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Unspeak(その2)

2006年12月20日 | 政治学
進学を決めた頃は「国際関係学」を専攻に考えていたので、編入前に専攻準備単位として「Intro International Relations」をコミカレで履修し、このクラスで基本的な国際関係学用語をかなり学びました。これら専門用語は実は日常でも耳にしたり目にしたりする単語たちではあるのですが、なんせそれ以前は政治に無関心だったうえ、外国語の英語でとなると、たとえその単語たちに触れることがあっても全く意識が止まらず、長年そのまま通り過ぎていた状態だったと思います。(つまり現在でも大学で学ばなかった分野の情報や英単語たちは素通り状態なはず)

専攻から学んだ英単語たちは日常会話で活用できるものは少なく、実際「自分の言葉」として会話に利用することはほとんどないと思います。国際政治がらみの仕事に就けば、そりゃ~、頻繁に使うものでしょうが、自分は国際政治に無関係な世界で生きていることもあって、それらはほんとうに使い道がないんですわ。トホホ・・・ 

でーもー、「情報を得る」という点では、学校で学んだ政治用語知識はかなり役立ってます。たとえば先日記事にした本:Unspeakは国際政治に関するトピックが多かったのですが、読んでいると履修したクラスたちが蘇り、それら情報について多少なりとも基礎知識があったことで、著者の言いたいことがわかりやすく感じたんです。だからこそ私はこの本を心底楽しんで読めたんだと思うんですよね。だってちんぷんかんぷんな本を読んでもなかなか先に進まないし、文字を追うだけの作業になりかねないし、たとえ読み上げても消化率が低いはずで、満足度も限られるでしょうから・・・。やっぱ基礎知識があるってお得なこと。知識の引き出し空っぽ状態で長年生きてきたからこそ感じるこの違い!せっかく学ぶ機会が与えられたみなさんは、その機会を無駄にせず、教養をガシガシ引き出しに入れ込みましょう。たとえ一見無駄に感じることでも、それらはきっとどこかで役立つはずですから。ついでに・・・識字率、情報数、教育年数が世界的に高い日本では、文字が読め、情報が好きなだけ得られる環境、教育が受けられる状況を特にありがたく感じる人はあまりいないでしょうが、読める、情報が得られる、学べるって本当にすばらしいことなのですよ~。死ぬ前にこういうことに気付けた私は幸せ者だ・・・。

さてここまでは長文前置きでありまして(長すぎ)、本日はUnspeakで興味深く読んだ部分の一つを話題にします。

軍事用語の中で「Operation(作戦:研究社辞書より)」というのが英語であるのですが、国際政治を学んでいるとき何度も何度も見たり聞いたりしたもので、そしてこの単語は皆様ご存知、医療用語の一つでもあります。でもなぜに医療用語が軍事用語として使われるか?それは軍事的アクションを正当化するためらしいのです。ジャーン 

詳しく言うと、「Operation」は「医療手術」の意味があるわけですが、これが「軍事作戦」として使われるのは、敵は「人間」ではなく「悪玉」で、「軍事攻撃」を「悪玉を取り除くための手術」とし、悪玉が身体中(つまり世界中)に広がる前に行う対処として、その軍事行動を正当化しているのだそうです。たとえば外科手術には多少のリスクはつき物で、たとえリスクを負ってでも「手術」が生き延びるための「手段」であれば(たいていは)望まれることであり、それが非難されることはまずないですよね。同様に、多少の犠牲を出すことになっても、軍事行動が世界を救うための「手段」として見なされれば、行動を起こす側としては都合がよい。さらには、現代医療では麻酔を使って手術を行うので、患者は痛みなどを一切感じずに手術を受けることができますが、軍事攻撃も同じく、誰にも痛みを与えずに「悪玉」を取り除く作業を行い、多少の出血(犠牲)などはやむ得ないことと思わせているんだとか。これが著者の言う、表向き発せられない軍事用語:Operationの“Unspeak”であります。

ポリティカル・スピーチの中では敵を「病原菌」として表現し、その病の素を絶滅しようという発言もよく耳にします。発言する側としては敵を生身の人間扱いしないほうが、聞き手を納得させるには好都合なんですよね。(このポリティカル・スピーチ手法はナチスのGenocideホロコーストでもあった)このように、知らず知らずのうちに攻撃側の正当性を受け入れている私たち。Unspeakの力は絶大なのです。

