気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ルーブル美術館 絵画編

2013-04-20 | 旅行記

ヨーロッパの大半で人物画といえば聖母マリア・・・長い長い1000年もの間続いた。キリスト教洗脳時代から我に返り、イタリア フィレンツェではボッティチェリーが脚光を浴び、そして 1452年レオナルドが誕生する。

Dsc_0568

世界で最も有名な肖像画、後年フランソワⅠ世が取得し、その当時から「至宝」とされた作品:La Joconde (Monna Lisa)。この美術館のスーパースターの案内が目立つ。

ルーブル美術館では、コレクションが8部門に仕分けされ、内約3万点が公開され、他に企画展で順番に展示されている。(ルーブルガイドによる)

オリエント、古代エジプト・・・関心はあるが・・、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ・・・学習中、ピュアな宗教を持つイスラム、厳しく偶像崇拝を戒め、独自の文化を発展させた。

イスラム芸術だけでも1万点のコレクションがあり、主に工芸品1300点が公開されています。

ヨーロッパは中世の時代、カトリックが宗教戦争で勝ち残り、エロスのギリシャ神話・自然科学の継続発展を認めず、布教のためには偶像崇拝も奨励し、神学も三位一体説を掲げ、異教を弾圧してきた。

そして、教会の装飾芸術のみが発展してきた、しかし教会(聖職者)は俗化し・・・教皇が十字軍を送り込み、長期に渡る聖地奪還戦争・・・結果、敗退することになるが多くの人々が異国の文明に触れ、脱カトリック、宗教改革が起こる。

防戦する教皇派は華美な教会装飾で信者を引き留める・・・ミケランジェロもラッファエロも、教皇はスポンサー。

・・・少し時代を戻すと、13世紀の宗教絵画から発展の兆しが現れてきます。

フィレンツェのウフィッツィ美術館に通称ジオット(ジョット)のマエスタが展示されていて、平面描写に遠近法をプラスして、祭壇部が立体的に見える有名な作品があります。

他に、この作品と同じような構図のドゥッチョ・ディ・ポニンセーニャのマエスタもありました。額縁には、聖人や聖書の登場人物が円形画として30人も描かれている。

もう一人、チマブーエのマエスタも展示されています。

・・・・・

そしてルーブル美術館、ルイ14世の肖像画の先に・・・特徴ある額縁が見えてきます。見たことのあるような作品が・・・

チマブーエ 作品名「(6人の天使に囲まれた)荘厳の聖母(マイエスタ)」とあります。

Dsc_0574

この作品も額に、キリスト、天使、預言者、聖人らが26のメダルで飾られている。1270年頃の作 テンペラ画 縦:4.27m、横:2.8m 大作です。

・・・チマブーエはジョットの師匠との説もあります。フィレンツェでは、13世紀人気が高かった画家職人のようです。

当時栄えた港町イタリア ピサのサン・フランチェスコ聖堂に掲げられていました。・・・1813年ルーブル収蔵とあります。

宗教画を描く人々は単なる職人でしたが、商業都市として発展しはじめたフィレンツェで、ジョットは人気が高く、絵画・工芸何でもこなし、晩年自分の名前が残った作品の指揮をとります。

Photo

「ジョットの鐘楼」です。右の大聖堂が完成する100年前、鐘楼の設計をし基礎工事の段階で亡くなっています。1階はジョットのデザイン、2階、3回以上は各々弟子が手がけて完成させました。

鐘楼にジョットの尖塔案は実現せず、基本設計は変更されて完成となりました。しかし、今日でも「ジョットの鐘楼」として、名前が残っています。

・・・・・

キリストの磔刑が見えてきました。この作品、遠近法が見事に完成しています。

Dsc_0577_2

作者:アンドレア・マンテーニャ、イタリア ヴェローナ サン・セーノ聖堂の3連作の一部

これらも、教会の祭壇画で、板絵、縦:0.76m、横:096m 1459年頃の作品。 背景のエルサレム・ゴルゴダの丘の描写は、・・・エッ こんな風景?しゃれこうべの丘は多分違うでしょう、残念。

・・・年代物と思われる額縁、描かれているのは、イエスの像でしょうか?

