気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

気の向くままに レオナルド

2020-08-13 | アート・文化

猛暑が続く日本列島、緊張感を持ちながら過ごす夏休み、墓参りも中止しF1中継鑑賞が唯一の気晴らしです。

・・・さて、この方はもうすぐ48歳を迎えようとしていた。

1500年3月末、レオナルドはミラノを離れてから3ヶ月後、弟子たちとフィレンツェに帰ってきました。

ウォルター・アイザックソン著のレオナルド・ダ・ヴィンチによると、レオナルドの人物像が豊かに浮かび上がってきます。

まずは自身の衣装リストがあります、・・・普通の中年芸術家やボサボサ髪の科学者でもなさそうです。

ファッションにも感性豊たか、社交性もあり、まずは衣装のチェックなのでしょう。

驚くことに自分のリストに、当時24歳のサライ(弟子)の分だけが混じっていたそうです。

チェーザレ・ボルジアから贈られたフランス風のケープ、現在はサライの物という項目があり、

他にもフランス風の縁飾りのついたチェニック、フランドル風のグレーのチェニック、豪華な衣装が記されています。

イラストで雰囲気を味わいたい。

アンドレア・リッチャルディ画 レオナルド・ダ・ヴィンチ より)

チェニックは、フランチェスコ(後にミラノで弟子となり、遺産相続人となった)やラファエロのような衣装でしょうか。

弟子のサライもピンクやバラ色のチェニックを好んで着て、レオナルドと連れ立ってフィレンツェの街中を闊歩していた・・・伊達男以上です。

知識欲を知るには書籍リスト、1504年作成の蔵書目録、116冊とあります。

プトレマイオスの「天地学」、ユークリッド翻訳本3巻、アルキメデス?「円の正方形化に関するもの」、外科、内科、建築、イソップ童話、詩集などと範囲が広い。

生計は、・・・工房を開き、弟子たちの作品にも需要が出始めたようです。レオナルドの父親も教会の仕事を斡旋していたようです。

しかし本人は、数学や解剖学など絵画以外の関心が高く、チョークのデッサンのままにしてあるイザベラ・デステから完成させてと催促が・・・。

反応が無いと知り・・・無理なら何か描いて、何度も切望しますが・・・この当時26歳、財力のあるエステ家の一員で教養も政治力もありました。

報酬はいくらでも出すと言っても・・・描いてくれず、1506年にはフィレンツェに出向いたが、会えず、その後もレオナルドが描くことは無かつた。

ところがこの時期、ある女性の肖像画を描き始めます、レオナルドはモデルに何か刺激を受け想像力が膨れ上がると絵筆を執ったようです。

他にも「聖アンナと聖母子」「レダと白鳥」も描き始めました。

・・・3か月前に脱出した隣国のミラノ公国は、・・・ルドヴィーコはどうなったか気になります。

概略は、逃亡したミラノ公(ルドヴィーコ)はアルプスの北で傭兵を集め、援軍を期待していた。

神聖ローマ帝国のマクシミリアン王は、援軍を出せなかった(この頃、領主連合から傭兵に頼る時代になり、軍資金は承認が必要だった)

ハプスブルク家は、戦いもしたが「戦いは他のものに任せるがよい。汝、結婚せよ」政略結婚で領土拡大に成功します

・・・ルドヴィーコは1500年2月、ミラノ北方コモに到着、・・・周辺都市もフランス軍に抗戦していた。

ローディ、パヴィア、アレッサンドリアなどでフランス軍を退却させた。

2月5日、スフォルツァ城には、フランス兵約300名が占領中だが、市中ほぼ平定、ミラノ大聖堂に向かって歓声の中行進できたようです。

2月24日、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンの息子(フィリップ)とアルゴン国のフェルナンド王とカスティリア国のイザベル女王の娘(フアナ)に男子誕生。

