気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

セビージャ・・・どこ?

2017-04-26 | 旅行記

Sevilla:セビーリャあるいはセビージャとスペインで語は発音される都市ですが、日本ではセビリアの表示が多いようです。

スペインで最も人口が多い都市は首都のマドリード:320万人、バルセロナが半分の160万人、次いで地中海に面したバレンシアがさらに半分の80万人。

スペイン南部のアンダルシア州都、アフリカに近いこの都市セビーリャの人口は70万人、スペインで4番目の人口です。日本では・・・静岡市や岡山市くらいでしょうか。

セビーリャから大西洋岸の河口まで約80km、海岸線は砂浜で、良港の条件としての水深、入江、風向きに対応できず河の上流のセビーリャの街が発展したようです。

一方、地中海へはここから南東へ約180㎞、車で2時間のイベリア半島南端、ジブラルタル海峡のアルヘラシスの街(イギリス領)に良港があります。

 

ではジブラルタル海峡から地中海の東の端、内戦が続くシリアまでどのくらいの距離でしょうか、・・・内海ながら非常に幅が広く東西約4000kmです。

地球の円周40000kmの1/10にも達します。日本列島の長さ?・・・北海道東岸から・・・沖縄の先・・・さらに西に進み・・・香港で、約4000Kmです。

セビーリャ中心部を拡大してみましょう。

朝日が昇るころ・・・右側、半円状のスペイン広場に向かっています。(左斜め下が、北です)

ところでスペイン広場から左に約1.kmに、創立127年を迎えたセビージャFCがあります。

上の画像は北が上方になります。・・・セビージャFC(フットボールクラブ)昨年の夏、清武が入団して話題になりました・・・(半年後日本に帰国)

スペインはサッカー王国ですから、他にも・・・セビーリャ中心部の画像の上方(南)に目を向けると・・・

半円形の建物から地図の右上に約2.3km、こちらにも創立110年を迎えるレアル・ベティスがあります。(上の画像は、北が上方)

