カキぴー

春が来た

避難先は日本最西端、国境の島「与那国」

2011年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
僕の住む郡山市は、いま世界の注目を集める東電福島第一原発から直線で55キロの位置にあり、30キロ危険区域を除くと、福島市と並んで県内では最も放射線量の多い街として有名。 既に学校の校庭や公園の土壌汚染は規制値を超えて利用制限されており、汚染度の高い小学校では60名が転校した。 また先日も友人が自宅の庭の放射線量を測ったところ3・5マイクロシーベルト、屋内で1・2マイクロシーベルトあり、孫を庭に出さないようにしている。 市内に在る食品関係の工場などは、風評被害を考慮して県外への移転を準備していると聞く。 しかし僕の栽培している野菜についは、年齢を考えると今さら心配するに及ばぬと判断し、椎茸や冬を越した根ミツ葉、葉もの野菜、などすべてを食したが、東京の息子宅に送ることはない。  

そんな中で我が家でも避難先は何処がいいか?話題に上ることが多くなってきた。 女房は身内が居て比較的近い距離にある仙台市を希望しているが、原発から90キロは近すぎるし、年をとってからは暖かくてのんびりした、沖縄の離れ島などで暮らしたいと僕は思っている。 具体的には八重山諸島の西端、台湾の北東に位置する「与那国島」を第一候補に考えているが、この島の面積は28・9k㎡。 人口1745人、年平均気温23・6℃、石垣島から124km、台湾まで僅か111kmしかなく、まさに国境の島。 晴れて澄んだ日には水平線上に台湾の山々を望むことができ、自転車でも3~4時間あれば島を1周できる。

僕が小型機で初めてこの島を訪れたのは十数年前。 石垣島方向から飛来して着陸する場合、島の北側を通過して一度西側に出てUターンしファイナルに入るのだが、既にこの時点で台湾の「航空識別圏」に進入しているため、事前に台湾空軍にフライトプランを提出し、管制とコンタクトしてから当時1500mの滑走路にランディングしたのを思い出す。 「日本最西端の地」と書かれた碑の立つ岬から、台湾の島影を探したが、残念ながら霞がかかって見えなかった。 しかし接する島の人たちはフレンドリーで、泡盛の一種でアルコール60度の蒸留酒 「花酒」(はなさき)を、オンザロックで飲みながら食べる島の肴は、どれも新鮮で美味しかった。

僕にとって与那国のもう一つの魅力は、近くて遠い島 台湾に近いこと。 4月から10月までの毎週金曜日、目と鼻の先、台湾北部の港町「基隆市」(キールンし )へ2泊3日のクルーズ船が就航しており、基隆から台湾の首都「台北」までは電車で30分。 避難中にはせいぜい大好きな中国料理を食べに行ったり、日台の歴史や文化に触れてみたいと思っている。 そうした渡航者が多いせいか、小さなこの島に「出入国管理事務所」が存在してるのも有難い。

もちろん良いことばかりではない、8月~10月は多くの台風に見舞われるし、国境の島であるため「台湾有事」や「尖閣諸島問題」などに巻き込まれるリスクは否定できない。 しかし昨年12月の閣議決定された中期防衛力整備計画(2011)では、200人規模の沿岸監視隊が常駐して島の警備に当たることになったし、本土では経験できない猛烈な台風を題材に、小説の一つも書いてみたいとも思っている。 とは言え避難せずに済むことに越したことはないが、僕らの年になったら物事すべて悲観的に考えず、こうした予期せぬ災難さえ逆手にとって、残り人生の過ごし方を楽しく思い描いてみるのも悪くない。 などと開き直っているこの頃である。 
 


世界一孤立した有人島 「トリスタン・ダ・クーニャ」(2)

2011年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
この島の自冶権は英本国から大幅に認められており、島民の生活は基本的に自給自足で漁業や農業を営む。 しかし平地は北西岸にある僅か5k㎡の土地のみで、すべて公有(コミュニティーの所有)、ここに島で唯一の集落・畑・牧草地がある。 そして永年守られてきた約束事は「平等」。 主食のジャガイモを栽培する畑には風除けの石が積まれ、1区画が1人分で家族の人数によって区画数が割り当てられる。 また放牧地での家畜の数は630頭、「牧草管理」のため厳しく管理され、牛・羊は家族1人当たり2頭の割り当てになるよう飼育が制限される。

