気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ヴェローナ

2019-02-15 | 旅行記

ミラノから東方のヴェネツィアに移動します。距離は約270km、東京から浜名湖くらいでしょうか。

この途中、東に160kmくらいの所で南北に走る(ローマとドイツを結ぶ)街道と交差する交通の要として、中世から栄えたヴェローナの街があります。

・・・紀元前1世紀にローマ帝国の支配地となり、得意の土建業でローマ同様、円型闘技場や水道施設などインフラが整備されました。

今日観光地として有名なのは、皇帝派と教皇派の紛争をベースに「ロミオとジュリエット」のロケ地?生誕地?

いや、シェイクスピアの作品の舞台となった地ですが・・・名所なのです。

今回は2000年に世界遺産となった旧市街地に、川を渡って古き遺跡から入ります。

アディジェ川が右側(上流)から左に流れ、川向うの旧市街をU字形に取り囲み、蛇行しながらヴェネツィアへと下っていきます。

橋の麓にはこの様な彫刻もありました。

剣を持っている天使、ミカエル?でしょうか、動作が良く理解できませんが・・・

橋を渡り道路が右に大きくカーブする所の左側に、このような遺跡がありました。

この門は始めて見ます。古代ローマ時代の門です。

資料によれば、ボルサーリ門、ベローナの正面入り口、(中世以前は、ユーピテル門と呼ばれていた)

門から中に進み商店街を少し直進し、やがて右折、そしてまた右折すると広場にでます。

円形闘技場、アレーナ・ディ・ヴェローナ 収容人員:2万2000人、長径:152m、短径:128m 高さ:30m

大きく破壊されていないので、この遺跡はイベントに使用されています。

マリア・カラスのここでの野外オペラ、イタリア初演は有名な話のようです。

他にも、U字形の最深部の川向うに半円状の野外劇場があります。

裏の丘の上に登り、旧市街を見たかったが・・・時間が無いようです。

足元に昔の旧市街の地図が埋められています。

着色と表示は作者が追記してますが、今日ではもう少し細分化され、広場も変わっているようです。。

左端のヴィットーリア橋を徒歩で渡り、ボルサーリ門から図では一ブロック上に進み右に1~2ブロック進み

下側のアリーナに出て来ました。

 

アリーナからまた地図上、上方に商店街をしばらく進み、

左に広場が見えてきた十字路を、右に曲がります。

・・・この通りをしばらく進むと、2ブロック先くらいの所にもこんな遺跡があります。

2000年前、ローマ帝国時代の土木工事が風化しないで残っています。(過去に撮影した画像)

古代ローマ時代の井戸跡、

旧市街、逆のコースで、こちら側から奥に塔が見える広場に向かって進むコースが、分りやすいでしょう。

このように遺跡を利用して景観を作っているのはさすが。

・・・では、元の位置に戻って、2~3軒先ではこのような景観ですが、これは雨の日で人通りが少なく特別です。

直ぐ先で、傘の女性が左を見ています。カッペロ通りのこの付近、通常はごった返しているようですが

この左のレンガのアーチ前は、

 

