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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

SAPPORO SKIに行こう

2020-02-17 | 旅行記

やっと青空が見えてきた。午後3時頃

中央よりやや右手前、雪山は尻別岳(標高1107m)・・・中央奥に通称:蝦夷富士、羊蹄山(標高1898m)

日本百名山に選定されている・・・蝦夷富士は、ここから北北西に約15㎞くらい

この場所は、どこでしょう

・・・暖冬だった北海道も・・・突然の寒波襲来で・・・雪祭り会場も今朝まで小雪が舞っていた。

札幌駅前、加森ビル横に大型バスが数台以上停車しています・・・70km先のリゾート地へお客さんの無料送迎です。

乗車するには前日までにWebで予約が必要で・・・受付担当者からチェックを受けてAM8:00の出発となりました。

札幌市内、路肩は押し出された残雪で雪の生垣が続いています。

バスは市内を南下し、 国道230号線を進み、定山渓温泉そして中山峠を越えて約1時間

喜茂別ドライブインでトイレ休憩(札幌に帰る際は、途中での休憩はありません)

到着予定はAM9時半、間もなく留寿都村に入り、ルスツリゾートホテル駐車場に到着しました。

ルスツリゾート、正面入ってすぐ右にインフォメーションがあります。

下記の案内図で、入ってきた道路側はGL階、・・・外国人も多く表示は重要です。

更衣室とロッカーは・・・右手を進み、右側の階段の上・・・

持参したスキーセットとシューズ・衣類のバッグを開き・・・

急ぐことも無いので、ゆっくり着替えて、荷物はロッカーへ・・・

軽いストレッチをして・・・スキー板を抱え、向かう先は、イゾラ山頂

・・・インフォメーションでゴンドラ乗り場への行き方を確認し、入口左のリフト券売り場へ

ブーツを履いてゲレンデを歩くよりは、屋内を進むのが楽なので、サウスウイングを進みます。

salomonのショップがあった、ショプに沿って進みエスカレータで上階の 1F に

土産物店の中を進み、更に奥まで進みエレベータ(階段でも)で上階に

右側のゲレンデに出ます

こちらのゲレンデは、ウエスト・・・こちらでは滑らない予定です・・・

今来た右側を見てみると・・・このような建屋の中を進んできて、右下の階段を登ってゲレンデに到着したのでした

ゲレンデ側から振り返って・・・この建物の進行方向・・・右側を見てみると、

この建物の先、離れた所にゴンドラの乗り場が(建屋)が見えます。

この先ゴンドラ乗り場は直ぐですが、ここまで思ったより遠かった。

・・・ゴンドラ乗り場からは、国道をゴンドラで渡り、イースト山麓のスタート地点に向かいます。

自家用車で山麓の駐車場まで行けるようだが、満車になる場合も多く、

この無料のゴンドラを勧めているようでした。

山麓まで、約4㎞位あると思います。

では、ルスツスキー場のゲレンデマップです。

右横の国道から・・・紫のラインが走行の軌跡です。

そして、滑降の記録です。

到着したゴンドラの終点から階段で一旦下り、踊り場からゲレンデに降りる階段と・・・

そのまま進んで山側に再度上る階段がありました。

こちらから・・・有料のイーストゴンドラ2号線(6人乗り)に乗るようです。

・・・しかし、上部に2~3人乗ろうとする人が見えただけだった。・・・ラッキー、空いていた。

6人乗りのゴンドラに1人で乗り込んだ・・・そして10分強でしょうか、山頂に到着

山頂から北側の光景・・・・この状態では・・・無かったのです。

曇天でした。

ゴンドラ乗り場から降りて、右側のイースト第2ペアリフト方向に向かいます。

このリフトに沿って、ゲレンデを滑り降りましょう。

急斜面の手前に、視界が悪い場合に役立つでしょう・・・注意喚起の表示がありました。

画像が広角というか、魚眼レンズに近いので、左手付近が拡大しています。

目的は隣の山に向かうので、尾根の右斜面を進みます。

ショートスキーではないのですが、デフォルメされています。

ゲレンデ中腹から鋭角に右側(黄色の看板 矢印が右)に曲がります。

右に坂道があり谷に向かって下ります。

木立を回り込んで左下方に滑っていきます。

このように左上方から下ってきて、右下のポールが谷の合流地点

ここで回り込み、Z字のように隣の尾根との境に降りてきました。

ここから谷を下り、中央のリフト小屋の方へ進んで行きます。

前方左に見えて来たリフトは、イゾラからイーストに帰る場合に利用しよう。

このイースト第2ペアリフトに乗って、今降りてきたイーストの山頂に戻り、

ゲレンデを滑走して帰りのゴンドラのあるセンターステーション山麓に下ることができます。

このような所を滑ってきました。

前方から別のカメラでの映像です。

・・・右耳の上に取付けているのが、Sonyのアクションカメラ(防水ケース)です。

さて、谷の緩斜面を滑っていくと

待望のイゾラベースステーション(このスキー場、最長のゴンドラ発着場です)が見えてきました。

右側の尾根から降りてくる人々が・・・見えます。

イゾラベースステーションは、1階がレストハウス・・・少し殺風景だったでしょうか。

休憩せず、イゾラゴンドラ(6人乗り)で山頂を目指す・・・ここも一人で乗車、

山頂まで15分くらいかな

・・・左手のストックが不自然でしょう・・・夜鍋して作成した、こんなのを繋いでいました。

2月1日(土曜)夜、コロナウイルスの影響で、札幌雪祭りも観光客大幅減

そうだ!・・・SAPPOROに行こう、ホテルも飛行機も何とかなるだろう

先日購入したGopro MAXという360度撮影できるアクションカメラ、・・・グットタイミング、どのように使うか。

カメラに別売りのシャフトを取付けて離して持つと、自撮りも出来るのですが、・・・

シャフトの先にカメラだとうっかりゲレンデに刺してしまいそうで、伸縮式のストック上部を外し改造したのでした。

2月7日(金曜)深夜1時、完成し、工具ケース(12㎏)を手前に引きずったら左足親指の爪を直撃

悲惨でした、血が滲みだし・・・傷薬を厚めに塗り、ガーゼ・脱脂綿、・・・思い出したくないが・・・

今日は、2月11日です。多少は良くなったでしょう。

指をテーピングして、・・・しかし親指はブーツに当たる、・・・ゴンドラの中でしばしの休憩です。

・・・ここが目的のイゾラ山頂、

ここにはゴンドラの終点以外にリフトが2本、その内の1本が中央に見えている。

スキー板を抱えて山頂を移動します。

頂上部は結構広い、一番東の端まで移動して、ここでスキー板を履く。

こちらの先は、・・・洞爺湖が見える方向と思うが

視界が良くないが、ヘブンリーリッジコースを滑ろう。

イゾラの東端の尾根を滑り、途中で左に降りよう。

不自然に斜めになっている左手のグリップ、その先にカメラシャフト、先端にビデオカメラが付いていたのでした。

動画は山頂から9本くらい滑ったので、撮れ高は1時間くらいあるでしょう。

360度と180度の切り替えができるのですが、360度の映像は特殊で、スマホで簡単ムービが作成できるのですが

画面の小さいスマホで編集するのは気乗りせず、PCで画像編集できるように検討中、

普通の1眼カメラは今回持参しなかったので、動画から静止画をカットして使用しています。

リフトに乗り、再度山頂へ

もちろん、無人のゲートです

ここは山頂ですが、東の尾根を少し下ったところに上がってくる第4のリフトもあります。

今回はこのリフトには乗りませんでした。

スタート地点前、横になって休憩、ボーダー達に良くみられる光景です。

気温が低いのでスマホの古いバッテリーは直ぐに無くなり、走行した位置情報は記録できなくなっていた。

Gopro MAXのバッテリーも交換が必要となり

予備バッテリーに交換、・・・人間も下った先のカフェテリアで休憩しよう。

ゲレンデは幅が広く、雄大なのは・・・さすが北海道・・・

・・・かつて、ゴルフコンペのために札幌、苫小牧、富良野などに毎年10年くらい来道しました。

フェアウェーは広く、グリーン周りも広く、休憩せず1ラウンドを回るスタイル、最初は戸惑ましたが・・・

キタキツネが顔を出す夏の北海道がなつかしく思い出されます。

スティムポートAコースを滑ってみよう

中腹くらいまで下ってきたら、グループの一段と出会った

この先、左カーブそして、急斜面