また島で1軒のスーパーマーケットには保存食や日用品がケープタウンから送られてくる。 倉庫には船が来ない時に備え必需品がストックされているが、これらも平等に分けられる。 朝6時には、鐘代わりに吊るされた赤い酸素ボンベがハンマーで叩かれ、病人を除く全員での島を支える大事な仕事が始まる。 主な産業は水産加工品(ロブスター)の輸出で、特産の「トリスタン・ロック・ロブスター」は漁獲制限量180トンの内、140トンが日本やアメリカ合衆国に輸出され、税収の60%を支える。 なお工場は島最大の建造物で、島全体への電力供給も担っている。

島には病院が一つ在り、医師一人と看護婦5人ケープタウンから派遣され診療は無料だが、手術や出産が行われることは限られる。 重篤な症状の場合には近くを通過する漁船を無線で呼び寄せ、ケープタウンまで送っていたが、2007年には本国政府や大学病院、関連企業などが協力して 「遠隔地医療通信プロジェクト」を立ち上げ、島の医師が医療的助言を受けながらの治療が可能となった。 しかし人口が少ないため、どうしても「近親婚」による健康・遺伝の問題が深刻で、難しい課題を抱えている。

テレビ放送は2001年まで受信できなかったが、現在は衛星放送によってイギリス軍の放送サービスを受けられるようになった。 電話は各家庭に普及しており、インターネットサーヴィスも利用できる。 教育は初等・中等教育に限られ、島に1つある学校には3歳から15歳までの児童生徒が学ぶ。 また高等教育を希望する生徒には、イギリス本土での教育を受け続けることができる。

50年前の1961年、村落の付近で火山活動が活発化し、10月10日に大規模な噴火が起こった。 当時居住していた住民全員(島民264名と一時滞在者25名)が小船でケープタウンに逃れた後、イギリス本土に避難した。 翌年、王立協会が島の調査を行い被害は少ないとの報告を受け、政府は島民を対象に帰還するかどうかの投票を行ったところ、島民の90%が帰島を希望した。 人口150人、標高5000mの厳しいチベットの高地で、羊を放牧ながら生きる男の言葉を思い出す。 「私たちは豊かでは在りません。 でも貧しくもありません。 今の生活が一番幸せなのです」


世界一孤立した有人島 「トリスタン・ダ・クーニャ」(1)

2011年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
火山の隆起で誕生したその島は、地球儀で見ると大西洋を南極の方に下がってアメリカ大陸とアフリカ大陸の南端に挟まれたほぼ中間点に位置する。 正確にはアフリカ・ケープタウンから2805km、南米リオデジャネイロから3353km離れた距離にあり、もちろん飛行場などは無くアクセスは海路に限られ、まさに絶海の孤島でイギリス領に属する。 ここに僅か267人の定住民が生活してることから、ギネスブックには「世界一孤立した有人島」として掲載されている。 島の中央には2062mの楯状火山が聳え、冬季には降雪が見られる。 

周囲は高さ600mを超える険しい断崖絶壁に囲まれ浜は無く、船からの乗り降りはクレーンを使用して行い、日本の南大東島をr連想させる。 ここは1506年ポルトガルの探検家「トリスタン・ダ・クーニャ」によって発見された。 ただし海が荒れていたため彼は島に上陸してないが、島の名称は彼にちなんだもの。 外部から隔絶されたこの島に興味を持つ人は多く、島をを題材にした小説や劇作品が幾つか各国の作家達によって書かれている。 そんな中の一つで2000年に発表されたイギリスの劇作家ジニー・ハリスの作品 「最果ての地よりさらに遠く」は、2005年日本の文学座によって上演された。 

