気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

サンタ・マリア・デル・フィオーレ 花の聖母教会(クーポラを架ける)

2019-04-20 | 旅行記

ミラノのドゥオーモは、威風堂々 美しい容姿を誇っています。

広大な広場、その周囲に屏風のように建物が並び、東側の視線の焦点にどっしりと・・・ピンク&グレー色大理石の優美な教会です。

こちらのフィレンツェのドゥオーモは、・・・見上げるだけ・・・全景が収まるだけの周囲に広場が無いのが残念。

一番の撮影スポットが、・・・ドゥオーモ正面ファサードから鐘楼と洗礼堂の間を100m強西側に離れます。

ジョットの鐘楼が主役になっていますが・・・ここが最善のポイントでしょう。

正面入り口(ファサード)は、手前のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の真向かい(向こう側)となっている。

先に完成していたのが洗礼堂ですから、やむをえません。

では、ドゥオーモの南側は・・・細長い広場はあるのですが

(昔の画像)本堂に沿って、このような撮影はできますが、全景は、・・・南側には建物が建ち並び後ろには下がれない

南西のファサード側に進みクーポラを入れて全景が入らないかと・・・・右後ろに鐘楼があり・・・これも無理。

・・・昔、整理したものがありましたので参考に。

・・・洗礼堂の向こう側から、見上げる感じのドゥオーモの正面を画像編集して・・・全景がこんな感じ。

(これは以前の画像)

・・・まずは、教会隣のジョットの鐘楼・・・建物は、高さ:84.7m、階段414段、・・・ではこちらに登りましょう。

これも以前の画像から、チケットは鐘楼に入ってすぐの窓口で、・・・後は階段を一気に上がりましょう。

隣りのドゥオーモに比べ登る人が少ないので、空いています。

外観から想像できるように・・・四角柱の中に階段ですから、確か何もない狭い所を・・・ひたすら・・・単調な連続動作です。

 右の瓦屋根の間の所から、左の通路にでてきました。

隣のクーポラを見るために上がってきたが・・・

半球では無く、八角形をベースに補強用でしょうリブが頂上部に延びています。

8本骨の雨傘を引き延ばしたような縦長形状です。

よく見ると1辺に横3か所、穴のような跡が3段あります。

・・・これは二重クーポラの間の部分に採光と風の通風対策のようです。

採光の主力は、ドラムと呼ばれる部分に設けられた8か所の大きな朝顔状円形部です。

ここにステンドグラスが施工されていると思います。

・・・このクーポラは、フィレンツェの毛織物業界の威厳をかけて完成させなければと、・・・頑張っていたのですが・・・

1347年秋、インドから香料とクマネズミをジェノヴァ船が運んできて、・・・ペスト菌が拡散。・・・大打撃

その後1年間でフィレンツェ住民の80%が命を落としたといわれます

・・・10年後、他国から労働者も受け入れ・・・経済も少しは上向き、やっとクーポラを何とかしなければという雰囲気に・・・

歴史小説家:ロス・キング氏の ”ブルネレスキ” を参照して当時の様子を調べてみました。

・・・1418年8月19日、布告「目下、大聖堂造営局が建設中の大聖堂に主クーポラを架けるための模型ないし設計図・・・

または建材の引き上げ装置を製作しようと思う者は、9月末までに提出を、採用された者には、200金フィオリーノを与える」

この200金は、熟練工の2年分の収入を上回る大金(作者推定1500万円)です。

 この当時のフィレンツェは、どんな状況だったでしょう。

高さ約6m、外周8kmの城壁を50年かけて1340年に完成していますし、市庁舎(ヴェッキオ宮)と付属の90mの塔も完成していた。

1359年には、上っているこの鐘楼が20年かけてこちらも完成していた。

日常の様子は・・・建設現場にはレンガ工や鉛職人、鳥の巣のような足場によじ登る人々、炉から黒い煙が立ち上り、鍛冶屋が槌を叩く音、

牛が荷車を引く音、料理人や、職人にワインを売る者たち、そして指図(サシズ)の怒声が響き渡っていた。

まだこの時期には城壁の内側に麦畑や野菜畑、羊の群れが追われていたりと・・・農村の面影は残っていたそうです。

市内には砂岩の石切り場があり、アルノ川の砂はモルタルの原料であり、川底の砂利も利用でき、森は建材の確保に丸ごと接収され、

近隣の街から巨大な大理石が運べる状況にあった。

・・・この教会の礎石が据えられたのが1296年、設計者は石工頭のカンビオ。

彼は、ヴェッキオ宮と城壁を手がけた実績があった、しかしこの教会の着工直後に死去。

・・・石工達が数十年かけてこの地にあった二つの教会の撤去を行い、敷地の解体や整地も着々と・・・

当時、完成すればこんな教会と・・・建設中の南側廊に幅9mの縮小模型が注目され鎮座していた。

さて問題なのは、この縮小模型に巨大クーポラが架けられていたことだった。

カンビオも・・・それ以降の誰も・・・巨大クーポラを架けたいが・・・完成までの道筋を示すことができなかった。

建設が決定してから50年間、建造方法はいつか神が答えを与えて下さり、最新の知識を持つ建築家が現れることを祈っていたのだ。

・・・では、鐘楼の屋上部を一周して・・・降りましょう。

上部の階段は・・・こんなすれ違いが大変な幅の狭い所で、

・・・上がってくる方を待って、すれ違いです。

・・・フィレンツェ・・・日が沈み、照明は必要な所に最小限

夜のドゥオーモ広場です。

ドゥオーモ周辺は人通りも少なく・・・照明の少ない所に行くと・・・大理石に囲まれた非日常の空間は、

・・・ひんやりとした空気が流れ・・・一瞬、中世の人が飛び出して来た? 事件か? そんな気がして振り返ったが何もなかった。

フィレンツェの街中は、この後、道路・広場・中庭、平地を全て大理石などで覆っています。

・・・緑が必要?・・・郊外の邸宅にはブドウ園など保有している裕福で自己主張の強い人々が支配する・・・共和制の都市です。

さて今日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のシンボルといえば、大きなクーポラ。

1418年の布告後、どうなったのでしょう?