セビーリャFCが富裕層のサポータが多いと言われているようです。・・・こちらのレアル・ペティスは労働者のサポータが支えているようです。

がしかし、レアル(英ロイヤル)の冠と縁があるのか先代と現スペイン国王はレアル・ペティスの名誉会員だそうです。

・・・イタリアのミラノで、本田のACミランと長友のインテルミラノの地元2チームが戦う熱狂的なミラノダービーに対して

この地では、アンダルシアダービーあるいはセビーリャダービーと呼ばれ、スペインで最も熱くなる対戦だそうです。

・・・アンダルシア・・・・闘牛、フラメンコ、サッカー、情熱大陸です。

・・・競技場?と思えるような入口から・・・中に入ってみましょう。

この内部は・・・24時間無料で入場できるスペイン広場です。


年代物の建物のようです・・・1929年の万博時にパビリオンとして建てられ・・・築90年になります。

両端に塔が建つ半円形の回廊の下部壁面には、セビーリャの名物工芸品です、素晴らしい絵タイルが貼り込んであります。

スペイン48県の歴史などが描かれ、順を追って撮影した画像を・・・整理しようとしたら・・・

撮影したSDカードが見つからない、・・・紛失か?・・・マイクロSDカードも見つからない。

・・・暫定的に・・・スペイン広場から大聖堂まで同行者の画像を拝借しました。

この様な絵タイルで、床面に地図、上部に紋章、正面に出来事などが描かれています。

絵タイルは8世紀頃、北アフリカ経由でイスラム教徒からもたらされ、この地で発展します。

後にイタリーに輸出され、ルネッサンス時代にイタリーでマジョリカタイルとして人気になります。

・・・絵タイルを探してみると、やはりありました。

この槍を掲げた騎士と御伴の方、前方丘の上には風車が並び、・・・ラ・マンチャ・・・スペインを代表する物語ですが・・・描いてあります。

広大な半円形の回廊は(直径200m)、異国情緒あふれる光景です。エピソードⅡで映画の一場面、登場しています・・・スターウォーズで、

独特の幾何学文様がこんなところにも利用されています、

鳩も朝日を浴びて・・・各々好きな方向を向いて、今日も一日 拘束されないで、良い日でありますようにと祈っていました。

噴水やボート乗り場もあり、そして強烈な夏の日差しは、・・・緑多き広大な公園で涼みましょう。

スペイン広場を後にする・・・と

北隣に、18世紀に建てられたヨーロッパ最大級のたばこ工場がかつてあったそうです。

ここが、現在はセビーリャ大学の校舎です。

街路樹が整然と並び・・・早朝のジョキングは爽快だろうと思っていたら・・・走っていました、エネルギーが伝わってくる学生たちの街です・・・

そして、この区画の裏側(北側)川の近くには、少しピンボケですが豪華な王宮のような建物がありました。

これは、サン・テルモ宮殿、中央に大理石と思われる3段のファサードが豪華で存在感を主張しています。

凝った装飾はルネッサンス後のバロック調、・・・当時の王宮はかなり広大だったようです。

そして川に沿って左に曲がり、上流方向に少し進むと・・・こんな塔が見えてきました。

今日では、あまり目立たず、うっかり見過ごしそうな単に古い塔です。

この塔が、黄金塔と呼ばれ、1220年の建造当時は黄金色のタイルが貼られていたのでこのような名前とのことです。

グアダルキビール川の対岸にも同様に塔が建ち、(対岸はシルバーとの説)ロープを張って船の入港を見張る役目もあったようです。

(現在は海の博物館)

間もなく大聖堂の近くにやって来ました。

路面電車に、観光用馬車、移動手段の新旧そろい踏みです。

そしてこの右側には、観光名所の

スペイン最大の大聖堂(カテドラル)が1519年に完成しています。

ヨーロッパの聖堂では、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模と言われ、奥行き116m、幅76mの大きさです。

1401年に、この地のイスラム教のモスクを壊して立て直していますので、北側にモスク時代の特徴、オレンジの中庭が残り、

東側にはミナレット(尖塔)を残して、キリスト教の鐘楼に改造する・・・独特のレイアウトのようです。

一本だけ赤いつくしが気になります。だれかご存知でしょうか。

こちらは南側、サン・クリストバルの門(扉)です。

そして、扉の内側にジャンヌ・ダルク?と思えるような戦う乙女?のブロンズ像が救いを求めています、調べてみましょう。

右手に盾、左手には・・・ヤシの葉? 高さ4m、1288㎏、バルトロメ作といわれるようです。

「ヒラルディーリョ」の像

・・・大聖堂の東側・・・修理中です。奥の北側に鐘楼が見えます。

そして、鐘楼の先端に・・・何と同じ像がみえます。

この像は、・・・風見鶏の機能を持っているようです、盾とヤシの葉ユニークな組み合わせです

鐘楼の名前は、ヒラルダ(風見鶏)の塔と言われています。

ブロンズ像の名は「ヒラルディーリョ」

・・・少し移動しましょう。

モスクの尖塔時代は、階段を設けず螺旋のスロープになっていて、ロバに乗って70m近くまで登れたそうです。

カトリック教徒が改造する際に、スロープ構造はそのまま残したので、鐘楼は現在もユニークなスロープ式が残っているようです。

・・・近くの広場に聖母マリア像・・・ずいぶん高い位置に置かれています。

・・・同じ目線にあると慈愛が感じられる気がしますが、見下ろされると・・・聖母マリア・・・布教ではどんな役割なの?

そして隣はアルカサル、門を抜けて、バンデラスの中庭です。

中庭のこれらの樹木も、オレンジです。

さてこの旧市街には、狭い路地が残っています。

建物の中を抜けて南側に進んできました。

サンタ・クルス街(旧市街地・ユダヤ人街)を歩きます。

ユダヤ人は知識が豊富で、いろんな仕事を考えます・・・ある仕事でこの界隈には悪臭が漂い、市民から嫌われていた時代があったようです。

今日では同じ仕事が・・・海の向こうアフリカ・モロッコで地場産業となっています、・・・皮のなめし・染色作業です。

悪臭が漂うのは動物の皮を鳩の糞や小便のアンモニアで洗うと柔らかくなるようで、柔らかくしてインディゴやサフランなどの染料で染める、・・・そんなユダヤ人の街並みがあったようです。

