が男45才以上女55才以上 ②高血圧 ③糖尿病 ④喫煙 ⑤家族に心筋梗塞など冠動脈疾患の人がいる ⑥HDLが40未満。 危険因子が0なら低リスク群、1~2が中リスク群、3以上なら高リスク群。 糖尿病・脳梗塞・閉塞性動脈硬化症があれば他のリスクが無くても高リスクとなる。 危険因子が多いほどLDLの目標値は厳しくなり、低リスク群160未満・中リスク群140未満・高リスク群120未満となる。   

 


「世界一周フライト」 グラスゴーからニースへ(2)

2010年10月15日 | 旅行記
グラスゴーには2泊し、1日は点検整備に当てた。 総飛行距離3万1800kmを飛ぶためには、法律で定められた50時間、100時間チェックとオイル交換を行い、整備士がサインをしなければならない。 また予期せぬ故障が起きた場合、ローカル空港では対応できないため、この企画にはAOPA-JAPANの会員でベテランの整備士が同行した。

9時過ぎフランス・ニースへ向けて離陸、これがヨーロッパ大陸へのスタートで、飛行距離は1600km。 視界良好、ロンドン上空を高度2100mで通過、下方にシティ・オブ・ロンドンの景観が一望でき、ーテムズ川沿いに ウエストミンスター宮殿や ロンドン塔が視認できる。 やがて前方にイギリスとフランスを隔てる英仏海峡の最狭部 「ドーバー海峡」の白い崖が姿を現す。 やはり舌平目のムニエルを連想。

ドーバー海峡の最短距離は、イギリス・ケント州フォーランド~フランス・カレー県カレーで、この間わずか34km。 1944年トロンボーン奏者・作曲家・バンドリーダーの 「グレン・ミラー」が、専用機でフランスへの慰問演奏に飛び立った後、ドーバー海峡で行方不明となり戦死と発表された。 後の調査でドイツへの爆撃から帰還途中のイギリス軍爆撃機が、上空で捨てた爆弾が当たり墜落したと判明。

最も楽しみにしてたのはパリ上空のフライトだったので、ここばかりは目を皿のごとくして堪能。 この街が盆地の中央に位置し、ルーブル美術館周辺を中心にエスカルゴ状に街区が構成されているのがわかる。 凱旋門からコンコルド広場の方向かって、にシャンゼリゼ通りが街を貫き、セーヌ川の河岸にエッフェル塔が見える。 パリはまさに永遠の都。

ニース・コート・ダジュール国際空港には、僕が創業を決意した1968年に訪れている。 当時送迎デッキから、紺碧の海に突き出た滑走路に離着陸する飛行機を見ていると、自家用ジェット機が駐機場に止まり、白い服と帽子を被った女性が一人タラップを降りてくる。 この光景がずっと印象に残った。 その空港に33年後、僕は自らの操縦で飛来した。 上空で15分ほどホールドを指示され、ホテルの建ち並ぶ海岸線を眺めながら2度旋回し、横風を意識しながら無事着地した。 グラスゴーからの所要時間、6時間20分。


「世界一周フライト」 グラスゴーからニースへ(1)

2010年10月14日 | 旅行記

「AOPA-JAPAN 世界一周フライト」は、航空機オーナー・パイロット・整備士・管制官などが参加する世界組織 「AOPA」(会員数42万人、米国の俳優ハリソン・フォードなどもメンバーの一人)の日本支部 「NPO法人 AOPA-JAPAN」が、21世紀の記念行事として実施した小型航空機による360度完全世界一周飛行。 プロペラ機4機・15人が参加し、2001年6月1日~6月28日まで、21箇所の空港を経由しながら無事帰国した。  

ところが世界一周終了後、アメリカへ帰国途上にあった1機(ピラタスPC12)が、サハリン沖の上空で突然エンジンが止まり海上に着水し沈没。 救命ボートで16時間の漂流後、運よくロシアの貨物船に救助され、搭乗員4名は無事帰還するというエピローグがあった。 この事故は2001年11月14日放映のNHK番組、クローズアップ現代 「奇跡の生還・追跡サハリン沖小型機遭難」で詳しく紹介されている。

