気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

AYUTTHAYA アユタヤ・・・かつて日本人が

2018-05-21 | 旅行記

気が付くと、春があっという間に流れて行きます。

アマリリスからハイビスカスの季節に

新緑の5月も・・・残り少ない週末になってしまい、・・・土曜日は運動会、曇天で幸いでした。

小学生全員参加の玉転がしも、盛り上がりました。

終了後、首都高速で・・・港の見える公園に

見事な庭園です

この色の名前は?ピンクオブプリンス?・・・イングリッシュローズ?、・・・若干熟女になってしまいましたが、・・・

停泊している船が見えます。

そしてマリンタワー、・・・山下公園、フェステバルが行われています。

近くのレンガ倉庫もイベントが行われ、多くの人出で賑わっていました。

PM7:00、中華街、先日のお店に再訪します。

今日は朝9:00から予約していた成人病検査があり、その後運動会に駆け付け・・・慌ただしい一日だった。

検査も終了したし、ゆっくり食事をして・・・PM9:00、ベイブリッジの夜景も素敵だが、

お台場からレインボーブリッジに入ると・・・高層ビルが日増しに増え景観が変化していくのに驚く。

・・・5月最後の日曜日、三社祭の次は、

金曜日から、今日の宮入まで本祭が続きます。

湯島天満宮、平成30年5月27日

PM2:00から「古事記伝の魅力」 本居宣長記念館館長の講演が参集殿で行われます。

・・・三重県松坂から来られた吉田悦之氏の講演・・・期待していた題材でしたが、

冒頭「講演時間が1時間の依頼ですが、話は1時間半くらいにすぐなってしまいます、今回は1時間と言われておりますので・・・」

と前置きがありましたが、本居宣長の生い立ちなどの話に55分、資料を配布された古事記は・・・残り時間10分強を使って・・・慌ただしくさわりだけ

・・・古事記の内容あれこれよりも、まず「信じること」と最初に強調されました・・・何故か宗教の布教に通じるものがあるのかと興味を抱いたのでしたが・・・

「古事記伝の魅力」因幡の白うさぎ、ヤマタノオロチが何故登場するのか?・・・学者肌の人は、伝いたい情報をアレヤコレヤト順を追って説明したいのでしょう・・・

本題にたどり着かず消化不良・・・本居宣長の功績で、古事記をどのように読むか、・・・そして読めるようになったようです。・・・別途、関係書を読んでみましょう。

本殿で大祭の祭典、玉串拝礼後、参集殿で直会の儀・・・初夏がすぐそこに

・・・ブログ、UPされずにありました。

シャム国 (現タイ国)の都、アユタヤ、しかし略奪されて廃虚の都です、・・・旧市街地?に入ります。

河川に囲まれたかつての都は・・・

このような案内板がありました。現在地は中央の赤丸です。

では、先程のワット・ヤイ・チャイ・モンコンは・・・右斜め下、緑の丸印です。

入口の手前に模型が展示されていました、マット・マハー・タート

ガイドブックによれば、1374年の建立。仏舎利を納めるための寺院です。

中央の高い仏塔がランドマークでしょう・・・塔の上部は豪華な金色に輝いていたそうです。

回りを小さな仏塔で囲み・・・さらに周囲を回廊が囲み・・・寺院の一番外側は立派な塀が続いている。

・・・では、内部に進んでみましょう。

これが中央の仏塔でしょう。レンガ積みの技術は相当高度な感じです。

このような目を引く看板がありました。タイ語、英語、日本語です。

中国語が無いのが・・・看板の作成が相当古いからでしょうか

観光客向けに、この様な行為は禁止ですと警告しています。

多分、管理されていない(放置された)状態の遺跡に見物客が押し寄せ、好奇心から探索を始め

そのような状態の写真が出回り・・・人気が出ると旅行会社がツアーを組み、観光客に場内が荒らされて

・・・多少管理をするようになった。推測ですが?

