広域的にマニアック

主に、独断と偏見でゲームと漫画とアニメの話が書かれているブログ。イメージ的に、本屋で見かける「○○の謎」「○○考察」的な

セレブを煙に巻く、シブい大人の切り返し

2013年12月03日 | その他
おとぼけ課長の話。7巻。「うちの庭には、ガーベラ、マーガレット、アマリリス、グラジオラスなどが、いっせいに咲いてね」と自慢されたから。「うちの庭は、プランティン、ウッドソレル、ホーグウィードなどが、いっせいに」と言い返した課長。「それって、何の花?」と相手に言わしめる。

解説すると、プランティンは、おおばこ。ウッドソレルは、かたばみ。ホーグウィードは、ぶたくさ。つまりは、「(どこにでもある珍しくもない)ぜんぶ、雑草さ」と、言う事だが。横文字で言われると、花だか雑草だか、わからない。その盲点を突いた、切り返し。こういうのは、見習うべき所がある。

例えるなら、案内人をガイドと言わず。コンシェルジュと言うような事。その一言で、「格式高そう。なんか、凄そう」と、聞いた相手に、かってに思わせる事が出来るという。

KYを恐れる故の逆KY反応

2013年12月02日 | あたしンちの話
あたしンちの話。映画館で泣いちゃうの回。友人らと映画を見に行く事になった、みかん(人名)。「何を見ようか」で、泣ける映画と決まった。

しみ(友人の名)は、映画は、前情報なしで見たい人。パンフレットも、内容が書いてあるから、見た後で買う人。対する「みかん」は、話しの内容を知っていて見たい人。本人談では、「心構えをしておきたい」からと。
その心構えは、時代劇を見る高齢者心理なら、理解できる。話の流れが毎回違っていても、主役は同じ。最後も「この紋どころが・・・」とか「この金さんの・・・」と、お約束からの勧善懲悪で、意味不明とか後味悪い終わり方をしない安心感・安定感がある。

でも、みかんの心構えは、KYへの懸念。先に友人に泣かれると、涙が引っ込んじゃう。隣りを見たら平然としているので「私だけ」と感じ、ここで泣くのは間違いでは?と思い、涙をこらえる。別のシーンでは、皆が泣きだしたので、「ここは私も」と同調を試みるが、先の「こらえすぎ」で、泣けず。泣こうと集中したら、映画の展開に関係なく、泣きすぎ。

つまりは、逆KY(空気よみすぎ)。先に内容を知っておきたいのは、「多数派にいれば安全」という事。おそらく、○○ランキングとか、そういうのが好きなタイプと思われる。

機能美重視の両親と、優美路線の娘

2013年12月01日 | あたしンちの話
あたしンちの話。コーヒ-ドリッパーの回。みかん(娘の名)としては「おいしいケーキには、おいしいコーヒーで、ゆっくり味わいたい」考え。で、コーヒーソーサーの上に、ケーキが乗っているのが気にいらない。母としては、家族4人分のコーヒーカップ、コーヒーソーサー、ケーキ皿を出すと、洗う量が増えて面倒と考える。

次の日、コーヒードリッパーが欠けたので、新しいのを買った。使ってみたら、注ぐお湯の分量が目視できず、こぼして吹く手間が増えた。以前のは、欠けた所から、「あとどの位のお湯が入るか?」が確認できて便利だったと、母が主張。そこで、父は「じゃあ、これも割るか」と、ハンマーで欠けを作った。今度は、欠けた所から、分量がわかる。
それを見ていた娘的には「もういいや。雰囲気ぶちこわし」との事だが。

両親の発想は、機能美。片付けの手間、こぼした時の処理、それを考えると、洗う量は少なく、こぼさない構造を望む。対して、娘は片付けをしない。趣、風情、優雅、雰囲気、優美。その瞬間、その行為を楽しみたい考えという事。そう考えると、どちらの主張も正論であり、どちらが良いとか悪いと、決められる事でもない気がする。