この男子は神聖ローマ帝国の後継者だが、スペイン国(アルゴン国+カスティリア国)の皇太子が亡くなり、次女フアナが浮上、その息子が突然金の卵になった。

・・・3月21日、ミラノ西方50㎞くらいにあるノヴァーラの都市・城も、ルドヴィーコのミラノ軍に降伏、

フランス軍VSミラノ軍、戦っている主力は共に傭兵、スイスから出稼ぎの軍人が、敵味方に分かれて金のために戦っていた。

4月5日、フランス軍とノヴァーラで激突、・・・ミラノ軍は敗れた。

4月10日、ルドビーコはノヴァーラ城からスイス傭兵の姿で脱出中、雇った傭兵の裏切りでフランス軍に捕らえられてしまった。

・・・ミラノ公国は、フランス軍に反撃して2か月間くらい抵抗したが、頼みの傭兵が引き揚げフランスに占領され続けることになる。

連行されたルドヴィーコは、この後フランス各地を転々とし、城に幽閉され8年度の1508年5月27日亡くなる。

・・・フランス軍が何故ミラノに軍隊を?

前任者が突然亡くなり、予期せぬフランス国王に就任したら・・・、権力者は大軍を動かしたくなり、矛先がミラノでした。

そして、ミラノは征服した、・・・後継者の血筋とを理屈をつけて占領する所は、ナポリが残っていた。

前回のシャルル8世はナポリ占領後、イタリア各国の包囲網にあわてて逃亡した、・・・これを教訓にライバル国との事前交渉を行う。

1500年11月11日 ルイ12世がイベリア半島のグラナダでまで出かけ、アラゴン国王(スペイン)フェルナンド2世と、ナポリ分割の秘密協定を結びます。

(グラナダ、アルハンブラ宮殿)

1501年6月、いよいよフランス軍がナポリ占領に動き出した、・・・アルプスを越え、大軍が再度イタリアに侵攻する。

その後、教皇(アレクサンデル6世)はルイ12世とフェルナンド2世のグラナダ協定を承認します。(勝手に作成した、ナポリ王国の分割案です)

 教皇は教皇軍を組織しており、その最高司令官に枢機卿を返上したチェザーレ・ボルジアが就任していた。

教皇軍の司令長官は、前任者が弟のホアンだっが・・・突然、謎の死を遂げていた。

(闇夜にテベレ川にズタ袋が投げ込まれ、ホアンの殺害された死体が発見された・・・刺客を差し向けたのが兄のチェザーレとの噂が飛びかった。)

この辺の状況は、チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 塩野七生女史 が詳細に描いております。

