気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

夕暮れの九份へ

2016-07-22 | 旅行記

鼎泰豊(ディンタイフォン)この店は台北で創業、世界でも有名で東京の日本橋高島屋(B2)にも出店しています。

ここの小籠包は独自のレシピがあり形状、重量、細かく規定されているようです。行列は当たり前のようでした。

さて・・・食後の散歩にこちらの広場に行ってみましょう。

ここは、政権の交代で名前が変わった所です。

「自由広場」の看板が掲げられています・・・この「自由」の前は?・・・「不自由?」・・・そうだったかも知れません、ここ台湾は長い間戒厳令が引かれていたのです。

国民党独裁政権を率いた蒋介石の座右の銘「大中至正」の看板が掲げられていました。

政権交代があり、2007年12月7日「大中至正」の看板は撤去されました。そうです、大昔の話ではないのです。

大中至正とは、中庸こそ正道の意味とのこと、別に拘束するでも不自由とも関係ないのですが・・・蒋介石は好んでこの言葉を使ったそうです。

蒋介石(ショウカイセキ)、介石とは日本留学時代のペンネームだそうで日本ではこのように呼ばれています。

「蒋中正」(チャン・チュンチェン)蒋が姓、中正が名、介石は自分で追加した字、現地では「蒋中正」(チャン・チュンチェン)と呼ばれるのが一般的。

・・・「中正国際空港」などと台湾各地に「中正〇〇」と、蒋中正を讃える名称が多くありましたが、

この自由広場と同様、政権交代後「中正国際空港」は、現在の台湾桃園国際空港に改名されました。

広場の先にこの様な建物がありました。一部修理中のようです。何やら額があります。中正紀念堂・・・中正とは、そうです蒋介石(蒋中正)の功績を讃えて・・・。

1975年、蒋介石死去5年後の1980年に、このような中正紀念本堂が落成します。海外の多くの華僑・華人が参加して盛大に落成式が行われたそうです。

この中正紀念堂も「台湾民主記念館」に名前が変わったのですが、国民党(馬英九)が政権を取り返すと、この建物は中正紀念堂に戻しています。

ご承知の様に今年、また体制が変わりました。5月20日祝賀式があり、台湾初の女性総統、民進党の蔡英文(ツァイ・インウェン)が檜舞台に登場しました。

ここでは、台湾の歴史劇が披露されました。

「台湾の光」と題された歴史劇は、大航海時代以降・・・台湾にポルトガル船が・・・、オランダ人、スペイン人とやってきて、清王朝の軍隊もやってきて「植民地」とされた。

日本統治時代は、国民党前政権が”植民統治”としていた表現を、新政権は「高圧的統治」と変更されたようです。

・・・平和な台湾の島に住んでいた人々(本省人)は武力で侵略されると抵抗しても、弾圧されてしまった歴史があります。

日本敗戦後、大陸から軍艦でやってきた国民党政府が上から目線で起こした2.28事件、戒厳令の時代の悲劇を乗り越えると、

今度は国民党前政権 馬英九(外省人)は、中国は一つと主張する大陸の中国共産党にすり寄って行くのを苦々しく思っていたことでしょう。

治安が良くて、人々が親切で、親しみの持てる台湾!自主独立を期待しています。

・・・広場で、振り返ってみましょう。

左側に庭園があります。

中国風の様式です。

これは何でしょう、

大きなモニュメント? 2号機台 コインセレクターが付いていて、下側に受け皿が・・・池の鯉に餌をあげる、自販機でしょう

昼過ぎ・・今が一番暑い時間帯・・・確か38度の予報でした

子供はこれが一番!

右手の国家音楽庁を一周し広場に戻ると、どうしたの・・

黒の制服、角帽に・・・地べたに座って自撮り棒、目いっぱい太陽光を浴びて、暑さなんて気にしてたら何もできない・・・これが青春?・・・思い立ったら行動です。

さあ移動しよう・・・アレコレしているうちに、南国特有のスコールがありました。

ここはお寺、屋根の上には龍がいます。

龍は水の神様、自在に雷雨や竜巻を呼べて、火事になると雨を降らせ火を消してくれる、・・・蒸し暑かったのが龍のおかげで涼しくなりました。

ところで屋根の龍の爪は何本?・・・4本です。ガイドさんが説明されます。

爪の本数は所有者によって決められているのです。皇帝は、龍の爪は5本。貴族・寺院は、4本、その他平民は3本と。

龍が描かれている骨董品を見つけたら、5本の爪があればお宝だそうです。・・・贋作が簡単にできる?・・・そうです、贋作で無くても、今日では規制が無いのでお土産品にも5本爪が沢山あるそうです。

行天宮(シンティエンコン)、三国志で有名な武勇の関羽が祀られています。関羽が、何故商売の神様に?