周辺に、・・・無残な残骸が集められていました。

坐像の胴体ばかりです、・・・頭部が人工的にカットされて、残っていません。

ビルマに約1年半占領され、その期間に荒らされてしまいました。

この都では、一部の仏像は頭部が金で光り輝いていたそうです。

寺院の宝物と金で装飾された仏像頭部は、隣国ビルマに持ち去られたそうです。

 かつては緑も多かった都だったのでしょう。

この大木をぐるっと・・・反時計回りに回り込んで、裏側に進みます。

見つめられましたか?・・・、 n・・・n、角度が悪い?

 有名な、撮影スポットです。

ガイドブックなどで、タイ国で仏像を撮影する場合、カメラ目線が仏像を見下す状態にならないように・・・

この場合、地面すれすれのローアングルが好ましいようです。

ビルマ軍に切り落とされ放置された頭部は・・・、自立しているのが大変なので、周囲のモノに支えて下さいとお願いすると

この様な感じでいかがですか?・・・共存共栄です

周囲は、・・・立派な構造物があったのでしょうが、この様な略奪された廃虚となって、・・・今日まで残っていました。

異様な光景です、両腕も切り取られています。

寺院の中央に進むと、何故か破損の少ない仏像がありました。

 金迫等が貼ってなかったのでしょう。

この仏像は・・・寺院内で狼藉を働く連中を一部始終目の当たりにしていたのでしょう。

彼らが引き上げると、悲惨な映像を脳に焼き付け、眼を閉じてしまった。・・・同胞が修理され寺院が復興なった日に、開眼するかも知れません。

このアユタヤは、タイ国の・・・かつての首都だった。貿易で繁栄した歴史上の仏教都市です。

しかし、1767年、略奪され、火災も発生し、全てのアユタヤ王国の資料が焼失してしまいます。

・・・近代になり、タイ国の国史で重要なアユタヤ時代・・・資料が少なく歴史の作成に事欠くありさまで・・・修復・復興は夢のまた夢。

 

残っているレンガも、建築当時から相当風化したことでしょう

足場が組まれ、倒壊防止の補修なのでしょうか、

この地は、・・・世界遺産(文化遺産)でした。都の復興は諦めて、現状を維持するのが大役でした。

「文化遺産:(3)現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくともまれな証拠。」

この樹木は・・・樹齢何年になるのでしょう

焼け落ちた都で生き残り、成長を続けてきたのでしょうか、それとも、代替わりをしたのでしょうか

・・・境内から戻り、・・・売店でマンゴージュース、ここのジュースは美味しいとガイドさん

バスに戻り、西に数百メートル移動し、次の寺院へ

グーグルの画像を拝借しましょう。

中央右上の赤丸から、左に移動して1ブロック先の赤丸が、Wat phra Si Sanphet ワット・プラ・シー・サンペット

上方が北、・・・北から左右に二本の河川が流れ、南東部で合流しています。

ここは、中洲のように周囲が河川に囲まれた水の都、海運業が発達した都、貿易の盛んな都でした。

 仏塔が見えてきました。広大な緑の境内が広がっています。

セイロン式の仏塔です。

残念、この地も・・・レンガ積の建造物が破壊されています。

・・・ここでも入口手前の建物内に、このような模型が展示されていました。

ガイドブックによれば、ここの寺院は 1491年に建造された第一級の王室守護寺院。

この都で最大規模、王宮と同様1767年ビルマ軍により破壊される。

石灰によって白くなってしまった3基の仏塔しか残っていない。

仏塔の近くに進むとこの様な案内板が立っていました。(上段の横長の看板と下段が別々に立っていました)

 上段が境内の全景・配置図、下段は境内中央部に建っている仏塔の案内でしょうか

境内中央から右側に

 景観にマッチするような女性が・・・ハムストリングの発達が素晴らしい

三つの仏塔を、何とか一つの画面に収めたい・・・こんな感じになりました。

 

これらの仏塔には15世紀、アユタヤを統治した3代の王の遺骨が納められています。

 

 

 仏塔の周囲の建造物は、壁だけが残っています。

全てレンガ積みの重厚な建物で・・・高さも結構ある、・・・

壁の立ち上がり部、黒くなっているのは火災の跡か、どのような内装だったのでしょう

 アユタヤが繁栄した時代、日本人もこの郊外に多く居住していたそうです。

 日本刀を差した侍は、この地の文化に触れてどのような感想を持ったのでしょう・・・何か資料は?