そろそろ コースも終盤

リフト乗り場が見えて来た・

ここを左に回り込とカフェテリア「スティームボート」です。


 
ここがイゾラ山の中央部です。

リフトで栄養補給のゼリーを何本か捕ったので、カウンターで軽食休憩

天候が回復したきたようで西隣の尾根の麓、イゾラベースステーションに滑り降りてみよう。

再度イゾラの山頂に向かいます、

途中の尾根から谷に降りる斜面は、このようなこぶのコースがあります。

イゾラの山頂、羊蹄山と尻別岳が出会うパワースポット「出会いの鐘」を鳴らす人達です。

雲の流れが速い、時々厚い雲がやってくる

こちらのローカルルールでは、一部の進入禁止ゾーン以外は、すべて滑走可能。

林間部、沢などゲレンデ外を滑走しても、問題は無し。

但し積雪が少ない場所は、滑走危険の表示があったように思う・・・。

怪我などで救助の要請が発生した場合は、全額自己負担のこと、もちろんでしょう。

 尾根から途中で谷に降りる斜面を滑りましょう

このような・・・こぶが続いています。

谷側から振り返ると・・・こんな感じ

山麓のイゾラ2000、少し殺風景なカフェテリア1Fで休憩

階段で2Fに上がり、最長のゴンドラでイゾラの山頂に戻ります

天候が回復して・・・このような眺望です

南南西、中央太陽の下に・・・洞爺湖が見えます。

下の画像は、東の方120度くらいのパノラマ画像、遠くに支笏湖などが

そして次の画像は、

北北西方向に羊蹄山と右手前に尻別岳が見えます

 ・・・隣のイースト山に戻るために、東の尾根の中腹から谷に降りよう。

このような晴天に恵まれて、最高のルスツとなりました。

斜面を下り

このリフト付近に滑り降りてきた。

このリフトはイースト山の第2ペアリフト

これで山頂に戻り、滑走して帰りのゴンドラ駅まで

ここから無料のゴンドラに乗り、ルスツリゾートホテルに戻ります。

スキー道具と、バッグ・ブーツ類を宅急便で送り

PM5:00のバスで札幌市内に戻ると、時刻は6時45分・・・駅前に到着。

札幌市内も雪祭り最終日、天候が回復したようです。

雪不足から、寒波襲来・・・コロナの影響で来場客が少なかった。

最終日に天候回復・・・終わり良ければ総て良し・・・では再度会場に行きましょう。

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台湾 蔡英文さん勝利

2020-01-17 | 旅行記

台湾、・・・羽田から3時間半、日本語が通じる国として多くの企業が早くから進出してきました。

(台北101 展望デッキから)

日本が70年前まで占領していた国・・・そして義務教育として、日本語を教えていました。

・・・日清戦争の結果、1895年清朝より下関条約によって台湾が日本に割譲され

・・・台湾各地に道路・鉄道・学校・・・多くのインフラが整備されました

このような建物や

 各種建築物などなど

もちろん、台湾はよその国でした。

他民族が暮らしていましたがローマ帝国同様、侵略・領土拡張、資源の入手、統治に反発もあるでしょう。

人口は、約600万人、そこに日本の軍人・民間人・・・次々と移り

上記は、1920年の台湾、人口は、1941年でしょうか?

日本人:40万人、台湾人613万人、原住民16万人、総人口は、654万人とあります

これらのパネルは、台北:西本願寺広場の道路に面して壁面にデイスプレイしてあります。

このように

2004年にライオンズクラブが台湾の歴史として作成された物のようです。

日本語 教育学校などもあります

それから、半世紀・・・50年後に起こったことが

日本が連合国に敗戦、・・・その結果、中国大陸では反日抗争の中華民国が戦勝国側となります。

蒋介石の中華民国・南京国民政府軍が・・・台湾に上陸し、日本軍の降伏式典後、台湾を統治し始めた。

・・・台湾では現地の人々が、流れ込んだ中華民国軍を歓迎したが、

日本統治時代よりも傲慢で、腐敗した同胞連中に失望し、1947年2月28日、ニ・ニ八事件が起きます。

さらにその後、中華民国政府(中国国民党)は中国本土内で毛沢東の共産党との内戦に敗北し、

南京国民政府と敗残兵を引き連れ、中国本土から・・・台湾に逃げ込んだ。

・・・映画にもなったように、台湾では、「犬が去って、豚が来た」と・・・

1949年、中国本土に中華人民共和国が誕生し、・・・台湾の主権を主張し始めた。

中国本土(中華人民共和国政府)は、中国は台湾も含め一つと主張し、

台湾(中華民国)も中国は一つだとしながら、共に相手を認めないで状態で推移したが・・・

台湾に日本語教育をした日本国は、朝鮮戦争後・・・東西冷戦状態となり

1952年日華平和条約が締結され、台湾(中華民国)を承認します。

国交断絶状態だった中華人民共和国とは、日中友好・民間貿易が続いていた。

・・・英国は香港を植民地としていたので、1950年に前年建国した中華人民共和国を承認しています。

中華人民共和国は、1964年にフランス、1970年、カナダ、次いでイタリアと国交を結び、次は・・・アメリカと交渉・・・。

・・・1971年に中華人民共和国側が、国連・国際機関から台湾(中華民国)を締め出すことに成功します。

そのような情勢の中、事前交渉があり中国政府の招待という形で、田中角栄首相が北京を訪問し

1972年9月29日、日中国交正常化の共同声明が発表されました。

中華人民共和国(本土)と中華民国(台湾)は共に、他国による二重承認を認めないので、・・・

1972年9月30日、日本は台湾との国交を終了(日本国内で論争はあったが)と発表した・・・民間貿易は黙認されます。

それから四半世紀、

1997年7月1日、香港の主権を、英国は中華人民共和国に返還しました。

・・・香港、夜景が有名な観光地と雑貨の貿易立国のイメージがありました。

探せばどこかに、画像が・・・、DOS-VのPCだったでしょうか・・・見つからない。

返還前は夜の一人歩きも安全でしたが、返還後は中国本土からの人々が流入し、貧富の差が顕著になり治安が乱れました。

携帯電話の強奪に注意するように(携帯電話は当時高額で売買された)などの情報が流れた時代でした。

さて、その後台湾は目覚ましい発展を遂げ、台湾の企業は同胞の中国大陸に進出します。

・・・中国共産党政権は香港の北隣の地区、中国本土の深圳を経済特区として優遇します。

そうでした、2007年、中国工場(台湾が本社の企業)に発注した製品が完成し、量産品の立会いに行きました

当時は、日本企業が続々と海外に製造工場を移し始めた時代です。

人件費は安い・・・しかし、停電が頻発し、自家発電設備を備えた工場にしないと、安心して物は作れない。

ところが賄賂天国、・・・役人に賄賂を渡さないと、増築も設備も更新できない。

・・・品質は、全数検査をして、良品を輸入したつもりだが、不良品が多く・・・2年後再訪問、

結果、多少改善されたが、追加発注は断念、・・・約10年間、修理に追われた。

戦後の日本もそうだったのでしょう

・・・部品の素材、品質のバラツキ、加工・組み立ての力量・・・日本人の指導力、難問山積でした。

親日的で大変ありがたい台湾の方々、御礼申し上げます。

世界の注目を集めた先般の台湾総統選挙、・・・中国の強硬姿勢、香港デモ鎮圧の映像、選挙に影響したでしょう。

台湾の総人口は約2300万人、得票された方の内57%の約820万票を獲得して・・・

民進党の蔡英文さんが台湾総統に再選されました。

党は台湾独立を掲げ(今は、現状維持のようです)、一つの中国を受け入れてはいないようです。

・・・一方の現在の中華人民共和国も転機を迎えているようです

賄賂天国は粛清されてきているようですが、貧富の差が拡大し、

一人っ子政策を廃止しても、14億人をピークに人口減に入ったようです

建国後70年です。

先進国の技術輸入と合弁企業で力をつけ、安い人件費で輸出する時代は終わりました。

国民のスモッグなどからの健康被害対策や、食の安全にコストもかかるでしょう。

さらに、わがままな一人っ子が親になり・・・どうなるのでしょう

この先中国は、国際情報(インターネット)を壁で遮り続け、国民を抑え続けるのは難しいでしょう。

この対策でしょうか、監視カメラや購買記録などから、国民の大半の個人情報が収集されているようです。

5Gの時代到来は、個人情報が蓄積する結果、危うい一面を持っています。

意識的に偽情報を散りばめて自動発散するソフトを開発中!