そろばんの発明者で、初めて用いた人物だそうです。

商売の神様、この場所、関帝はオフィイス街にあり商売繁盛を願う参拝客で人気があります。

東京では、神田明神でしょうか、・・・仕事始めの1月4日は、商売繁盛祈願で和服の女性とサラリーマンのコート姿で参道まで行列になります。会社関係者が多いのです。

こんなお参りの作法が案内されていました。

もちろん独特のおみくじもあります。

さて、これから人気の九分(ジォウフェン)(きゅうふんでも十分通じますが)に移動します。

台北から北北東、台湾の北部太平洋に近く山間の斜面に向かいます。40数キロ、渋滞が無ければ1時間はかからないでしょう。

天候がすぐれないようです。

・・・台北が晴れていても九分は雨が多いようで、台北が小雨だから・・・?、傘はホテルに置いてきてしまったが運を天に任せて・・・。

到着するころには夕暮れ時、・・・川の上流です、山並みが迫ってきました。

 ここまで電車でも来られます。新北市瑞芳区です、瑞芳駅から九份までタクシーで20分位でしょう。

小雨は降り続いています。

やっと山の斜面から港が見えてきました。

山の坂道が続きます。

夕方6時、もうすぐ到着の雰囲気です。

夕食処の坂の上の道路で、降りましょう。

上の地図では、102 汽車路を左から右にバスは九份の斜面の登り、高台で停車、そこで下車し、階段を下り、軽便路を五分ほど右上から歩いて来ました。

九戸茶語へ向かう途中に、九份軽便駅が

この様な赤提灯が並ぶ・・・戦前の日本はこんな感じ?・・・懐かしいような、親近感のあるお店の横を・・・

九份の夕暮れが近い、癒されそう・・・

食事処の横から、ここ九份は海(太平洋)に近く雨が多いので有名なようです。しかし、運良く、雨は霧雨になって来たようです。

夕食を頂きましょう、九戸茶語二館、お勧め台湾料理です。

 

 近年オープンしたこのお店のテラスから、絶景が眺められます。

この様な風景は・・・熱海、伊東・・・世界各地の観光地に共通して、・・・見事に斜面が利用されていますね。

 食後の散策に行きましょう。ここは食事処の前・・・、平日の夕方ですが、それなりに観光客で混雑しています。

この九份の中央にメインストリートの階段があります。すぐ近く、右に進みましょう。

ここです。豎崎路(シューチールウ)、階段の両側に古い建物を利用したお店が並んでいます。

・・・・週末になると身動きが取れない時間帯もあるそうですよ。

階段の脇に、こんなお店や・・・

オット・・・立ち止り、撮影会があちこちで始まっています

中程の左側に細いトンネルが・・・渋滞を迂回できるでしょうか、入ってみましょう

このトンネルは、何の後でしょうか?・・・

この一帯は、かつては山間部で9世帯程の人々が生活をされていたそうです。

これらの山並みから流れる渓流が基隆河となり・・・鉄橋工事の際に、何と砂金が発見された・・・1893年のこと。

金鉱が発見され、1895年から日本が統治します・・・この一帯はゴールドラッシュとなり、日本家屋のような家が立ち並び神社も参道もこの石段も、不夜城となったそうです。

・・・このトンネルも・・・金の採掘抗でしょうか・・・出口の先は静かな雰囲気です。

・・・引き返して元の階段を登りましょう。

十字路に到着、左へ続くアーケードがメインストリート、階段を上に進だ先に小学校が・・・、タロイモを蒸して潰し、白玉粉と混ぜた団子のデザートは美味しかった。ここ九份名物です。

戻って左のアーケイド基山街へ

この風景は日本的ではないですね、香港という感じです。

この人混みの中を後ろから、警笛を鳴らして何かが近づいてきます。

お店の中に避難すると、通り過ぎていきました。

・・・ここは道路なのです。そして清掃車でしょうか、通過しました。

右側の樽には堆肥と書かれています。残飯でしょうか?

