魅惑の人類学

2006年12月28日 | 人類学(言語学)
↑あまり意味ないタイトルです。念の為

私が生まれて初めて「人類学」を知ったのは、いつものごとく、アメリカ留学がきっかけでした。まずコミカレでその分野の存在を最初に知ったときは、人類学自体に特に興味も湧かなかったし、一体なんの勉強なの?しょーもな。なんて、今思えばかなり失礼でアホな見方をしておりましたが、コミカレ留学のみの予定を急遽大学進学に変更したとき、それまでは不要であった数々の「一般教養」を一気に履修しなければならなくなり、その一般教養課程選択肢の一つでもあり、スケジュールに組み込むことが可能であった、「形質人類学」を思いがけず履修することになりました。

人類学には大雑把に4つほどのサブ分野がありまして、そのうちの一つが「形質人類学」なんですが、これは生物学的に人類を分析・理解する分野であります。形質人類学を履修した学期の前、サマーコースで生物学を履修し、これまた生まれて初めて生物学の興味深さを知り、それまで自分に欠けていた一般教養を養う必要性を心底感じ、実は進学するきっかけの一つでもあったクラスなのですが、その生物学のクラス同様、形質人類学も学びの感動を与えてくれたクラスでありました。(無知な人間はちょっとしたことにも感動しやすいのかも・・・)

そしてその次学期には、一般教養課程として、そして進学先での専攻予定だった国際関係学の必須科目であった、「文化人類学」を履修したんですけども、このクラスはまぁ、こんなもんかな?程度のクラスでありました。(簡単すぎてたいくつだった)

さてそのコミカレ時代、バイトを通じて仲良くなったSちゃんと、顔を合わせれば話をする程度の知り合い数名は、偶然にも皆人類学専攻だったんです。これは本当に単なる偶然かもしれませんが、人類学に興味を持つ人は、わけのわからん日本人留学生に多少なりとも興味を持ち、この私と仲良くしてくれたのかな?なんて今となっては思います。(留学生が数名しかいないコミカレだったので留学生としての珍しさが高かったせいかも)

進学してからも友だちのSちゃんは人類学の中の考古学を専攻していて、現在は大学院で引き続きその分野を学んでます。形質人類学のクラスでよく話をした男の子(当時27歳)は、コミカレを卒業後テキサス州の大学に進学し考古学をやっているはずで、その後どういった道に進んだのかはわかりませんが、人類学で食べていくと張り切っていました。あともうひとり、ENGのクラスで知り合った男の子も当時26歳くらいの出戻り学生だったんですが、私と同じようにコミカレで初めて真面目に勉強し、人生を考え直し、これから新たに頑張ってみよう!といった気持ちが湧き出ている子でありました。この彼は長年バンドをやっていたようなんですが、その才能を使って人類学のクラスで自作の歌を披露したらしく、その歌詞の内容は、将来は人類学者になりたい。というものだったそう。

この3人を見てきて思ったのが、「人生そういう選択肢もあるんだな。」ということなんですけども、もちろん彼らはまだその道の仕事を確立させていないだろうし、実際その道で食べて行けるのかどうかもわかりませんが、留学前の私は学問としての人類学の存在はもちろん、仕事として何やらあるんだということも、まーったく知らなかったんですよ。でも、大学教育の中でこういったことの存在を生まれて初めて知り、その道に進もうとしている人たちを目にし、30過ぎの私はとても切ない気持ちになりました。(何)

というのも、自分がもし彼らほど若く、きっかけやタイミング一つの違いで、私も人類学を人生の選択肢の一つとして考えたかも?!と思ったから・・・。現在の自分は人類学で生きたいと思うほど人類学に希望や夢を馳せてはおりませんが、人類学は確かに興味深い分野でありますし(文化人類学はあんま好きじゃないけど)、Sちゃんのやっている考古学はとても面白そうだし、細かい手作業がこれでも好きな私には、意外と向いてるかも~?なんて思うんですよね。たまたま考古学は履修することがなかったので、果たしてどこまで夢中になれるか全く想像外でありますけども、歴史が大好きな私なだけに、昔のことを探り当てる作業はやはり興味深い!そして世の中にはその道に進むための教育があり、仕事だって存在する。(←どんなだかわからんが)ほんとこの世には自分が気が付かない様々な物事があるんですよね。そして自分がそれらの存在を知らないだけで、自分にとってどれほどすばらしいものになるかもわからないわけで、だからこそ若いうちから視野や知識と経験を広げ、その中から満足の行く道に進みたいもの。じゃなきゃ人生もったいない!(この記事は実は昨日の記事の続きみたいなもの)

