コスタンツァ・ボナレッリの肖像 フィレンツエ:バルジェッロ国立美術館
当時社会的地位の高い男性は、30代後半に結婚する人々が多かったと言われる。
ベルニーニは39歳、まだ独身だった、・・・身近に20代前半の人妻(コスタンツァ)がいた、そしてモデルから・・・恋人に。
彼女はシエナの貴族、ピッコロミーニ家の一族だったようだが貧しかったようでローマに出てきて若き彫刻家と結婚した。
コスタンツァは18歳で、1632年2月結婚、・・・夫はベルニーニの弟子で当時28歳くらい。
・・・師匠のベルニーニは10代で、依頼主の肖像を見事に制作する彫刻家として名声を得ている。
ベルニーニは偉大な彫刻家ミケランジェロについて、彼は肖像は作らなかったろうと話している。
・・・ミケランジェロは、「メディチ礼拝堂のジュリアーノとロレンツォの像」を両人が亡くなった後で彫っている。
この恩人でもある両人の像が・・・本人に似ていないと指摘され・・・
・・・「1000年も経てば、彼らがどんな容貌だったか知る者など誰もいなくなる」と答えたと言われている。
彫像とは・・・改めて、このコスタンツァ像を見てみよう・・・女性の話しかけるようなポーズから親しそうな雰囲気が漂ってきます。
息子(ベルニーニの)の記録によると、彼女の絵画も描いていて、自宅に置いてあったそうです。
若き人妻にベルニーニが熱を上げていた・・・そして作品が残った。
・・・1638年8月末~9月初めころ、ベルニーニは自分の末弟(26歳)がコスタンツァと交際しているのを見つけ、弟をボコボコに、
騎士ベルニーニは剣を持ち・・・教会内を追いかけた、・・・ベルニーニに逆らうものは皆無だった・・・弟はローマから追放された。
コスタンツァにも、・・・召使いに指示して顔に傷を負わせたようです。(後に教皇がこの召使いを亡命させています)
両者に対し傷害事件を起こしたのが、ローマの有名人だった・・・大芸術家のスキャンダル事件が発生。
・・・教皇は、傷害事件を起こしたベルニーニに対し、特赦を与えた。
ベルニーニに対する教皇の人物評価は・・・
「神の高配によりローマの栄光のために生まれた類稀なる人物、この世紀に光りをもたらす至高の天才」だった。
・・・教皇はベルニーニに身を固めることを・・・熱心に勧めた。
ベルニーニはこの忠告を受け入れ・・・弁護士の娘と翌1639年5月15日に結婚します。
・・・以後33年の結婚生活で、11人の子供に恵まれている。
一方、気になるコスタンツァの夫はどうしたかというと、・・・事件以後もベルニーニの下で仕事を続けています。
ベルニーニが結婚するひと月前に、不祥事を起こした妻を厚生施設から引き取り、結婚生活をやり直したようです。
さて、芸術家は顧客を選べるか、ベルニーニと共通点が多いレオナルド・ダ・ヴィンチ、・・・肖像画の依頼は多かった。
制作意欲がわかないと権力者や大貴族の婦人から肖像画を依頼されても、ビジネスとして受注をすることは無かった。
ベルニーニも・・・あまりにリアルな、依頼主がウットリする工芸品的彫像を完成させるので、ヨーロッパ中に名声が届いていた。
しかし、パトロンのローマ・バチカンが彼を離さないので、他国の国王はあの手この手で自分の彫像制作を依頼していました。
この肖像は、英国からローマ教皇を通してベルニーニに使者として使わされた、トマス・ベーカーという役人です。
英国のチャールズ1世が、1635年に自分の肖像画(正面と横2面)を有名画家に描かせ、それをローマに届ける特命を受けた人物です。
この使者が、ベルニーニに面会できたので、別途、自分の彫像もお願いしますと・・・6000スクーディの報酬で懇願したそうです。
この金額は?・・・17世紀後半、流行画家のカルロは、全身肖像画で150スクーディ、NO.2の画家ジャンは100スクーディで受注しています。
ベルニーニのサン・ピエトロの主任建築家としての月俸は300スクーディとされるので、破格の6000スクーディで頼み込んだようです。
作品がほぼ完成した時、パトロンである教皇がこの話を耳にし、バルベリーニ枢機卿を使いに、・・・この使者の肖像完成にストップをかけた。