この劇に出演したのが俳優「粟野史浩」で先日NHKテレビ「世界一周紀行」では、島に関わりを持つ旅人として現地をリポートしていた。 彼はケープ・タウンから貨客船で島を往復しているが、片道8日間を要した。 1816年イギリスはこの島を正式に併合し、ケープ植民地(ケープタウンを中心とする植民地)の管理下に置く。 これは前年ここから北へ2430km離れた「セントヘレナ島」に流刑された「ナポレオン」を、フランスがこの島を利用して奪回するのを防ぐためで、イギリス陸軍の部隊が進駐した。 
この部隊は間もなく撤退したが、伍長の「ウイリアム・グラス」(1787年~1853年)が軍を除隊し、家族を呼び寄せて此処に残り、島の長となる。 ちなみに現在の長(島民総代)は彼から7世代を経て6代目のコンラッド・グラス。 その後島は航行する船の補給基地や捕鯨船の拠点として利用され、寄港・漂着した船員の中には残留する物もいて人口も次第に増えていく。 しかし捕鯨業の衰退、スエズ運河の開通(1869年)、帆船から蒸気船への転換などで島は孤立を深める。 

島が最も孤立したのは第一次世界大戦前後で、海軍が年に1度行っていた物資も途絶え 1919年英軽巡洋艦ヤーマスが大戦終結のニュースをもたらすまでの10年間、島には1通の手紙も届かなかったという。 第二次世界大戦中はイギリス海軍の秘密基地として無線・気象観測店が建設され、南大西洋を航行するUボートなどドイツ艦船の監視が行われた。 施設の建設には島民が従事したが、当時通貨が無かったため労賃は現物(木材、ペンキ、茶)などで支払われたという。 



 


映画「黄昏」と、長き確執の終わり

2011年05月15日 | 映画
「映画や小説の醍醐味はリピートの中にある」、そう感じさせる作品が幾つかある。 その理由は明快で、人生では年輪を重ねて初めて解かること、感動することが少なくないからだ。 そんな映画の一つで、1981年公開のアメリカ映画「黄昏」を29年ぶりに観た。 アメリカ東部ニューイングランドの森に囲まれた美しい湖畔の別荘を訪れた老境の夫婦の、「ひと夏の物語」。 この映画製作には隠れた経緯があり、これを知ってからの再度の観賞は、映画の主人公と彼の実生活とがオーバーラップして引き込まれた。

妻の「エセル」にとって、心臓の持病を抱える夫「ノーマン」はいちばん大事な人、また頑固でますます気難しくなっている彼の最も良き理解者でもある。 ノーマンの80歳の誕生日に、長年会うことのなかった娘の「チェルシー」が、婚約者とその連れ子「ビリー」を伴って別荘を訪ねてくる。 しかしノーマンは彼らに冷たい態度をとってしまい、チェルシーは苛立ちを隠せないままビリーを両親に預け、ヨーロッパ旅行に旅立つ。 最初は別荘の生活になじめなかったビリーだが、ノーマンに鱒釣りの楽しみやモーターボートの操縦を教えてもらいながら、次第に打ち解けていく。 

旅行から戻ったチェルシーは、ノーマンとビリーが実の親子のように仲良くしてるのに驚き、さらにエセルに諭され、これまでのわだかまりを清算しようとす決断する。 そんな彼女を見てノーマンもまた頑なな心を開く。 別荘を立ち去る日、ノーマンはビリーとチェルシーに、彼の愛用の釣竿と大学時代に獲得した水泳の銀メダルを進呈する(チェルシーは水泳が得意)。 長い確執を乗り越えた父と娘は、別れ際に親密な抱擁を交わすのだが、老いの厳しさ、寂しさ、伴侶の絆、親子の絆、などが痛いほど伝わってきて、身につまされる。 ノーマンの役を演じるのは、ハリウッドのかっての名優 故「ヘンリー・フォンダ」、そしてチェルシー役が彼の長女で女優の「ジェーン・フォンダ」、ちなみに俳優の「ピーター・フォンダ」は彼女の弟。