そんな対抗処置を考える人・・・台湾、中国、インドの優秀な方・・・期待しております。

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令和2年正月

2020-01-03 | 旅行記

正月二日、北鎌倉に私用で出かけ、日が暮れる前に鶴岡八幡宮にお参りをしようと出かけた。

途中で、そうだ、正月は特別に車両規制があるだろうとスマホを・・・。

北鎌倉から鎌倉方面はPM5:00まで三が日は通行禁止、大船から長谷寺方面も途中で通行禁止

銭洗弁天・・・丘越えも通行禁止、・・・でしょうね。

普段の週末でも、一本道は渋滞するのですから、・・・北鎌倉の周辺で駐車場に車を入れ電車で鎌倉へ。

鎌倉駅前から小町通り・・・案の定すごい人混み・・・若宮大路に出る。

二の鳥居前で、パフォーマンス集団が

獅子舞を脱ぎ捨てると、ヒョットコが現れ・・・

二の鳥居です

両側の車道も車両は通行禁止で、自転車も禁止の歩行者専用です。

500mも参道を進むと突き当り八幡宮前交差点。

この先、三の鳥居です。

ちなみに、一の鳥居は、二の鳥居より海側に約800m位先にあります。

鎌倉警察の警察官から、参拝の注意事項が途切れなく流れてきます。

境内に入ります。

参道の左右に屋台も出ているのですが、参道には横幅20m弱でしょうか行列ができています。

少し進むと左右にロープが張られていて、追い込み漁に掛かった魚のようです。

前に進めなくなり、前方からロープ規制の説明があり・・・前に詰めてと促される。

やがて、ロープ規制が解除との声、従順な羊の群れは、駆け足をせずユックリ前に集団で進むと

何メートル進んだか?30秒か1分か・・・参道に左右から張られたロープが降りてきてストップ。

数分待って少し前進、これの繰り返しが10回くらいか

舞殿(下拝殿)を左から回り込み、本殿の石段下に・・・やっと到着

階段左が以前倒壊した大銀杏、新芽がどのくらい成長したのか気になったが・・・予想より細木だった。

前の参拝者グループが階段の上段から姿が見えなくなると・・・ロープが上がり

三が日の参拝は大変ですが、マア、列幅が広いので比較的スムーズな流れと思います。

61段の階段を登ると、八幡宮の額が掲げられた楼門が待っています。

八幡宮の八は、鳩が向かい合っている・・・八幡神の使いが鳩なので・・・ということのようです。

・・・本宮拝殿から振り返ってみましょう

参拝が済んだら左右にある帰路を進む一方通行となります。

新春の穏やかな参拝風景でした。

良き年となりますように。

 

 

 

 

 

 

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ミケランジェロとユリウス2世

2019-12-27 | 旅行記

イタリア半島で1500年前後の時期は、調べれば調べるほど面白い、イヤ、興味が尽きない、・・・イベリア半島も若干興味があるが・・・。

日本の大河ドラマに次々と登場する戦国時代の主人公と同じく、この時代の登場人物は、自己主張が強かったのでしょうか。

教皇の領土内で、治世に反旗を翻した連中には武力で制圧する、その強力な教皇軍のトップとして活躍したチェーザレ・ボルジアや、・・・

アレクサンデル6世教皇の次(在位1か月弱)の次、1503年即位したユリウス2世も、白馬にまたがり出陣しています。

・・・ここは、ミケランジェロのローマでの話でした。

1506年1月14日、ローマ コロッセオの近くのブドウ畑で農作業の夫婦によって発見されたお宝は、教皇の耳にも届きました。

前年ローマにやってきたミケランジェロは、早速現場に向かい、発掘に立ち会っているようです。

ヴァチカンガイドによると、発掘現場は七つの部屋とありますが、・・・地下に埋もれていた宮殿の部屋でしょう)

発掘され修復された像がラオコーン像と判ったのは、ローマ帝国時代の「博物誌」の中でラオコーン像がティトゥス帝の宮殿にあったと記してあり、確認されました。

ローマでは多くの実力者が古代のお宝を手に入れようとするが、ユリウス2世は、1506年3月23日に勅令をもってこの像を購入し、バチカンに移させたとあります。

・・・原色世界の美術 第4巻 小学館発行、昭和44年7月30日初版、昭和49年11月30日初版第3刷発行の「ヴァチカン美術館」に掲載されていた画像です。

今日ではこのポーズですが、発掘された当時は、ラオコーンの右腕の先は見つからなかったようです。

左右の息子たちの腕や手も破損していて見つらなかったようです。

そこで、ラオコーンの物語は書物などで伝えられており(トロイの木馬に登場するトロイの神官が、海蛇に・・・)右腕を復元しようとなったようです。

そこで、教皇はラファエロやミケランジェロらを集め右腕がどのようだったか考察させ・・・結局、下図のように伸ばした状態で修復されました。

原色世界の美術 第11巻 小学館発行、昭和44年7月30日初版 (ギリシャ彫刻の流れ)に掲載されていた。

 

ところが・・・近年、1906年に大理石の右腕、破片がローマで発見された。

考古学者で美術商の発見者が、ラオコーンに似ているとヴァチカン美術館に持ち込むが・・・何故か、放置され続けた。

数十年後、展示しているラオコーン像と同一の物と鑑定され、1957~1960年にかけて修復されますが、

発見された右腕は・・・当時ミケランジェロが主張したような・・・曲がった状態だった。

こちらの方が苦悩の表情が強調されていませんか?

・・・ミケランジェロは、10代の時にプラトンアカデミーで多少学んでいたとはいえ、・・・

このような精緻で写実的な作品を彫る人物が・・・神話の時代ともいえるローマ帝国時代以前にギリシャに存在していた。

1000年以上も昔の人たちの技能が素晴らしく、ショックだったでしょう。

複雑にひねられた3体と海蛇の曲線、素人目にもダイナミックな表現です、苦悩、失神、恐怖の表情・・・超一流の芸術品です。

多分写実的に彫像を彫り上げる技能には限度があり、感動を与える芸術作品とは何か・・・悩んだでしょね。

・・・今日では多くの美術館で紀元前の作品に出合うことができます。

ミロのビーナスやニケ(NIKE)以外にもたくさん発見されています。

紀元前380~370年頃 大理石、高さ126cm 女主人と侍女

原色世界の美術 No.11 ギリシャ 小学館 昭和44年 

両者の視線、表情・・・構図も・・・2000年も昔の作品?

こちらは、紀元前100年頃、大理石、高さ132㎝

右側の者は?・・・獣神パン(PAN)、左が主人公APHRDITE(アフロディテ)

こちらは、有名なポーズです。円盤投げ

紀元前5世紀、大理石、高さ173cm 作者Myron ローマ帝国時代の模刻とされます。

この作者Myronも、発掘されたラオコーンを制作したと伝えられる3人も模刻製作の有名人でした。

芸術家は絵画も彫刻も模写、模刻から始まります。

ローマ帝国時代には、優秀な模刻は邸宅などに飾られていました。

このラオコーン像もオリジナルか、模刻か・・・結論は出ていないようです。

そんな状況の中、彫刻の仕事を中断し、天井画を描けと教皇から命令され・・・自分は彫刻家ですと辞退する。

天井画はラファエロに依頼して下さいと申し上げたが、許されなかった。

1508年から1512年まで、システーナ礼拝堂の天井に張り付くことになりました。

1510年9月、天井の半分が完成(入口から原罪の図まで)

1511年8月14日、作品を見たくてたまらなかったユリウス2世は足場を取り払わせた。

多くの枢機卿が裸体の天井画に驚き、・・・非難、罵声・・・しかし教皇はミケランジェロを擁護した。

1512年10月に出来上がり、11月1日にユリウス2世は荘厳ミサで完成を祝った。

元教皇の甥は、フランシスコ修道院で学び28歳で枢機卿、59歳で教皇になり、念願の天井が完成から数か月後・・・

1513年2月21日、ミケランジェロの霊廟が完成する前に69歳で病死、

多くのギリシャ、ローマ帝国時代の作品をヴァチカン美術館に残した芸術好きの教皇でした。 

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ルネッサンス時代のローマ

2019-12-21 | 旅行記

永遠の都 ローマ、

・・・1500年頃の人口は約5.5万人、フィレンツエが7万人、ミラノ、ヴェネツィア、パリが10万人、ナポリが15万人。

この当時ローマは、イヤ、ローマ教皇はユダヤ人も驚くビジネスを開拓していました。

西暦1300年、当時の教皇がこの年を最初の聖年と定めたそうです。

この先、聖年行事を100年ごとに行うことも決めました。

聖年とは、この期間にローマに巡礼すると、教皇から特別な赦しを与えられる特別な期間とされた。

その後、それぞれの教皇が間隔を、50年や33年などに変更し、現在は・・・25年間隔が多いようです。

この聖年を実施したことにより、教皇庁やローマはヨーロッパ各地から多くの巡礼者が訪れ財政的に潤いました。

次々に押し寄せる旅行者に、ローマの街はにわか食堂や民宿が乱立したことでしょう。

7泊8日の安全な旅行という時代でもなかったでしょうが、十字軍や巡礼が続いたことで徐々に旅行者が増え、

各地都市情報も飛びかうようになってきます。

・・・そこで教皇は、はるばるやってくる信者に、ローマの街と教会を魅力ある観光資産にしようと考えます。

聖書や預言者の神話を、絵画や彫刻で偶像化して、・・・教皇の霊廟も立派なものを造り・・・教会の改築に走り出します。

歴代の教皇や枢機卿は優秀な知恵のある人物が多く、各地から建築家・芸術家がローマに呼ばれます。

・・・しかし、ミケランジェロは、「ピエタ」制作後、サヴォナローラ亡き後の1501年5月フィレンツエに戻っています。

1501年8月に花の大聖堂に飾る巨人像を造る契約をし、・・・1504年に完成したのが巨大な「ダビデ像」

壁面で、高い場所に設置の予定だったのでしょう、正面下からの視線を重視しているようです。

前任者から引き継いだ大理石の材質が緻密でなく、風雨での劣化を避けるために屋内に設置と一旦まとまったが、

・・・設置場所については色んな説がありますが、大聖堂ではなく、・・・

・・・屋外のこの広場に置かれた。(現在置かれているのは、レプリカ)

