tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

富士山に「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」

2017-07-12 18:34:07 | 雑感
富士山について「一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」という言い回しがある。

「日本一の名峰」に人生で一度も登らずにいるのは勿体ないことであるが、
一度登ったにもかかわらず懲りずに繰り返し登るのもまたケッタイな物好きである…という意味か。

あるいは、「富士山は眺める山であって、登る山ではない」という言い回しもある。
遠くから眺める分には秀麗な山であっても、いざ登ってみるとアラが目につく…という意味か。

僕は富士山に「二度登った」馬鹿だが、三度目をまたいつか、という気分はない。
二度とも、学生時代のアルバイトのバスツアー添乗員として、つまり「業務」として登った。
ツアーの先頭を専門登山ガイドが導き、添乗員は最後尾について歩くのである。
本来なら「ひとりにつきひと夏に1回」しか富士登山ツアーのシフトは回ってこないはずだったが、
バイト仲間の女子が体力不安を理由に断って、僕に「二度目」が回ってきた。

山登りは大好きな僕だが、富士山に魅力を感じないのは、以下の点である。
※なお、僕が登った20年前の情報だから、今は事情が違うところもあるかも知れない。

・とにかく人が多すぎる。
登山シーズンが7、8月の2ヶ月に限られ、そこに「猫も杓子も」と人が集中する。
僕が行ったようなお手軽なバスツアーも各地から大挙して押し寄せる。
登山道は大混雑する。特に、「御来光(日の出)」を頂上で迎えようとする人で、
夜明け間近の頂上周辺では、「渋滞」で前に進めなくなる。

・荒涼とした自然
5合目より上は木々もほとんど生えていない。岩・礫・砂・灰の世界である。
視界に生命の潤いはなく、直射日光を遮るものもない。
(その分、行く手や下界の見晴らしがいいとも言えるが)
コンタクトレンズをしていた僕は、風で舞い上がる砂塵で目をやられた。
角膜が傷ついた?とでも言うのか、しばらく目から曇りが取れなくなったのである。
(下山翌日、眼科に行く羽目に。バイトだが労災が認められた)
靴の中にも憂鬱な灰が入り込む。
頂上に着けば、風が強いと特に、真夏でも東京の真冬より寒かったりする。
下界は猛暑なわけだから、1日のうちの「気候変動」にも体力を消耗させられる。

・高山病
標高ゆえ、かつ、「記念登山」で経験の浅い者も少なくないゆえ、
高山病の症状を呈する者も多い。
早い話が、あちこちでゲーゲーやっているのである。
ちなみに、山小屋のトイレで吐いてはいけない。
山小屋のトイレはバクテリアで糞尿を処理する仕組みなのだが、
そのバクテリアが胃液の酸で死んでしまうからだ。
寝床のそばには「それ用」の洗面器が置かれている。

・山小屋が…
とにかく大混雑。寝る際は、スペースを少しでも詰めるべく、
「隣の人と頭と足を互い違いにして」という指示を受ける。
つまり自分の頭の両側に他人の足が来るということである。
寝返りだって満足には打てない。「仮眠」にしたってほとんど眠れない。
僕は山小屋泊の経験は少ないので、山小屋の「標準的なありよう」というものは知らないのだが、
富士山の山小屋の従業員には尊大な印象が強かった。
「泊めてやってる」「命を預かってやってる」という感じ。
大挙して人が押し寄せるから、「さばく」「処理する」感覚が支配的なのかも知れない。

…そういうわけで、今後富士山に登ることについては消極的な僕だが、それでも、
周囲に「一度は登ってみたい」と願う人がいるなら、
その夢の達成に伴走してみるのも悪くないなと思う。


財布に1万円札は要らない(1円玉も要らない)

2017-06-19 15:21:10 | 雑感
なんとなく、財布の中には1万円札が2枚くらい入っていないと落ちつかない、と今まで思っていた。

「何かあった時」にどうするんだ、と。(こんなことも言っていた)。
しかし「何かあった時」って具体的になんだろう?

僕の中では、「タクシーに乗って急遽移動しなきゃいけない」というシチュエーションが思い浮かぶのだが、
考えてみると、1万円に到達しそうな長距離を「タクシーで急いで」移動するということは、
昼間では考えにくい。急いでいるなら電車を使うだろう。
電車の動かない深夜はまず家にいるわけで、家には自分の車があるし。
そもそも、クレジットカードが使えるタクシーも増えつつあると思う。

そう、万円単位でお金を使う局面では、ほとんどの場合、クレジットカードが使えるわけで、
高額紙幣を持ち歩く意味って、もはやないのだ。

今年初めに家のリフォームを行なった。
支払いが80万円ほどになり、クレジットカードは使えなかったが、
ネット銀行から振り込んだので、現金を手にする必要はなかった。

財布の中に1万円札を入れておいても、日々現金が必要な買い物と言えば、
カードの使えない飲食店か八百屋くらいで、金額は数百円から、行っても2000円くらい。
1万円札で支払ってもお釣りが増えて細かくなるばかりで、煩雑になるだけだ。
店員にとっても面倒なだけだろう。
つまり、1万円札は持っていても使い勝手がよくないということ。
財布を開いた時の自己満足でしかない。
これからは、銀行で1万円札をおろすのはやめて、1000円札×枚数でおろそうと思う。

ついでに言うと、1円玉も邪魔くさい存在だと思う。
1円単位で現金の支払いが必要なのは、僕の場合、八百屋しか思いつかない。
スーパーもコンビニもドラッグストアも、みんなクレジットカードが使える。

1円玉ってもう、廃止してもいいんじゃないか?