というのが、本の中身のほんの一部。著者の言っていたことを私なりに訳しただけですが、か~なり興味深いでしょ?政治学と言語学が合わさったようなこの本は本当に面白かったです。(雑学的でもある)果たして日本語でも同じようなこと(Unspeak)があるのかしら?日本語で国際政治を学んでいないせいか、その辺はまったくわからん。(汗)



Freedom of Speech and Press

2006年12月18日 | 政治学
アメリカの「Freedom of Speech and Press」は皆様ご存知、アメリカ人が誇りにしている「自由」の一つで、学校のアメリカ政府やアメリカ史の授業では特に重点が置かれていると思います。「アメリカ政府」は自分の専攻必須科目で進学後早速履修したんですが、そのクラスではFreedom of Speech and Pressがペーパートピックのリストに上げられました。確か私はそのトピックを選ばなかったと思うんですが・・・(もう忘れたのか?!)、このFreedom of Speech and Pressはアメリカに限らず、「政治学」を学ぶうえで欠かせないトピックの一つだなーという印象もあります。

さて、「Freedom of Speech and Press」は授業の中だけでなく、普段の生活で実際見ることがよくあります。そこに気付くのは多分日本よりも「自由」を感じるからで、たとえばTVで見るコマーシャルは、同業他社の製品やサービスを名指しで比較して自社製品を宣伝するものが多々あり、それらを初めて見たときにはかなり驚いたものです。日本ではそういった宣伝方法は法律違反か何かだと思いますが、アメリカでは全然問題なしみたいです。個人的には、違反かどうかの前に、そういう風に自分の会社名を使われたら気分悪いよなぁ~。てな感じなんですけど、アメリカでは日常茶飯事なので、やったほうもやられたほうも気にすることはなさそうです。この辺に気が止まったのは、実は以前自分が広告関連の仕事をしていたからかもしれませんが、アメリカの広告規制は日本よりゆるい気がします。(聞いたところによると、アメリカでも昔は他社名を出しての比較宣伝広告は違反だったらしい)

名指しで比較宣伝と言えば、選挙キャンペーン活動でもたっぷり見ます。11月に行われた議員選挙向けキャンペーンでは、驚くほどの攻撃的広告が頻繁にTVで流れていました。自分は投票できる立場ではないので、アメリカ国民よりもかなり客観的にそれらを見ていたはずですが、候補者の汚点は意外と興味深いなぁ・・・と。(←モラル無し?)へぇ~、この人ってこんな人だったのねぇ、私には関係ないけど。なんて思いながら見ていたんですけども、投票する立場でない私ですら、その汚点内容や表現方法によって、自分の候補者の好き嫌いに影響が出ました。

様々な視点から候補者を判断するという点、表向きの顔やポジティブな部分だけでなく、ネガティブな部分をも知る事は大事なはずなので、こういった「ドロドロキャンペーン」もありかな?と私は思うんですが、中にはそれらが真実ではないものもあるそうで、某新聞のOpinionに書かれてあった記事に、とある州の某候補者が一度だけ性的商売先に誤ってダイヤルしてしまった記録が、その商売の常用者として攻撃的キャンペーンに利用されたと書かれてありました。この事実が捻じ曲げられたということが、選挙前までに投票者たちに伝わったかどうかはわかりませんが、多少なりとも投票数に影響が出たんじゃないかなと思います。性的サービスを頻繁に利用する議員・知事なんて理想的じゃないですしね。でもそういったことが真実ならともかく、↑の例のようにたった1度誤ってダイヤルしたことが常用者として触れ回ったら、本人にとってはたまったもんじゃーありません。

私が現在住んでいる衆議院候補選挙でもウソらしき報道がありました。以前候補者である夫から家庭内暴力を受けた妻が警察に通報したことが、他の候補者の攻撃的キャンペーンに使われ、それについて、「そんなことはなかった。ウソを振りまく●●は最低。」と言う、その妻の半泣き顔で夫をかばう反論キャンペーン宣伝(何)があったんです。でも実際には、当時妻から警察に通報があり、そして警察がその家に訪れたことがローカルニュースにもなったほど、現実にあったことだとか。通報した張本人の妻が夫の選挙のために、「それはでっちあげだ、●●はうそつきだ」とほざくなんてあまりにもアホらしすぎません?同居人は「この宣伝は無意味でカスだ」と呆れてましたが、反論としてそんなことを堂々報道するその人たちの気がしれない・・・。(ちなみにこの候補者は負けました)選挙に勝つためにはなんでもありなんでしょうかねぇ?突っ込みだすと、「アメリカのFreedom of Speech and Pressはなんかおかしい」と感じるところがたくさんありそうだ・・・。