1505年、ミケランジェロはヴェッキオ宮殿の壁画(カッシナの戦い)制作中に、ローマ教皇ユリウス2世に呼ばれ、再びローマに行くことになります。

ローマで教皇から言いつけられたのが、教皇の霊廟制作で、・・・ミケランジェロは、ブラマンテなどから嫉妬されたようです。

当初の霊廟の構想、40体の彫像計画は紆余曲折、・・・1545年に規模を縮小して完成。

・・・気が付くのが遅れましたが、聖ドミニコ信徒会修練3期目の方からコメントを頂いておりました。

ありがとうございました。

聖ドミニコ会というと・・・、修道院・食堂・・・最後の晩餐 ミラノの

この食堂の壁画が、思い出されました。

・・・「シエナの聖カタリナは、一般信徒として、聖ドミニコの霊性・生き方に倣って、通常の営みの中で、

祈りながら社会生活ならびに信仰生活を送る会です。」以下略・・・。

確か、両親は反対されたが断食・禁欲など厳しい修行をされ、キリストとの幻視体験をされたようです。

このような幻視体験は、他にも有名な話しが数多く伝えられています。

・・ヴィットーリアーのコロナール礼拝堂内、聖女テレサのエクスタシー、この作品はベルナールの有名な作品。

また、福者となったルドヴィーカ・アルベルト―ニ(1533年没)の像も下町の教会にあります。

この作品もベルニーニ晩年の作品で、今回のローマ訪問でぜひ訪れたいと・・・後程、(未整理のため)。

・・・終生を弱者に奉仕する・・・そのような崇高な目的は、なかなか思いつきません、・・・ウーン。

弱者がいれば、強者がいる、・・・強者とは何?・・・動かせるマネーの量の大小が、判断基準とするならば、

結果、それを富とするならば、・・・世界の富の1/3をユダヤ人の一部が吸い上げています。

しかし、幸福を尺度にすれば、マネーの量に一喜一憂する人生を味わうことなく、過ごすのが一番です。

ユダヤ人は、頭脳・知恵の使い方が優秀で、(長く悲惨が続いた時代にも)マネーは大切と教育を受けているようです。

一方、大航海時代以降、全世界に布教したキリスト教は、領土拡大と信者拡大で・・・信者は多民族となり、弱者も多い。

ヤハウェ(神)が選んだとされるユダヤ人、少し遅れてユダヤ教イエス派から人種を問わず布教されたキリスト教、中世に誕生したイスラム教。

ヨーロッパは、キリスト教を学ばないと理解ができない・・・そこで気が付いたのは、・・・宗教の力でした。

宗教戦争の時代と言われています。

私は、世界に影響力のある上記三大宗教が(一神教で)他宗教を邪教と敵対視されないことを切に望みます。

カトリック総本山、クリスマスの風景です。

そして、純真な素敵な方でしょう、聖ドミニコ信徒会の方、・・・マザー・テレサさんのように、・・・期待します

判断を神にゆだねることなく、悩み苦しみ自分で考え、周囲に相談し、自分で判断しましょう。

無理な断食など、現代では無いでしょうね。

・・・勉強不足で、神の世界がどのようなものか、想像力が不足しています。

多分頭が、ユダヤ教の原罪を否定しているので、脳が受け付けないのでしょうと楽天的に思っています。

悪しからず。

Merry Christmas

 

 

 

 

 

 

 

 

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ローマはベルニーニのためにつくられた

2019-12-05 | 旅行記

ローマ教皇とは・・・政府や外務省はローマ法王と呼んでいたので、日本のマスコミも法王でこれまで統一されていた。

・・・2013年、ヴァチカン市国(ローマ)のシステーナ礼拝堂でコンクラーベが行われ

カトリック教の第266代教皇に、ヨーロッパ出身ではなく、南米のブエノスアイレス大司教が選ばれた。

その方は、フランシスコと改名され、先日(11月23日から3日間)来日され、多くのニュースで取り上げられていました。

今回の訪日に合わせ政府、外務省は法王から教皇に名称変更をしましたが、理由はカトリック関係者は教皇と呼ぶのが一般的なのでとのこと。

82歳の教皇は、キリスト教の教えは弱者に寄りそう・・・そこに原点があると訴えていたように思いましたが・・・。

・・・日が暮れるのが早い。もう師走になりました。

ここ数年、この時期はイルミネーションに注目が集まりLEDの電球数が競われていました。

今年の相模湖は、関東最大600万球とか・・・大騒ぎ・・・今年は多少落ち着いてきたでしょうか。

上の画像は、最近見つけた過去のデータから・・・箱根・ガラスの森美術館内、クリスタルのツリーです。

・・・PCの外部記憶装置のトラブル以降、記憶装置の整理をし始めたが、・・・終わりが見えない。

中身を確認もしていない動画も数多くあり、・・・多分撮影が目的で、編集は時間があるとき・・・、優先順位が低かったようです。

未確認の画像が多く、気になる動画を一か月近く編集してみたが、・・・DVDに焼いたのは数枚程度・・・。

動画編集は時間が掛かる、なかなか進まない状況は結構ストレスとなってきた。

・・・さて、イタリア旅行のローマ編、これも中断のまま、・・・奥が深くて、なかなか進まない。

帰ってきた当時は、ほかの都市、・・・エルサレム、ギリシャ、エジプト・・・に関心が移ったが、・・・

画像の整理をし始めると・・・やはりローマは別格、街中が美術館・そして劇場なのです。

・・・東京23区内に住んでいて、都心部と下町を何十年も走っていたが、

他人にどの位観光ガイドができるのかと考えてみると、自分の知識の少なさに驚きます。

・・・この江戸東京よりはるかに狭いローマの街、・・・ローマ帝国時代の遺産が残り、世界最大の宗教国家があり、

16世紀にルターの宗教戦争で・・・教皇がこのローマを芸術の都に造り上げた。

中身が濃すぎるこのローマは、簡単には説明が出来そうもない。

・・・永遠の都・・・今日でも魅力の街、ローマ劇場を完成させた人物が、12月7日が誕生日のこの人です。

ナポリ生まれ、数多くのエピソードが残る天才 Gian Lorenzo Bernini ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、1598年12月7日生まれ

・・・青年時代の肖像画の方が良く知られているでしょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチが、名カメラマンとして、背景にも意味を持たせ、平面に三次元の空間を描写した達人ならば、

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、ローマの街中を歩き回れる舞台として、感動の一瞬を静止させたリアルな3D彫刻を建造物に配置した都市空間芸術の達人です。

・・・ローマの復興に貢献した最初の人が、Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni(略、ミケランジェロ・ブオナローティ) 1475年3月6日生まれ

時を同じくして、Raffaello Sanzio ラファエロ・サンティ 1483年4月6日生まれ、も教皇に呼ばれ才能を発揮します。

彼らがルネッサンスと後に呼ばれる時代、ローマ教皇に呼ばれてこの地にやってきた当時、この街はどんな様子だったでしょう。

上図は、(画家名忘れてしまったが)想像で描いた鳥観図、1450年頃と思われる。この絵は相当以前のことで、調査中。

ピンクに彩色した部分が聖ペトロ聖堂、東が正面、西に向かって長い聖堂は、コンスタンティヌス帝が建てた大聖堂。

西側の奥は、コンスタンティヌス帝以前の墓地、(参考にしているのが、ヴァチカン・ガイド 美術館と市国)

左にオベリスクが見えるが、ここはカリグラとネロ(共に有名な皇帝)の競技場があった所です。

ヴァチカンは異教徒に襲撃されたりしたので9世紀に城壁で囲まれました

この聖堂を取り壊し、1506年から聖堂の建て替えが始まり(教皇はブラマンテに指示し2000人体制で開始されたが)