Dsc_0579

両手の手の平を良く見てみると、・・・怪我をされてるようです。頭部からも額を良く見ると・・・

作家は:ジョヴァンニ・ベルリーニ、1465年頃の作、「祝福するキリスト」

手の平は、十字架に打ち付けられた痕跡?・・・埋葬された後、復活したイエスのようです。

・・・時代が進みます。

・・・明るいこの絵は?・・・美術作品になりました。・・・これが、サンドロ・ボッティチェリ(15世紀のフィレンツェを代表する画家)

Dsc_0576

1470年頃(23~24歳頃)の作品 通称「バラ園の聖母」・・・「聖母子と少年聖ヨハネ」

彼の最も有名な作品・・・カトリック教の呪縛から解かれ、ギリシャ神話を題材にした「プリマベーラ」春 1478年頃、そして、「ヴィーナスの誕生」1486年頃がフィレンツェにあります。

若干年下のレオナルドは、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修行していた10代にボッティチェリに出会っています。

そして先に進むと、レオナルドの作品ゾーンです。少し暗く重いが優しいタッチの宗教画・・1483年頃~1486年頃の作、作品に光線が映りこんで写真は見難くてスミマセン

Dsc_0582

「岩窟の聖母」、この大作はミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂のための三連祭壇画中央部として描かれたが、・・・当時のフランス王ルイ12世に献上された。

この作品は独立前の20代前半の作、レオナルドは、25歳頃独立しています。

師匠のヴェロッキオが多芸多才で画家・彫刻家・青銅鋳造家・デザイナーと手広く仕事を受け、マルチな仕事のできる環境で学んでいます。

近くにあったライバルのボライウエロの工房では、死体を解剖し筋肉構造を研究しています。見に行っているでしょう。

当時、メディチ家、貴族階級、取り巻きの知識人がフィレンツェを実質支配していたが、レオナルドは、メディチ家の援助は受けていないようです。

多芸で名声も高いが、仕事は遅く、途中で放り出される恐れもあり、メディチ家は手が出せなかったのか、・・・レオナルドも、ローマ貴族の宮廷人風の人種と肌が合わなかったのか、政治にも関心は持たなかった。

作品に戻ると中央が聖母マリア、右手で支えている幼子はヨハネ(後の洗礼者)、右の女性は天使で、横にいるのは幼子イエス。

さて完成した作品は何故かフランス王に、・・・依頼者には別途、後日レプリカが制作された。現在は、ロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されている。(ルーブルガイド)

岩窟の聖母・・・右側の天使、女性でしたね。誰?大天使ウリエル?(洗礼者聖ヨハネの守護天使らしい)

Photo_2

素晴らしいでしょう・・・この天使の素描、レオナルドの素描は、幸いなことに今日多く残っています。何時もスケッチブックを持ち歩いていたそうです。個性の強い人物がターゲットで追いかけまわしたとか。

タイム/ライフブックス、LEONARDOレオナルドより

・・・中世の時代、いつの間にか宗教画には決め事が多くなっていました。洗礼者聖ヨハネには、十字の杖と獣の衣、登場人物には光輪を描くなど・・・

依頼者はレオナルドの作品を、”祭壇画にふさわしくない”と受け取りを拒否したそうです。

レオナルドは、もう一度書き直したのでしょうか?

Photo
タイム/ライフブックス、LEONARDOレオナルドより

・・・構図はそのままに、模写をしました。一部を依頼者の希望通りに描きました。十字の杖も書き込みました・・・レプリカですから本人ではなく、デ・プレディス兄弟が描いたとも言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ ゾーンです。

Dsc_0587

その右隣に、1490~1495年頃の作 貴婦人の肖像、ラ・ベル・フォロニエールがあります。

Dsc_0586

当時流行の宮廷肖像画風に背景が塗りつぶされています。背景もメッセージスペースです。ベタ塗は、依頼主の希望に沿ったのでしょうか、手抜きでしょうか。

その少し前に制作した、1485~1490年頃の「白テンを抱く貴婦人(愛人17歳)の肖像」の方が有名ですね。

制作順では、1495年~1497年頃ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂食堂の壁面に取り掛かっています。現存する壁画の代表作「最後の晩餐」です。