ちなみに参加した4機の中で最も足の遅いのが僕の機体で、巡航速度が260km/h。 最も早いのが前述したピラタス機で、jジェットエンジンを搭載しており巡航で450km/h。 しかも当機を除いての3機はいずれも与圧キャビンを装備し、酸素を吸わずに6000m~9000mの高度を飛行できる。 性能の違いは如何ともし難く、ノンターボの悲しさで雲が多くてもトップまで上昇できず雲中飛行を余儀なくされ、いつも離陸はトップ着陸はラストだった。

参加機は北海道・千歳空港をスタートし、ロシア、アラスカ、カナダ、ヨーロッパ各国、中近東、東南アジアと15ヵ国を訪問し、21Legのコースをパイロットが交代しながら操縦した。 僕が出発前から憧れてたコースで、機長席に座ったのはLegー10のコースで、スコットランド・グラスゴーからフランス・ニースまでのフライト。

Leg-9でアイスランドを発ち、北極圏に近い北大西洋をグラスゴーに向け高度2700mで飛んだが、雲が厚く6時間弱のほとんどがインクラウド(雲中飛行)の状態。 いささか疲れて着陸し、滑走路から誘導路に入り係留場所を確かめていると、黄色の回転灯を点滅させながら 「FOLLOW ME」 と書かれたプラカードを前面に付けた車両が来て、プライベート機の駐機場まで誘導してくれた。 日本の空港でこうしたサーヴィスを受けたことのない我々は、すっかり感激。 


「スターリングラード攻防戦」と狙撃手

2010年10月05日 | 映画

映画を観ながらストレッチをするのは、僕のライフスタイルに組み込まれた愉しみの一つ。 最近観たのは2001年公開のアメリカ・イギリス・アイルランド合作の戦争映画 「スターリングラード」で、今回で2度目の鑑賞。 第2次世界大戦にソビエト連邦の狙撃兵として活躍し、英雄となった実在の人物 「ヴァシリ・ザイツェフ」を主人公に、史上最大の市街戦として歴史に残る 「スターリングラード攻防戦」を描いたもの。

この攻防戦は1942年6月から1943年4月まで、ヴォルガ川西岸に広がるスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)を巡り、繰り広げられた枢軸国軍(ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー) 対ソビエト労農赤軍の戦いで、激戦を経て赤軍の勝利で決着する。 枢軸国側の出兵85万に対し戦死者31万、ソビエト側70万に対し29万。

ザイツェフはウラル山脈で育ち、鹿の狩猟によって射撃技術を磨いた。 1942年から第1047狙撃連隊に配属され、スターリングラード攻防戦に参加した。 彼は1942年11月10日から12月17日までの間に、高級将校や通信兵・狙撃兵・衛生兵などを含めた、実に225人のドイツ軍将兵を射殺。 また11月10日以前にも、射撃精度を犠牲にしても第2弾を素早く発射できるセミオートマチックライフルで、で32人のドイツ兵を狙撃している。

狙撃手による心理的プレッシャーは大きく、また指揮系統の麻痺に陥ったドイツ側は、ザイツェフを抹殺すべく腕利きのスパイナー(狙撃手)をスターリングラードに送りこむ。 その人物が狙撃兵学校教官 「ハインツ・トールヴァルト大佐」。 名狙撃手同士の対決はギリースーツと呼ばれる植物を模した覆いを被り,、追いつ追われつの死力を尽くしての末、ザイツェフはついに大佐を追い詰め、囮のヘルメットを使い一発で彼を討ち取る。

ソ連邦英雄称号を与えられたザイツェフは、化学工場の廃墟に設けた狙撃兵訓練学校で28人の兵士を狙撃手として育成し、結果として3000人以上のドイツ兵が戦死したと言われる。 その後数々の勲章を受けた彼は、1980年英雄都市ヴォルゴグラード英雄市民となり、狙撃手のための教範2冊も執筆した。 1991年ウクライナ・キエフにて死去、76歳。 2006年、遺骸はヴォルゴグラードのママエフ基地に改葬された。