マァ・・・、キリスト教徒も裸体は禁止と風呂に入らず、おかげで教会では悪臭対策に香炉を振り回し、近代では香水が発達したことも有名な話しですが、・・・

ローマ人やイスラム教徒は、清潔な人々だったようです・・・今日では、多分宗派にかかわらず清潔でしょうが・・・

レコンキスタ後、この地でもユダヤ人は追放され、今日は住宅地になって、旧ユダヤ人街のキャッチフレーズで観光地になっています。


お土産店やレストラン、小さな広場、案内板がありました 

左上の大聖堂から左下に進んできています。

現代の航空写真ではこんな感じです

もうすぐ下側で、右に延びる塀の近くに向かっています。

・・・食用に適さないから誰も食べないという・・・たわわに実ったオレンジの樹がかわいそうで・・・

そこで、グレープフルーツくらいのオレンジを食してみました。ハッサク並みに皮が厚い。

水分も適度にありグレープフルーツ並みの糖度だったが、ビタミンCも多いのでは・・・食べられなくはなかった。

しかし、糖度が高くジューシーなオレンジが沢山取れるので、だれも見向きもしないということでしょう。

オレンジはアラブ人が持込み、中庭に植えてオアシスにと、香りや観賞が目的だったようです。

しかし多分、レモネードに利用されているようですが・・・

地面に沢山落ちているオレンジを踏まないように・・・路地をさらに南に進みましょう。

レンガの塀に沿って続く小道があります。

アクア(水)の道・・・では歩いてきた道を、振り返ってみましょう。

左側の塀は何と2000年前のローマ帝国時代の城壁のようです。

更に進むと城壁が途切れた所で、断面が公開されていました。

水道管、太いですね、

この水道水は先程の中庭近くの宮殿(アルカサル)に届けられていました。

・・・ローマ帝国は、世界各地で水道工事を行っています。

数10kmにも渡る水道橋を造る優れた土木技術がありました。

しかし、技術だけでは実現しません、今日でも驚く壮大な計画、大量の資材の調達力、そして労力(大半が奴隷でしょうか)ローマ帝国時代は、興味が尽きません。

 城壁沿いにこんな大木が

ゴムの大木です、南米から贈られたそうです

そしてこちらの葉は、どんな形か分かり難いでしょうか・・・ローアングルの方が良かったですね

砂地に濃い緑の植物、縁にギザギザの切込みが入った長い葉です、50cm以上はあります・・・この葉が素敵な文様となって我々の目を楽しませてくれています。

大きな丸いプランター鉢に、この様な葉のレリーフ文様を見たことがありませんか。

地中海産 アカンサス(Acanthas)・・・、ギリシャの国花、和名は、ハアザミ、アザミではない。

古代ギリシァ文化がこの葉を装飾に用い、葉の先端を巻き込むようなデザインなど、洗練された文様が、

建築意匠として(コリント様式)大理石や材木に彫刻され、柱頭(柱の上部)などにも利用され、イスラムの文様にも使用されているようです。

・・・ムリーリョ公園です。

帆船が遠くから目立ちます、

スペインで大航海時代の先駆け・・・有名な船? 冒険家・しかしイタリア人

コロンブスとサンタマリア号のモニュメントです。


船の中央に ISABEL イサベル女王の名前が刻まれています。裏側は国王。

ポルトガル王に大西洋を西回りに航海し、新大陸を発見する計画の援助を申し出ていたが喜望峰経由が現実的と・・・1485年に断られ、イギリス、フランスも懐疑的で・・・

スペイン王室に援助を・・・女王が関心を持たれたが、1490年委員会が否決する、その後も進展せず・・・

しかし、レコンキスタ、最後の紛争地点グラナダが陥落した。

戦争の経費が軽くなり、イサベル女王はコロンブスの計画を承認し、1492年 大陸発見となる航海に出発しています。

キリスト教の布教と、金銀財宝、奴隷の持ち帰り、原住民の虐殺・・・

キリスト教徒の作成する歴史では、どのような記述になっているのでしょうか・・・

この見事なデザイン、二本の柱の柱頭に・・・デザインされていましたアカンサスの葉です。

そしてこちらは、オレンジの街路樹

収穫?、落下したオレンジの回収業務でしょうか。

オレンジも資源です、有効利用されていることでしょう。

セニューラ? セニョリータ、若いから大丈夫でしょうが・・・腰痛に気をつけて、

オレンジがいっぱいのセビーリョから、・・・白い街、ミハスに移動します・・・約240km




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メスキータ

2017-04-10 | 旅行記

・・・ここのメスキータは殺風景な壁に囲まれている・・・、8世紀~13世紀(ルネッサンス以前)のモスクとはどんな礼拝堂の内部なのでしょうか、

宗教の教義ではなく、建造物の内装に多少好奇心を持ちながらの入場です。

メスキータ コルドバ大聖堂 のガイドブックを参考に、撮影した写真でモスクからカトリック教会への歴史を見てみましょう。

・・・イスラム軍がアフリカ・モロッコから攻めてきて西ゴート王国を滅ぼし、711年からこのコルドバは後に「後ウマイヤ朝」と呼ばれる王国の首都となりました。

占領後イスラム支配が70数年続き、権力基盤が確立された785年、大モスク(今日のメスキータ)の建設が始まります。

では、歴史がわかるメスキータの平面図を見てみましょう、上側が南東、下が北西になります。

(最初のモスクが黄色プラス緑の1/5位、次の増築は、上(南西)に(オレンジ)、第三次増築(濃いオレンジ)、第四次増築(朱色の東側と緑の部分))

 