・・・ローマで古代ローマ人の遺跡やパンテオン(悪魔の家と呼ばれた)などを10年以上調査した二人連れがいました。

その内の一人、時計職人・金細工師フィリッポ・ブルネレスキがコンペに参加し、最終2案に入った。

競合相手は、ロレンツォ・ギベルティ(金細工師)で、・・・宿敵だった。

・・・十数年以上も前の1401年に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉の新設コンクールが行われた。

7名の応募者があり、34Kgのブロンズ板を支給され、ブロンズ彫刻作品(43cm×33cm)を1年後に提出することとなる。

作品の主題は、創世記の22章の「イサクの犠牲」で、結果は、ブルネレスキと無名だったギベルティが今回と同じく最終2案に残った。

一説では優勝は両者、共同での制作案に対して、ブルネレスキは単独制作を主張、・・・審査員に拒否され・・・コンペから辞退している。

その護、残ったギベルディによって完成した扉がこちら

天国の門と言われ、主題の「イサクの犠牲」は右列の上から2番目、その左はノアの箱舟、聖書の各場面が描かれている。

・・・今回のクーポラのコンペは、またも羊毛組合の審査委員達、両者の模型を比較しても結論がでず・・・

(建築の素人審査員ですから無理もない、斬新な案には提案者から具体的に丁寧な説明がないと理解ができないでしょう)

従来の経験の延長線で大規模な保持型枠を沢山作れば可能という案と、型枠など無しに造れるという斬新な案のブルネルスキ

無難なギベルディを押す審査員にアイディアだけが盗まれるのを恐れたか、工法を公開しないで単独受注にこだわるブルネレスキ

・・・結局1420年春になり、優勝賞金の無きまま、審査会が38歳の石工頭を総監督に指名した。(設計はできない現場監督だった)

さらに、審査会は二人を総監督に追加する・・・(そうです、最終案に残った二人の提案者です)

他にも、60歳の知名人哲学者が建築経験の無いギベルティの補佐として総監督になります。

結局総監督は4人でスタートとなった。・・・(多くの船頭の一員の立場だったが、ブルネレスキは辞退しなかった。)

3か月後の1420年夏、ブルネレスキも建築経験は少ないが、ローマでの調査や透視画法の実力者として知られ、彼の模型を基に仕様書が採用された。

12項目の覚書には、しかし具体的な作業手順・施工方法は書かれていなかった。

ブルネレスキに賞金は支払われていない。・・・(不満は大いにあったが、調査した古代ローマの知識を生かすことに生涯をかけたのでしょう。)

・・・(クーポラ内部に上り、別途工法は考えてみましょう)

時は流れ、その後クーポラの頭頂部、ランターンと呼ばれる八角形の小屋(採光・通風の役目など)は1461年に完成します。

さらに、その最上部に取付けた球体はヴェロッキオ工房が製作しています。

1466年にレオナルドが14歳でこのヴェロッキオの工房に弟子入りしています

” 球体の作り方を見た ” という レオナルドの話が伝わっていますが、巨大な建築物より歯車仕掛けの装置に関心が強かったようです。

これでクーポラの外観は今日のような姿、完成形になりましたが、この時点では、クーポラ内部には、・・・天井画は描かれていません。

入口のファサードも・・・強度に問題があり、建設途中で中断、1587年取り壊されて・・・未完成、仮設の状態と思われます。

レオナルドがフィレンツェ在住当時、目にしていた教会はクーポラ内部は仕上げられていないが、教会としては利用されていました。

(・・・今日のような正面ファサードの完成は、後年・・・1887年頃となります。

フィレンツェは1443年からメディチ家の統治となり、ギリシャ・古代ローマ時代の文化を積極的に発掘し、学ぼうとしています。

・・・高い建物の上部に銅製の球体が乗り、さらに突起部が伸びている(避雷針の知識はなかった)・・・雷も落ちたようです。

サヴォナローラの時代、このドゥオーモで日曜日には2万人もの信者に説教をしています。

・・・そんな中、1492年4月5日に落雷が起きたとあります。

落雷で頭頂部から何トン分もの大理石が落下し、その落ちた方角から人々は不吉な予感を感じた。

その時、芸術家のパトロン、豪華王と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチは熱病で別荘の病床だった。

石材が落ちた方角を聞かされたロレンツォは「私はもうおしまいだ」と叫んだ。落雷から3日目、亡くなった。

・・・ルネッサンス真っただ中のフィレンツェは・・・リーダーを失い・・・またもや紛争勃発の危機。 

当時レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ王国、ミケランジェロは教皇に呼ばれローマで仕事とフィレンツェにはいなかった。

・・・( 完成したクーポラに上ってみましょう )・・・

ドゥオーモの南西にある入口から、・・・階段は、合計463段のようです。

まずはクーポラが架かるドラム部までが地上43mです。

建設工事時、階段は本堂の周囲壁面に4か所設けられ、上りと下りは専用だった。

見学者はこの当時の階段を利用して上ることになるようです。(職人は40階建てに相当する階段を毎日上っていた)