この時期、武闘派教皇は教皇領の奪還に度々戦争に出かけ、人手は必要だったのでしょうが、ヴァチカンを豪華にする必要もあり

・・・何度も中断しながら120年後、1626年に完成したとされています。

但し、現在のような広場や列柱は無く、その後・・・1667年ベルニーニが見事な広場を持つ聖堂として完成させました。

現在目にするのはベルニーニのプランとは若干異なりますが・・・広場の入口を開放しその先を大通りに改造したのは、独裁者と呼ばれたムッソリーニ。

・・・振り返ると、・・・ローマの都市は、繁栄と衰退の繰り返し、少し整理してみると

紀元前1500年頃には、七つの丘付近では農民や羊飼いの人々の生活があったと言われています。

紀元前753年、パラティーノの丘にローマ国を建設、

紀元前509年、王政から共和制に・・・主権者は、S・P・Q・R(元老院とローマ市民)、この体制が500年続く。

(ローマ文明博物館より)

紀元前27年、暗殺されたカエサルを継いだ養子のオクタヴィアヌスが「私はローマをレンガの町として引継ぎ、大理石の都として残すのだ」と自慢したという。

オクタヴィアヌスは、アウグストゥス「神聖にして冒しがたき人」の称号を受けて、ローマ初代皇帝となります。

(ローマ文明博物館より)

コロッセオや競技場が続々と造られます。まさにローマ帝国時代、領土は拡大を続け、戦利品や食料が流れ込んできます。

この皇帝の時代に、ナザレでイエスが生まれますが、生誕年は諸説あるようです。

・・・起源410年8月24日、西ゴート族によるローマ略奪を受ける。

水道橋も破壊され、475年西ローマ帝国は消滅、・・・その後ローマの人口は、5万人程度までしか回復しなかったと言われています。

(ローマ文明博物館より)

中世の6~7世紀頃は、ローマ教皇が修道士を各地に派遣し、「三位一体論」「神の国」の理論武装で布教に邁進します。

この頃、中央アジアでイスラム教が成立し、武闘派が勢力拡大し、地中海沿岸から8世紀にはスペイン半島が支配下になります。

教皇が800年にカール大帝に皇帝の冠を与え、・・・以後落ち着いたローマでは、水道橋の補修や教会建築が続きます。

846年イスラム軍の略奪を受けます。

教皇はこの後、聖ペトロ聖堂の周りに城壁を造り、これが今日残っています。

教皇と皇帝の争いもありました。

1077年、カノッサの屈辱で・・・破門を解いてもらった屈辱のハインリッヒ4世は、反撃に出てローマを襲う。

1084年ローマを占拠し、対立する教皇を選出させ、この教皇によって神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。

本来の教皇はサンタンジェロ城にこもり、シチリア王に援軍を要請。

ところが、教皇救援としてローマ入りしたノルマン・イスラム混成部隊は、市内で略奪に走り、あげく街に火をかけた。

ローマは度々略奪されるが、略奪の対象は高層アパートに住む一般市民や商店ではなく、各国の枢機卿が住む豪華な宮殿を狙ったのでしょうか。

1300年、聖年祭とやらにダンテがローマを訪れ、聖職者が任を忘れて金もうけに走っているのは許せぬ!・・・そして「神曲」を著している。

聖年祭とは、時の教皇が考え出した安息年とやら、ローマを訪れる巡礼者は、神の特別の赦しが与えられると宣伝したので、お布施を持った巡礼者が続々と・・・。

更に、この教皇は聖界・俗界、両界の最高権力者と豪語し、・・・各国が怒り、中でフランス王が刺客を差し向けて・・・教皇、難は逃れたが やがて病死する。

この後、1309年からフランス人教皇クレメンス5世が教皇庁を南フランス(アヴィニョン)に移し・・・ローマは教皇不在に。

ローマは盗賊が増え、治安は乱れ、・・・人口は3万人以下になる。

・・・70年も経過して、ローマに教皇が帰還するよう・・・説得に派遣されたのが、教皇に帰還をと文通していたカテリーナ(修道女)でした。

シエナ生まれの彼女が眠る、シエナのサン・ドメニコ教会です。

アヴィニョンで、教皇は心を動かされ、ローマの元教皇庁も気になり、1377年ローマへ戻ります。

しかし、教皇は間もなく亡くなり、カテリーナはローマに呼ばれ、後継教皇で枢機卿たちの調停に失敗、3年後ローマで急死。

カテリーナの遺体はシエナに運びたいが検問があり、全ては難しく頭部だけ戻ってきた伝説が残り、・・・展示されています。

サン・ドメニコ協会、カテリーナの展示室

さてコンクラーベで後継の教皇は決まらず、分裂、以後40年間、1417年まで3人の教皇時代などで混乱しています。

1417年にローマ人の教皇に統一され、新教皇は1420年ローマに戻った。

この当時、ナポリ国は最大の都であり、ローマの人口は、フィレンツエより1万人も少なかった。

1450年、待望の聖年祭を催した結果・・・北ヨーロッパから10万人もの巡礼者が押し寄せてきて、・・・経済効果は莫大で潤った。

当時教皇は、ラテラーノ家からローマ市内のラテラーノ宮殿を教会に寄進されていて、教皇の邸宅として使用していた。

コロッセオから東に1㎞くらいでしょうか。

(グーグルの画像を借用)ラテラーノ広場とオベリスク、奥にラテラーノ大聖堂があります。

・・・テヴェレ川を渡った人里離れた市街にあるヴァチカンは、埋葬に使われる聖堂だった。

ヴァチカンで儀式に出席する際、一時的な宿泊施設がありましたが、徐々にヴァチカン内に立派な宮殿が建立されます。

1452年415日 トスカーナ州ヴィンチ村でレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれます。

1453年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルがトルコによって陥落。

・・・礼拝堂(後にシステーナ礼拝堂と呼ばれる)が建設されました。

教皇はペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、シニョレッリ、ピントゥリッキオらを呼び、

礼拝堂の壁にモーゼとキリストの物語を描かせた。

1489年・・・フィレンツェでは、ミケランジェロが前年弟子入りした工房の推薦で、フィレンツェのメディチ家主催の「プラトンアカデミー」に参加しています。

14歳で、アカデミー参加者の彫刻家ジョパンニから古代ローマ時代の彫刻情報や、技術も学んだことでしょう。

少年時代にこのような環境で生活し自信過剰になったのか、15歳で年上の彫刻家に鼻を折られ、曲がってしまった。

1492年アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父)が教皇となった。フランスがイタリア進出の動き

1494年メディチ家はフィレンツェを追放され、ドメニコ派のサン・マルコ修道院院長、サボナローラが花の大聖堂で説教をしていた。

1495年、20歳のミケランジェロ、仕事がなくなり、キューピットの彫刻を彫り古代風に処理し友人がローマの枢機卿に高値で売りつけたが、偽物とばれた。

1496年 ローマの枢機卿から彫刻の技術を買われ、ミケランジェロがローマに招かれ、「バッカス」の制作を依頼された。

完成したバッカス(豊穣とブドウ酒の神)は裸だったので? 引き取りを断られ、今日、フィレンツェの美術館にあります。

1497年、教皇庁のフランス人枢機卿から自分の墓のために「ピエタ」の制作依頼を受けます。

完成に2年、高さ1.75m 完成したピエタは、間もなく亡くなった枢機卿の墓に置かれていた(聖・ペトロの近くにある礼拝堂内)

このピエタが、サン・ピエトロ大聖堂に移り、今日 防弾ガラスで保護されています。

1498年、フィレンツェで、サボナローラがシニョーリア広場で火あぶりの刑になる。

1500年の聖年祭の前年、ブラマンテがローマを訪れ、古代遺跡の調査をしています。

 今日では発掘が進んでいますが、16世紀初めこれらが土で埋められ・・・表層はブドウ畑、そこからラオコーン像が発見された。

(バチカン美術館)

1505年 ミケランジェロは、フィレンツェに戻ってダビデの像を完成させ・・・また教皇に呼ばれ、ローマに戻って来ました。

ラオコーン像が破損した状態で発見された・・・衝撃的な出会いだったと思います。

その2年後、ラファイロは、ローマ帝国時代の黄金の館が土の中から発見され、屋根に穴をあけてロープで内部に入り

見事な壁画類に接しています。

・・・ローマ帝国時代・・・1500年前の天井画作品です。感動したでしょう。

(グーグルより)

(グーグルより)

教皇はカトリック教が危機にあった時代、このローマにヨーロッパ各地から巡礼者を呼び寄せるには何が必要か、よくご存じでした。

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夏の終わりに

2019-09-30 | 旅行記

夏の終わりに、出かけた先が・・・

Atami Ginza 花の金曜日・・・昔は、そう呼ばれていたが・・・もちろん浴衣の観光客は見かけない。

9月27日金曜日 PM6時過ぎ・・・、沖縄だったら、涼しくなるこの時間から深夜まで賑やかなのに。

メインストリートが、・・・半数以上シャッターが降りている。

・・・しかし、街路灯は明るく照らしているので、不安になる程ではないが・・・

人通りが無い・・・路地裏も、商店主の暗い気分がつたわって来るのが寂しい。

どこかに人だかりが・・・一回りしてみたが・・・無かった。

バス停の女子学生に、スーパーマーケットは近くにないですか?