そういう点、無知で視野が狭かった自分の若い頃は、少しばかり時間を無駄にしてきた気がするんですが、とりあえずこの歳になってからでも、これこそ私の進むべき道と思える(大雑把な)世界が見つかったわけで、現在の虚しい仕事にもめげず、今後なんとか頑張りたいと思います。自分が健康体であることと、好きなように生きられる自由な身であることを利用して、こりゃ~やるだけやらなきゃね。(と、自分を慰める)




キッズへのプレゼントと・・・

2006年12月26日 | 教育関連話


同居人の甥と姪にクリスマスプレゼントを買いました。他人の子供のものを買うのはこれが結構難しいですが、子供服を見てるだけでワクワクするのはなぜでしょう?!自分が親になったら楽しいんだろうなぁ~、なんてふと思ってしまうほど今回洋服選びを満喫しました。(何)




でね、この子達を見ていていつも思うのが、彼らは親から人生ナビゲートをしっかり受け、将来はいわゆるエリートコースを辿るんだろうなぁ~ということ。この子たちの父親はMBAを持つバリバリの会計士で、母親はMaster’s DegreeとPh.D保持者で大学の教授をやっていて、クラスで言えば確実にハイレベル家庭。今の子供たちが大きくなった頃の平均学歴は今よりも上がっているでしょうが、何か特別に道をはずれるような大事件でも起きない限り、彼らは確実に高い教育を受け育つはず!両親が高学歴で、そのおかげで裕福な生活を送っているとしたら、その子供たちも最低でも親と同じレベルの学歴を得るもんですよね。(ちなみにこの母親は幼稚園から学費のかかるプライベート・スクールに行かせようとしているらしい。早速気合入ってます。こういうのは日本と同じだね・・・)逆に学歴が低いことで苦労をした人たちというのは、子供にはそういった苦労や不自由をさせたくないと、維持でも進学校などに進ませることもありますが。

ちなみに私の両親は高学歴ではないんですが、それで苦労というほどの苦労をしていたわけではないせいか、私に対して教育熱心なタイプではありませんでした。なので大学に進学するしないということで特に何か言われたわけでもなし、高校に進むときですら、私の両親はあまり関心がなかったような・・・。(高校に行くのは普通のことだとは思っていただろうが)ま、当時の自分にとってそれはラクでよかったわけですし、高校選びも大学に進学しなかったことも、全て自分で決め自分で選んだ道ということで、金銭的な面を除いて、自分の責任下で行っただけのことではありますが、当時の自分の選択は決して賢かったとは思えないので、もうちょっとよい方向にナビゲートしてもらえたらよかったのにな~と思うところもあります。特に30代で初めて大学教育を受けて、いかに教育が人生に影響を与えるかを実感しただけに(今のところ表向き変化はありませんが)、もし自分に子供ができたら自分の経験を元にできるだけ学びの楽しさと重要さを(上手に)教えナビゲートしたいなと思います。だって教養を得るというすばらしいことを子供たちに逃して欲しくありませんもの~。



Unspeak(その2)

2006年12月20日 | 政治学
進学を決めた頃は「国際関係学」を専攻に考えていたので、編入前に専攻準備単位として「Intro International Relations」をコミカレで履修し、このクラスで基本的な国際関係学用語をかなり学びました。これら専門用語は実は日常でも耳にしたり目にしたりする単語たちではあるのですが、なんせそれ以前は政治に無関心だったうえ、外国語の英語でとなると、たとえその単語たちに触れることがあっても全く意識が止まらず、長年そのまま通り過ぎていた状態だったと思います。(つまり現在でも大学で学ばなかった分野の情報や英単語たちは素通り状態なはず)

専攻から学んだ英単語たちは日常会話で活用できるものは少なく、実際「自分の言葉」として会話に利用することはほとんどないと思います。国際政治がらみの仕事に就けば、そりゃ~、頻繁に使うものでしょうが、自分は国際政治に無関係な世界で生きていることもあって、それらはほんとうに使い道がないんですわ。トホホ・・・ 

