気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

トスカーナ州 Pisa、そしてSiena

2019-06-22 | 旅行記

トスカーナ州と言えば、ワイン、・・・キャンティ(Chianti)地区の名産品です。

伝統的な地域で生産されるキャンティ・クラシコもありますが、イタリア産では北部のピエモント州のワインも人気です。

廉価なワインは関税が有利なチリ産が販売を伸ばしましたが・・・今春からEUのワインも関税ゼロに、チリ産程廉価なタイプは少ないでしょうが、

・・・イタリアのワインは、生産量は世界一、イタリアでは、ワインは水より安いと言われます。

食事にワイン、ワインの席ではカンツォーネ、

突然歌手が登場し・・・こんな光景後、テーブルを回ってチップを頂く、長い伝統文化のようです。

さて、フィレンツエは、ミラノ、ヴェネツィアと争いながら、海路を支配したい、金融の街シエナも吸収したいと近隣ともゴタゴタが続いたルネッサンス時代でした。

グーグルの画像を拝借し、ピサとシエナの位置関係を確認し、・・・昔のピサとシエナの画像を探して・・・

フィレンツェからアルノ川に沿って下流、西の海に向かいます。

モノレールでは無く、ローマ帝国時代の水道橋が朝日に浮かび上がってきました。

わずかな傾斜を作り高低差を利用する、測量技術と土木工事の優秀さが有名ですが、

水源を探し、都市の人口を推定し、公共事業として長期計画を立てる・・・2000年も昔、このような壮大な発想に感心します。

車窓からアペニン山脈が見えてきました。雪が残っています。

情報では・・・標高1388mのアベトーネ(abetone)にスキー場があるようです。

フィレンツェから90km弱、中部イタリアの人々はバスが運行されるので冬はスキー、夏は避暑地で賑わうようです。

麓のルッカの街は標高19m、フィレンツェでも50m、これから行くピサは5m。

山があると季節が感じられていいですね。

・・・出発から1時間くらいでしょうか・・・高速道路を降りて海側から回り込んで、公共の駐車場へ。

そこから歩き、・・・オッ 売店が続いていた

このピサの隣の隣町 山麓にピノッキオの作者の縁でピノッキオ公園があるようです。

童話:嘘をつくと鼻が伸びる人形・・・その人形が、このピサでも多くの売店に置いてあります。

左の城壁の中が目的地

ゲートから内部に入ると・・・芝生が目に飛び込んできた。

ここは公園か?・・・綺麗な芝生に、整然と建物が配置された・・・ドゥオーモ広場のようです。

手前の洗礼堂、そして、ドゥオーモのファサードが見えて、・・・斜塔を探す・・・正面の奥に写真で見た建物が・・・あった。

鐘楼が、顔を出している。

こちら側が西側、太陽が東南から降り注いでいる。

一番奥の鐘楼は、建設途中で南に傾き、傾いたままその上部に石材を積み上げたら更に少し傾いた・・・そんな感じが出ています。

良く見ると、2階を積み上げる際に少し傾きが始まったようにも見えます。

斜塔の地面は、全てコンクリートで固められ、灰色の世界かと思っていたが、綺麗な広場だった。

さて敷地の東側に進み、振り返って鐘楼を・・・押し戻さなければ

支えるだけ?・・・そんな行為が流行りました。

右側の芝生の先の建物で斜塔の入場チケット購入、時間制限あり、・・・荷物を預ける所があり、そこに預けて鐘楼に登ります。

登り始めると・・・オット、南側(外側)に身体が持っていかれるので・・・階段の端を登ろう

半分周ると

徐々に・・・内側の壁に身体が寄って行く・・・結構身体が振られて、垂直に立てないので

気持ちが悪くなってくる記憶がよみがえってきた。

そして狭くなる階段を登って行くと展望台に出ます。

ここで眺望を楽しんでいると、更に上段に早く上がるように、女性係員にせかされ、事情が分からず・・・とにかく上に。

そして、最上階に上ると、リング状の展望通路が待っていました。

時間枠で入場者を入れ替えるので、一旦全員を最上部に挙げて、狭い階段を下り専用にして、順番に下ろす。

そんな交通整理をしている女性係員だったようです。

さて、展望台を一周したが、海が見えない。

かつては海洋王国だったはず、ジェノヴァ、アマルフィ、ヴェネツィア、そしてピサ、

海岸線は、西側・・・この方向・・・しかし直ぐ先から緑の森林地帯・・・湿地帯の先には・・・砂浜のようです。