・・・業務スーパーを教えて頂き、寄ってみるが、道の駅と違い、地場の物は少なかった。

PM7時、食事の時間だ・・・帰ることにしよう。

熱海港の夜景です。

さらに左の斜面にJRの熱海駅があり・・・ホテルが並び、海岸通りの光景です。

神戸の夜景に比べると・・・、こちらは街の広がりが無く、狭い湾なので、身近な生活感が感じられます。

・・・今年の夏は酷暑が続き、これからという9月の中旬、2週に渡り台風の接近で観光地は商売にならず、

最後の夏、この週末はもう少し元気かと思っていたが・・・残念

熱海では、花火が9/29日曜日に振替となっていたので、もうすぐ人通りが多くなるでしょう。

夜景を見ながら露店風呂で・・・癒しの時間

・・・・・

朝日を浴びましょう。

AM5:30 仕事に出かけよう

しかし、ベランダで、・・・今日もあまり期待できない予感

堤防が呼んでいるのか、いないのか・・・それが問題だ

アレコレ考えていると・・・すっかり明るくなってしまった。

今日も暑くなりそうだ・・・

太陽が昇ってきた、出かけよう・・・朝マズメ

・・・目指した堤防は、土曜の朝でラッシュ状態だった。

竿が簡単に出せる状況ではなさそう・・・。

・・・時間が無いので・・・隣の有料の海釣り公園(500円)に入ろうとすると・・・

係員が手を振って、着座完売で入場できません。

朝早くから、街外れのここは混んでいた。

・・・地元の釣り老人によれば、昨日も一昨日もダメだった、今年は駄目だな。(海水温が高いのでしょう)

伊東の漁港も熱海も、夏に釣れた記憶が無いが・・・宿泊ついでに竿を出すには便利な観光地です。

さて、餌を買ってきているので、手前が混んでいるから、籠釣りでイサキだな、

・・・籠にアミを詰め、付けエサも籠内に入れて・・・沖合いに投げ込む。

沖合に同業者の赤いウキが、岸壁に平行に7~8個浮かんでいる。

・・・これが一番・・・潮風が頬に当たる・・・

しかし、期待しているのに・・・風もなく凪の状態だった。

7~8回竿を振り下ろし、AM7時、食事に帰る。

・・・朝風呂に入って、・・・さて場所が変わって、ここは

熱海港から・・・30分後、初島をブラブラしている。

・・・港の堤防から、沖合に数回竿を投げてみたが全く反応は無い。

回遊魚は、群れが来ないことには・・・

・・・アジアンガーデンで昼寝、ここに入園するには港から東海岸に沿って歩いて来るとこの丘の下に到着します。

そこからの階段が結構急ですので、島の中ほどブラブラ登り、初島公園側から入園されると帰りは楽です。

ここが、東海岸を港に向かって下っている道です。

前方右手に、磯が見えてきました。

・・・

ググッと引込まれ、抜きあげると・・・岩場の陰にいました。

根魚、・・・カサゴです。

18㎝くらいでしょうか

唐揚げに、二度揚げしてもらったのですが、丸かじりは無理でした。

小骨も頭も骨が固くて大きくて、肉厚の白身だけ美味しくいただきました。

夕方4:40分、帰りの船です。

スキューバダイビングの人々も多く、首都圏から一番近い島、確かにそのようです。

地面の隆起で誕生した初島、民宿もありますが大半は日帰でしょうか。

熱海港、先端に造られた海釣り公園(有料堤防)、地元民は無料の岸壁で竿を出して、常連の人々の社交場でした。

魚が回ってきたゾー、釣れ始めた情報を耳にし・・・、集合!

バイクで駆けつける楽しい毎日、いつまでも元気で、・・・またお会いできますように。

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(涼を求めて)、続イタリア;ローマ ① 霧雨のヴァチカン

2019-07-21 | 旅行記

日曜日 F1、ドイツグランプリ、メルセデスの本拠地でレッドブル・HONDAの M.フェルスタッペン今季2度目の優勝

トロロッソ・HONDAの D.クビアトは2位と思われたが惜しくも3位入賞・・・、このレースもドラマチックなレースでした。

https://youtu.be/h0l4HJr-QHI

さて土曜日は、東京にも台風の余波が予想されましたが、予報では8時頃から雨でした。

・・・急きょ出かけることになり

風が強い、帽子を飛ばされないように・・・、

かつては、浅草付近のグランドでは自由にシートに横になれたのだが、

・・・予約制になった?、有料?、席は無い・・・、年々規制がうるさくなって自由な移動もできなくなってきた。

PM7時過ぎ、火の粉が降り注ぐ危険は全くない所で、シートで横になり隅田川花火鑑賞となりました。

南風の影響で煙が上流に流れ、スカイツリーも煙に包まれ、

ツリー上部は煙の中で、良く見えなくなった。

花火は最新式のネオンカラーがグラデーション調で変色したり、楽しい花火もありました。

海外からのツーリストも多く、花火と共にスカイツリーも人気が有るようです。

・・・8時10分、帰りの人混みで車が出せなくなりそう、・・・早めに車庫へと急ぎ・・・脱出、雨にも降られず、無事隅田川花火終了。

先週は梅雨明けせず、スッキリしない海の日、久しぶりに立ち寄ったら・・・水量が多いので思った以上に癒されました。

湯滝です。

展望台があり、お土産屋やなどもあります。駐車場は有料

こちらは滝の落ち口、立派な遊歩道が造られていますのでお勧めです。

そしてこちらが、湯ノ湖です。

ルアーフィッシングで人気の湖です。

この湖畔の右が道路、数台くらいの無料駐車場があり、この湖の向かい側が奥日光、湯元温泉

・・・下流の竜頭ノ滝から沢沿いの遊歩道を登ってくると・・・この湯元温泉まで結構良いハイキングコースです。

近くには男体山、奥白根山、・・・かつて鍛錬会で登った懐かしい場所でした。

・・・一方、こちらの並木は少し変わっています。

 日光の杉並木街道が自然に優しい日本文化なら・・・、ローマ街道と傘松・・・、

軍事車両の馬車がすれ違うことができる道幅約4mの石畳、道路断面は、礎石・砂利・敷石の多層構造、車道の中央部が高く路肩に排水される。

一直線に道路が敷かれ、坂道も急こう配を避け傾斜角は9度以下・・・橋やトンネルを多用し最短距離で都市を結ぶ、

これらの高速道路網は耐久製を考慮した自然を支配する設計施工、・・・何とざっと2000年前、日本では鉄のクワも無かったころです。

さらに、車道の両サイドに3mの歩道を設けるというる壮大な規模で・・・ローマ帝国内に造り続けた。

・・・しかし、すごいですね、技術と資材と労働力・・・そして統率力。

川や海、森からの恵みを必要最低限を頂いて、一日平安に過ごし、八百万の神に感謝する日本の人々の精神構造と大きく異なっている国に・・・またやってきました。

武力闘争で領土拡大、・・・あのローマ帝国の歴史は、拡大生産が管理の限度に近づいたのでしょう、奴隷も財産も食料も思うように増えなくなり・・・そして衰退と反乱、

為政者が領土民の統治に利用したキリスト教、・・・宗教を軽く考えたのか・・・多神教の容認を捨て、一神教をローマ帝国の国教にしてしまい・・・これが全土に浸透した。

・・・ローマ帝国の文化と、キリスト教以外は邪教とする宗教の布教・・・異国の出来事があまりに影響力が大きくて・・・、

他国に侵略して一神教を布教しなければ、自分たちの領土で勝手にすればいいのですが。

・・・現代では、ロケット砲搭載の無人機が他国の領空数千メートル上空を密かに飛来する、監視対象の地上の画像を盗撮し、

自国の安全な遠隔地で、無人機のライブ画面を見ながら、他国に空から一方的に武力行使が起こせる時代です。

現実に起こっていますが、宣戦布告も無く、密かな抹殺ですから、人権も国際法も霞んでしまいます・・・大変な時代になってしまいました。

・・・技術と軍需産業が進みすぎて、個人の力量では全体像が見えなくなってしまいました。

しかし、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも軍用品を開発していたのですが、早く争いの無い統一を願っていたのでしょう。