扉の内部階段スペースは、四方が壁で薄暗い・・・数段くらい上り、右に90度曲がり若干上がり、また右に折れ数段と・・・

天井が高い2階分くらいに到達、明り取りの窓から、ドゥオーモ南の建物が見えた、

さらに1階分上がる度に明り取りの窓があり、

屋根が見えるので3階くらいの高さでしょう。

さらに明り取りの窓を3か所過ぎたころにようやく、変化が・・・広い所にでてきた。

この部分は多分 身廊部の屋根が架かる付近の高さで、クーポラとの接続部あたり・・・

このような儀式中の人々が出迎えてくれて、・・・

 この階で工事が長い間中断していて、石材や道具類の小屋などがあったのではと想像するが・・・

この位スペースがあれば、ブルネレスキが労働者向けに食堂を設置することも可能だったでしょう。

左に進むと、"禁止 壁に落書きしないで” と警告が掲げられていた。

内部に入ります・・・多分この先からクーポラの架けられる円筒部の建物になるのでしょう。

この先、右側に螺旋階段部が、

・・・これは時計と反対回りに上る・・・150段あるようです。

こちらは、ぐるぐると狭い範囲を上って行く。

(下りの螺旋階段は別の所にあり、時計回りに下りてきます)

 明かり窓が大きくなり、格子が入っている、下界の様子は・・・

目の前に右下がりのレンガの屋根が・・・これは翼廊と呼ばれる部分の屋根のようです。

 屋根より上まで上がってきました。もうすぐ・・・でした。

翼廊と円筒部の接合部あたりにいるのでしょう、らせん階段が終わり、右に進む通路が見えます。

この通路の先、左側に明り取りの窓があり、そこで直角に右に曲がります。

数メートル進むと・・・ゲートがありました。

今立っているのは内殻と外殻の隙間、・・・いや、二重構造の内側(内殻)の壁に開けた通路でしょう。

 

ゲートから内部に入ります。

右には進めず、左に一方通行

日本語も見えます、・・・「立ち止ま ず」

八角形のクーポラ内部を、約半周するのかな・・・内側には透明樹脂のフェンスが設けられています。

この高さから上部には・・・壁面に明り取りの丸窓があり、ステンドグラスが施されている・・・ドラム部が周囲にあります。

クーポラの基礎部として、円筒形のまま高さをかさ上げするために約9mも積み上げた部分がドラムと呼ばれている。

クーポラは難しくて架けられないが、当時の石工ができるところまで造ろうとしたのでしょうか、

1410年にドラムを完成させ、ガイドブックではドラム最上部では高さが55mとか

・・・参考にしたロス・キング著「ブルネレスキ」では、

1420年8月7日朝、地上43mの高さで大聖堂造営局が現場で働く石切工、石工ら労働者に朝食を振る舞い工事開始の祝宴を行っている。

ドラムの上部に上がらず、この階で祝宴を行ったとすれば大体話は合いそうですが・・・。

(・・・展望台からの下りでは、この位置より高い、このドラム部の上側の通路を周回します。)

この位置から天井のランターンを見上げると、採光効果が必要なのがよくわかります。

 

(これらの天井画:最後の審判の制作は、1572年~1579年 ヴァザーリとズッカリ作と言われています。)

1541年にヴァチカンのシスティナ礼拝堂の有名な「最後の審判」を仕上げたミケランジェロは、

1564年亡くなっていますので、故郷フィレンツェのこの天井画を目にし、批評することはなかった。

クーポラに進むため、周遊通路からまた二重クーポラの隙間に進みます。

 1426年には大聖堂造営局が作業を怠ける物がでないよう、石工が日中ドームから降りることを禁じています。

ブルネレスキは外殻と内殻の間に食堂を設けて、火も使えたといいますから、すごい状態ですね。

約800Kgもある砂岩の切石を何百個も、・・・地上からドラム上部にどうして引き上げるのか・・・

1418年のコンペで装置も募集したが、模型は1件も提案されなかった。

ブルネレスキは何か考案しなければ、作業が進まない・・・時計職人の知識もあり、このような巻き上げ機を開発した。

ピサで作ったロープの長さは・・・、何と180m、重さ450kg以上、・・・そして、この装置は1421年夏に完成しています。

性能は、牛1~2頭の動力で、一日平均50回、およそ10分に1回の割合で荷揚げを行ったとあります。

1421年秋ブルネレスキは賞金を要求した・・・結果、これまで使用していた者より有効として100フィオリーノを得ている。

しかし、まだ問題はあったようです。・・・この高所での、石材の微妙な水平移動が難しかった。

(完成するか保証も無く、完成目標も無く、良く予算をつけ、材料を入手し、大聖堂造営局は担当者を次々と引き継ぎ継続したものです。)