Unspeak(その一)

2006年12月14日 | 政治学
Unspeak: How Words Become Weapons, How Weapons Become a Message, and How That Massage Becomes Reality
↑これは最近読んだとても興味深い本です。

http://www.amazon.com/Unspeak-Weapons-Message-Becomes-Reality/dp/0802118259/sr=8-1/qid=1165977072/ref=pd_bbs_sr_1/102-8775841-7263366?ie=UTF8&s=books

内容はサブタイトルからなんとなく察していただけるかと思いますが・・・わたくし的には政治学と言語学をあわせたような感じ!まさしく自分が大学で勉強してきたこと!キャー!!!!(何)実際この本を読んでほんとに大学時代が蘇りました。あぁ、ウットリ。(何)どのチャプターも懐かしの政治学がらみでとても読みがいがあったのですが、今回は「Tragedy」の章の中にあった「Ethnic cleansing」について書かせていただきます。

私がEthnic Cleansingという英単語を初めて覚えたのは(確実に)留学してからで、コミカレでIntro International Relationsという、政治学のクラスを取ったときだと思います。それ以降、大学を卒業するまで毎学期「国際政治」のクラスを履修していたこともあり(自分の専攻だし)、このEthnic Cleansingはテキストで常に目にした言葉でありまして、さらには二学期続けてEthnic Cleansingに関るペーパーを書いたことで、(心地よい意味でないにしろ)個人的に思い入れの深い言葉となりました。

ペーパートピックのひとつは「国内紛争からの建て直し」についてで、リストで上げられた紛争たちの中から私はKosovo紛争を選んだのですが、KosovoとくればGenocideやEthnic Cleansing・・・・ですよね。そして次学期に履修した「国際機関」のクラスででは、Human Rightsをトピックに選び取り組んでいたところ、気がついたら再びKosovoについて書くことになってしまい・・・ココではKosovoだけでなくRwandaも絡んできましたが、2個目のペーパーは何気にKosovo紛争の復習にもなりました。そんなこんなで、大学で学んだことを通し、Ethnic Cleansingは民族同士の争いから起きる大量殺人に関る言葉で、知らない世界では人間同士の恐ろしい争いが起こっていたことなどをしっかり知らされましたが、実は自分はGenocideやEthnic Cleansingという単語たちをしっかり考えて使っていなかったかもしれない・・・と、この本:Unspeakを読み少しばかりうなってしまった私であります。


「Ethnic Cleansing」という単語を生まれて初めて見たとき、エスニック・クリ~・・・・ンジング?!なぬ?化粧品にある「クレンジング」みたいなものなのか?普通に「クリンジング」と読むのか?一体どう読むんだ?と、なんだかとてもすっきりしない気分になったもので、その気分はそのときだけでなくこれまで長い間ずっと続いておりました。おまけに、Ethnic Cleansingが特定の民族やグループを排除殺害するこというのはわかっていても、「きれいにする」と言う意味としてわかりやすい「Cleaning」ではなく、なぜに「Cleansing」なんだろう?だいたいパッと見読みにくくないかい?この単語・・・。なんて、英語が外国語の私は常々思っていたのですが、実はこの「Ethnic Cleansing」は元から英語としてあったわけではなく、クロアチアの言語で使われていた「etnicko ciscenje:cleaning」が1991年に「Ethnic Cleansing」と英訳されたことが始まりなんだそうです。

しかし、これは決して誤訳でもなんでもなく、CleaningではなくCleansingを使うことには理由があるとかで、Cleansingには物質的にキレイにする、清潔にする、という意味だけでなく、Spiritual(精神)的清浄の意味も含まれるそうで、つまりEthnic Cleansingは、特定の民族やグループを不潔な害生物として扱い、神の前にも置けないほど醜いものとして完全にこの世から除去するべきだ、という目的をも指すわけなのです。