南北175m、東西128m 総面積22,400㎡、これは城壁で囲まれた現在の面積です。

右側の②から中庭に入ってきました。

・・・第一段階は、平面図の黄色の部分に西ゴート王国の教会を壊して、モスクを建て始めます。

建築時のレイアウトは、左右(東西)73mくらいです。⑥が正面中央の入り口、入り口の先には礼拝の間が必要となります。

入り口の手前にサフと呼ばれる、みそぎのための中庭(785年当初は、黄色い部分の半分くらいの面積で、下側の緑の部分に存在した)が用意され

中庭の端にアルミナール(ミナレット)(尖塔)が建ちます。

この「尖塔」、「中庭」、「礼拝の間」の3点を東洋風の角張ったギザギザ模様を上部に付けた壁で囲み、要塞の印象を与えています。

・・・ところで、ここのメスキータ(現在のコルドバ大聖堂)内部に入るには、入場料10ユーロが必要となります。

中庭の ⑥免罪符の門から内部に入ってみましょう。(免罪日の門の中にチケット売り場があります)

思ったより明るい室内です。ただ柱が多く自然と天井まで目線が上がると、平天井なのでガード下のような違和感があります。

この柱の上部にアーチを乗せた円柱が無数に並んでいる様が、メスキータ構造上の特徴といわれています。

ガイドブックによれば、第一段階の礼拝堂(黄色い部分)では、台石、柱、柱頭にはさまざまな色がみられ、

素材も大理石、花崗岩・・・いろいろな石が使用され・・・博物館のようとあります。

これは建築当時存在したローマ帝国時代の遺跡や、西ゴート時代の教会を取り壊した建造物の柱を利用しているのが理由とか。

床の上に台石が固定されその上に柱が建っている所が最初の礼拝堂、(上の写真)

石材をあちこちから集めてきて再利用する・・・織田信長が安土城の普請で墓石まで使用していましたが・・・

この地ではフランカと呼ばれる化石を含む酸化カルシウムからなる石が近郊で大量に採掘されるのですが・・・

再利用を優先したのには、体制を安定させるには宗教の一本化・・・それには早普請をしてモスクの完成を急ぐ必要があったのでしょう。

再生品は長さの異なる柱も多く、全体の高さを揃えて天井を支える必要があります。

柱を台石に乗せ、柱の上には柱頭の部材を繋ぐ、これらの部材で全体の高さ調整をするという知恵でこのような景観になりました。

竹馬の様に上部が長い柱も見られます。

白い部分が石灰石、赤い部分は赤レンガ、交互にアーチを架けていきます。

「二重アーチの上部のがっしりした半円アーチが事実上建物を支えている。

下部の馬蹄形のアーチは支柱、高さ調整の役目をしていて、同時に天井を高くする解決法だった。」と書かれています。

柱だけでは横方向の強度が弱く、斜め方向に筋交いが必要です。これを古代ローマ水道橋のアーチ構造を参考にして補強しています。

最初の礼拝堂では、11身廊が設けられ、(身廊は中央部で柱の間隔がやや広く、両端がやや狭い)各身廊は12列からなっています。

結果、最初の(黄色の部分)礼拝堂の建築に、柱が152本も必要になりました。

後年の増築の際もこの柱方式で統一されたので・・・・、最終的には1012本、残念なことに13世紀に一部が破壊されて現在は856本とか・・・。

・・ モスクの特徴・・・ムスリムと呼ばれるイスラム教徒は、日に5回の礼拝はどこに向かって行うのでしょうか、祭壇でしょうか?

・・・アラビア半島、メッカのカーバ神殿に向かって礼拝をします。当初はエルサレムだったそうですが・・・

全世界のムスリムが旅先で方位磁石を使ってメッカの方向を探したり、世界各地のモスクではメッカの方向に置かれた聖なる壁に向かって礼拝をするそうです。

しかし、5回の礼拝だけでも大変なのに、・・・はるかかなたの方向を探すことまで・・・地面は水平と思っていた時代はそれでもよかったでしょうが・・・

・・・やがて球体と知り、正確に測るのにはどうするのと、目的があれば技術も発展するでしょう・・・儀式の継続は、文化となりて

ガイドブックによれば、このカーバ神殿の方向をキブラと言うそうです。

そこで最初に作るのが最重要となるキブラ、・・・このキブラの壁(神聖な場所)から建築が始まったとあります。

・・・最初のモスクでは、礼拝堂(黄色)の中心軸がキブラを目指し、入り口から南西の反対側の壁に向かって伸びます。

入口から入ると、正面最深部の壁がキブラとなりこちらの方向に向かって礼拝をします。

増築にあたって南西に延長したので、増築の度にキブラの壁は奥に奥にと移動しました。

人口が増えて礼拝堂が狭くなり4度目の拡張時には、南西側に延長すると川に向かって傾斜する土地だったのでやむを得ず東側に増築することになります。

結果、全体の中心軸が拡張した東に移動してしまいましたが、当初のままで今日に至っています。(何とメッカの方向がズレていた・・・後述)

