カキぴー

春が来た

「飛行船空母・メイコン」&「搭載機・F9Cスパローホーク」

2014年06月12日 | 戦争
戦争はとてつもないものを発明する。 「メイコン」は偵察任務を目的に1931年アメリカ海軍によって計画され、グッドイヤー社で建造された「空飛ぶ航空母艦」の2号機。 金属の骨組みをアルミニウム製の外皮で覆い、浮力はヘリウムを満たしたゼラチンラテックス製気嚢15個が主役。 全長239m・全高45?・重量198トン・乗員91名・積載量72トン、8基のガソリンエンジン(560馬力)によって最高速度は140km/h。 最大の目玉は「F9C複葉戦闘機」5機の搭載が可能なこと。

1920年代アメリカが軍事目的として飛行船に着目した理由は、長大な航続距離と積載量。 遠方にある敵国基地などの周辺まで飛行船で到達し、搭載機を目標上空まで飛ばしての強硬偵察を計画していた。 飛行船の先進国ドイツが第一次世界大戦で敗戦国となり多くの賠償金を課せられると、アメリカはその一部として建設中の飛行船一隻を要求し、引き渡しを受ける。 これが「メイコン」開発の第一歩。

ところで搭載機・愛称スパローホーク(猛禽類のハイタカのこと)だが、カーチス社製で乗員1名・全長6m・全幅7m・エンジン415HP・最大速度283km/h・航続距離475km・武装2×7ー62mm機銃1基。 小型で大型飛行船の搭載に最適と評価され採用されたが、もう一つの大きな選択理由は、この複葉機が飛行船に合わせて飛ぶことのできる「低速性能」にきわめて優れていたこと。 

さてこの搭載機をどうやって離発艦させるのか? パイロットたちからトラピーズ(空中ブランコの意)と呼ばれた飛行船の係留装置に、機体の上翼の上に取り付けられたフックで吊るして船外に降ろされ、エンジン出力を上げて飛行船のスピードを上回るとフックが外れる仕組み。 着艦は飛行船との速度を合わせながら接近し、フックを係留装置の受け口に引っ掛けてエンジンを切る。 まさに空中サーカスさながらの神業だが事故はなかったという。

飛行船の最大の欠陥はタービランス(乱気流)に弱いこと。 1号機のアクロンは1933年ニューイングランド沖合でタービランスに遭遇して墜落、指揮官以下乗員73名が犠牲となった。 それから2年後、メイコンもカリフォルニア沖で大型のタービランスによって墜落、死者2名。 これで世界から注目された飛行船空母も、わずか数年で消え去った。 その後に起こる歴史的惨事が1937年の「ヒンデンブルク号爆発事故」。 これが致命傷となって華やかな飛行船の時代も、あっけなくその幕を閉じた。

  


唯一ユダヤ難民を受け入れた「上海」と、杉原千畝

2014年03月16日 | 戦争
2月22日に報道された「アンネの日記損壊事件」の犯人が、3月10日には早くも特定され、とくに背後関係もなく早期に解決をみることができた。 事件後イスラエル大使館からアンネ関連の書籍が届いたりして、杉原千畝領事の築いた日本との絆があらためて確認された感じ。 ところで「セントルイス号の悲劇」をご存知だろうか。 1938年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合すると、大量虐殺から逃れようとする12万人の在独ユダヤ人が、ビザを求めて各国の大使館や領事館の外に並んだ。 

しかしアメリカ・メキシコ・カナダ・中南米諸国・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・ヨーロッパ諸国とその植民地のすべてが、避難民を拒んだ。 そんな中、キューバ政府が難民を受け入れると表明し、937人のユダヤ系難民が最後の望みをかけ、1939年5月13日、ハンブルク港から遠洋汽船セントルイス号に乗船しハバナへ向かった。 5月27日ハバナに到着したがなかなか下船できない、当時のキューバ大統領の心変わりで、条件を満たした31人を除く全ての入国を拒否したからだ。 

やむなく最終目的地としてビザに記載した米国が入国を許可してくれることに望みを託しながら、6月2日船はフロリダに向かって出港する。 しかし埠頭に入ることさえ拒絶されたセントルイス号は、ヨーロッパに引き返すことを余儀なくされる。 最終的にヨーロッパの国々が受け入れに同意、ベルギーのアントワープに入港すると、乗客はベルギーに214人・オランダに181人・フランスに224人・英国に287人が、それぞれの国に散っていった。 しかしその後ナチスがイギリスを除く国々に侵攻すると、乗客は強制収容所送りとなり、無残な死を迎える。

「上海共同租界」は1842年の南京条約によって設置された。 1937年の第二次上海事変で租界は大日本帝国に占領されたが、日本軍と南京国民政府はパスポートに関する社会体制を整えなかった。 このためナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ系難民にとって上海は、世界で唯一ビザなしで逃げ込める「天国」となり、およそ2万人が終戦以降まで暮らすことができたことは、ほとんど知られていない。 そしてロシア系ユダヤ人の多くは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝に救われた人たち。

「世界の脇の下、東洋のスラムで肥溜め、中国の皮の上の膿んだできもの、そう称された都市の強烈な匂い・・・しかし上海は決定的におかしくなってしまった故郷から逃げてきた私たちに、避難場所を提供してくれました・・・戦争は終わり、私たちは600万人ものユダヤ人のたどった悲惨な運命について知りました・・・ヒトラーの死の収容所の恐怖の前には、地域に閉じ込められた暮らしの厳しさなど比較にならないと悟りました・・・上海よ、ありがとう、ありがとう!」。 1939年~1947年まで上海で暮らした 「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」の著者、ウルスラ・ベーコンの言葉。
  

  





  


世界初の[核ミサイル原潜沈没事故]と、セスナ機「赤の広場着陸事件」

2012年10月01日 | 戦争
1986年10月3日、観光客で賑わうバミューダ島からわずか800km沖合で起きた 「Kー219」(ソ連海軍弾道ミサイル原子力潜水艦)の惨事は、レイキャヴィックで行われた核兵器削減が主題の米ソ首脳会談の8日前で、まさに冷戦の頂点にあった時期。 さらに当時、核戦略の要ともいうべき潜水艦作戦の真相は秘中の秘、ゆえに米ソいずれの側からも公表されることなく闇に葬られた。 そして冷戦終結からおよそ10年が経過したころ一冊のノンフィクションが出版されると、長く閉ざされていたドラマの全貌が明らかになり、大きな反響を呼ぶ。 著書は「hostile waters」(邦題「敵対水域」三宅真理・訳)で、著者は三人。

ピーター・ハクソーゼンは元アメリカ海軍大佐、イーゴリ・クルジンはロシア海軍大佐、R・アラン・ホワイトはミステリー分野で活躍する作家。 米露両海軍大佐の豊富な経験と知識・人脈・情報に加えて、プロの作家が構成するストリー展開の巧さが緊迫感が盛り上げる。 さらにアメリカの最先端技術に捕捉されてるのも知らず、老朽化した潜水艦で敵の海に向かうブリタノフ艦長と乗組員たちの深い諦念と強烈なプライドが哀切を誘う。 1984年にアメリカで出版されると大ベストセラーとなり、レーガンを始め国防関係者がこぞって読んだ。 「レッド・オクトーバーを追え」の著者トム・クライシーも、寄せ書きの中で絶賛している。