ジュリエッタの館、看板があります。

アーチの壁面は、メッセージが重ね合って貼られています。

中に入って、・・・撮影スポットがこちら、左奥の一角

ジュリエットの銅像です

後から市によって増設されたバルコニーもあります。

そして、このような風景が・・・人気を呼び・・・金ピカになっています。

シェークスピアのモデルとされている貴族のカプレティ家(13世紀とされる)、この館でも同様の悲劇があったのでしょうか。

館の向こう側上部に見えるV字あるいはM字のシンボルが目立ちます。

このベローナでは結構多いようで、神聖ローマ帝国皇帝派のマークで、ロミオの家は皇帝派。

ベローナは都市としては当初は皇帝派支持、やがて教皇派支持、その後また皇帝派が有利になったようです。

ジュリエットのモデルの家はローマ教皇派で、シンボルは上部の切り込みがなく平らの四角のようです。

この先斜め奥に、ロミオのモデルとされる館もありますが、入口に看板がある程度で内部には入れません。

都市や貴族を巻き込んだ神聖ローマ帝国の皇帝争いが続いた時代、・・・悲劇の物語のモデル地区が観光名所となっています。

通りに出て元の方向に戻り、十字路を直進するとエルベ広場にでます。

さらに進むと

広場中央、処刑もあったようです。中央の4本の柱は

歴史を感じさせる・・・水道がありました。

このベローナで一番高い建物が、広場横のランベルティの塔、

霧雨状態だが登ろうか・・・とにかく窓口へ・・・階段、エレベータ・・・8€ と言われて

確か自由時間は10から15分、視界が悪いので・・・コスパが悪すぎる、断念

ここでも画像が少ないので、以前の画像を

隣りの紳士たちの「シニョーリ広場」です。昔はアリーナの古地図にあったように今のエルベと続いていたようです。

1405年にヴェネツィアの支配下になり、教皇派と皇帝派の抗争も終止符が打たれたようですが・・・。

隣のフィレンツェでは、ダンテがジョットーが、宗教界ではアッシジの聖フランチェスコが聖書の解釈をめぐり

後に言われるルネッサンスの先駆け状況が生まれていました。

広場中央にはこの地を訪問したダンテの像、そしてパッラディアーナ聖堂、彫刻も色々あります。

羽根のある天使のようなライオン像はヴェネツィアの象徴です。(サンマルコの有翼の獅子像)

後年、ナポレオンのイタリア侵攻でヴェネツィア共和国が敗戦し、フランスの支配下になりますが

自由都市ヴェネツィアの近郊で、魔女狩りも少なかったのではと思います。 

このような

ゲートの投影画法や破断面などよく見ると、街中にはいろんな情報が掲示されています。

一方、こちらは元の広場をさらに進むと

噴水のある広場の向こう側に、壁面にフラスコ画?

モザイク画はヴェネツィアに多いのですが、教会には高価で贅沢と聖フランチェスコはフラスコ画を・・・

ルネッサンス以降の作品でしょう

色彩が淡く、画像処理をするとこのような見事な作品が見えてきましたが、この建築物には丁度良い雰囲気です。

濃い緑の格子が開き、シクラメンが窓辺に見えています。

落ち着いた、洒落たベローナ、エルベ広場から最初に入ってきた門に・・・何通りでしょう一直線、

前方に見えてきました。

裏側は、シンプルなデザインでした。ボルサーリ門の話です。

・・・アディジェ川に戻って来ました。

橋から上流にもこんな光景が、

こちらの橋の上、洒落たバスが走っていきますが、路面はローマと同じ四角錐の石を打ち込んでいる?

あちこち若干陥没状態も見られるが、・・・石は大変でしょう、用意するのも、修理も、

・・・浸透性のカラーアスファルトに何故しないのでしょうか・・・、

石の文化 先進国ですが・・・何故石畳か・・・雨の日は滑るし、騒音も多いし・・・。

歩けば・・・膝、腰に良くないし、霧雨のせいかスッキリしなかった。

 

 

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ドォーモあれこれ、そして最後の晩餐

2019-02-07 | 旅行記

ドォーモ広場に戻って来て・・・自由時間となリ、やれやれ

以前再訪した時のガレリアからのドォーモ(動画から切り出し)の画像です

普通に広場に出てきても、・・・左を見上げると何度見てもドォーモの存在感はあります。

今回は、隣のデパート最上階でコーヒーでも、そして散策と思っていたら、

ガイドさんから集合時刻が・・・11時だったか?記憶にないくらい時間が少なかった、

そしてドォーモは入場券が・・・と聞こえたようだが・・・裏のチケット売り場に行く人を募っているようだった。

エーッ! 内部に入るのに有料になったの? 観光客用のコースでもできたのでしょうか

確か、最初に来たときは屋上への階段が修理中で断念、屋上に登っても何もないですよと言われた記憶が・・・、

・・・再訪した時は、屋上も目的だったのでエレベータで登ったが12€くらいだったか、階段は半分の6€位くらいと思った。

今般はあまり画像が無いので、・・・昔の画像を探していたが・・・何故が断片しか見つからない

当時HP にアップしていたが・・・残念!知人の会社のHPを独断で立ち上げ、話題創りに数年間ここにUPしていた。

そして、削除、・・・個人のブログに切り替えた・・・多少SDカードに動画が残っているので、静止画に切り出し中。

このドォーモは、基本情報として工事着工1386年からほぼ完成まで約500年、(完成時期は19世紀半ば/ブリタニカ)