・・・クーポラには結構登る人が多いので、前の人と間隔を取り、あおらずユックリと・・・。

ドラムを上がります、右側に内殻があり、左の外殻との間は結構広い、・・・手すり付きの階段を上る

 今度は、内殻側に階段が付いているが幅が狭くなってきたようだ。

内殻は当初は漆喰が塗ってあったようだが、剥がれてレンガの表面が見えている。

こちらは・・・通風と採光の枠が大きくなったような気がしますが・・・。

やがて内殻と外殻の隙間が、上部で急激に狭くなるような場所にやってきた。

左右で階段があり右は上り専用、左が下り専用で、内外殻の隙間が広い場所だ。

ドラムから高さ17m位までは、多分過去の経験でクーポラの内側に石材を保持する木枠を組まなくても、

くさび形の石材を内側にズラシながら30度くらいの角度までならモルタルが生乾きでも摩擦力で石積みは崩れない。

ドラム上部で・・・架けようとするクーポラの内殻の厚みは2mもあった、頂部で1.5m弱。

外殻は基部で0.6mの厚み、天窓部分で0.3m強です。

・・・従来のクレーン(起重機)では役に立たず、またも大聖堂造営局より、アームが長く、重い物を操作できる装置のコンペを行った。

1423年4月、今回はライバルを差し置き、本命のブルネレスキの設計が選ばれた。

早速資材が調達され、3か月未満で完成・・・7月から稼働している。

後年、ヴェロッキオもクーポラ上部に高さ2.4mのブロンズ製の球体をランターンの上に設置する際にも使用していました。

これは、その時印象に強く残ったのを、レオナルド・ダ・ヴィンチがスケッチで残しています。

クーポラの比較も ”ブルネレスキ” の本より拝借

半球状の物体を伏せた状態で、上部に荷重をかけ更に自重も加えると垂直荷重で、・・・受ける石材はつぶれる事は無いようです。

垂直以外に外側に半球が広がろうとする力が非常に大きくなり、結果、クーポラ部が崩落する危険があります。

その解決策が、クーポラ(内殻)を囲む形で輪を作り広がらないようにしなければならない。

考えた結果、特注の石材を数多く使用して、連結することにした。

長い石材が長さ2.3m、幅0.43m、短い石材は0.6mくらいか・・・各々100個以上

輪といっても実際は八角形、角の部分は鉄の金具を作り繋いだ。長い石材は、レゴブロックのように凹凸の加工で接続している。

この抗張力環は、10m高くなる毎に必要とされ、徐々に複雑な形状となっていった。

・・・さて内外殻の隙間が狭くなったクーポラ上部を手摺につかまりながら、長い階段を上ります。

ここでは、湾曲した階段を踏みしめているうちに、丸屋根に上っているという実感がわいてくる。

上り終えると、外の光が差し込む踊り場に到着します。

降りる人とすれ違うのでここで待機。

振り返ると上ってきた階段が見えます。

そして右側に見えるのが・・・外の光を浴びた階段です。・・・10段弱でしょうか。

では右側の階段を登り、展望台にでましょう。

下の画像は・・・なにやら不可解ですが・・・

右は、テラスから階段を降りてくる人、左は地上から見たランターンとその周囲のテラス・・・この場所に出ます。

出て、横に移動し・・・この眺望です。

鐘楼が街色に溶け込みながらも存在感はあります。・・・洗礼堂は・・・隠れています。

・右(北)にメディチ家礼拝堂が見えます。

振り返れば・・・ランターンの巨大な大理石、

・・・これだけでも大変な作業です。

採光部は網入り?(模様?かな)ガラスのようです、・・・通風対策に角度が変えられるようです。

では、クーポラの真下を覗いてみましょう。

身廊の屋根との接続部まで見えます。

 

結構真下に近い所まで見えるので驚きます。 

若干汗をかき、心地良い風に当たりながらですが、ガラス窓越しの展望台では無く、高所恐怖症の方には厳しいかも・・・

南側に・・・アルノ川、ヴェッキオ宮殿、シニューリア広場

・・・その向こうに目に良い緑がたくさん見えます。

画面上部(西側)には、フィレンツェ駅、その手前左に、薬局が有名なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会

こちらパノラマ画像では、更に西側に・・・サン・マルコ修道院(美術館)が見えます。

もう一方のサンタ・クローチェ教会が遠く左端に白くファサードが見えます。

その向こう、丘の上にミケランジェロ広場があります。

先程の鐘楼を見てみましょう。

上部に瓦の屋根が見えます。

隣りの教会の屋根も同色の瓦です。

・・・とにかく巨大なクーポラは完成しました、木材を使用した部分は経年劣化し、補修や交換が必要ですが

石材の建築物はそのまま・・・有り続けます、それが良いか悪いは別として

便利さや、使い勝手、改造、建て増しを要求しないで、歴史観光の街として保全しながら使用する。

既にある物を何故と思わず、有難く受け入れる・・・疑問に思わず、まず信ずることから全てが始まる、この国の宗教の街でした。

 ・・・では、先程上ってきた・・・この階段から降ります。

この階段部は、屋根が無いので頑丈な蓋で閉じ、雨水を侵入防止する構造になっているようです。

階段部を上から覗くとこの様に・・・床面のレンガはクーポラの頂上部でしょうか。

右側の少し見える階段から上って来てました。

レンガの床面の高さで、内殻を半径約3m開けクーポラの架け工事は完成でしょう。

半径3m部の孔はランターンが取付けられる採光の開口部です。

下りは、多分この階段を降りて左に進み、屋根の内側は違う階段を降りたと思いました。

壁にどうして落書きがしたいのか、・・・

そして帰りのクーポラ内部の周回通路

こちらは目前に天井画が迫ってきます。この位置はドラムの上部に設けられた周回コースです。

・・・壁面が内側に傾斜している様子が良くわかります。

 

天井画を見上げると

等間隔で黒い丸は、天井画製作用の足場に利用した 鉄のリングか 差し込んだ跡と思ったが・・・

クーポラに描かれた人物達、下から3段目くらいになると多分内側に50~60度くらいの角度でレンガを並べることになる。

アーチ状に加工した木材で石材を支える迫枠(セリワク)が無くてどうするのか・・・。

・・・正確なことは不明のようですが、結局大聖堂造営局は膨大な木材の確保に数年以上も必要で難しくなってきた、

さらにこの高さまで木枠をくみ上げるのは不可能と思い、ブルネレスキに工法は任せたようです。

多分抗張力環で弾けるのを押さえながら、クーポラ中心点の垂直方向を基準にしたいので、木組みで細長い塔は建てたでしょう。

中心から紐を水平に回転させ内側にせり出す位置を確定、レンガを並べモルタルが乾いてから上の段へと・・・

そうでした、河原の砂地で原寸大のリブの図面を描き、松の木で木型(長さ2.6m、幅0.6m裏を鉄板で補強)を8本作った。

この木型をクープラの内殻の外側に設置し、内殻と外殻が一定の角度で立ち上がるように調整し、

リブのレンガを何段か積んでから、あいだの壁を積み上げていった。

・・・ここで下の段に上の段に連結する特注の長いレンガが用意され、頂部に向かって0.9m間隔でらせん状に組み込まれた。

上の段にレンガを並べる際には、下から伸びた特大レンガを一緒にモルタルで固定し、・・・レンガで縦方向に4~5層も連結しました。

内殻と外殻は同時進行し、八つの壁面全てでモルタルが固まり、レンガ積みが環状につながって十分な強度が得られてから、次の水平分を積む

1週間で1層弱、1か月で約0.3mの慎重なペースで進められた。

さらに、円に比べ八角形は難しいので、内殻が2mも厚みがあるので、壁内部に0.75m幅くらいで水平にレンガを積んで円形な輪になるように固定した。

外殻は厚みがあまり無いので、すぐ内側に円形の水平のアーチを埋め込んでいった。

幅0.9m、高さ0.6mのアーチは、上下の間隔を2.4m開けて、9本設けている。

これらは、1426年のブルネレスキの修正案の中で外殻の内側にレンガで水平アーチを設けるよう指示されていた。

このような工法の組み合わせで無事クーポラは閉じられ、取り合えず・・・ほぼ完成しました。

・・・(最期の階段を降りて、地上に到着)