Kー219の第6サイロ内に漏れ出した海水がミサイル燃料と反応して爆発を起こした事故は、3名の水兵が死亡し、原子炉を停止させる作業は、19歳の徴兵水兵が自らの命を犠牲にして成し遂げられた。 ソ連の貨物船の曳航によって帰港する試みは失敗し、有毒ガスが艦の最後尾まで漏れ出すと、ブリタノフは本国からの命令に反して曳航船への総員退去を命じ、自らは艦に留まる。 怒ったモスクワは艦長の交代を命じたが艦への浸水が激しく、Kー219は核兵器とともに6000mの海底に沈んだ。 辛うじて溺死を免れたブリタノフに対する刑は機関長とともに20年の重労働、さらに故意の自沈が立証されれば死刑・・・。

ところがブリタノフの運命が若い一人のドイツ青年の手に握られていることを、当人が知る由もない。 1987年5月28日午後、当時19歳のマチアス・ルストはヘルシンキ郊外の小さな民間空港からセスナ172B型機をレンタルして離陸した。 彼はフィンランド湾の上空で南東に機首を変え、姉が住むエストニア共和国タリンの近くでソヴィエトの上空に入り、やがて前方にモスクワの汚れた空が見えてきた。 青年を乗せたセスナ機は地球上で最も警戒が厳重と言われる空の関所をいくつも見事に通過し、ソ連の中枢にあるクレムリンに隣接する赤の広場に着陸した。 皮肉にもその日は国境警備隊を讃える国民の祝日。

当時ソ連の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長は、この事件を好機と捉え、ペレストロイカに反対していたソコロフ国防相は直ちに解任され、ゴルバチョフの側近であるドミトリ・ヤゾフ陸軍大将が後任に起用される。 ヤゾフは考える、艦長らは少なくとも世界の目から見れば一種の英雄であり、さらにゴルバチョフの信奉する「新思考」をまさに体現した人物ではないか・・・ヤゾフは処罰指令書を破り捨てる。 1960年~89年までの旧ソ連時代に発生した原子力艦船事故は23件、放射線被曝などにより少なくても40名の死者が出ていると言われる。 K-219と同類の悲劇は過去に何度も繰り返されてきたのである。   



 







  


映画 「戦火の馬」(WAR HORSE)を観てきました

2012年05月15日 | 戦争
「馬は別れるとき本当に泣くんだ」 第2次大戦中,出征先の中国本土で軍馬の世話をしていたという近所の老人から聞いた言葉が耳に残っていたのが、この映画を観ようと思ったキッカケ。 僕の住む街にはシネマ・コンプレックスなる近代施設はなく、古く小さな映画館が幾つか残るブロックで、洋画・邦画など常時7~8本を細々と上映してくれているのを有り難く思っている。 問い合わせると上映は1日1回だけで駐車場はなし、6時50分からの始まりなので犬の運動を早めに終え、途中のコンビニでサンドイッチとカフェオレを買ってからクルマを街中のデパート駐車場に入れた。 そこから暫く歩いて10分前に到着、入場料はシニア割引で1000円、「パンフレットの700円はすこし高いね」と言ってみたがまったく反応なし。

第一次世界大戦で軍用馬として徴用され死んでいった馬の数はイギリス軍だけで100万頭、そのうち帰ってきたのは僅か6万2000頭で、その中の1頭という設定が「戦火の馬」の主役である美しく賢い馬 「ジョーイ」。 戦場で命を落とした馬が多い中、生き抜いた馬にも悲劇が待ち受けており、終戦後イギリス政府の決定として本土に輸送するには費用がかかりすぎることから、馬達はフランスの肉屋に売られていった。 過酷な環境下、もの言わず黙々と働いた馬たちの末路を思うと胸が痛む。 大戦前夜のイギリスの農村、貧しい農家に引き取られたジョーイは、この家の少年アルバートと固い絆で結ばれるが、軍馬として徴用され戦場の最前線に送られる。 死と隣り合わせの極限状態の中、ジョーイは人間たちの良心によって生き延びていく。

原作は1982年にイギリスで出版された同名小説。 1頭の馬の視点から描かれたこの物語はその後25年を経てロンドンで舞台化されると国際的な成功を収め、2011年にはトニー賞演劇部門5部門受賞を受賞する。 この舞台劇と運命的な出逢いをしたのが、「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」などの傑作を生み出してきた巨匠「スティーブン・スピルバーグ」。 さっそく映画化の権利を取得すると、脚本・撮影・音楽・編集・衣装など彼の常連の最高スタッフが集められ、イングランド南西部デヴォン州ダートムの農村風景から撮影が始められた。 馬に人間の感情移入を試み、観客に感動を与えるような「馬の演出」は大変なことだろうと思うのだが、長年馬と暮らしていると、彼らの表情を読み取ることがいかに容易なことか分かるとスピルバーグは言う。

幸い優れた調教師のボビー・ロヴグレン以下、馬を知り尽くしたプロのスタッフを得て馬の演技は素晴らしかったが、驚くことは動物愛護団体の代表としてバーバラ・カーを撮影に参加させ、馬が苦痛を感じたり嫌がっているとき、即座に撮影を中止させる権利を彼女に与えていたこと。 この映画では14頭もの馬が仔馬から大人になるまでのジョーイを演じているが、馬のメイクアップ・スーパーバイザーがジョーイ独特の外見になるようメイクを施したという。 ところで映画は良く仕上がっておりキャスティングも申し分ないのだが、2時間半の上映時間を若干長く感じるのは、あまりに多くのエピソードを詰め込みすぎて感動の山場が見い出せないのと、ストーリーの予想が見事なまでに外れないから。 

しかし第1次世界大戦当時の遺物を見事に再現した「塹壕」、衣装デザイナのチームが歴史的資料をもとに手縫いで創り上げたという騎兵隊の衣装や装備品、潜望鏡付き狙撃銃など、1930年公開でレマルク原作の名画 「西部戦線異状なし」を彷彿とさせられる。 わが国の軍馬は満州事変から太平洋戦争までおよそ300万頭以上が、馬の産地・北海道を始め全国の農家から徴用された。 食べ物も水も少なく厳しい暑さの戦地でよく言うことを聞き、重さ2トンもの野砲を必死に引く生々しい息遣いと、汗にまみれた姿が忘れられないと当時の兵は語る。 熱病、栄養失調や銃弾負傷した馬は行軍中に遺棄されたが、そうした様子が斉藤茂吉編の歌集に残されている・・・・「足をくじき 山に捨てられし 日本軍馬 兵を懐かしみ 歩み寄り来る」。 


<PS・読者の皆様へ。 この度転居いたしましたのを機に、これまでの定期的な更新を変更し「忘れられない程度」の掲載とさせて頂き、少しまとまったものも書いてみたいと思いますのでご了承ください。  cockpit-09  キャプテン・イチロー>         