ちなみにさらに著者によりますと、1548年のPrayer-Book(聖書みたいなもん?)に「Cleanse the thoughts of our hearts」と神に祈る言葉が書かれてあるそうで、こういった「Cleansing」は現代のコスメ業界広告でも精神清浄の意味で使われているのだと。(クレンジングの広告として→ Washing one’s face is next to the godliness)宗教心のない人たちだけでなく宗教にどっぷり嵌った人たちでも、たとえば海外ブランドのクレンジングを使いながら、「これで神に近づける」とかは考えてないですよねぇ、ま・さ・か・・・。

↑なんとなく話逸れました?!

ということで、Ethnic CleansingはGenocideと比べるとはるかに新しい言葉で、先に書いたとおり1991年に英訳されてから英語として使われるようになったわけですが、ユーゴスラビア民族紛争の頃のUNでは、So called ‘Ethnic Cleansing’というように、当時はまだ正式な言葉として使われていなかったようです。(確かにこれは新しい政治用語だと習った気がする。So called・・・私もペーパーにそう書いた気がする。So called・・・・確かに資料にもそうあったぞ。)←しつこい

次回に続く。




アメ人英語講師

2006年10月30日 | 政治学
本日は、この半年ほどの間に、英語講師として海外に渡った(または渡る)アメリカ人たちのお話。

まず一人目は、以前ブログ記事に書いた、ポリサイ・クラスメイトの男の子で、この夏に卒業した彼は、8月ごろ英語講師として日本に渡りました。(本当に行ったかどうかはわかりませんが)この子の場合、アメリカで就職できないからこの講師の道を選んだわけではなく(おいおい)、在学中から海外で働くことを考えていたようで、それに経済に興味があり、学生時代から既にビジネスも始めていて、とりあえず経済大国2位に位置する日本で経験を積みたいということから、たとえ畑違いな分野でもその経験がプラスになると信じ(おいおい)、英語講師として日本に渡ることにしたようです。以前もブログに書いたとおり、日本で講師を経験して、日本に実際住んでみて、期待はずれな結果にならなきゃいいんですが・・。日本でも行き先によって環境は全く違いますからねぇ・・・。(本人の話の感じから、ものすごい期待感が伝わってきたのでちょい気になった)

次に、今勤めている会社にいた男の子。この彼はワシントンD.C.の大学を卒業し、数年高校の教師として働いていたそうなのですが、幾つかの理由によりLow wage jobに転職、そして今回、中欧チェコに英語講師として渡りました。この彼が退職する前にたまたま話をすることができたんですが、聞いた話によると、チェコの場合ワークビザが届く前でもすんなり入国でき、すぐに合法に働くことができるらしいです。というか、そういう法律なんてないのか?うーん、なんてお手軽なんだ!ちなみに彼の専攻はLatin American Studyですが、ポリサイのクラスもたくさん履修したらしく、卒業後大学で学んだ「社会主義国キューバ」を生で見てきたこともあるとか。あと、「アメリカの高校生は教育のありがたみをちっともわかってないんだよ。だから高校教師はいやになった。」と言っていました。もしかしたら環境の悪い高校に勤めていたのかも?(D.C.なだけにありえる)この子の場合、つまらないLow wage jobをやりながらも、いつもニコニコ(ほんとに)楽しそうに仕事をしていたし、Low wage jobに対する愚痴など一度も耳にしたことがなかったので、どの国へ行こうが、前向きにバリバリ生きていくだろうなーという気がします。

最後の一人は同居人の弟。この子は私と同じポリサイで大学を卒業しましたが(←学校はもっといいとこ)、卒業後それなりの仕事が見つからず、今回なんと某アジア国に英語講師として渡ることになりました。その国は日本じゃないんですけどね、私としてはどうせなら日本にしたら?なんて思います。待遇についてはよくわかりませんけど、お国的に他の国よりもアメリカ人はWelcomeでしょうし、末っ子の甘ちゃんでも比較的ラクに生きていけるんじゃいかと思うんです。特にこの子の場合、アジアに興味があってその方面の勉強をしてきたわけでもなし、その国の言語だって全く知らない状態ですし、ほんまに大丈夫なんけ?と、他人ごとながら少し心配・・・。それに今時の若者らしく、親と同居しながら、収入がないのにクレジットカードローンを使ってビールを買う始末ですから、経済観念もかなり怪しいです。なのでここだけの話(?)、契約が切れる1年後、何も学ばず借金かかえてアメリカに戻ってくるだけだろう、と兄である同居人は言ってます。お勉強はよく出来る子らしいんですけども、それだけじゃ異国でしっかり生活できませんからねぇ。ま、実際無駄に1年過ごしてしまうかどうかはまだわかりませんから!しっかり成長して帰ってくることを願います。