でーもー、「情報を得る」という点では、学校で学んだ政治用語知識はかなり役立ってます。たとえば先日記事にした本:Unspeakは国際政治に関するトピックが多かったのですが、読んでいると履修したクラスたちが蘇り、それら情報について多少なりとも基礎知識があったことで、著者の言いたいことがわかりやすく感じたんです。だからこそ私はこの本を心底楽しんで読めたんだと思うんですよね。だってちんぷんかんぷんな本を読んでもなかなか先に進まないし、文字を追うだけの作業になりかねないし、たとえ読み上げても消化率が低いはずで、満足度も限られるでしょうから・・・。やっぱ基礎知識があるってお得なこと。知識の引き出し空っぽ状態で長年生きてきたからこそ感じるこの違い!せっかく学ぶ機会が与えられたみなさんは、その機会を無駄にせず、教養をガシガシ引き出しに入れ込みましょう。たとえ一見無駄に感じることでも、それらはきっとどこかで役立つはずですから。ついでに・・・識字率、情報数、教育年数が世界的に高い日本では、文字が読め、情報が好きなだけ得られる環境、教育が受けられる状況を特にありがたく感じる人はあまりいないでしょうが、読める、情報が得られる、学べるって本当にすばらしいことなのですよ~。死ぬ前にこういうことに気付けた私は幸せ者だ・・・。

さてここまでは長文前置きでありまして(長すぎ)、本日はUnspeakで興味深く読んだ部分の一つを話題にします。

軍事用語の中で「Operation(作戦:研究社辞書より)」というのが英語であるのですが、国際政治を学んでいるとき何度も何度も見たり聞いたりしたもので、そしてこの単語は皆様ご存知、医療用語の一つでもあります。でもなぜに医療用語が軍事用語として使われるか?それは軍事的アクションを正当化するためらしいのです。ジャーン 

詳しく言うと、「Operation」は「医療手術」の意味があるわけですが、これが「軍事作戦」として使われるのは、敵は「人間」ではなく「悪玉」で、「軍事攻撃」を「悪玉を取り除くための手術」とし、悪玉が身体中(つまり世界中)に広がる前に行う対処として、その軍事行動を正当化しているのだそうです。たとえば外科手術には多少のリスクはつき物で、たとえリスクを負ってでも「手術」が生き延びるための「手段」であれば(たいていは)望まれることであり、それが非難されることはまずないですよね。同様に、多少の犠牲を出すことになっても、軍事行動が世界を救うための「手段」として見なされれば、行動を起こす側としては都合がよい。さらには、現代医療では麻酔を使って手術を行うので、患者は痛みなどを一切感じずに手術を受けることができますが、軍事攻撃も同じく、誰にも痛みを与えずに「悪玉」を取り除く作業を行い、多少の出血(犠牲)などはやむ得ないことと思わせているんだとか。これが著者の言う、表向き発せられない軍事用語:Operationの“Unspeak”であります。

ポリティカル・スピーチの中では敵を「病原菌」として表現し、その病の素を絶滅しようという発言もよく耳にします。発言する側としては敵を生身の人間扱いしないほうが、聞き手を納得させるには好都合なんですよね。(このポリティカル・スピーチ手法はナチスのGenocideホロコーストでもあった)このように、知らず知らずのうちに攻撃側の正当性を受け入れている私たち。Unspeakの力は絶大なのです。

というのが、本の中身のほんの一部。著者の言っていたことを私なりに訳しただけですが、か~なり興味深いでしょ?政治学と言語学が合わさったようなこの本は本当に面白かったです。(雑学的でもある)果たして日本語でも同じようなこと(Unspeak)があるのかしら?日本語で国際政治を学んでいないせいか、その辺はまったくわからん。(汗)



Freedom of Speech and Press

2006年12月18日 | 政治学
アメリカの「Freedom of Speech and Press」は皆様ご存知、アメリカ人が誇りにしている「自由」の一つで、学校のアメリカ政府やアメリカ史の授業では特に重点が置かれていると思います。「アメリカ政府」は自分の専攻必須科目で進学後早速履修したんですが、そのクラスではFreedom of Speech and Pressがペーパートピックのリストに上げられました。確か私はそのトピックを選ばなかったと思うんですが・・・(もう忘れたのか?!)、このFreedom of Speech and Pressはアメリカに限らず、「政治学」を学ぶうえで欠かせないトピックの一つだなーという印象もあります。