100114_2_2

並行して、La Gioconda(Monna Lisa)1503年頃から

この至宝の作品は、ここではなくて特別室になります。

Dsc_0604_2


防弾ガラスと柵に守られて、謎の微笑み・・・目線が合いました。

Dsc_0601_3

La Joconde (Monna Lisa)とありました。 1503~1506年頃 縦:0.77m、横:0.53m 板絵

モデル論争があり、主流はフランチェスコ・デ・ジョコンドの妻、リーサ・ゲラルディーニの名前からモナ(夫人)リザ(リーサ、リザ)、Jocondeが「幸せな」と言う意味もあるのでこの美術館は、ジョコンダの作品名なのでしょう。

レオナルドのボカシ技法が賞賛されています。残念なことは、作品に近づけないことと作品の表面の透明ニスが古くなって経年変化で色調が暗くなってきているようです。

写真は、これも作品に光線が映りこみ、アップは作者に失礼な状態でした。

Dsc_0600

画集で素晴らしい作品に触れ直してください。50歳前半の作品です。

以後、聖アンナと聖母子像:1508年~1510年頃

レダと白鳥(ギリシャ神話):1510年~1515年頃

イタリア、ボルゲーゼ美術館 (別ブログ)

特徴のある顔立ちの作品が・・・

Dsc_0585

「荒野の聖ヨハネ」1510年~1515年頃、これはあまり見かけなかった作品でした。

そして人差し指を天に向けた有名な作品

Dsc_0583

「洗礼者ヨハネ」1516年~1596年頃 縦:0.69m、横.57m レオナルド:晩年の最後の作品。

15世紀と16世紀の転換期に見直された明暗描法の完璧な実証であり、ダ・ヴィンチはその先駆者であった。(ルーブルガイドの記述)

・・・ヴェロッキオ工房時代、レオナルドと同年代で一緒に修行し人気もあったペルジーノ、彼の弟子で有名なのがラファエロ・サンティ

レオナルドの影響を受け、柔らかい優しいそして明るい肖像画が・・・ここにもあります。

Dsc_0588

通称「美しき女庭師」、「聖母子と幼児聖ヨハネ」 1507年頃 円形板絵 縦:1.22m、横:0.8m

残念ながら37歳の生涯です。その間、数多くの聖母子像を描いています。

尊敬した、レオナルドのボカシ技法、構図、背景、すぐに自分のものにしたそうです。システィーナ礼拝堂で未完のミケランジェロの作品を覗いたり、・・・すぐに頭角を現しルネッサンス三大巨匠の一人に数えられます。

ラファエロ展、6月2日まで、東京・上野 国立西洋美術館で開催中

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルーブル美術館 彫刻編

2013-04-12 | 旅行記

今日も曇り、雨が降らなくて幸だったがセーヌ川は濁流が流れ、相当水かさが上がってきている。

対岸のオルセー美術館前を見ると、セーヌ川に下り川辺を走る道路は通行止めのようだ。

Dsc_0523

さて、今回のヨーロッパ、本命・ルーブル美術館に到着。

・・・4月10日でなくてよかった。ルーブル美術館の職員が暴力的なスリ犯らに耐えかねて200人がストに入った。スリ犯の多くは東欧系で、子供はただで中に入れるので時には30人にもなる。警備強化が約束されたので4月11日は開館するという。

年間1000万人もが訪れるそうで、館内にもスリ注意の貼り紙があった。

ルーブルといえば、すっかりなじんだガラスのピラミッド。

Dsc_0563

上の写真は、美術館内部からの撮影です。

Photo

これは、日本語のパンフレット。右上に方位があります。上が北、下が南でセーヌ川が流れている。

中央上部から左の建物が元大蔵省で、この部分(リシェリー翼)が1993年から美術館に使用されることになり、口+門・・・現在の形になった。

門型の東に連なる方形(四角)の建物が、シェリー翼と呼ばれる建物。この建物の南側・古代ギリシャ美術に進もう。

・・・では地下1階のピラミッド真下に

Dsc_0530

1989年ガラスのピラミッドが誕生し、ふさわしい・ふさわしくないと大論争になりましたネ・・・

近年この照明が消費電力の少ないLEDに切り替わりました。

そして東芝がCMを流しています。

Dsc_0533

ルーブル美術館のLEDは東芝の照明が採用されています。・・・お世話になった東芝さん!