ヘンリー・フォンダは生涯で5度結婚している。 2度目の妻との間に生まれたのがジェーンとピーターで、母親は1950年精神病を患って自殺。 フォンダは子供たちを動揺させないため心臓病で死んだと説明するが、やがて死の真相を知った2人と父親の関係は次第に冷却し断絶状態が続く。 しかし晩年ジェーンは、心臓病が悪化し死期の近い父親のため、戯曲「黄昏」の映画化権を取得し、自らプロジュースしながら父との共演を果たす。 そして父親の相手役に大女優の「キャサリン・へブバーン」を推薦した。

公開後、作品は批評家達から絶賛され,興行的にも予想外の大成功を収める。 1981年度の第54回アカデミー賞では主演男優賞、主演女優賞、脚色賞の3部門を受賞した。 しかしこの頃ヘンリーの病状はかなり悪化しており、授賞式にはジェーンが代理で出席する。 結局この「黄昏」がヘンリーの遺作となり、彼は授賞式の5ヵ月後に77歳で死去。  余談だが映画の中で彼がいつも着用してたフィッシング・キャップは、キャサリン・へブバーンの愛人で、彼女が最期を看取った俳優「スペンサー・トレイシー」の遺品。 



  


懐かしの「南回り欧州線」と、「ナイル」の旅(3)

2011年05月10日 | 旅行記
アガサ・クリスティーが長期滞在し小説の構想を練ったのが、ナイル川沿いの岬の上に建つコロニアル様式の「アスワン・オールド・カタラクトホテル」。 僕らもここを指定して宿泊したが、彼女の滞在した部屋は「アガサ・スイート」として保存されていた。 建物は1899年(明治32年)に建てられ、ホテルに改装されてからは王族、貴族をはじめミッテラン、チャーチル、ダイアナ妃なども宿泊しており、さながら良き時代の「香港リバルスベイ・ホテル」を彷彿とさせる。

しかし実際の撮影には1901年に「王の離宮」を改装したルクソールの「オールド・ウインター・パレス・ホテル」が使われている。 格式のあるホテルとはいえ設備の老朽化はいかんともし難かったが、2011年の11月には大規模なリニューアル工事が完了すると聞く。 それにしてもデッキサイドのテーブルで涼風に吹かれながら、バカルディー・トニックを片手に眺めたナイルの落日は素晴らしかった。 川を遡るファルーカ(帆船)の白いセールが夕日を浴びて映える風景は、まさに一服の絵画。

「ルクソールは」アスワンとカイロの中間に位置し、古代エジプトの都「テーベ」(古代ギリシャの都市国家)のあった場所、街はナイル川によって分断されている。 日が昇る方角の東岸には「カルナック宮殿」や「ルクソール神殿」など生を象徴する建物が、日が沈む方向の西岸には死を象徴する「王家の谷」や「王妃の谷」がある。 盗掘を免れた「ツタンカーメン王の墓」はやはり特別な存在と感じた。 ところで幸運にもルクソールの空港で、機首を12・5度下方に折り曲げ3000mの滑走路を一杯に使って着陸する 超音速旅客機「コンコルド」を見ることができた。 チャーター便として飛来したもので、高度5万5000フィート~6万フィート(約2万m)をマッハ2・0(2160km/h)で飛んできた、今は亡き「怪鳥」の姿を目の前にしてすっかり感激。

気温45度での史跡巡りで飲んだミネラルウオーターは当時1リッター130円、ガソリンがリッター25円だったから価格差5倍強。 これほど貴重な水を下の街から運んでくる従順なロバだが、一生に1度、手がつけられないほど暴れることがあるらしい。 このときばかりは仕方なく殺すしかないと言う話を聞いた。 もう一つ現地で聞いた話で記憶にあるのは、隣国リビア・カダフィ大佐の評判がすこぶる悪かったこと。 近隣の国から金に任せて残忍な兵士を多く集めていることも耳にした。

