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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

少し遠出を・・・緋紅色を求めて

2022-03-12 | 旅行記

平日の朝だというのに、東名高速の下りが渋滞しているようだ。

首都高を走行中・・・用賀で降りて第三京浜をと思ったが、戸塚原宿付近はいつもの渋滞だろう。

急ぐ旅でもないので、東名に進み・・・渋滞の流れに任せ、・・・厚木で分かれ、小田原方面へ

こちらの有料道路はいつも空いている、小田原に到着・・・

この先、東海岸は所々で渋滞しそう、・・・山を越えよう

湯元方面に進み・・・途中で自動車専用道の箱根新道へ

走行車両も少なく・・・道なりで峠を越えて静岡県

下りは急カーブも多く、エンジンブレーキを多用して山麓に到着

伊豆半島の付け根、ここからは南へ、伊豆半島を南へ走ろう

ここは鰻で有名な三島、温暖な気候で山海の恵みに溢れて・・・のんびり過ごせる地域と思う。

伊豆縦貫道に入り、・・・一車線なので多少混んでいるが法定速度くらいでは走れる

一般道の先に、・・・伊豆中央道の入口が見えた

温泉街の修善寺を通過し、順調に流れて・・・間もなく終点

伊豆市、道の駅「伊豆月ヶ瀬」に寄って行こう

この道の駅はお薦めです。レストランもあるし、店内で軽食を購入し、裏のテラス席で軽食を

眼下に渓流が(沢には降りられません)右手は走ってきた高架橋、リラックスできます。

さて、ここから天城トンネルまでは、約15kmくらい

峠の手前で・・・道の駅「天城わさびの里」に立ち寄り

近くに、井上靖氏の旧邸、川端康成氏:伊豆の踊子など・・・天城越えのかつての難所があります。

・・・トンネルを抜けると・・・伊豆半島・山脈の東側・・・朝日が当たる斜面にたどり着いた・・・そんな感じ

早速、所々で歓迎してくれています。

この濃いピンク色、・・・河津桜が満開のようです。

まだ昼前、七滝(ナナダル)の上流の滝は、この付近になるのだが、

近くの駐車場に停めて散策もできますが、・・・案内板を見かけましたが

・・・渓谷に降りていくと、駐車場に戻って来るのが大変なので、通過します

河津の地図をGoogleより拝借して、・・・現在地が河津七滝

峠の坂道、高低差を一気に解消したループ橋がもうすぐでしょう、

ループ橋ができる前、夏の海水浴シーズン・・・マークⅡでここの山道を走った記憶があるが

ぐるぐる回って、下りはスピードがでるのでエンジンブレーキ

・・・ループ橋を過ぎてから国道を左に折れて、ここから七滝へ

少し走ると、見事な河津桜が・・・道路横の空き地に停車、・・・撮影会

では街中へ

右側の土手の上へ坂道を登り、無料の広い駐車場に到着

ここに駐車して、七滝(ナナダル)の一番下流になる大滝を見に行きましょう

案内板に、伊豆半島の地図がありました

今来た道を60m位戻り、案内板に従って右に折れ、小道を渓谷に下ります

整備された坂道は、・・・5分くらいでロープ規制がされていた。

河原を目の前にして降りられず、入湯券が必要になりますと貼り紙、無人の小屋があるだけ。

河原の小屋は露天風呂でしょう、洞窟温泉もあるようでした。

さらに、河原にコンクリートでプールが出来ていて、温泉を引き込み夏に開業するのでしょう。

・・・七滝地区、通過は時々するのですが、滝に降りるのは何十年ぶりでしょうか

途中から見えるループ橋です。

高低差45m、一気に上下します。

では元の国道に戻り、河口の河津町まで進みましょう。

今年は寒い日が続き、2月の桜まつり期間中、満開にはならず3月上旬にこのような

菜の花と河津桜が満開です。

・・・もうすぐ昼、桜祭り会場周辺は賑やかだった。

河川に近い道路で、・・・食事を兼ねて駐車場を探そうとすると

夏の海水浴場かと思えるほど人が飛び出して来て、招き入れようとします。駐車料金:1000円

取り合えず流して街中を散策、食事処は駐車スペースが狭い所が多く、満車。

では、街中のスーパーに停めて、花見弁当を購入し、30分もあれば帰ってこられるでしょう。

河津川に向かいましょう。

左が下流(海岸はすぐです)、川向うは右岸・・・橋の中ほどに進み。

橋の中央より、左岸が遊歩道が続いています。

少し曇り空になってきました。

この桜並木は樹高がそれほど高くなく、枝が低く出ています・・・遊歩道の中に入って確認しましょう。

素晴らしい緋色、いえ緋紅色というそうです。

吉野桜ですと樹が大木になり、この様に両側に植えることはできないでしょう。

桜の花のアップを

寒緋桜、沖縄の八重山の桜がこのような濃いピンク色でした。

樹高が低いので、カメラアングルを2m位にすると、桜の花びらに包まれている感覚です。

・・・ふわっとした柔らかい感じの花びらです。

この桜並木は良いですね。

温かい緋紅色の花でボリュームもあり、肌寒くても暑いエネルギーを授かります。

では、河津桜の原木と呼ばれる樹を見に行きましょう。

少し遠いので車で・・・出かけたが、道路横の民家の庭先で駐車ができない。

では近くのこちらの神社に参拝しましょう。

由緒ある河津来宮神社、桜の季節限定で御朱印帳が人気でした。

御朱印帳を拝借して、2月限定でしたが、桜の開花が遅れたので・・・桜の見開きでこんな感じ

他に2月は、切り絵もあるようです。3月限定、芽吹き、7月限定七夕などもあります。

ところで、川津来宮(カワツキノミヤ)神社、・・・川津とありました。

この様な案内板もありました

神社の左側に、楠の大木があります。

平安時代はどんな様子だったのか、この神社は、森に囲まれていたのでしょうか

原生林も多く、その中でもこの楠は目立つ存在で、神木だったという事でしょう。

さて、この神社の右側を進み小道をクランク状に斜め右に・・・国道に出て左に進むと

こちらが、河津桜の原木とのこと

立札に

更に並んで、案内板が

では近づいて、根元を見てみましょう

若木は、大島桜のように花と葉が同時に開いています。

寒緋桜の緋紅色が強く出るのは、成長してからなのでしょうか、

民家の一角なのでロープ規制があり、樹木の全周は回れません。

撮影後、先程の神社の駐車場に戻ります。

この河津桜は、苗木販売も会場で行っていました、結構売れている様子でした。

土手添いの河津桜と菜の花、人気の場所と思いますが、この日は?撮影者は少なかった。

土手の反対側は、菜の花はありません、駐車禁止の柵やパイロンが並んでいます。

伊豆急と桜、ここも撮影者は少なく、・・・遊歩道での桜並木・自撮りで忙しい様子です。

さて、風も冷たく感じられるので、温泉宿へ早めに移動します。

この季節、伊豆と言えば金目鯛、煮付けや刺身、二人で1尾を宣伝する所も多いようです。

煮付けは身が厚く、一切れで十分と思いますが・・・十人十色ですか

一応名物料理、伊勢海老、あわび、そして金目の煮つけ、伊豆半島に永住したいですね。

大地震に時々襲われて、線路と道路が寸断されて、知人達が救援に駆け付けた自衛艦に救出されたことも。

多分、この大地震以降にループ橋が建設されたと思います。

最近は静かで、忘れてしまいそうです。

朝日が伊豆大島の上に出てきました。

向こうに見える伊豆大島でも大噴火で溶岩流が流れ、島民は長期東京などに避難されたこともありました。

さらに右側を見ると・・・伊豆諸島の島々です。

ここは熱川、窓辺にこんな眺望案内がありました。

住めば都、温暖でいい所なのですが。

朝マヅメから砂浜で投げ釣りを1時間以上

釣果は、少ないような感じですが、・・・竿を出すことに意義があるのです?

さて、これから農協で地元のお宝を探しに、はるみ、はるかは柑橘類で人気だそうです。

ロビーに降りると、日本の伝統文化が季節を教えてくれます。

両脇を吊るし雛、中央に七段飾り、雛祭りです。

歴史を感じさせる色柄です。

・・・これから、伊豆半島はドライブの人気地域ですが、帰り車で小田原は相変わらず、ボトルネックです。

今回は、網代を昼前に出かけたのですが、真鶴から先、早川口が工事中でもあり、

小田原は3時休憩の前にやっと到着。

熱海から十国峠ルートが無難なことを再認識させられました。

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トンガ諸島海底噴火 軽石が少なくてよかった

2022-01-23 | 旅行記

新年早々、東京国立博物館のある展示が告知されていて気になっていた。

1/15(土)午後1時10分頃トンガ諸島で海底火山が噴火したが、日本での津波の心配は無いとされた。

しかし、半日過ぎて・・・津波が日本に到達し・・・1/16(日曜)深夜からTVでは一斉に津波注意報が流れ出した。

気象庁は理解できない現象だったようで・・・後日の報道では、海面より到達が早い、空気振動による衝撃波の影響らしい。

そんな中、・・・1/22深夜、こんどは日向灘で大きな地震。明るい話題が少ない・・・

冬のオリンピックがもうすぐ・・・しかしオミクロン株が急拡大中だが・・・隣国はゼロコロナ、都市封鎖が続く・・・

・・・旅行が無理なので、画像の整理を始めた、フィルムスキャナーで読み込むが・・・大昔のフィルムは相当劣化していた。

何か話題の場所にポイントを絞って整理しよう。

東京国立博物館の展示品? 壁画は持ってこれないでしょう・・・出土品だけでしょうか

噴火で埋もれてしまった2000年前の都市、・・・整理すれば、多少旅行気分に浸れるでしょうか

・・・波止場のようです、・・・もう少し、フェリーの後方の遠景は・・・

港の向こうに・・・二子山でしょうか、・・・いえ、これは一つの山です、左は外輪山です

ここの都市は? 世界三大夜景で有名、・・・ピザといえば・・・ナポリ、ここはサンタルチア港

フェリーで目前にある人気の避暑地の島が、・・・こちらです

ヨットが少ない?

少し離れた所に、太陽がいっぱい

坂道を登ると有名ブランド品のショップも

ここは、青の洞窟などで有名な・・・カプリ島です

港の近くに、ここにもフェラリーのショップはありました。

カプリ島は割愛して、今回はナポリよりもう少し南にバスで移動して、

・・・先程の外輪山のある山麓に行きます。

街中の風景・・・潮風は、スチールのタイヤホイールも錆びますね。

・・・石畳の道路、ショッキングピンクの素敵なスクーターです。

日本車も、もちろん人気があります。

それより、ナポリ名物、・・・ベランダは洗濯物の展示会です。

さて、ナポリから海岸線を南南東に20数キロ程走ります。

城壁に造られたマリーナ門近くに駐車して、目的の入口は、ここから200mくらい

ヴィッラ・ディ・ミステリ通りの坂道を登るとカーブの先、右側に

ポンペイ考古学公園、博物館の入口です。

東京国立博物館で1/14~4/3まで開催されている「ポンペイ展」、その発掘された現場です。

入口から順路を進むと、すぐ目の前に驚きのパノラマ画面が現れます。

・・・正面から左側に続くのは城壁でしょうか、

ローマの都市城壁に倣って建てられたのでしょう

さらに左には・・・丘陵地帯が・・・

ここは海抜40mくらいでしょうか・・・

パノラマの画像に加工すると・・・広大な様子がわかります。

ポンペイ・・・2000年も前の都市とは、・・・東アジアの農耕民族と違い、ギリシャ、ローマ文化圏です。

こちらからは富士山のように見える ヴェスーヴィオ山。

紀元79年に大噴火が起こり、ポンペイの街は一日で埋もれてしまった。

中に入りましょう。

右側は、大谷石の石垣かと思えるような立派な石組です。

前の角はレンガ組です。

これはすごい、大理石の採掘場が近場にあるようでうらやましい。

このようなギリシャ神殿の様な柱が・・・、ここは広場?思った以上に広い大きな街並みが全て消えてしまったのか。

フォーロ、右側の柱廊は、広場138×142mの部分と思われる。

奥に見える山頂からここまで・・・直線で10kmくらいでしょうか

噴煙は上空32kmまで吹き上がったなどとよく言いますが、恐ろしい光景です。

さて、ポンペイのガイドブック(2010年に購入分)にアポロ神殿が掲載されています。

最も古い遺構で、エトルリア語の碑文がいくつか残っている。なる程、碑文から年代も推定

これが神殿のヴィーナスの像

ガイドブックの写真がこちら

そして、ロープで立ち入り禁止となっているが

犬がいましたが、右側に見えたブロンズ像は・・・右側を向くと

こちらが神殿広場の右側に並ぶ柱廊で、ブロンズ像は「矢を射るアポロ」とされます。

再現図がないと理解し難いですね。では、再度ガイドブックから

再現図を再掲しますと

この左の柱廊には「ディアナ」の像がありますが、現地ポンペイの像は複製とのこと。

実物は、ナポリ国立考古学博物館に所蔵されています。

発掘された中には、青銅の天秤ばかりやピンセットなど、鮮やかなフレスコ画など素晴らしい物も

悲しくなる石膏像も展示されていました。

 

 

 

 

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ガラスの森美術館

2021-12-25 | 旅行記

この画像は、調べたら2013年の秋だった。

年末のイルミネーションが話題になっていたころだと思う。

豆電球の熱と明かりが樹木に悪影響を与え、LEDに替わり、その後は青いLEDも安価になり、

音と光の演出は冬の大イベントに発展し、マスコミが宣伝し集客力を競って拡大し続けました。

ここガラスの森は、LEDなどの発光体ではなく、素材を、ライトアップしていますので、落ち着くのです。

・・・千石原のススキの原を右に見て、街に入ると右から強羅からの県道と合流し、左カーブその先右折

小道を下って行くと道なりで、国道に突き当たる。

この右側一帯がガラスの森美術館、国道から右側の駐車場に車を入れる。(有料300円)

駐車場はガラスの森美術館の両サイドにあり、では敷地内に

入場券はこの階段の先、建屋内に設けられています。

ゲートを通り内部に入ると、少し高い通路から敷地内が見渡せます。

左側がヴェネチアン・ガラスの美術館、現代ガラス美術館などの建物です。

下の画像は、少し角度が違います。

 

正面に見える「光の回廊」2008年制作:高さ9m、全長10m、クリスタルガラスのアーチがほぼ正面に見えます。

ここは、左のヴェネチアン・グラス美術館の2回からの眺望です。

手前の毛むくじゃらの様な白い物体は?

作家によるシャンデリア、1997年2点制作され、ここと、ヴェネチアのムラーノ美術館に 

では、入口から続く通路は正面の池を右側から回り込んで小道を進みます。

右側のカフェ・レストランの前を通り、クリスタルツリーが・・・2本?立っていた。

少し小さいタイプが5年ほど前に設置されたようです。(館員の話)

中央の奥、山合に見えるのが、大涌谷・・・向こうからもこのキラキラが見えるでしょうか?

時間を早回しにして、夕日に照らされる時間になると、温かい雰囲気になります。

向こうの煙突が気になります?

少し拡大してみましょう

スパイダーマンでは無く、煙突に縄梯子、サンタさんが登っています。

ここは、ナッツやジャムなどを販売しているショップです。

もう少し池の淵を進むと

手前の大きいツリーは、高さは約10m、約8万5千粒のクリスタル・ガラスのツリーです。

こちらが池の一番奥、右の小さなツリーは、高さ約8m、約6万5千粒のクリスタル・ガラスが用いられています。

大きなツリーは、「ロミオ」、小さなツリーは「ジュリエット」だそうです。

ツリーの先端が星ですね。

12月26日以降は、星がハートに変わるようです。

この裏から階段状の小道が、斜面に造られています。

斜面は川に沿って、アジサイなどの植栽があり、季節を選んで来館されると楽しめます。

この美術館の有名な作品、1895年バロヴィエールの作

これらの作品は3部品を別々に作り、溶かして付け完成させましたが、半数以上は自立できなかったそうです。

これらは、入口の建屋の並びにある美術館に展示されています

この美術館のホールでは、海外からアーチストを招きコンサートなどをされておりましたが、コロナ禍で来日ができず、開かれていませんでした。

隣の現代ガラス美術館も多くの作品が展示されています

この様な展示となっています

これは、アメリカ人デイル・チフーリの作品、ベネツィアのムラノ島に留学

1981年から80年代の作品、内と外でガラスの色が違う、ベースは色ガラス棒

3層のガラス面からなり、間の層に白ガラスを挟んで混色を避け、鮮やかな作品を造り上げている

さて、日も暮れて、ライトアップ中心のツリーを見てみましょう

LEDと違い、気品がありますね、間接照明が雰囲気を出しています

クリスマスまでの特別展示のようです

ではこの「光の回廊」を通って、美術館を後にし、強羅に帰ることにしましょう。

回廊内部から、大小のツリーを・・・、

箱根の森に、このような無数のクリスタル・ガラスが輝いていました。

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amante

2021-06-04 | 旅行記

コスタンツァ・ボナレッリの肖像 フィレンツエ:バルジェッロ国立美術館

当時社会的地位の高い男性は、30代後半に結婚する人々が多かったと言われる。

ベルニーニは39歳、まだ独身だった、・・・身近に20代前半の人妻(コスタンツァ)がいた、そしてモデルから・・・恋人に。

彼女はシエナの貴族、ピッコロミーニ家の一族だったようだが貧しかったようでローマに出てきて若き彫刻家と結婚した。

コスタンツァは18歳で、1632年2月結婚、・・・夫はベルニーニの弟子で当時28歳くらい。

・・・師匠のベルニーニは10代で、依頼主の肖像を見事に制作する彫刻家として名声を得ている。

ベルニーニは偉大な彫刻家ミケランジェロについて、彼は肖像は作らなかったろうと話している。

・・・ミケランジェロは、「メディチ礼拝堂のジュリアーノとロレンツォの像」を両人が亡くなった後で彫っている。

この恩人でもある両人の像が・・・本人に似ていないと指摘され・・・

・・・「1000年も経てば、彼らがどんな容貌だったか知る者など誰もいなくなる」と答えたと言われている。

彫像とは・・・改めて、このコスタンツァ像を見てみよう・・・女性の話しかけるようなポーズから親しそうな雰囲気が漂ってきます。

息子(ベルニーニの)の記録によると、彼女の絵画も描いていて、自宅に置いてあったそうです。

若き人妻にベルニーニが熱を上げていた・・・そして作品が残った。

・・・1638年8月末~9月初めころ、ベルニーニは自分の末弟(26歳)がコスタンツァと交際しているのを見つけ、弟をボコボコに、

騎士ベルニーニは剣を持ち・・・教会内を追いかけた、・・・ベルニーニに逆らうものは皆無だった・・・弟はローマから追放された。

コスタンツァにも、・・・召使いに指示して顔に傷を負わせたようです。(後に教皇がこの召使いを亡命させています)