 ・・・少し奥に進むと、偶像の彫刻類と幾何学文様が交差しています。

これはモスクの中央部にカトリック教の内陣を増築したことにより、出現した珍しい光景です。

・・・歴史を知らないと気にならないくらい、接合部はなじんでいます。現場合わせに苦労されたであろうと・・・また、設計者の優秀さにも関心します。

 古風な、上品な礼拝堂が目に飛び込んできました。ここは第三次増築部分に位置する所ですが

㉑のカピリャ・デ・ビリャビシィオサでしょう。

レコンキスタ後(13世紀)モスクに最初のキリスト教礼拝堂として改造された部分のようです。

13世紀当時は、多分キリスト教徒達の文化と、ギリシャ、ローマ文明を引き継いだイスラム文化では遥かにイスラム文化が全てにおいて優れていたようです。

キリスト教徒の天下になってもイスラム教徒達でこの地に残った人々も多く、彼らの文化をキリスト教の偶像崇拝文化に融合させたこのような落ち着いた独特の祭壇が出来上がりました。

アーチ状の天井はキリスト教時代のヴォールトです。 

こちらは、少し装飾が繊細になっています。 

天上界から見下ろしているのは、威厳のある聖職者の雰囲気です。 

少し離れて見てみると、左手に大きな鍵を持っています。

キリスト教で天国の鍵を持つ・・・バチカン初代法皇 聖パウロ・・・です。

神、救世主、聖母、天使、預言者、そして聖人とカトリック教は布教にイメージ戦略が有効と登場人物が多く賑やかです。

これは、モスク時代の古いアーチに挟まれて、肖像画と磔刑のキリストを前にこの人は? 

・・・最深部にやって来ました。

ここがキブラ、最初に建てられたモスクの正面入り口から真っ直ぐ南東に進んだ最深部です。

ムスリムは、メッカのカーバ神殿に向かって日に5回礼拝をします。

モスクで一番重要なキブラについて・・・

「カーバ神殿は、コルドバから南東45度に位置するにもかかわらず、最初のキブラは南東28度で建てられており、

現在のところ、この17度の差に異論のない説明がつかないでいる。」・・・とガイドブックに記されていました。

・・・そして、下の大きなアーチは聖なる窪みと言われる、⑫ミヒラーブへの入り口になります。 

 ミヒラーブとは「メスキータの中で預言者モハメッドの存在する空間を表わしている」

柵で仕切られ立入禁止となっていました。では天井を見てみましょう。

ここはドーム形状になっています。マクスラ中央ドームです。

素晴らしい・・・これがモスクの特徴でしょう、天使も聖母も、救世主も描かれていない落ち着いた空間でした。

東洋伝来の植物文様、アーチ上辺の壁面には、コーランのスーラ(章)が上下2列に並んでクファ体で刻まれています。

・・・イスラム教のモスクは、正直そんなに関心は高くなかった。

東京、代々木上原に東京ジャーミイと呼ばれる綺麗なトルコ系モスクがあり、内部を映像で拝見したことがありました。

イスラム教の教えの通り、礼拝堂内の内装は偶像崇拝の禁止を守り、デザイン文字や幾何学模様の装飾で構成され、

ステンドガラスの色彩も明るく採光も十分あり、近代的な建築物との好印象が残っています。

・・・イスラムの国と言えば男尊女卑が時々問題となり、石油王国サウジアラビアやイラン、イラクなどでは宗教と教育、女性の社会進出、

男尊女卑の改善、政治体制に反発も起きているようです。

コーランの学術的テキストとされる1841年発行フリューゲル版の日本語翻訳版(井筒俊彦訳)コーランを以前少し読んでみたが・・・

まず、第何章第何節・・・これがどの個所を差すのか明瞭でない場合が非常に多いと最初に書かれてはいますが

・・・アラビア文字は点を上に打つか、下に打つか、一つか二つかで意味が異なり・・・写す段階で間違いが結構あるようです。

・・・第4章 慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・

1.人間どもよ、汝らの主を畏(オソ)れまつれ。汝らをただ一人の者から創り出し、その一部から配偶者を創り出し(旧約聖書:アダムの肋骨からイヴを創った)、

この両人から無数の男と女とをまき散らした給うたお方にましますぞ。

アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼み事するときに、いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。

また(汝らを宿してくれた)母の胎(タイ)をも(尊重せよ)。アッラーは汝らを絶えず厳重に監視給う。


女性の章はこんな風に旧約聖書の一文をそっくり引用したようなところから始まります。

神から預言者への啓示の形で庶民に事細かくありがたい説教を・・・神は汝らを絶えず監視しているぞ!、・・・最後の審判・地獄に堕ちる・・・脅しも登場します。

・・・遺産相続も具体的で、男の子には女の子の二人分を・・・

38 (34)節 アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、

この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから、貞淑な女は(男に対して)ひたすら従順に、

またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘め事を他人に知られぬようそっと守ることが肝要。(いろんな解釈がある)