Dsc_0535

さて、このルーブル美術館、1793年8月16日フランス革命の喧騒の中で美術館として開館されました。

古代出土品などの収蔵品を整理し、博物館開館も準備されていきます。

1803年、ナポレオンの戦利品が加わりナポレオン美術館の名で開館。

1815年、「王立」となり、接収作品は変換せざるを得なくなったが、1821年「ミロのヴィーナス」が収められるなどコレクションは増えていきます。

地下のナポレオンホールに案内所、チケット売り場があり、

Dsc_0536

SULLY の案内板が見える、シェリー翼に入場しましょう。

1

右側の階段を登り、紺色の部屋を進む

Dsc_0538

昔、地中からお宝がゾクゾクとでてきた。大理石の像、頭がない、腕がない・・・、ここにあるこれは何?

Dsc_0539

手、子供の手・・・、作品名:「うずくまるアフロディーテ」 ローマ時代のコピー 

古代ギリシャのオリジナルは、紀元前3世紀頃の作品

Dsc_0540


アヒルと戯れる子供、当時の地中海文明は、自由に自然観察ができて、明るい地中海の雰囲気が漂ってくる。

Dsc_0542


非常に健康的な作品、多分ローマ時代のコピーと思われる。「カピトリーノのヴィーナス」と類似、オリジナルは紀元前4世紀頃の古代ギリシャ

そして、南の角に通称「ミロのヴィーナス」が・・・コピー品に何度もお目にかかっているが

ルーブル三大貴婦人の一つををじっくり鑑賞します。

Photo_2

紀元前130~100年頃の作 女神の名は「アフロディーテ」、あるいは1820年にミロス島でこの像が出土、海の神アンフィトリテ では、とも言われる。

現物を、あらゆる角度から観察してみよう。高さ:2.02m

Photo_3

上体がわずかに傾いて、布が落ちていく・・・合成写真の各々の傾きは多少ブレがあります、あしからず。

理想の美を追求していたのでしょうか、このような状況で驚くこともなく、目線は遠く、悠然と・・・

三大貴婦人の二つ目が、ドゥノン翼の2階に上がる大階段の上に見える。

Dsc_0555

翼を広げた貴婦人?・・・頭部が無い、両腕も無い、右翼の上部も欠け石膏で補修されたが間違った位置に再構築されている。(ルーブルガイドによる)

「サモトラケのニケ」高さ3.25m 紀元前190年頃の作品、灰色大理石、エーゲ海の北東サモトラケ島で破片の状態で発見された。

一説では船の甲板で手を広げ、衣装が波しぶきで張り付いた瞬間、・・・勝利を予告しているとも、遭難を避けたい守り神とも言われています。

Niki

「勝利」:ギリシャ語でNIKE(ニケ)、サモトラケで発見されたNIKE、スポーツ用品のNIKE(ナイキ)の社名はここからきています。

ドゥノン翼(南棟)の中央に最後の貴婦人「モナ・リザ」がありますが、その前にモナ・リザの真下1階に戻ります。

ここから西側ゾーンが、16~19世紀のイタリア彫刻、その先に17~19世紀の北方彫刻があります。中央部に段差があり門が据え付けられています。

Dsc_0645


階段を下りると、イタリアの有名人 「ミケランジェロ」の作品。

二つの作品は、ローマ教皇ユリウス2世の巨大な霊廟を飾るはずであったが、構想は変更され、大理石に現れた欠陥もあり同郷のロベルトに渡され、さらにフランス国王に贈呈された作品とあります。

Dsc_0647

作成年代:1513~1515年 高さ2.09m 作品名「奴隷」あるいは「囚人」


Dsc_0649

ミケランジェロは、ユリウス2世からシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられています。

ユリウス2世の死後色々あり、これらの作品をどのように解釈するかも難しいですね。

・・・会場の雰囲気を、・・・奥にイタリアの門でしょうか年代物が見えます。


Dsc_0654

右奥に人混みがある。

高さ:1.55m、幅:1.68m、奥行き:1.01m

作家:アントーニオ・カノーヴァ(1757~1822年) ローマ、1793年頃作成

Dsc_0660

作品名:「クピドの接吻で目覚めるプシュケ」(ルーブルガイド)、あるいは「クピドとプシュケ」

プシュケの物語? プラトン哲学? ギリシャ神話?

