お正月や夏祭りなどで、広告や看板が多い神社を見ると、
それぐらい地域の人や企業に厚く支えられているんだろうなぁと
感心します。
ただ、生田神社の数連なる看板群を見たときは、
あまりの看板の大きさに「え・えーっ」と驚きました。
そりゃもう、鳥居を乗っ取るほどのド迫力でしたから。
でもすぐにユーモラスな感じがしてきて。
こういうの、キライじゃないなと、思った自分を笑えました。
暮らしそのものがスピリチュアルなんだということを
常々訴えている (か?) わたしとしては、
この光景を見て、暮らしとスピリチュアルが
手を取り合ったような嬉しさを覚えました。
がその反面、
暮らしの中の、特に経済面とスピリチュアルが手を組むには、
まだまだ人の意識がついてこないのでは? という
懸念も湧きました。
「こんなところにまで金儲け主義が入り込んで」
「世の中なんだかんだ言ったって、結局金次第ってことか」
などと解釈されかねないからです。
所狭しとぶらさがる商業看板群をくぐりながら
「神社ってそういうとこなん?」 と疑問を持つ人は
まだまだ多いのではないでしょうか。
「この人が、私には必要だ」
「これがあるおかげで、この町は活気がある」
純粋に、心から純粋に、誰かや何かの存在をありがたいと感じた時
人は、その誰かなり何かなりをサポートしたい、支持したいと思い、
実際にそうします。
それは人間として当然の衝動でしょう。
愛や感謝の気持ちが、形となって顕れた行為といえるでしょう。
それと同じように、生田神社や大丸さん他広告主さんの結びつきも、
人と人との純粋な行為と見なして考えてみると、
ある程度納得がいくのではないでしょうか。
神社と商業という、暮らしにおけるポジションこそ違えど、
各々が各々の特性でもって、人々の暮らしに貢献しています。
神社と広告主さんは、互いの存在価値を認め合い、
お互いにエンパワーメントしあえる良き間柄といえるでしょう。
企業=儲け主義、神社=世俗とは無縁のところ。
わたし達は、そのような偏見をそろそろ
しぼませていい頃だと思います。
世俗 (暮らし) のなかにこそ、スピリチュアルな意識は必要ですし
儲けることの先には、儲けたお金でもっと社会貢献したいという
愛が潜んでいます。
金がものを言う時代、ではもうありません。
お互いの存在価値を認め合い、偏見や垣根を取り払って
手を繋いでいくのが今の世の中です。
そう宣言するのはまだ早いかもしれませんが、
確かに今の時代、その方向に確実に、進んでいます。
ところで、
『世俗とは無縁のところ』 とは、一体どういうところでしょう?
そこは、死ぬところでもなければ、生きていく場所でもありません。
死んでもいないし生きてもいないところ。
死でも生でもないところ。
『世俗と無縁のところ』 とはつまり、
生死に関わらず、ずっと続いていくもののことを指すのでしょう。
ならばそれは、自分のなかにしか存在し得ません。
神社仏閣あるいはパワースポットなどは、
自分の内に向かうためのスイッチ的役割は担えるかもしれませんが、
神社仏閣そのものが、世俗とは無縁のところには成り得ないのです。
積極的に人々の暮らしと関わり合いながら、
『人の内にある、世俗と無縁のところ』 を揺さぶる、
そんな神社が増えていってほしいと、わたしは思います。
今ここに、有り余るほどの澄んだ水があるとして。
その澄んだ水を、澄みきった川に足したとしても
何ら変化はありません。
澄んだ水は、濁った川に足してこそ、その役割が担えます。
( が、注ぎ方次第では、濁った川底をさらに刺激して
ますます濁らせてしまうこともあるので、注意が必要です)
澄んだ水は、あなたの内にある 『世俗とは無縁のところ』 より
絶えることなく湧き出ています。
その澄んだ水を、あなたの日々の暮らしのなかに注いでいきましょう。
暮らしそのものが、スピリチュアルです。