ブルネレスキが途中から当然のごとく建築責任者となり・・・着工から、ここまで何と15年。

1436年3月25日献堂式が行われていますが、頭頂部はデザインはあるが、施工図はできていないなかった。

・・・アレコレ調べていたら、長くなってしまった・・・。

さて、教会内部に入りましょう。

内部は17世紀、正面ファサードは19世紀と完成までには、この教会も長い年月を必要としたようです。

この中央部では無くて、

案内があったようです。

では、内部に・・・

入ってきた入口上部に、有名な時計があります。

パオロ・ウッチェッロの時計と呼ばれ、ミサが行われる日没までの時間を示すようです。

文字盤はⅠ~ⅡⅣ、針は反時計回り(逆回り)とありますが、利用方法は?

教会内部から見上げると・・・こんな天井画、天地創造です。

1446年4月15日ランターンが工事に入るころ、ブルネレスキは69歳で急死します。

葬儀はこの教会で行われ、遺体は議論の結果、5/15日大聖堂の内部に埋葬される栄誉が与えられた。

場所は、南側の側廊の地下、・・・かつて模型が置かれていた場所だった。

記念碑など一切ないようで、「偉大なる発明の才を持つフィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ、ここに眠る」

墓石にこのように・・・発明の才を持つ・・・と書かれているようです。

 

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フィレンツェ、光と影

2019-04-06 | 旅行記

ダビデの顔にハートが隠れてる・・・昔そんな情報で、アップの画像を撮っていました。

・・・瞳の中のハイライト、・・・確かにハートがありました、・・・この作品はレプリカですが。

ここは観光の定番コース・・・、1875年に完成した、丘の上にあるミケランジェロ広場です。

・・・フィレンツェ・・・今年のカレンダーに掲載された建築物は、・・・花のドゥオーモでした。

フィレンツェのドゥオーモと言えば・・・

1296年、この頃には最後の十字軍も完敗して、パレスチナから最後の兵も撤退しています。

フィレンツェの街はヴェネツィア同様商売繁盛、最盛期を迎えつつあります。

北ヨーロッパから羊毛を買い付け、染色・加工の毛織物で財を成し、その財が貸金業・金融業で発展し・・・人口は5~6万人。

・・・14世紀には10万となりヨーロッパでは、ヴェネツィア、パリ、ジェノバと並ぶ大都市となります。

景気の良いフェレンツェでは・・・威厳のある教会を建てよう、石組で、見たことも無いような巨大な建物が良い・・・

やがて、外観ができてきました、・・・祭壇の周囲まで組み上がった、・・・が、なぜか空が見える。

・・・ポッカリと上部は穴が開いたまま、・・・雨、風が吹き込む・・・しかし、屋根が架けられない。

この巨大な石材では重すぎて、円形に橋を架けるようにはできない・・・延々と中断が続き、

諦めていたが、何とかしなければと・・・1418年、有志が設計コンペを行い・・・

・・・難産の末に、金細工師の二重ドーム案で完成したドゥオーモです。・・・やはり、印象的な作品、これが主役でしょう。

広場の展望台から旧市街のパノラマを見てみましょう。

 手摺の手前に、洒落た案内板があります。

 アルノ川は右が上流ですから左に流れています、下流にポンテ・ヴェッキオ、

もう少しアップにすると・・・

フィレンツェのランドマーク、目立ちます。

枢機卿の帽子のような、王冠のようなユニークな形状です。

四角錘の鐘楼も重厚感があります。ドーム(クーポラ)は・・・落ち着いた赤茶のレンガ色です。

の色調が統一されているので、青や緑の屋根はありません。電線や、パラボラアンテナ、空調設備も目立ちません。

トスカーナ地方は、街の景観を厳しく規制しています、例えば、窓枠の色は緑色か茶色・・・アースカラーです。

縦長のラグビーボールの上に、人が見えますが・・・展望台です。

もちろん、エレベータはありませんが、内側を階段で登れます。

・・・川向こう、目前に見える茶褐色の大きな建物は、サンタ・クローチェ聖堂、手前側に修道院

橋を渡って、この大きな建物の向こう側の通りを左側に歩いて行くと・・・教会前の広場に出る。

その先、目指すは、この時計台がある市庁舎:ヴェッキオ宮

 

 それから・・・シニョリーア広場を抜けて、その先を左に曲がるとやがて・・・ポンテ・ヴェッキオ・・・が。

ヴェッキオ橋の上、2階建てになっているヴァザーリの回廊が・・・ここから良く見えます。

・・・、前方から・・・この広場の横をジョギング、・・・羨ましい、・・・走って旧市街に行きたい・・・。

1km7分弱のジョギングペースで、広場まで2kmくらいですから14分・・・ ここは石畳では無いので、走りやすそう。

FitBitで脈拍を管理しながら、GPS機能でジョギング跡がスマホに表示できる機能もあり、最近のジョギングは楽しいですよ。

・・・ついて行くのは諦めて、バスで旧市街の城壁まで移動です。

さて、教会の横の通りから・・・サンタ・クローチ広場に出てきました。

中世の時代、贅沢三昧なキリスト教の聖職者達、・・・世の中は階級社会、しかし聖書の教えは少し違うのではと、

・・・アッシジの27歳普通の男性が、聖書の清貧の教えを聖職者のラテン語では無く、市民のイタリア語で説明すると、

評判になり・・・聖フランチェスコとして修道会を創設し、異端と指摘されることなく、法皇の認可も受け・・・新風が吹き始めます。

(同時期に同じように清貧を重んじたドメニコ修道会も結成されています、が・・・こちらは神学に重きが・・・。

ドメニコ派のサン・マルコ修道院は、コジモ・デ・メディチにより1443年頃再建されていて、この街では有名になる。

フランチェスコ派と同じように修道会として行動しているので、ライバル視されていたようです。)