Photo_4

背中に羽根が生えている男性・・・天使ミカエルでしょうか? クピド=キューピット(英語)、エロス(ギリシャ神話)=クピド(ラテン語)・・・やはりギリシャ神話にでてくる弓と矢をもった愛の神

これがギリシャからローマ神話に引き継がれるとエロスはクピド(愛欲)と呼ばれる。

プシュケは、ギリシャ神話では、人間の女性として登場します。

学習院大学名誉教授:吉田敦彦氏の「ギリシャ神話」で調べてみましょう。(抜粋)

ある国の王の三人姉妹の一番下がプシュケ、その美貌は完ぺきで「美の女神」として評判になり大勢の人が拝みに来る。

その評判に憤慨した美の女神アフロディテが、息子のエロス(=クピド:背中に羽根が生えている)に、プシュケに災いを与えるように命じる。

しかし、エロス自身がプシュケの美しさに心を奪われ、二人は結ばれる。

二人の関係に気付いたアフロディテは、プシュケに災難を与え、数々の難題を命じる。

アフロディテから命じられた数々の難題を、エロスに味方するさまざまなものに助けられ、乗り越えるプシュケ。

そして最後の難題、死者の国から持ち帰った箱、絶対に開けてはならないと言われた箱を開けると(浦島太郎ですネ)・・・箱に入っていたのは「眠り」でした。その場に倒れ動かなくなってしまった。

エロスがプシュケを見つけ「眠り」を彼女からすっかり取り去り元の箱に戻した。そして手に持った矢で、傷つけぬようにそっとプシュケを突いて、起こしてやった。

エロスは、ゼウスの元に飛んで行き、人間プシュケとの結婚の許しを直訴した。ゼウスは承諾し、アフロディテにも承知させた。プシュケを天上に連れて来させ「不死の飲み物ネクタル」を授け、神々の仲間入りをする。

人間プシュケはついに不死の神となり、神の妻の座も射止めた。

ギリシャ神話、聖書の物語がヨーロッパの絵画・彫刻・芸術に数多く登場します。このギリシャ神話からも数多くの場面が切り取られています。

「クピドの接吻で目覚めるプシュケ」・・・nnnn 接吻で目覚める?・・・矢で突いたでしょう!・・・この位のアレンジは許容範囲なのでしょうネ。

プラトン哲学に関心はあるが、暗黒の中世からルネッサンスの時代がやはりドラマチックですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モン・サン・ミッシェル修道院その2

2013-04-02 | 旅行記

北隣の回廊は他の建物につながる通路の役目も果たしています。食堂、共同寝室、古文書保管室、さまざまな階段へと行くことができます。

2列に並べられた小さな柱は、わずかにずらされ、常に変化する視覚効果を作りだしています、とパンフに記されています。

Photo

ここは北側の斜面に13世紀建てられた3階建ての建物の3階。修道院には修道僧の瞑想と祈りの場のために回廊が造られている。

尖頭アーチが採用されているゴシック様式で、全体を軽量にするために屋根は木片、柱も細く柱頭アーチ部には葡萄などが彫刻されている。柱頭彫刻、アーチはロマネスク様式の修道院に多く見られる。

驚くのが、屋根の軒にクリヤーランプ(昔の透明ガラスの電球)が垂木(タルキ:屋根の傾斜に沿って取付けられている補強材)と垂木の間に電線が露出した状態で配線されている。

漏電、雨水によるショート、電球の寿命、消費電力・・・灯の数が多いだけに一昔前の電球が気になった。

この建物の1階は四角い太柱が特徴の部屋で食糧庫に使われているそうで、非公開です。

その上2階が騎士の部屋・・・修道院に騎士の部屋?

