カキぴー

春が来た

鹿部空港と温泉と魚

2010年04月30日 | 旅行記

航空関係者を除けば 「鹿部空港」を知っている人は少ないと思うが、函館空港から空路で北へ15分ほど、駒ヶ岳の南東部に位置する飛行場である。 トヨタ自動車と日本航空が出資する エアフライトジャパンが運営する民営飛行場で、運航、休憩、給油、整備、が完備しており、非公共用飛行場としては、国内最大の飛行場。 

定期航空路は無いが、軽航空機、ヘリコプター、グライダーの滑走路として広く利用されている。航空利用以外でも、トヨタ自動車の走行試験、車両展示会、体験試乗等にも利用される。 毎年エアショーが行われることでも有名。 一時期トヨタが計画していた航空機エンジンの開発拠点でもあっが、テスト飛行中に海上に墜落し3人の死者を出した後、開発は中止された。 

この飛行場は、大きな事件があると、報道関係者にとって、なくてはならない存在となる。 なぜなら、テレビ局や新聞社など多くのヘリコプターや小型機が飛来し、長期に滞在する間、給油や駐機、さらには緊急の整備などに対応でき、しかも函館空港と近距離にあるから。 

過去に起きた事件では、 1975年、全日空857便のハイジャック事件。 1976年、ロシア空軍べレンコ中尉の亡命事件(ミグ25事件)。 1993年、北海道南西沖地震(奥尻島の災害)。 などでがあり、長期にわたる取材活動を、陰で支えた空港。

小型機の仲間がここを利用するのは、いい温泉があるのと、美味しい魚が食べられるから。 空港のある鹿部町は人口4636人、古い歴史をもつ温泉地で、道内でも珍しい間歇温泉を利用した間歇公園があり、1回に500リッターの温泉を高く吹き揚げるので有名。 また漁業が盛んで、町内に大小3つの漁港を持つ。 タコ、カレイ、ホッケ、サクラマス、昆布、ナマコ、が水揚げされ、冬場はタラコの材料、スケソウダラとホタテ漁が盛ん。

函館から大沼公園経由で鹿部町まで、レンタカーで約時間半。 北海道旅行のスケジュールに、ここを1泊加えるといい。 雄大な駒ヶ岳の裾野で、ゆっくり過ごしてしてきて欲しい。


徳田虎雄氏のこと

2010年04月29日 | ニュース

普天間基地の移転先として、何故か徳之島にこだわる政府筋だが、昨日の午前に、同島出身で元衆議院議員をつとめた徳田虎雄氏宅を、鳩山総理自らが訪ね、徳之島にに大きな影響力を持つ同氏に、協力要請したことをニュースで知った。 同時に徳田氏が、代表的な難病の一つに挙げられる 「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)で闘病中であることも初めて知った。

私は徳田氏と2度ほどお目にかかっている。 1度は東京で、徳洲会病院の本部だったが、立ったままでやる会議を見学させていただき、限られた時間で結論を出していく迫力の凄さと、徳田氏が自分の考えを、かいつまんで分かり易く説明する、コメント力に感心したのを覚えている。 2度目は山形県の酒田市で開かれた、徳洲会の医師や看護婦との集会。 各病院の責任者らが、4半期の売り上げ目標と実績との差異説明、経費分析、残業状況、さらに患者側からからの不平不満まで、一般企業が顔負けするような、病院経営の一端を覗かせてもらった。

当時きわめて保守的な医療業界にあって、「生命だけは平等だ」という 患者第一主義を掲げ、年中無休、24時間オープン、患者からの贈り物は一切受け取らないと公約し、大阪でスタートしたのが徳洲会グループ。 いずれは行き詰まるはずだと、同業や監督官庁は見ていたが、今や日本全国に170余の医療介護施設を展開するまでに成長した。

ところで難病の「ALS」だが、筋肉の動きを支配する運動神経細胞が侵されるため、筋肉が萎縮と筋力低下をきたす病気。 きわめて進行が早く、約半数の患者が発症後3~5年で呼吸筋麻痺により死亡に至る。 有効な治療法は確立されていない。 1年間に人口10万人当たり2人程度が発症、現在国内に8300人の患者が居る。 

徳田氏は私と同年齢、病状が悪化してから6年が経過し、今は人工呼吸器をつけ、車椅子での生活。 健康であれば普天間基地の問題でも、もっと早い段階で協力頂けたはず、残念で仕方がない。