「D・マッカーサー」と、専用機「バターン号」に込められた執念  

2012年04月25日 | 戦争
日本政府のポツダム宣言受託から2週間が過ぎた8月30日14時05分、連合国軍最高司令官「ダグラス・マッカーサー米陸軍元帥」が、第1次本土進駐部隊の主力メンバーを率いて、フィリピン・マニラから神奈川県厚木飛行場に降り立った。 専用機ダグラスC-54・「パターン2号」からオートマチックのタラップが降ろされ、姿を見せたマッカーサーは特注の軍帽にラフな軍服、レイバンのサングラスにトレードマークのコーンパイプをくわえ、タラップを2段ほど降リると立ち止まり、ゆっくりと左右を眺め渡してから足早に階段を駆け下る。 これらは彼一流の演出されたポーズで、「日本人は必ず降伏を受け入れる」という彼の自信を示したもの。 彼はこの日からおよそ2000日を、日本で過ごすことになる。

「バターン」は、マッカーサー元帥の専用機に使われるコールサインで、米大統領専用機に使われる「エアフォース・ワン」などと同類のもの。 バターンという名称の由来は、第2次世界大戦中のフィリピン・バターン半島で起きた 「バターン死の行進」がその語源。 1941年12月23日、台湾から派遣された本間雅晴中将率いる第14軍がルソン島リンガエン湾に上陸した。 フィリピン防衛の任に当たっていたのは、フィリピン駐在アメリカ極東軍司令官マッカーサー大将で、12月24日マニラの無防備都市宣言(占領時の戦闘を避ける目的で、都市に軍事力が存在しないことの宣言)を行った後マニラから撤退し、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった。 日本軍は1月2日マニラの無血占領に成功するとコレヒドール要塞を攻撃する。

当時のルーズベルト大統領は個人的にマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死したり捕虜になった場合、国民の士気に悪影響を与えることを危惧し、オーストラリアへ脱出するよう命じた。 「I shall return 」(必ずや私はここに戻ってくるだろう) と言い残してマッカーサーは家族や幕僚達を伴ってミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からB-17(バターン1号」でオーストラリアに飛び去った。 日本軍を前にしたいわば敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴で最も大きな失態となり、その後も彼の軍歴にこの汚点が付いてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つけたことは確か。 一方日本軍は死者130名、負傷者6808名を出しながらも4月9日バターン半島を占領した。

降伏したエドワード・P・キング少尉率いる米比軍の捕虜は、日本側の予想をはるかに上回る7万6000名まで膨れ上がリ、しかも健康状態も悪かったため捕虜輸送計画に大きな狂いが生じた。 全捕虜がトラックで輸送されるはずだったが200台しか使用できず、結局マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。 この区間の行進が「死の行進」と呼ばれた。 米兵達は降伏した時点で激しく疲労しているうえに、マラリアやデング熱、赤痢なども蔓延しており、さらに炎天下を行進したため収容所にたどり着いたのは5万4000人だった。 戦後のマニラ軍事裁判において本真中将と、捕虜輸送責任者であった河根少将が死の行進の責任者として有罪判決が下り、処刑されている。

さて、朝鮮戦争における核兵器使用発言などでトルーマン大統領を激怒させたマッカーサーは、国連軍総司令官を解任され1951年4月16日、日本を去ることになるが、このときの専用機が3枚の垂直尾翼が付いた僕の大好きな、VC-121A ロッキード・コンステレーションで、これが「バターン3号」。 実はこの他にバターン・ワン、バターンツーのコールサインを使用した航空機がある。 終戦直後の1945年、降伏調印準備使節団を乗せて木更津から沖縄・伊江島まで飛行した2機の一式陸上攻撃機で、終戦に納得しない友軍機からの攻撃を避けるため、白く塗装され翼と胴体に緑の十字描かれた。 こうしたコールサインにまつわるエピソードからも、「マニラ脱出と死の行進」に対するマッカーサーの執念が読み取れて興味深い。 


第2次世界大戦で犠牲となった 「ノルマンディー」と「沖縄」

2012年04月05日 | 戦争
ドイツと日本は先の大戦で、互いに同盟国として連合軍と戦い共に敗れた。 そして本土決戦の前に救いようのない殉難を強いられたのが、当時ドイツの占領国でヨーロッパ大陸への上陸地点となったフランス・「ノルマンディー地方」と、本土防衛の盾となった「沖縄諸島」。 ドイツ本土を目指す連合軍にとって上陸地点の候補地は数ヵ所に絞られたが、最終的にポイントになったのが空軍の(とくに航続距離の短い戦闘機)行動範囲だった。 第2次世界大戦は空軍の戦闘力が勝敗を決する戦争になっていた。 上陸海岸の制空権を取らずに上陸するのは自殺行為であり、上陸後も輸送船団や補給港を空軍の支援なしでは保持できないからだ。 空軍の基地はイギリス本土にあり、この起点からヨーロッパの地図を検討すると候補地はライン川の河口付近からコタンタン半島の海岸に限定された。

当初はバ・ド・カレー海岸が有望と思われた。 イギリス・フォーランドからフランス・カレーまでのドーバー海峡最狭部は僅か34kmしかないし、ノルマンディーに比べてドイツ国境に近く、フランスとドイツの連絡線を絶つことでドイツ軍の撤退を誘うことができる。 しかし決定的な欠点があった。 補給の拠点となる大きな港が無いのだ。 ノルマンデーの近くにはシェルブールという大きな港があり、しかも上陸部隊の発進基地としてイギリス海軍の一大拠点であるポーツマス軍港が近かったことが、ノルマンディー地方の住民にとっては不運であった。 しかし彼らがある種の生け贄になることで、パリをはじめととするフランスの残り多くの地域が救われたのは、紛れもない事実なのである。 僕が沖縄を比較対象にした理由もここにある。

連合軍の上陸からノルマンディー開放までのあいだに殺されたフランス民間人は1万9890人を数え、それをはるかに上回る数の人びとが重傷を負った。 ノルマンディーの人的被害はそれだけではなく、1944年1月から5月までの「オーヴァーロード作戦」にいたる期間(作戦開始日は6月6日)にも、ノルマンディーを中心に連合軍は準備爆撃を実施している。 それによるフランス人の被害は死者が1万5000人、負傷者が1万9000人に達しており、戦争の全期間を通じ、連合軍の手によって命を落としたフランス人の数は7万人に及ぶ。 この数は、ドイツ軍の空爆で殺されたイギリス人の総数を上回っており、当然ながらそこまで破壊する必要があったのかという議論は、その後長いあいだ続くことになる。

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的戦闘は6月20日に終了した。 日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄出身者が12万2228人、その内9万4000人が民間人で多くは住民犠牲者。 日本第32軍司令官(沖縄守備軍最高指揮官)・牛島満中将が自決。 一方アメリカ側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者は7万2012人。 アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)・サイモン・バックナー中将は、前線視察中に砲撃を受けて戦死したが、これはアメリカ軍史上最高位の階級で戦死した唯一の軍人。 余談だが僕の在学してた中学にどんな事情があったのか、牛島中将のご子息が一級上のクラスに半年ほど居られたのを思い出す。 話を交わしたことはなかったが、さすがにいい身なりをして上品な雰囲気の上級生だった。 