両者に対し傷害事件を起こしたのが、ローマの有名人だった・・・大芸術家のスキャンダル事件が発生。

・・・教皇は、傷害事件を起こしたベルニーニに対し、特赦を与えた。

ベルニーニに対する教皇の人物評価は・・・

「神の高配によりローマの栄光のために生まれた類稀なる人物、この世紀に光りをもたらす至高の天才」だった。

・・・教皇はベルニーニに身を固めることを・・・熱心に勧めた。

ベルニーニはこの忠告を受け入れ・・・弁護士の娘と翌1639年5月15日に結婚します。

・・・以後33年の結婚生活で、11人の子供に恵まれている。

一方、気になるコスタンツァの夫はどうしたかというと、・・・事件以後もベルニーニの下で仕事を続けています。

ベルニーニが結婚するひと月前に、不祥事を起こした妻を厚生施設から引き取り、結婚生活をやり直したようです。

さて、芸術家は顧客を選べるか、ベルニーニと共通点が多いレオナルド・ダ・ヴィンチ、・・・肖像画の依頼は多かった。

制作意欲がわかないと権力者や大貴族の婦人から肖像画を依頼されても、ビジネスとして受注をすることは無かった。

ベルニーニも・・・あまりにリアルな、依頼主がウットリする工芸品的彫像を完成させるので、ヨーロッパ中に名声が届いていた。

しかし、パトロンのローマ・バチカンが彼を離さないので、他国の国王はあの手この手で自分の彫像制作を依頼していました。

この肖像は、英国からローマ教皇を通してベルニーニに使者として使わされた、トマス・ベーカーという役人です。

英国のチャールズ1世が、1635年に自分の肖像画(正面と横2面)を有名画家に描かせ、それをローマに届ける特命を受けた人物です。

この使者が、ベルニーニに面会できたので、別途、自分の彫像もお願いしますと・・・6000スクーディの報酬で懇願したそうです。

この金額は?・・・17世紀後半、流行画家のカルロは、全身肖像画で150スクーディ、NO.2の画家ジャンは100スクーディで受注しています。

ベルニーニのサン・ピエトロの主任建築家としての月俸は300スクーディとされるので、破格の6000スクーディで頼み込んだようです。

作品がほぼ完成した時、パトロンである教皇がこの話を耳にし、バルベリーニ枢機卿を使いに、・・・この使者の肖像完成にストップをかけた。

チャールズ1世は、教皇の許可を得て1635年にベルニーニに依頼をしていました、・・・この作品は1637年に完成しました。

・・・何故か、教皇がベルニーニの仕事に介入しているように見えますが・・・

ベルニーニの彫像は、一点物の特注品・顧客は名誉欲も満ち足り、分身が出来上がり、家宝と喜ぶ、・・・このような彫像の価値は非常に高い。

・・・教皇は、完成したチャールズ1世の彫像を、カトリックの信者だった女王に、教皇からの贈り物として・・・最大限に活用しました。

これには国王夫妻は大感激、女王はダイヤモンド(4000スクーディ相当らしい)をベルニーニ贈り、自分の彫像も依頼しています。

女王の彫像は、その後英国で政変があり・・・彫像は彫られていないようです。

・・・チャールズ1世の肖像は・・・火災で焼失?、・・・こちらの使者の肖像は、弟子が完成させて納品、残っていました。

ベルニーニのテクニックで、襟元のレース飾りが優雅に、・・・大金で依頼した本人が自慢したくなる見事な彫像です。

この時代の教皇は、・・・サン・ピエトロ大聖堂、中央右手の上部に掲示されていたと思うが、

ウルバヌス8世(在位1623~1644)(青線)教皇の時代でした。

歴代の教皇の一覧です、確か表記はラテン語でしたか? 

・・・近くの中央天蓋の左手前に・・・ラファエロの作品「キリストの変容」がありました。

このサン・ピエトロ大聖堂一帯は、湿地帯でしたので夏の湿気が高く、フラスコ画などは湿気が大敵でした。

そこで17世紀頃から、絵画は微細なモザイク画(色も豊富)に置き換えられていきました。

・・・ラファエロの本物は、バチカン美術館の絵画館の8室にあります。

さて、権力を手に入れたら由緒ある教会に礼拝堂を持ちたい、パウルス5世の例がありました。

ウルバヌス8世は、1628年からこの聖堂内の後塵の右側奥に礼拝堂を計画し、着手していました。

ベルニーニは教皇から死の直前、・・・3年以内に完成してと催促されていたようですが・・・。

結局教皇が亡くなって3年後、・・・着工から約20年、1647年2月に完成しました。

・・・20年間も大聖堂の一角が工事中で、その間教皇でしたから非難もされずに・・・あきらめず待つものです。

ところが、この作品でベルニーニは、棺を挟んで左に慈悲の像、右に正義の像を彫っています。

左の慈悲の像は1639年頃弟子が制作中だったようで、胸を出して子供に乳を与えるリアルな姿で・・・

(後に胸は覆われたしまった)・・・コスタンツァがモデル?と噂が

17世紀の伝記作家、バルディヌッチは、慈悲の像に「教皇の死を嘆いて泣き騒ぐ子供を

慈悲深く見つめながら自らの悲しみをかみしめている」と描写しているそうです。

この棺が目立ち過ぎたのか、この礼拝堂の画像は少なく、・・・また機会が有ったらじっくり鑑賞したい作品です。

バチカンガイドブックの画像を再掲

ところで、MS OS(WIN.10)の自動バージョンアップ後、富士通のパソコンが不具合となり半年、

MS(マイクロソフト)から、少し前のMS OS(WIN.10)を別のノートPCにダウンロードして、

記録したDVDを富士通PCに読み込み、OSの修復を実行・・・半日後、無事回復しました。

最初のMS相談窓口、多分若い女性の担当者でしたが・・・相当深度部までPC内部が破損していると推定できる。

解決策は富士通のPCを、メーカーの手順で購入時の状態に初期化して頂くことを勧められたのでした。

この件は納得できない、初期化したくないから、・・・MSのバージョンアップが要因で不具合になったのでした

・・・相談窓口のMS担当者の力量で対応が異なるのは致し方ない、後日、別の担当者と相談しますと電話を切って・・・。

そして、5月の連休にMSの男性担当とアレコレ話をし、OSの修復手段、USBは読み込まず失敗、DVDで回復したのでした。

経験値が少ない方、経験が多く安易な方法を勧める方、よりよい方法を一緒に考える人・・・こちらの説明の力量も必要ですが

新しいPCを購入しようと思いつつ、気楽にアレコレ試したら、回復したので、コロナ禍でラッキーな少し前の出来事でした。

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ベルニーニとバルダッキーノ

2021-05-12 | 旅行記

初夏です、蜜を求めて飛びまわっています。

この白い花は月桂樹です。花びらの形は色々あるようです、黄色の花も。

手前の若葉は、木の芽として蕎麦やサラダにのせて・・・山椒の木、

例年アゲハ蝶の幼虫が数匹登場すると、アットいう間に食べられてしまっていたが、今年は無事のようです。

さて、芸術の都ローマでは、シエナの名門ボルゲーゼ家出身の教皇パウルス5世が1621年1月、心臓発作を起こし

4日後の28日突然亡くなります。

ベルニーニは1622年1月、前教皇パウルス5世の1周忌に高さ20m、幅13m強のドーム式の霊廟の装飾を受け持ち、

美徳の寓意像16体、童子20体を漆喰で製作しています。

(以降、ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄著 ベルニーニ伝 を中心に)

製作期間40日、当時ローマではこのような教皇の葬式、即位式、聖人の式典、聖体の・・・、外国君主の入場などなど、

年中 祭事が行われ、舞台装置は建築家、彫刻家、画家と美術家の重要な仕事でした。

期間限定の祭事に、市民は熱狂し教会が建つほど巨額の費用が投じられたそうです。

・・・日本の祭りのように、祭事は市民生活のメリハリに必要なのです。

この時期ベルニーニは、1622年に「プロセルピナの略奪」を完成させ、

8月から「アポロンとダフネ」の製作に入り1年後中断、途中1623年夏からは「ダヴィデ」の製作に入り、

先こちらを1624年春に完成させています。

・・・新教皇グレゴリウス15世は、サン・ピエトロ大聖堂に主祭壇と天蓋を構築したいが構想はなかなか進展せず、

カトリック教の祭事は仮天蓋の下で行われていた。この仮天蓋に、ベルニーニは4体の天使像を漆喰で造っています。

その後、グレゴウリス15世教皇が2年半足らずで亡くなります。

・・・1623年8月6日、マッフェオ・バルベリーニ55歳が教皇に選ばれウルバヌス8世として即位し、直ぐにベルニーニを呼んだ。

聖ペトロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズの巨大な天蓋(バルダッキーノ)で覆うことに決定した。

この難題をサン・ピエトロの主任建築家マデルノではなく、25歳のベルニーニに任せた。

若きベルニーニは多忙だった・・・天蓋の仕事は、1624年の夏から始めた。

この少し前、3月に小さな教会の修復中、ガラス壺から遺体が発見され、1000年以上前の聖女ビビアーナとされた。

教皇はこの教会サンタ・ビビアーナ全面改築することにし、ベルニーニにファサードと祭壇の建設を任せた。

・・・北方ヨーロッパでは、反カトリック教のプロテスタント勢力が拡大していた。

カトリック教が対抗するには、聖地ヴァチカン、サン・ピエトロの墓、新装中の大聖堂のPR、そして話題が欲しかった。

カトリック教信者の体験談・聖女伝説は、遺骨のある教会の出来栄え次第で大きな話題となります。

・・・聖女の彫像も含め、ベルニーニが適任だろうとこれも依頼されます。

ファサード、主祭壇の設計、主祭壇を飾る「聖女ビビアーナ」1624年から取り組んでいます・・・

現在、テルミニ駅の南東線路脇にある小さな教会です。

・・・さて重要なクライアントからの天蓋は、小型の模型を作成し教皇から承認を受け、原寸大の木製を製作中です、・・・

一方、制作中だった「アポロンとダフネ」が1625年完成し公開されると、・・・ローマ中から人々が押し寄せたようです。

そして「聖女ビビアーナ」も完成、・・・拝見出来なかったのでグーグル画像を拝借加工しています。

・・・バロック的と言われる芸術が花開きます。

さてこちらは、重要な仕事になった・・・大聖堂の中心部に設けられる教皇の祭壇、その大天蓋の制作です。

サン.ピエトロ大聖堂の天蓋(バルダッキーノ)の柱は、天井のドームに負けない巨大な構造物、何と高さ28.5mの柱、

原寸の木製柱(柱頭、台座、中間の柱を3分割し5部品に)ロウで装飾を付けて型を取り、ブロンズを注入する。

・・・このよじれた柱、台座のすぐ上の部分です、ウォームギアの様な斜めの溝はメカニカルなデザインです、

ローマ帝国時代の建築では、シリアのアパメア遺跡(内戦で残っているか不明ですが)の列柱道路には縦溝以外に斜め溝もありますが。

旧サン・ピエトロの内陣にも、ネジレ柱が使われていたようです。

材料のブロンズは、大聖堂のリブやパンテオンの玄関周りのブロンズのリブを木製にして、抜き出したり・・・それでも不足し、ヴェネツィアに特別注文。

分割した部品別に鋳造、2年をかけて製造とあります。

この間、大聖堂の建物自体は完成して、1626年献堂式が挙行された。

1627年夏ボロミーニとベルニーニの義兄が刻んだ大理石の台座の上に・・・ブロンズの柱が組み建てられた。

柱越しに向こうに見えるのが、ドームを支える巨大な柱(4本の内の1本)・・・この壁面は、この時点では無装飾の状態です。

さて内側の、バルダッキーノの4本の柱は、神殿の柱のようであったが、天蓋の蓋の部分が未契約だった。

1628年ベルニーニがこの件も契約し、完成は1633年、当初の案から木製にブロンズを貼ることで軽量化し、

バルダーキーノ全体の完成まで9年、費用は20万(ドゥカーティ)、ベルニーニの報酬は1万(ドゥカーティ)とあります。

渋い色彩のバルダッキーノは、周囲をブラマンテ設計の巨大な大理石の柱に映し出されて壮観です。

螺旋階段が造られ地下の聖ペテロの墓へ、

天井はドーム、その真下に天蓋・・・バルダッキーノは教皇の祭壇、・・・完成しました。

クライアントの教皇は、4本の柱の台座に3匹の蜂(教皇の紋章)、柱にも金の蜂がとまり、月桂樹が巻付き

柱頭にはバルベリーニ家を示す「輝く太陽」が刻まれている。(教皇の承認が必要で、依頼されたのでしょう)

続いて、ドームを支える4面の支壁の装飾が計画された。

バルダッキーノは下図のように、ドームの真下に置かれたが、このドームは4本(赤紫色の部分)の柱に支えられています。

この4本の大きな柱、バルダッキーノに面する側を装飾する・・・巨大すぎるので大変です。

柱と言っても、4面とも壁のように幅が広く、そして高さがあるので、デザインの統一性を保ちつつ、人材も資金も必要です。

1629年、マデルノが亡くなり、ベルニーニが後任として、「サン・ピエトロの建築家」になり、この仕事も任されます。

教皇は、従来からの聖遺物に新たに聖十字架の一部を加え、四つの聖遺物を治める祭壇を、この4つの柱(支壁)に造ることに決定します。

具体的には、祭壇には聖遺物にゆかりの聖人像と聖遺物を納める壁龕を造ることになった。

四体の聖人像の内、聖ロンギヌス像をベルニーニが担当し、他の三体は他の彫刻家が担当した。

キリストの脇腹を刺したローマの兵士長、ロンギヌスが十字架を見上げて「確かに彼は神の子だった」と叫ぶ瞬間

聖遺物は、磔のキリストを刺した槍の穂先

彫像の高さ、4.4m、全体を4つの部分に分けて彫刻(右肩、右側のマント、左後方のマントに継ぎ目がある)

制作は、モデル作成に4年、弟子がモデルに従って大理石の彫刻に従事し3年、最後にベルニーニが多少手直し・・・計7年。

この台座の下は、地下洞窟(グロッタ)への入口になっている。

次は、聖ヘレナの像

聖遺物は、聖ヘレナが発見した聖十字架の断片

次は、聖ヴェロニカの像

聖遺物は、聖ヴェロニカがゴルゴだの丘の上に向かうイエスの顔の汗を亜麻布で拭いたとされる布。

各彫像の高さは、4.5~5m、

次は、聖アンデスの像

聖遺物が聖アンデスの頭部

これらの支壁の彫像は、約10年かけて完成しました。

ベルニーニは、他にもサン・ピエトロのためにマルティダの墓(1637年)、教会入り口上部の浮き濠

「わたしの子羊を飼いなさい」(1647年)などを制作していますが、多忙で弟子が中心に制作しているようです。

教皇のお相手から、肖像彫刻、祭事の企画、自らコメディを上演したり、活動は多岐にわたり人生を楽しんでいたようです。

ベテランの域に達すると、掛け持ちが多くなり作品が年代別に仕分けするのが困難になって来たようです。

さて、上のプレートは、この文様の間から地下のペトロの墓が見えるとのことでした。

 

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ナヴォーナ広場

2021-04-24 | 旅行記

・・・野沢温泉にもスキーにも行っていないのに、いつものように季節が移っていき、スタッドレスタイヤを外した。

大きなグランドに、人文字?・・・、

富山県の砺波(トナミ)が有名ですが、

ベルベット地のような、

ドラゴンフルーツのような

変わり種、新種?・・・色々あるんですね

東京では4月上旬~中旬

週末にはカメラマンも

八重桜と共演、春の風物詩チューリップ畑でした。

亀戸天神の藤棚・・・根津神社のつつじ、・・・そしてアヤメ、花菖蒲・・・江戸名所がたくさんなのですが

しかし、コロナ対策で初夏の都立公園や庭園が休園になってしまったのが、残念

・・・ベランダでは薄紫のライラックが上旬に咲き終わり、君子欄の季節、一部の胡蝶蘭が咲き続け

ハイビスカスやアマリリスは植え替えてくれ・・・と、多忙な週末が続きました。

・・・ウーン、何故かモチベーションが上がらず・・・パソコンは修理をせず半年も放置、古いVAIOを使い続けている。

昨年、日本人ドライバーが Fー2で3人も頑張っているのでDAZNで応援していたら、新人20歳の角田君が3度優勝した。

HONDAの育成ドライバーでありRedBullのジュニアチームに所属、Fー2の最終戦で優勝して、F-1のシートを獲得した。

今シーズンは3月末から始まり、初戦で9位入賞と大物の片りんを見せています、3戦目の今週末は、好結果の予感!