・・・侍の世の中は、1600年、関ヶ原の合戦以後大きく変わりました。

敗れた西軍・豊臣側は多くの浪人が誕生してしまいます。

士農工商、農民のあこがれだった武士が生活に困る時代、浪人が職業を生かすには・・・。

・・・浪人の一部が東南アジアに流れ、各地で傭兵・外人部隊として活躍するのは・・・帰れる保証は無いが・・・一度きりの人生・・・

世は大航海時代です。海路での貿易が活発になり、特に香辛料を求めインド・インドネシアでは各国の勢力争いが激しくなりつつありました。

長崎、堺の貿易商はもとより、貿易で大きな利潤が得られるうまみ知った各地の藩も東南アジアに駐在員を派遣する・・・そんな時代が始まっていました。

日本が東南アジアに資源を求めた昭和の始め、山田長政の伝記は小学校の教科書にも登場したそうです。

江碕  惇 著、史実 山田長政 を読んでみました。

染工(紺屋コウヤ)の息子が臨済寺で学問を学び、町道場に通い、体格も良く、しかし武士になれず、雄弁でほら吹き仁佐と呼ばれた人物が

1610年、20歳で堺から長崎経由台湾に密航します。台湾でシャム行きに乗り換え・・・目指すはシャム(現タイ国)の都アユタヤ

・・・1606年から8年間の間に30隻余の朱印船が遠いシャムに到着している、・・・そんな時代に青春を過ごした人でした。

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アユタヤへ

2018-05-07 | 旅行記

寺院(ワット・プラ・ケオ)の周囲を見渡してみましょう。

中央の寺院は?・・・資料によればプラサート・プラ・テープビドーンでしょうか。ラーマ4世が建立というと、ラーマ1世の孫にあたる人物です

この新しい寺院に、チャックリー将軍(ラーマ1世)が戦利品として持ち帰り、国の宝となったエメラルド仏を安置する予定だった。

しかし、完成後、・・・仏教行事を行うにはやや手狭で安置を断念し、替わりに歴代国王の像を安置することになったそうです。

寺院は、公開されていません。

多くの仏塔・建物をファインダーの中へ納めるのに一苦労・・・

日差しが強くなってきました、・・・時間は11時近い、

エメラルド仏は、現在本堂の西側に安置されています。

本堂内へは、入口の外にある下足棚に履物を置き、拝観することになります。

そろそろ この一角、ワット・プラ・ケオ寺院から、宮殿内に戻ることにしましょう。

廻廊には6つの門があり、各々1対の鬼が立ってい。ます

この大きな鬼の門番に挨拶して、・・・日傘が進む、出口方向に続きましょう。

出口の先では、多くのグループ(団体)が集合していました。あちこちで、人数確認が始まっています。

おそろいのハットは、引率する方にとっては識別しやすくて便利ですね!・・・人混みの間を縫って先へ進みます。

緑の芝生に囲まれた チャックリー・マハー・プラサート殿 が存在感を示していました。

洋館に屋根の上だけタイ風な感じです。

パンフレットによると、ラーマ5世により建てられ、1882年のバンコク王朝(チャクリー王朝)100年祭に完成したとあります。

イギリス人建築家にルネッサンス様式でと命ずるが、途中でタイ様式の進言を受け入れ・・・このようなスタイルになったようです。

・・・ラーマ2世(1世の子)の時代、隣国ビルマが度々侵攻してきたが、1822年西方インド・ベンガル地方にビルマが侵攻し、

・・・1824年、進出していた英国と戦争になり、ビルマは英国に占領されるきっかけになりました。

ラーマ1世が崩御すると、前王朝のタクシン王の子が反乱を起こします・・・

しかし、ラーマ1世の孫が制圧を命じられ・・・この反乱を制圧し、後にラーマ3世として即位します。

ラーマ4世は、前王朝以来続いていた清への朝貢を1854年に止めます、・・・そして西洋と自由貿易を開始し米を輸出します。

・・・さて、この宮殿を建てたラーマ5世は、現在のタイを作った国王として有名で、国民から絶大に尊敬されています。