牛島は戦況が日増しに悪化する1944年9月沖縄に赴任すると、軍民一体となったサイパンの「玉砕」を繰り返してはならないと、老人・児童・これを世話する女性を北部に疎開させた。 また「やんばる」に逃れた大半は栄養失調や餓死であったことから、住民の栄養失調や餓死をを防ぐため、軍用糧食を住民に配る覚悟をし部下に指示を出している。 沖縄陥落から3日後の23日牛島は礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座、名刀「来国俊」を手に割腹、介錯を頼まれた坂口大尉が首を切り落とした。 行年58歳。 戦後の米軍による統治下でも沖縄の住民はさまざまな苦渋を強いられ、今なお基地問題で戦後を引きずっている。 「沖縄基地移転先と、3・11ガレキ置き場の選定は似ている」と言ったのは、作家・宗教家の玄侑宗久氏。 どこかが引き受けなければと思っているが、いざ自分のところとなると反対するからだ。 



 

     

     


「パリは燃えているか」 ドイツ占領下で戦勝国となったフランス

2012年02月15日 | 戦争
前から観たいと思っていた1966年公開のアメリカ・フランス合作映画、「パリは燃えているか」をオークションでやっと入手した。 この作品は第2次世界大戦末期におけるドイツ占領下のパリを舞台に、「パリを救った人物」として歴史に名を残したドイツ軍・パリ都市圏防衛司令官「ディートリヒ・フォン・コルティッツ大将」の思惑と動きを追いながら、パリ開放に向けて活躍したレジスタンスと連合軍の駆け引きなどを、ほぼ史実に基いて映画化したもの。 パリ開放の前哨戦となったフランス・ノルマンディー上陸作戦を描いたアメリカ映画「史上最大の作戦」と同様、各国のトップスターが総出演する3時間に及ぶモノクロの大作。

タイトルの「パリは燃えているか?」は、総統大本営で会議中のヒトラーがパリ陥落を知り、傍らのヨードル元帥に問いかけた台詞。 ドイツのフランス占領から4年、ノルマンディーに上陸した連合軍はパリを目指して進行しており、激しさを増すレジスタンスの抵抗でパリを守備するドイツ軍は、日ごとに追い詰められていた。 そんなさ中、コルティッツはパリ占領司令官の辞令を受けるべくヒトラー総統の元へ向かう。 前任者はヒトラー暗殺にかかわったとして解任されていた。 直々に面接した総統はヒステリックに命ずる。 「連合軍の侵攻と同時にパリを破壊し焼き払え!エッフェル塔もノートルダムもルーブルも、決して敵に渡してはならぬ。」

ところで1945年9月2日東京湾上の米・戦艦ミズリー号で行われた日本の降伏調印式で、ドイツの占領下にあったフランスが、なぜ戦勝国の一員としてセレモニーに参列しているのか?、僕は少なからず疑問を感じたものだ。 1940年ナチス・ドイツの侵攻でフランスは敗北する。 ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となり、独仏休戦協定が締結された。 レノーやベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためカサブランカに逃亡しようとしたが、身柄を拘束される。 一方レノー政権の国防次官でペタンの部下であったシャルル、ドゴール准将はロンドンに亡命、「自由フランス」(FFI)を結成し、ロンドン・BBC放送を通じて対独徹底抗戦とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかける。

1944年7月、自由フランス軍司令官ドゴールは焦っていた。 パリ開放が近いことを察知したレジスタンスの動きが活発となる中、FFI と共産党系レジスタンスとが勢力争いを始めている。 もし共産党系が勢力を握ってパリ開放の英雄になれば、フランスは共産国になってしまう。 また連合軍総司令官アイゼンハワーはパリを無視することにきめている。 もしパリを開放したら大量の物資を回さなければならないし、進軍スピードも落ちてドイツ到着が遅れるからだ。 さらにアメリカ第3軍パットン将軍もパリは眼中にない、彼は一刻も早くドイツを陥落させたいだけ。 こうした複雑な状況下ドゴールは腹を決める。 連合国軍として戦っている自由フランス第2装甲師団を引き抜き、単独でもパリ開放に向かわせると脅し、これが功を奏する。

ドイツ総司令部から発せられるパリ爆破命令は、コルティッツ司令官の胸三寸だったが彼は実行しなかった。 「ヒトラーはなぜパリを破壊するのだ?」スエーデン領事・ノルドリンクの問いにコルティッツは答える、「彼は正気ではないのだ」。 8月25日パリは開放された。 ドゴールは自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ大通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びる。 この時点でフランスは戦勝国としての存在を世界に印象ずけたのだ。 コルティッツは1947年4月釈放され、1966年長年患っていた肺気腫のため死去、72歳。 葬儀にはドイツ連邦軍とフランスの将校が参列し、花束を供えた。 



          


米国参戦の伏線となった 高速豪華客船「ルシタニア号撃沈事件」

2011年12月30日 | 戦争
第一次世界大戦(1914年~1918年)においてアメリカ合衆国は、イギリス・フランスなど同盟国から参戦の働きかけがあったものの、長い間の「モンロー主義」(合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したアメリカ外交の基本姿勢で、第5代大統領ジェームズ・モンローが年次教書演説で発表した)に基ずき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。 しかしこの方針を変えるきっかけとなったのが、1915年5月7日イギリス船籍の客船「ルシタニア号」が、南部アイルランド沖でドイツ海軍潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没した事件。

イギリス・キュナード・ライン社所有の豪華客船 ルシタニア(31550トン)が竣工したのは1907年、、同じくキュナード社が建造した「タイタニック号」が処女航海の大西洋でで氷山に接触して沈没し,1513人の犠牲者を出したのはそれから6年後の1912年4月14日。 ルシタニアが建造された当時、ブルーリボン賞をめぐる客船のスピード競争がイギリスとドイツの間で繰り広げられていた。 この賞はドイツが独占しており、イギリスはこれを取り戻そうと必死であった。 1907年10月ルシタリアは東回り航路でブルーリボン賞を奪う、記録は23・61ノット(43・7km/h)。 世界最速として認められたルシタニアは、第一次世界大戦中においてもアメリカ合衆国~イギリスを結ぶ定期船として運行され続けられた。 

1915年5月1日、最後の航海となるルシタニアは、1257人の乗客と乗組員702人の1959人を乗せ、ニューヨーク港54番埠頭から出航した。 それ以前の4月22日、ドイツ大使館は新聞に次のような警告文を、ルシタニアの広告と並んで掲載していた。 「大西洋の航海に出られる渡航者の皆様はドイツ帝国と、イギリス並びにその同盟国との間に戦争状態が存在することを認識して下さい。 すなわち戦場はブリテン島の周辺海域も含みます。 ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、イギリスとその同盟国の国旗を掲げた大型船は攻撃対象となります。 イギリスとその同盟国の船に乗って戦場である海域に乗り出す場合も同様であり、その危険は自分自身でご承知ください。」 