・・・自宅で巣籠しながら、大谷翔平選手や角田裕毅君ら海外で活躍するヒーローがリアルタイムで視聴できる喜びと・・・、

香港、ロシア、ミャンマー・・・監視社会の弾圧下、為政者に情報操作され、それでもデモに参加する人々の映像が流れる、辛い状況に心が痛む。

・・・ベルニーニにも辛い時期がありました。ローマ再発見の旅の続き・・・

新教皇からの依頼は3年強 無く、ベルニーニに替わって彼の下で働いていた建築家のボロミーニが多くを依頼されていました。

公職の仕事が無くなったこの時期に、ヴェネツィアの新依頼主を喜ばした作品が、コロナール家の人々まで登場する礼拝堂で、聖女テレサの法悦の瞬間でした。

この作品と前後して、先年亡くなったウルバヌス8世の墓を1647年3月1日、サン・ピエトロ大聖堂内に完成し、除幕されます。(別途)

さて話題は変わって、「天使と悪魔」では、「火」の次は「水」・・・古代ローマ時代の競技場跡に造られたナボーナ広場の噴水に向かった。

上図の赤線の軌跡は、最初に向かったのが、中央下の部分のパンテオン(ラファエロの墓がある)、

しかし「土」は中央上部のサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の「キジ礼拝堂」サンティの土の墓だった

そして、次の「空気」はサン・ピエトロ大聖堂の広場、「ウエスト・ポネンテ:西風」

・・・次の「火は」画面右端の「サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア」コロナール家の礼拝堂、「聖テレサの法悦」

そして、パンテオンの隣、幅50m、長手方向は260mのナボーナ広場の「水」だった。

ここは広場の南の端、ローマ帝国時代に騎馬戦車レースが行われた場所という、こちらがスタート、奥でUターンのようです。

手前の噴水はムーア人の噴水と呼ばれる。(ムーア人:北アフリカのベルベル人)

この噴水と北側にある噴水(ネプチューンの噴水)は、ベルニーニが生まれる少し前にポルタが水盤を整備していました。

そこにベルニーニのムーア人のスケッチを元に彫像が作られ、1654年頃完成しています。

広場の中央に進むと、高さ17mのオベリスクが噴水の岩山と一体になっている、地上からは30m以上はあるでしょう。

現代では鉄骨で枠組み、プラスチック(FRPなどで)の岩山を簡単に造れるが、当時は自然石です、内部をくり抜いて・・・。

オベリスクは他の場所で6分割になり転がっていたのを、この場所で組み上げた・・・そして頂きには、十字架?ではないようです。

鳩がオリーブの小枝を口にしている、この鳩は、教皇イノケンティウス10世(パンフィーリ家出身)の家の紋章であった。

・・・この広場に面してパンフィーリ家の宮殿があったので、新教皇イノケンティウス10世は、その改築とそこに自家の教会を建てようとします。

広場中央の噴水製作に至る経過は、・・・別の場所で倒れているオベリスクを組込んだ噴水ができないかと・・・デザインコンペが開かれた。

ベルニーニは、教皇から声も掛けられなくて、コンペはボロミーニの案が選ばれた。

パンフィーリ家の娘婿にあたるベルニーニの友人ルドヴィーンが、オベリスクを組込んだ噴水の模型をベルニーニに創るように勧めます。

出来上がった銀製の模型を、・・・さり気なく教皇の目に触れるところに置いたら、・・・これは?・・・

教皇は・・・長い間うっとりと眺めて、ベルニーニの作品だろう、先般のウルバヌス8世の墓の除幕式でも感動していたのだった・・・。

直ぐにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の製作を命じたそうです。

・・・ベルニーニは、ようやく第一線に復帰します、そしてこの後、教皇は自分の肖像まで・・・お願いすることになります。

ドーリア・パンフィーリ画廊蔵、大理石のあごにひび割れが・・・作り直したので同じものが2点残っているとのこと。

「四つの河の泉」内部を空洞に加工した岩山、この四隅に四大河の寓意像をミケランジェロに対抗するかのように肉体で表現しています。

ヨーロッパ(ドナウ)、アジア(ガンジス)、アフリカ(ナイル)、南アメリカ(ラプラタ)・・・17世紀当時のイタリアから見た四大陸です。

ここは南側からですが、角の寓意像が解り難いので、少し左に回り込むと

手前の寓意像はオベリスクを見上げている・・・ヨーロッパの河川、ドナウ川のようです

 

西側まで回り込むと、右がドナウ川の寓意像でした。

ヨーロッパの動物の代表として、岩山の間から馬が見えます。

左は・・・何故か後ろにのけぞって、良く分からないが・・・南米の河川ラプラタ川のようです。

南米はキリスト教の布教先です、かたわらにコインを散らしてその金銀の豊かさを示しているそうです。

これが北側・・・、右側の寓意像、ラプラタの左手は危険を察して何か防ごうとしているようにも見えます

そして東側に回ると、水の豊かさを表すオールを持っている左側の寓意像は、ガンジス川とされます。(アジア)

オールの下側に蛇がいて、これを従えさせているそうです。

岩山の間には、ライオンが、・・・上部にはヤシの木・・・右側はナイル川(アフリカ大陸)のようですが目隠し状態です。

エジプトからナイル川を遡っても上流の水源が隠れて見つからない・・・そのような状況の寓意像です。

馬とライオンとヤシの木はベルニーニ本人の作で、他は弟子が3年くらいで完成させ、1651年6月14日に除幕されました。

たちまちローマの名所となり、1年の間にこの噴水を称賛する書物が8冊も出版されたそうです。

ローマ、ナボーナ広場 2021年4月27日 屋外のテラス席だけ営業が再開され、テーブル席は3人までと・・・また笑顔が戻ってきたようです。

かつても、この噴水の両側で多くのテーブルが並び、ローマっ子はこれらの彫刻をネタに話題が尽きなかったことでしょう。

上は霧雨の2019年、下は晴天の2011年

噴水の横に建つサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(上の左側)が倒れてきそうで見ていられないと、ナイル像が頭から布をかぶっているのだ。

「今にも教会が倒れそうだ」と、ラプラタ像が教会が崩れ落ちてくるのを手を挙げて防いでいる・・・

上記の2画面は、動画から切り出したものです。

教会が崩れてくる・・・あわててのけぞるハゲ親父 なども、改めて見てみると、そうとも受け取れます。

教会の改修は、途中から優秀な建築家のボロミーニがファサードなどをデザインしていますが、蹴落とそうとしたベルニーニにまたも敗北した。

危ないと左手を挙げているのは、まだ完成していなかった教会側が西に当たり、西日をが眩しい南米のイメージとする説もあります。

さて、教皇家の紋章、鳩の向いている方に秘密集会所・・・向いている先は・・・サンタンジェロ城があり、イルミナティの秘密集会所でした。

この噴水の完成までに、色々あったのを多少知っておくだけでこの場所に2~3時間はウロウロできそうですが、当時の市民は・・・

教皇からこの後、増税されて、小麦の価格は日に日に上がり、芸術よりもパンをくれー、悲鳴が上がるようになりローマ経済は悪化していく。

教皇は、ベルニーニを毎週のように招いて数時間歓談するのを常としたようです。

ベルニーニは、趣味も多彩、知識も豊富、社交的で招きに応ずることが、スポンサーに対する接待でしょうから、付き合いも大変です。

社交的でマルチの才能の持ち主ベルニーニ と 孤独で頑固な職人ボロミーニの関係は・・・、

レオナルドとミケランジェロの関係と似ていますが、ボロミニーニはミケランジェロほど強くなく、人生を終えています。

ベルニーニは、晩年ここを通り過ぎるときに、馬車のとばりを閉め、「こんな貧困な仕事をして何と恥ずべきことか」と漏らしたと伝えられる。

ダイナミックな作品ではあるが、偶像に魂は吹き込めなかったのでしょうか、弟子の力量に対する不満ではないでしょうが。

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激務から離れ、傑作を

2021-03-17 | 旅行記

ベルニーニは、劇作家兼主演として晩年まで上演していますが、劇中劇などの凝った仕掛けが好きだったようです。

自分の作品を見て驚く人々、その光景を見て喜ぶ人々、どこまでが現実でしょう

・・・劇中劇がストップモーションとして表現、理解するのは基礎知識が必要?

「天使と悪魔」で「火」と関連付けられたベルニーニの作品に合えたのは、2011年でした。

ローマのテルミ二駅近くのホテルから、ボルゲーゼ公園の方に歩いて10分くらいの所に目的の教会はあります。

ハサードの壁が大きい印象がありました・・・ヒョットして閉鎖中、あの工事中の建物では・・・

近づくと、特段の表示もなく・・・、親切に名称が表示されていました。人気があるのです。

訪問したのは多分、朝の9時半ころ・・・入れそうです。

帽子を外し、静かに入ります。

教会内には先客がいました、何と10代の生徒が数人だったでしょうか、引率の先生が正面祭壇左の場所で説明していました。

・・・前年にイタリア各地を旅行した後、印象的なイタリアのニュースを目にしていました。

イタリア政府観光局が、地元の芸術資産に国民があまりに関心を持たないので、切り取って持っていくぞ!と警鐘を鳴らしたのです。

多くの観光資源が、日本のTV局を始め海外から資金援助を受けて、何とか修復が可能な厳しい状況にあったようです。

芸術の国です、この取り外す発想が気に入り、何故かこのキャンペーンが非常に印象に残っていました。

・・・さぞやこんな風に「最後の晩餐」を切り取りたかったでしょう。

芸術後進国だったフランス国王、評判だった「最後の晩餐」を見に行き、何とか持って帰れないか? と配下の者に・・・、

侵攻してミラノを支配下にしたルイ12世、完成直後の「最後の晩餐」は、壁に描かれていたので持ち帰れなかった。

・・・さて教会内部は、天井の白大理石が。輝いています

外観からは想像できないくらい、華美な装飾に驚く。

勝利を讃えています、

キリスト教を信心して勝利した、そんな由来のようです。

見たい所が混んでいるので、反対側を見ると・・・nnn!

コピーのようで、・・・何か違う、全く違う、・・・何故? 天使と老人?賢人?

ベルニーニの作品と雰囲気を合わせて、弟子の作品? いや、ベルニーニの工房が許可していないでしょう、

後年、ここの礼拝堂の所有者が・・・似たような雰囲気でと彫刻家に頼んだのでしょうか?

こちらも題材が不明ですが、・・・子供がたくさん登場しています

他にも色々装飾物があって、

頭が疲れたころ・・・目指す礼拝堂の前が空きました、移動しましょう

・・・そうです、こちらが、ベルニーニの有名な作品です

もう少し正面に移動しましょう

(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄著では、この作品全体構成について記されています)

ヴェネツィアの元大司教で名家のフェデリーコ・コルナーロが好意を寄せていたアヴィラの聖女テレサが創設したのが、跣足カルメル会の教会です。

このサンタ・マリア・デッラ、ヴィットーリア教会も跣足カルメル会のようです。

ローマに住み始めていたコロナーロは、1647年にこの教会の左翼廊部の権利を取得します。

ここに自分の墓を、立派な礼拝堂飾るには、・・・あの人は受けてくれるでしょうか。

新教皇イノケンティウス10世が即位して、旧教皇派の人脈は公的仕事を外されていました。

ベルニーニは、亡くなったウルバヌス8世の墓碑の仕上げが残っていましたが、この礼拝堂を快く引き受けます。

そんな事情でベルニーニ工房の請負仕事ではなく、ベルニーニ本人に余裕が出来たので制作に携わった作品としてあまりにも有名です。

ここでは主祭壇の聖女テレサの作品以外に、周囲まで、良く分からないとエッそんな所あったとなる全体像を見て戴きたいので、資料を・・・。

このワイドな画像は撮影できなかったので、Wikipedia より拝借、・・・加工しています

この礼拝堂は特殊で、十字の奥に後塵、左右に翼廊・・・この翼廊の奥行きが無くて、礼拝堂にしては左右が広い。

中央の作品に目が行くので・・・両サイド、画像では鏡のように見える両端部までグルっと見渡す余裕もなく、中央部に引き込まれます。

天井から降り注ぐ光線の効果もあり、天使の矢 と 雲に浮いたような 聖女テレサ の表情に目が釘付けになってしまうのです。

この聖女テレサは、16世紀のスペインで実在した方で、神秘体験、幻視と法悦を「自叙伝」に記しています。

法悦、エクスタシー・・・神秘体験を見事に表現していますが、一部の教会関係者からは、相応しくないと批判も出たようです。

そこで、どのような体験なのか・・・(東京女子カルメル会訳 第29章13の一部抜粋)

私は金の長い矢を手にした天使を見ました。

その矢の先に少し火がついていたように思われます。

彼は、時々それを私の心臓を通して臓腑まで刺し込みました。

そして、矢を抜く時、一緒に私の臓腑も持ち去ったかのようで、私を神の大いなる愛にすっかり燃え上がらせて行きました。

痛みは激しく、先に申しましたあのうめき声を私に発しさせました。

しかし、この苦しみのもたらす快さはあまりにも強度なので、霊魂は、もうこの苦しみが終わることも欲まなければ、神以下のもので満足することも欲しません。

これは肉体的な苦しみではありません。

霊的のものです。

とはいえ、肉体もいくぶん、時には相当多くさえ、これにあずかります。

これは神と霊魂との間のきわめて快い愛の交換で、私は、私の言葉に信をおかぬ人々に、このお恵みを味わわせてくださるよう、主の御憐れみを切願しております。

・・・16世紀はキリスト教の半分がプロテスタントに移る時代で、これを阻止するにはこのような信者の体験談は有用で、彼女は聖女となります。

ベルニーニは、作品の除幕式で顧客と観衆の感嘆の声が湧き上がる・・・この一瞬が仕事冥利につきることでしょう。

20代から歴代の教皇や、ローマ市民を楽しませて来ました。

肖像彫刻は特にベルニーニの人気が高く、他国の国王でさえ依頼するのに四苦八苦、

・・・今回は縁あったヴェネツィアの顧客、名門一族に作品に登場して頂こうとリップサービスしたのでしょうか。

この礼拝堂の主祭壇は、奥の壁を壁龕(ヘキガン)のように削り、奥行きを出しているようです。

天井には空と雲、天使、隠し窓から得意の外光を取り込み・・・天空に昇天する仕掛け

そして・・・左右の壁が劇場の桟敷席になっています。

この人々は、コロナーロ家の人々で、依頼主の父は元ヴェネツィア総督、他に一族から枢機卿が6人、依頼主と合わせて8人が左右に。

左の画像が無い・・・。

この画像は、魅惑のローマ グラフィック社 1991年から拝借、

ここまで、周囲を鑑賞できると良いのですが、少し高い位置にあるので予備知識がないと・・・劇場の桟敷席まで礼拝堂なのです。

この教会には、聖女テレサのコーナーがありました。

ベルニーニは、コロナーロ家の礼拝堂の除幕式以降、この教会では、神様の扱いでしょうね

・・・そうでした、「天使と悪魔」でこの礼拝堂が「火」でしたが、聖女テレサの「天使の矢に火が・・・」とありました。

「火」の次は、「水」のようです。

新教皇は、鐘楼にひびが入った責任がベルニーニにあると追及したボッロミーニに、ナヴォナ広場の噴水を依頼していた。

この広場の噴水が、ベルーニーニの「四大河の噴水」案に突如方針変更となります。

さすがベルニーニと新教皇が一転して彼の才能を再認識、・・・今後とも何卒よろしく、・・・そこには、友人の援助がありました。

・・・急に気温が上がり、3分咲でしたが、この広場の大木は

青空をバックに、一斉にほころんで、咲き誇り始めました。

コロナ菌は天空に吹き飛ばし、まだふっくらと柔らかそうな花弁、雌しべと取り囲む雄しべ

子孫を残す、この自然界の法則に・・・何故か逆ら必要性が求められた一部の上級聖職者、

その結果、聖職者の異常な不祥事となって噴き出すことが度々あるようです。

お口直しに、華美な教会で思い出しました

ドイツ南部、ロマンチック街道、フッセンの近くに・・・ビース教会 世界遺産です。

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サン・ピエトロ広場の完成図

2021-02-28 | 旅行記

オッ!・・・何だこれ

上図はファルダの版画より (ベルニーニの完成図を描いたものと思われます)