そんな時代の遺産を見たくて、・・・またローマをフラフラ歩くことになりました。

・・・下図は、周囲の城壁をみるとローマ帝国全盛の3~4世紀頃の様子でしょうか。

この絵は、コロッセオ内の展示資料を借用しています。

テヴェレ川が、下から右上に向かって流れ、中洲がある付近の両岸が湿地帯、この左上方に七つの丘があり

ロムルスがローマ建国をしたと言われるパラティーノの丘もあります。

テヴェレ川の上流から見て左岸に都市が集中しています。右岸は、レンガ工場でしょう。

城壁内には、オベリスクが沢山立ち並び、コロッセオが中央上部にそびえ立っています。

エジプトの公共事業、ピラミッドに影響されたのか、これだけの大きな建造物が描かれているという事は、

毎日どこかで石組みをする工事が行われていたのでしょうね。

争いが絶えない時代です、定期的なイベントでローマ市民の結束力を保つ必要があります。

農耕民族では収穫祭や村祭りでしょうが、ローマ帝国では戦勝記念のパレードや凱旋門建造、・・・捕獲した奴隷の格闘戦も組まれた事でしょう。

猛獣との格闘や、奴隷同士の格闘、血が流れる悲惨な光景を、心拍数を上げ興奮状態で見るのが・・・この人種の娯楽のようです。

ラテン系の国で行われる闘牛は簡易版でしょうか、入門編だった日本の闘犬(土佐犬)は・・・娯楽は昨今他に多くあるので衰退しました。

昔のローマ市内・・・城壁内の中央のやや下に、128年に再建されたパンテオンの神殿も見つけることができます。

2000年前、これが本当に建てられたのか? と思いたくなりますが、

その前から、ギリシアには多くの神殿がそびえ建っていたのですから、・・・この時点で既に何百年の技術の蓄積があるのです。

・・・ローマの都市をざっと振り返ると、・・・紀元前、王政時代にガリア人から侵略されています。

その後800年、19kmの城壁に囲まれたこの都市は外敵の攻撃は無かった。

約100万人が暮らしていたローマは、410年に西ゴート族に陥落させられ、市内では略奪が起きたと各種の歴史書に書かれています。

4万人の西ゴート軍にローマは包囲され食糧難から飢餓に苦しみ、その後三日間に渡って略奪されたそうです。

4万人から・・・想像ができないですが・・・無法地帯です・・・被害が少なかったのは教会関係の施設だけだったそうです。

・・・100万の老若男女・・・どうなったのか、・・・被害の少なかったキリスト教関連施設から、・・・少しづつ復興したようです。

時代が進み、キリスト教の聖職者達はやがて、ローマ教皇をトップに階級を設けます。

大司教は土地を寄進され領主の地位にあった。

同様に司教も教区という広い範囲を管理し多くの権限があった。

その下に司祭・助祭、最小単位の教会で管区内の人々を管理し、10分の一税を徴収できたとあります。

修道院長・修道士がその下で信者が最下層・・・。

階級ができ聖職者の生活が安定すれば、聖職売買、聖職者の腐敗、堕落、俗化もおこります。

ローマ教皇は8世頃から寄進により教皇領を持つようになったようですが、武力もなくてなぜ権力を持ったのでしょう。

・・・800年ヨーロッパ最大の勢力となったフランク王国のカール1世は、ローマのキリスト教を容認し、各地に教会・修道院・学校を建設させているようです。

そして、最大権力者のカール1世がローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)のミサに参列し、ペトロの墓前で頭を垂れた。

今日とは違い、建物は普通の教会程度だったでしょう。

この時、ローマ教皇レオ3世は、黄金の冠をカール国王の頭上に置いたそうです。

・・・カール1世は突然の行為を拒否せず、冠を受け入れたが、これが後に皇帝の戴冠式と呼ばれるようになったようです。

教皇が勝手に冠を授けたが、・・・これが神によって戴冠される儀式の始まりのようで、・・・授けるのは、ローマ教皇・・・

この演出は、フランス国王がローマ皇帝になりました、承認者の権限がローマ教皇にありますと宣言したように見えたでことでしょう。

カール1世は、戴冠の儀式と分かっていれば来なかっと伝えられているようですが、近年は知っていてローマ皇帝の冠を受けたとする説が有力のようです。

しかしカール1世は、神の代理人を自称する者(ローマ教皇)は武力も無く、自分より権力者であるとは・・・もちろん思ってもいないでしょう。

・・・802年、司教会議で「国家の首長は、聖俗両界の首長であり、司教の叙任権は国家の首長がもつ」と決議された。

叙任権は権力者のカール1世と思われていたのですが、・・・やがて時代が移り・・・ご承知の様に教皇は、皇帝を・・・破門すると宗教で脅したのでした。

・・・11世紀から13世紀、この時代がキリスト教の最盛期でしょうか

1092年 ピサ が司教座から大司教座に昇格しています。

1419年 フェレンツェ がピサに遅れること300年、大司教座になります。

・・・中世の雰囲気とは・・・あのローマのパンティオンの絵が、パンティオンと真実の口近くのレストランに飾ってありました。

社会が豊かになり、芸術家が育ってきました。

ローマの歴史、・・・中世の主役は、やはりローマ教皇でしょう。

ヴァチカン・ガイドを参照しながら調べてみたいと思います。

・・・1504年ダビデ像を完成させたミケランジェロは、ローマ教皇 ユリウス2世からローマに呼び戻され、教皇の霊廟を造れと命じられた。

(ウフィツィ美術館蔵、ラファエッロ作)

このユリウス2世(本名、ローヴェレ)の肖像画は見る機会が多いですが、この前任者がアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)。

(肖像画:ウィキペディア アレクサンデル6世)

この二人の教皇争い(1492年)で、ボルジアは枢機卿を買収し圧勝、敗れたローヴェレはフランス王の下へ逃亡。

・・・ギリシャ神話の時代かと思うようなアレクサンダル6世の教皇時代、教皇だって元は人間だ・・・と自由です。

教皇に子供がいた・・・認めましょう・人間だから、その息子、チェ-ザレ・ボルジアも教皇の武闘派として有名です。

このチェザーレ・ボルジアが教皇領を支配した地に、レオナルド・ダ・ヴィンチが赴き、軍事顧問となっている・・・そんな時代でした。

そして、フィレンツエでサボォナローラが、1498年5月23日絞首刑を受け、火刑になったのもこの教皇との対立がありました。

・・・今回は、システィナ礼拝堂です。

ユリウス2世は、ミケランジェロが自分の霊廟建設で巨大な大理石を運び入れ・・モーゼを彫りだすと壮大な構想を聞いていた。

並行して進む大聖堂の建築家であるブラマンテが、作業中のミケランジェロに霊廟には何体彫るのだ?・・・40体 との答え、

続けて・・・ダビデを彫るのに何年かかった?・・・4年 とミケランジェロ、私は作業は早いです

霊廟に40体・・・、だったら完成に160年もかかるだろう・・・と言うような問答があったそうな・・・。

・・・さて、いつになったら完成するのか?・・・教皇は自分の霊廟に関心が薄くなり

歴代の教皇が手を付けなかった殺風景な礼拝堂に対して、あの馬小屋は20数年前に改築しているが(建て替えないで)・・・、

(出典は、昔の雑誌と思ったが?)システーナ礼拝堂の昔の天井

ミケランジェロに礼拝堂に12使徒の天井画を描かせる・・・、と言い渡した。(ブラマンテの陰謀説は、省略)

これが1508年のこと、

(ヴァチカン市国、スイスの衛兵、制服はミケランジェロのデザイン)