反抗的になりそうな心配のある女はよく諭(サト)し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ)、

(それも効かない場合は)罰を与えなさい。だがそれで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。

アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。・・・

 コーランは奴隷を認めていますが、紀元前からこれらの土地では奴隷は売買されていましたし、戦場で戦うのは男性で、敗戦は死か奴隷になるかでしかありません。

エルサレムの土地の支配を巡って領土紛争に明け暮れた人々、その様な時代に生まれた男尊女卑、一夫多妻、・・・イスラムの国では今日も存在しています。

妻は4人まで、奴隷はさすがに認められることはなくなっていますが

ローマ帝国軍の領土拡大に奴隷は重要な労働力であったのも事実で、奴隷の補充ができなくなると生産性が上がらず国力は急激に衰えたようです。

・・・コーランには、神からの言葉として広範囲な事柄について具体的な記述が書かれていますが・・、

幼少の年代から繰り返し耳にして抵抗なく受け入れると思われるムスリムの人々と違い、多様な価値観を身に付けた多神教を認める人には・・・、

頭も固く読み続けることすら困難なような気がした、断片的に拾い読みし、・・・本を閉じることになってしまった。

・・・イスラム教(コーラン)について・・・全く理解できていない状態で・・・特徴的な幾何学文様に出会うと

カレイドスコープ(万華鏡)のようだが・・・、あくまで説法の場、その空間デザインとしての役割に徹して・・過剰演出が無く爽やかだった。

・・・すぐ隣では、ここにもイメージ作戦が一番と、この礼拝堂も ショールームのようです。

この様な偶像も掲げられ

・・・中央部に戻って来ました。

「1236年6月29日 コルドバ再征服が完了し、メスキータ全域がキリスト教の寺院として聖別され、

1239年にはサンタ・マリアマドレデ・ディオス(神の母なる聖マリア)の大聖堂として生まれ変わった」とあります。 

現在の主祭壇は、⑯ 中央礼拝堂です。

完成までに長い、長い年月が・・・ゴシックから・・・バロック様式まで。

1528年(ルネッサンス後期)マンリケ司教の改造計画(巨大な身廊のために大々的に取り壊す)が司教座聖堂僧会の承認なしに司教の独断で工事が開始された。

僧会は大司教に抵抗できずにいたが、市僧会が王の許可が必要と決議するが・・・無視された。

そこで王の許可なしにメスキータを取り壊したものには死罪ならびに財産と所領の没収を求めることを布告した。

通告はその日のうちに行われたが、司教は布告した王室代理官を破門した。

ついにこの争議が王に持ち込まれ、王は司教座聖堂僧会の言い分を認め、工事の続行を命じた。

・・・王は、セビリアの帰りにコルドバに立ち寄り、メスキータを見てこう語ったと言われる。

「余は、このようなものだとは知らなかった。知っていれば元の建築の取り壊しを許しはしなかっただろう。

そなたたちの造っているのはどこにでも造れるもの、そなたたちが壊してしまったのは、世界に二つとないものである。」

 建設には250年の歳月が必要となり、1766年に完成しました

どこに行っても見られるものを造ってしまった・・・と言われると・・・ガイドブックの主祭壇の説明は・・・若干にしましょう。

中央部を拡大してみましょう

左右にはこの様な彫刻も

祭壇には紅大理石が使われ、バロックの絵画(パロミーロ作)が飾られています。

・・・主祭壇の前の女性は、何を見ているのか?

そちらの方が気になりますか

主祭壇を背にして、反対側は・・・

高窓を通して正面からの西日が強くて・・・逆光にシルエットが浮かぶのは巨大な木彫りの彫刻、中央に司教席

聖歌隊や長椅子もあり一般の人が座って周囲を鑑賞することができます。

両サイド上部には大型のパイプオルガン。

周囲の聖職者用の椅子はマホガニー、豪華な彫刻が施されています。

・・・思い出しました、最初に見たモスクの紅白石積みアーチは・・・増築する際に、塗料で紅白に塗り分けて全体のイメージと調和するように経費の削減をしていたそうです。

イスラムとカトリックが混在する大聖堂を後にしましょう。

中庭に出ました。

夕日に輝く、・・・尖塔改めキリスト教の鐘楼です。

16個の鐘と、コルドバの守護聖人サン・ラファエルの像を取り付けた高さ54mの塔です。

鐘楼に登るには、入場料2ユーロとなります。

・・・では、もう一つの観光スポットとされるユダヤ人の街並みに・・・。

メスキータから北に歩くと・・・商店街でしょうか

イスラムの支配時代、756年から、後ウマイヤ朝の支配者はユダヤ教徒、キリスト教徒を「敬典の民」として容認していたので、地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていたといわれています。