現在は遠目からクーポラが見え、やがて正面に聖堂が見えてきて、ヴァチカン市国に入る手前で広場と左右の柱廊が目に入る状況です。

ベルニーニが意図したこととは、現状の開放的な広場とは全く違うようです。

閉ざされていて、つまり広場があるか否か、内部がどのようになっているか・・・緊張して入り、驚くのは・・・中に入ってからのお楽しみ。

そうです、はるばる遠路、何か月も仕事を休んで、生死をかけて巡礼者がローマのカトリック教総本家にやって来るのです。

まだ免罪符を求めて来られる方も多かったでしょう。

旅の感動がお土産です、おもてなしは、より大きな感動を味わって戴きたい。

ベルニーニはオペラの自主上演も大好きで、自分と工房の素人役者が登場し・・・市民に人気がありました。

舞台装置のアイディアも催事の演出も・・・人々を感動させるのに重要です、・・・広場は劇場に、教皇登場の演出も考えていたのでしょう。

・・・アレクサンデル7世教皇は、この広場の完成前にフランスからベルニーニが招待されました・・・今度は断り切れなかった。

フランスからルーブル宮の設計コンペでイタリア人の4名にも声がかかり、ベルニーニも提案していました。

フランス建築責任者も国王ルイ14世も、66歳の偉大な芸術家ベルニーニに詳細設計をして頂くために、教皇の許可を取り大使級の待遇で招きました。

1665年4月25日、ローマを発ち、・・・6月3日パリに到着、この後フランス側の通訳による滞在日記がベルニーニの人物伝を記録しています。

ルーブル宮の建設予算200万フランと聞いて、教皇の大使はサン・ピエトロ広場の柱廊に500万、でもこれは単なる装飾ですと言ったとされる。

宮殿の詳細になると豪華さよりも住居としての実用・機能性を担当者から求められ、フランス人建築家の反発もあり・・・進捗せず。

ルイ14世はそれよりも、かねてからの肖像をお願いすること、こちらが重要でした。

ベルニーニは肖像に40日かけて、10月5日、・・・王の肖像が完成しました。

後の太陽王ルイ14世は、この時26歳、ルーブル宮建設の熱意は冷め・・・後に郊外に、豪華なベルサイユ宮殿を建てます。

この太陽王の胸像は、現在はベルサイユ宮殿に置かれ、このように目立ちます。

10月17日、ルイ14世も立ち合いの上、ルーブル宮の起工式、・・・式典がすんだのでベルニーニは、10月20日パリを離れ12月3日ローマに到着。

さて、サン・ピエトロ広場の進捗は、東西の柱廊の外観が出来上がりつつあったが、まだ未完成の段階でした。

・・・1667年5月22日、教皇アレクサンデル7世が世を去りました。

ローマ市民の暮らし向きも厳しく、豪華な聖堂は必要ない、パンをくれ~・・・、多くの芸術家は仕事がほとんど無かった。

次の教皇クレメンス9世から広場の工事の継続と、このヴァチカンに入るテベレ川に架かるサン・タンジェロ橋の整備・装飾を依頼されます。

当時はテベレ川を渡る橋はここだけで、橋の装飾は130年ほど前に聖パウロと聖ペトロが飾られただけだった。

教皇は、巡礼者の導入部として、この橋を「受難の道」としよう

聖天使の橋(サン・タンジェロ橋)だから、その天使にキリストの受難の持ち物を10種持たせよう。

サン・タンジェロ城の屋根の上、天使ミカエル像です。

橋が架かるこの場所に、135年にローマ帝国のハドリアヌス帝が壮大な建物を築きあげた、それは皇帝の霊廟だった。

各地によくある話ですが、6世紀ローマにペストが流行して、・・・終結にあたって、天使ミカエルが現れたとされる。

・・・そこで天使ミカエルの像が建物の屋根に取付けられて・・・聖天使城と呼ばれた。

新教皇クレメンス9世と教皇側から発注されたのは、橋の修復と天使像を10体、製作の統括は68歳のベルニーニです。

そこで、8体はローマで活躍中の8人の彫刻家に委託し、残る2体をベルニーニが自分で担当しています。

教皇は作品が気になり歴代の教皇と同様、枢機卿を伴いベルニーニの工房を訪れ、「こんな傑作を風雨にさらすのは忍び難い」となりました。

現在この2体(INRIの銘を持つ天使、いばらの王冠を持つ天使)はサン・タンドレア・デレ・フラッテ教会の身廊奥、台座上に置かれています。

橋の途中です、手前から2列目から奥の5列目まで見えます、この左側2列目が「いばらの王冠を持つ天使」です。

ここには弟子による複製が当初より据えられています。

左の4列目(奥から2列目)が「INRIの銘を持つ天使」で、この複製にはベルニーニ本人の手が入っているので完成度が高いと言われます。

こちらが、教会の「INRIの銘を持つ天使」ベルニーニ晩年、69歳ころの作品です。

夜の聖天使城・・・映画「天使と悪魔」では、枢機卿を誘拐しこの城の一角に閉じ込め、事件を次々に起こしていたのでした。

教皇は15世紀にバチカン宮殿からの避難路として、この霊廟を要塞化して回廊で結んでいます。(一部は城壁の上部を利用します)

1527年、ローマが神聖ローマ帝国の軍隊に包囲され、バチカンに危機が迫り・・・教皇は宮殿からこの回廊で要塞に逃げ込みました。

映画「天使と悪魔」でも夜間に、この聖天使城から城壁の回廊を走るシーンが印象的でした。

橋を渡り、サン・タンジェロ城の横をテヴェレ川に沿って進むと・・・大聖堂が見えてきました。

そして、大通りの先が、・・・

1935~1936年のムッソリーニ時代に・・・主に北ヨーロッパからの巡礼たちが住んでいたボルゴ街区をつぶし・・・一直線の大通りに。

17世紀の光景は、・・・巡礼者はテベレ川を渡り・・・サン・タンジェロ城から小さい建屋が並ぶボルゴ街区に入ります。

建物の間から、・・・遠くに見えるクーポラの頭を目指して歩み始めます。

そして、突然目の前が開けると、 神殿風の柱廊が立ち並び、唖然として柱頭の上を見上げる、無数の大理石像が迎えてくれます。

非日常の空間に戸惑い、立ちすくんでいると周りから促され、内部に入る・・・オベリスクに噴水、周囲は神殿の壁・・・強く瞼に焼き付くでしょう。

教皇は降誕祭と復活祭の大きなイベントの際、この劇場だと数万人の信者が祝福を受けられそう、・・・このプランで大喜びですよね。

柱廊は、高さ13mの円柱が240本・角柱が44本(素材を切り出し加工です)、柱廊の幅が17m、卵型の長軸が240m、内側の広場は最大幅196m。

柱廊は南北が完成するまでに何と・・・11年、他に聖人像は・・・140体もあります、ベルニーニの噴水も新設して対になるように。

・・・教皇クレメンス9世は、短い治世で、・・・2年半後、1669年12月9日亡くなります。

教皇庁の財政も厳しい時代、新教皇は4か月も決まらず、やっと長老の81歳、ローマの枢機卿が選ばれました。

次の新教皇クレメンス10世の時代は・・・ゆとりは無く、芸術の火は消えました。

しかし、新教皇の親族アルベルトーニ枢機卿が、当然のごとく、・・・まずは自家の礼拝堂の装飾をベルニーニに依頼しています。

1671年1月に自家が生んだルドヴィーカ・アルベルトーニ(1533年没)が未亡人となった後、貧者に対する献身で新教皇から福者と認められました。

アルベルトーニ枢機卿の礼拝堂は、トラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会で、目立たない所にあります。

今回は、この教会で作品が見たかったので、時間を確認して訪問します。

現在地は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会、ここからテヴェレ川を下流に・・・小雨の中遊歩道を小走りにジョキングです。

向こうに見える橋を渡り、対岸に行きます。

モダンな連結したトラムが走っていました。

橋から教会は、この先路地2本くらい先を右折して少し先の右側、400mくらいでしょうか。

さて、目的の教会外観の静止画が見つからない、・・・多分、この付近はSonyのビデオ動画だったが・・・どこかに?

この先、

Googleから借用します。小さな、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会です

内部は、誰も 見学者も参列者も見当たらなかった。

平日の昼前です、主祭壇の左側が明るい・・・そこが目指す礼拝堂です。

ロープが張られ、祭壇までは結構距離があった。

礼拝堂は15世紀の建築のようで、クーポラに祭壇画、そして両サイドにも絵画がある立派なたものです。

写真で見た通りの、ベッドに横たわる福者が・・・、その部分だけ輝いて見えます。

1671年~1674年頃、ベルニーニ 70代中頃の作品です。

ベルニーニは、暗い奥まった祭壇の両脇に、窓を開けて光を取り入れています。

ベッドの下はコーラルレッドのような素敵な色大理石です、ヴァチカンの礼拝堂でも見かけました、

この上の白い大理石が・・・採光を受け、輝いて見えるのです、福者ルドヴィーカが主役です

ルドヴィーカは1473年生まれ、20歳で結婚、3人の子に恵まれるが33歳で夫が亡くなり・・・3人の子を育て上げ

宗教活動に入り、貧者に対する献身で福者とされ、1533年、60歳で亡くなった実在の方のようです。

ベルニーニ、72歳~75歳の作品、本人も死と向き合いながら、福者を・・・安らかに旅立つ姿か、神との法悦と表現するか

いずれにしても、ミケランジェロを超えた・・・感性の鋭さ、表現力に驚かされます。

・・・後ろで、オルガンの演奏が始まりました。信者の方も見えています。静かに退室します。

教会を出て、テヴェレ川の1本上流の橋を渡り・・・「真実の口」で有名な先ほどの教会に戻ります。

この教会の前に噴水があります。トリトン(トリトーネ)の噴水です。

1642~3年頃、ウルバヌス8世の実家の前に当たるこの場所に、教皇がベルニーニに造らせていました。

ローマの復興時期、道路の整備と共にローマ帝国時代の水道を整備したので、ベルニーニはローマ市内に噴水の名所を数多く

創り出しました。

正面の鐘楼(12世紀前半建立)のある教会の道路に面した回廊の左端に、「真実の口」があります。

それでは、ベルニーニの晩年のその後は・・・、

1676年7月22日、予想外の6年に渡り治世された教皇が亡くなり、・・・次の教皇は9月11日、イノケンティウス11世が即位する。

イノケンティウス11世が新教皇に就任すると、サン・ピエトロ広場は舗装工事が終了していたので、このままで十分と最後の東側の施工は中止となってしまいます。

「天使と悪魔」では、風のシンボルを探していました。

このオベリスクの周囲を探してみましょう。周囲にこのような装飾があります。

この風は、

これも違いました?

西風でした。

さて続きのローマ観光は、ベルニーニの作品を追って「天使と悪魔」の次の場所へと行ってみましょう。

テルミ二駅から徒歩でも行ける所になります。

サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会に行きましょう。

画像は2011年の訪問時ですが、外壁は修理中でした。

ベルニーニが一時期、新教皇からの仕事が激減した期間に、元ヴェネツィアの大司教から依頼を受けた礼拝堂の作品です。

土、風、火でした。・・・1652年、ベルニーニ53歳ころの作品となります。

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ベルニーニ、広場は未完成のまま今日に

2021-02-27 | 旅行記

ローマは見飽きることがない、2、3度訪れたくらいで、多くの教会までは開館時間の制約もありなかなか拝見できそうにない。

はるか昔、ギリシャ文明では既に彫刻・建築の完成度が高く、ローマ帝国時代では壁画に遠近法も取り入れられていた。

これらの遺産がローマの地中から出土する・・・この異教の芸術作品を競って枢機卿や教皇が購入し、17世紀は芸術活動に投資が続いた。

16~17世紀の教皇や枢機卿は最初に何をしたかったのでしょう?

・・・自分や一族の墓所を由緒ある教会に持つこと、そして一流の芸術家に礼拝堂を豪華に飾って欲しかったのです。

彼らに富が集中し、その富は礼拝堂と芸術コレクションの収集に流れ、世は階級社会のまま繁栄したようです。

1605年、ベルニーニの一家がローマの(現テルミ二駅近く)サンタ・マリア・マッジョーレ教会横にナポリから引っ越してきました。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会の後陣が見えます。

この通りが、リベリアーナ通りで、右側の手前の角の一帯でしょう、ここに住まいを定めていたようです。

住所は24番地とあります。(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

教会の両側に、大きな丸屋根クーポラが見えます。

左に少し見えるのが、シクストゥス5世(この教会から放射状に道路を拡張するなど公共事業に邁進された教皇)のシスティナ礼拝堂、1585年完成。

右がボルゲーゼ家出身のパウルス5世が建てたパオリーナ礼拝堂、1606年完成

このパオリーナ礼拝堂の装飾が、ベルニーニの父ピエトロの仕事でした。

・・・ローマ帝国によってキリスト教が公認されたのが313年、その後、皇帝により次々に教会が建てられますが、この教会は特別でした。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会、こちらが正面(ファサード)です。

この教会には逸話があり、356年夏、当時の教皇が「数日のうちに雪が降る地に聖堂を建てよ」という聖マリアのお告げを夢の中で聞いた。

そして8月に雪が降ったという地に建つ教会で、建造は5世紀、イエスの母を聖母として祀る最初の教会だったでしょう。

その後修復と増築が繰り返され、豪華なファサードは18世紀に改築されています。

歴史のあるローマの四大聖堂の一つです。

パウルス5世は、枢機卿時代からこの由緒ある教会に礼拝堂を持ちたかったので、元教皇と後陣の左右に建てられて大願成就です。

1623年、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「アポロとダフネ」の大理石像がローマ中に賞賛の嵐を巻き起こす中で新教皇が誕生します。

バルベリーニ家の枢機卿が55歳の若さで選ばれ、ウルバヌス8世誕生となりました。

ウルバヌス8世の肖像、左は教皇晩年の作、右は何か話しかけてきそうです。 (ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

これだけ味のある肖像を彫り上げるので、歴代教皇から当然のごとく肖像の依頼があります。

あまりに肖像は人気がありすぎて、フランス国王もイギリス国王も何とか頼めないかと・・・肖像画を送り、あの手この手で・・・、

さて、新教皇は、即位後すぐにベルニーニを呼んで、・・・以下の話も有名です。

「騎士ベルニーニよ、枢機卿マッフェオ・バルベリーニが教皇に選ばれたのは、お前にとって大きな幸運だ。

だがそれよりも大きな幸運は、騎士ベルニーニが我々の治世に生きているということだ」と言ったと伝えられる。

ダヴィデ像の製作中に・・・手鏡を持ってやることしかできなかった枢機卿が、シピオーネに遠慮せずベルニーニと仕事ができる。

・・・心底嬉しかったのでしょう。

教皇はベルニーニに、建築と絵画を学ぶように命じた。

ベルニーニは、古代建築の研究や絵画制作を2年間行っていたようですが自画像など残っているのは少ないようです。

シピオーネ枢機卿のデッサン(右)と即興の風刺画?カリカチュアと呼ばれた。

彼は8歳で教皇が驚いたデッサン力がありました、さらに左のように尊敬したカラッチの描き始めたカリカチュアで当事者を喜ばせています。

ベルニーニは2年半と短命だった前教皇(グレゴリウス15世)の時代、サン・ピエトロ大聖堂主祭壇の装飾で4体の天使像を作っています。

しかし、これらは仮設の祭壇の装飾であり、何度か作られ、式典が終われば取り壊されていました。

・・・聖ペテロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズ(高さ28.5m)で囲い、天蓋を乗せる案が正式決定され、実現させる事になります。

バルダッキーノと呼ばれるこの巨大構造物は、大聖堂の主任建築家のマデルノにではなく、若干26歳のベルニーニの才能に任せられます。

以降、歴代の教皇や枢機卿らの依頼でローマの各所に建築、彫像、噴水を造り、オペラや豪華な催事まで万能な彼は、ローマを造った人と言われます。

サン・ピエトロ大聖堂内部は、ベルニーニが大半の装飾を請け負い、多岐に渡るので、別途大聖堂関連として再度整理したい。

・・・1655年、新教皇アレクサンデル7世が誕生すると、早速自家のポポロ教会のキジ礼拝堂を完成させてと依頼としていますが(前回分)

この時期には、サン・ピエトロ大聖堂は内部もほぼ完成していました。

残る問題は、教皇が聖堂や宮殿から、集まってくれるできるだけ多くの信者を前に、祝福できる場所が必要だった。

教皇は1656年、聖堂前の変形の広場を拡張し、少し斜めの宮殿などを壊さず、大聖堂のファサードを引き立てる広場の案を求めた。

当然のように事務方は、・・・ベルニーニにプランの提出を命じた。

下図のように、横長の変形の広場で聖堂ファサードは東向き、北側に少し斜めに宮殿などの重要な建物が並ぶ。(身廊部は未完成時の様子です)

下図は、もう少し後の様子です。

・・・聖堂の身廊部が長くなり、ファサードと鐘楼が建造中、広場にはオベリスクとマデルノの噴水が1基みえます。

1646年頃でしょう、鐘楼が取り壊されていませんので、当時の版画(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

この鐘楼は、途中で放置された物をベルニーニが引き継ぎ完成させますが、基礎工事が不十分でひび割れ発生した事件がありました。

ライバル建築家などから非難を浴び、ライバルも含む多くの改善案は教皇が採用せず、結局取り壊されて鐘楼を持たない教会となります。

思ったより雑然としている感じ、クーポラも建物も先に完成していたフィレンツェの花の大聖堂の方が綺麗と言われそう。

ベルニーニの最初の案は、台形の広場だったようですが、・・・すぐに下図の案で構想を説明し、対になるように噴水を追加します。

ファサードからセリ出る台形の部分と柱廊が両手を広げて信者や異教徒まで母のように受容する広場を一段低くしています。

少し低くなった広場に入ってくると・・・聖堂を少し見上げる感じでしょうか、宮殿からの祝福も広場から見えるようになります。

美を追求するベルニーニは、美とは目に最も快く、それ自体完全で、(独立した円柱の・・・柱廊の上部は上から見ると)円形を指す。

まずは広場の正面端から右を見てみましょう

中央にオベリスクが建ち、聖堂のクーポラも見えます。

次に左

少し内側に進むと・・・こんな感じ

4列の柱頭が並び、ギリシャ神殿のように、・・・伏見神社の千本鳥居の雰囲気も

広場中央のオベリスクから右の噴水に向かって進むと、地面にマークがあります。その地点からの眺めが

円弧上に4列の柱頭があるのですが、同心円ですべて重なり、中央に噴水左右に綺麗な美が作られています。

バチカン美術館の模型で見てみましょう。

実に綺麗な卵型です。

クーポラからの実際の眺めが

素晴らしいサン・ピエトロ広場ですが、ベルニーニは完成に向かって、最後の資材の調達が必要でした。

まだ未完だったのです。

近年までこの状態でした。

広場は現在と変わらないですが、・・・。

彼の完成予想図を・・・どこかに・・・あるので、早急に追記します。

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ローマを芸術の都に!