その先が・・・海、・・・海岸線から相当離れているようです。

もう少し左側に向きましょう。

・・・左側をアルノ川が流れていて、下流が海・・・左前方が河口のようです。

ピサは、アルノ川の河口から少し上流に上った所に、街が発展していたのでした。

・・・以前の画像あれこれ・・・ピサの斜塔がこちら

さて、中世の時代に繁栄を迎えたピサには、ローマ建国のモニュメントがありました。

ドゥオーモ広場の芝生の上で、このように台座の上で目立っていました。

ロムルスとレムスの神話・・・「オオカミと双子」川に流され(捨てられ)た乳飲み子が、オオカミに育てられ・・・ローマを建国した双子です。

神話は別の機会として、このピサのドゥオーモ、そして斜塔にも、地元の名士 ガリレオ・ガリレイの有名な話が残っています。

落体の法則

身廊に並ばれた汗だくの信者達・・・遠路ご苦労様と頭上を振り子のように芳香剤の香炉が行き来する光景がありました。

振り子の等時性

1564年 ガリレオ・ガリレイが、ここ ピサ で生を受けています。

ガリレオは母校ピサ大学で3年間数学を教え、その後ヴェツィア領のパドヴァ大学(1222創立 ボローニャ大学に次いでイタリアで古い)で

数学教授の職を、ジョルダーノ・ブルーノという元ドミニコ会の優秀な修道士と争います。

1592年、28歳のガリレオが教授の職に就き、28歳でナポリを捨て各地を放浪していたジョルダーノが敗れた、44歳になっていた。

この年、コロンブス新大陸発見・・・そして8年後の1600年、日本では関ケ原の戦い、

・・・残念なことにローマでは、ドミニコ会の修道士が異端の罪で火刑にされています。

あのジョルダーノはガリレオに教授職で敗北し、間もなくヴェネツィアで官憲に訴えられ逮捕されてしまいます。

28歳で故郷のナポリを離れた理由が、・・・優秀な頭脳が貪欲に知識を吸収し・・・宇宙は無限と考え地動説を支持したから・・・異端の疑いを掛けられたのでした。

そして、・・・1593年、ローマの異端審問所に送られます。

地動説の本家コペルニクスも異端を指摘されたのでしょうか、そして異端審問で火刑にされたのでしょうか?

・・・1543年70歳で亡くなっているが異端審問どころか地動説をローマ教皇に説明したり、トラブルはなかったようで、逆にルターが反対したとか。

異端審問?とは、・・・聖書で何と書かれているのか、忖度しているのか?、教会の権威に何が傷付くのか?

・・・ユダヤ教の聖書はここから「初めに、神は天地を創造された」・・・この偉大なる言葉が全てなのでしょう。

コペルニクスは異端とされていない、・・・ジョルダーノは、ローマ教皇に自説の一部を撤回すればOKと思っていたようですが、拒絶されたそうです。

異端審問が開かれ、繰り返し全面撤回せよとの要求を拒絶し、四大河の噴水があるナボーナ広場のすぐ南、今日でも人気の カンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されてしまいました。

・・・1979年、カトリック教会は「処刑判断は不当であった」と判決を取り消しました。

現在では、広場中央に彼の銅像が立っています。

ガリレオ:数学が得意で、実験をしデータを取る、検証・証明、力学の法則の発見、望遠鏡で天体を観測、「星界の報告」の発表・・・科学者です。

ローマカトリック教の信者、ガリレオは有名になり、出る杭は打たれた・・・「信じる者は救われる」一辺倒の人々達からでしょうか?・・・異端と訴えられ

1616年 最初の宗教裁判 コペルニクスの「天球の回転について」などが暫定閲覧中止、ガリレオに罰は無かったようですが、注意を周囲から促される。

1632年、ガリレオ「天文対話」発表、細心の気配りで天動説と地動説の対話スタイルとしたが・・・、

1633年、第2回異端審問所審査(宗教裁判)で異端の有罪判決、「天文対話」禁書となる。

火刑ではなく・・・70歳近いガリレオは、終身禁固刑から、地元のトスカーナ公国のローマ大使館での軟禁刑に減刑される。

判決を聞いてつぶやいたとされた「それでも地球は動く」は・・・彼にふさわしい言葉として、周辺から生まれたのでしょう。

1638年「新科学対話」を自国では、発行できずオランダで発行する。

1642年 78歳、永眠する。(1737年 教皇の許可が出て、フィレンツェ サンタ・クローチェ教会にやっと埋葬された)