ユダヤ人は紀元前から迫害の歴史を背負いながら、神に選ばれた民族との強い意志で逆境に強く、財産はいつ没収されるか頼りにならない、

生き残る道は学問、知識であり知恵であり・・・子供には教育熱心な民族のようです。

優秀と言われるユダヤ人の人文学者、官吏、商人などはイスラム国家が潤滑に機能するために無くてはならない存在だったと言われています。

 13世紀から15世紀のユダヤ人居住区、世界遺産に指定されています。

キリスト教徒の中にはイスラムの支配に抵抗する者もあったが、多くは平和に共存し、後ウマイヤ朝の都コルドバは文化の中心としても栄えていました。

レコンキスタ終了後、1492年ユダヤ人追放令 布告後・・・この街は 寂しくなっていきます。

メスキータの鐘楼が見えるこの小路・・・この後ろ側は行き止まりの小さい広場

白壁の家並み・・・花の小鉢・・・有名な Calleja de Flores 花の小道 です。

行き止まりの広場にも、お土産屋さんが・・・商売繁盛と笑顔の接客です。

城壁近くの西側にはシナゴガSinagoga かつてのユダヤ教会なども残っているそんなコルドバでした。

・・・セビーリャ、145km 約2時間南下します。

 

 

 

 

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フラメンコのアンダルシア地方へ

2017-04-02 | 旅行記

ラ・マンチャからさらに南へ・・・約285km ・・・アンダルシア地方に向かいます。

東京からに浜名湖の先、三ケ日のミカン山を抜けて三河の岡崎の手前くらいでしょうか。

地図を見てみましょう。南スペイン・・・アフリカに近い・・・赤く塗った一帯です・・・フラメンコの本場です

コルドバに向かいます。グーグル借用 航空写真では

ジブラルタル海峡は最も狭い所は、・・・14km・・・ジョキングで1時間半くらい?

・・・昼前の高速道路です・・・高原の赤茶色風景から一転、見渡す限りのオリーブ畑です。

丘陵地帯が続き・・・集落も市街地も見かけないまま山岳地帯にさしかかり・・・

3時間も走ったころ・・・やっと人工の設備が見えてきました。

変電所?、送電線・・・

青色の人工的な輝きは・・・整然と並んでいる様は、太陽光パネルでしょう。

アンダルシア地方、・・・今日の特産品は、・・・太陽エネルギー・・・年間を通して太陽光の恵みを受けて・・近代的なスペイン南部です。

すると古風な石積みの鉄橋が見えます、電車を見かけないが・・・走っていると思います。

遠く山並みがあり、緑の樹木があり、川が流れている。・・・肥えた土壌もあるようです。この一帯は穀物地帯だったと思ったが・・・

スペイン縦断、・・・移動が優先で昼飯はこれからだった。

高速を降りて、市内に入ってきました。PM2:15頃

2時から4時頃が当地では昼食時間、まさに車窓からレストランで食事?風景が・・・

オット・・・ウエートレスのファッション、・・・ビビットで素敵なオレンジ 、活動的な印象です。

しかし太陽光を吸収する全身黒は、・・・暑さが倍増するのではと・・・気になりますが・・・

陽気なラテン気質です、闘牛とフラメンコ・・・気合のファッションでしょうか

何やら遠くに旧市街の趣が・・・

ロータリーをグルーリと回って・・・この歴史を感じる橋は、これが有名なローマ橋でしょう

川幅が広いですね。・・・ガイドブックによれば、グアダルキビール川は、ここから南部の州都セビーリャを経由して大西洋に流れ出ます。

橋の右側が上流、左側に向かって流れています。

 ・・・ここは川幅がありますが、氾濫時の水量にも流されない巨大な橋を架けようとするアイディアがすごいですね、土木工学のすぐれた大昔のローマ帝国時代です。

日本では、大井川などの河川は橋を架けないで、自然の境界を利用して治安管理するか、橋を架けて物流効果を上げ国土の発展に役立てるか・・・将軍家の安泰が優先されたようです。

・・・戦になれば・・・橋の全長331m、南から攻められたら守備側は橋を破壊し、この河川で分断をはかります。

紛争が起こるたびに橋が破壊され、・・・その後、修復・・・戦争・・破壊・修復の繰り返しで・・・最近は化粧直しを兼ねて2008年に修復が完了しています。

・・・橋は平時は重要ですから、できたら守りたい・・・要塞を造ります、見張りと守備の役目を兼ねて。

12世紀末イスラム勢力が築いた、カラオーラの塔 Torre de la Calahorra と呼ばれます。(現在では博物館)