フランチェスコ達は急激に信徒が増え、アッシジからこのフレンツェのアルノ川中州に移り・・・13世紀にフィレンツェ市民が費用を負担し、

この湿地帯に教会と修道院を建立します・・・15世紀頃にはこの教会・修道院などが完成しているようです。

サンタ・クローチェ聖堂、・・・色大理石のファサード、清楚な、華美でない、端正なゴシック建築です。

ガリエロ、ミケランジェロ、ロッシーニ、マキャヴェッリ・・・、非常に多くの有名人が埋葬されている教会です。

多分ここは入場が有料になったと思います。

・・・広場の端から北西に路地を進みます。

路肩の窪みに・・・水たまりが、結構気になります。

石畳みの表面の色も・・・黒ずんでいるようで、補修予算が少ないのかな・・・

四つ角に出ました、・・・右側にサン・フィレンツェ広場が見える

これは裁判所、・・・向こうの塔・・・

右に鐘が見えるのがバルジェッロ宮、塔は54m、13世紀の建物で現在は、バルジェッロ国立博物館

ここはルネッサンス時代は、警察署に使われていて、・・・悲鳴・うめき声も聞こえてきた、拷問によって。

その先の左、建物の向こうに、さらに高い70mの鐘楼が・・・ここはフェレンツェ最古の教会です。

10世紀ベネディクト会の修道院が建ち、清貧・貞潔・服従を説き、祈り・働け がモット-ですから厳しい修行です。

1071年には病院が併設されていますので、すごいですね。13世紀に建て直されその姿が・・・今日に。

・・・では、この角で左に折れ、次を右に曲がり

右の市庁舎と左の美術館を繋ぐ、渡り廊下が見えてきました。

アーチの渡り廊下の向こうにも、アーチの回廊のある建物があります・・・彫刻が沢山あるようです。

渡り廊下の下・・・こちらもアーチが続いています。

ウフィッツィ美術館です。

こちらの展示作品は、・・・今日でも光が当たり続けています。

以前の画像です。

ニョリーア広場に進みましょう。

設置場所で屋内だ、外が良い・・・ミケランジェロがこの位置、市庁舎前にこだわったという「ダビデ像」がこちらです。

これも劣化が進むのでレプリカですが(本物は、すぐ近くのアカデミア美術館)

シニュール広場は、観光地です。

警備も重要です。

ショルダーバッグ・・・厚みがありますね・・・違反切符の綴りでしょうか・・・

制服が無いと親子のようですね。

こちらでは、記念写真。・・・突然、ビックリしました? 動いた? 嘘・・・彫刻でしょう、ロボット?

最初に訪れた昔の画像がこちら

 花の都、でも色々なことがありました・・・

気になっていたことが・・・

男性二人が地面を見つめています。

 何やら視線の先には、マンホールのような物が

 これは、・・・1498/5/23、不正なる判決によって、修道士ジローラモ・サボナローラ・・・ 略。

あの ボッティチェルリの絵画も、・・・堕落させるという贅沢品が市民から集められ・・・焼き払われた。

貴重な品々もあり、ヴェネツィアの商人が〇〇で買い取らせてください。しかし、受け入れられず・・・焼かれた。

翌年もまた焼き払われた、その場所でしょうか?

・・・この街でイベントとなる歴史行列、5月23日の歴史行列では、この場所に花が置かれる。

当時の様子を描いたものが、・・・ここから北に約1kmのサン・マルコ美術館に作者不詳で掲げられています。

 1498年5月23日のニョリーア広場

市庁舎の左横、遠方にサンタ・クローチェ聖堂が、・・・左の角型の鐘楼はバルジェッロ宮、その隣にベネディクト会の修道院

花の大聖堂のドォーモも見えます。

気になるのが・・・市庁舎から花道のような・・・舞台が伸びた先で、焼かれているのは・・・贅沢品?

3人が火刑にされています。ショッキングな史実を描いた絵です。

火刑にされたのが、サン・マルコ修道院院長サヴォナローラ、そして他修道士2名、・・・

塩野七生女史:「神の代理人」では、サヴォナローラと法王の書簡、フレンツェの商店店主、法皇の秘書官の日記で構成されたドラマが描かれています。

当時の様子がリアルに描かれていますので、抜粋させていただきます。

まず、この火刑から・・・さかのぼること50日、

1498年4月7日、やっと真実が証明される日がやってきた。法王から破門された預言者をフィレンツェの人々は信じ続けていた。

フィレンツェの人々が、朝からこの広場に続々と集まってきた。

ビッキオ橋の方面から進んできた人々は、角を右に曲がると時計台が見えてきた。

日記の薬種香料商人(近くのお店の主人)は、もう1本裏の通りからこの広場にやってきた。

ドォーモの鐘楼の方からの人々は、カルツァイウォーリ通りを進むと、

 

正面にランツィのロッジア(回廊)が見えきた。ここに本日の主役が並びます。

東地区方面から集まってきた人々は、市庁舎の横から入ってきたのでしょう。

4月7日、仕事などする人は誰もいない、広場の入口は閉鎖され、3か所だけの入口は武装兵士が警備している。

女・子供は入れない。さて何が始まるのでしょう。

政庁が昨日実行と決定し、準備が進んでいた。・・・政庁から斜めに、広場中央に舞台がせり出していた。

レンガを積み重ねた土台は、高さ1.5m、その上に幅6m、高さ2.4mの廊下は両端に大量の薪の束が並び、中程1.2mが通れる通路だった。

(火刑の絵画にあった木製の通路と違い、耐火れんが造りで重厚な造りのようです)