北の端から、合成写真を・・・この右側(西)にも増築予定だったが未完成のままとか

 Photo_2

このアングルでパノラマが撮りたかったが、廻廊の屋根上に登れないし、後方は海で・・・

教会の左側に先端がとがった建物は、控え壁と呼ばれる・・・聖堂の外壁を補強している尖塔でアクセントになっている。

東隣の建物に移動しよう。

Dsc_0333

ここは、ベネディクト修道士たちの食堂,、最上階で窓も多く光が差し込む。

Dsc_0334

片隅に屋根の模型が展示されていた、軽量化のためにここも木造、石積みと同じようにアーチが架けてある。


Dsc_0335

両脇には59もの窓があるとのこと。ステンドグラスはシンプルな幾何学模様、現代風でもある。

さて、下の階に行く途中に、このお山に最初に聖堂を建立した人物とサン・ミッシェルの伝説が大きなレリーフになってスポットライトを浴びています。

Dsc_0336

西暦700年の始め頃、アヴランシュの町のオベールという司教が夢の中で、大天使ミカエル(仏語・ミッシェル)から「あの岩山に聖堂を建てよ」と命じられたそうです。

夢だった・・・と思っていると、・・・その後、再び夢に現れたそうです。

だが、単なる夢とオベール司教は信じない。

行動を起こさないことに業を煮やしたミカエルは、3度目にオベールの頭に指を突っ込んだ・・・

その瞬間がレリーフになっています。

翌朝、オベールは自分の頭に穴が開いていることに気付き、大変驚き、お告げは本当だと思ったという。

・・・お告げ?実力行使もする?・・・天使は、神の使いだそうで、旧約聖書にみられるように相変わらず残虐で強引な設定だ・・・当時は、この位が当たり前?

・・・あの岩山と言われて、・・・アヴランシュの町から見える所なのでしょうネ。

<iframe src="http://map.mezza9.biz/map.php?v=2&mtc=0&dmt=0&w=720&h=480&s=6&x=-1.51128&y=48.63603" width="720" height="480" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe><p style="margin-top:0;padding-top:0;font-size:xx-small"><a

そう、高速道路の左、高台の城壁に囲まれた古い街アヴランシュ・・・
岩山は、西南西に直線で約12㎞先、遠いような、しかし見通しが良いから身近な存在だったのでしょう。

Msm

このころ天使ミカエルは、一部の教会・信者の間で話題になっていて、天使ミカエルを祀った聖堂も各地の山の頂などに建立されていたようです。

噂では天使ミカエルがこの世に現れた最初の聖堂が南のほうにあるという。

旧約聖書の「ダニエル記」・・・多分イスラエルの守護天使、新約「ヨハネの黙示禄」・・・サタンとの戦いを指揮するなど、ごく一部の物語でミカエルが登場している。

悪魔の象徴であるドラゴンと戦って踏み潰している図、天の軍団のリーダー、剣や槍を持つ武闘家、・・・戦う大天使ミカエルに守護して欲しいと願っていたので夢に出てきたのでしょう。

709年10月16日岩山にオベールによって礼拝堂が献納された。

・・・その後、一説によると大天使ミカエルを祀ったこの岩山、モン・サン・ミッシェルを聖地にするには・・・何かが必要だった。

司教オベールは、200年も昔の492年に始めて大天使ミカエルが人々の前に姿を現したという伝説の聖地、ローマの先に二人の使者を向かわせた。

この聖地、モンテ・ガルガノ・・・現在も洞窟内に大天使ミカエルの聖堂がある。

・・・

ナポリから東に山を越えアドリア海に面したシポント遺跡に近いガルガノ山(今日のサンタンジェロ山)で、492年、チョットした出来事がありその3日後、大天使ミカエルが司教の前に現れて、「ガルガノ山の洞窟はミカエルの保護のもとにある、神と天使の名のもとに洞窟を神聖な状況にせよ」と告げられた・・・その洞窟に行ってみる、と内部は聖堂にふさわしい構造になっていたという。

そして、この洞窟と地下を整備し聖堂が建てられた。・・・大天使ミカエルが現れたそうだ!・・・瞬く間に噂が広まり、大勢の巡礼者が押し寄せた。

・・・

そして半年かけて聖地にたどり着いたオベールの使者達は、モン・サン・ミッシェルの話をすると何とモンテ・ガルガノにある貴重な大天使の赤マントの一部、足の下にあったという岩の破片を頂くことができた。

オベールは二人によって、ミカエルの聖遺物と物語が手に入った。これでモン・サン・ミッシェルは聖地となるだろう。・・・

この件で聖地となったか否かは、分かりませんが、各地の教会が聖遺物にすがるのは確かなようで、信じられない話がたくさんあります。・・・

日本にも言い伝えはたくさんありますが・・・

・・・・・

階段を下りて2階に、・・・修道士たちの食堂の下の階、ここは王侯貴族達の食堂、金持ち巡礼者などもここでもてなされたそうです。

13世紀、絶頂のころタペストリーや絵画・工芸品で飾られていたことでしょう。

今は、修復された建物が残るだけ・・・Dsc_0338

ここにもユニークなステンドグラスが・・・
Dsc_0340

ホタテ貝:いろんな説があるが今でも巡礼者が首から下げている人も多い。隣は壺、マクダラノマリアの香油壺?