・・・羊飼いの力は・・・想像以上です・・・いつも驚くことになります。

1992年、ガリレオ裁判の誤りをローマ教皇表明する。

ピサのドゥオーモ、フィレンツェでも見られた様式です。

ロマネスク建築、修道院から始まった、・・・当初は大きな建物は壁を厚くするしかなかった。窓は少ない。

天井は橋のアーチの実績がありますから半円形で上部の重量を受ける、室内は暗いので高所に採光窓を、

偶像崇拝は、十字軍から帰って・・・現地にはイエス・キリストの墓があった。人間だった。

具体的に崇拝する対象が見つかり、・・・アットいうまに威厳のある偶像が出現、この教会はファサードの最上部センターの位置です。

12世紀にはこのようなピサ様式と呼ばれるデザインがトスカーナを中心に広まったといわれます。

ではトスカーナのもう一つの古都、シエナに向かいます。

・・・・・

今年のカレンダーに・・・シエナがありました。

フィレンツェのヴェッキオ宮(かつてはフィレンツェ共和国の政庁)と雰囲気が似ています。

こちらは、プッブリコ宮(市庁舎)です。

13世紀から14世紀前半の建物ですから、ピサのロマネスク建築から約1世紀、技術も進みゴシック様式と呼ばれます。

シエナも、以前作成したこのような画像がありました。

旧市街の北西の駐車場から城壁を回り込み、左手はスタジアム、右手は崖・・・そんなミッレ通りから右前方の眺めです。

 

手前はサン・ドメニコ教会、ずっと奥にもクーポラと鐘楼が見えます、シエナ大聖堂でしょう。

この旧市街は3つの丘に囲まれた地形を利用しているようです・・・高台にはランドマーク・・・教会ですね。

200mも進むと右手に先ほど見えた縦長の大きな窓の教会がありました、すっきりしたデザインです。

この教会は、デザインがシンプルだが・・・入り口ファサードは?・・・この横から入るようです。

ということは、サン・ドミニコ会の修道院として、主に修道士達が使われていたのでしょうか。

・・・聖 カテリーナの礼拝堂があり、聖遺物として聖女カテリーナの頭部が納められていました。

1380年に亡くなったカテリーナは、1939年からイタリア全土の守護聖人として崇拝されているようです。

内部は窓が大きいので結構明るく、過剰な装飾もなく、安らぎの感じられる教会でした

この教会の前広場がサン・ドメニコ広場、鉄道のシエナ駅は遠いので、バスでこの広場で降り、ここから観光をスタートする方が多いようです。

さて、左側に進み坂道のサピエンツァ通りを下っていくと、賑やかなバンキ・ディ・ソプラ通りに突き当たります。

通路の向こうの広場が・・・建築様式を説明するのに便利な建物に3方向を囲まれた、サリンベーニ広場です。

広場奥で日向ぼっこの若者が座っている、正面の建物がサリンベーニ宮(14世紀のゴシック建築)