エジプトの旅も最終行程で、ルクソールからカイロまで豪華寝台列車?と銘打った「ナイル・エクスプレス」を利用した。 ドイツ製の専用客車をディーゼル機関車が引っ張る。 これを運営する「ワゴン・リ社」は、かって「オリエント急行」を走らせてた会社。 運賃は2人用のコンパートメントを1人で利用すると飛行機代より高くつくが、一応機内食並み?の食事が2回付く。 困ったのは冷房の調節ができないこと、しかしこれはすぐに解決方法を思いつく、実は暖房を使って調節するのだ。 所要時間は10時間。 最後に特筆すべきは、カイロからパリまで飛んだエアフランス・Aー300・エコノミークラスの機内食。 前菜はサーモンと海老のテリーヌ、メインは肉の煮込み料理、クレソンとエンダィヴのサラダも付き、デザートはカシスのソルべ。 料理もパンも美味しかったし、ワイン、ヴァンムースもお替わり自由。 まさにフランスのエスプリを堪能した素晴らしい4時間のフライトだった。


懐かしの「南回り欧州線」と、「ナイル」の旅(2)

2011年05月05日 | 旅行記
カイロに到着してすぐに、3大ピラミッドとスフィンクスの在る町「ギーザ」のホテルにチェックインし、シャワーを浴びてからよく冷えたベルギーのプレミアル・ラガービール「ステラ」を飲んだ後、帰り便を変更するため急ぎヒルトンホテルにあるJALの支店に出向いた。 交渉の結果、パリ発成田行きの便を予約することができたが、カイロからパリまでの「エアフランス」はエコノミークラスで、これは各自負担となる。

さて僕たちの旅のルートは、カイロ周辺の遺跡を見た後、エジプト航空のB-373でナイル川を900kmほど遡ってエジプト南部の都市「アスワン」まで飛び、アブシンベル宮殿への往復とも飛行機を利用し、そこから空路ルクソールに下り、ここからは列車でカイロに戻った。 ナイルのイメージをつかむには上空から眺めるのがいい、果てしなく続くサハラ砂漠の中を1本の帯がどこまでも伸び、その両岸にのみへばりつくように緑が続く。 まさにナイルがこの流域の生命線であることを実感する。 アマゾン川を押さえて世界一を誇るこの大河は、実に10ヶ国を経て最後にエジプト文明を育んだデルタ地帯を潤した後、地中海に注いで6650kmの長旅を終える。

ナイルに魅せられるのは、長い乾燥地帯を流下しながらも、途切れることのない膨大な水量を生み出す水源が、いったい何処に存在するのか?という疑問だ。 源流がケニヤ、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大の「ヴィクトリア湖」であることが、2人のイギリス人探検家によってほぼ確定されたのは1858年で、僅か1世紀半前のことだ。 ところがヴィクトリア湖に流れ込む川が存在することがその後の探検で解明し、現時点ではブルンジ共和国に源を発する「ルビロンザ川」、「カゲラ川」が源流となっている。 しかし21世紀に入ってからもブラジルとニュージーランドの探検家が新しい源流を発見しており、この先も当分のあいだ神秘的なロマンが楽しめそう。

この川に興味を抱いたもう一つのきっかけは、1978年のアメリカ映画 「ナイル殺人事件」。 多くの現地ロケによる映像は、ナイル観光の魅力と見所と余すとこなく見せてくれた。 原作はイギリスの女流作家「アガサ・クリスティー」が1937年に発表した推理小説「ナイルに死す」。 お馴染みの名探偵「エルキュール・ポワロ」が、ナイル川を遡る豪華クルーズ船での怪事件に挑む。 カルナック号として撮影に使われた外輪船だが、実際には1885年建造のスーダン号という船で、現在もナイル川クルーズに使われているらしい。 映画撮影のため200万ドルをかけて改造が施された。

時間に制限があるとは言え、この旅行で悔やまれるのはクルーズ船を上手に活用しなかったこと。 ドイツやフランスからの観光客は40度を越すような昼間は船の中で過ごし、日が沈み涼しくなる頃からお洒落をして遺跡回りなどに繰り出す。 だから観光施設にはどこも夜間照明tと音響設備が完備されており、見事なライトアップと音の演出で幻想的な雰囲気を醸し出す。 再び船に戻るとデッキからの夜景を楽しみながら、ゆっくりと遅い夕食をとるのがヨーロッパ流のパターン。