ミラノを征服したナポレオンから、早く完成させろと催促され一番重要な正面ファサードが決定していなかった

当時人気のバロック調にせず当初のゴシックで決定し、取り合えず完成形にまとめたようです。(日本大百科全書によれば、1805~1809年完成説)

・・・その後も尖塔やステンドグラスなど細部の手直しと続き・・・東京オリンピックの頃までにやっと最終完成のようです。

一番身近な聖堂の扉・・・時間があればジックリ眺めたい美術品です。

扉にも数々の物語が描かれています。

中央の大扉、聖母マリアの生涯

結構立体感もある20世紀初頭の作品です。

よく見ると光っている部分があちこちに見られます。

 キリストの足やマリアの指先・・・信者が愛おしく擦って・・・いつしか光りだすと伝説が生まれここも観光スポットです。

大聖堂のサイズ:長さ158m、幅93m、ラテン十字形として当初のゴシック様式でファサードもまとめられた。

バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、スペイン・セビリアのカテドラルに次いで世界3位の大きさ

同時に4万人にミサを授けることが可能とガイドブックにあります。

整然と並ぶ柱と高い天井、中央に身廊が幅広く取られ、

正面中央部の内陣に大祭壇があり・・・後陣のステンドグラスからの光が差し込む

中央の緑の地球儀のような物が、ティブリオと呼ばれるもののようです、丸天井です。

ここの祭壇の真上に地球儀のような物が、・・・この場所でイメージすると周囲を4本の柱で支えられた上部には・・・丸天井となります。

このように中央祭壇の上部は、特別な空間として考えられ、丸天井で表現する時代様式です・・・

ダ・ビンチが活躍したミラノ時代、多分半分くらいこの教会は出来上がっていたでしょう。

教会で識字率が低い信者にキリスト教の教えを説くには

絵画によるイメージ戦略が一番と、彫刻よりも絵画・・・その名残か、多くの絵画が掲示されています。

立派なパイプオルガンこれは手前の2台、15~16世紀の物、後方に20世紀の2台があるようです

そしてこのような空間にも、素晴らしい絵画があります。

 絵画は明るい日中、採光が無いと・・・弱点だったロマネスク様式からゴシック建築となりステンドグラスが主流に

東からの朝日が入る神聖なる後陣に、14世紀に着工され、19世紀に仕上げられたステンドグラス

左奥が旧約聖書、隣りが黙示録

そして、右奥が新約聖書がテーマと言われる。

物語は、下の段から上へと続く

人気の高い、新約聖書のアップですが動画の切り出しで解像度が低いが雰囲気だけでも・・・。

採光の関係でしょうか、右側(南に面している)のステンドグラスは初期(15~16世紀)に施工されたものが多い。

ステンドグラスは、このドォーモで全部で55枚とあります。

巨大なこの1面も1枚と計算するのでしょう。

完成までに年月と建設資金が必要になるのがわかりますが、世代に引き継がれて、関係者はこれが人生だったのでしょう。

・・・関係者の礼拝堂でしょうか、コントラストの強いステンドグラスが目立ちます。

まだまだ多くのステンドグラスが見られます。

彫刻もあるのですが

聖バルトトメオ、右側廊を進むと一番奥に・・・1562年に制作されていたのでダ・ビンチも見ているでしょう。

異様な筋肉と肩に掛けた・・・殉教者です、(興味のある方は調べて下さい。)