英語に弱い、日本外交の不安

2010年04月28日 | 国際・政治

日本の政治家が出席する国際会議などをテレビで観てると、本会議が終り、会食や個人的会話、あるいは談笑の場で、通訳を交えず1対1でやり取りする場面を、およそ見ることが出来ず、これでコミュニケーションが取れるのかと、心配になることが多かった。 ところが先日ラジオでこの辺のところを、寺沢芳男氏が同じ心配をしていることを知り、意を強くした。

寺沢氏は元野村證券の副社長で、その後アメリカ野村の社長を務め、16年間ウオールストリートで証券マンとして活躍、大きな実績を挙げた人。 その後世界銀行傘下のMIGA(多数国間保証機関)の初代長官に就任した国際派経済人。 滞米生活22年の氏は、今も英会話の実習を欠かさず、ベストコンデションを維持しつずけているという。 キングズイングリッシュを忘れぬよう、努力してるのだと思う。

氏によると、重要な交渉ごとや大きな商談は、最終的に通訳を入れず、トップ同士の話し合いで決まることが、世界共通の現象だという。 ましてや利害や思惑が複雑に入り組んだ、各国間の外交交渉などは、公式な席で決まる前段階で、腹の探り合いと本音の部分とを繋ぎ合わせて、合意形成がなされるわけで、まさに言葉を駆使した真剣勝負、通訳の入り込む余地は無いはずだ。 

一国のリーダーたるものが、国際的に通用する言語(英語)で自分の意思を伝えられなければ、その国は国際社会で孤立してしまう。 悲しいかな日本のリーダーは国際言語が話せないゆえに、国際交流の舞台で自己主張ができず、外国のトップとの心の触れ合いもままならず、国民の声を代弁できないのが現実。 決して完璧な英語を要求してるわけではない、中国を除くアジアのトップの多くが、発音の不正確さや文法的誤りなどを恐れず、自分の言葉で堂々と渡り合っているのを見れば、よく理解できるはず。

寺沢氏はニューヨーク滞在中の頃、朝ベッドを抜け出すとすぐ車を運転してアスレチック・クラブへ直行、素っ裸で200ヤードを泳ぐ。サウナ、髭剃りを終えてダイニング・ルームで朝食をとって出社。 昼は顧客とランチ、ゆっくり話したかったらランチがアメリカの流儀、流暢な英語で新しい出会いを作ってきた。 「商売の前にまず自分を評価をしてもらう」、世界で共通するビジネスの基本を大事にして成功。 ニューヨーク名誉市民として名をとどめる。  


脳腫瘍と闘った、脳神経外科医の記録

2010年04月27日 | 健康・病気

私はこれまで親しい二人の友人を脳腫瘍で亡くしており、現在も同じ病気で闘病中の友人もいることから、1998年に出版された岩田隆信著 「医者が末期がんの患者になってわかったこと」を読んでみた。 岩田氏は脳外科の医師として研鑽を積み、大学病院の助教授まで登りつめながら、運命の悪戯としかいえない脳腫瘍を患い、発病から2年を目前にして他界している。 この本は闘病の半ばまでを記録したものだが、冒頭でこう書き記している。

「私が脳死の状態になるのは、疑いようのない事実です。それも遠くない将来に、そのときを迎えることになるでしょう。 私は脳腫瘍に冒されてしまったのです。それも『悪性グリオーマ』という最悪の腫瘍です。この腫瘍は繰り返し手術をしても、何度でも再発してきます。何度かの手術の末、脳死に至り、やがて死を迎えることは避けられず、現在の医学では治しようのない病なのです」。

氏が遺言書を書いて一回目の手術を受けたのは1997年の4月、発病から2ヵ月半を経過しており、遅すぎる感じがする。 理由は、やり残している仕事を片ずけたかったのと、勤務先の病院に知られたくなかったこと。 さらに手術を現在の病院でやるか、出身の大学病院でやるか、迷っていたことなどが挙げられるが、先延ばししても急いでも、結果的にあまり違いのないことを、自分が一番知っていたからかもしれない。 

「私は脳神経外科の専門医として、自分が今後どういう経過をたどって行くのか、誰よりも正確に推測できます。しかし私は可能性がどんなに低くても、チャンスがあれば、とことん生きたいと思います。最後の最後まで夫として、父親として生きたい。 と言うと、癌に立ち向かう勇気ある医師、最後まで諦めない強い人間と受け取られそうですが、正直に告白すれば、脳腫瘍が怖い、治療がつらい、死ぬことが怖い、これが誤魔化しようのない私の本音です。

氏は余命2年弱の間に、3回の手術と、30回に及ぶ放射線治療を受け、片方の失明と全身ボロボロになりながらも病と闘った。 そして治らないと知りながらの延命治療に、疑問を抱きなららも、患者側からの貴重な提言を書き残した。 心からご冥福をお祈りする。


