気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

万座から富山へ

2014-06-30 | 旅行記

6月上旬関東地方が大雨注意報の中、万座温泉に向かった。

その2日前、6/4(水曜) 昼のニュースでびっくりさせられた。

草津白根山の火山活動が活発になり、昨夜、気象庁が予知連絡会で噴火警戒レベルを1から2に引き上げたと発表した・・・との報道を耳にする。

続いて、一部の道路交通規制が実施されたと・・・。

これは大変、万座から渋峠経由で志賀高原に抜けられないと一大事

草津町の情報を調べると、国道292号殺生河原駐車場前(草津町)から万座三叉路(妻恋村)の間8.5Km、全面交通止め。草津で食事はキャンセルが必要なようだ。

草津町観光協会に電話を入れて、迂回ルートと万座から志賀に抜けられるのか、・・・万座の宿に電話を入れて様子を聞くなどした結果、二日後不安を抱えながら雨の中出発した。

急ぐ旅でもないので途中で散策し、万座・鹿沢口近くから有料道路の「万座ハイウェー」で登ることになる。

軽井沢方面からは、草津温泉経由で万座温泉に上る一般道が通行止めのため、この有料道路のみが万座に通じる道路となった。

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万座まで距離は20.3㎞、5分も走ると妻恋高原ゴルフ場が・・・そして料金所となる・・・消費税が8%になり、料金も¥1,050円と安くはない。

国土計画が万座を開発し、ホテル、スキー場、ゴルフ場と得意の囲い込み・・・この道路も現在はプリンスホテルの管理、

冬季は、草津経由の一般道が閉鎖され、パウダースノーの万座スキー場に行くにはこの有料道路の利用が必要になる。

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木立の中・・・もちろんカーブが続く。30分位で前方に赤茶けた山肌に建物が見えてきた。

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標高1800m、上信越高原国立公園内・・・しかし、雨模様で夕方、散策は断念し・・・明日の天候に期待して露天風呂に直行する。

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数ある露天風呂の中でも人気の「石庭露天風呂」8つの湯船がある硫黄泉で、案内図の右上が女性専用で、その先は混浴、男性は右下の入り口から。

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渓流に面して 、思ったより広い石庭温泉です。

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この万座温泉は、案内板に・・・豊富な湧出量(540万リットル/日産)と80度の高温の硫黄泉

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泉質は18種類以上で適応症も多彩とのこと。

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少し上流から万座高原ホテルを望む。ホテルの裏に見える道路を上ってきた。

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道路の右上が、「こまくさの湯」などの露天風呂がある、万座プリンスホテル。

「石庭露天風呂」と共通でどちらにも入浴ができる。

ホテルの更に右側が万座温泉スキー場のゲレンデ。

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・・・冬季のスキー場営業を除けば、温泉以外何もない万座温泉と同様、信号機もコンビニも無い、自然が売りの名湯が近くにありました。

すぐ近くの草津温泉街?・・・ここは有名な避暑地・観光地です。

同じ吾妻郡・・・渓流沿いに・・・四万(しま)温泉・・・ここにも素敵な露天風呂があります。

以前宿泊した際印象が良かったので、参考にご紹介

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露天風呂と女将が有名な「四万やまぐち館」、

上左が大岩にお題目を刻んだ大露天風呂、右が檜の香りの和風露天風呂 

屋外に岩山を配し東屋がアクセントになる露天風呂が多くみられますが、ここの露天風呂は岩山を取り込んでに建てた旅館の贅沢な内湯という雰囲気でしょうか。

ここ万座とは別水系ですが渓流四万川が流れ、壁を取り払った湯船につかりながら、川風に当たりせせらぎが心地よいそんな時間が流れていきます。

混浴ではなく、男女が利用できる露天風呂が時間帯で指定されていました。

・・・

翌朝・・・白根山が立ち入り禁止のため、近くの源泉地 姥湯(うばゆ)、

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硫黄の噴出で立ち入り禁止の囲いがあちこちに。

視界も悪く天候が好転しないので、尾根の反対側、長野県志賀高原に向かって渋峠を越えよう。

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この交差点を右に行くと草津白根山、山道を下ると草津温泉・・・右端に道路を塞いで通行止めの白い看板が立て掛けられていた。

左に進み群馬県と長野県の県境、渋峠 に向かう。(冬季:11月初頭から4月下旬は、積雪のため道路は閉鎖される)

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眼下に雄大なパノラマがあるのだが、視界が悪く残念!