サア隣に進む、ここが内陣の下、太柱の礼拝堂。15世紀の中頃に建てられた室内は、大半が補強柱と言う雰囲気だった。

Dsc_0342

ここで天井を見上げると、丸い枠の中に、緑色を見つけた。


Dsc_0341

ここが内陣の床にあった丸ガラスの真下になる。

次の部屋、南隣の礼拝堂、聖マルタン礼拝堂は11世紀の建築と古い建物で、当然壁が非常に厚い。

Dsc_0344

礼拝堂から先に進み、南側の通路に出ると、

Photo

巨大な巻き上げ機が据え付けてあった。ここはかつての修道僧の納骨堂で、牢獄として利用された1820年頃に設置された。(車輪は中世に工事用に使用されていた物の複製)

グルリと1周して、最後に再び北側に戻ってきた。

ここが2階の騎士の間、上の階は廻廊になる。

何故、騎士がいるの?・・・十字軍と同時期、ヨーロッパ各地に宗教騎士団が100以上結成されたようです、が、ここモン・サン・ミッシェルでは「聖ミカエル騎士団」が結成されたのは遅く、活動実績もないようです、名前のみ残った。

この部屋は修道僧たちの仕事部屋として使われていた。

・・・十字軍?・・・歴史の教科書に出てくるあの十字軍、

「ヨーロッパは貧しくみじめであるが、聖地イェルサレムこそ乳と蜜の流れるところ」

「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」

「これこそは神の御業(ミワザ)であり、神の御業に参加する者には罪が許されて、贖(アガナ)いは免除される」

と、1095年、公会議で・・・聖地に行こう!異教徒から奪還しなければならない!・・・熱弁をふるったとされる。群衆は熱狂した。そして、十字架の軍隊と定住を夢見て多くの信者も同行した。

熱弁をふるった人?・・・聖職者・カトリック教のトップ 教皇ウルバヌス二世。

・・・

台座の上で、剣を振りかざした天使ミカエルの像がある。翼の生えた男性でしょう。

Dsc_0361

足元に悪魔ドラゴンがいる。拡大してみよう。

ミカエルの作者は、爬虫類が嫌いだったようだ。

Dsc_0361_2

階段を降りると一階、ここもかつては食堂。ここは残された人々・・・そうです、貧乏巡礼者達の食堂です。

13世紀頃、巡礼ブームとなり、潤った教会も俗化します。ここの建物で見られるように階級と金で選別されました。祈る人・聖職者、王侯貴族・金持ち、貧乏人です。

パンフレットには、司祭の間、ここでは修道僧たちは貧しい人たちやあらゆる境遇の巡礼者たちを迎え入れていましたとあります。

Dsc_0365

現在は、売店となっている。

出口に進もう、建物の横を通り、登ってきた階段を下ると磔刑像がある広場の上に出てくる。

Dsc_0368

山裾から海岸線の城壁まで、狭い土地に住宅やお土産屋が立ち並んでいます。

Dsc_0372

路地を通ってここが海岸線、修復工事中でした。

Dsc_0377_2

南東方向から振り返ると、このような修道院が見えました。

Dsc_0373

城壁の一部、円頭部は屋根付

Dsc_0374_5

モン・サン・ミシェルの道路が撤去されて

Dsc_0321_3

かつての厳しい風景に復元されるそうです。完成予想図・資料(www.projetmontsaintmicher.fr)より


2014_2

パリに帰るのはPM10時以降、夕食に立ち寄ったレストランで、土産を買った。

Dsc_0414

日本では最近見られなくなった光景。太ったのが3羽、鳩じゃなくて雀、有名だそうです、ビスケットを与えるから・・・あの店の近くに沢山いました。買った土産?、レストランの屋根の上に・・・

Dsc_0389

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする