1598年12月7日 ナポリで生れたジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、彼の作品を鑑賞する目的で再度ローマを訪れてから・・・画像の未整理が続いた。
ローマを創った男と言われるベルニーニ、17世紀のローマは彼のためにあった、その背景が重要なのだが、中々ブログが進まないまま年末に。
・・・PCが11月15日、OSの自動アップデート後不具合になり今度はネット接続などがダメージを受け、MSの窓口は本体の初期化を勧める始末
昨年8月の不具合で対応して戴いた履歴の確認を依頼したら、破棄されて無いとのこと、今般はMSの担当者が外れと判断し電話を切る
気を取り直して10年前のノートPC(VAIO)を探し出し、CPUはcorei7で当時のベスト仕様だった、・・・何とか使えそう。
若干動作が遅いが多数のアップデートを繰り返し、その後富士通のESPRIMOは、自分で調べる気力が高まらず放置してある。
ベルニーニの誕生日前に、16世紀のローマを整理したかったが・・・この時代は簡単にして、ベルニーニの作品を見てみよう。
16世紀のイタリアは1526年、サン・ピエトロ大聖堂がやっと着工した。
・・・翌年5月、フランスと組んだ教皇、・・・敵対する神聖ローマ帝国の軍勢が侵攻し、ローマ掠奪(ローマ劫掠ゴウリャク)、悲惨な状況が続いた。
結果、ローマの人口は、55000人とも言われるほどに撃滅してしまった。
危機の中、その後歴代のローマ教皇は、反カトリック、プロテスタント勢力に打ち勝つために、・・・異教徒の異端審問を厳しく行った。
並行して復興は、ヨーロッパ各地から聖ピエロの墓があるローマ、Go to trabel に期待するしかなかった。
・・・巡礼者が感激する仕掛けを作ろう、先ずは教会の建立(30以上建てられたでしょう)、道路と水道の整備も
・・・次に都には映えする魅力が必要、運よく地中から紀元前の異教徒文明の発掘が続き、芸術家が修復に活躍。
当時の様子を見てみよう、1593年の銅版画、テンペスタの地図です(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)
広場にオベリスク?、・・・1587年に左下の競技場後から約100m運び、44基の巻き上げ機で据え付け直した大工事が行われた。
・・・ここまで復興して、ローマの人口はどん底から立ち直り・・・60数年経過し倍の10万人くらい
1604年、新教皇に若き53歳のパウルス5世(ボルゲーゼ家・元シエナの旧家)が就任、権力を握れば早速縁故関係者を優遇しました。
甥のシピオーネ・ボルゲーゼ、27歳が枢機卿となりますが、彼は美術品のコレクターで、後に少年ベルニーニとの出会いは・・・引き合う力がありました。
ベルニーニの父はかつてローマのサン・ルカ美術アカデミー院長を勤めたこともある有名なフィレンツェ出身の彫刻家。
1605年、新教皇から礼拝堂の装飾の依頼を受け、家族でナポリからローマの現テルミ二駅近くに引っ越してきます。
ベルニーニ少年はこの時7歳、蛙の子は蛙、遊ぶのはヴァチカンの古代彫刻を朝から晩鐘までデッサンして過ごしていたと伝えています。
・・・神童の逸話は、誇張があれスーパースター誕生はスカッとする話題です。
では墓に彫られた、執事 「サントーニの肖像」は、ベルニーニが何歳くらいで完成させた大理石彫刻作品に思えるでしょうか?