スタイルの良い方ですね、女性公務員でしょうね。

 

この道路、・・・気がつくと石畳、金鉱も石の採掘です、・・・石畳の原石も豊富にあったのでしょう。

傾斜地は溝の加工があり滑り止めです、日本統治時代の良き遺産と思われます。

さて、元のメインストリート階段に戻って来ました。

この階段・・・下ります。「天国から地獄へ」・・・と呼ばれた時代があったそうです。

この付近は飲み屋が多く、・・・酔ってどんどん階段を下るとこの先には、派出所があり、金を盗んだ連中の収容所、そして病院などがあって、天国から地獄の階段と呼んだ連中がいたそうです。

・・・どんどん、階段を下っています。地獄の手前に

階段の左にあるウインドウが呼んでいます。

日本の稲作文化で五穀豊穣を祈願して、ミツマタ(和紙の原料)の木に食紅でカラフルな色を付けた団子や繭玉、菱形を取り付け、正月や小正月に横坐、神棚の下に飾られたものにそっくりでした。

もうすぐ地獄?・・・道路に出ました、横切り、狭い階段の先には大駐車場がありました。

時刻は夜の8時近く、これから台北に戻り、故宮近くの夜市 士林夜市(シーリンイエシ-)に行きます。

 

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故宮からアレコレ・・・九分目指して

2016-07-08 | 旅行記

エアコンでぐっすり眠れた。今日も天気がよさそうだ、AM7:30、1階のレストランで朝食、中国はお粥が美味しいのだが、ここは具材が少ないしコックさんの調理もなさそうで、洋食にしよう。

・・・台北の北部の丘陵地帯に向かってバスが走る。

今日は金曜日、台湾はバイクの普及率が高く、バイク通勤が多い、もちろん女性も、・・・50ccでも二人乗りはOKとのこと、

そして赤信号になると後方のバイクが車両の間をすり抜け車線の先頭に並ぶ、・・・するとこのように暴走族かと思うような一団になる。

土曜、日曜になると、子供をハンドルとの間に立たせ、3人乗り、背中に一人背負うと4人乗り・・・全て違反だが取り締まりは甘いそうです。

東南アジアでは、後ろの荷台上に車軸と平行に板を敷き、板の中央に一人が立ち、両サイドに人がまたがると後輪の上に3人、ハンドルの前後に一人づつ、計6人の動画を見たことがあります。

交差点付近ですり抜ける際に人や車との接触事故が多いそうで、通行人も気をつける必要があります。

そうこうする内にトンネルを抜けると丘陵地帯が目に飛び込んできました、もうすぐです。

・・・間もなく 故宮博物院 正面へ・・・ここからバスは右側の曲がった坂道を登り、チケット売り場のある地下1階正面入口に着きます。

帰りは、・・・この広場のこの位置の横にある駐車場まで歩くことになります。

帰り際に撮影した画像を逆にご紹介しましょう・・・この場所から正面の建物に歩いて行くとこの様になります。まずは右側に案内図があります、見てみましょう。

では進みましょう、緩やかな階段を登ると三層のアーチがあります。

天下為公・・・”天下は為政者のものではなく、国民のもの” 孫文が好んだ言葉と言われています。

庭園のような・・・また案内図があります。

この左の高台には、三つの建物があり、別料金で特別展などが行われる。 右側が 至善園 約7000坪の庭園です。

正面の第一展覧エリアに向かって進みます。

・・・国立 故宮博物院 世界4大博物館のひとつに数えられています。

紀元前2000年から19世紀の清まで、総点数69万点、一度に展示されるのは1%に満たないといわれ、3000~5000点を数か月に一度入れ替えし展示される。

無休、料金は250元(約800円)、69万点の中華文物コレクションの大半が清国の時代の物といわれます。

最後の階段が左右にあります。

そして階段を登り、地下1階正面入り口が見えてきました。

これが中国の宮殿様式ですが、中央のポールに掲げられているのは・・・台湾の国旗でしょうか

紅色の地、その左上に青地に白いひまわりのような太陽のマーク(青天白日旗)が描かれています。

これは青天白日満地紅旗と呼ばれ、当初は中華民国の海軍旗・・・現状は台湾(中華民国)の国旗とされていますが、台湾の国民感情は複雑なようです。

中国本土の歴代皇帝がコレクションした文化遺産が何故、海を渡った台湾にあるのでしょう。

近代史を勉強してこなかったので調べてみましょう。

・・・1895年、日清戦争で中国大陸の清国が敗戦しました。清国は、日本に台湾・遼東半島などの割譲、賠償金を支払うことになります。(後に遼東半島は返還される。)