異端の男チェーザレは教皇軍を率い、ルイ12世の援助も受けフィレンツェの東からアドリア海沿岸まで、ロマーニャ地方の攻略の真っ最中だった。

5月、教皇軍はいよいよフィレンツェの攻略に動き始めた。

・・・ルイ12世はイタリア半島内とはいえ、チェーザレ軍がフィレンツェ、ミラノに進軍するのは黙認できなかった。

軍を持たないフィレンツェ共和国は白旗を上げ、献上金36000フロリン/年と自由通行権を与え、占領は免れた。

6月29日、イタリア半島に侵攻していたフランス軍は、ローマからナポリへ向かいます。

8月1日、フランス軍に、・・・ナポリ王国降伏。

教皇軍のチェザーレは一年後の1502年6月に、フィレンツェ共和国に新たな要求を行うので代表者を派遣するよう指示した。

共和国からソデリーニとマキャベリが派遣され(先のイラスト下部に登場する)・・・新たな合意が結ばれフィレンツェは攻撃されなかった。

・・・その後レオナルドがフィレンツェ政府に要請されたかは不明だが、チェーザレの軍事顧問として旅立ちます。

ノートの荷造り物品リストには、ハイキングかと思えるような、

コンパス二つ、剣帯、軽い帽子、スケッチ冊子、革のベスト、水泳用帯(考案した革のコートが浮袋仕様になる)など。

・・・イタリア半島西海岸で教皇軍が占領した地の要塞の検査をし、

アベニン山脈を越え、半島東側の教皇軍の支配地で地図を作成し、1502年盛夏チェーザレ軍本拠地のウルビーノに到着。

(レオナルドが描いた、その当時のチェザーレ・ボルジア)イタリアで一番ハンサムな男の面影は無いと著者は記しています。

チェザーレは、ルイ12世が裏切りフィレンツェ共和国の保護を約束しているのでは・・・と疑念が渦巻いていた。

フランス宮廷やヴァチカンには、ボルジア家に復讐する機会をうかがっている者が大勢いるのは周知の事実です。

1週間後、チェザーレは、レオナルドに「パスポート」をしたため、ルイ12世に会いに旅立つ。

1502年8月18日付「パスポートの内容・抜粋」

「本状を提示されたすべての将校、城主、傭兵、兵士、臣民に告ぐ。

本状の持ち主である、ボルジア一族の最も高名かつ愛すべき友人、建築および技術責任者レオナルド・ヴィンチの命に従うこと。

ヴィンチは我が領内すべての防衛拠点と要塞を検査し、必要に応じて補修を行う任務を付与されている・・・以下略

私の激しい怒りを招きたくない者は、決してこの命令に背かないこと」とありました。

・・・友人の数学者ルカ・パチョーリの書き残したこの当時の逸話があります。

「チェザーレ・ボルジア軍が橋のない川にさしかかった。

川幅は24歩幅ほどで、使える材料は16歩幅に切られた材木だけだった。

鉄やロープも無くても自立式の橋、軍隊が通れる強靭な橋を造って見せた」、と書かれている。

(このような自立式の橋が、レオナルドの素描に残されています)

1502年秋、チェーザレはイーモラに宮廷を移し、この都市を難攻不落な軍事拠点にする計画だった。

ここにマキャベリがフィレンツエ共和国の使者として送られてきた。

それから冬の3ヵ月間、チェーザレ、レオナルド、マキャベリと有名人3人が立場が違えど顔を突き合わせていた。

現在のイタリア、ボローニャ県、イモーラ市(グーグルより)

青い濠の内側が、チェーザレ時代の要塞でしょう。

中央下部の川沿いにあるイモ-ラ・サーキットが有名で、コロナの影響で今年のF1、開催が危ぶまれたが

・・・EU内の人の移動制限が解除され(F1チームの移動が可)、無観客で今秋開催される予定です。(日時は未定)

(上図がレオナルドの描いたイモーラの地図、当時は画期的な鳥観図です、500年前はこんな感じでした。)

磁気コンパス、長い距離の測定に走行距離計も開発し、また濠の深さ12m、壁の厚み4.5mとありますので確かに要塞です。

12月、クリスマスの翌日、目にしたある事件をマキャベリは後に君主論でこう書いています。

「チェザーレ・ボルジアは領民を委縮させるためにラミロ(側近)の絶大な権限を維持する必要はなくなったと判断した。

そして、領民の支持を獲得するため、ラミロの冷酷な統治は独断によるものであり、チェザーレの意志ではなかったことを示そうとした。

ある朝、チェゼーナの中央広場で、真っ二つになったラミロの遺体が発見された。

傍らには木片と血糊の付いたナイフが置かれていた。

この残酷な仕業を見たロマーニャの領民は、留飲を下げると同時に仰天した。」

・・・この事件をマキャベリは、冷酷さに感銘し、「他の人々も研究し、見習うべき事例」と称賛した。(君主論)

(側近のラミロに指揮権を与え、従順でない領民に暴政、虐殺などで恐怖を植え付け、・・・役目が終ったらチェーザレに使い捨てにされた。)