ステンドグラスは製作年代が幅広く、興味のある方にはたまらない教会でしょう。

では、確かドォーモの右後ろの建物にチケット売り場があり、エレベータで屋上に

エレベータは、ドォーモの外側左後に入口がある。

エレベータを降り、正面ファサードに向かい屋上の端を進み大理石の階段を登ると、・・・屋根の上に出る。

楽しそう?、

いや、はしゃいでいるのは・・・社会科見学の生徒?達かな

前方には、天高くここの象徴、黄金のマリア像、「聖母マリアの誕生に捧げる」とのドォーモ設立趣旨

そして、囲むように無数の尖塔が立ち並んでいます。全体で135本とか

黄金のマリアは、774年12月からこの位置にあるという。

この塔まで高さが109m、・・・脇目をしていると危ない

足元の屋根の上は、この様な状態・・・何と大理石、中央以外は勾配が付いている屋根だった

では、振り返りミラノ市街はもちろん、アベニン山脈、スイス国境のアルプスが見えることもあるとか

足元・・・ドォーモ広場の様子から

ミラノ市街は確かに・・・

屋上に登っても何も無い?・・・高い所には、このような眺望がありました。

・・・さて、場所が変わって、今回のドォーモ南側、少し高台からの画像です。

屋上の一部が修理中のようです。

エレベータで、職人が仕事に向かっています。

黄金のマリアは、下部が修理中のようです、ネットが張られています。

その下側も足場が組まれていたようです。

期的に修理をしていますので、観光の前に大規模修理が無いか、情報は入手したいものです。

ミラノといえば、「最後の晩餐」

こちらは、以前に修復が完了し、写真撮影禁止、私語禁止、観賞時間15分、予約制で公開しています。

参考にこちらも以前作成した物が・・・

まずは、教会の場所・・・先程の15世紀の君主の居城:スフォルツェスコ城から西に約1km、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

そして、教会の横にこのような建物があります。

こちらが最後の晩餐の入口で、内庭から回廊を通り修復された展示室へ進みます。

AM8:30より開館、完全予約制、1回15人、定員25人までの入れ替え制

定刻に入場すると・・・・中に進み控室で待機する。この部屋には、最後の晩餐の資料が展示されていた。

セピア色の写真パネルが、無残な光景を訴えていた。

第二次大戦で、敵国のイタリア・ミラノは連合軍の爆撃を受け、この教会も大破しました。

奇跡的に晩餐図が描かれた壁は直撃弾を受けずに、事前に土嚢で保護されていたため破壊はまぬかれた。

しかし、戦争状態は続き、その後数年間風雨にさらされ続け、晩餐図の描かれていた横の(右側)壁は破壊された。

資料を探していたら、当時会社のHPにアップしたのか?A3サイズにまとめた物がでてきたので、再掲します。

上図の中央上部のように、この控室から中庭にでて、回廊を左に進み二重になっている自動ドアから

展示室室内に入ります。

最後の晩餐は、レオナルド・ダ・ヴィンチ作 1498年頃 大食堂の後方の壁一面です。

上図は、売店で購入したものですが、中央テーブルクロスから下側が不自然です。

絵具が剥がれたりカビが付着したりで劣化が進み、ダ・ビンチの死後1652年に何の絵か知られないまま・・・壊されました。

中央の下部、絵が描かれていた壁の下を壊して、・・・隣との出入口が造られた!高さ約2m・・・

ここには何が描かれていたのでしょうか?テーブルクロスの下側です。

一説では、中央のキリストの足が組んだ状態で描かれ・・・磔刑を暗示しているのでは?

絵の劣化が進み、年下のライバル、ミケランジェロも後年に修復を依頼され行っていますが・・・失敗、・・・

その後、長い年月が経過し、・・・・戦争の悲惨な状況からも必至で守った貴重な文化財です。

近年、ダ・ヴィンチ以後に原画に上塗りされた絵具を最新機器で分析し特定し、これら原画以外の成分を全て除去し、

修復不可能な部分は水彩絵具で修復する地道な修復作業が行われてきました。

21年間に渡り修復の結果、1997年完成・・・温湿度管理され、さらにエアークリーンされた環境で、保護しながら公開されています。

かつてNHKが1999年修正された画像を公開しましたが、その時の画像を前記作成した右下の部分に掲載しています。

・・・二重ドアから展示室に入った瞬間の感動は今も覚えています。

私語も禁止ですから、貴重な15分間と緊張して入室しました。

室内は映画館のように暗く、・・・入ると正面には行き止まりの壁面、左側にライトアップされた大きな絵画がこれは違う

右側に、少し遠いが確かに「最後の晩餐」がライトアップされていた。目標を見つけホッとしたのを覚えている。

最後の晩餐に近づくと、防波堤のような柵があり、さっと目を通して反対側の大きな「磔刑図」に近づきじっくり観賞する。

そして、関心のあったこの展示室の空間を測りたいと思っていたので歩測し始めた、幅と長さと・・・。

それから最後の晩餐を時間まで鑑賞し、促されて反対側の出口から退室した。

推定図がこちら

 当時、気になっていたのは・・・当初完成時は天井が星空模様に装飾されていたらしい。スゴイ!