キリマンジャロの雪

2010年04月26日 | 小説

人は死の間際、さまざまな邂逅が頭をよぎるらしい。 そんな状態を「長い短編」に仕上げたのがアーネスト・へミングウェイの 「キリマンジャロの雪」。 僕はこの作品を最初映画で観た、中学3年のときだ。 すぐに短編集を買い求めて読んだのが、へミングウェイとの最初の出会いで、次々と彼の作品を読み漁った。 中には中学生が読むには眉をひそめるものもあり、たまたまページをめくった医務室の女性に早熟だと言われたのを思い出す。 この短編は冒頭の読み出しで、読者を捕らえてしまう。 こんなフレーズだ。

「キリマンジャロは、高さ19710フィートの、雪に覆われた山で、アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で 神の家 と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばには、ひからびて凍りついた豹の屍(しかばね)が横たわっている。そんな高いところまで、その豹が何を求めてきたのか、いままで誰も説明したものがいない」。

小説家のハリー・ストリートは、アフリカでの狩猟の途中足の壊疽を患い、瀕死の状態に陥る。 救出の飛行機が来るまで生きられないと悟った彼は、酒を飲み、ある種の心地よい中で、過去の記憶が走馬灯のようにフラッシュバック していく。 へミングウェイが愛用の猟銃で頭をぶち抜き自殺したのが1961年、それからさかのぼる1954年、彼はアフリカでの狩猟の帰途、セスナ機が電線に接触し、不時着する。

捜索隊に救出され、幸い傷も浅く、救出機に乗せられるが、今度はこの飛行機が離陸に失敗して大破、彼は頭蓋骨骨折、内臓損傷、脊髄損傷、の重態に陥る。 幸い命は取り留めるが、「老人と海」で受賞の決まっていたアカデミー賞の授与式には欠席することになる。 このあとも事故の後遺症に悩み、体調不良のため作品も書けず、失意の中で死を選択する。

キリマンジャロの雪で、死を間際にした人間が何を考え、何が心残りだったかを描いた彼だが、現実の死を前にして、頭に去来したものが何だったか? その真相を誰も説明したものがいない。


いい女は、我がままが許されるか? B-787物語(2)

2010年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

新世代の中型旅客機、ボーイングB-787は、2004年全日空が50機を発注し、ローンチカスタマー (航空機メーカーに対して、製造開発に踏み切らせるだけの充分な機数を発注し、後ろ盾になる顧客)になったことで、開発がスタートした。 スケジュールは2007年7月のロールアウト(完成披露)、9月初飛行、連邦航空局(FAA)の型式証明取得は、2008年5月を予定し、すぐに最初の発注者である全日空に引き渡される予定だった。 全日空では8月の北京オリンピック開催時に、羽田~北京間のチャーター便に使用すると発表していた。

2007年7月8日、予定通りシアトルで1号機のロールアウト式典が行われ、この時点での受注数は、旅客機史上最高の47社677機機となった。 ただし1号機は外観を除く内部が未完成であったため機内は公開されず、主翼主脚などは修繕のため取り外された。 その後2007年9月の初飛行が、2008年6月末に、引渡しが12月に遅延することが発表された。 それ以降もストライキなどの理由により、5回にわたって延期が行われ、最終的に約2年半遅れて、2009年12月初飛行に成功。 全日空への納入は2010年3月末となっているが、現在のところ確認されていない。

このように前代未聞の遅延繰り返しがあっても、意外にキャンセルが少なく、現在も842機の受注残を抱える。 それ程に「我がままが許されているB-787-8」 とは、いったいどんな旅客機なのか?。 中型のワイドボディ機で、B-767やB-777の後継機と位置ずけられ、繊維強化プラスチックなど、軽くて強い複合材料の使用率が約50%となり、空力改善、エンジンの燃費改善などとの相乗効果により、767と比較して燃費は20%向上している。

巡航速度はマッハ0・85となり、767の0・8、 0・83程度のA-340より長距離路線での所要時間が短縮される。 座席数は223席、航続距離は15700kmで、ニューヨーク~東京路線は十分にカバーし、これまで香港経由で運行されている 東京から南アのヨハネスブルグまでをノンストップで飛ぶことが可能。 さらに居住性、快適性、操縦性などすべての面で、最先端の技術と装備を取り入れ、従来機の延長を脱した次世代の旅客機。

エアバス社は、 いい女(ボーイング787-8) から彼氏(顧客)を引き離すべく、更にいい女(大きく設計変更したA350XWB)を準備中だが、ボーイング社は、「待たせるのも、我がままを言うのも、いい女の特権」 として自信満々。 このバトル、彼氏の心変わりを予測するのは、かなり難しい。