・・・この川岸に街路樹が並んでいます、オレンジがいっぱい・・・熟しているようです。

・・・では、レストランで遅い昼食です。

・・・なぜそんなに争いが多かったのか・・・この土地の東は温暖で内海のような地中海です。

2000年以上も前から沿岸を伝って地中海貿易は盛んに行われ、人、物の移動がありました。

日本国・外務省はアンダルシア地方の歴史を、概略このようにまとめています。

 地中海の東で生まれたユダヤ教、・・・ユダヤ教から生まれ、ローマ帝国で国教になり、ヨーロッパ中に拡散したしたキリスト教、

・・・キリスト教から遅れること約600年、モーセ(ユダヤ教)、イエス(キリスト教)を予言者と認めて・・・最後の預言者ムハンマド(マホメット)と呼ばれる人物が、

地中海のさらに東、砂漠のアラビア半島で610年から632年にかけて神の啓示を聖典にまとめ、布教を始めます。

急激に武力と共に支配地を中央アジア、地中海南部沿岸地帯に拡大し、布教も拡大することになります。

この土地は、紀元前からローマ帝国のもとで繁栄し、西ゴート(民族大移動・・・北から侵入)の支配下に、そしてイスラム(南から侵入)と支配者が変わります。

他のヨーロッパ地域が、これから暗黒の中世時代といわれるのに対して、アンダルシアは南国の太陽を浴びて、・・・明るく繁栄します。

・・・ロ-マ橋を渡って、旧市街へ

旧市街地はかつて城壁に囲まれていました・・・そして橋の門があったそうで・・・。

これがコルドバ王国時代の城壁の一部でプエンテ(橋)の門(Puerta del Puente)、ルネッサンス後期に凱旋門に改修されたそうです。

門の上部にレリーフが・・・これは戦士の像、コルドバ王朝時代のものと思われます。

目指すは、メスキータ Mezquita、アラビア語 Masjid が語源とか、・・・スペイン語でモスク、あまり聞きなれない言葉です。

モスクとは、ムスリム(イスラム教徒)の礼拝堂として呼ばれています。

複雑な歴史です・・・目指すのがスペインに現存する唯一のモスクですが、キリスト教徒が奪還して増築・改造して今日に至ります。

イスラム教のモスクがカトリック教の礼拝堂になり・・・今日の「コルドバの聖マリア大聖堂」は、「メスキータ」と名詞で呼ばれます。

再度 グーグルの航空写真を参照

右下から中洲のように張出している市内に入り、中央下部の川岸のレストランで食事を終え

徒歩でローマ橋を渡り、中央部に黄色の四角で囲んだメスキータに向かいます。

左斜め上(銀色の部分がホームの屋根でしょう)、鉄道の駅があり、駅からは市街地を通ってメスキータに入ります。

・・・アプローチとしては、ローマ橋からがお勧めです。

旧市街に入り、左に曲がると、記念の塔があります。

トリウンフォ・デ・サン・ラファエルの塔と呼ばれます。

塔の上部に大天使、ラファエル像、ここコルドバの守護聖人

これは、14世紀ヨーロッパ各地でペストが大流行し人口が激減した悲惨な時代がありました。

このペストの終息を記念して各地で、モニュメントが建てられています。

ここコルドバでも、1765年~1781年と何と16年もの歳月をかけて完成に至っています。

ローマのナボナ広場の噴水(ベルニーニ作)は最高だ、参考にしようとか・・・

・・・この先で、旧市街の観光にと観光馬車が迎えてくれました。

 

この先右側はメスキータの城壁が続きます。トリホス通りを進みましょう、所々入口がありますがメスキータには入場できません。

前方で人混みが、・・・左に土産物屋があります。その向かいの城壁の開口部から中庭に入れます。

 鐘楼を見上げます。カトリック教では鐘楼、しかしモスク当時は鐘も無く、アルミナールの塔(ミナレットとも呼ばれます)として、・・・

 

イスラムの教義では、コルドバの信者に向かって日に5回、アザーンという呼びかけの言葉が唱えられていました。

・・・TVで見たことがありますが、・・・USAのある都市の話・・・モスクができると拡声器から呼びかけの声が市中に流れます。

抑揚に特徴のあるゆっくりしたアザーン(礼拝の呼びかけ)に静かな雰囲気が壊れると反対する陳情が出され、役所では調整に大変な様子が流れていました。

川向うからの景観、このように鐘楼がシンボルで、そして左手前に守護聖人の像が立ち並ぶ旧市街、世界遺産

メスキータの内部を・・・整理中です。

 

 

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