警告文は乗客・乗務員に大きな衝撃を与え、ターナー船長はルシタニアがいかに高速であるかを説明し、Uボートに追いつかれて攻撃される心配はないと説得して、ルシタニアは2時間遅れて出航している。 5月7日、大西洋を無事通過し南部アイルランド・ケープクリア島沖48kmを航行中のルシタニアを、Uボート「U-20」が発見、4時10分、霧のため18ノットに減速したルシタニアに向けて2本の魚雷が発射され、1本が右舷ブリッジ直下に命中、僅か18分で沈没したため1198名の乗客が犠牲となった。 その中には100人の子供や赤ん坊が含まれ、さらに139人のアメリカ人のうち128名が死亡したため、アメリカ側は激怒し、国民の反独感情は高まる。

しかしウイルソン大統領はヨーロッパの問題に関わることを拒む、国民がどれほど怒っても当時の合衆国には戦争準備ができていなかったからだ。 参戦への直接的引き金となったのはドイツの「ツインメルマン電報事件」と「無制限潜水艦作戦」で、1917年4月6日アメリカ議会は第一次世界大戦への参戦を承認する。 5月にはアメリカ軍師団が前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士が輸送された。 総兵力210万人のアメリカ軍の登場で、それまで均衡を保ってきた西部戦線に大きな変化が生じ、1918年11月11日午前11時、ドイツの降伏で戦争終結。 「アメリカ参戦のためにルシタニアは利用された」という説が流れる中で、当時のイギリス海軍大臣・チャーチルは語る。 「死んだ赤ん坊は10万の兵に勝る」 と。  
  




































 


「遣独潜水艦作戦」と、劣悪な居住環境

2011年12月15日 | 戦争
「遣独潜水艦作戦」は、第二次世界大戦中に同盟国ドイツと日本とを結び、戦略物資や、新兵器の図面、部品、さらには大使館付武官・民間技術者など、日独両国間の輸送を日本海軍潜水艦によって行った隠密作戦。 それまでシベリア鉄道を利用した陸上輸送路が独ソ開戦により不可能となり、さらに日米開戦により船舶による海上輸送も困難となったため、潜水艦による人や物資の輸送計画をドイツが提案、日本も同意して計画が実行に移された。 当然スエズ運河は利用できず、基本ルートは日本~マラッカ海峡~インド洋~マダカスカル沖~喜望峰沖~大西洋~ドイツ占領下のフランス大西洋岸に有るUボート基地(Uボート・ブンカー)との往復で、片道およそ3ヶ月を要した。

作戦は第1次(1942年)から第5次(1944年)まで計5回実施されたが、完全往復できたのは1943年6月1日~12月21日にかけて実行された第2次派遣艦「伊号第8」のみ。 主たる任務はヒトラーから無償譲渡されるUボート1224の回航乗務員51名の輸送で、魚雷発射管室を居住区にするための改造を行っている。 8月31日フランス大西洋岸のブレスト到着、艦長の内野信二大佐と士官はパリ経由でベルリンを訪問、カール・デニッツ海軍総司令官と面会するが、この最中の9月8日同盟国のイタリアが連合国に無条件降伏している。 復路で赤道を通過した10月27日、イギリスの哨戒機に発見され至近弾を受けるも逃げきり、ドイツからの物資を積んで呉に帰航。  

二つの大戦を通じて航空機、船舶、戦車などが目覚しい進化を遂げたが、そうした中で各国の兵士達から最も敬遠されされてきたのが「潜水艦」。 高水圧に耐えるための鉄の塊の中は決して広くない、その中にエンジン・バッテリ・魚雷・燃料・水・食料・生活物資などのスペースが優先的に決められので、余った空間におよそ50人前後の乗員が詰め込まれる。 それでも階級意識の厳しい海軍では士官と兵士が区別されており、士官は個室、兵士は3段のカイコ棚ベッド、トイレも区分されてられていた。 しかしたった2つしかないトイレは「緊急時」どちらを使ってもよく、艦長も士官も順番待ちの列に並んで待ち、多くの乗組員が慢性の便秘に悩まされた。

冷房装置は備えられているものの、多くは動力や電池の冷却に使われるため室温が25度を下がることはなく、赤道の海水温度は30度以上にもなるので、熱帯地域での潜乗員は艦長であってもチジミのシャツに半ズボン。 また敵の聴音探知が心配な場合は冷房を切るので、電池室の真上や機械室は40度を越すこともあり、ふんどし一丁に手ぬぐい一本が現実の姿。 さらに潜行中は換気ができず、空気清浄装置を使って炭酸ガス濃度を下げていたが騒音が出るので戦闘中は使えず、その場合圧縮酸素を放出していたが、これをやると艦内気圧が上がるため圧搾ポンプの運転が必要となり、これがまた騒音のもと。 結局夜間の一瞬を狙って浮上し急いで空気を入れ替える間、上甲板に出て新鮮な空気を思い切り吸うのが束の間の天国だった。

1942年に入ると連合国側のソナーや逆探知、航空機搭載レーダー、暗号解読などによる対潜対策が進み、航路に配置された護衛空母から飛来する対潜哨戒機の攻撃を受けるため、遣独艦の潜航時間は日を追うごとに長くなり、浮上できる回数は少なくなっていった。 また潜航中はスピードが落ちるため航海日数が増え、乗組員は長期の苦痛を強いられた。 潜航が続くと食事は缶詰と栄養剤、缶特有の臭いが鼻につき空腹でも食べる気にならなかったらしい。 また水は貴重品で1日1人1リットルの計算で積み込まれていたものの、潜航が長引くと体も拭けず歯も磨けず、艦内はつねに想像を絶する悪臭だった。 こうした長期にわたる劣悪な環境下にあって潜艦乗組員の生存率は低く、遣独潜水艦作戦で亡くなった多くの乗員の最後は、特攻パイロットのそれよりもはるかに過酷で、悲惨だったかもしれない。      






















      


極秘潜水空母・「伊400型潜水艦」&搭載機「晴嵐」

2011年11月25日 | 戦争
「戦争は発明の母」と言われるが、航空機を潜水艦に搭載するというアイデアは古くからあり、第一次世界大戦後も各国で実用化が試みられたが実現できなかった。 ところが第二次世界大戦の末期、日本海軍は攻撃機3機を搭載する「潜水空母」とも言うべき空前の大型潜水艦建造を、最高機密のもと決定する。 これが史上類を見ない潜水空母「伊400型潜水艦」で、全長122m、全幅12m、水中排水量6千500トンは駆逐艦に匹敵する。 注目すべきは驚くべき航続距離、14ノットで7万km、地球の直径が4万kmなのでらくに1周半が可能、世界中どこへでも無給油での往復出撃が可能だった。

これに要する燃料の積載量も膨大なもので、重油1750トンを内郭外と内郭内に各々3/4,4/1とに分けて搭載した。 建造には多くの技術的難問を抱えていた。 それは従来の小型偵察機より重量が3倍もある攻撃機を収容する起倒式クレーン、カタパルト(射出機)、3機の機体を収納する巨大な格納筒と水密扉の開閉装置など、設計製作ともに高度な技術を要するもであった。 さらに極めて大きな船体の機密性、水中旋回力、安定性と操縦性、潜航時間の短縮(秒単位)、復元力、など大型潜水艦の持つ宿命的課題を、戦時下での資材不足の中、技術陣は見事に難問を解決し世界に類を見ない潜水空母を完成させる。