通り過ぎて少しバックする・・・この中央分水嶺 この地点に降った雨は群馬県に流れ太平洋に注ぎます。

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群馬県吾妻郡中之条町が建てています。・・・長野県側(長野県下高井郡山ノ内町)は付近に建てていたのか探さなかったので不明・・・

しかし、中央分水嶺・・・北は青森、海を渡って宗谷岬まで、南は九州佐田岬まで(瀬戸内海は太平洋に含めるそうで中国地方の山陰・山陽の県境付近が分水嶺)

日本海側と太平洋側に注ぐ境界線を、日本の北から南まで一本の線で引いていますので、よく見れば各地に中央分水嶺の表示がされているのでしょう。

続いて、道路の右側に狭い駐車場と石碑、日本国道最高地点

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石碑の文面は

「日本国道最高地点 国道292号・志賀草津高原ルート 標高2,172m

 かつて善光寺から草津へ行きかう旅人で賑わった草津街道は、志賀草津高原ルート・国道292号線と姿を変え、湯田中渋温泉郷から志賀高原・白根山を抜け草津温泉に至る全長46㎞の風光明媚な山岳道路として多くの人々に親しまれています。

ここは、標高2,172mと日本の国道の中で一番標高の高い地点です。

また、長野県・群馬県の県境に接し尾根を走るこのルートは、山田峠を中心に分水嶺をなしており、長野県側に落ちる松川は峠の沢に端を発し、千曲川を経て日本海へ注ぎます。

一方、群馬県側は、日本有数の酸性河川である大沢川・谷沢川から利根川を経由して太平洋へと流れ込んでいます。」

・・・この先が長野県側 

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よーこそ 志賀高原!・・・この地点も標高2,172m

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尾根のこちらは北側斜面、南斜面とは大違いでこの時期でも残雪があります。

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国道292号線 熊の湯スキー場 志賀プリンスホテルの前を下り・・・4㎞くらいで信号のない交差点に・・・志賀高原スキー場の中心地

右に大きくUターンするとジャイアントスキー場を横切り、一の瀬、焼額山、奥志賀高原スキー場と上る道路だが・・・

右は、栄村/野沢温泉の案内があった。国道471号線は行き止まりと思っていたが・・・

この先左に丸池スキー場がある。その先にサンバレースキー場がありこの辺に宿を取り、リフトを乗り継いで北志賀まで上り、1日かけて周辺のスキー場を滑りながらこの地点に戻ってくる、そんな滑りができる志賀高原です。

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ビワ池ホテル前を通り、志賀高原を後にする。

湯田中温泉を右に見て、志賀中野有料道路を経由し

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信州中野ICから、上信越自動車道に乗る

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土曜の昼前、交通量は少なさそうだ。

富山で昼休みとしよう。

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日本の歴史絵巻 と ドイツ古城と大学の街

2014-06-18 | 旅行記

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素敵な庭園・・・、彫刻の森? 野点(のだて)?・・・失礼! これは合成写真でした。バックの緑を探していたら・・・つい合成を、

女性は時代絵巻に登場する姫様、バックはお城の新丸広場・彫刻の小路?です。

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石垣は、大阪城ではなくて・・・ 金沢城 石川門横の石垣です。

手前の兼六園の高台から、ブラスバンド、バトンのパレードを迎える。

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こちらは、2014年「ミス百万石」知恵里、愛夢、有都咲さん・・・。

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日傘付で特別扱いのお嬢様が・・・。沿道から拍手・・・お松の方と呼ばれています、利家公の奥方です。バックは、兼六園・蓮池門通りの木々新緑です。

場所を移って合同庁舎前 、獅子舞行列、とびの行列に続き、白馬での登場は尾山神社の宮司でしょうか。

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子供奴行列、珠姫お輿入れ行列もあり、大人奴に続いて「お松の方」行列となりました。

四代、五代藩主行列、数か所の観覧席前で演武があるが、鉄砲隊・・・一般人で特殊技能も訓練もないので・・・空に銃砲を向けて・・・空砲も無し、装束と頭数で勝負です?

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加賀八家老行列:騎馬隊が続き、・・・更に大きな歓声が!