この廊下が30m続き、木材と薪の間には所々に火薬が置かれ、油も振りかけられた。

広場は立錐の余地もないほどの人だ。正午の時刻が迫ってきた。

・・・サンタ・クローチェ教会(広場の東側 0.5km)の方角から、フランチェスコ派の修道士たちが入場してきた。

静かな人々で・・・こげ茶色の修道衣に縄の帯、ロッジ(回廊)の政庁側の席に着いた。

・・・サン・マルコ寺院の(広場の北側から 1km、ドゥオーモの方向)方角からドメニコ派の修道士たちが入場してきた。

二列縦隊で聖歌を合唱しながら・・・黒の僧衣の修道士250人位の中に火のような色のビロードの長衣を付けた修道士ドメニコ、

大きな十字架を捧げ持ち、その後ろにキリスト像をかかげた修道士サヴォナローラの姿が見える。

修道士たちの列に続いて多くの人々がたいまつやろうそくを手に持ちそれに続く。

サヴォナローラ崇拝者たちは広場を半周してロッジの反対側に着いた。

・・・準備がすべて整った、早朝から待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。

昨日、政府委員会が ”火の試練” をサン・マルコ修道院に伝えたのだった。

・・・ご存知の方も多いでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ1452年生まれ

 

ジローラモ・サヴォナローラ:ドメニコ派修道士です。・・・これも、サン・マルコ美術館

・・・フィレンツェといえばメディチ家、当主のロレンツォ・イル・マニフィコが知人からサヴォナローラを推薦され、サン・マルコ修道院に呼んでくれた。

1491年、39歳でサン・マルコ修道院院長に就任、

1492年、メディチ当主のロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなる。

サヴォナローラは花の大聖堂ドゥーモなどで、メディチ家のような贅沢を批判し、質素な生活を説きます。・・・さもなければ敵の手に堕ちると。

同年、ローマ法王の選出(コンクラーベ)は、枢機卿の買収合戦の末、アレクサンデル6世が誕生した。

この法王は、キリスト教会史上最も悪名高い法王といわれる。聖職売買、親族登用が盛んに開始され始めた。

1494年 フランス王国のシャルル8世が9万の軍勢でナポリに向かう途中、領国内通行の自由と必要物資の提供を要求してきた。

サヴォナローラは、民衆に説教した”私の預言は的中した。神自らあの軍勢をひきいておられる。神の怒りの試練、鞭がふりおろされる。・・・”

メディチ家の当主を継いだピエロがフランス軍勢に弱腰の対応をした結果、民衆が暴動、メディチ家一族は追放される。

・・・フィレンツェでは共和制が復活した。

・・・サヴォナローラは、敵の手に堕ちると予言した救国の預言者として、政治にも影響力を持つことになる。厳しい禁欲生活を強要して・・・。

1496/2/7 商店店主:頭巾をかぶった少年少女たち、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身に付けていれば人々からそれを取り上げ、子供たちの玩具まで奪う事件が起きた。

修道士の少年たちが近づくと逃げる者もいたが、それでも堕落した習慣を追放する、この行為をほめたたえていた。私も新しい時代に生きる幸せに恵まれたものである。

・・・法王からサヴォナローラに書簡が届く”・・・預言は自分が言うのではなく、また人間的な知識から得たものでも無く、神の啓示によるものだ”と言ったという。

これは、私の羊飼いとしての義務に属することなので、じかに会って、神が選んだというおまえの口から神の啓示を聞きたいと思う。訪ねてくるように。

・・・聖職者としての法王を批判し、再々の呼び出しを書簡で断り続け、・・・サヴォナローラは法王から説教の中止、さらには・・・破門にされる。

1498/2/18 日曜日、花のドゥオーモで説教を再開し、その後も毎週のように説教が続いた・・・神の預言者としての振る舞いで。

・・・法王は、目に余るサヴォナローラを異端者として処刑する、と・・・殉教者となられては困るのである。

聖職者としての法王は多分失格者だが、俗界の人間としては知識は優秀、家康のように我慢強かった。

法王は、フィレンツェの大使から再々の赦免願いに・・・サヴォナローラの教理は間違っていないが、説き方が問題という。

説教師の立場の重要性を考えると、多数の民衆と同時に接する唯一の立場なのだ。

ざんげが 1 対 1 であるのに比べ、その重要性は計り知れない。

説教師の責任が問われ、教理の根本が正しいだけでは不十分だ。

根本を把握し理解できる人は少数で、素朴で単純な人々は説き方次第でどんな方向にも動いてしまうものだ。

根本などは忘れてしまい、説くのに使われた材料の方が、大きく印象づけられてしまうのだ。

説教師は、どう説くかにも責任を持たねばならない。

サヴォナローラの説き方が、扇動的でその責任を感じていないことを・・・フレンツェの大使に伝えた。

・・・3/27、サンタ・クローチェ寺院で説教したライバルとされるフランチェスカ派の修道士が、

サヴォナローラが、真の預言者であることは神が奇跡によって示される と言う・・・では、実証しよう”火の試練”で挑戦する。

・・・フランチェスコの挑戦は、彼とサヴォナローラが、相前後して燃え盛る火の中を歩いて通り抜ける。

サヴォナローラが焼かれなかったら、預言者として認め、彼に従うと言う。

3/28、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花のドゥオーモ)で説教した修道士ドメニコが、昨日の挑戦を受けると発表した。