さて、「Freedom of Speech and Press」は授業の中だけでなく、普段の生活で実際見ることがよくあります。そこに気付くのは多分日本よりも「自由」を感じるからで、たとえばTVで見るコマーシャルは、同業他社の製品やサービスを名指しで比較して自社製品を宣伝するものが多々あり、それらを初めて見たときにはかなり驚いたものです。日本ではそういった宣伝方法は法律違反か何かだと思いますが、アメリカでは全然問題なしみたいです。個人的には、違反かどうかの前に、そういう風に自分の会社名を使われたら気分悪いよなぁ~。てな感じなんですけど、アメリカでは日常茶飯事なので、やったほうもやられたほうも気にすることはなさそうです。この辺に気が止まったのは、実は以前自分が広告関連の仕事をしていたからかもしれませんが、アメリカの広告規制は日本よりゆるい気がします。(聞いたところによると、アメリカでも昔は他社名を出しての比較宣伝広告は違反だったらしい)

名指しで比較宣伝と言えば、選挙キャンペーン活動でもたっぷり見ます。11月に行われた議員選挙向けキャンペーンでは、驚くほどの攻撃的広告が頻繁にTVで流れていました。自分は投票できる立場ではないので、アメリカ国民よりもかなり客観的にそれらを見ていたはずですが、候補者の汚点は意外と興味深いなぁ・・・と。(←モラル無し?)へぇ~、この人ってこんな人だったのねぇ、私には関係ないけど。なんて思いながら見ていたんですけども、投票する立場でない私ですら、その汚点内容や表現方法によって、自分の候補者の好き嫌いに影響が出ました。

様々な視点から候補者を判断するという点、表向きの顔やポジティブな部分だけでなく、ネガティブな部分をも知る事は大事なはずなので、こういった「ドロドロキャンペーン」もありかな?と私は思うんですが、中にはそれらが真実ではないものもあるそうで、某新聞のOpinionに書かれてあった記事に、とある州の某候補者が一度だけ性的商売先に誤ってダイヤルしてしまった記録が、その商売の常用者として攻撃的キャンペーンに利用されたと書かれてありました。この事実が捻じ曲げられたということが、選挙前までに投票者たちに伝わったかどうかはわかりませんが、多少なりとも投票数に影響が出たんじゃないかなと思います。性的サービスを頻繁に利用する議員・知事なんて理想的じゃないですしね。でもそういったことが真実ならともかく、↑の例のようにたった1度誤ってダイヤルしたことが常用者として触れ回ったら、本人にとってはたまったもんじゃーありません。

私が現在住んでいる衆議院候補選挙でもウソらしき報道がありました。以前候補者である夫から家庭内暴力を受けた妻が警察に通報したことが、他の候補者の攻撃的キャンペーンに使われ、それについて、「そんなことはなかった。ウソを振りまく●●は最低。」と言う、その妻の半泣き顔で夫をかばう反論キャンペーン宣伝(何)があったんです。でも実際には、当時妻から警察に通報があり、そして警察がその家に訪れたことがローカルニュースにもなったほど、現実にあったことだとか。通報した張本人の妻が夫の選挙のために、「それはでっちあげだ、●●はうそつきだ」とほざくなんてあまりにもアホらしすぎません?同居人は「この宣伝は無意味でカスだ」と呆れてましたが、反論としてそんなことを堂々報道するその人たちの気がしれない・・・。(ちなみにこの候補者は負けました)選挙に勝つためにはなんでもありなんでしょうかねぇ?突っ込みだすと、「アメリカのFreedom of Speech and Pressはなんかおかしい」と感じるところがたくさんありそうだ・・・。




Unspeak(その一)

2006年12月14日 | 政治学
Unspeak: How Words Become Weapons, How Weapons Become a Message, and How That Massage Becomes Reality
↑これは最近読んだとても興味深い本です。

http://www.amazon.com/Unspeak-Weapons-Message-Becomes-Reality/dp/0802118259/sr=8-1/qid=1165977072/ref=pd_bbs_sr_1/102-8775841-7263366?ie=UTF8&s=books