左側の日が当たっているのがタントッチ宮(16世紀)、一方右がスパンノッキ宮(15世紀後半)この壁面上部に有名人の頭部が並んでいる。

中央の銅像は、会計学者サルスティオ、正面の建物内部も素晴らしいようですが、当時は未公開でした。

・・・この広場を裏側に回り、先に見えるの丘の上に、修道院でドメニコのライバル、サン・フランチェスコ教会があります。

さて、メインストリートのバンキ・ディ・ソプラ通りを・・・中心部の南に進むと100mほどで左に

ここにも教会が、ガイドブックでは、サン・クリストフォーロ教会、12世紀頃建てられたとあります。

ギリシャ彫刻の流れでしょうか、両サイドの壁がん(ニッチ)に素敵な彫刻がありました。

12~13世紀には、これほどの彫刻作品は無いでしょう。

この教会は、ロマネスク様式ですが・・・何度も改造され・・・最終的に完成したのが1711年、

しかし、1798年に大地震が襲いファサード崩壊しています。

再建は、時代が変わりバロック・ロココの次・・・新古典主義と呼ばれる様式が流行っていました。

・・古きギリシャなど古典を見直す動きです。

作者は、Giuseppe Silini 1802年のようですが、詳細は・・・残念ながら、不明です。

BEATA NERA TOLOMEI  彼女も聖人と思われます。

この教会は修道女たちの修道院でしょうか。

 一方、どくろと本を持つ聖人は、法律を学んだ SAN BERNARDO TOLOMEI 

シエナ生まれの聖人です 聖ベルナルド・トロメイ ペストで1348年亡。

街の中心部に急ぎます、

ビルの間から、・・・見えてきます。こんな光景が

緩やかな下り坂になっています。

 ここが有名なカンポ広場、

プブリコ宮殿、マンジャの塔、ガイアの噴水・・・略

かつて、ガイドブックから、下記のような備忘録を作成していた。

続きが・・・チョッ見つからないが・・

さて、カンポ広場を左に見て、その先右手の丘の上に・・・回り込んで坂道を登ると・・・ドゥオモ広場に出てくる。

古代ローマ帝国の町があったカステルヴェッキオ山の頂上とのこと。

1260年。ライバル・敵国フィレンツェとのモンタペリティと言われる戦いに大勝利した頃に、このドゥオーモの建築は始まっていたようです。

当時の建築平均工期は、ロマネスク様式の時代は、凡そ着工から完成まで50年・・・携わったものが完成を見ることができるか微妙な工期です。

これがゴシック様式になると、既存の教会より威厳を求めさらに大きく高くステンドガラスに彫刻に、内装を華美に・・・

凡そ、着工から100年計画・・・国教である宗教団体ですから、誰の時代に着工したかが重要で・・・完成時期の責任も、保証もなし、目標は?

完成したら・・・新たに区割りを考え直そうということでしょうか。

この教会、1282年ファサードの建設が始まります・・・下側は13世紀末のデザイン、上部は14世紀後半のデザインといわれます

長期に渡るので、関わる人々も多くなり、デザインだけは、途中で調和を考え、上半分は最近のゴシック調で統一するぞ・・・などとなるのでしょう。

宗教は強い、・・・長年予算が無く建設が中座しても、後を引き継ぐ者がでてくる・・・地獄には落ちたくないでしょうから。

シエナは、ローマ帝国時代はローマの植民地であり、「オオカミと双子」は町のシンボルです。

このような彫刻以外にもいろんな所で、親しまれているようです。

ロムルスとレムス・・・ローマ建国の神話に登場しますが、神話ですから多少は無理があるでしょう、

双子の誕生までの前段がありますが割愛、テベレ川に流されオオカミの乳で大きくなり、羊飼いが登場・・・この後の進展も?

やがて兄弟の争い、弟レムスが殺され、一説ではそのレムスに二人の息子がいて・・・逃れた先で興した街がシエナ、

なるほど、・・・あちこちで良く見かけ、大事にされているわけです。

一方、テベレ川の川岸に近いパラティーノの丘にロムルスが建国し、都市として発展し、ローマと呼ばれるようになったといわれています。

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フィレンツェ あれこれ

2019-06-10 | 旅行記

フィレンツェ、アルノ川、河口からこの街の上流まで、船の往来ができた時代の地図のようです。

良く見るとジョットの鐘楼、花の聖母の大聖堂が中央に見えます。

右隣にシニョリーア広場のヴェッキオ宮も見えますが、現在、ウフィッツイ美術館として利用されている建物は建っていないようです。

ウフィッツイと呼ばれた建物、その回廊の上部2、3階が美術館となり、渡り廊下で隣の建物につながりイタリアで一番人気の美術館です。

 