2021-01-27 | 旅行記

21世紀初頭、新種ウイルスが世界中に・・・黒歴史の真只中で新年を迎え・・・沈んだ気持ちで喪に服して、1か月

・・・この間、関心事はリーダーの資質、トランプ前大統領は、凄かった。

信者たちを囲い込み、この人達が最大の関心事、ライバルを罵倒し・・・商売人に見られるハッタリパターンのようです。

敬虔なるキリスト教徒の素振りで、全米人口の25%ともいわれる福音派(聖書中心の主にプロテスタント保守派の総称)の支援を受け当選

福音派の喜ぶ政策を次々に・・・、三大宗教の聖地・エルサレムに、争いの火種、イスラエルの首都移転を承認、アメリカ大使館も移転しました。

福音派代表ペンス氏を副大統領に据え、彼を唯一解雇せず側近として重宝してきましたが、今般、大統領選挙の敗北を潔く認めたことに激怒。

ペンス氏が上院議長として新大統領を決議するホワイトハウスに信者をけしかけ、煽られた子羊は、裏切り者ペンスを探せ、吊るせ・・・、

・・・今日は最後の花道とその場に家族を招いたペンス氏は、何と・・・ホワイトハウスが流血の争乱状態、死者も出る惨事に・・・なんて日だ!、

よく映画に登場する秘密の地下道?でしょうか、危機一髪、ペンス家族・・・脱出成功。

・・・判断を他人に任せて進軍した子羊は、尊師の言われるままに猪突猛進、信者の集団行動は恐ろしい

これは教団を持たない、ツイッターによる新たな洗脳、教団職員など維持費に苦労しない21世紀の新教団スタイルでは。

教団の権力者と統治に関心があるので、世界を動かしている人々と宗教を学ぶ必要を感じている毎日、

トランプ氏は刺激的なメッセージを発信し続け、信者を維持していますが・・・、権力が低下した今後に注目です。

・・・さて、ボルゲーゼ美術館、ベルニーニの活躍するチョット前に、ローマで話題になった人の作品も多数展示されています。

カラヴァッジォです。イタリア北部から復興中のローマにやってきて、絵画の才能が花開くのですが

ボルゲーゼ美術館【 第8室、「果物籠を持つ少年」1594年23歳頃の作品 】

生物の少し傷んだ部分をそのまま表現しています・・・生き物は朽ちる、発想の新鮮さ、正確な描写力、

当初は画家の下働きで、ジプシーのような環境で描いた作品が、モンテ枢機卿の目に留まり道が開けた

シピオーネ枢機卿も若きカラヴァッジォの才能を認め、絵画を発注しています。

カラヴァッジォはやがて、金に不自由なくなると街に繰り出し、・・・なぜか素行が悪かったようです。

傷害事件や剣の不法所持の記録が残っています。伝わるところでは絵の制作は1週間、街で楽しむのが3週間、

1606年、35歳ころ決闘で相手を死亡させ・・・なんと死刑判決が出て、・・・逃避行、

最初はローマ南東の貴族の館に逃げ、作品を描きながら

 

【 第8室 「ゴリアテ(カラヴァッジォ自画像)の首を持つダヴィデ」1609-1610頃の作品 】

逃避行は南へ続き、ナポリ、マルタからシチリア島へ

・・・絵筆を持ち、作品を残しながらローマに恩赦を願い出ていました・・・

恩赦を願っていた先が、教皇の甥、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿、彼は大きな権限を与えられていました。

カラヴァッジォの作品は、この美術館に22歳ころの自画像や、聖ヒエロニムスなど数点展示されています。

ところで収集家のボルゲーゼ卿は、権力を利用して強引に作品を持ち帰ることも・・・貪欲な面もあったようです。

下のラファエロの作品も、

【 第9室 ラファエロ 1507年 「キリスト降架」1507年 】

この作品には、周辺部があったようです

1507年、ペルージアのサン・フランチェスコ教会の大祭壇画として描かれ、教会に掲げられていました。

・・・101年後(1608年?)夜間・・・密かに祭壇画が外され、・・・不法に持ち出されてしまいます。

ローマ教皇パウルス5世のもとに送られ、さらに甥のボルゲーゼ枢機卿に届き・・・この館で飾られます。

その後教皇国は、1797年ナポレオンに敗北、・・・多くの絵画など芸術作品がパリに行き、

・・・1816年、ローマに還付され、この作品は中央部がボルゲーゼ美術館に戻された。

概略そのようにボルゲーゼ美術館のガイドブックに記載されています。

すごいですね、この時期の教皇は・・・プロテスタント勢力と対抗しながら、権力を最大活用、系列の教会は訴える先がなかったのです。

他にも、当美術館の財産目録では、レオナルドの空気遠近法の効果などを学んだ多くの画家の作品群があり・・・

その中に師匠、レオナルドの作品【 レダ 】が・・・1893年まで300年間、・・・真筆と信じられて展示されていました。

この絵の帰属に関しては未解決とあります、レオナルドが亡くなった時点で未完であり、弟子サライの加筆か模写か、多くの説があります。

さて、復興中のローマに芸術の風を吹かせたカラヴァッジォの他の作品を見たいので、2019年のローマに戻りましょう。

少し霧雨模様のローマ市街を取り囲む城壁、かつては北からの訪問客はこの門を目指しました・・・ポポロ門です。

こちらは城壁の内側、・・・広いポポロ広場中央にオベリスクが立っている所からの景観です。

門に沿って右に見えるのは・・・鐘楼があり、教会です。

では、ポポロ門に近づき、門の横から教会を

古そうですね、1099年、教皇がポポロことローマ市民のお金で建立した教会なので、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会。

この教会は必見ですよ、巨匠の作品が沢山あります。

では入口から・・・中央の主祭壇、その左側の礼拝堂にライトがついていて、混雑しています。

手前の混雑の先、主祭壇の横の礼拝堂です。

当時絶大な人気だったカラッチ「聖母被昇天」です、色彩が鮮やかです。

巨匠カラッチは、バチカンの宮殿で古代彫刻のデッサンをしていた幼きベルニーニを

「他のものが年をとってようやく達する域に、この子はかく幼くして到達してしまっている」と舌を巻いたと伝えられています。

・・・幼きベルニーニは、・・・父親の彫刻作品と美しきギリシャ彫刻に囲まれてデッサンが遊びだった、恵まれた環境で成長します。

さてこの礼拝堂は、チェラーシ礼拝堂です。

両サイドのリアルな絵画は当時は人気がなかったようですが、現在は人気の画家カラヴァッジォの作品です。

「聖ペテロの殉教」初代ローマ教皇、ペテロです。

ローマの人々をモデルにして制作、ストロボを発光させた瞬間のような強いコントラスト

地面の描写、足の裏まで観察眼は鋭いです、

しかし、当時は現場を見てきたような・・・描写があまりにも生々しく、賛否両論・・・あったようです。

右側には、「聖パウロの回宗」、パウロがイエスの声を聴いたと言う場面、その後キリスト教に回宗する有名な場面です。

逃避行中の画家カラヴァッジォは、その後・・・ナポリからトスカーナに向かう途中マラリアにかかって、39歳で波乱の人生を終えています。

この教会は、まだまだ人気スポットがあります。

入口からすぐ左の礼拝堂、ドームを見上げる人々がいます

ラファエロ、天井クーポラのモザイクをデザインしています・・・ここは、キジ礼拝堂です。

ラファエロの設計になる、親交のあった豪商キジ家の礼拝堂です。

造られたのは16世紀初頭、ラファエロから約100年後、曽孫のファビオ・キジ枢機卿が新教皇に選出されると

1655年4月7日、キジ枢機卿は、新教皇アレクサンデル7世となります。

ベルニーニは、・・・1655年には56歳、晩年でした。(20代のボルゲーゼ美術館の作品から、ここの作品は50代でのお仕事です)

22歳で、当時の教皇から騎士の名誉を授かり、更に同年にローマのサン・ルカ美術アカデミーの会員に迎えられたベルニーニです。

この時代、教皇や枢機卿の周囲で多くの芸術家が仕事を求め、有力なライバルもいましたが、ローマの美術界に君臨していたのはベルニーニでした。

新教皇が誕生するや・・・日が沈む前に呼びます、・・・ベルニーニは、新教皇からキジ礼拝堂の整備を依頼されます。

教皇はそれ以外にもサンタ・マリア・デル・ポポロ教会も改修しよう。ここのポポロ広場もと次々に、

教皇に吉報が届いた、12月のクリスマス前にスウェーデン女王クリスティーナが、ローマにやってくる、その旅費をバチカンは援助していた。

女王は周囲と同様プロテスタントだったが、改宗してカトリックになるという、バチカンはこれは大イベントになる・・・

この話にローマ中が大歓迎することとなり、・・・準備は急だった、装飾はすべてベルニーニが担当、馬車もアレもこれも

まず、ポポロ門の改修もベルニーニに、・・・新教皇と女王の紋章を取り入れて豪華に装飾、

門の上部に「星がありその下を重なった六つの山」(これがアレクサンデル7世の紋章)

その下に花飾りが横たわり、麦が女王の紋章とのことです。

この女王はベルニーニのファンになり、1657年5月からローマに永住し、バルディヌッチに「ベルニーニ伝」の執筆を依頼しています。

・・・多忙で、キジ礼拝堂は完成が少し遅れました。

ベルニーニは祭壇の左右にあるニッキア(壁龕・へきがん)が4か所あり半分未完成だったので、これをまず完成させさせないと。

ラファエロのデッサンで左右の奥2対は「ヨナ」と「エリア」の像が完成していた。

そこで空の左右手前のニッキアに、有名ではないダニエル外典「ベルと竜」から作品を完成させます。

【 ハバククと天使 】

右腕が伸びています天使のようです、そして反対の手で誰かの髪をつまんで

何をするんだ!この人物は、預言者ハバククでパンを近くに持って行く途中、天使に捕まり・・・

この像は、物語の最初で右奥に据えるのが良い・・・目線は天井を進み対角線に・・・左手前に落とすと考えたのでしょうか。

反対側の手前に、相手の像「ダニエル」を据えよう。

既設の右奥の像を右手前に移して、1661年11月には「ハバクク」を据えて完了します。

一方、こちらがパンが届けられる「ダニエル」

【 ダニエル 】バビロンでライオンの穴に投げ込まれたダニエルに、天使に導かれたハバククが食べ物を届ける。

そんな、紀元前606年頃、ユダヤ教の物語とのことです。(カトリックの礼拝堂、ギリシャ神話は異教で論外です)

こちらは、1657年6月までには完成したようです。

2009年公開された「ダ・ヴィンチ・コード」の続編、「天使と悪魔」ダン・ブラウン作の大ヒット作品、見ました?

1668年の出来事、「ラ・プルガ」、当時の科学者4人(イルミナティ)をバチカンが公開死刑をした事件。

これへの復讐として4人の枢機卿が誘拐され、1時間おきの殺人予告、キーワード、「土」、「空気」、「火」、「水」

・・・このキジ礼拝堂が「土」で・・・床下で枢機卿の死体が発見される。ポポロ教会はロケを許可しないでしょう。

映画では、ポポロ教会は全面的に修復中で、外壁はシートの覆い、内部もパイプの足場が組まれ、ビニールで養生され、作業現場風景

床下から死体発見後「ハバククと天使」のビニールを外すと、天使の右腕が次の殺人事件の手掛かりを示していたのです。

・・・戻って、あのマルティン・ルターも、はるか遠方のドイツから憧れのローマにやってきた際は、このポポロ門から城内に入ります。

1510年、田舎の司祭は免罪符をたくさん買って、自分と家族の罪を帳消しにとやってきて・・・ローマの宮殿や聖堂に感激したそうです。

宿屋は、右側のこの教会・・・それから10年も経たない内に、ローマに巡礼に行かなくても・・・免罪符を買うだけで救われる?

本当ですか?・・・(本来は)祈りでのみ 救われるのでしょう! 教皇庁に質問したが、ルターの正論は認められない。

教皇庁の金集めの手段とバックマージンのうまみが無くなる、

・・・教皇は伝家の宝刀を使った。しかし、彼には破門と異端審判の脅しは利かなくなっていた。

そして、当時の教皇がドイツとフランスの対立を利用しようと画策した結果・・・、

神聖ローマ帝国皇帝カール5世が激怒し、その軍団がローマへ進軍・・・悪夢の出来事がありました

そんな、歴史を見てきたポポロ門です。

この右側の教会に沿って進み、正面の階段からピンチョの丘の上に登ると展望台・・・夕日が絶景だが、この日は霧雨だった

さらに90度、ポポロ門から入ってくると、ルターの時代はなかったが100年後、驚かせようとこんな風景になりました。

鏡に映ったような・・・中央で、別れて、左右対称の双子の教会と3本の街路がありました。

教皇アレクサンデル7世が広場を整備させ、1656年頃双子の教会案をライナルディに依頼したが、進展は遅かった。

右側は円形ドームで1661年基礎工事開始、左は土地の角度が右より狭く、ドームの幅が狭くなるので翌年着工へ

後年ベルニーニは、基礎のままの双子教会の問題点を指摘し責任者となり、左の教会のクーポラ(ドーム)を卵型に変更した。

この視点から見て、右は円形、幅の狭い土地の左を卵型にして角度を捻れば、幅が同じようになる、錯覚を利用した。

そして、教会内部も円形と卵型ですが、外観は左右対称の双子教会の完成となりました。

細部まで気になるのがエンジニア、・・・細部にこだわる方も芸術家には多いようです。

「天使と悪魔」・・・このストーリに沿って、ローマの街を観光するツアーが人気の時期がありました。

最初に誘拐された枢機卿を探しに向かった先が、ラファエロの墓のあるパンテオンでした。

しかし、ラファエロの墓は、

案内板に、墓がここに移されたと記載があり、・・・間違いに気づき、ポポロ教会のキジ礼拝堂に向かったのでした。

次が、天使が差し示す方向に「風」を探す。

行先は、バチカン宮殿でした。

風は、ここにありました。

ここは、目印としておかれています。西風が吹くようです。

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ローマを創った男 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

2020-12-29 | 旅行記

1598年12月7日 ナポリで生れたジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、彼の作品を鑑賞する目的で再度ローマを訪れてから・・・画像の未整理が続いた。

ローマを創った男と言われるベルニーニ、17世紀のローマは彼のためにあった、その背景が重要なのだが、中々ブログが進まないまま年末に。

・・・PCが11月15日、OSの自動アップデート後不具合になり今度はネット接続などがダメージを受け、MSの窓口は本体の初期化を勧める始末

昨年8月の不具合で対応して戴いた履歴の確認を依頼したら、破棄されて無いとのこと、今般はMSの担当者が外れと判断し電話を切る

気を取り直して10年前のノートPC(VAIO)を探し出し、CPUはcorei7で当時のベスト仕様だった、・・・何とか使えそう。

若干動作が遅いが多数のアップデートを繰り返し、その後富士通のESPRIMOは、自分で調べる気力が高まらず放置してある。

ベルニーニの誕生日前に、16世紀のローマを整理したかったが・・・この時代は簡単にして、ベルニーニの作品を見てみよう。

16世紀のイタリアは1526年、サン・ピエトロ大聖堂がやっと着工した。

・・・翌年5月、フランスと組んだ教皇、・・・敵対する神聖ローマ帝国の軍勢が侵攻し、ローマ掠奪(ローマ劫掠ゴウリャク)、悲惨な状況が続いた。

結果、ローマの人口は、55000人とも言われるほどに撃滅してしまった。

危機の中、その後歴代のローマ教皇は、反カトリック、プロテスタント勢力に打ち勝つために、・・・異教徒の異端審問を厳しく行った。

並行して復興は、ヨーロッパ各地から聖ピエロの墓があるローマ、Go to trabel に期待するしかなかった。

・・・巡礼者が感激する仕掛けを作ろう、先ずは教会の建立(30以上建てられたでしょう)、道路と水道の整備も

・・・次に都には映えする魅力が必要、運よく地中から紀元前の異教徒文明の発掘が続き、芸術家が修復に活躍。

当時の様子を見てみよう、1593年の銅版画、テンペスタの地図です(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

広場にオベリスク?、・・・1587年に左下の競技場後から約100m運び、44基の巻き上げ機で据え付け直した大工事が行われた。

・・・ここまで復興して、ローマの人口はどん底から立ち直り・・・60数年経過し倍の10万人くらい

1604年、新教皇に若き53歳のパウルス5世(ボルゲーゼ家・元シエナの旧家)が就任、権力を握れば早速縁故関係者を優遇しました。

甥のシピオーネ・ボルゲーゼ、27歳が枢機卿となりますが、彼は美術品のコレクターで、後に少年ベルニーニとの出会いは・・・引き合う力がありました。

ベルニーニの父はかつてローマのサン・ルカ美術アカデミー院長を勤めたこともある有名なフィレンツェ出身の彫刻家。

1605年、新教皇から礼拝堂の装飾の依頼を受け、家族でナポリからローマの現テルミ二駅近くに引っ越してきます。

ベルニーニ少年はこの時7歳、蛙の子は蛙、遊ぶのはヴァチカンの古代彫刻を朝から晩鐘までデッサンして過ごしていたと伝えています。

・・・神童の逸話は、誇張があれスーパースター誕生はスカッとする話題です。

では墓に彫られた、執事 「サントーニの肖像」は、ベルニーニが何歳くらいで完成させた大理石彫刻作品に思えるでしょうか?

技能の精緻・優劣よりも、顔の表情、見つめる眼差しが石造とは思えない、魂が入っているかのようで只者ではないですね

この作品と同時期に他にも彫像を受注していましたが、本人や伝記作家の話はオーバーで粉飾だろう、16~17歳頃の作成とされてきました。

近年1967年になり発見された当時の領収書などから、本人や伝記作家の言う通りの10歳から11歳の作品、1610年頃の制作とされます。

・・・ボルゲーゼ枢機卿が幼いベルニーニを教皇の前に連れて行った際、聖パウロの頭部を描くよう求められて見事に描き上げ非常な称賛を得た話もあります。

居合わせた枢機卿の前で「この子供が、彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言って12個の金メダルを褒美にとらせた。

この伝記作家(逸話)が疑問視され、信ぴょう性について後年ベルニーニがフランスで話した事が残っています。

それによると枢機卿と一緒に教皇に会った際、彼が描いた聖ヨハネの頭部のデッサンが幼い子の絵とは信じられず、・・・

それで教皇は、目の前で聖パウロの絵を描くよう求めたという、・・・これは本人が8歳の時の出来事だと語ったという。

・・・神童ベルニーニがその後10代で次々に作品を発表しますが、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が彼をほぼ独占し、他の枢機卿は、只近くで見守るだけだったようです。

今日、その名のついたボルゲーゼ美術館で彼の作品に出合えますが、予約制で時間指定となります。

2011年にベルニーニの作品を鑑賞しに行った際の資料・・・写真・ビデオ類の撮影は禁止でした、ガイドブックだけが残っています。

当時、イタリア関係に関しては、Yahoo blogの方にUPしていたが、Yahooはブログ運営から撤退したので現在Web上には残っていないと思う。

こんな感じだった。

ここは違いますね、真実の口です。

嘘つきガ・・・噛みつかれる❓ 懐かしい、口元が汚れていますが・・・今では手袋の手を差し入れるのでしょうか?