暗黙の騎士道ルールでゲームのような戦争に明け暮れたイタリア弱小各国の中に育ったマキャベリは、冷酷な戦略家、行動のリーダを求めていた。

・・・国民を委縮させ不満を抑える・・・今日でもロシアなど高度なテクニックを使用しているのでしょう、民主化の看板の裏で、暗殺も有りです。

中国の露骨な香港言論弾圧は、世界を敵にしても自国と一路一帯関係国だけで発展できる・・・共産党体制の維持は権力の維持と・・・恐ろしい。

世界各国の目は・・・国連の人権委員会の役目?・・・第44回国連人権理事会が6月30日開催され、香港国家安全維持法の賛否が問われた。

中国、北朝鮮、独裁国やアフリカの国々が53票の賛成票で、反対票は英国、EU各国、オーストラリア、日本など17か国、米国は脱退している。

人権を審議するのに、中国やロシア、キューバ、ジンバブエ、サウジアラビア、パキスタンなどが賛成することは無く、形骸化が指摘されている。

・・・その後チェーザレ軍は、イモーラから南東に150km、指導者たちが反旗を翻していた海添いの街セニガッリアに進軍した。

成立した和解交渉を反故にし、アルキメデスの本を貸してくれた友人達がチェ―ザレに絞首刑にされ、街は見せしめに略奪された。

数週間後、レオナルドはチェザーレ軍のシエナ攻略に同行したが、教会の鐘のスケッチと、不和や戦闘などごめんだと書き残している。

これほど野蛮な狂気の沙汰はない、8か月に渡ってチェーザレの軍事顧問を務めていた、・・・軍事力で平定するのに貢献してきたが・・・。

1503年3月、レオナルドはチェザーレのもとを去り、フィレンツに落ち着き銀行口座から預金を引き出しているようです。

1503年4月、一方、ナポリ国を分割支配していたアラゴン軍は、フランス軍と度々紛争を起こしていたが、グラナダ協定を無視して、4月28日勝利する。

1504年1月1日、フランス軍撤退し、ナポリはアラゴン国(スペイン国)の占領下になった。

・・・レオナルドに戻ると軍事顧問に出かける前に、聖アンナと聖母子の実物大の下絵を描いただけのようです。(スケッチは残っていない)