一方搭載する攻撃機「晴嵐」(M6A1)の設計生産は、母艦と同時に開発に着手され1943年11月に試作機が完成。 乗員2、出力1400HP、最大速度474km/h(フロート投棄時560km/h)、航続距離1540km、実用上昇限度9640m、武装:機関銃13・0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kgは4発)、または45cm魚雷×1。 実戦における攻撃時に大型爆弾の場合、フロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は母艦近くに着水または落下傘で乗員を収容し機体は放棄した。 また母艦には予備爆弾・魚雷が準備され再出撃も可能、ただし唯一にして最後の出撃時は「特攻」扱いとなっていた。

晴嵐は飛行機格納庫に収めるため、主翼はピン1本を外すと90度回転して後方に、水平尾翼は下方に、垂直尾翼は右横に折りたためる。 また暖機のため加温した潤滑油・冷却水を注入するなどして3分で発進可能、しかしカタパルト発艦にはリスクが伴うため、搭乗員には訓練時一回の発艦につき6円の危険手当が加算された(当時の大卒初任給は60円)。 なお晴嵐は、潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、また任務によっては世界のあらゆるところでの飛行を可能にするため、ジャイロ・コンパスを装備するなど1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当した。

1945年4月25日、第一潜水戦隊全艦による「パナマ運河夜間攻撃計画」が公表され、晴嵐は全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となる。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、南洋群島ウルシー環礁に在泊中の米機動部隊空母群に目的変更となる。 7月20日伊400と伊401は舞鶴港を出航、8月17日を攻撃予定日として航海を続けていたが、8月16日終戦による作戦中止命令を受け帰港中、米軍に捕獲される。 その後日本の潜水艦技術がソ連に渡ることを恐れた米軍は、2隻をハワイ沖で海没処分したが、水密格納筒の構造は後のミサイル搭載潜水艦の建造に生かされている。   
 


「Uボート・ブンカー」と、地中貫通弾「トール・ボーイ」

2011年11月05日 | 戦争
1981年公開のドイツ映画「Uボート」。 敵艦隊に損害を与え、難関ジブラルタル海峡を通過中のドイツ潜水艦Uー96は、予想通り敵駆逐艦の攻撃を受け致命的な損傷を被る。 エンジン停止の状態で水深280mの海底に沈み、酸欠と水圧の恐怖に怯えながらも必死の修復作業で浸水を食い止め、見事に浮上する。 翌朝死線を乗り切った乗組員の眼前に、ナチス占領下にあるフランス、ラ・ロシェルの母港が見えてきた。 そして衝撃のラストシーン・・・盛大な出迎えに沸くUー96の頭上に突如連合軍機の編隊が襲いかかり、そこは修羅場と化し、艦長は沈んでいくUー96を人生最後の網膜に焼き付けなが息をひきとる。

第2次世界大戦中ヒットラーは、連合軍の空襲から係留中や修理中のUボートを守るため、ぶ厚い鉄筋コンクリート造りの堅牢な防空施設「ブンカー」建設を命ずる。 最初のUボート専用ブンカーは、北海のヘルゴラント島に造られ、続いてハンブルク、キールと建設が始まり、労働者2万人以上が徴用され、1箇所につき7ヶ月の工期で続々と竣工した。 これに対しイギリスはUボートの戦争遂行能力を奪うため、ブンカーを破壊する重さ5トンの大型爆弾を1944年に開発した。 その渾名が「トールボーイ」で、外装が破壊されないままで硬い目標を貫徹するために、爆弾の外板は強靭な材質が要求された。

トールボーイの外装は高張力鋼で鋳造され、これにより目標に着弾し貫通した後で爆発することを可能にした。 高高度から投下することも相俟って落下速度は音速を超えているが、V2ロケットのように爆発音の後で落下音が聞こえたという。 また尾部に改修がなされフィンをひねった結果、爆弾が回りながら落ちることでジャイロスコープ効果が得られ、ピッチングとヨーイングが無くなり空力と命中精度が大きく改善された。 2万フィート(約6096m)上空から落下させた場合、深さ24m、直径30mのクレータができ、また約5mのコンクリートをも貫通した。

W・S・ローレンスは彼の著書「第5爆撃機集団」の中で、トールボーイについて次のように書いている。 「それは異常な兵器だった。 この爆弾はそれ一つで巨大かつ大容量の炸裂爆弾として高い爆破能力を持っており、かつ、徹甲爆弾としても高い貫通力を持っていた。 着弾した際、3万平方メートルもの面積を更地にし、クレーターを作るときに、おそらくは5000トン近い土を吹き飛ばした。 完璧な空力性能を有し、その結果きわめて高い終端速度は、単純に見積もって3600~3700フィート/毎秒(約1100~1130m/S)に達した。」

アドルフ・ヒトラーは1945年4月30日午後、ベルリンの総統官邸地下壕「ヒトラーブンカー」の自室で、長年の愛人エヴァ・ブラウンと自殺する。 ブンカーは連合軍によって繰り返し調査された後、当時の東ドイツ政府によって破壊、封鎖された。 連合国側はブンカーの存在と位置を正確に把握していたが、できれば生きたままで、最悪でも遺体を確認できる状態でヒトラーの身を確保したかったので、トールボーイを使用することはなかった。 しかし二人の遺体は自殺直後に非常階段から官邸の庭に運ばれ、遺言通り大量のガソリンをかけて焼却された。 その前々日に銃殺され、愛人クラレッタと共にミラノ市の広場に吊るされた盟友ムッソリーニの最後を、ヒットラーは恐れていたに違いない。 


世界最強の軍団 「アメリカ海兵隊」

2011年10月25日 | 戦争
ダークグリーンの機体に合衆国大統領の紋章をマーキングした大型ヘリコプターが、ホワイトハウスの庭先に着地すると前部のドアが外側に開いてタラップとなり、降り立ったオバマ大統領が待ち構えた報道陣に手を振りながら立ち去る。 テレビに映るお馴染みの光景だが、このとき「ブルードレス」と呼ばれる制服・制帽で起立し、真っ先に敬礼するのが「アメリカ海兵隊」の兵士。 大統領が乗った瞬間から「マリーンワン Marine One」のコールサインが使われる要人輸送ヘリの運行を担うのが、アメリカ海兵隊航空基地に所属する、「HMX-1]なるチーム。 大統領専用機は「シコルスキーVHー3Dシーキング」で衛星電話・ホワイトハウス直通電話などが装備され、武装兵士を乗せたもう1機が必ず護衛に当たる。