個々の商品の値札に1円単位の金額がつくのは構わないが、
現金での支払いの段では10円単位に切り下げ/切り上げを行う、という運用にする。
(現金購入の切符なら10円単位、電子マネー購入のパスモなら1円単位、という、
鉄道運賃の支払い方法のように)

「1万円札1枚をつくるのに1万円はかからないが、1円玉1枚をつくるには1円以上かかる、
だから、1円玉は最もコストが高くつく通貨である」
という話を聞いたことがあるが、1円玉をなくしてしまえば、通過製造の効率の面でも、
お金のやりとりの効率の面でも、ずいぶんすっきりするんじゃないかと思うのだが。


網戸は「右側」が正解

2017-06-07 11:27:13 | 雑感
朝はテレビをつけないのだが、今日たまたまつけた朝の情報番組で、思わぬ収穫を得た。

これからの時季は窓を開けて網戸にしておくことが増え、
それに伴い部屋に小虫が入り込むことも増えて悩ましいのだが、
どうも網戸の使い方が間違っていたらしい。

2枚引き違いのサッシの場合、網戸は「右側に寄せ」、右の窓を開けるのだ。
僕はなぜか習慣的に、網戸を左側に寄せ、左の窓を開けていた。

引き違いサッシは、左が室外側で、右が室内側に来る。つまり、外側から順に、

・網戸
・左窓
・右窓

とレールが並ぶが、網戸を右側にして左窓を閉めていれば、
その接合部にはパッキンが入っているため、隙間が生まれない。

しかし、網戸を左側にして右窓を閉めていると、その間にある左側の窓の分だけ
(正確には、左窓・網戸の枠と、窓・網本体の厚みの差の分だけ)、
わずか1cm未満ではあるが、隙間が生じるのだ。
虫はそこからたやすく入り込んでくるという。
番組では、蚊が実際にその隙間から入り込んでくる様子を実験していた。

サッシの構造をよく見てみれば当たり前すぎるほどに当たり前なことなのだが、
「網戸を閉めている」という事実だけで思考が止まってしまっていた。迂闊だった。

「網戸は右側、そして右の窓を開ける」。

今後は自分の常識を180°書き換えよう。


一人暮らし長すぎ“あるある”

2017-05-30 16:03:28 | 雑感
一人暮らし長すぎ“あるある”。あるいは、一人暮らし長すぎ後遺症。

・家に帰ってきて玄関に入った途端、後ろ手ですぐさま、内カギをしっかりロックしてしまう。
 もはや無意識に。
 サムターン(つまみ状の内カギ)なら閉めても外からキーで開けられるが、
 ドアガード(レバー状の内カギ)だと開けられない。家人を閉め出してしまう。

・トイレのドアは開けっ放しが標準
 ドアを閉めて用を足していると息苦しく感じてしまう。
 家人の気配がなければ開けっ放し。足音が聞こえてきたら慌てて閉める。
 また、トイレを使わない時も、ドアを開けておく方が採光も通風も確保されるので、
 その方がよいと思ってしまう。

・昔の彼女からのプレゼントを知らんぷりして使っている。
 僕は食器はわりと同じトーンで揃えている。全部シックだ。
 だから、かつてプレゼントとしてもらった「ポップな色遣いのカップ」など、
 そのラインナップの中ではいかにも浮いている。
 捨ててもいいのだが、焼き物は燃えて灰にならず埋め立てゴミにしかならないから、
 まだ使えるものをゴミに出すのには罪悪感を覚える。
 ヒビが入っても欠けても茶渋がついてもいいや…と思うと、かえって気軽に使えたりする。
 「黒い箸と赤い箸のセット」なんかも、いかにも「赤いのは今まで誰用だった?」となりそうだが、
 気づかないのか、気にしないのか。

・細かすぎる独自ルールが構築されている。
 テレビ台にはHDDレコーダーが収納されているが、動作時に発生する熱をこもらせないよう、
 レコーダー収納部の扉は閉めない、とか、
 洗濯用粉末洗剤は消臭剤の代わりになるので下駄箱にしまっておくとか、
 その日着たジャケット類はいきなりクローゼットにしまわずに、一晩窓枠に吊るしておくとか。
 相手に強要はしないけど、「その奇怪な行動には意味がある」ことくらいは説明する。 


その避難訓練じゃ意味がない

2017-05-25 15:14:33 | 雑感
会社が入居するビルで避難訓練があったが、実施方法が解せない。
「混雑するから」という理由により、2つある非常階段のうち、自分のデスクから離れた方の階段を使えという。
2つの非常階段は、どちらが使いやすくどちらが使いにくいというものではないから、
この「区分け」は、あくまで便宜的なものに過ぎない。
また、地上出口はいくつかあるものの、使う出口を1つに限定され(これも便宜的に)、
さらに、地上に出てからも最短距離で避難場所へ行ってはならず、ぐるっとビルの周囲を迂回せよという。

これでは現実味が乏しいではないか。
覚えていられるかどうかも怪しげな複雑な迂回経路を歩かされたのでは、本当の非常時に役立たない。
本当の緊急時には正確な誘導アナウンスだって期待できないかも知れない。
煙に巻かれたり、サイレンが鳴り止まなかったりしてパニックに陥りそうになっても、
自分の「体が覚えたこと」を粛々と引き出して、実践に移せるようにならなければ、訓練の意味がない。
この訓練は、「実践」を見据えたものではなく、「訓練を成功させるための訓練」に成り下がっている。

僕は混雑するエレベーターを回避するために日頃から階段で地上へ降りることも多いので、
(当然、ムダのない経路で、だ)それが一番の避難訓練になっていると感じた。
だから、今回の避難訓練には参加しなかった。

日本人って、こういう、手段が目的と化した=自己目的化した行為を、
「みんながそうしているから」と、疑問を抱かずに受け入れてしまう傾向がある気がしてならない。