蛇行した下図の七つの丘近く(赤丸の教会)から、午後の予約で、間に合うかな? タクシーで地図上のボルゲーゼ公園へ

ボルゲーゼ美術館は、ヴァチカン宮殿から直線で4㎞位、ポポロ広場から階段を上がり公園内を進んでも行けます

ここは、タクシーを降りた公園横の入り口です。

公園ですからゲートから園内には自由に入場できます、右側に案内板があります。

この案内板には、上部に建築:F.Ponzio(1559/60-1613)、G.Vasanzio(1550-1621),G.Rainaldi(1570-1655)、A.Asprucci(1723-1808)・・・とあります。

16,17,18世紀と3世紀ボルゲーゼ家の屋敷で、1613年には完成したようです、何度か改修があり、現在はイタリア国の所有です。

この絵と類似の絵が、1636年バウル作として、ボルゲーゼ美術館 最新ガイド(2010年版)に掲載されていました。

1600年代の様子と変わらず一部修復され、現在は素敵な美術館です。

ここの公園内は、かつて馬車が走り、屋敷にはカジノもあり・・・昔の周辺の説明は割愛、今でもこんな風景が似合います。

予約の際指定された番号で、入場券を購入することになります、・・・建物の半地下へ降り、右側に並んで、カウンターのチケット購入窓口で購入します。

館内は手ぶらで・・・カメラ、バッグ類は預けることになります。

右側で荷物を預けます、正面は会議室など、左側に書店、奥に喫茶室、

入れ替え制で、・・・時間になりワクワクしながら、外階段で2階に上がり、入って右、右・・・気が付けばダヴィデの間でした。

画像は、ガイドブックから

1623夏~1624年春に完成させた25歳の作ですが、最初に目にするのがこの「ダヴィデ」です。

ミケランジェロのダヴィデは、筋肉美の裸体で石を持ち、これから衣服をまとうのか、このまま走るのか・・・いずれにしても市民に衝撃は与えた

これに対し、鎧は足元に置き「サムエル記」の記述のように、投石袋の中から石を取り、石投げ器でペリシテ人にそれを放つ

この物語性、そして決定的シャッターチャンス、集中して一点を見つめるダヴィデ・・・目線の向こうにペリシテ人がいる、

後に教皇となるマッフェオ・バルベリーニ枢機卿は、ベルニーニに作品を依頼したいが、ボルゲーゼ枢機卿が離さない、

制作中のベルニーニは自分の顔を鏡に映して、ダヴィデのモデルにしていたので、バルベリーニ枢機卿が鏡を持って手伝ってくれたと、

・・・この話もベルニーニがフランスに招かれ(只一度だけローマを離れた際、招いたフランス側に記録が残る)本人が語っています。

25歳でベルニーニは既に多くの作品を完成させ、ローマ中から人々がこの館に押し寄せ、スーパースターでした。

この「ダヴィデ」は、アポロとダフネ(ギリシャ神話)の制作途中で取り掛かり、僅か7か月で完成させた。

20代の集中力、体力、スピード、技能、絶頂期でしょう。

・・・これらの大型作品の前に、ベルニーニは10代で肖像彫刻家として才能を開花しています。

ベルニーニ が8歳で最初に会った・・・あのパウルス教皇から肖像を依頼され、19歳くらいの時に温和な感じに仕上げてあります。

そして、教皇の甥の シピオーネ・ボルゲーゼ 枢機卿の肖像も依頼され、当美術館に置かれています。

顔の表情が豊かで、衣服の表現も印象に残ります。

初めて大きな作品を依頼されたのも、シピオーネ枢機卿からで、絵画などで有名な「アエネアス」でした。

「ベルニーニ バロック美術の巨星」 石鍋真澄 によれば、1619年10月付けでこの作品の支払い記録があるそうです。

ガイドブックによれば、制作年代は1618-1620年、19歳から21歳頃

この作品は順路の後半、正面から見て左奥の部屋に置かれています。

題材は、紀元前のローマ帝国誕生時代に登場した作家が、神話の物語「アイネアス」を書き上げた。

ローマの建国は、双子のロムルスとレムスが戦いBC750年、ロムルスが弟を殺して誕生した。

神話とはいえ・・・この双子の親は、祖先は?疑問に思います・・・そこで作家が、トロイ戦争の登場人物から拝借しようと思いついたのでしょう

・・・トロイの戦火から主人公が脱出する場面です、アエネアスが老父アンキセスを背負い、息子アスカニウスを連れて、登場人物は3人。

作品は、登場人物を・・・無事に仕上げました。(物語は・・・後から奥さん達も続いたと思いましたが)

続いて、1621-1622年にシピオーネ枢機卿から依頼され、オヴィダウスのローマ・ギリシャ神話を題材に制作しています。

ここでは「アイネアス」のように場面が限定されずに、彼は構成をドラマチックな場面に設定。

どうした、エッ 違う写真?

そう、あまりにも注目された部分の拡大です

・・・大理石とは思えないと大評判になります。「プロセルピナの略奪」

ガイドブックからでは、迫力がないですね、

キューピットから「愛の矢」を射られたプルトが、プロセルピナを有無を言わせず抱き上げ誘拐する・・・

これは、お金を使って実物を鑑賞する価値はあります。

少し横に動くと、360度カメラの作品です。犬は三つ頭の冥府の守りとされる。

ちょっと分かりにくいのですが、母に助けを求め・・・彼女の頬に涙が一つ、二つ流れていたように思いました

多くの絶賛した評論がありますので ここでは割愛

この作品は完成した1622年に、シピオーネ枢機卿からルドヴィシ枢機卿に贈られています。

最高傑作は他で輝いていたのですが、・・・この館に約300年間後に戻ってきたのです。

1908年、その館がイタリア国家に買い上げられ、ボルゲーゼ・コレクションに戻されたとガイドブックにあります。

20世紀にボルゲーゼ美術館に戻ってきたので、第4室 皇帝の間に置かれているのでしょうか。

最初の「ダヴィデ像」の隣、第3室が「アポロンとダフネの間」です。

1622年8月にこのアポロンとダフネの制作を始め、途中まで進んだ所で「ダヴィデ」の制作を始め7か月で完成させ、この作品に戻ったそうです。

この作品も、ローマ・ギリシャ神話「変身物語」から、黄金の矢と鉛の矢を受けた二人が登場します。

恋心が高まる VS 恋が嫌い キューピットを道具に2000年前の詩人は、視点がユニークですね。

こちらのシーンでは、ダフネは父に助けを求め、皆の心を惑わしすぎるこの美しい姿を変えて・・・すると、激しい硬直が手足を襲い

ダフネの足は・・・根に、髪の毛は・・・木の葉に、腕は・・・小枝に、変身・・・みるみる月桂樹に・・・ストップ

オヴィディウスの物語を、全くの素人にもクライマックスを一目で理解できるように、この立体像は、本当に石なの・・・

この作品は、1625年に完成させます。

この作品が完成するやいなや、「奇跡が起こったかのようにローマ中の人がそれを見に行った」と伝記作家が伝えています。

後年、ベルニーニはパリでこの作品について、ダフネの髪に「軽さ」が表現されていると自慢しているが、以前は更に軽い印象だといわれます。

近年になり、岩が補強されているそうです。

この美術館には、他にもベルニーニの作品やカルバッチョの作品も数多く展示されています。

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レオナルドがミラノに住んでいたころ

2020-05-24 | 旅行記

ロンバルディア地方の朝霧

イタリア、ロンバルディア地方は人口1000万人とイタリア全土の1/6を占め最も多く、最も豊かな地方と言われます。

北にアルプス、その西端から・・・ポー河が山麓・平野を東に流れ、ヴェネツィアのアドリア海に・・・豊かな流域です。


残念なことに最近有名になってしまいました、細菌で、

・・・2月20日 ミラノ北東の某医療機関に中年男性が・・・、医師も予期せぬCOVID-19(Coronavirus Disease 2019)コロナウイルスと診断された。

地球の裏の出来事だったはず、気が付けば院内感染・・・近隣の都市に広がり・・・3月9日イタリア全土に移動制限。

日本と違い仕事、病院、日常生活で外出する際は、行先と理由を明示した自己宣誓書を携帯する事が厳守。

この書式、イタリア日本大使館の記入例を見る限り、本格的な様式です。自己責任の下、以下宣誓する。

身分証明番号、移動の住所〇〇から▽▽まで、審査担当警察官署名まで必要です。

・・・違反にはMax.206ユーロの罰金、・・・出かける意欲が失せるでしょう。

やっと、5月18日外出原則禁止措置が段階的に解除となりました。但し、マスク携行、・・・州外の移動には自己宣誓書が必要なようです。

・・・海外では不思議の国、日本が話題になっているようです。

日本の総理が未知のウイルス来襲に戦争状態と発言したが、全世帯にマスク2枚配布で失笑を買い、いまだに大半未配布。

自主規制の甘い外出禁止だったが、・・・これも段階的に解除される。

日本は良い国なのです。

世襲議員総理ですから、戦争状態とは言ってみたが、専門家のアレモ・コレモ難しいとの声に・・・総意をまとめて最善のお願いを発表するのみだった。

平時では何もしない総理でも問題ないが、危機時にはリーダーの資質・力量が問われます。

日本国民は口先だけのリーダに愛想をつかし、不幸中の幸い、自己管理をした賢明な人々に支えられた結果でしょうね。

米、ロ、中、英に比べれば、お坊ちゃまで裏も無さそう、策士としては下手すぎる、・・・安心はできます。

しかし、市民目線が無い、現場を知らない。被害者は発熱で自宅待機を強制された人々、感染した患者、医療関係者とその家族でしょうか。

ミラノ スフォルツェスコ城、ドゥオーモから北西に7~800m、歩いて5分くらいの所にこの城があります。

このお城にも、かつてお坊ちゃまがおられましたが、実力は発揮できませんでした。

ミラノは地政学的にヨーロッパの重要な位置にあり、ミラノ王国時代は強国に囲まれ、必死な外交を繰り広げたようです。

フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、教皇領、ナポリ、大国が権謀術数繰り広げ・・・複雑怪奇。

・・・フランチェスカ・ロメイ氏の1996/2/1発行 講談社 絵解き美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチを中心に、塩野七生さん「神の代理人」などを参考に考えてみた。

1395年、ロンバルディアなど広大な領地を統合した貴族のヴィスコンティ公が、神聖ローマ皇帝からミラノ公の称号を授かった。

(この時期の神聖ローマ帝国は、武力も権力もなくオーストリア周辺の連合国に対する認証程度でしょうか。)

後年、息子達がヴェネツィアと何度も対立し領土を割譲させられ、1441年には敵の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが時のミラノ公の一人娘と結婚します。

1450年、ミラノ公亡くなり、後継不在でトラブルがあったが、フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公を名乗り、後に承認される。

城塞の左右に円塔があり、この薬局の様なデザインは、ヴィスコンティ家の紋章で、今日ACミランなどいろんな団体でアレンジして利用されています。

「人を飲み込む蛇」大蛇がサラセン人(イスラム教徒)を退治する、あるいは先祖が森にすむ人食い大蛇を退治した説、など諸説あるようです。

1466年、公国を継承した長男ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、音楽家などを支援するが圧政が続き・・・、

1477年、敵対する貴族3人に教会内で暗殺されます。(神の目前での行為は成功率が高く、結構多いようです)

1477年、7歳で父を亡くしたお坊ちゃま、ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが、ミラノ公を継承するが、母と叔父のルドヴィーコが摂政します。

(ジャン・G・M・スフォルツア(在位1476-1494)  ウィキペディアより) 

王女いや王子です、 髪の毛の描写が・・・、レオナルド・ダ・ヴィンチの作とありますが真意の程は?

1476年、フィレンツェのヴェロッキオの工房は、ヴェネツィア共和国から傭兵隊長バルトロメオの騎馬像の製作依頼を受けます。

当時レオナルドはこの工房を離れて独立していましたが、4mの巨大な騎馬像の制作と聞き助手を買って出ています。

この時期、馬の解剖に熱中し数多くの素描を残しています。

(騎馬像 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

左下は1/2の模型をまず作成、枠木の穴から細木を通し採寸しています、設置場所が屋外の台上となるので、自然光の効果を見るため実物大にトレースした像が造られている。

1478年4月26日、花の大聖堂でミサの最中、パッツイ家の出身ピサ大司教とパッツイ銀行ローマ支店長が、ライバルのメディチ家兄弟を襲った。

ピサ大司教の就任をメディチ家に妨害されて暗殺を・・・刺客は剣の扱いに不慣れで、弟を殺害したが兄ロレンツォは逃げた。

反メディチの教皇は激怒、ナポリ王国と同盟し宣戦布告したが、メディチ家当主ロレンツオは、ナポリ王国に乗り込み・・・ナポリ王と和平を結ぶことができた。

・・・陰謀のパッツイ家当主を始め多くが捕らえられ、処刑、メディチ家の天下となった。

12月にも他国に逃げた者が捕らえられ公開処刑、絞首刑の様子をレオナルドがスケッチしています。

1481年、レオナルドは、サン・ドナート・ア・スコペート修道院から、祭壇画「東方三博士の礼拝」を依頼され、2年半で完成の契約だったが、・・・

(東方三博士の礼拝 ウフィッツィ美術館)

1482年、メディチ家のロレンツォは、ミラノ公国から初代スフォルツァ公(傭兵隊長)の壮大な記念騎馬像を造れる芸術家を派遣する約束をしていた。

(ロレンツォは騎馬像の芸術家となると、ボッティチェッリは画家、レオナルドは音楽奏者以外に騎馬像の経験者だった)

レオナルドは自己紹介で、絵画や彫刻と並んで、力学や水力学、軍事工学の才能を列挙し、絵画や彫刻は誰にも劣らないと述べた。(これは良く知られています)

ミラノ君主ルドヴィコは、自分と対等にふるまう不敵な芸術家に興味を覚え、慢心した狂人か、真の天才か確かめたく彼を呼びにやった。

間もなく30歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ公、ルドヴィーコ・スフォルツァに召し抱えられ、ミラノに居住した。

・・・「東方三博士の礼拝」は途中のまま、・・・依頼主の修道院は、・・・15年待ったが・・・あきらめフィリッピーノ・リッピに注文した。

ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァは実質的な君主で、城塞の再建・拡張にフィラレーテ、ブラマンテと当時偉大な建築家が集まっていた。

古い都市を近代的な都市に、水路網、道路、病院、大聖堂ドーム、レオナルドも参加し、他に軍事機械などの合間に依頼の作品も仕上げています。

(岩窟の聖母 ルーブル美術館) 

無原罪の御宿り同心会がミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂内の礼拝堂祭壇画をレオナルドに依頼した。

完成した祭壇画は、何ヵ所かの修正要求があったようで、この作品はフランス王ルイ12世の手元に渡り、今日ルーブル美術館の所蔵。

10年後に主要部分をレオナルドが描き、一部変更の部分は弟子が描いた作品は、現在ロンドン・ナショナルギャラリーの所蔵。

(白貂を抱く貴婦人  クラクス国立美術館) 

白貂(シロテン)を抱く貴婦人と呼ばれる作品は、ルドヴィーコの愛妾チェチリア・ガレラーニの肖像と言われます。

当時の作品には、通常作品名は付けられていません。結婚のお祝いや、依頼主の肖像画、宗教画など契約者などに納められます。

後年、所有者の手を離れ、財産管理者や絵画ブローカが作品No. 作品名を付けて管理しますので、作品名は時々変わります。

レオナルドの絵の才能は評判になり、ルドヴィーコは絵画は天才と熱烈な信者になります。

人体への好奇心から密かに行っていた人体解剖を、ルドヴィーコは病院内での人体解剖を奨励し、素描から分類研究と関心が移っていきます。

(解剖 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

筋肉、神経組織、血管組織、骨格など多くの素描が残されていますが、後年(1512年頃)再度ミラノで解剖しています。

さて騎馬像の制作は遅れていて、ルドヴィーコはフィレンツェ大使に不満をもらしたとあります。

レオナルドは完全主義者であり、馬だけで6m、全体で9mも超える巨大な騎馬像を相手に何度も構想を変えています。

ついに原寸大の騎馬像の原型を作り上げ、城内の大きな中庭で公開しました。

原型と巨大なブロンズ像を動かすための巨大な機械を考案し、鋳型の覆いも考案、数学者の友人ルカの助けでブロンズ量も計算しました。

1489年、ルドヴィーコはロレンツォに、この像の制作のために鋳造職人二人をミラノに送るよう依頼します。

ルドヴィーコ公は、1483年からミラノ公のお坊ちゃまジャン・G・M・スフォルツァの摂政として権力を握ったが、彼ももう19歳。

一説には、お坊ちゃまが政治に関心を示さないように、宮廷の祭事や音楽に力を入れたとか。

フランスとヴェネツィア共和国の台頭に・・・各国は脅威を感じ、ここから政略結婚、同盟、裏切り・・・混沌としてきます。

ミラノ公、ジャン・G・M・スフォルツァとナポリ王国の長女イザベラ・ダラゴーナ(従妹にあたる)が結婚。

(イザベラ・ダラゴーナ ラファエロ画 by ウィキペディア)

レオナルドはこの結婚の式典のために、天国と軌道を回る7つの惑星を表わした舞台装置を作り上げた。

(ラファエロが1490年頃、ミラノ公妃の肖像画を描いている可能性はあるでしょうね。)

一方、スペイン(カスティーリア王国、アラゴン王国)では長女イサベルが、1490年に隣国ポルトガルの王子と結婚、対フランス同盟です。

1491年1月 ルドヴィーコ(38歳)フェッラーラ公のベアトリーチェ・デステ(15歳)が結婚。

( 「真珠を付けた婦人」ベアトリーチェ・デステ BY ウィキペディア)

長い間レオナルドの作品と伝えられていたが、現在では、ボローニャ派の画家の作品と見なされている。

聡明そうな落ち着いた感じですが、ベアトリーチェ・デステ10代の肖像です。

結婚は二重結婚で、ミラノ公がフェッラーラ公の王女と、フェッラーラ公の王子にはミラノ公の王女(妹アンナ)が嫁ぎました。

この当時ヴェネツィア共和国は、浅瀬から陸に上がってイタリア北部を勢力拡大していました。

アドリア海を拠点とした地中海貿易で、・・・潤っていました。資金は豊富、優秀な傭兵隊長の下、強大な軍事力でした。

1493年8月、北のオーストリア、神聖ローマ帝国でフリードリヒ3世が死去、息子のローマ王マクシミリアンが継承。

慣習とされたので、ローマ皇帝の戴冠にローマ訪問に、・・・ヴェネツィア共和国が阻止したので、ローマ教皇の戴冠を受けず帝位に就任。

軍隊を動かすには軍資金が必要になる・・・神聖ローマ皇帝マクシミリアンは、ミラノ公のもう一人の妹と再婚する。

1493年11月末、ミラノで代理結婚式 マクシミリアン34歳、ビアンカ・マリア・スフォルツァ(21歳)ともに再婚、・・・ウィーンで翌1494年3月結婚。

ミラノ公国は、フランスとヴェネツィアに対抗する準備を着々と進めていた。

・・・紛争は1494年1月25日ナポリ王死去、相続紛争が始まりだった。

そして、フランスのシャルル8世(24歳)ナポリ王位継承を主張して・・・。教皇が認めないとイタリアに攻め込むとやって来た。

・・・ミラノ公のお坊ちゃまは、ナポリ王国の王女と結婚しているのだった。

何故か、叔父のルドヴィーコが、シャルル君、君はナポリに行くべきだ、ミラノの公国内は通行を保証してやると・・・煽ったという説があるようです。

そして、シャルル8世は、1495年ナポリ王国を占領、・・・フランスに逃げ帰り・・・1498年事故死してしまった。

何故か1494年10月22日、25歳で・・・ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公 亡くなりました。

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イタリア半島が荒らされた・・・何度も

2020-05-03 | 旅行記

ローマとは、・・・あれもこれも気になって、

16~17世紀の芸術家が、今日の芸術の都を創ったのは間違いないでしょう。

頬に風を感じながら、あそこはあの当時どんな状態だったかな・・・と思案するのは楽しい・・・そして歴史を学ぶ。

・・・ローマは、今度のコロナも含め、何度も何度も悲惨な状況に襲われ、そこから不屈に立ち直っています。

細菌の襲来も何度もありました、・・・これって、忘れた頃に突然襲来するのは、生物界のバランスが崩れ、生存競争?