その足で政庁に行き、”火の試練”の署名をした。

3/30 フランチェスコ派の修道士ロンディネッリも署名した。相手にサヴォナローラを指名したが・・・受けなかった。

4/5 フィレンツェ大使がローマ法王を訪問し、

「本国政府は、”火の試練”について、猊下(ゲイカ)はどのようなお考えなのかを知りたいと申しております」

・・・「私は不賛成である。それどころか、非常に不愉快な気持ちで、この知らせを受けた。

なぜならばこれは、神を試すことである。キリスト者にはあるまじき不遜な行為だ」

4/6 ローマ、ヴァティカンでは、誰一人、修道士が無傷で出てくると信じている者はいない。

焼死の可能性の方が強いくらいだ。予言者も気の毒だ、民衆を満足させるため、奇跡を行ってやらねばならないとは。

だが、自ら始めたこと、後始末は、やはり自分自身でするしかない。

・・・話を戻そう ”火の試練” ・当日 ・・ところが、催し物はなかなか始まらない。

朝から何も食べていないのに、正午から3時を過ぎても、両派の修道士の対決が始まらず・・・不穏な空気が流れたが、兵士に制止された。

・・・ドメニコ派がキリスト像を持って火に入ると言う・・・それは神への冒涜だとフランチェスコ派、ドメニコ派が譲らず・・・政府と協議が、何度も・・・

夕方5時頃、突然 パラパラと雨、・・・すぐに豪雨になった。

その時、屋根のあるロッジにいたドメニカーノの何人かが立ち上がり「奇跡だ!奇跡だ!神が”火の試練”を望んでおられないという証拠だ!」と叫んだ。

われわれは怒った。何時間も待たされ、雨まで浴び、怒声が飛び交う・・・ドメニコ派はやる気がなかったんだ。

・・・結局、政府が中止を決定、・・・群衆は叫んでいた。「われわれは欺かされたのだ。あの偽預言者のために欺かされたのだ」

・・・

結果は、両派とも引き上げ、市民の外出禁止、預言者サヴォナローラを増悪する群衆が彼を殺そうとしていると噂が広まる。

( 夜のシニョーリア広場 )

4/8 民衆の怒りが爆発し、花のドゥオーモではドミニコ派の修道士を引きずり降ろし、”サン・マルコ”へ・・・

修道院襲撃、関連先の襲撃・略奪も続き、・・・政府代表はサヴォナローラと配下の二人をやっと深夜2時逮捕、・・・

警察署で拷問・・・「自分は預言者ではない、説教は神の啓示ではないと」自筆で書いたものが、後の裁判で読み上げられた。

4/9 4年間に渡ってフィレンツェを支配したサヴォナローラ、一夜にして崩れ去ったと法王の秘書官は書き残している。

・・・

5/20(日曜日) 政庁内で公開裁判、人々はミサにも行かず、それを見に行った。

司教は、サヴォナローラに「神の言葉を聞いたこと、預言者であることは、嘘でしたと言ったことを認めるか?」

・・・「認めない!、自分は預言者だ!」

サヴォナローラは、結びつけられた縄で高々と吊り上げられ・・・

・・・「認める!私は罪人だ!神の声は聞かなかった!」

裁判はこれで終わった。

5/22 商店店主:サヴォナローラ、修道士ドメニコ、修道士シルヴェストロの3人に死刑の判決が下った。

罪名は、異端の罪、分派運動を行った罪、聖ローマ教会に対する反逆の罪である。

処刑は、まず絞首刑、その後に火刑、日時は・・・翌朝と決められた。

----気になる処刑の絵について、こんな状況であったかも---

商店店主:5/22 夕刻に広場を通った時、準備は完了していた。

見ていた人から”修道士たちは十字架に掛けられるのだ”というだ声がした。そうだ、そうだの声

・・・役人が出てきて、横木の上に出ていた柱の先が削られた、T字形にして十字架に見えないようにするためだろう。

5/23 政庁前桟敷席、法王特使、政府高官、地区高位聖職者、そしてあらゆる会派の僧たち、

広場の群衆は、”火の試練”の日よりも多いほどだ。

三修道士が連れだされ、最後にサヴォナローラがつるされ、彼を信じていた者は、軌跡でなくても、何か言ってくれるに違いない・・・。

・・・だが、彼は何も言わなかった。多くの人をがっかりさせ、彼への信仰を失わせた。

火が点けられ、火は高い柱を駆け上がり、・・・四肢が下に落ちてきた。残った胴体を落とそうと群衆は石を投げた。

落ちた胴体も徹底的に焼きつくされた。信者の手に、何も渡らないようにするためである。

手押し車が運ばれ、焼きつくせなかった骨片と灰が積み込まれた。

武装兵に囲まれて、ポンテ・ヴェッキオへ向かった。

昔の画像です。

100m先は橋

肉屋街が立ち退かされて、金・銀・宝飾店が多くなり

ウインドウ・・・商品が気になるが・・・良く見えない?

値段が?

サヴォナローラは、今日の教育を受ければ、宝飾品販売や販売促進行為、贅沢をすることは悪とは言わないでしょう

格差社会と貧富の差に対して、どのように発言するでしょうか、・・・羊飼いは、世の中の羊が多くなって大変でしょうが。

・・・この中央部あたりから、・・・手押し車の骨片と灰が撒かれたのでしょう。

橋の中央から振り返えると、下流側には銅像と回りの手摺に南京錠が・・・思ったより少ないが・・・

 

銅像は16世紀、金細工の父として近くの宝飾店たちが建てたようですが・・・

アルノ川に遺灰ではなく、・・・ここで南京錠に鍵を掛け、二人で小さなカギを川に投げ捨てると・・・この南京錠が永遠の愛の鍵とか?

昔は山のように付いていましたが、・・・160€ 罰金となったようです。

結構な金額です・・・昔はOKだったのですが、知らなかったでは済まないでしょう。

・・・そうです・・・昔は良くても・・・川に物を投げ込むのはやめましょう。

 

 

 

 

 

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