技能の精緻・優劣よりも、顔の表情、見つめる眼差しが石造とは思えない、魂が入っているかのようで只者ではないですね
この作品と同時期に他にも彫像を受注していましたが、本人や伝記作家の話はオーバーで粉飾だろう、16~17歳頃の作成とされてきました。
近年1967年になり発見された当時の領収書などから、本人や伝記作家の言う通りの10歳から11歳の作品、1610年頃の制作とされます。
・・・ボルゲーゼ枢機卿が幼いベルニーニを教皇の前に連れて行った際、聖パウロの頭部を描くよう求められて見事に描き上げ非常な称賛を得た話もあります。
居合わせた枢機卿の前で「この子供が、彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言って12個の金メダルを褒美にとらせた。
この伝記作家(逸話)が疑問視され、信ぴょう性について後年ベルニーニがフランスで話した事が残っています。
それによると枢機卿と一緒に教皇に会った際、彼が描いた聖ヨハネの頭部のデッサンが幼い子の絵とは信じられず、・・・
それで教皇は、目の前で聖パウロの絵を描くよう求めたという、・・・これは本人が8歳の時の出来事だと語ったという。
・・・神童ベルニーニがその後10代で次々に作品を発表しますが、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が彼をほぼ独占し、他の枢機卿は、只近くで見守るだけだったようです。
今日、その名のついたボルゲーゼ美術館で彼の作品に出合えますが、予約制で時間指定となります。
2011年にベルニーニの作品を鑑賞しに行った際の資料・・・写真・ビデオ類の撮影は禁止でした、ガイドブックだけが残っています。
当時、イタリア関係に関しては、Yahoo blogの方にUPしていたが、Yahooはブログ運営から撤退したので現在Web上には残っていないと思う。
こんな感じだった。
ここは違いますね、真実の口です。
嘘つきガ・・・噛みつかれる❓ 懐かしい、口元が汚れていますが・・・今では手袋の手を差し入れるのでしょうか?
蛇行した下図の七つの丘近く(赤丸の教会)から、午後の予約で、間に合うかな? タクシーで地図上のボルゲーゼ公園へ
ボルゲーゼ美術館は、ヴァチカン宮殿から直線で4㎞位、ポポロ広場から階段を上がり公園内を進んでも行けます
ここは、タクシーを降りた公園横の入り口です。
公園ですからゲートから園内には自由に入場できます、右側に案内板があります。
この案内板には、上部に建築:F.Ponzio(1559/60-1613)、G.Vasanzio(1550-1621),G.Rainaldi(1570-1655)、A.Asprucci(1723-1808)・・・とあります。
16,17,18世紀と3世紀ボルゲーゼ家の屋敷で、1613年には完成したようです、何度か改修があり、現在はイタリア国の所有です。
この絵と類似の絵が、1636年バウル作として、ボルゲーゼ美術館 最新ガイド(2010年版)に掲載されていました。
1600年代の様子と変わらず一部修復され、現在は素敵な美術館です。
ここの公園内は、かつて馬車が走り、屋敷にはカジノもあり・・・昔の周辺の説明は割愛、今でもこんな風景が似合います。
予約の際指定された番号で、入場券を購入することになります、・・・建物の半地下へ降り、右側に並んで、カウンターのチケット購入窓口で購入します。
館内は手ぶらで・・・カメラ、バッグ類は預けることになります。
右側で荷物を預けます、正面は会議室など、左側に書店、奥に喫茶室、
入れ替え制で、・・・時間になりワクワクしながら、外階段で2階に上がり、入って右、右・・・気が付けばダヴィデの間でした。
画像は、ガイドブックから
1623夏~1624年春に完成させた25歳の作ですが、最初に目にするのがこの「ダヴィデ」です。
ミケランジェロのダヴィデは、筋肉美の裸体で石を持ち、これから衣服をまとうのか、このまま走るのか・・・いずれにしても市民に衝撃は与えた
これに対し、鎧は足元に置き「サムエル記」の記述のように、投石袋の中から石を取り、石投げ器でペリシテ人にそれを放つ
この物語性、そして決定的シャッターチャンス、集中して一点を見つめるダヴィデ・・・目線の向こうにペリシテ人がいる、
後に教皇となるマッフェオ・バルベリーニ枢機卿は、ベルニーニに作品を依頼したいが、ボルゲーゼ枢機卿が離さない、
制作中のベルニーニは自分の顔を鏡に映して、ダヴィデのモデルにしていたので、バルベリーニ枢機卿が鏡を持って手伝ってくれたと、