略称:USMC,通称:Marinesで呼ばれるアメリカ合衆国の海兵隊は、沿岸警備隊を含んだ「アメリカ軍」を構成する5軍の中で2番目に小さく、各軍のトップを「統合参謀本部」の構成員として送り込んでいる4軍の中で最も小さい組織。 2007年11月の時点で18万6300人の現役将兵と4万人の予備役を擁する。 海外での武力行使を前提とした緊急展開部隊として行動し、水陸両用作戦(上陸戦)などの軍事作戦遂行を目的とする。 本土防衛が任務に含まれない外国専門部隊であることから、「殴りこみ部隊」とも渾名(あだな)され、最も危険な任務に最も早く派遣されることで知られる。

サウスカロライナ州のパリス・アイランドに有る海兵隊訓練キャンプ。 ここで新兵を待ち受ける訓練は4軍の中で最も長期にわたり、その過酷な内容は1984年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の映画 「フルメタル・ジャケット」で詳しく描かれているが、個人を徹底的に否定し、組織の一員として命令に対する即座の服従を叩き込まれる。 ついて来れない者は容赦なく民間社会に投げ戻され、苛烈な訓練を乗り越えた者のみが「海兵」と名乗ることを許される。 海兵隊出身の有名人としては、ジョン・グレン(宇宙飛行士、上院議員)、ジョージ・シュワルツ(国務長官、財務長官)、スティーブ・マックイーン(俳優)、マイク・マンスフィールド(政治家、駐日大使)、ロバート・ミューラー三世(FBI長官)・・・・・など。 

第2次世界大戦で屈指の最激戦地の一つとして知られるのが「硫黄島の戦い」。 日本軍の守備兵2万933名のうち実に96%、2万129名が戦死または行方不明となった。 一方アメリカ軍の戦死6821名,戦傷2万1865名,計2万8686名の実数は、日本軍守備隊を上回る稀有な戦いで、ノルマンディー上陸作戦の戦死傷者数をも上回った。 ちなみにこの戦いの敵前強行上陸で戦死した海兵隊兵士501名は、1日の戦闘で生じた死亡者数として海兵隊創設以来最大で、後に1945年2月19日は、「アメリカ海兵隊記念日」に制定された。

2月23日10時15分、海兵隊第5海兵師団はついに硫黄島・擂鉢山山頂に到達し、星条旗を掲揚した。 この瞬間を捉えて3枚の写真を撮影したのがAP通信の写真家「ジョー・ローゼンタール」で、この写真(硫黄島の星条旗)は同年ピューリッツアー賞(写真部門)を受賞した。 アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたが、硫黄島での戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を、広く世界に向けて認めさせた。 フォレスタル米海軍長官は、海兵隊の兵士数人がが星条旗を立てる光景を海岸から目撃し、こう語った 「これで海兵隊も500年は安泰だな!」。


チンタオ(青島)攻略戦の思惑と、日本が残したもの。

2011年09月15日 | 戦争
日独青島戦争は「忘れられた戦争」と言われて久しいが、当時を辿ると日英両国の思惑が交差し、また日本の戦後処理が影を落とす。 日清戦争(1894~95年)後、三国干渉で中国に恩を売ったドイツは、山東省青島と膠州湾を99年間の祖借地とし、青島に膨大な資金を投入して大小2つの港湾整備を進め、1909年には中国第二(第一は天津)の国際港まで拡大、ドイツ東洋艦隊の根拠地とする。 「サラエボ事件」をきっかけに始まった第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年)の勃発は、青島のドイツを一掃し日本が取って代わる千載一遇のチャンスだった。

イギリスが青島戦争参戦するのは8月4日、これに先立つ8月1日加藤外相は井上駐英大使に、今後の対応について英国との協議を指示する。 さらに加藤はグリーン駐日大使を呼んで、極東のイギリス軍に対して日本は全面的な軍事援助を惜しまない旨を 表明する。 つまり日本はイギリスに対し先手を打って、日本参戦の強い意思を伝えている。 イギリスは困惑するが日本を敵に回すわけにもいかず、苦渋の選択として戦闘を海上に限定することによって日本の野望を押さえ込もうとする。 イギリスにとって青島は、イギリス・フランスが引き継ぐ思惑があったからだ。

8月9日、日本はイギリスに対して覚書を提示する。 ①いったん宣戦布告すれば戦闘範囲の制限は出来ない、②宣戦布告はあくまで日英同盟のためであり、極東におけるドイツ軍排除以上の行動は取らない。 日本はもはや後ろに引けないことを通告し、但し最終的に 「日本は膠州湾・青島の利権を中国に返還する意思がある」ことを伝え、グレイ外相の警戒感を和らげようとする。 グレイは事態を甘く見ていた、「戦争は早期に終結し、日本の野望が実現するには至らないだろう」。 こうして宣戦布告のレールは敷かれ、日本はがむしゃらに青島戦争へ突き進んでいく。

青島攻略に動員された兵士は日英連合軍が5万2000人、一方ドイツ守備軍の兵員数はほぼ5000人。 武器弾薬の量もドイツ軍を圧倒しており、初めから勝敗の決まったような戦争だった。 むしろ日本軍は「新兵器の実験場」と位置ずけ、飛行機をはじめ試作段階の野砲や迫撃砲を投入、後の第二次大戦で活躍する「三八式歩兵銃」なども、この戦闘で初めて実戦に使われた。 海軍は世界初の水上機母艦「若宮」を派遣し、複葉水上機4機を投入した。 この戦争で2時間に及ぶ初の空中戦も行われたが、当時の写真を見ると、パイプに布張りの超軽量飛行機(ウルトラライト)を連想させるお粗末なもの。

戦闘は8日間続き、11月7日青島要塞は陥落し日英連合軍が勝利する。 日英の戦死者430人、ドイツ183人、捕虜4715人、多くのドイツ軍捕虜は日本に送られ、1919年ヴェルサイユ条約締結まで収容された。 青島で勝利した日本は1915年1月18日中国に対し21か条の要求を突きつける。 主なものは、*ドイツが山東省に持っていた権益の継承、*関東州の租借期間の延長、*沿岸部を外国に割譲しない等々、中国国内で反対運動が起こる。 しかし中国政府はやむなく要求を受け入れるが、これにより中国人の反日感情が高まり、蒋介石による「山東出兵」のきっかけとなる。 さらに日本が自ら負うことになる国際的信用の失墜も、後々尾を引くことになる。  


ヴィシー傀儡政権と、「フィリップ・ペタン」

2011年08月30日 | 戦争
B級映画の傑作と比喩されながらもアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞を受賞し、さらに文化的、歴史的、芸術的に重要な映画フィルムを保存するために始まった「アメリカ国立フィルム登録簿」に、最初にセレクトされたのが1942年公開のアメリカ映画 「カサブランカ」。 巻頭でレジスタンスのフランス人が警官に撃たれるシーンのバックに、親独ヴィシー政権の首班である「フィリップ・ペタン元帥」の肖像があったし、エンディングではフランス警察のルノー署長が「ヴィシー水」のボトルを屑籠に落とし蹴飛ばすiシーンがあった。 これまで製作側はこの作品がプロパガンダ映画であることを一言も表明してないが、この映画には前述の2つを含め5つの反抗シーンがあり、見事な反ナチプロパガンダ映画であることは間違いない。