チャールズ1世は、教皇の許可を得て1635年にベルニーニに依頼をしていました、・・・この作品は1637年に完成しました。
・・・何故か、教皇がベルニーニの仕事に介入しているように見えますが・・・
ベルニーニの彫像は、一点物の特注品・顧客は名誉欲も満ち足り、分身が出来上がり、家宝と喜ぶ、・・・このような彫像の価値は非常に高い。
・・・教皇は、完成したチャールズ1世の彫像を、カトリックの信者だった女王に、教皇からの贈り物として・・・最大限に活用しました。
これには国王夫妻は大感激、女王はダイヤモンド(4000スクーディ相当らしい)をベルニーニ贈り、自分の彫像も依頼しています。
女王の彫像は、その後英国で政変があり・・・彫像は彫られていないようです。
・・・チャールズ1世の肖像は・・・火災で焼失?、・・・こちらの使者の肖像は、弟子が完成させて納品、残っていました。
ベルニーニのテクニックで、襟元のレース飾りが優雅に、・・・大金で依頼した本人が自慢したくなる見事な彫像です。
この時代の教皇は、・・・サン・ピエトロ大聖堂、中央右手の上部に掲示されていたと思うが、
ウルバヌス8世(在位1623~1644)(青線)教皇の時代でした。
歴代の教皇の一覧です、確か表記はラテン語でしたか?
・・・近くの中央天蓋の左手前に・・・ラファエロの作品「キリストの変容」がありました。
このサン・ピエトロ大聖堂一帯は、湿地帯でしたので夏の湿気が高く、フラスコ画などは湿気が大敵でした。
そこで17世紀頃から、絵画は微細なモザイク画(色も豊富)に置き換えられていきました。
・・・ラファエロの本物は、バチカン美術館の絵画館の8室にあります。
さて、権力を手に入れたら由緒ある教会に礼拝堂を持ちたい、パウルス5世の例がありました。
ウルバヌス8世は、1628年からこの聖堂内の後塵の右側奥に礼拝堂を計画し、着手していました。
ベルニーニは教皇から死の直前、・・・3年以内に完成してと催促されていたようですが・・・。
結局教皇が亡くなって3年後、・・・着工から約20年、1647年2月に完成しました。
・・・20年間も大聖堂の一角が工事中で、その間教皇でしたから非難もされずに・・・あきらめず待つものです。
ところが、この作品でベルニーニは、棺を挟んで左に慈悲の像、右に正義の像を彫っています。
左の慈悲の像は1639年頃弟子が制作中だったようで、胸を出して子供に乳を与えるリアルな姿で・・・
(後に胸は覆われたしまった)・・・コスタンツァがモデル?と噂が
17世紀の伝記作家、バルディヌッチは、慈悲の像に「教皇の死を嘆いて泣き騒ぐ子供を
慈悲深く見つめながら自らの悲しみをかみしめている」と描写しているそうです。
この棺が目立ち過ぎたのか、この礼拝堂の画像は少なく、・・・また機会が有ったらじっくり鑑賞したい作品です。
バチカンガイドブックの画像を再掲
ところで、MS OS(WIN.10)の自動バージョンアップ後、富士通のパソコンが不具合となり半年、
MS(マイクロソフト)から、少し前のMS OS(WIN.10)を別のノートPCにダウンロードして、
記録したDVDを富士通PCに読み込み、OSの修復を実行・・・半日後、無事回復しました。
最初のMS相談窓口、多分若い女性の担当者でしたが・・・相当深度部までPC内部が破損していると推定できる。
解決策は富士通のPCを、メーカーの手順で購入時の状態に初期化して頂くことを勧められたのでした。
この件は納得できない、初期化したくないから、・・・MSのバージョンアップが要因で不具合になったのでした
・・・相談窓口のMS担当者の力量で対応が異なるのは致し方ない、後日、別の担当者と相談しますと電話を切って・・・。
そして、5月の連休にMSの男性担当とアレコレ話をし、OSの修復手段、USBは読み込まず失敗、DVDで回復したのでした。
経験値が少ない方、経験が多く安易な方法を勧める方、よりよい方法を一緒に考える人・・・こちらの説明の力量も必要ですが
新しいPCを購入しようと思いつつ、気楽にアレコレ試したら、回復したので、コロナ禍でラッキーな少し前の出来事でした。