その後、清朝は衰退の一途となり、体制内から改革の動きはあるも効果が無く、1911年四川で暴動、(湖北省)武昌で蜂起、清朝からの独立宣言が・・・各地に飛び火し「辛亥革命」が起こります。

革命派は1912年南京で「中華民国」の成立を宣言し1月、孫文が臨時大総統になる。

・・・清朝は軍人の袁世凱(エンセイガイ)に革命派と交渉させるが・・・・袁世凱は、何と・・・自らを臨時大総統に就任させるなら・・・と清朝の宣統帝溥儀(セントウテイフギ)の退位を認めてしまった。

そして、溥儀は中国最後の皇帝として有名になります。・・・・映画「ラストエンペラー」です。

1912年2月、あっと言う間に・・・ここに清朝は滅亡し、秦の始皇帝からの皇帝による長い王朝支配体制が終わることになります。

・・・この年、日本では7月に明治時代が終わり、大正元年となります。

最後の皇帝・溥儀ら皇族は臨時政府から「優待条件」を受け紫禁城で暮らすことが暫く認められます。

・・・その12年後、退去命令で紫禁城を追われ、この城の一角が故宮と名前を変えて公開され、故宮博物院の誕生となりました。

 故宮博物院のパンフレットから、各階のレイアウトをご案内します。

地下1階から入場し、エスカレーターで1階へ・・・・・残念ながらパンフレットの院内注意事項に撮影禁止!とあります。

このフロアーの工芸品、106の区画に置かれた象牙透彫雲龍文套球が有名です。・・・撮影禁止ですので・・・・・・ガイドブックから公開されている画像を

多層球と呼ばれ象牙を球状に加工しその内部にも球状の殻をくり抜いています・・・これが19層とか21層とか諸説ありますが・・・中の細工が施された殻が各々回転します。

製法が判らずでしたが、近年になってやっと謎の製法が解明されたと報道がありました。・・・球を8面体に置き換えた場合、各面から球の中心に一定の深さまで穴を掘ります。

その穴に特殊な小刀を挿入し内側の球を加工し、順次薄皮のような殻になおかつ透かし彫りを入れる・・・最新医療でマジックハンドを使った手術よりも困難な作業と思われます。

昔の人は視力が良かったのでしょう、気の遠くなるような根気のいる作業から作り出された工芸品です。

そして3階に上がると、ここには更に有名な細工物があります。

302室のようですが、

・・・しかし、大きな写真が貼られていました。この博物院が誇る作品です。パンフレットも302室は違う作品です。

台湾南部に昨年末 国立 故宮博物院 南部院区 がプレオープンしたそうです。今後台北と南部院区の2ヵ所でコレクションを公開することになり、只今この作品は台湾南部に出張中でした。