今日のフィレンツェ旧市街の骨格は、16世紀に波乱のメディチ家・コジモ1世によって完成されたと言われます。

この建物ウフィッツィは、1580に完成したフィレンツエ共和国政府の政庁舎で、コジモ1世のお抱え芸術家が設計しています。

チマブーエからミケランジェロまで133人の「画家・彫刻家・建築家列伝」を1550年に出版した有名人、ジョルジョ・ヴァザーリです。

・・・さて、今日では個人での予約が取りにくいと言われるウフィッツイ美術館、回廊に入場ゲートらしきものができていた。

団体客が指定された範囲に順番に並び、・・・やっと・・・ゲートを抜け館内でセキュリティチェックを受け・・・3階に上がり、そこで改札

・・・フィレンツェのガイドの方は、この第一廊下で天井画のグロテスクについて説明、・・・そしてカメラ・ビデオは禁止、

・・・いや 撮影? できる?・・・。エーッ!・・・そうだった、忘れてた。

・・・確か数年前の秋から撮影可能に成ったはず、・・・ストロボは禁止とか・・・言っている。

慌ててカメラの設定を確認し、感度を上げて・・・ストロボOFF、

説明が終わったガイドさんに・・・独自で回りますのでと行動を伝えに・・・レンブラントやカラヴァッジョの展示室は変わっていない?

エッ!・・・展示されてない・・・2階に無い? 展示が変わった?、閉鎖中?・・・良く分からないが・・・

取り合えず、目の前の13世紀の作品・・・必ずガイドが最初に説明を始める作品・・・一応、節目の作品なので確認しに行こう。

・・・オッ、配置も変わっていた。

・・・チマブーエ から ミケランジェロ その チマブーエ です。

「マエスタ」:この主題で多くの宗教画が教会の祭壇などに掲げられています。

多くの信者たちが同時に見ることができ、神秘的な世界を信じられるような絵画が欲しい・・・聖母子とイエスが分り易く描かれ、背景は金色。

マエスタ:荘厳(ソウゴン・ショウゴン)などと日本語の訳が付けられ、さらに設置された教会名などが付記されて、作品の題名となっています。

チマブーエの作品、1280~90年頃の作・・・(サンタ・トリニタの)マエスタです。

大きな板絵に描かれています、425×243、板にテンペラ、昔の平面的な宗教画ですが・・・服地をグラデーションで彩色し立体感が表現され始めています。

・・・注目されている作品は、・・・ジョットの鐘楼の・・・そのジョットさんです。

チマブーエは、ジョットの師匠としての関連性もあって、比較できるように隣に展示されているのでしょう。

絵が描ける人は、多少基本を学べば、建築物の完成図も上手に描ける、完成予想図が描けなければ、大きな建物は心配で頼めません。芸術家は何でもできたのです。

 そのジョットさんの マエスタ(オンニッサンティの聖母):オンニッサンティ教会にあった信仰画。

「マリアの処女性と母性と威厳に対する賛歌が描かれる」とウフィッツイ美術館2011年の公認ガイドブックでは説明されています。

ガイドブックも含め評論は、作品に新たな発見が見つかったりしますと、当然大きく変わったりしますので、あくまで参考程度に。

 「玉座の聖母子」と紹介している本も多い

この作品は、左の天使が聖母に冠を差し出し、右の天使が、幼子イエスにキリスト受難のシンボル聖体器を差し出している

足元の天使は、マリアのシンボル、バラとユリの花瓶を捧げています。

これらの、いつしか伝えられた決まり事を重要視させ、型にはまった宗教画がこの時代も続いていました。

作品:1310年頃の作品 325×204 板にテンペラ

しかし、この作品は多くの著名人から(ダンテ、・・・ゴッホ)最高の画家だ!たくさん模写をしたい!イタリア絵画・西洋絵画の父などと絶賛されています。

・・・作品の技法が、立体感のある玉座に座った聖母の顔から表情が感じられ、左右の天使の配置も・・・前後に遠近法で描かれています。

この作品は、写実的で新しい時代の先駆けとして評判を呼び、この美術館で徐々に重要な展示位置を確保してきたいるようです。

大部屋の一角に展示されていましたが、今回の扱いで、ジョットはルネッサンス先駆者三人衆の主人公となって来たようです。

 ・・・三人衆のもう一人が、フィレンツエのライバルだった隣町シエナ、金融業務で競い合った街の画家の作品です。

チョット、優雅な雰囲気、この作品は凝っていて額縁に聖人など30人の半身像が描かれています。

 マエスタ:(ルチェッライの聖母)・・・画家:ドゥッチョ・ディ・ボンニセーニャ

1285年頃 450×293 板にテンペラ

ジョットの前の世代、フィレンツェのチマブーエと同世代の画家ですが、チマブーエより写実的でしょう。

これから注目されて人気が出てくると思います。

さて、撮影が可能となれば、展示室の雰囲気も重要です。

このような有名な絵画もあります。

ウルビーノ公爵夫妻の肖像、画家よりも肖像の主人公が有名です。1470年頃の作品、

ウルビーノ公国とは、ルネッサンス真っただ中1443年誕生した新興国で1631年まで存続した。

肖像画のフェデリーコ3世が統治したのは1444~1482年、フィレンツェから東に170~180km、アドリア海に面した小高い丘陵地に宮殿を持つ

小国の軍人でありミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長で無敗の名将、片目を失い横顔が多いとされるが、・・・鼻は合戦で折れた