・・・この話もベルニーニがフランスに招かれ(只一度だけローマを離れた際、招いたフランス側に記録が残る)本人が語っています。
25歳でベルニーニは既に多くの作品を完成させ、ローマ中から人々がこの館に押し寄せ、スーパースターでした。
この「ダヴィデ」は、アポロとダフネ(ギリシャ神話)の制作途中で取り掛かり、僅か7か月で完成させた。
20代の集中力、体力、スピード、技能、絶頂期でしょう。
・・・これらの大型作品の前に、ベルニーニは10代で肖像彫刻家として才能を開花しています。
ベルニーニ が8歳で最初に会った・・・あのパウルス教皇から肖像を依頼され、19歳くらいの時に温和な感じに仕上げてあります。
そして、教皇の甥の シピオーネ・ボルゲーゼ 枢機卿の肖像も依頼され、当美術館に置かれています。
顔の表情が豊かで、衣服の表現も印象に残ります。
初めて大きな作品を依頼されたのも、シピオーネ枢機卿からで、絵画などで有名な「アエネアス」でした。
「ベルニーニ バロック美術の巨星」 石鍋真澄 によれば、1619年10月付けでこの作品の支払い記録があるそうです。
ガイドブックによれば、制作年代は1618-1620年、19歳から21歳頃
この作品は順路の後半、正面から見て左奥の部屋に置かれています。
題材は、紀元前のローマ帝国誕生時代に登場した作家が、神話の物語「アイネアス」を書き上げた。
ローマの建国は、双子のロムルスとレムスが戦いBC750年、ロムルスが弟を殺して誕生した。
神話とはいえ・・・この双子の親は、祖先は?疑問に思います・・・そこで作家が、トロイ戦争の登場人物から拝借しようと思いついたのでしょう
・・・トロイの戦火から主人公が脱出する場面です、アエネアスが老父アンキセスを背負い、息子アスカニウスを連れて、登場人物は3人。
作品は、登場人物を・・・無事に仕上げました。(物語は・・・後から奥さん達も続いたと思いましたが)
続いて、1621-1622年にシピオーネ枢機卿から依頼され、オヴィダウスのローマ・ギリシャ神話を題材に制作しています。
ここでは「アイネアス」のように場面が限定されずに、彼は構成をドラマチックな場面に設定。
どうした、エッ 違う写真?
そう、あまりにも注目された部分の拡大です
・・・大理石とは思えないと大評判になります。「プロセルピナの略奪」
ガイドブックからでは、迫力がないですね、
キューピットから「愛の矢」を射られたプルトが、プロセルピナを有無を言わせず抱き上げ誘拐する・・・
これは、お金を使って実物を鑑賞する価値はあります。
少し横に動くと、360度カメラの作品です。犬は三つ頭の冥府の守りとされる。
ちょっと分かりにくいのですが、母に助けを求め・・・彼女の頬に涙が一つ、二つ流れていたように思いました
多くの絶賛した評論がありますので ここでは割愛
この作品は完成した1622年に、シピオーネ枢機卿からルドヴィシ枢機卿に贈られています。
最高傑作は他で輝いていたのですが、・・・この館に約300年間後に戻ってきたのです。
1908年、その館がイタリア国家に買い上げられ、ボルゲーゼ・コレクションに戻されたとガイドブックにあります。
20世紀にボルゲーゼ美術館に戻ってきたので、第4室 皇帝の間に置かれているのでしょうか。
最初の「ダヴィデ像」の隣、第3室が「アポロンとダフネの間」です。
1622年8月にこのアポロンとダフネの制作を始め、途中まで進んだ所で「ダヴィデ」の制作を始め7か月で完成させ、この作品に戻ったそうです。
この作品も、ローマ・ギリシャ神話「変身物語」から、黄金の矢と鉛の矢を受けた二人が登場します。
恋心が高まる VS 恋が嫌い キューピットを道具に2000年前の詩人は、視点がユニークですね。
こちらのシーンでは、ダフネは父に助けを求め、皆の心を惑わしすぎるこの美しい姿を変えて・・・すると、激しい硬直が手足を襲い
ダフネの足は・・・根に、髪の毛は・・・木の葉に、腕は・・・小枝に、変身・・・みるみる月桂樹に・・・ストップ
オヴィディウスの物語を、全くの素人にもクライマックスを一目で理解できるように、この立体像は、本当に石なの・・・
この作品は、1625年に完成させます。
この作品が完成するやいなや、「奇跡が起こったかのようにローマ中の人がそれを見に行った」と伝記作家が伝えています。
後年、ベルニーニはパリでこの作品について、ダフネの髪に「軽さ」が表現されていると自慢しているが、以前は更に軽い印象だといわれます。
近年になり、岩が補強されているそうです。
この美術館には、他にもベルニーニの作品やカルバッチョの作品も数多く展示されています。