即位が1868年10月1日です。即位後、欧米を視察旅行して自国の弱体を痛感されたのでしょう、改革に着手されます。

・・・(時を同じくして、日本では何が 起こっていたのでしょう。

1868年10月8日から一ヵ月間に渡り、幕府側の会津藩が会津鶴ヶ城に籠城すると、板垣退助の新政府軍は大砲を撃ち込んでいます。

徳川将軍が白旗を上げ謹慎していました。しかし、薩長は 内戦 に持込み、徳川側の人材をせん滅させ、主導権を握ろうと・・・。)

さて当時タイでは、英国やフランスが隣国を植民地にしていました。

ラーマ5世は他国のようにヨーロッパの植民地にはならずに、タイの領土の一部をイギリスやフランスに割譲して独立を守ります。

ヨーロッパの制度を取り入れ、奴隷解放し、中央集権化を進め近代国家へと・・・絶対君主制を確立しました。

1944年発行された小説「アンナとシャム王」、これを原作としたミュージカルや「王様と私」が欧米でヒットしました。

後進国のアジアの王が幼少時代、王宮で家庭教師アンナの影響を受け、・・・西洋化を遂げ、奴隷解放にも影響を与えた。

・・・そのモデルがラーマ5世で、欧米では先進国の家庭教師?・・・の美談でも、タイ国では上演されないそうです。

ラーマ6世はイギリスに9年間留学し、1910年11月に即位します。この王が歴代国王を「ラーマ**世」と呼ぶように決めました。

1917年7月、連合国側から第一次世界大戦に参戦し、その後国際連盟に加盟し、独立王国としての地位を確立しますが、・・・タイ国の財政は最悪。

弟のラーマ7世の時代1932年に、チャクリー王朝 150周年の式典を執り行います。

その後、クーデターにより絶対王政が終わり、立憲君主制国家となります。

王も望んでいたようで、絶対権力者から国家元首、新国家の象徴となり、国名も1939年6月シャムからタイと変更されました。

・・・ラーマ8世は1935年即位するもスイスで学業を続け、1945年第二次大戦後帰国したが、1946年他殺説が強い変死を遂げます。

そして、ラーマ5世の69番目の子息が即位します。当時、国王への信頼も権威も低下していました。

ラーマ9世 は努力し、1946年6月から70年間と長期間国王の座に有り、国民に慕われ、人気もありましたが 2016年10月 に88歳で崩御。

・・・子息は1男3女ですが、長女は外国人と結婚し、王位継承権は無くなっています

長男ワチラーロンコーン、1972年王位継承権、次女シリントーン王女1975年王位継承権が贈られています。

3女は王族以外との男性と結婚しましたので、王位継承権は無くなっています。

この長男がーマ10世として、2016年12月1日正式に国王に即位。

軍人の経歴が長く、離婚、結婚、離婚、結婚・・・他に愛人の風評があり、新国王の評判は?、ウッカリ話せない。

・・・シリントーン王女を待望する国民が多いとか、ラーマ10世の今後が気になります。

・・・

・・・王宮に入った正門(チャイシー門)から西に100m程離れたテ-ウェッド門が出口だった。

出口から東に進み、再度正門の前を通り大通りに出る、目の前は官庁街、国防省の横を東に向かって進む。

小さな運河を渡り、左の路地にはいると人気のスイーツ、アイスなどの青い街並みがあった。

この先東に400mくらいで大ブランコで有名な寺院があるのだが、割愛

タクシーでMBKセンターへ、タイ料理の昼食後、近くのサイアム・デザインホテルに・・・

午後のオプショナルツアー アユタヤ観光の集合場所です。PM1:00、大型バスはクーラーを利かせて待っていました。

近くの高速道路から郊外へ・・・チャオプラヤー川の上流に向かいます。

バンコクから北に80㎞くらい、アユタヤの中心部に入る手前に、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンがあります。