 

 


いい女は、我がままが許される? B-787物語(1)

2010年04月24日 | 乗り物

「少し待ってれば、次のバスがやってくる」 とか、「後から出てくる電化製品は、良くて安い」 などというフレーズがかって流行ったが、航空機の世界もまた世代交代と、栄枯衰勢が激しい。 ボーイング社でいえば、大型機の需要を欲しいままにしてきた B-747の引退がささやかれ、就航してまだ日の浅い 大型機B-777でさえ存在感が薄れてくる可能性大。 その背景には原油価格の高騰、主要国における排ガス規制、そして世界的な航空需要の厳しい現状などがある。

そうした現況下、今一番注目を集め、この旅客機が飛び始めたら、各国の航空産業の戦略に、抜本的な変化をもたらす可能性さえ出てきたのが、「ボーイングB-787」 の出現だ。 まずこの旅客機の 「開発コンセプト」が、ライバルのエアバスと大きく異なる点に注目したい。 コンセプトの前提条件となる 「これからの輸送形態」について、両社の想定が、根本的に違うからだ。

エアバス社の想定は、本格的な世界の「ハブ空港化」。 これに対してボーイング社は、「ハブ空港化の否定」。 この想定に基き、エアバスのコンセプトは、「ハブ・アンド・スポーク」、各国のハブ空港間で運用する大型機を開発し、ローカル空港へは、持ち駒豊富な自社の単通路機での振り分け。 これに対しボーイング社のコンセプトは、「ポイント・トウ・ポイント」、乗客は面倒な乗換えを好まず、中型機による目的空港への直行を選択すると言う想定。

開発コンセプトの違いは、両社の置かれていた「事情」にも関係している。 エアバス社はB-747やB-777に匹敵する大型機を持たなかったため、Aー380の開発に多額の投資をしており、またボーイング社はB-767が、後発の中型機Aー330と比較して見劣りしてきたため、圧倒的な違いをアピールできる中型機B-787の開発に社運をかけてきた。 そうした事情の中で、世界的な景気後退に伴う航空需要の減少が進み、たまたまボーイング社のコンセプトにとって、有利な追い風となったのだ。

エアバス社も市場の変化が、自社のコンセプトに逆風となってきたことに危機感を持ち、B-787の対抗機種として、新しい世代の中型双発機として開発を目指したのが、初期のAー350構想。 エアバス社としては大型機Aー380に開発資源を集中する必要があり、まったくの新規設計から始めることが困難だったため、開発予算は30~40億ドルに絞った。 これに対し航空各社からは、「Aー330の焼き直しに過ぎず、魅力なし」、「B-787にしか興味なし」、といった厳しい反応が続出したため、開発予算を50億強ドルまで増額し、「エアバスAー350XWB」計画を発表する。

魅力的ないい女、「B-787」は、これまで多くの彼氏(航空会社)に、何度も待ちぼうけ(引渡しの遅延)を食わせながらも、ライバルのエアバスに差をつけてる感じだが・・・・・・・。 


ラム酒の効用

2010年04月23日 | お酒

サトウキビを原料として作られる 「ラム酒」は、西インド諸島原産の蒸留酒で、アルコール度数は40度。 日本の黒糖焼酎なども、同じサトウキビを原料とする同類系統の蒸留酒。 ラム酒は一般に 「ラム」と呼ばれる。 私には、ラムの好きな友人が居て、夏の飲み方はいつも トニックウオーターで割る 「ラム・ニック」。 トニックウォーターの銘柄は、ほどよい酸味、甘味、少々炭酸を抑えたイギリスの 「シュウェップス」。 秋に入ってからは、色のついたダークラムのヴィンテージ物を、オンザロックで飲んでいた。

「人の気を鎮めてくれるものは、ラムと本物の信心」 19世紀のイギリスの詩人バイロンの言葉だが、ラムは比較的イギリスと関係の深い酒。 18世紀になるとラムはイギリス海軍の支給品となる。 樽に入れたラムがいつも積載され、軍艦のボイラー室など高温の場所で、長時間働く船員に与えたり、荒れた海ではラムを飲ませて、心の平穏を保たせたという。 またトラファルガーの海戦で戦死した ホレーション・ネルソン提督の遺体は、腐敗を防ぐため、ラムの樽に漬けてイギリスに運ばれたと伝えられる。