この作品は、夫妻の絵が向かい合うように2枚の板絵に描かれ、本のように連結されていた、裏側には地元の風景と馬車に乗っている絵があります。

ラファエッロの生家もあり、宮殿は美術館となっている、・・・坂道の街のようだが訪れたい都市です。

この作品は有名になり過ぎました。1465年頃

聖母子と二天使:フィリッポ・リッピ、修道士画家がよその修道女に恋し、モデル・・・そして結婚、娘は後に画家に

この柔らかな輪郭・・・特徴があります。ボッティチェッリも相当影響を受けたのでしょう。

これも有名?ですね 題材が

・・・そして、この美術館の目玉の部屋に進みます、レイアウト、展示変わりました。

プリマヴェーラ(春)1482年頃 板に油性テンペラ

壁面一杯の大作です。203×314 

そしてこちらに ヴィーナスの誕生 1484年頃 リンネル布 テンペラ(キャンヴァス画)

172.5×278.5

あれ、この作品もありましたが

・・・最近日本で公開された際、ポスターに使用されていましたのが

奥に見える作品です

パラスとケンタウロス  1482年頃 リンネル布にテンペラ 207×148

ロレンツォ・・メディチが所有していたなどで、多くの作品が焼失せずここに展示してありますが・・・

サンドロ・ボッティチェッリは、サヴォナローラに心酔していたようです。

メディチ家のような贅沢が批判され、ボッティチェッリは自分の作品も人々を堕落させていると考えたのでしょう

・・・多くの作品をシニューリア広場で焼き払いました。

こちらの多角形の一室には、メディチコレクションが展示されています。

彫刻、そして16世紀絵画が壁面に密集して、当時のスタイルで並べられています。

・・・美術館の南端、・・・廊下の窓からアルノ川が見えます。

天気が良くなってきました。下流まで・・・架かる橋が良く見えます。

遠くに・・・ピサの斜塔が・・・その先に海・・・共に遠すぎてもちろん見えません。

今日は穏やかなアルノ川です、ボート部の生徒でしょう舟艇が良く見かけられましたが・・・。

さて部屋が変わって、この絵も有名です。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のクーポラが完成し、その上に八角形のランターン(採光など)が造られ

更に最上部に球体のシンボルをヴェロッキオ工房がクレーンで吊り上げ据え付けていました。

そのェロッキオさんの、キリスト洗礼 180×152 製作年代は諸説:1473-1478年頃

左端のかわいい天使

弟子のレオナルドが10代で、工房の作品に参加し描いています・・・師匠もビックリ、こんなに技能が優れていたとは。

そして、レオナルド・ダ・ヴィンチによる 受胎告知 がこのようなスタイルでライトアップされていました。

受胎告知のイメージがこの絵で完成してしまったようです。

依頼主があっての宗教画ですから、あちこちで描かれているうちに、・・・人気のイメージに収束されていくのでしょう。

背景の描写も注目されていまして、結構描き込まれています。

右側の建物の3階から・・・渡り廊下です。

北側に・・・フェレンツェのシンボル、クーポラが見えています。

展示作品は・・ルネッサンス時代に限れば、レオナルドの作品を数多く模写したこの人

聖母像を描かしたらNo.1

ヒワの聖母 1505.6年頃 板にテンペラ 107×77.2

ローマで工房を持ち大活躍しています。

教皇レオ10世 など有名な作品も多いですが モナリザに雰囲気が似ている

 

マッダレーナ・ドーニの肖像 RAFFAELLO SANZIO と額に刻まれています。

そして、チマブーエ から ミケランジェロ 

ミケランジェロの作品が、こちら

「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」 1506-1508年頃 板にテンペラ 絵画φ120、額外径φ170