その他多数、人間界の衝突は、・・・欲望の争い? 人口過多のひずみでしょうか?

・・・小国が周辺国と同盟を強固にするには、担保の有る無しが重要と、・・・政略結婚を実行するのは古今東西、当たり前のようです。

中世のヨーロッパで、二つの国が突然歴史の表舞台に登場してきました。

歴史上非常に重要なのですが、支配者の王侯貴族の在位年数が短く、常に王位継承の争い、政略結婚・・・多すぎて理解が難しい。

地中海西端のイベリア半島、・・・イベントは、1492年1月2日

「グラナダ無血開城」  この画像は有名です Francisco Pradilla画

左黒毛の馬上の人物・・・グラナダ王国最後の王 ポアブディル王(優柔不断?肉親と争ったあげく・・・)

対する右側、白馬の女性・・・イサベル女王・カステリア王(スペイン国のヒロイン)

隣の栗毛色の馬上・・・イサベル女王の夫、フェルナンド王・アラゴン国王(策士でしょうか)

ほぼ同じような実写?  構図は同じようです。

そして、グラナダ王国の大きな鍵を

戦勝国に手渡す儀式の様子です。(アルハンブラ宮殿の鍵でしょうか)

上記の2つの画像は、スペインで大人気の「イサベル 波乱のスペイン女王」連続TVドラマ

(かつてBS日テレで放送)の一場面でした。このTVドラマは見られました?

・・・イスラム勢力に奪われたイベリア半島をキリスト教徒が奪還する闘争(レコンキスタ)が、771年から続いていました。

独特のイスラム文化を熟成させたグラナダ王国、そして最後まで抵抗したアルハンブラ宮殿

・・・このグラナダの地は、地中海にも面し、山からの水も豊富です・・・住み易そうに思われます。

ここは世界遺産、ヘネラリーヘ離宮から望む・・・現在のアルハンブラ宮殿です。

・・・その向こうに、今日のグラナダ市内が見えます。

この宮殿から西に約10㎞(市街地が見える方向)にサンタ・フェの町が現在でもあります。

・・・1491年初めスペイン両王軍は、港町マラガ(ピカソの生誕地)の町を攻略し、

そこから内陸に山麓を100㎞、この地のアルハンブラ宮殿を包囲していたが・・・長期戦となり、

宮殿から約10㎞離れた荒れ地(サンタ・フェ)に石組の簡易城壁で囲んだ駐屯地を設けます。

包囲中の駐屯地に40歳くらいのコロンブスが、同年齢位のイサベル女王に謁見して陳情しています。

以前、1486年にも黄金郷ジパングを探したいと西回り航海の援助を要請するが、進展していなかった。

包囲すること約1年、・・・1492年1月2日、グラナダ王国は降伏となりました。


・・・探検航海のスポンサー探しの話は、

ポルトガル王国が支援したアフリカ沿岸探検から火が付きました。

ポルトガルではエンリケ王子(航海王)時代の探検を引き継ぎ、ポルトガル王ジョアン2世がアフリカ西海岸の探検を続行。

1482年になると航海が困難だったアフリカ西端部を攻略し、黄金海岸(現材のガーナ)に到達、この地に要塞を建設した。

現地では金、象牙以外に人間を奴隷として略奪・・・離島に奴隷収容所も設置し、新たな商売の奴隷貿易を開始。

1488年に探検隊はさらに南下中、嵐に遭遇し沖に流され・・・どうにか湾内に避難、・・・先に進むと海岸線は北東に続いている。

・・・アフリカ最南端を迂回できていた。

ジョアン2世は最南端通過に喜び、これでアフリカ東海岸に沿って北上するインド航路の実現が目前となった。

・・・少し前の1483年、ジェノバ港町出身のコロンブスは、ジョアン2世に航海の援助を要請していたが断られていた。

1525年頃描かれた クリストファー・コロンブス の模写(ライフ人間世界史6より)

ライフ人間世界史 6巻によれば

コロンブスは、マルコ=ポーロの「東方見聞録」に触発され、黄金郷があると信じているので探検に出たい。

20歳代半ばに、フェレンツェの医者から地球は球体、インドに行くなら西回りを勧められていた。

地球の全周はこの位の距離、これまで多くの探検で知りえた距離がこの位、残りの未踏の距離を計算すれば?

15世紀後期の世界地図(ライフ人間世界史6より)(喜望峰の少し先まで描かれていますが、探検の内容は機密のようです)

医者の推定5000海里に対し、コロンブスは約3070海里(5680㎞)とインドまでの距離を少なく見積もった。

(しかし、後年知り得た距離は、何と約18,826㎞。)

・・・サンタ・フェでは資金の工面で、教皇からの援助金転用案やユダヤ人から助成する話も飛び出し、紆余曲折の末、

イサベル女王は、グラナダが陥落し財政に余裕ができたとの進言を受け、去って行ったコロンブスを呼び戻し、航海の援助を約束した。

コロンブスとは1492年4月17日、この地「サンタ・フェ」で航海の経費と発見後の取り分などの記載された契約が締結された。

船員の募集と船の準備に約10週間かかったとあります。

1492年8月3日

(ライフ人間世界史6より)

ポルトガルの河口から旗艦船サンタ・マリア号を中心に3隻の船で出航、

・・・アフリカ西岸から西の大洋に船を走らせ・・・目標の距離には到達した、

船乗り引き返せの合唱、そんな中、午前2時、島を発見・・・朝を待って10月12日未知の陸地に(島)に上陸、

インディアンの金の鼻飾りを見て、コロンブスはインド到着の証拠だと考え、

私はジパングの島を発見できるかどうかやってみるつもりだ。”と日記に記したそうです。

15日後にキューバ島を発見、ジパングと思ったが・・・絹をまとった賢人も、純金の宮殿も見当たらない。

イサベル女王、フェルナンド王の信任状や贈り物は、・・・渡す相手が・・・見つからない。

上陸して3か月、サンタマリア号が浅瀬で座礁し、船の木材で島に砦を造り39人が駐屯することになる。

結局、・・・コロンブスは、見つからないのは・・・ジパングよりも遠くまで来てしまった。

ここは、シナ(現中国)だろうと考えることにした。

帰らなければ、・・・スペイン王に報告のため、コロンブスは東北東のルートで帰路につく。

(ライフ人間世界史6より)

途中嵐に遭遇し、・・・やっとのことで損傷した2隻が、3月4日にリスボンに到着する。

リスボン到着時に、(香料、金が豊富、住民はおとなしく簡単にキリスト教に改宗させられるなどと)

既に書き終えていた手紙をスペイン両王に送って、ポルトガルに留まった。

・・・ポルトガル王の接待を受け・・・1か月が過ぎた頃、今後の運命を決する報告に向かった。

スペイン両王の待つバルセロナの宮廷・・・歓迎を受けた

この画像も「スペインのTVドラマ」イサベラより

帰国報告は弁舌巧みだった・・・土産は現地の動物、住民、金銀パールの工芸品・装飾品、さらに布教の見通し

発見した大陸の先住民は、アフリカの人々と違う部族だった・・・黄金郷ジパングの発見は近しと思えた。

・・・黄金郷が発見できたら、キリスト教の布教・現地人を支配下にし、領有権を主張し、承認が必要となった。

領有権などを誰が承認するのか・・・これまで、ポルトガル王国だけがアフリカ沿岸の探検を続けていた

ローマ教皇が1481年、教書でアフリカ西岸のカナリヤ諸島以南の新領土はポルトガルに与えた。

スペイン王国も教皇に、大洋一帯の征服(布教の権利)と貿易の独占権を願い出た。

教皇はスペイン出身のボルジア卿が新教皇アレクサンデル6世として、1492年8月11日に就任していた。

1493年、教皇は1481年の決定を改め、西経38度以東はポルトガルに、38度以西はスペインと認めた。

(ライフ人間世界史6より)

スペインは、コロンブスに次ぎの航海を認め、1500人もの入植者や教会関係者なども送り出し、探検を続けた。

一方、ポルトガルは、教皇の承認した新規の境界線は認められないとスペインに抗議、

ポルトガルは境界線の重要性を認識しているので必死です。

両王国は隣国でライバルであったが、1490年カトリック両王の長女(約20歳)がポルトガル王子に嫁いでいる。

1494年6月、結局、スペインが譲歩し、西経46度37分まで境界線は移動することで決着した。

南アメリカ大陸の一部(ブラジル)がポルトガルの権利となった。これが後に大きな利益となる。

この地図は1502年作成とされています。(ライフ人間世界史6)

左上、キューバの先にフロリダ半島らしき描写が・・・フロリダ半島は1513年発見とされています。

ローマ教皇庁が承認しようがしまいが、我・・・関係無い、あるいは無視する連中がいても当然です。

後の海運国イギリスも当時は国力が小さく、ネーデルランドから後にオランダが独立するが重要性には気づいていなかった。

・・・毛織物生産で先進国となったフィレンツェの様な商業都市ネーデルランドでは、1477年1月ブルゴーニュ公が戦死。

その一人娘と結婚の約束をしていたのが、ハプスブルグ家のマクシミリアン公・・・一人娘からの援助要請で、急ぎ駆けつけ結婚

やがて、豊かなネーデルランドを足掛かりに国力が増大するが、1482年3月、妻の女王が事故死。

夫のマクシミリアン公は王位継承の資格がなく、嫡男フィリップが王となり、その摂政となる。

フランス王の扇動で公国内で反乱がおこり、12月に2歳の娘マルグリット(王女)を強引にフランス皇太子と婚約されられる。

ところが、天罰かフランス王ルイ1世、翌年1483年8月30日亡くなる。

嫁いだ先の皇太子はシャルル8世王として、13歳で即位(実際は、義兄ブルボン公夫妻の摂政下となる)

突然のこの絵は、1484年に13歳で描いた自画像 アルフレヒト・デューラーで北方ルネッサンスの画家

(マクシミリアン公は彼を援助している)

1486年2月、マクシミリアン公は神聖ローマ帝国の後継者(ローマ王)となり、戦費調達にネーデルランドに増税した。

・・・多くの市民・貴族の反対で内戦となり3か月も幽閉され・・・救出の帝国軍により5月に開放される。

1491年12月、フランス王シャルル8世(21歳)ブリュターニュに侵攻、ブリュターニュ公国王女(14歳)に結婚迫り、結婚した。

この王女とは前年1490年、マクシミリアン公が再婚相手として婚約していたのを・・・娘の夫に強引に横取りされた。

フランス王の二重結婚に、ローマ教皇は1492年2月結婚の追認とマクシミリアン公の王女の離婚を特赦した。

1492年10月、マクシミリアン公、何とかネーデルランドの内戦を終結させた。

1492年12月、マクシミリアン公、フランスに併合されていたブルゴーニュ伯(諸侯の領地)の奪還に侵攻した。

1493年3月、勝利し奪還に成功、フランスから1482年2歳で嫁がされ・・・離婚後も返さなかった娘も取り返した。

1493年8月、マクシミリアン公、父の死去で神聖ローマ皇帝に選出された。同年ミラノ公国スフォルツァ公女と再婚。

1500年当時の神聖ローマ帝国

ライフ人間世界史7より

デューラー作 1506年 ヴェネツィアにて描かれた祭壇画、教皇(ユリウス2世)、神聖ローマ皇帝マクシミリアン byウィキペディア

1512年 アルフレヒト・デューラーは、神聖ローマ皇帝マクシミリアンの宮廷画家となる。

・・・当時ヨーロッパの人々は、ローマへ、ローマへと・・・巡礼者。このような格好の人々が多かったようです。

巡礼者 ライフ人間世界史5より

下図の説明も、ライフ人間世界史5より

ローマは石畳では無かった、朽ちかけた建物の間の砂利道を・・・巡礼者は宗教的な案内書を持ち

「市の7つの大教会を記した地図」を見ながら順路通り進むと、教会が恩寵(オンチョウ)を授けてくれた。

例えば、ある教会に入れば、48,000年間は、自分の犯した罪の罰が猶予された。

地図の城外の左上に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)

次に城壁内に入り、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)

その上、中央はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(San Giovanni in Laterano)などなど

そして、中央下・・・昔のサン・ピエトロ聖堂が道順の最後の場所にあたっていた。

・・・一ヵ所で48,000年、十分すぎると思うが・・・死後いつかは来ると信じて、最後の審判までの年数が欲しいのでしょうか?

ローマ市内は治安が乱れ、貴族のオルシーニ家、コロンナ家も、スペイン系の無法者も多いようです。

殺人・強盗は日常茶飯事、バチカンの城壁に罪人の死体が吊るされない日は無かったと言われる。

宗教界は、縁故主義で司教、枢機卿は登用され、高位聖職者のモラルは堕ち、金、女、派手な生活で財政は悪化。

1492年8月11日、就任したアレクサンデル6世は愛人の息子:チェーザレ・ボルジア(16歳)をバレンシアの大司教に就かせた。

16歳ですよ・・・周囲の抵抗を押し切って、・・・キリスト教会の教皇は、最高権力者です。

他にもボルジア家から枢機卿を5人就かせ、他に知人、友人と・・・派閥を広げなければ。

教皇は多分頭脳明晰、乱れた宗教界の改革は、・・・周囲の連中と同調しながらも・・・教皇庁を意のままにしなければ・・・。

そして、教皇には他にも子供がいて、堂々と政略結婚と武力で教皇領の再支配に動き出します。

1494年頃、新枢機卿12人を任命し、何と息子のチェーザレ(18歳)は大司教を足場に、このたび枢機卿に就いた。

さて、同じころ、フランス王国では、摂政から独り立ちした シャルル8世(24歳)が国力に酔っていたのか・・・

1494年1月25日、ナポリ王が死去し、自らのナポリ王位継承を主張、教皇はこれを認めず、ナポリは皇太子が継承した。

現在のナポリの都市は、若干治安に問題のある場所があったり、難民が多数押し寄せて大変なようですが、中世は大国です。

イタリア半島の南部大半を領土としていました。

教皇に拒否され、シャルル8世率いるフランス軍、傭兵含め約25000人、8月23日グルノーブル出発、

・・・アルプスを越え、イタリアへ

・・・ミラノ公国の摂政イル・モーロは、利害が一致しフランス軍に自国内の通行を許可、

ここミラノで、レオナルドは、「岩窟の聖母」を完成させ、

(仏、ルーブル美術館)

スフォルツァ家の初代ミラノ公のブロンズ製騎馬像の製作中だったが、準備した17トンのブロンズが

この後、戦争の危機で大砲の材料に流用されてしまう。

フランス軍はさらに南下し11月フィレンツエへ、・・・サヴォナローラが批判していたロレンツォ・メディチが2年前に突然亡くなっていた。

家督を継いだ長男ピエロがフランス軍との交渉に失敗、市民の隆起でメディチ兄弟フィレンツェから逃走、・・・臨時政府が通過を認めた。

フランスの大軍は通過する際、諸侯にナポリへの進軍を認めなければ交戦と宣言し、争いの無いままローマに向かう。

ローマも教皇も大軍相手の交戦をあきらめ、フランス軍12月31日ローマに入り、教皇が要求をのみ、1495年1月28日にナポリに向かう。

新ナポリ王は逃走し、1495年2月22日、シャルル8世はナポリに入城、ナポリ王を宣言し支配を始めた。

4月12日、教皇の呼びかけで、トルコからの防衛名目の神聖同盟(ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国)を結成。

フィレンツェは不参加(サボナローラの支配下)

5月20日 情勢の変化を察知し、ナポリからシャルル8世逃げる・・・海路を断念、陸路を激しい抵抗を受け、双方多大の被害を出しながら逃げ帰った。

・・・シャルル8世がフランスに逃げ帰った頃、隣国2か国で、フランスを敵国として2重の政略結婚が決定した。

1496年10月20日、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の王子ブルゴーニュ公フィリップ(18歳)に・・・スペイン・カトリック両王の次女フアナ(18歳)が嫁ぐ。

1497年4月3日、カトリック両王の王子フアン(19歳)にマクシミリアン1世の長女マルグリット(17歳)が嫁ぐ。

・・・運命とは、

1498年シャルル8世、事故死する(城内で誤って石に頭を打ち付け、28歳で亡くなる)

ルイ12世、1499年ミラノ公国は自分が継承したと侵攻して、またもイタリアが戦場になり、多くの有名人が逃げ出すことになります。

イヤー・・・この間だけで頭が混乱、・・・王家の継承を追いかけ・・・教皇と枢機卿は金の生る木で、勝者の歴史に深く関与しているようです。

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中世の黒死病、もっと悲惨だったと思うと

2020-04-05 | 旅行記

かつて、遠い昔・・・6~8世紀、東ローマ帝国ではペストで半数近く亡くなり、

さらに14世紀、またもヨーロッパ全域に広がり、

約1/3近くおよそ2500万人ともいわれる人々が亡くなったと推定されています。

・・・1/23、武漢の封鎖に驚いたが・・・、中国からの観光客が激減して静かな様子、

・・・では行かなくては札幌、雪祭り、そしてルスツスキー場。

そんな軽い感じだったが・・・しかし、既に武漢から多くの人々が各地に移動・・・ウイルス保菌者も

対岸の火事と・・・世界が無関心でいたら、エッ! 