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二代藩主利長公ら110名強と前田利家公の行列、パレードの主役が登場です。

初代藩主として1583年この地に入場し、礎を築いた、前田利家公です 。白馬に黄金の甲冑(かっちゅう)姿。

そして最後が、派手な赤母衣衆(あかほろしゅう)と呼ばれる一団。

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信長(18歳)の時に、14歳の犬千代は近衆(小姓)として仕えます。信長親衛隊には赤・黒の母衣衆(当初は布を風船のように膨らませ後方からの弓矢を防ぐ装束)があり、犬千代(後の前田利家)は赤母衣衆の筆頭でした。

・・・金沢100万石まつり 6月7日(土曜)午後2時20分金沢駅から スタートし金沢城公園まで約3.1Km、百万石行列が練り歩きました。

お松の方行列:お松の方は、女優 菊池麻衣子さん(39)、

前田利家入城行列:前田利家公は、俳優の 原田龍二さん(43)

行列に参加された人々は、小学生も含め約2500名・・・実行委員会の「百万石行列かんたんガイド」より。

関東は大雨の土曜日、ここ金沢は、幸い梅雨の合間の曇天でした。

・・・

さて、ドイツの旅も終わりにしましょう。

ハイデルベルク・・・まず食事をして、この街の魅力を探しましょう。

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お勧めメニュー? 忘れてしまった! 

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確か地元の特産ワインを頂いて、お土産にしたと思ったが・・・。

この街は、・・・街の中央、マルクト広場から・・・案内板を見てみよう。

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案内板の上は北、・・・右上東端の駐車場から少し歩いた地点です。拡大して、注釈を入れてみると

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そして広場から、南の丘の上にハイデルベルク城が見えます。

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ドイツの各都市が歴史に登場するのは、中世の終わり十字軍の遠征の頃からでしょうか。

腐敗したローマカトリックに対し宗教改革が起こると、この街ハイデルベルクはプロテスタント(カルヴァン派)に早くから改宗します。

・・・1622年あのバイエルンのティリー将軍にこの街も占領されます。1618年~1648年の30年戦争当時の話です。

ティリー将軍自身もカトリック教の信者です。・・・カトリック教の普及活動にイエズス会に入ろうか?いや、カトリック教に反対・敵対する者は潰さなければ・・・

武力で潰す軍隊に入り功績をあげていきます。

この街もティリー将軍と同じキリスト教なのに、・・・バチカンを批判して別行動をとるプロテスタント教の住む街を占領しました。

住民はもちろんカトリック教に戻されます。

ところが約10年後、1633年スウェーデン軍によって再び街は攻撃され、プロテスタントに戻ります。

しかし、翌年皇帝軍に奪還されカトリックを信じなさいと。・・・聖霊教会も右往左往・・・

街は復興できずに荒廃し続けます。

・・・その後、1688年~1697年プファルツ継承戦争(オルレアン戦争)。

この地のプファルツ選帝侯カール2世が、世継ぎが無いまま亡くなります。後継者の選考が問題となります。カール2世の妹がルイ14世の弟に嫁いでいました。

後継者の決定に異議あり・・・、当時勢いのあったフランスのあの太陽王ルイ14世が、弟の妃の出身地を理由に、プファルツ領地の相続領有権を主張して攻め込んできました。

1689年プファルツ領地であったこの街も占領され、略奪・破壊行為で無残な現在の姿になったといわれています。

・・・2度の戦争で破壊され、目の前に見える城は廃城です。廃城の状態で解体されずに300年以上も残り続けた理由は何でしょうか?

ケーブルカーで高台に上がると、裏側は(内側)は・・・裏の山からフランス軍に大砲を撃ち込まれ・・・無残何も無い廃虚、ハリボテのセットの状態になってしまった。

見上げているこの広場の周囲三方向をパノラマ合成で・・・

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そして広場の右側に、東から西へと旧市街のメインストリートが走ります。Dsc_0767

コルンマルクト(穀物市場)のマドンナの像(スイスと同じく、噴水・水道がシンボルです)

マルクト(英語ではマーケット・市場)、水曜と土曜の午前中 朝市開催。

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前方の広場がマルクト広場、右が市庁舎:1701年から現役(観光案内所有)、右下・・・ここに案内板があります。

正面は聖霊教会、鐘楼のある裏側(西)が正面ファサードになります。

残念ながら、ステンドグラスで覆われた祭壇がある教会の東壁面が広場に面していますのでこのカットになります。

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市庁舎広場とヘラクレスの泉(井戸のようです)

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旧市街中心部、

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歴史的建造物が並ぶ

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の建物は歴史を感じさせます。ルイ14世・フランス軍の焼打ちから耐え、残ったただ一つの建物です。