改めて考えると、室内の壁面だからやむを得ないが、ライトアップ効果が強すぎて、感動はするも資料に触れあえた感には乏しい。

同じような感動はプロジェクターマッピングで再現できそうにも思える。

展示の在り方も、ただ見せるから・・・徐々に進化していくことでしょう。

最後の晩餐が、完成当時どのような空間に描かれていたのか、改めて調べてみたいと思っています。

 

 

 

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ミラノの天候は、霧雨

2019-02-05 | 旅行記

最近は異常気象の言葉にも驚きが無くなってしまった。

異常の言葉を頻繁に耳にするのは・・・既に異常では無くなっているからでしょう。

近年ヨーロッパでも何十年ぶりの大雪などと・・・災害の情報が時々流れてくる季節です。

成田発、イタリア・アリタリア航空、こちらは通常通りほぼ定刻の出発、

日本海を抜けると・・・北極圏を飛行するので眼下は大半がシベリア大陸

数時間もすると緊張感が無くなったか、まだまだ長い・・・長時間の移動を思うと苦痛を覚える。

ミラノ北西約46㎞にあるマルペンサ空港まで12~13時間、・・・多少は眠れるが、・・・いや、しかし便利になったと自分に言い聞かせる。

・・・大昔、最初のヨーロッパは、何故か北京空港に(給油だったでしょう)立ち寄り、イラン航空でテヘランへ、

乗り換えてパリへ・・・20何時間かかったか記憶にないが、当時北回りの飛行ルートは無かった。

コンコルドにはもちろん縁が無かったが、・・・近年は航空会社はスピードを競うことも無く、グループ化で利益の出る経営を目指している。

思ったより機内は空いていて、未利用の座席を使用しても良いことを聞き、ひじ掛けを上げて横になる。

長時間の独占は気が引ける、・・・1~2時間くらいで交代する

やがて、まどろんでいると機内アナウンスが聞こえてきた、軽い食事の後・・・まもなく到着だ

山を越えてイタリアへ

ミラノ・マルペンサ空港に到着。

無事にスーツケースも到着、バスでホテルへ向かう。

・・・

翌朝は・・・時々霧雨模様、イタリアで雨に降られたことはなかったのだが、憂鬱にならずに・・・この季節、霧のミラノは普通でしょう。

ミラノ観光は、ドォーモ(大聖堂)とガレリア(歴史のあるアーケード)他に最後の晩餐の描かれた教会、ショッピング・・・と数々あるが、

まずはシンボルであるドォーモにどのようなアプローチで感動的出会いを持てるかに興味津々。

・・・今回は、残念な結果となりました。

定番通り、ドォーモ広場から北西に位置するスフォルツェスコ城の正面手前でバスから下車、

周辺道路を正面に歩いていく。

城の正面から真っ直ぐ進むと約1㎞で、目指すドォーモ広場です。

ここは現在、博物館や美術館として一部公開されていて、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品もありますが

ミケランジェロの晩年の未完成作ロンダニーニのピエタは機会があれば見たかった。

彫刻の製作途中(未完成)が見れることに関心があったのだが・・・

ミラノのトラム(路面電車)の線路を渡りガイドは、真っ直ぐ、左、どう進むのか・・・

イタリアでは資格のあるガイドの案内が必要条件。

・・・左折してスカラ座とダ・ヴィンチの像に出逢い、広場の横からガッレリアのコースが一番と思っているが・・・。

取り合えず1㎞の最短距離を進んで行く。ロータリーを渡り・・・

ドンドン直進する感じ・・・

エーッ!、見えてきてしまうよ・・・

正面にドォーモの先端がぼんやり霞んで見えてきた。

しょうがない、やがてドォーモ広場に到着、少しくすんだ感じのドォーモに再開するが・・・あまり感動は無かった。

広場につながる左側のガレリアも定番コース、

ガラスと鉄で建てられたのは、商店街が珍しい1865年から1877年にかけてとあります。

イタリア王国を統一した際の初代国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名前が付けられています。