「ヴィシー」はパリから南に300km、フランス中央高地に位置する温泉保養地で、第2次世界大戦期のナチス占領下で、政権が置かれた場所として知られる。 ヴィシー水はここで産出される天然微炭酸のミネラルウオーターで、世界的に愛飲されフランスでは多くのレストランやホテルに置かれている。 アメリカの第2次世界大戦参戦で、親独のヴィシー政権が「敵国」となりヴィシー水の輸入も禁止されたため、映画で使われたボトルは、ロスアンゼルス近辺のホテルに残っていた空き瓶をやっと見つけ出して撮影に供された。 

1940年5月ドイツ軍は、フランスとの国境沿いにベルギーまで続く、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞「マジノ線」(小説・『西部戦線異常なし』に克明に描かれている)を迂回し、アルデンヌ地方の深い森を機動化部隊で突破し、フランス東部に侵入する。 敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、フランス軍を敗北させたドイツ軍は6月14日パリに無血入城しエトワーール凱旋門で凱旋式を挙行。 これはフランス人にとって屈辱であると同時に、フランス降伏を予期させた。 そしてポール・レノー首相ら抗戦派に代わって、和平派が政権を握り6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となると、ペタン政府はドイツとイタリアに休戦を申し入れ、6月22日独仏休戦協定が締結される。

レノーやアルベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためカサブランカに逃亡を計るが身柄を拘束される。 一方レノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ドゴール准将は、ロンドンに亡命し「自由フランス」を結成する。 フランス政府は7月1日臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市ヴィシーに移転した。 英国は降伏したフランス人に同情したものの、ドイツに協力的な親ドイツ派ヴィシー政権は徹底して嫌われた。 「降伏は奴隷、飢餓、そして死を意味する・・・占領したフランス人を強制労働に従事させるドイツ・・・・」 これがこれが英国、米国が抱いた敗戦国フランスのイメージだった。  しかし多くのフランス人はヴィシー政府の統治を受け入れ、一部の人々はドイツに対して協力の姿勢をとり、それ以外はヴィシー政府下の平穏を受け入れ、沈黙を守った。

戦後ペタンはドイツからスイスを経由してフランスに戻り逮捕され、裁判で死刑を宣告される。 しかしドゴールよって高齢を理由に無期禁固刑に減刑され、1951年流刑先であるブルターニュ地方のユー島で95歳の生涯を閉じた。 フランスにおける彼への評価は、一般にナチス・ドイツへの協力者として批判があるものの、「ペタンの降伏がフランス全土を廃墟となる事態から救った」という評価も、いまなお根強く存在する。 しかしフランスの歴史家ジャン・マルク・ヴァローは、ペタンを「人命と物財を守った代わりに国家の名誉を失った」と述べ、アメリカの歴史家バート・バクストンは、「ヴィシーを理解することは、ますます魅力的なそして未完の事業」と言い、将来の議論に期待感を示す。  


「航空母艦」の進化と、「原子力・空母」(2)

2011年08月25日 | 戦争
空母艦載機にとって離艦以上に難しいのが着艦で、「制御された墜落」と呼ばれる由縁。 パイロットは操縦桿を2週間握らなかった場合空母への着艦資格を失い、再び地上訓練から始めて、日本なら硫黄島か厚木の基地でランディング・ポイントへ正確に降りられる訓練を重ねる。 やっとOKが出ると空母への着艦が許されるが、さらに最終資格審査の難関を経てやっと着艦資格を得ることができる。 夜間訓練では真っ暗闇の中に光る小さな点と飛行甲板の左にあるライトだけを頼りに自機の高度と左右のズレを調整しながら滑走路センターラインに並ぶ27個のランディングライトを目標に目視で着艦する。 飛行甲板には4本のアレスティングワイヤーが張られ、それをフックで引っ掛け時速200km以上で着艦する艦載機を、数秒で停止させる。  

第2次世界大戦まで「空母機動部隊」は存在しなかった。 実戦活動で史上初めて登場したのが1941年の「真珠湾攻撃」で、これをきっかけとしてアメリカは空母を中心とする機動部隊の威力を再認識するとともに、日本海軍のシステムを進化させ、さらに東西冷戦の中で巨大な戦略システムとして発展させる。 またベトナム戦争の経験から用兵思想を変化させ、長距離核ミサイルにより一挙に決着を計るそれまでの考え方から、通常兵力を海兵隊と一緒にどうやって迅速に上陸展開させるかに移っていき、空母機動部隊の重要性が高まる。 そして世界初の原子力空母「エンタープライズ」の出現は、航空母艦の航続距離と巡航速度を飛躍的に向上させるとともに、最長3ヶ月に及ぶ戦闘作戦を可能にした。

いま世界で保有する原子力空母は12隻、1隻はフランスの「シャルル・ド・ゴール」(40・600t、最大速度27ノット以上、搭載機40機、乗員2000名、原子炉2基)、11隻はすべてアメリカが所有しエンタープライズ級が1隻、ミニッツ級が10隻。 それぞれの艦は概ね排水量10万トン、速力30ノット以上、搭載機90機、乗員6000名、搭載原子炉は最初に建造されたエンタープライズの8基を除いて全て2基。 「空母打撃群」(CSG)の艦隊は空母を中心にして潜水艦1隻、補給艦1隻、イージス巡洋艦・イージス駆逐艦各1隻、駆逐艦1隻の6隻から構成される。 これは基本構成で、緊迫する局面では原潜が増えたりイージス艦が増えたりする。

アメリカ海軍は大西洋、太平洋、中東地域、3つの重要地域に海軍部隊を常時展開できる戦力を維持している。 しかし普通型空母にまったく興味が無い、最大の理由は燃料の問題で一緒に行動できないから。 横須賀をベースとして活躍し、2008年原子力空母ジョージワシントンと交代した空母「キティーホーク」の場合、重油で運行するため日本からペルシャ湾に向けて航行中、4日ごとの燃料補給が必要。  しかしジョージワシントンは燃料分78000トンにかわり1・5倍の艦載機燃料と1・8倍のミサイル爆弾を搭載できる。 また普通型では1日1人あたり2リッターに制限されてた水の使用量も、豊富な電力で大量に生産されるため無制限。

ジョージワシントンでは乗員の3分の2が後方支援要員、空母の攻撃能力の中核である戦闘機パイロットは僅か5%以下で、300名に満たない。 また全体の約30パーセントが女性、男女間のトラブルやセクハラなどの問題を防ぐためにも、このぐらいの比率がベストらしい。 乗員6000名分の給食は3食プラス夜食で一日およそ1万8000食以上、ファミレス程度のメニューは揃っている。 数ある食堂で最も重視されるのは階級別に幾つかある「ロードルーム」(士官室を兼ねる)。 艦内の仕官社交場でもあるので全員が正装つまり制服着用で、テーブルごとに給仕が付く。  まさにアメリカの国力を象徴するような原子力空母機動部隊だが、同盟国日本としては紛争抑止力として期待するとともに、「トモダチ作戦」で見せてくれたような災害救助や人道支援でも活躍し、世界平和にも貢献してくれるようことを願ってやまない。