建物の頂上に、守護神ザンクト・ゲオルグ 騎士の胸像が据えられています。そこで「騎士の家:ツム・リッター」 と言われます。

ツム・リッター:Zum Ritter ロマンチックホテルとして現在使われていて、人気のレストランも営業中。

さて、先程の広場の角にある「聖霊教会」この教会は、1400年前後に建て始め、1544年頃完成のようです。

カトリック⇒プロテスタント⇒カトリック・・・混乱、内部を仕切って両派で運用・・・長い間色々とあったようです。1936年にプロテスタント派が、カトリック派から権利などを買い取り、決着しました。

尚、イエズス会の教会建設が30年戦争で占領したころから始まり、1759年ころ完成、大学の近く(案内板参照)にあります。

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広場に面したこの聖霊教会で特筆すべきは、内部に入ると外観から想像できない現代への強烈なメッセージが目に飛び込んできます。

側廊のステンドグラスに驚く・・・何だ! ドイツ語のメッセージだろうが(1~2年かじっていても、さっぱりわからない)聖書の言葉が引用されているとのこと

この教会は、近くにある1386年創立のハイデルベルク大学と関係が深い。

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現代の写真技術を組み込んだグラフィックデザインであり、緑、青、黄、更に強烈な赤色、・・・立ち止まり目を凝らしてしまう。

6.8.1945 右下のこの数字は、1945年8月6日を意味しています。

この日は?・・・広島に原爆が投下された日・・・何故こんなに歴史ある教会に?

赤く荒れくれた球体は、強烈に悲惨な状況が浮かびます。黙示録とは関係ないでしょうが。

その右上に E=mc2 ・・・アインシュタイン・・・「物理学の窓」とも言われるそうです。毎週教会で悲惨な出来事に出会うのはいかがなものかとの反対も多かったようです。

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ハイデルベルク大学はこの教会と関係が深く、学部を象徴するデザイン・メッセージで窓を飾ろうとされたらしいが、斬新すぎてでしょうか?全体構成は未完のようです。

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この教会から直ぐ近くにカール・テオドール橋があります。

アーチが9つ、全長198.5m、幅は約8mで車道もあります。建て替えること9代目、1788年製です。

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橋の左横に、サル(顔の部分が空洞で、頭を入れて記念撮影)の置物。

左手には鏡、光っているのは触ると〇△があるといわれているようです。

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橋の上から振り返ると、ハイデルベルク城、・・・城をバックに記念撮影の名所です。

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この街、旧市街はかつて城壁で囲まれていました。その一部が門となって残っています。その一つがサルがいた橋のところにもあります。

城壁門より目立つ白い対の塔は、・・・高い所・・・見張りに使われていました。

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さて、この立て看板 STUDENT  PRISON 学生刑務所 とあります。

観光コースに、ドイツで最も古い大学の学生専用刑務所があります。そして内部が見学できます。

学生による自治、秩序、統制を素直に受け入れる者がいる一方、若者は反体制が勲章だったり、秩序は壊したい・・・揺れる年代です。

1712年から1914年までおよそ200年間、学生は軽微な違反者はMin.3日間から、大罪はMax.4週間 牢屋に入れらたそうです。しかし、退学では無いので授業は受けられたようですが、

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ここが学生街

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1368年 ハイデルベルク大学が創設されました。当初は校舎が無く聖霊教会で講義が行われたとも。

この建物は旧校舎で博物館です。この右側に新校舎が建てられています。校舎は、他にも市内に分散して あります。

ドイツ南部を巡ってみて、どこもルターによる宗教改革の波が大きく、結果、宗教戦争(30年戦争)の戦場になり、戦のあとは・・・破壊された街・・・多くの戦死者・・・働き盛りの人口減で復興もままならず・・・

今日その遺産を見て回る、過去があり、・・・元気な今日がありホッとした。

将来を動かすのは・・・この子供たちです。

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そしてハイデルベルクの素敵なお母さん!

 

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ドイツ 古城街道

2014-06-03 | 旅行記

書きかけの内に時間が過ぎ、突然の猛暑がやってきました。エアコンが無いと無理・・

太陽が降り注ぐ最高の季節がすぐそこに・・・、若くないから夏の暑さは勘弁して!・・・?