アメリカがキューバを侵略したときに、アメリカ兵がラムをコーラで割る飲み方をした。 これが「キューバ・リブレ」と呼ばれるカクテル。 ラムの水割りである「グロッグ」とともに、ラムの主要な飲み方の一つになった。 キューバに長く滞在したアメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェーも、キューバ・りブレがお気に入りで、現地の人は 「パパ・キューバ・リブレ」と呼んで彼を懐かしんだ。

ラムの恩恵を最も受けたのが、イギリスの作家ダニエル・デフォーの書いた「ロビンソン漂流記」の主人公、ロビンソン・クルーソー。 無人島に漂着すると、難破船に積んであったラムの樽を、できるだけ多く洞窟の住まいに運び込んで大切に保管し、風邪を引くと飲み、下痢をしては飲み、うつ状態になれば飲むという、いわば薬代わりに飲用して28年間を生き抜いている。 イギリス海軍も含む船乗りにとって、ラムがいかに貴重品であったか想像がつく。

海賊とラムも相性がいいらしい。 「バイレーッ・オブ・カリビアン」 シリーズが大ヒットしたおかげで、イギリスでは今ラムが飛ぶように売れている。 バーでは、モビート、ビニヤ・コラーダ、マイタイ、キューバ・リブレ、といったラムベースのカクテルが好んで飲まれ、ダークラムの消費量は、前年比31%増という驚くべき数字、 日本でもブームが来るかもしれない。 


南大東島

2010年04月22日 | 旅行記

南大東島の名前を、ほとんどの人が記憶しているのは、ここが気象観測の重要拠点で、夏から秋にかけて襲来する台風情報発表の際、必ずこの島の名が紹介されるから。 私がこの島を訪れたのは、1997年新空港が開設されて間もない頃で、1500mの滑走路と、立派なターミナルビルが完成し、従来の定期便に使用されてた9人乗りDHC-6型機に代わり、39人乗りDHC-8-100型機が就航していた。

南大東島は、沖縄那覇空港から東へ70分ほどのフライトで着いた。上空から見ると周囲は断崖絶壁で、島の北端から10kmほど先に北大東島の滑走路が見えるが、この島を除いて周囲400kmには陸地のまったく無い、絶海の孤島。 周りの海は非常に深く、沖へ2kmほど出れば、水深は1000mにも達するという。 1900年に八丈島からの開拓団によって開かれているので、歴史的にも人脈的にも八丈との関係が、とても深いことが滞在中に感じられた。

当時、案内してくれたのが、今年亡くなられた日本オーナーパイロット協会の、川満沖縄支部長。 彼はこの島でも大変な影響力があり、村役場から観光課の職員が空港に出迎えに来ており、さっそく村で唯一の鉄筋コンクリート造ホテルへ送っていただいた。 職員の話を聞くと川満支部長は、年に何機もの飛行機を案内して飛来し、この島に多額のお金を落してくれる大事な存在で、村ではいつも特別待遇してるという。

夜は、島の芸能人を何組か呼んでの宴会、職員も数人参加して、大変な気の使いよう。 2次会は夜の巷に繰り出したが、どこか外国に来たような錯覚に陥った。 雰囲気としては終戦直後の飲み屋街で、色とりどりのネオンと国際色豊かなホステスたちが、通りに溢れている。 店に入ると白色系の女性が多く、飲み物も洋酒やカクテルが豊富、しかし内装は極めてお粗末。 このアンバランスな感覚は、いったい何処から誰が持ち込んだのか、最後まで謎は解けなかった。

見学できずに残念だったのは、旧空港ターミナル施設を活用して 「ラム酒」を作ってる工場。 原料はここで採れるサトウキビで、この酒で世界的に有名なのはキューバの 「バカルデイー」 またロビンソン・クルーソーが難破船から運び出し、孤独を癒したのがこの酒。 次のブログでは、ラム酒を紹介してみたい。  

 


林檎酒シードルの話

2010年04月21日 | お酒

昨日の日経で、青森のリンゴ加工会社が、英国のスーパーに林檎ジュースを輸出したと報じた。 昨夏、東京で開かれた商談会で、英のバイヤーが試飲し、成約したという。 しかし英国では無名ブランドのサイダー(英名Cider、林檎酒)が、非常に安価で売られているところから、林檎の生産はかなり多いはず。 付加価値の小さいジュースで対抗するのは、容易ではないだろうと思った。

英名のサイダーは、仏名でシードル(Cidre)。 フランスのブルターニュ地方とノルマンデー地方のものが、特に知られているが、ワインと同様に原産地呼称規制 (AOC)の対象。 シードルを蒸留すると林檎のブランデーが得られ、中でも有名なものが、凱旋門でお馴染みの 「カルヴァドス」。 またシードルと類似するものに梨を原料とした 「ぺリー」があり、とりわけノルマンデー地方やアンジュー地方では、何世紀にもわたって広く普及している。