・・・実は、この作品は2年前、日本でも公開されたのです。2014年6月 東京国立博物館で、・・・ご覧になった方も多いでしょう。

作品名、翠玉白菜(スイギョクハクサイ)、清代の作品です。

全長19㎝、翡翠の原石から造られています。

拡大写真は・・・・

上の画像は台北市内の免税売店内に置かれた白一色で50~60cmはある大きなコピー白菜です。

この足が何の昆虫か判りますか?エッ、イナゴ、これはキリギルスと言われています。

こちらのキリギリスより小さい(半分以下のサイズ)昆虫が白菜の葉の反対側にとまっています。これがイナゴのようです。

本物の翠玉白菜(スイギョクハクサイ)では緑色の葉先部分にイナゴとキリギリスがとまっています。

子孫繁栄を意味するようです。

売店ではこの翠玉白菜(スイギョクハクサイ)をマスコットにした小物が数多く並んでいました。

白に緑のグラデーションが見事な翡翠の原石を見て、・・・白菜を創ろうと発想されたのでしょうが発想も技も見事です。

尚、翡翠の緑の葉は一部彩色が施されているとのことです。

・・・野菜に対して、もう一品有名なものがあります。

肉型石、これは大きな画像ではイメージが涌き難いのですが・・・肉です。豚肉の角煮の一種(中国料理では「東坡肉(トンポーロ)」のようです。

こちらの作品は、L=53mm、W=66mm,H=57mm 手のひらサイズです。

層状になった岩石の表面の変化を皮に見立て、この部分に針で穴を開け各種の染料を流し込み、脂身、赤身とリアルに彩色されています。

階段を下り、2階は器物、陶磁器コーナー、また書画エリアは中国の芸術として特筆されるところです。

これらに関し、精緻な造りと、バランスの見事さに感心しながら・・・知識が無いので省略。

公開されているのは、ほんの一部、これらのコレクションは、かつて北京の広大(70万㎡)な紫禁城内にありました。

清朝が滅亡しても時の中華民国臨時政府(孫文)の「優待条件」として、溥儀や親族は城内で生活をしていました。しかし、1924年10月北京政変の際に、約12年間優待を受けたが溥儀らは紫禁城を退去させられます。

そして1925年北京の紫禁城で古い都、「故宮」の名がつく博物院の形態で公開されますが、日中戦争の戦火から逃れるために1931年中華民国(蒋介石)政府は膨大なコレクション(木箱約13,000~20,000箱)を北京から上海経由南京(当時の中華民国の首都)に移します。大量の数です、数回に分け、2年くらいかかったようです。

1937年日中戦争が始まると南京も危なくなり、内陸(四川省など)の洞窟など分散して移されます。

そして1945年、日本が敗戦して、中国大陸の故宮コレクショウンは?、・・・一旦関係者により南京に集められます。

ところが・・・中国大陸では、毛沢東・周恩来らの共産党勢力と、共産党を弾圧していた蒋介石の国民党の対立が激しくなり、1946年から1949年まで内戦状態になります。

内戦の結果、国民党軍が敗れ、日本が撤退した台湾に逃れることになります。

南京から4000箱のコレクションが1948年頃から軍艦で台湾に密かに運び込まれ、山中で15年間隠され続けます。

・・・内戦に勝利した共産党が中華人民共和国を1949年10月1日建国し、南京に残ったコレクションは、管理する北京の紫禁城(博物院)に大半が戻った。

一部は、1933年に開設した「中央博物院」現在の「南京博物院」に・・・、これに対し「北京の故宮博物院」が返還要求を続けているが変換に応じていないようです。

近年、南京分院で2,000箱が発見され話題になりました。

・・・そして1960年代、台湾山中からコレクションが新装なった台北の博物院に持ち込まれます。

北京の紫禁城に故宮博物院がありますが、ここ台湾(中華民国と呼ばれていた)でも国立 故宮博物院として公開されます。(東京オリンピックの翌年、1965年でした)

そろそろ国立 故宮博物院を後にして、市内に戻りましょう。

・・・・・11時を少し回ったころ、チョットした儀式が

5人の衛兵が行進しています。衛兵交代儀式です。第一印象が若い!・・・右隣をSPの様に同行するのは指導員でしょうか。

広場を直進します。

行く手に紫禁城を模して1969年に建てられた大殿が・・・ 

ここは、中国本土の辛亥革命で亡くなった・・・(台湾に逃れてきた人々は・・・蒋介石の国民党です)人々、その後の戦争で亡くなった人々の霊を主に祀っています。

さて、1時間お勤めお疲れ様でした。2名が交代し、再度大門へ戻ります。

この方は?身なりを正して・・・、笑顔が見えます・・・衛兵二人をフォローする黒子でしょうか、

広場を直進して大門に戻って来ました。

行進は合わせやすいが、スローな動作はどうも・・・、白服は海軍の若きエリート、職業軍人です。・・・日体大の学生パフォーマンスには負けられないですよね。

ここは中烈祠とありました。

・・・平日の昼近く、行列が出来ています。

台北で人気のお店、

小籠包、台湾の料理ではなかったですね。

気がつきました、通りの先に101 台北が世界に誇る高層ビルが見えます。

ここは、明日地下鉄で行ってみましょう。

昼食後2~3か所巡って、夕日が見えるころ九分に・・・天候が心配ですが。

 

 

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