若いけど、紫外線は皮膚に良くないので夏は嫌い!・・・紫外線は今が一番強いそうですが・・・

適度に紫外線も浴びないと、ビタミンD、特にD3が造られませんよ。免疫力・骨・がん予防いろんな効用があるそうですよ。

・・・昨年咲かなかったアマリリスが、見事な大輪を咲かせてくれました。

3週間前に1本の茎から大輪が四方に4輪咲き、花が終わると続いて同じ球根からもう1本の茎に2輪、遅れて2輪と咲いて楽しませてくれました。

毎週週末になると、胡蝶蘭、クンシラン、ポインセチア、と植え替えが続き、元気のない きんもくせい は薬剤散布が必要になり・・・、オクラをプランターに移植して・・・そんな週末です。

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さて、ようやく新しいPCがそこそこ動くようになってきた。写真の整理も一段落させよう。

・・・南ドイツの中世の街ローテンプルク。

ここは古くからドイツを南北に走り、イタリアに続くロマンチック街道の有名な観光名所。

さらに、西のマンハイムからローテンブルクを通り東のニュールンベルクまでの約300キロの道を第二次大戦後、古城街道と名付けられ観光促進として整備された。

今日では、東はチェコのプラハまで延び約1000㎞に達した街道となりこのローテンブルクで交差している。

下の地図は、ロマンチック街道から西側の古城街道を示している。

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さて出発です。ローテンブルクから南に20㎞くらい戻り、西に高速道路を70㎞くらい走ると、ハイルブロン、人口約12万人

ここで高速を降り、一般道をネッカー川の渓谷に沿って北西に進み、ライン川にそそぎこむマンハイムまでが古城街道と呼ばれる。

このハイルブロンから北上すること3㎞くらいで、ネッカーズルムの有名企業建屋が見えてきました。

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アウテ゛ィ(本社はミュンヘンから北に60㎞のインゴルシュタット)のネッカーズルム工場。

アウテ゛ィ(Audi)は、1910年設立、戦後の1955年同じくドイツのフォルクスワーゲンの傘下となり、現在株式は99%VW社が持っています。

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最近高級車にシフトしヒット商品が続き、生産は順調の様子。 完成車がレールの上を延々と流れて行く。

そして、同じくネッカー川沿いに水を利用する大きな建造物が・・・。

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白い水蒸気を吐き出しているのは、・・・原子力発電所です。

ドイツの原発依存は30%くらいのようですが、・・・最近、日本の原発の被害を目の当たりにして、原発0を目指すと宣言しました。

ハイデルベルクを目指し、川沿いに進みます。

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この付近は、まだ大きな街が点在し、街のランドマークは・・・教会の尖塔です。

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対岸に見えるのは、バート・ヴィンブフェンの街のようです。

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丘の上に見えてきたのが、・・・? よくわかりません、古城です。

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丘陵地帯の高台に・・・

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グッテンベルク城 でしょうか? それともホテル?

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この付近は川が大きく蛇行しているので、川の向こう 左に見えた小さな古城が

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徐々に大きくなると、いつの間にか

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道路の右上に見上げる感じになりました。

川の斜面にぶどう畑が続き、その高台にあるのがホルンベルク城です。

もうすぐ道路が分岐する。目的地ハイデルベルクは川に沿って直進・・・、右に進むとモースバッハの街です。

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ネッカー川は高低差があまり無いのでしょうか? 

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簡単な固定で、車ものんびりと・・・

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鉄道の駅がある、ドイツ鉄道・・・、Sマークの駅がある、都市近郊電車、ここはツヴィンゲンベルク駅のようです。

この街は、ハイデルベルクから東に40㎞、人口は700人くらい。

有名なのが13世紀に最初に築かれ、のちに再建されたツヴィンゲンベルク城とあります。

大きく蛇行している川の下流に古城が見えます。川の左岸はキャンプ場のコテージ風な建物が整然と並んでいます。

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城の真下に来ました。ツヴィンゲンベルク城。現在はバーデン大公の私邸として、維持管理されているようです。非公開

この城の裏側は深い谷で、ウェーバーが歌劇「魔弾の射手」を生むきっかけになったと言われ、これを記念して年1回行われる野外演劇に多くのファンが集まるようです。

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ヒルシュホルン城:古城ホテルとして営業され人気があるようです。

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この界隈は、古城ホテルの街 ヒルシュホルン 

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ネッカーシュタイナハの城

 

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ここから隣町、ハイデルベルクへは電車で15分くらい。そう、もうすぐハイデルベルグです。

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ここがハイデルベルク旧市街、東の入り口  カースル門(1781年建造)

旧市街はここから2㎞程の範囲で西側のビスマルク広場まで

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そして、ネッカー川にアーチ橋が架かっています。カール・テオドア橋・・・1788年建造・・・古い橋(アルテ・ブリュッケ)と呼ばれることが多いそうですが、単に古い橋より愛称があってもいいのに

この橋から左の山裾にあるハイデルベルク城の撮影スポットがあります。次回に

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