気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ベルニーニとバルダッキーノ

2021-05-12 | 旅行記

初夏です、蜜を求めて飛びまわっています。

この白い花は月桂樹です。花びらの形は色々あるようです、黄色の花も。

手前の若葉は、木の芽として蕎麦やサラダにのせて・・・山椒の木、

例年アゲハ蝶の幼虫が数匹登場すると、アットいう間に食べられてしまっていたが、今年は無事のようです。

さて、芸術の都ローマでは、シエナの名門ボルゲーゼ家出身の教皇パウルス5世が1621年1月、心臓発作を起こし

4日後の28日突然亡くなります。

ベルニーニは1622年1月、前教皇パウルス5世の1周忌に高さ20m、幅13m強のドーム式の霊廟の装飾を受け持ち、

美徳の寓意像16体、童子20体を漆喰で製作しています。

(以降、ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄著 ベルニーニ伝 を中心に)

製作期間40日、当時ローマではこのような教皇の葬式、即位式、聖人の式典、聖体の・・・、外国君主の入場などなど、

年中 祭事が行われ、舞台装置は建築家、彫刻家、画家と美術家の重要な仕事でした。

期間限定の祭事に、市民は熱狂し教会が建つほど巨額の費用が投じられたそうです。

・・・日本の祭りのように、祭事は市民生活のメリハリに必要なのです。

この時期ベルニーニは、1622年に「プロセルピナの略奪」を完成させ、

8月から「アポロンとダフネ」の製作に入り1年後中断、途中1623年夏からは「ダヴィデ」の製作に入り、

先こちらを1624年春に完成させています。

・・・新教皇グレゴリウス15世は、サン・ピエトロ大聖堂に主祭壇と天蓋を構築したいが構想はなかなか進展せず、

カトリック教の祭事は仮天蓋の下で行われていた。この仮天蓋に、ベルニーニは4体の天使像を漆喰で造っています。

その後、グレゴウリス15世教皇が2年半足らずで亡くなります。

・・・1623年8月6日、マッフェオ・バルベリーニ55歳が教皇に選ばれウルバヌス8世として即位し、直ぐにベルニーニを呼んだ。

聖ペトロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズの巨大な天蓋(バルダッキーノ)で覆うことに決定した。

