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春が来た

唯一ユダヤ難民を受け入れた「上海」と、杉原千畝

2014年03月16日 | 戦争
2月22日に報道された「アンネの日記損壊事件」の犯人が、3月10日には早くも特定され、とくに背後関係もなく早期に解決をみることができた。 事件後イスラエル大使館からアンネ関連の書籍が届いたりして、杉原千畝領事の築いた日本との絆があらためて確認された感じ。 ところで「セントルイス号の悲劇」をご存知だろうか。 1938年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合すると、大量虐殺から逃れようとする12万人の在独ユダヤ人が、ビザを求めて各国の大使館や領事館の外に並んだ。 

しかしアメリカ・メキシコ・カナダ・中南米諸国・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・ヨーロッパ諸国とその植民地のすべてが、避難民を拒んだ。 そんな中、キューバ政府が難民を受け入れると表明し、937人のユダヤ系難民が最後の望みをかけ、1939年5月13日、ハンブルク港から遠洋汽船セントルイス号に乗船しハバナへ向かった。 5月27日ハバナに到着したがなかなか下船できない、当時のキューバ大統領の心変わりで、条件を満たした31人を除く全ての入国を拒否したからだ。 

やむなく最終目的地としてビザに記載した米国が入国を許可してくれることに望みを託しながら、6月2日船はフロリダに向かって出港する。 しかし埠頭に入ることさえ拒絶されたセントルイス号は、ヨーロッパに引き返すことを余儀なくされる。 最終的にヨーロッパの国々が受け入れに同意、ベルギーのアントワープに入港すると、乗客はベルギーに214人・オランダに181人・フランスに224人・英国に287人が、それぞれの国に散っていった。 しかしその後ナチスがイギリスを除く国々に侵攻すると、乗客は強制収容所送りとなり、無残な死を迎える。

「上海共同租界」は1842年の南京条約によって設置された。 1937年の第二次上海事変で租界は大日本帝国に占領されたが、日本軍と南京国民政府はパスポートに関する社会体制を整えなかった。 このためナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ系難民にとって上海は、世界で唯一ビザなしで逃げ込める「天国」となり、およそ2万人が終戦以降まで暮らすことができたことは、ほとんど知られていない。 そしてロシア系ユダヤ人の多くは、リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝に救われた人たち。

「世界の脇の下、東洋のスラムで肥溜め、中国の皮の上の膿んだできもの、そう称された都市の強烈な匂い・・・しかし上海は決定的におかしくなってしまった故郷から逃げてきた私たちに、避難場所を提供してくれました・・・戦争は終わり、私たちは600万人ものユダヤ人のたどった悲惨な運命について知りました・・・ヒトラーの死の収容所の恐怖の前には、地域に閉じ込められた暮らしの厳しさなど比較にならないと悟りました・・・上海よ、ありがとう、ありがとう!」。 1939年~1947年まで上海で暮らした 「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」の著者、ウルスラ・ベーコンの言葉。
  

  





  


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