19世紀末ごろまでヨーロッパでは、衛生上、生水を飲むことが危険なこととされていたので、幼児のうちからシードルを飲んでいようだ。 実は先月、息子の誕生祝にワインを送ったが、カートに空きスペースできたので、シードルを2本ばかり入れてやったところ、小学5年生の長男が飲んで、すっかり気に入られてしまった。 アルコール分は2度で、グラス一杯ぐらいなら差し障りないと思うが、これで我が家の男子系は、3代にわたって、アルコールと縁の深い遺伝子を持つことが判明した。

フレンチやイタリアンを食するとき、ワインが飲めない人は本当に気の毒。 こうした人たちに、アルコール度数が低く、お洒落な飲み物がないだろうか? 常々頭を悩ましていたが、行き着いたのが シードル。 発泡酒独特のコルクを品よく抜き、細長いシャンパングラスに注ぐと、ピンクの細かな泡が立ち上る。 試飲を依頼した女房も、いつしかこの飲み物の虜になってしまった。

このシードルを戦後の間もない頃、フランスから技師を呼び寄せ、醸造に成功した人物が弘前に居たとしたら、どんな人物像だったのか興味がわくのは当然。 私はこの5月に、今は亡きこの人の孫に当たる女性と会えることになった。 祖父の話を聞き、現在も稼働中の工場も見せてもらうのが楽しみ。 きっとわたしが想像している通りの、きわめて魅力のある人に違いないと思っている。


プリティーウーマン

2010年04月20日 | 映画

久しぶりにアメリカ映画 「プリティー・ウーマン」 を観た。 映画の公開は1990年、今から20年も前。 当時、主演の ジュリア・ロバーツが23歳で、リチャード・ギアが41歳、どちらも輝いていた。 そして私が51歳、もうそんな歳月が経ったのかと感慨深かった。 この映画から何を学んだかといえば、シャンパンとイチゴの相性が、極めて好いということ、しばらく凝ってしまったのを思い出す。

映画は、ウブな実業家とコールガールが出会い、次第に惹かれ合う姿を描いた、アメリカン・シンデレラストーリー。 かなり無理のある設定だが、観終わって後味のいいのは、脚本家の腕とキャスティングの良さだと思う。 主役のお二人は文句なしにはまり役だが、脇役で高級ホテルの支配人を演じた ヘクターエリゾンドの存在が大きい。 コールガールのビビアンをいつも暖かく見守り、粋な計らいをしながらハッピーエンドへ導いていく、彼の暖かな演技と人柄が、この映画の格上げに大きく寄与している。 因みに1990年度興行収入第一位。

ジュリア・ロバーツの映画出演料は、1本およそ20億円で米国の女優でトップクラス。 これは1999年のアメリカ映画 「ノッティングヒルの恋人」 の会話でさりげなく告白している。 私生活では男性との遍歴が華やかで、カナダ人の俳優キーファー・サザーランドとは、1991年に婚約するも式の3日前、自分に正直でありたいと、式をキャンセル。 4日後にキーファーの友人で俳優のジェイソン・パトリックと、アイルランドに旅立つ。

リチャード・ギアと小泉元総理の顔は似ているだろうか? 報道で騒がれただけでなく、本人も認めており、2005年来日の際には元総理を表敬訪問し、一緒にダンスを踊っている。 有名な仏教信者であり、人道主義者で、ジョージ・ブッシュのイラク攻撃を批判したり、ダライラマ14世を支援し、中国のチベット民族迫害を激しく非難したため中国側が反発、ギアをCMに起用したフィアットが謝罪する一幕もあった。

古い映画も見直してみると新しい発見がある。 その年代年代で受け止め方も違ってくるし、価値観も変わってくるからだろう。 それにしても新しい映画をあまり観なくなった。 これはまずいと思っている。


ユンカース JU52/3m

2010年04月19日 | 乗り物

ヒットラー暗殺未遂事件を映画化した 「ワルキューレ」 を観て印象に残ったのは、ドイツのユンカース社が開発した航空機 「JU52/3m」。 鋼管構造にジュラルミンの波形外板を張った、全金属製の尾輪式機体には、3基のエンジンが機首と両翼に取り付けられ、胴体には赤いナチスの鉤十字マーク。 いかにもドイツ軍用機の特徴を感じさせるこの航空機は、映画の中でヒットラーの専用機として、暗殺未遂にも主要な役割を演じる。