住まいを5部屋提供して頂いた教会の祭壇画を引き受けましたが、(父の顧客でもあった)制作には取り掛からず依頼主を待たせた。

やっと、聖母子と聖アンナの原寸大の下絵が完成しました。これを披露すると、レオナルドは故郷で既に有名人、

大評判の作品をひと目見ようと、二日間にわたり展示部屋はさながら祭りのようだった、とヴァザーリは記録している。

これは、バーリントン・ハウス版と呼ばれる現存する下絵です。

この絵には聖ヨハネは描かれているが、披露した下絵にはヨハネに変わって羊がいたそうです。

こちらは、完成版の聖アンナと聖母子、そしてイエスと子羊・・・2012年にルーブル美術館で修復が終了。

最初に下絵を公開しましたが、その後変更され、色々なバージョンが存在するようです。

一方、ルイ12世の秘書官からの依頼で糸車の聖母を描いていますが、工房チームの作品が40点ほどあるようです。

1507年にフランス宮廷に届いた作品はもちろん大評判になり、従来の退屈な聖母子像と違い、多くの模写が制作された。

糸車の聖母(ランズダウン版)と呼ばれる。

参考にしているウォルター・アイザックソン著に、気になる記述を見つけました。

・・・マキャベリの秘書官で、レオナルドの友人のメモが2005年に見つかった。

古代ローマの哲学者キケロの本で「画家アベレスはヴィーナスの頭部と上半身を精緻に描いたが、体の他の部分は未完成のままにしていた。」

その横に、「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品も全て同じだ。

例えばリザ・デル・ジョコンドの頭部や、聖母マリアの母である聖アンナの絵のように」とあった。

このメモは、1503年10月のものだった。

・・・「モナ・リザ」と「聖アンナ」はこの時点で、途中まで描かれていたのだった。

1503年にイザベラ・デステの依頼を無視して、絹商人で商売繁盛していたジョコンドの後妻リザの肖像画を描き始めたようです。

フェレンツェ地主の貴族の娘リザは15歳で嫁ぎ、二人の子供が誕生していて、24歳になっていた。

ジョコンドはレオナルドの父親の顧客であり、リザは1479年生まれジュリアーノ・デ・メディチと同じ年

メディチ家のジュリアーノからリザの肖像画を依頼されたという説もあるが・・・、

フィレンツェの幼友達同士、ジュリアーノがフェレンツェを追われた時は、リザも未婚で共に15歳に達していなかった。

「モナ・リザ」・・・とは、マドンナ・リザを縮めたもの、あるいはサライの遺産目録では「ラ・ジョコンダ」と記されている。

ポプラ材の画板に油性絵具、素人の説明は必要ないでしょうが・・・ウォルター・アイザックソン著内で、

ヴァザーリが、・・・まつげはこの上なく細やかに表現されている。・・・

口はうっすらと開かれ、その端で唇の赤と顔の肌色が合わさり、絵の具ではなく本物の皮膚でできているようだ。

喉のくぼみをじっと見ていると、脈打つのがわかるような気がする。・・・

この作品は、ジョコンドに納めることもなく、銀行の記録では対価も受け取っていない。

顧客の注文に応えうるための作品ではなく、永遠に残すために着手から16年後に亡くなるまで、完璧を求め見直しを続けていた。

1503年10月、にフィレンツェ共和国政府から、シニューリア宮殿大会議室に壮大な戦争画の依頼を受けた。

下絵通りに仕上がっていれば、「アンギアーリの戦い」は物語絵画の傑作となっていたのでしょうが、・・・未完に終わる。

レオナルドの下絵は残っておらず、ルーベンスが他の模写を1603年に再模写した中央部分が雰囲気を伝えてくれる。

レオナルドの素描には、人物の考察が残っています。

(アンギアーリの戦い 戦士のデッサン ウォルター・アイザックソン著作より)

ラファエロ、フィレンツェに移りレオナルドの作品に深く影響される。

1504年、ミケランジェロ、花の大聖堂に置かれる予定だった「ダビデ像」が完成、28歳だった。

遅れて、ミケランジェロも同じ大会議室の反対側の壁に巨大な壁画の注文を受けた。

ミケランジェロは、他の芸術家には敵愾心を燃やし、親しい友人や弟子は少ない禁欲的なクリスチャンだった。

レオナルドは美男子で、洗練されていて雄弁、ダンディーな装い、無宗教に近く、ミケランジェロは嫉妬し、険悪していた。

ミケランジェロの与えられたテーマは、「カッシーナの戦い」

・・・しかし描いたのは、兵士が川で水浴び中、敵襲を受けて慌てて岸に上がる裸体の兵士たちだった。(裸体、筋肉を描きたい?)

この下絵を見て、他の画家の批判をめったにしないレオナルドが、裸体を優雅さのかけらもない材木のように描いている。

人間の筋肉ではなく束になった大根、体の全ての筋肉をはっきり描きすぎるのは考えものだ。

デイテールにこだわるレオナルドは、素人目に受ける筋肉描写は、人間ではなく「クルミの大袋」と繰り返し表現している。

1505年、ミケランジェロは壁画に取り掛かる前に、ローマ法王ユリウス2世から霊廟制作の命を受けローマに向かった。

レオナルドは、下図のような昇降式の作業台で描き始めましたが、画材の塗料が壁にうまくつかず苦労していました。

1506年4月、ミラノの裁判所に、2枚目の「岩窟の聖母」の報酬未払いを訴えていた件の判断が下された。

この作品はレオナルドの手が十分に加えられてなく不完全であり、ミラノに来て仕上げなければ報酬は支払われない。

5月末、ミラノへの出立をフィレンツェ政府が3か月の約束で渋々認め、壁画は未完のまま残された。

しかし、3ヶ月後戻らず・・・フィレンツエ政府が罰金を課すと要求したが、ルイ12世らの圧力で反故にし、戻ることは無かった。

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