地球の裏側で最終日を待たず中止になり・・・

従来通りの診察を続けていたら・・・医療従事者が運悪く感染し、

院内感染・・・気が付けば、あっと言う間に大量感染

まさか、歴史上の悪夢再来、・・・見かけた、このような光景も無くなり、

シャッターが閉まり、イタリア、スペイン、フランス・・・外出禁止、そしてアメリカに飛び火、全世界に

かつて中世にたびたび襲った黒死病・・・歴史上の出来ごとでしたが、当時の恐怖を体験させられているかのようです。

・・・過去の教訓がありました・・・教会に集まって、皆で祈りましょう・・・それダメ!でしたが

フランスでは、禁止される前に教会が既に大きなクラスターとなって、ヨーロッパ各地に信者が移動してしまった。

ヴァチカンの礼拝堂、北側壁面、・・・この左の先に祭壇があり、新約聖書のただ一つの預言書です

欧米はキリスト教国、・・・あまりの感染拡大の速さと、近代医療の崩壊で・・・何という死者の多さに

・・・黙視録の ⇒ 疫病・天変地異・人類滅亡 と次々にラッパが吹かれていると感じる人々も多くなっているでしょう。

ヨハネの黙視録 神から7つの巻物をイエスが受取り、封印された巻物を開かれるたびに

地上に戦乱・飢餓・疫病などの禍が降りかかる、6巻の封印を解くと天変地異、

・・・最後の巻物で人類は全て滅亡する。

この後、地上にメシア(救世主)が降臨し、殉教者が蘇り、「神の国」が築かれるという、預言

・・・ミケランジェロは、左下に復活する死者群を描き、審判の結果、上方の天国へ左から上昇していきます。

右側は、地獄へ落とされる人々が下降してくる。

中央に審判するのが理想の男性像、若きイエス、隣は聖母マリア 

最後の審判は、死者はイエスが復活した時と同じ30代の姿で蘇り、生前の行いを記した「命の書」によって裁かれる。

・・・このヨハネの黙視録は、新約聖書に採用するか否かでもめたようです。

現代では、天国で神からイエスが7巻の巻物を受け取ったのを見た、確かに見たのですと布教しても・・・マボロシーと言われるでしょう。

作成時のDC90年頃はキリスト教迫害時代のようで、信者が脱退しないように得意の脅しを予言にして教会に通達した可能性もあるでしょう。

ミケランジェロの作品では、天使の翼は不必要、悪魔は爪が長く、死の世界は一番下、死者は墓場からはい出し、・・・

地獄の入口は・・・落とされた者が舟に乗せられ、渡って行く先にあります。

礼拝堂の祭壇の真上が目立つので・・・、ここに地獄の入口です。

(最後の審判 ミケランジェロ作 1536~1541年 システィーナ礼拝堂)縦14.6m、横13.3m フレスコ画

・・・ミケランジェロはキリスト教徒ではあるが、若くしてプラトン哲学の中で成長しています。

サヴォナローラ事件、自身の逃避行、ルターの指摘、フィレンツェ包囲、ローマが略奪を受け、それからから9年

・・・波乱の人生、地獄も何度か味わい、キリスト教とは絶対か?真実か?

異教徒の優れた文明・・・批判を承知で祭壇画に深い意味を込めたのでしょう。

・・・さて現代、コロナの恐怖、昔と違うのは、病原体はウイルス、感染に気を付けるという情報だけでも気が休まります。

武力紛争は軍需産業の都合であり、本当の脅威は、ウイルスが人類を滅ぼすと一部の科学者から指摘されてきました。

言葉の軽い、先見性の無いリーダが・・・マスクを全世帯に2枚配布します。

・・・この発言は世界に飛び散り、日本のリーダの資質を見下されました。

年寄りでも金とコネがあれば生き延びられる、我々は大丈夫、経済優先で行きましょう。

取り巻きの浅知恵でしょう、年金も、医療費の増大もコロナ事件で抑えられる、財務のリーダも大喜び

投資対効果は?と指摘をされたら・・・効果の検証は難しい、

報告書は?、批判を受けたら書き換えれば大丈夫と、従前通り無責任時代のようです。

現実的には、政治家の力量不足を今更なげいてもしょうがない。自分の身は自分で守るよう最善を尽くす。

・・・地球温暖化が動物を淘汰し、ウイルスが生物を淘汰する、

コロナウイルスが鎮静化した・・・その先には、予想の出来ない歴史の転換点となるでしょう。

世界をリードしてきたと自認していた欧州が、欧米に変わり、気が付くとアジアが台頭してきた近年、

経済活動は、情報、製造、物流が格段に進化し、効率を重視するあまり在庫を持たない日常が定着し、

危機管理が当てにならなくなると一大事、想定外が多発する時代に、・・・どう生きるか、

個々の生きがい、人生哲学を探し求める時代でしょうか

このような時代、悩んだ末に足が向くのは、かつては宗教だったでしょう、・・・禅宗は人気になるかな?

・・・、ブログは筆が進まず、

ローマは16世紀 ミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の天井画制作の時代を考えていました。

なぜミケランジェロは、裸体が好きなのか、登場人物が不自然な裸体で・・・何を表現したいのか

枢機卿の一部やご婦人方から非難の嵐でしたが、時代はルネッサンス、

キリスト教誕生の前の文明に憧れがあり、ローマのブドウ畑の下にはローマ帝国時代のお宝が眠っているので、

市民が勝手に掘り返し、モグラのような穴がたくさん出現、教皇・枢機卿・貴族と喜んで買い取ったそうです。

これが、最後の審判を描いた時代に時が流れると、アルプスの向こうでルター、カルヴァンがヴァチカンは改革せよ!

呼応するかのように、ローマ教皇に異端審問推進派のカラファー枢機卿がパウルス4世として即位すると、

最後の審判の祭壇画に描かれた裸体画の恥部は、不謹慎として別の画家に布切れを加筆させた。

前後するが、ローマが略奪され多くの芸術家が逃避した先がヴェネツア、ルネッサンスはローマでは終わりを迎えます。

その前に、ヴァチカン宮殿では、この若手が素晴らしい空間を完成させて、歴代の教皇からミケランジェロに変わって寵愛を受けます。

    「アテネの学堂」1510年、ラファエロ・サンティ作 ヴァチカン宮内

聖堂を建て替える大役を受けた建築者のブラマンテが、親戚の子のラファエロをフィレンツエから呼び教皇に推薦します。

不慣れな絵を天井に描き始めたミケランジェロの礼拝堂の隣に、ヴァチカン宮があり、教皇の部屋数は十分にありました。

2階の大部分が教皇の間で、ライバルの前々教皇ボルジアの間と呼ばれましたが、ここには住みたくなく

3階の4部屋を新たに教皇の間として計画済で、この壁に1508年、ラファエロに絵を描かせることにしました。

時の教皇は、ミケランジェロに天井画を描かせたユリウス2世です。

署名の間の一角に描かれた、先の「アテネの学堂」が特に有名でしょう。

中央の朱の衣が、ギリシャ哲学者プラトン (モデルは師匠と仰いだレオナルド・ダ・ヴィンチ)

隣の青い衣は、弟子のアリストテレス、ソクラテスは上段やや左側

中央手前、ヘラクレイトスが左肘をついている(モデルはミケランジェロの説が有力)

ご存じのように、数学者で幾何学といえばユークリッド、そしてピタゴラスほかにも、多くの学者が・・・。

この絵の左下が出入口で、左右の壁面にも、天井そして反対側にも描かれています。

反対側には、聖体の議論と呼ばれる壁画があります。

こちらは、下半分が地上の世界でアリストテレスら哲学者が議論し、

上半分に天上界が・・・キリストでしょうか・・・地上界を見降ろす構図でしょう。

教皇は偉大な異教の哲学者を見降ろせて、威厳が保て、更にこれらの構図、描写力に感激したことでしょう。

ユリウス二世は1513年病に倒れたが、その少し前1510年、マルティン・ルターがローマを訪れていた。

メディチ家出身の教皇レオ10世が誕生したが、

幼少時代から良く知っているミケランジェロを遠ざけ、ラファエロを寵愛したようです。

ラファエロは、ミケランジェロと正反対、社交的で、実業家向き、大きな工房を持ち多くの仕事をこなしていきます。

エネルギーの源泉は、・・・女性も大好きでした。多くの優しい聖母子像などを残しましたが・・・

37歳の春、亡くなってしまい、遺言でこの歴史上の神殿を希望し、パンテオンに埋葬することが許されました。

ローマ帝国時代の建造物で、多神教の時代の神殿です。

行ってみましょう。

丸天井が2000年前に造られていたのです、

この巨大な屋根が地震で倒壊せず残っているのは、奇跡です。

この様な平面図です。

正面の左前方、聖母マリアの左横に聖年像があります

ラファエロ・サンティ

この様な案内が掲示されていました。

ラファエロの墓、ラファエロの死後、1520年に彼の遺体はすぐここに運ばれました。

この場所は芸術家が自分の埋葬のために選択したものです。・・・略

左側のラファエロの胸像は、ジュセッペファブリス(1833年)の作です。略

そして目を下に移すと

一番目立つところに、・・・花が添えられていました。

ルネッサンスの三大巨人の一人とされるラファエロの自画像・素描です

10歳ころと言われています。

こちらが彫刻的作風と言われる、ミケランジェロのレダと白鳥の素描

そして、万能の科学者、レオナルドの岩窟の聖母の素描です

凡人とは全く違う、少ないタッチで雰囲気を、ちょっとの斜線で陰影が、さすがです。

CADで図面を描いている者としては・・・味も個性も必要無し?

大量生産品に、味も個性も・・・必要ですが、作業者が変わっても、マニュアル通りに造れば同一の製品が造れること。

ISOのマニュアルの基本、標準化でした。

味も個性も評価の基準を設定し、測定し、記録が必要、大量生産の品質保証でしたか。

手作り品は、良いですね、温かい。

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第71回 札幌雪祭り

2020-02-24 | 旅行記

主会場の大通会場の観客数、2/4~2/11まで約158万人。主催者発表

前年の193万人からは大幅減少ですが、コロナウイルス対策で地元の園児、生徒の来場中止

中国観光客の入国制限などの影響を考慮すれば、相変わらず集客力は大きいイベントです。

最終日の夜は天候が回復しました。

では、雪像のライトアップやプロジェクションマッピングを見てみましょう。

ここは5丁目、サラブレッド (制作:札幌商工会 第1雪像制作部会)

日本でも7~8年前の秋だったか、東京駅の駅舎にマッピング映像の告知をすると、物珍しさもありか大勢詰めかけ

入場規制、(探すと動画があるはずですが)・・・、翌日は混乱で確かイベント中止のニュースが流れた記憶があります。

立体物に映像を当てて、マッピングする効果?

観客は雪上に立ち見です、ショートストーリーでわかりやすく感動が与えられるか?

白一色の大きな雪像は最適の対象物ですが・・・雪像完成後あわただしく、マッピング調整・・・ご苦労様でした。

民間企業のこの作品、わかりやすく、3D効果もあり、気に入りました。

こちらは、7丁目、HBCポーランド広場、(HBCは北海道放送)

2019年に日本との国交100周年、ポーランド共和国の首都にある氷上宮殿とショパンの像

この巨大なスケール、雪の量、同好会レベルで積み上げられる構造体では無いでしょう。

制作はパイプフレームの仮設構造物がベース?、耐荷重は?、大雪が降ったら雪下ろし?

制作は、陸上自衛隊北部方面通信群 とありました。

この8丁目の ウポポイ これも巨大な雪像です。

(アイヌ民族の国立博物館などが、2020/4/20白老町に誕生する)PRを兼ねて力作が放映されていました。

雪像は、陸上自衛隊第18普通科連隊制作

(映像は結構長いストーリー、事前学習が無いので、・・・後で動画再生し、パンフを読んで感心する)

上映時間は作品により1~5分くらいでしょうか、雪上で次の放映開始を待つのは厳しいので、次に行こう。

・・・大通り公園内の両サイドは一方通行、右側は・・・奥の9丁目方向(西に)一方通行です。

反対側の一方通行を戻って来ました。

暖色系の光りに誘われ、並ぶお店に目が・・・

松尾のジンギスカン・・・こんな所に出展されています。

ジンギスカン丼を・・・目の前のストリートピアノが置いてある、レストルームのテーブルで頂こう。

これは、前日の日中の画像です。

昨日の日中は、こんな様子でした。

大通り 6丁目、北海道 食の広場にやってきました。

屋外にもテーブル席は置かれていますが、釣り天井のビニールハウスが・・・一見暖かそう。

海産物、ラーメン、北海道のいろんなお店が並んでいます。

まずはラーメン・・・ビニールハウス内で頂きます。

風は遮断されていますが、外気と気温は同じ感じです。

地面の雪が溶けると水になりますし、防寒具の人々に暖房類は必要ないでしょう。

ザンギ:北海道では鶏の唐揚げのことと知りました。

では、他の雪像も見てみましょう。

キャラクター、アニメや、TVの人気者も

8丁目の ウポポイ 

中央の鳥は、シマフクロウ、右下に伸びているのが国立アイヌ民族博物館

自衛隊の雪まつり広報ブースがありました。

自衛隊は雪像つくりの主役で長い歴史があります。

製造プロセスがビデオの映像とパネルで紹介されていました。

こちら4丁目 アイヌ物語(北海道は、先住民族のアイヌ文化がやはり主役です)

少し小雪が舞っていて、この日の午後、札幌市内の親戚に家の周りの雪かきに人手必要?と電話をし

・・・在宅で、最寄りの地下鉄の駅から歩いて行こうとしたが・・・駅まで車で迎えに来ていただくことになり

交差点付近で待ち合わせ、・・・向こうの青信号の横、角地の雪山の上で手を振って待っていて頂いた。

結構雪が残っていました。

庭の植栽は雪囲いが施され、黒松、リンゴ・・・雪解け後も手入れが大変な様子でした。

夕刻、札幌テレビ塔前・・・雪が強くなってきた。

こちらは、3丁目の 白い恋人 PARK AIR ジャンプ台 

人気の場所で、斜面の高さは24mもある、最大斜度39°

右側でのフリースタイルのジャンプが終了し、ダンスショー

頭に雪が積もる・・・地下街にエレベーターで避難しよう。

こちらでは地下街は発達しているので、サラリーマンの革靴での光景は驚かないが、

赤いハイヒール姿の女性二人がすすきの方向に目前を歩いていて、・・・防寒コートと不似合いでしょう。

地下街から一歩地上に出れば、こんな様子。

狸小路商店街も、地下街からの出口の屋根は、雪が吹き込みこんな感じ、通路の雪にも注意!

食事をして・・・近くのホテルへ

こちらは12日、快晴、同行の家族のスケジュールに従う。

地下鉄で向かった先が、円山公園 パワースポット

左の奥から雪道を進んできて、この鳥居の先は・・・開拓神社

この木製の柵が・・・北海道開拓時代の雰囲気に合うようで、独特の雰囲気があります。

石段の上の建物は、拝殿、新しい感じがしますが昭和63年の造営とありました。

北海道開拓の功労者、37柱をお祀りしている。

戻って鳥居の先、さらに森の中を進むと、・・・あれは、手水舎でしょう。

この先に、北海道神宮があります。

手水舎横から参道正面に、神門があります。

左は、東回廊が続き、門の横は警備員詰め所。・・・門の向こうに拝殿が見えます。

西側には手前に参集殿、隣に社務所、この門から西回廊があり、受付もこの中の右側になります。

では境内、正面に拝殿、

歴史は明治2年9月、東京で明治天皇の勅使により開拓の守護神、3神を祀る「北海道鎮座神祭」

が斎行され、御霊代は明治2年12月3日札幌に奉遷されたとあります。

その後、北海道の発展とともに社格が高まり・・・昭和39年10月5日、北海道神宮と改称されます。

この境内には、表参道の並木を含め桜の総本数は・・・1,072本

もうすぐ素晴らしい光景が見られる季節になります。

さて、地下鉄の駅に戻り巡回バスに乗り、夕刻到着したのが・・・もいわ山麓駅、地上4階建て

ケーブルカーに乗り約5分、向かった先が、もいわ中腹駅。

売店などがある2階建ての駅舎でした。

ここから別途「もーりすカー」に乗り換える。これは、2両編成のミニケーブルカー(定員60名)

乗車時間は約2分、もいわ山頂駅(山頂展望台)地上2階建てに到着。

標高531m

1階で外に出ることができるが、2階の展望台に上がる。

スキー場のナイター照明が山麓に見える。

展望台のテラスは、360度周回できる。

左下に見える小高い山が円山、この山裾左先に・・・北海道神宮の鎮守の森が存在する。

もうすぐ、案内図の様な夜景が見られるでしょう。

何故かレストランが終了していた。・・・プラネタリウムは開業していたが。

下りのケーブルカーです。

日本新三大夜景 札幌(札幌市は「夜景サミット2018 in 札幌」において、

長崎、北九州とともに日本新三大夜景に認定されました。

これが、日本新三大夜景 札幌のエビデンスです。

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