当初ユンカース社が製作した単発輸送機 JU52は、積載能力と飛行速度が低く、この不評を払拭すべく、生産ライン上にあった7号機に、プラット&ホイットニー社製のエンジン3基を搭載して試作したのが、JU52/3mの原型機である。 性能試験を1931年4月に行った結果、単発よりも格段の性能向上が認められ、それ以降単発型の生産は打ち切られた。

巡航速度211km、航続距離1300km、発動機BMW空冷星型9気筒725馬力×3、乗員数3名+兵員18名(または負傷兵担架12)、生産機数5000機以上。 民間航空機としても幅広く使われ、ルフトハンザ以外にも、スイス航空、南アフリカ航空で使われた。長期間の路線ではドイツとノルウェーの間を、1955年まで20年間も飛び続けた。

同機による 初の実戦参加はスペイン内戦。 ピカソが憤怒をこめて描き上げた 「ゲルニカ」 は、1936年フランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として行われた、「ゲルニカ爆撃」。 ハインケルHe111や、JU52/3mによる3時間の爆撃で、200トンの爆弾が投下され、住民7000人中、1700人が殺害され、1000人以上が負傷した都市破壊。

2000年3月には、スイス国籍の同機が世界一周の途中、仙台空港に飛来している。 給油と整備のを終え、北海道からアリューシャン列島を経由して、アメリカに向かう予定だったが、ロシア当局が装備や安全面で問題があるとして不許可となる。 結局計画は中止され、帰国したが、余談として、ナチスドイツの軍用機として使われた機体を、ロシア国内では飛ばしたくなかったという、不許可の理由説が流れた。

1932年の量産開始から戦前戦後を通して活躍し、80年近くを経た現在でも観光飛行用として、数機のオリジナル機が、現役で飛び続けていることは驚きである。

 


「イギリス人の患者」&「イングリシュ・ペイシェント」 (2)

2010年04月18日 | 小説

1997年のアメリカ映画 「イングリッシュ・ペイシェント」は、松山の映画館で観た。 第69回アカデミー賞で、作品賞、監督賞など8つの賞を受賞した大作。 まず驚いたのは、飛行機事故で大火傷を負ったイギリス人患者の顔。 焼け爛れた傷跡のメーキャップが、とても人工的に作られたとは思えないほど、精巧にできていたからだ。 この主人公アルマシーが 「嵐が丘」や「シンドラーのリスト」に出演してたイギリスの俳優 レイフ・ファインズであることを、しばらくの間、気ずかなかった。

相手役で不倫の人妻 「キャサリン」を演ずるのは、イギリスの女優 クリステイン・スコット・トーマス。 知的で上品な雰囲気の彼女が、夫を裏切り、その復讐で大怪我を負い、暗い洞窟の中で、アルマシーを待ちながら死んでいく役どころは、悲しくも美しかった。 フィレンツエ郊外の廃墟の中で、イギリス人の患者を看護する、若いカナダ人の看護婦ハナは、フランス人の女優 ジュリエット・ビノシュ。 患者に本を読み聞かせたりするうちに、彼の過去が薄紙をはくように、明らかになってゆく。 彼女はアカデミー助演女優賞を受賞。

映画の冒頭は、なにやら壁画らしきものを、カメラは辿っていく。 暗示的な悩ましい曲線を描くのは、アフリカ・サハラ砂漠の砂。 この暗示的な美しいシーンは、人妻キャサリンの美しい肉体であり、彼女が死を迎える洞窟の壁画であることが、やっとわかる。 砂漠のロケーションは北アフリカのチュニジア周辺。この映画の上映後、日本からもたくさんの観光客が訪れるようになった。 アルマシーがキャサリンの亡骸を抱いて、サウンドベージュの渓谷を歩く姿が忘れられない。 「アラビアのロレンス」 の場面を彷彿とさせるすばらしい映像は、アカデミー撮影賞を受賞。

原作者の マイケル・オンダーチェのプロフィールが、誰かに似ている。 アジアに生まれ、幼少の頃イギリスに移住、そしてイギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞。・・・そうだ思い出した、 「日の名残り」 で1989年ブッカー賞を受賞した、日本生まれのイギリス人、カズオ・イシグロ。 それにしても二人の類似点、奇遇としか言いようがない。  

 


「イギリス人の患者」&「イングリシュ・ペイシェント」 (1)