壁画以外の作品は・・・多分確認されているのは、この作品のみ、

この作品にも何故か5人の裸体の男性が登場しています。

額にも登場人物が5人・・・フィレンツエの商人ドーニのために描かれたとありますが・・・。

・・・ルネッサンスがフィレンツエからローマ、そしてヴェネツェアへと移り

そのヴェネツェアの有名画家 テッツアーノやティントレット、北欧のレンブラント

 そして、ルネッサンス後の個性派画家、イタリア出身カラヴァッジョ(Caravaggio)の作品も人気が有ります。

美術館はこれくらいにして、街中で有名になりたいと多くの芸術家を見かけます。

一方、これらの人々も有名人ですが、近づいてきたら関わらず、急いで離れなさい・・・と言われます。

イタリアでは、取られる人が悪い・・・親しそうに話しかけてくる人に関わらないこと・・・昔から言われ続けています。

このデザイン、機能美、インダストリアルデザインは歴史があります。

マネキンも近未来でしょうか、

人気のブランドショップが数多くあります

ミケランジェロが購入し一時は住居として使用し、その後一族、ブオナッローティの家もあります。

市内にも街路樹が欲しいが、鉢植えでした。

少し歩くと、またこの一角に出て来ます・・・クーポラの裏側です。

何度も見てくると、この教会は幾何学模様のデザイン、素材と強調されたラインのコントラストで重厚感、威圧感が強い

色大理石で多少マイルドになってはいるが、目的とする巨大な建物を建てたい・・・は達成されていました。

周囲は全て石造り

石畳の上をマッピングされたバスが通り、

石造りの建物から暖かい光が目に飛び込んでくるとホッとする。

ブランド品の並ぶ通りに、・・・ここにも古い教会が

活気のある、元気な所に行きましょう。

こちらは、裏側になるかも・・・入口です

ここは中央市場、中に入ります。

1階は食肉や鮮魚、チーズ、ワイン、オリーブオイル、2階は青果市場

テーブルがある片隅で食事もできる、地元の市場です。

閉店の時間が近く、急ぎ足でアチコチと、試食ももちろんできます。

地元のワインもありました。

ワインや乾燥ポルチーニ茸など購入し、市場を後にします。

そして、近くを散策

画材にひかれ店内へ、こちらでカレンダー類を購入

この倉庫のような建物、壇上で演奏会です。

この建物の左側に回り込んだ面が正面(ファサード)です、・・・ミケランジェロに制作を依頼してあったが

未着工のまま、何もない石積みの壁面のまま・・・今日へ。

この大きな側壁の祭壇に近い右端にも入口があります、・・・上部の紋章はメディチ家です。

ここは、サン・ロレンツォ教会、メディチ家の菩提寺です

そしてこの右側に、大きなクーポラのあるメディチ家礼拝堂が連なります、内部はメディチ家の墓所

ミケランジェロやドナテッロの聖具室など・・・多くの彫刻があります・・・有料となり公開されています。

さて、こちらも白、緑、ピンクの色大理石で積み上げられたゴシック建築の教会です。

ファサードの前は、目に易しい緑の芝生がありました。

1246年と着工は古いドメニコ派の聖堂です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

しかし、この教会のファサードも、周辺も最近このように綺麗になってきました。

フィレンツェ中央駅が教会のすぐ裏で、この近くに宿泊したこともあるのですが、今回はジックリ探してみましょう。

この教会よりも有名な、・・・1612年に認可され、一般に販売し始めた、現存する世界最古の薬局です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局

 一度入ってみようとしたのですが、中々入り口が見つからず、教会前のスカラ通りを中央駅の方へ進んだ右側でした。

内部で喫茶室の手前に、薬草を栽培し、薬剤を調合した釜なども展示されていました。

オーデコロン、石鹸、など人気の商品を販売しています。

近くの中央駅に寄ってみましょう。

 かつてはイタリア国鉄が運営する Treni Eurostar エウロスターETR500、現在は民営会社トレニタリアが運行

ローマ、ナポリへ・・・快適な旅となります。

日も暮れて、夜の教会、これはサン・カルロ教会でしょうか

何故かピンクの光に吸い寄せられて、

建物の壁面や角々に窪みが設けられ、聖人などの彫刻が収まっているのが良くみられます。

これらの彫刻を持つビルが教会だったりして、ここにも教会という感じで・・・カトリック教の街でした。


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