この難題をサン・ピエトロの主任建築家マデルノではなく、25歳のベルニーニに任せた。

若きベルニーニは多忙だった・・・天蓋の仕事は、1624年の夏から始めた。

この少し前、3月に小さな教会の修復中、ガラス壺から遺体が発見され、1000年以上前の聖女ビビアーナとされた。

教皇はこの教会サンタ・ビビアーナ全面改築することにし、ベルニーニにファサードと祭壇の建設を任せた。

・・・北方ヨーロッパでは、反カトリック教のプロテスタント勢力が拡大していた。

カトリック教が対抗するには、聖地ヴァチカン、サン・ピエトロの墓、新装中の大聖堂のPR、そして話題が欲しかった。

カトリック教信者の体験談・聖女伝説は、遺骨のある教会の出来栄え次第で大きな話題となります。

・・・聖女の彫像も含め、ベルニーニが適任だろうとこれも依頼されます。

ファサード、主祭壇の設計、主祭壇を飾る「聖女ビビアーナ」1624年から取り組んでいます・・・

現在、テルミニ駅の南東線路脇にある小さな教会です。

・・・さて重要なクライアントからの天蓋は、小型の模型を作成し教皇から承認を受け、原寸大の木製を製作中です、・・・

一方、制作中だった「アポロンとダフネ」が1625年完成し公開されると、・・・ローマ中から人々が押し寄せたようです。

そして「聖女ビビアーナ」も完成、・・・拝見出来なかったのでグーグル画像を拝借加工しています。

・・・バロック的と言われる芸術が花開きます。

さてこちらは、重要な仕事になった・・・大聖堂の中心部に設けられる教皇の祭壇、その大天蓋の制作です。

サン.ピエトロ大聖堂の天蓋(バルダッキーノ)の柱は、天井のドームに負けない巨大な構造物、何と高さ28.5mの柱、

原寸の木製柱(柱頭、台座、中間の柱を3分割し5部品に)ロウで装飾を付けて型を取り、ブロンズを注入する。

・・・このよじれた柱、台座のすぐ上の部分です、ウォームギアの様な斜めの溝はメカニカルなデザインです、

ローマ帝国時代の建築では、シリアのアパメア遺跡(内戦で残っているか不明ですが)の列柱道路には縦溝以外に斜め溝もありますが。

旧サン・ピエトロの内陣にも、ネジレ柱が使われていたようです。

材料のブロンズは、大聖堂のリブやパンテオンの玄関周りのブロンズのリブを木製にして、抜き出したり・・・それでも不足し、ヴェネツィアに特別注文。

分割した部品別に鋳造、2年をかけて製造とあります。

この間、大聖堂の建物自体は完成して、1626年献堂式が挙行された。

1627年夏ボロミーニとベルニーニの義兄が刻んだ大理石の台座の上に・・・ブロンズの柱が組み建てられた。

柱越しに向こうに見えるのが、ドームを支える巨大な柱(4本の内の1本)・・・この壁面は、この時点では無装飾の状態です。

さて内側の、バルダッキーノの4本の柱は、神殿の柱のようであったが、天蓋の蓋の部分が未契約だった。

1628年ベルニーニがこの件も契約し、完成は1633年、当初の案から木製にブロンズを貼ることで軽量化し、

バルダーキーノ全体の完成まで9年、費用は20万(ドゥカーティ)、ベルニーニの報酬は1万(ドゥカーティ)とあります。

渋い色彩のバルダッキーノは、周囲をブラマンテ設計の巨大な大理石の柱に映し出されて壮観です。

螺旋階段が造られ地下の聖ペテロの墓へ、

天井はドーム、その真下に天蓋・・・バルダッキーノは教皇の祭壇、・・・完成しました。

クライアントの教皇は、4本の柱の台座に3匹の蜂(教皇の紋章)、柱にも金の蜂がとまり、月桂樹が巻付き

柱頭にはバルベリーニ家を示す「輝く太陽」が刻まれている。(教皇の承認が必要で、依頼されたのでしょう)

続いて、ドームを支える4面の支壁の装飾が計画された。

バルダッキーノは下図のように、ドームの真下に置かれたが、このドームは4本(赤紫色の部分)の柱に支えられています。

この4本の大きな柱、バルダッキーノに面する側を装飾する・・・巨大すぎるので大変です。

柱と言っても、4面とも壁のように幅が広く、そして高さがあるので、デザインの統一性を保ちつつ、人材も資金も必要です。

1629年、マデルノが亡くなり、ベルニーニが後任として、「サン・ピエトロの建築家」になり、この仕事も任されます。

教皇は、従来からの聖遺物に新たに聖十字架の一部を加え、四つの聖遺物を治める祭壇を、この4つの柱(支壁)に造ることに決定します。

具体的には、祭壇には聖遺物にゆかりの聖人像と聖遺物を納める壁龕を造ることになった。

四体の聖人像の内、聖ロンギヌス像をベルニーニが担当し、他の三体は他の彫刻家が担当した。

キリストの脇腹を刺したローマの兵士長、ロンギヌスが十字架を見上げて「確かに彼は神の子だった」と叫ぶ瞬間

聖遺物は、磔のキリストを刺した槍の穂先

彫像の高さ、4.4m、全体を4つの部分に分けて彫刻(右肩、右側のマント、左後方のマントに継ぎ目がある)

制作は、モデル作成に4年、弟子がモデルに従って大理石の彫刻に従事し3年、最後にベルニーニが多少手直し・・・計7年。

この台座の下は、地下洞窟(グロッタ)への入口になっている。

次は、聖ヘレナの像

聖遺物は、聖ヘレナが発見した聖十字架の断片

次は、聖ヴェロニカの像

聖遺物は、聖ヴェロニカがゴルゴだの丘の上に向かうイエスの顔の汗を亜麻布で拭いたとされる布。

各彫像の高さは、4.5~5m、

次は、聖アンデスの像

聖遺物が聖アンデスの頭部

これらの支壁の彫像は、約10年かけて完成しました。

ベルニーニは、他にもサン・ピエトロのためにマルティダの墓(1637年)、教会入り口上部の浮き濠

「わたしの子羊を飼いなさい」(1647年)などを制作していますが、多忙で弟子が中心に制作しているようです。

教皇のお相手から、肖像彫刻、祭事の企画、自らコメディを上演したり、活動は多岐にわたり人生を楽しんでいたようです。

ベテランの域に達すると、掛け持ちが多くなり作品が年代別に仕分けするのが困難になって来たようです。

さて、上のプレートは、この文様の間から地下のペトロの墓が見えるとのことでした。

 


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