
「己を征服する者に反問なし」──安岡正篤
この言葉を初めて聞いたのは、小学生の頃。
剣道の稽古のあと、師匠が静かに語ってくれました。
もちろん、当時の私は意味などわかりませんでした。
師匠はきちんと解釈して教えてくれていたのに、
私の心に残ったのは“言葉の響き”だけだったのです。
それから長い年月を経て、
迷いや後悔、感情に揺さぶられる日々の中で、
ふとこの言葉を思い出すようになりました。
他人に勝つより、自分に負けないことのほうが、どれだけ難しいか。
今では、あの頃の師匠の教えが、私の“らしんばん”のひとつです。
自分に負けそうになる日が、人生にはある
実際、私たちは“己”を征服するどころか、
自分に負けてばかりの毎日かもしれません。
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「本当はやるつもりだったのに…」と先延ばしする自分
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「あんな言い方しなきゃよかった」と後悔する自分
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「周りが気になって、つい空気を読んでしまった」自分
心のどこかで「わかっていた」のに、それでも選べなかった──
そんな“自分とのすれ違い”を経験したこと、誰にでもあるはずです。
これまで、
「ゴールが見えない時にどう進むか?」
「評価や成果ばかり追いすぎると、なぜ苦しくなるのか?」
というテーマで、“らしんばん的な生き方”を綴ってきました。
今回は、より内面に向き合うテーマ、
「己を征服するとは、どういうことか?」
について書きます。
「征服する」とは、弱さを消すことではない
まず前提としておきたいのは、
「征服=感情を消す」「弱さを否定する」という意味ではないということ。
感情は感じていいもの。
不安も、怒りも、嫉妬も、「人間らしいサイン」です。
征服とはそれらを押し殺すことではなく、
それに振り回されない“選べる自分”になること。
たとえば、
誰かにイラっとしたとき、「怒りに任せて返す」のではなく、
「怒ってるな、私。でも言い方は選べるな」と一呼吸おける自分。
不安を感じたとき、「だからやめとこう」となるのではなく、
「怖いけど、これはやりたいことだよな」と自分に声をかけてみる自分。
感情に支配されるのではなく、
感情とともにいながら、“行動”は自分で選べる。
合気道で言うなら「受けてから流す」。
感情を否定せず、一度受け止め、力まず流す。
それが、本当の「自己コントロール」であり、
「己を征服する」第一歩なのだと思います。
自分の“中の敵”と、どう向き合うか?
「他人に勝つことより、自分に負けないことの方が難しい」
これは多くの人が、人生のどこかで気づくことです。
たとえば、
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やろうと思っていたのに、スマホを見て終わった日
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思っていたのと違う結果に、すぐ投げ出したくなったとき
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人の目を気にして、自分の意見を飲み込んだとき
これらは誰かに責められるものではありません。
でも、自分が一番よくわかっている。
「今日の私は、自分に負けたな」って。
この“小さな自己不信”の積み重ねが、
やがて自分を信じる力を、じわじわと奪っていきます。
だからこそ大事なのは、
「自分に勝とうとする」のではなく、
「自分を裏切らない習慣」を育てることです。
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今日は5分だけでも手をつけよう
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やりきれなかったけど、振り返りだけはしよう
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途中でくじけたけど、また戻ってきた私を褒めよう
そんなふうに、小さな“自己一致”を積み上げていくこと。
それが、静かで本質的な「征服」の力になります。
完璧を目指さず、“回復する力”を育てる
「もっとブレない自分になりたい」
「もっと優しくありたい」
「もっと行動力のある人間になりたい」
誰しも、そんな理想像を描くことがあります。
でもその理想と現実の“差”に苦しんでしまうことも多い。
そこで問い直したいのは、
「理想通りに生きること」だけが、成長ではないということです。
大事なのは、
「ズレたときに、戻れるかどうか」
「間違ったときに、問い直せるかどうか」
つまり、“回復する力”があるかどうか。
たとえば、昨日まではうまくいっていたのに、今日はグダグダだった。
でも「また整え直せばいい」と立ち戻れる人は、ちゃんと成長しています。
そうやって、「何度でも自分を整え直す力」こそが、
人生においてもっとも信頼できる“らしんばん”になるのではないでしょうか。
最後に:誰とも戦わず、静かに自分を取り戻す旅へ
「己を征服する」とは、誰かに勝つことでも、
“強くなりすぎる”ことでもありません。
迷いながらでも、自分で選ぶ力を取り戻すこと。
揺れた自分に、何度でも戻る力を持つこと。
そんなふうに、自分の感情や弱さと手を取りながら、
でも主導権は“自分が持っている”という感覚。
それが、これからの人生をしなやかに歩んでいくための、
大切な土台になるのだと思います。
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