ドォーモの外観を見たら、霧雨を避け、ガレリアへ

このような重厚な建物が両サイドに建ち並び、アーケードの上部にガラス張りの屋根が架けられている。

ここが十字路、東西にもアーケードが若干あるが、南北の通りがメイン

北のスカラ座があるスカラ広場から、南のドォーモ広場まで200m弱

ガレリアの北の端に到着、目の前はスカラ広場です

オペラ座は画面の左側に道路があり(トリムが走る)その先にある。

右側の宮殿はマリーノ宮、この空間がスカラ広場

肌寒く、直ぐにここからドーォモに引き返したので、ここの画像はほとんど無い。

・・・では、以前の旅行時の画像を探してみましょう。

このスカラ広場に最初に立ち寄り、これがスカラ座、日本の歌舞伎座か?などと・・・

そしてミラノにも多大の貢献をした、レオナルド・ダ・ヴィンチに挨拶し、ドォーモ広場に進むのが・・・お勧めのコースです。

こちらが有名なオペラ座

そして正面には・・・スカラ広場、その中央に、ダ・ヴィンチ

そしてこの広場は、ガレリアの北の入り口に続きます。

ダ・ヴィンチと弟子たちの像の裏側に回ると

向こうにオペラ座が、こんな広場です。

 

そして、この広場の左側に進むと・・・見えてきたのがガレリアの入り口

今回は、この入り口まで進んできましたが、ここで引き返しました

広場横にはガレリアの案内板があります。

 では、また戻りましょう。

1865年着工といえば・・・日本では2年後の1867年に大政奉還です、

西洋に追いつけ・・・当時の日本の侍、欧州視察団は鉄工業の重要性をあちこちで感じたことでしょう

この十字路には、地元民にも人気スポットが

この中央部の床にイタリア王国の紋章があり、その周囲には4都市の紋章があります

人気スポットはトリノの紋章(牡牛が描かれています)

牡牛の股間に踵をつけたまま一回転をすると幸運を招くとの伝説が・・・

人気が有り過ぎ、あっというまに窪みができ、修理してもすぐに削られ・・・

3回周るとウンヌン、細切れに何回も回る人がいたり・・・一気に1回転と遊ぶ地元民が多いようです。

この一等地で有名なのがプラダの本店(現在はメンズ店)北西の角

そして、通りの反対側(北東)にこれも有名なLV

ウインドウショッピングも楽しいものです

 

その横に、東に延びる短いアーケードがあり

その隣の角にも、プラダ、

エッ!対角線上にもプラダが進出していて驚きましたが(レディス)店

ここは、かつては

このような時期もありました

そして通りの反対側は、紳士服のアルマーニ

かつては銀製品のお店がありました、

そして西に延びるアーケード

 少し戻って、このアルマーニのある南西の一角と思ったが

 4階建ての最上部、何故か民間人の住居と、かつてガイドから聞いたような気がする

この通りのお店のメニューです。

日本語だけがあると何故かホッとする。静かな店内のイメージでしょうか。

・・・さて、このスカラ広場から初めてドォーモに近づいた場合、

ガレリアの金と黒のアクセントで、豪華な気分で尚且つ多少緊張感が高まったでしょう。

一番のお勧めはガレリアからドォーモ広場に近づいたら、顔を下にして出口に進みます。

そして、初めてドォーモに出会う瞬間が・・・顔を上げたら・・・こんな感じだったら

これは、スモッグで汚れたドォーモの化粧直しが終わった頃

桜エビのような・・・モザイク調のマーブル・・・淡いピンク色に感動した2001年の画像です

次にお勧めは、ドォーモ広場に地下鉄の階段から飛び出すと

広場中央のこの銅像横に・・・でてきます。

これも迫力がありますが・・・正面過ぎて全体像がつかめず、平面的なイメージでしょうか。

ガレリアからの登場は、多少ドォーモに近いのと、斜めから奥行きのある外観に圧倒されます。

残るは、ブランド通りを散策しドォーモの裏から

このような巨大な大聖堂の横を通り、正面ファサードはどんな感じだろうと(これは今回の画像)

そして真横に進み、真下から見上げながら・・・全体像を見るのに広場の端に下がります。

今回は、第4のアプローチで漠然と全体が見えて来て・・・。

気分を変えてドォーモの正面から、広場のパノラマ画像を

上の画面は、ファサード正面広場の西側です。

ガレリアは右側になります。

上の画像が広場の北側、ガレリアが中央に見えます。

左端に観光案内所があるのですが、情報誌を頂こうとしたが朝早くて開いていませんでした。

上の画像が広場の南側、王宮があります。

今回は時間が無くてドォーモ内部にも、屋根にも登らなかったのですが・・・

昔の画像を探してみましょう。

 

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