最後に、この3人の共通点はポリサイ専攻ということ。(一人は正確にはLatin American Studyですが)アメリカのポリサイ卒業生は、海外の英語講師になるしかないのか、はたまたポリサイ専攻だからこそ異国で働くことに興味を持つのか?


ヴォーグで歴史

2006年08月29日 | 政治学

パブリック・ライブラリーから借りてきた雑誌の一つ、ヴォーグ9月号はびっくりするほどの分厚さで、通常号の2,3倍あります。がしかし中身は広告ばっか!この9月号は754ページあるのですが、ページをめくってもめくっても高級ブランドなどの広告が延々と続くのですよ。ヴォーグはこれら広告料でかなり儲けたことだろう・・・(←やらしい)

9月号掲載記事の一つ、ソフィア・コッポラ新作映画の特集に、映画の内容らしきマリー・アントワネットの生涯が書かれてありまして、それを読み、大学で履修した政治学のクラスが頭をよぎりました。政治学でマリー・アントワネット?と不思議に思われるかもしれませんが、そのクラスは「Building Democracy」という国際政治のクラスで、フランス革命についてもちらっと触れられたのです。(あぁ、懐かしい~☆)

▼関連過去記事
フランス革命→
http://blog.goo.ne.jp/tomtom30_2004/e/7bcab5a32fb937fbcc72b532761c7eb6
Building Democracy→
http://blog.goo.ne.jp/tomtom30_2004/e/080401c358dcc4a6bce2c8935a1a09bc


このソフィア・コッポラの映画では、彼女の視点から作り上げられたマリー・アントワネットの姿が見られるそうです。前作品:Lost in Translationは、自分が何者なのか探求する女の子のお話で(私にはこの作品はイマイチでした)、結局それは見つけられずに映画は終わりましたが(確かに曖昧なエンディング)、今回の作品ではその先に進むのだとか。つまりマリー・アントワネットは自己発見を達成するのか?!

クラスで見たPBSフィルムのマリー・アントワネットの印象は、贅沢に身を滅ぼした世間知らずのお嬢さんでしたけれども、ヴォーグの記事によると、マリー・アントワネットは実は政治に興味があったとか。でも政治への参加は夫:ルイ16世が許さなかったらしいのですが、そのマリー・アントワネットの政治への興味という部分は事実なのか、それともソフィア・コッポラが作り上げたものなのか、そこんとこはよくわかりません。(解読力弱)

が、自分の興味を国王に拒否されたせいでファッションにのめり込むしかなかったのだとしたら、マリー・アントワネットはかなりお気の毒です。国王のお妃ともなれば国務以外の仕事なんてないでしょうし、唯一の仕事を拒否されたらそりゃ暇にもなるわ。ボソ 昔なら尚更、夫に反発もできなかっただろうし。なのでやけくそばかりに贅沢に走るのもちょっと納得です。お金はあっても仕事選びの自由はなしか。あぁ、お気の毒。私はお金はないけれど、仕事は自由に選べるもんね。(←努力は必要)


▼PBSフィルムでも見たビックリ帽。船が頭に乗っかっている・・・。



ちなみに、主演のキルスティン・ダンストは見た目この役にはまってそうに思います。私はこの人あんま好みじゃないんですけどね。なんちゅーか、キレイなようで、おブスなようで、ようわからんルックスだなと。でももし彼女がクラスの隣の席に座っていたりしたら、結構ウットリ見てしまうお顔のような気も・・。彼女は日本人には受けないタイプの美少女って感じでありますが、アメリカ人の目にはどう映っているのでしょうかねー。

▼Marie Antoinette Official Site
http://www.sonypictures.com/movies/marieantoinette/