内容はサブタイトルからなんとなく察していただけるかと思いますが・・・わたくし的には政治学と言語学をあわせたような感じ!まさしく自分が大学で勉強してきたこと!キャー!!!!(何)実際この本を読んでほんとに大学時代が蘇りました。あぁ、ウットリ。(何)どのチャプターも懐かしの政治学がらみでとても読みがいがあったのですが、今回は「Tragedy」の章の中にあった「Ethnic cleansing」について書かせていただきます。

私がEthnic Cleansingという英単語を初めて覚えたのは(確実に)留学してからで、コミカレでIntro International Relationsという、政治学のクラスを取ったときだと思います。それ以降、大学を卒業するまで毎学期「国際政治」のクラスを履修していたこともあり(自分の専攻だし)、このEthnic Cleansingはテキストで常に目にした言葉でありまして、さらには二学期続けてEthnic Cleansingに関るペーパーを書いたことで、(心地よい意味でないにしろ)個人的に思い入れの深い言葉となりました。

ペーパートピックのひとつは「国内紛争からの建て直し」についてで、リストで上げられた紛争たちの中から私はKosovo紛争を選んだのですが、KosovoとくればGenocideやEthnic Cleansing・・・・ですよね。そして次学期に履修した「国際機関」のクラスででは、Human Rightsをトピックに選び取り組んでいたところ、気がついたら再びKosovoについて書くことになってしまい・・・ココではKosovoだけでなくRwandaも絡んできましたが、2個目のペーパーは何気にKosovo紛争の復習にもなりました。そんなこんなで、大学で学んだことを通し、Ethnic Cleansingは民族同士の争いから起きる大量殺人に関る言葉で、知らない世界では人間同士の恐ろしい争いが起こっていたことなどをしっかり知らされましたが、実は自分はGenocideやEthnic Cleansingという単語たちをしっかり考えて使っていなかったかもしれない・・・と、この本:Unspeakを読み少しばかりうなってしまった私であります。


「Ethnic Cleansing」という単語を生まれて初めて見たとき、エスニック・クリ~・・・・ンジング?!なぬ?化粧品にある「クレンジング」みたいなものなのか?普通に「クリンジング」と読むのか?一体どう読むんだ?と、なんだかとてもすっきりしない気分になったもので、その気分はそのときだけでなくこれまで長い間ずっと続いておりました。おまけに、Ethnic Cleansingが特定の民族やグループを排除殺害するこというのはわかっていても、「きれいにする」と言う意味としてわかりやすい「Cleaning」ではなく、なぜに「Cleansing」なんだろう?だいたいパッと見読みにくくないかい?この単語・・・。なんて、英語が外国語の私は常々思っていたのですが、実はこの「Ethnic Cleansing」は元から英語としてあったわけではなく、クロアチアの言語で使われていた「etnicko ciscenje:cleaning」が1991年に「Ethnic Cleansing」と英訳されたことが始まりなんだそうです。

しかし、これは決して誤訳でもなんでもなく、CleaningではなくCleansingを使うことには理由があるとかで、Cleansingには物質的にキレイにする、清潔にする、という意味だけでなく、Spiritual(精神)的清浄の意味も含まれるそうで、つまりEthnic Cleansingは、特定の民族やグループを不潔な害生物として扱い、神の前にも置けないほど醜いものとして完全にこの世から除去するべきだ、という目的をも指すわけなのです。

ちなみにさらに著者によりますと、1548年のPrayer-Book(聖書みたいなもん?)に「Cleanse the thoughts of our hearts」と神に祈る言葉が書かれてあるそうで、こういった「Cleansing」は現代のコスメ業界広告でも精神清浄の意味で使われているのだと。(クレンジングの広告として→ Washing one’s face is next to the godliness)宗教心のない人たちだけでなく宗教にどっぷり嵌った人たちでも、たとえば海外ブランドのクレンジングを使いながら、「これで神に近づける」とかは考えてないですよねぇ、ま・さ・か・・・。

↑なんとなく話逸れました?!

ということで、Ethnic CleansingはGenocideと比べるとはるかに新しい言葉で、先に書いたとおり1991年に英訳されてから英語として使われるようになったわけですが、ユーゴスラビア民族紛争の頃のUNでは、So called ‘Ethnic Cleansing’というように、当時はまだ正式な言葉として使われていなかったようです。(確かにこれは新しい政治用語だと習った気がする。So called・・・私もペーパーにそう書いた気がする。So called・・・・確かに資料にもそうあったぞ。)←しつこい

次回に続く。