2010年04月17日 | 小説

長編小説 「イギリス人の患者」を手に取った人は、映画「イングリッシュペイシェント」を先に観ている人が多い。 そう言う私も実は 「観てから読んだ」方、原作はスリランカ生まれカナダ在住の マイケルオンダーチェ、 1992年、[ブッカー賞]を受賞した秀作。 ブッカー賞はイギリスの文学賞で,世界的に権威のある文学賞の一つ。 イギリス連邦およびアイルランド国籍の著者によって、英語で書かれた長編小説であることが選考の条件。 賞金は5000ポンド。

第2次世界大戦末期、イタリア・トスカーナ地方の廃墟となった僧院に、混沌とした時期を共有した4人。 従軍看護婦だったカナダ人の ハナ、 彼女の父の旧友で元スパイの カラバッジョ、 不発弾や爾来処理を専門とするインド人シーク教徒の キップ、 そして全身に火傷を負った 「イギリス人の患者」と呼ばれる男。 それぞれの人生に戦争が大きく覆いかかり、失意や危険の中で、かろうじて生きている4人が、偶然の出会いから次第に心を通わせていく。

それぞれが辿った人生、過去と現在が交差する形で次第に明らかになり、戦争の悲惨さ残酷さも容赦なく突きつけられる。 イギリス人の患者は、モルヒネの注射を受けながら、北アフリカを舞台に、命をかけた人妻との恋について語り始める。 平易な言葉で、実に美しい私的な表現が随所に見られ、心に染み透る。 

最終場面ではヒロシマの原爆が、物語の展開に大きな要素となってくる。 原爆が日本に落とされたことを知ったキップの反応は強烈、彼は原爆の恐ろしさを十分に想像でき、それが白人の国でなく、有色人種の国に落とされたことに怒り狂う。 アジア人として生きるキップが、西洋世界で感じる、疎外感とか孤独感も、小説の中で重要な低音部として流れている。 

キップのアジア人としての視点は、著者がスリランカ出身であることを考えると、当然と言えるかもしれない。 残念ながら映画からこうした視点は、まったく切り抜かれているが、複雑で難解なこのオムニバスな物語を、162分のスクリーンで表現するのは至難の業。 切り口を男と女の運命的な出逢い、逃れ難い可能の世界に絞り込み、荒涼とした北アフリカ・チュニジアの、サハラ砂漠を舞台に完成させた映画は、小説に劣らぬ第一級の作品。

  


中曽根康弘氏の90分

2010年04月16日 | 国際・政治

昨夜NHKの番組100年インタヴューで、元総理 中曽根康弘氏の話を聞いた。 1918年生まれの91歳だが若い。そしてまったく衰えてないのに驚く。 喋った内容と、アナウンサーの受け止め方に違いがあると、細かく訂正するし、記憶力も抜群。 健康と長生きの秘訣は、「毎日のスケジュールを決めて、百年一日の如く実行すること。」 ドイツの哲学者カントも実行し80歳まで生きたことを例に挙げる。 

今も日本の将来が心配で、政治の動きに関心を持ち、何時でもしっかりしたコメントができるよう、情報を頭に入れ、勉強を欠かさない。 いい日本にして死んでいくことが望みと言う。 政権交代をどう思うか? の質問に対しては、「良かった」 と意外な回答。 その理由は、自民党のマンネリを変えていくために交代は必要だし、交代したことで、いろいろな問題が表面化してきた。  

「日米核密約問題」 にしても、政権が変わったから明らかになったことの一つ。 当時私にも説明はあった。 戦艦が核を外してから入港するのは、現実的に不可能。 核持込を暗に認め合ったのは、日米に信頼関係が構築されていたから。 非核3原則を守りつつ、大局的な判断が外交には必要で、全てを飲み込んでやるのが政治の知恵。 細かく言ってたら、安全保障は成り立たなかった。 被爆都市広島、長崎からの、非核3原則法制化の要求に対して、現政権は難色を示しているが、アメリカの核の傘の下で守られている日本にとって、今後どう対応するか、真剣な議論が必要と感じた。

かっての 「ウイリアムズサミット」での秘話も披露しながら、会議での発言は、その国の首脳が本領発揮する場だと強調。 どのくらいウイットやジョークを交えながら、参加者を説得できるか? 能力を試され、それが外交に結びついていく。 また国家と国家の結びつきは、首脳と首脳との結びつきで、これがあって初めて、下の者が安心して本音で話ができる。 さらに家族付き合いが加わって、 「ロン・ヤス」の関係に発展していったと、自らの外交を語った。 

「風見鶏」 の比喩に対してどう思うか? の意地悪な問いには、「足をしっかりと地に付けて、頭をあちこちに振り、内外の状況を見ながら行動することは、きわめて大事」 と切り返した。 私と20歳も違いながら、とうとうと自説を展開する長老に接し、希望と元気を頂いた90分だった。