平日の午後、バンコク市内で若干渋滞し、現在時間 PM2:30近い、

市内より郊外が気温は高いようで 38℃くらいと聞くと首筋が痛くなってきた。

慌ててスポーツタオルを取出し、頭を覆いキャップを被って、扇子で風を送る。

・・・ドラえもん人気に驚いた祠の先で、ガイドさんが入場券を購入している、(20B位)

その先右側に本堂があり、売店で金箔を購入し仏像に貼って化粧直しに一役買うこともできるようです

この国では熱心に参拝される方が多く、仏教が身近なのに驚きます。

この本堂の左横から裏側に進みます。

途中から上部が見えていたのですが、非常に高い仏塔の全景が見えてきました。

スリランカ様式と北部インド様式を取り入れた尖塔、円錐形状の仏塔のようです。

崩れたレンガの先、左側に大きな座像が笑みをたたえていました。

この寺院はガイドブックによると、1357年建立とあります。

1351年に王朝を開いたようですから、数年後に先ずこの寺院を建立したのでしょう。

少し右に進んで、・・・仏塔の正面に立ちます

・・・近過ぎて、全景が入らない。

では、下がれるだけ下がって、・・・無理。・・・結果、合成写真です。

この仏塔、高さは、後年・・・正確に測ると72m、

1592年から93年にかけて当時のアユタヤ王が侵略していたビルマ軍と戦い、勝利を祝って建てたそうです。

王朝を開いてから約240年、成熟した都の悩みは、隣国ビルマの侵略が繰り返されることでした。

戦勝記念です、ビルマ王がアユタヤ郊外に建てた仏塔よりも高く建てるよう命じたが、測量技術も未熟で僅かに低くなってしまった。

一方ワット・プー・カオ・トンは高さ80mの仏塔、1569年に因縁のビルマ王が占領してビルマ様式に改修し、後年アユタヤにより奪還されタイ様式に再改修されているようです。

この80mの仏塔はアユタヤ北西の郊外に現存しますが、観光ツアーのコースに組まれてないようです。

搭の反対側、本堂の裏手はこの様な・・・仏像が並んでいました。

では、左側の仏搭に登ってみましょう、

最上部には、洞窟状の礼拝場がありました。

少し下った正面階段の左右に階段があり、上部に登れます。テラス状の外周に出られ時計回りで展望できます。

レンガ色の屋根と緑が調和しています。暑い、しかし緑が多いのが目に優しく素晴らしい展望です。

仏像が整然と並んでいる様は、確かに仏教王国です。

かつてはこの画面に、数多くの僧侶が登場したであろうと思うと・・・宗教の持つ力を感じていた。

仏像の頭上にある巻き毛の螺髪は日本の大仏にも引き継がれていますが、この髪型は・・・

ミニュチュアの搭?いえ、「ラッサミー」と呼ばれ 火焔飾り、放射される光を表現されているようです。

階段を下った左側に、怪獣が・・・ヤマタノオロチの親戚でしょうか?

この右側にも座像が置かれています。

レンガ積みの破損跡が・・・いにしえの都、破壊・略奪された無念な都が何かを語りかけてきます。

こちらにも数多くの仏像が並んでいました。

・・・もう一か所、ドラえもんの近くに急いで移動します。壁面の裏側に涅槃仏が・・・

多分ここは建物で覆われていたのでしょう。裏側に回り込んでみましょう。

全体が分からない・・・離れて

白い涅槃像立像では疲れるし、坐像でも・・・、

この状態で静かに長い間

・・・何を見てきたのでしょう・・・。

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