・・・礼拝堂:長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70m、後陣(アプス)は無い。

教皇宮殿を防御する役目と礼拝堂の二つの役目を持つため外壁ががっしりして、

内部は地下室、中二階(執務室もある)、礼拝堂、上部に広い屋根階、外側に警備用回廊もある。

・・・ケランジェロは、自分は彫刻家であり、絵描きではないと断り・・・ローマから失踪するが・・・、

捜索され、結局引き受けるためローマへと・・・フィレンツェからフレスコ画が描ける弟子達を連れて戻った。

・・・教皇に詫びを入れ、礼拝堂に足場を組み、希望通りの12使徒を描き始めたが、・・・二人目描画中に、

モチベーションが上がらず・・・作品を一部消去し・・・またも失踪、

しかしまたも捜索され、再度教皇に侘びを入れ、・・・天地創造を描かせてと、下絵のプランを提出・・・、工期は半年から1年と答えた。

一人で完成させるからと、教皇に12使徒の5倍の10000ダカットを要求するが、3倍の6000ダカットでと命じられ・・・作業にかかる。

(ヴァチカン美術館のスライド紹介画像より)こんな足場で、上を向いて描いていた

半年経ったが、Ⅰ/10も出来ていない、報酬は払われず、

・・・教皇-ミケランジェロに「いつ終わる?」、返事は「完成したら」と、度々やりあった・・・有名な話です。

教皇は戦争に出かけることも多く、何かと戦費も必要になる時代に、もう一人のスーパースター、ラファエロが1508年から宮殿で描き始めました。

時代はルネッサンス末期です。

・・・この絵も同じレストランにありましたが、サンタンジェロ城の 祝 修復記念なのでしょうか。

今日のテヴェレ川とサンタンジェロ城です。

ローマは彫刻だらけ・・・この橋の上にも素敵な天使像があるのですが、ローマを創った男は別途

サンタンジェロ城からヴァチカン市国への・・・この大通りは、ミケランジェロの時代はどうだったのでしょう。

このような大通りはありませんし、馬車道と建物が立ち並んでいたようで、現在の広場も無かった。

ヴァチカン美術館の入口へ向かいましょう。

このような城壁に沿って入口があります。

城壁のアーチは従来の出入口、これが現在は個人の出口専用になっていて、この城壁の左に沿って進むと張り出した部分に

新しく回転扉の入口が造られた。多分2000年頃完成

室内で荷物検査と、改札が設けられている。

エスカレータで上階に進み

館内でいろんな案内がありますが、このジオラマで先程の城壁が手前になります。

この城壁から手前に進むと最寄りの地下鉄の駅ですので、駅から徒歩でこれます。

さて館内は、省略、反対側のの宮殿から、礼拝堂に階段を降りて入ります。

システーナ礼拝堂です。室内は撮影禁止・・・昔の映像から

階段からドアの先に・・・祭壇近くの所に出ます。

高所に大きな窓が12ヵ所ありますので、明るいです。

多分私語禁止だったでしょうか(小さい声で)

窓から上部がミケランジェロ、彩色が結構鮮やか、右側が本来の出入口

そして、天井画は旧約聖書が題材

奥の祭壇画は、後年ミケランジェロが描かされたものです。最後の審判

天地創造、主役はこの部分でしょうか

ミケランジェロは、ローマを救った、・・・これから60代、70台になっても頼られることになります。

 

 

 

 

 

 

 

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イタリア チヴィタ(CIVITA)別名「死にゆく町」

2019-07-07 | 旅行記

これは修道院?・・・標高は高くはないが、確かに・・・天空の要塞かと思える・・・消滅寸前の町の様相です。

さてここは、

フィレンツェとローマの中間、いやローマ寄りの・・・標高はそんなに高くない420mくらいの高台の町

フィレンツェから南に160kmくらい走ります

途中、車窓から天空に虹が架かり何か良いことの兆候でしょうか・・・、

しばらく南下・・・やがて、オルヴィエート(ORVIETO)で降り、西側の小高い街に向かう

丘を登り、バニョレジョ(Bagnoregio)の駐車場に到着

駐車場横の・・・お土産屋さんが、迎えてくれた

ミニバスに乗り代えて、この上に広がるバニョレジョの街外れまで・・・5分位走ると、

道路沿いに長い塀と並木道が続いています。

・・・やがて大きな看板が現れた・・・街外れでしょう・・・目的地近し

 

Civita (チヴィタ)の大きな写真です。

この画像は、ミニバス後部の窓からの光景です。(向こうから・・・こちらに走ってきました)

公園内の駐車場?に到着したかな・・・減速して、右に曲がり・・・到着の雰囲気。

到着です。下車して、

上空からの写真を正面から見てみましょう。20~30棟の大きな建物があるようです。

振り返り、左前方に進むと・・・この高台の端から

・・・はるか彼方に・・・地平線にそびえ立つ孤島が見えました。

周囲をカットし、ズームイン

何故か、危ない雰囲気・・・

崖の断層が露出しているのを見る限り、岩山では無いし、隆起でもなさそう、

脆い地質で周囲が崩落し、孤島になった雰囲気です。

丘状の高台にあった城壁に囲まれた街が・・・やがて尾根状になり更に土砂が流れ、・・・歯止めが利かないのでしょうか。

建物は中世の時代でしょう、相当古そうで、地盤強化の杭などは打ち込んでいないでしょう。

・・・ここで、後日調べた地形図を見てみましょう。

・・・中央よりやや下側の左端に最初に降りた、バニョレージョ駐車場です。

左側の画面外に大きい湖がありますが、高速道路は画面の右側(画面の外)を南北に走っていますので

右側から画面の中央を左に横切り左端のバニョレージョにやってきました。

こから背骨状に見える街並みを右側に2/5くらい進むと市街地の端、公園内の駐車場です。

展望台があり、それから広場の手前側の崖を下り、右に進むと、そこから先は入場料が必要になります。

その先・・・橋が良く見えませんが尾根を右に進むと・・・チヴィタの文字が読める所が目的地です。

・・・では先に進みます。

このような崖の上から、下の車道まで下ってきました。展望台から降りるには近道です。

舗装された坂道を下っていくと(振り返った画像です、奥から来ました)

お地蔵様のような祭壇が・・・どんな悲しいことがあったのでしょう・・・地震かな? 花束が供えられていました。 

ここは行き止まりの広場、周囲を見ると反対側に・・・入場料を売っている小屋があります。

入場料は,イタリアは赤字国でインフレでしょうか、・・・結構高くなってきたようです。

 

 多分、2013年頃から入場料を徴収し、1.5€・・・値上げで、現在は、5€/人、

・・・ここで改札、係員のチェックを受けます。

 目の前には、・・・長い橋があります。

橋を再確認しましょう。先程の高台、展望台からの画像です。

画像の右側の下が入場券売り場、その先から全長300mの・・・結構高い高架橋を進んで行くことになります。

少し登り傾斜の橋を進む、結構高いが、・・・下を覗いてみましょう。

・・・気になったのが横の手摺、年季が入っています。

遠目からは、最近造られたのかと思っていたが、錆を落として塗り替えないと、ボロボロにすぐなりそうで危険です。

 

調べてみると、・・・橋は1965年に建てられたと地元の記事にあったと思いましたが、

橋が無ければ生活できない状態が・・・50年以上も昔から続いているのが・・・不思議です。

橋の反対側の下を覗くと・・・この太く黒いゴムパイプは何でしょう

ガス、石油、電気・通信ケーブル、それとも水道でしょうか。

・・・イタリア各地に、崖の上のような高台に小さな町ができていて、ケーブルカーで行き来する所が沢山あります。

このチヴィタは地震に何度も襲われ、周囲の崖から徐々に崩落し、住民は減少し続け、現在は数世帯しか住んでいないようです。

・・・橋が使用できなくなったら、崩落や倒壊の危険があるので観光地としても安全優先、永久保存は難しいでしょう。

橋を渡り終え、右に急な坂道を登ると曲がり角に、豪華な門扉

避暑地でもないでしょうが、豪邸?

・・・日本の山道とは違いますね、石が豊富なイタリアは、ここでも石畳みの道です。

左にカーブし更に登ると 

 城壁?の門、これは、サンタ・マリア門

昔は5つの門があったようですが、この反対側や周囲も現在は利用されていないでしょう。

城壁の左側に売店があります。

その先に進むと、・・・オッ!、ライティングされて・・・モダンな壁面、観光地でした。

・・・「死にゆく町」と紹介されて・・・今のうちに見に行こう・・・、物珍しさとこの光景に・・・訪れる人々が増え、

しかし、この町に金が落ちるわけでもなく、・・・覗かれるだけでは、生活も大変です。

・・・入場料を取りたくなります。

これでまたニュースになり、旅行会社もツアーを企画し、観光客が押し寄せ・・・

宿泊施設を整備して、レストランと土産物を用意して、

人手が足りない・・・バニョレージョの町から通勤して頂こう、・・・取り合えず・・・よかったですね。

・・・年間来村客は数十万人に近くなってきたようです。

メイン通りの左手に美術館、食事や売店もあります。

広場になっていて、・・・手前側には、カラフルな線香が、アロマでしょう

台上には、アクア、基礎化粧品のようなボトルが並んでいました。

綺麗な湧き水、山野草、ハーブ、農園、修道女、・・・そんなイメージ?

に近いような・・・商品を販売していました。

さて、ここでも町一番の大きな建物が中心にドーンと建っています。

(日曜日に、皆でブラブラと街外れの教会に行くのもありでしょうが、・・・競って一等地に豪華な教会を建てたいのでしょうね)

サン・ドナート教会と鐘楼です。左は宿泊ができる建物です。

中に入ってみましょう。

建築当時住民は結構多かったのでしょう、思ったより広く、椅子も多く並んでいました。

正面の祭壇も立派ですが、右側に気になる彫刻が黒装束の・・・

下の案内文を撮影してなくて、詳細は不明ですが。

聖母マリア?、聖ドナート?、ドナテッロ風の作品?

そして、この奥にも・・・主祭壇の右側、礼拝堂でしょうか

リアルな磔刑、その下にライトアップされているのが、聖ドナート?

これらの彫刻は、ルネッサンス以降、バロック時代頃の作品でしょうか。

横たわっているのが、ライティングで・・・見えるようで良く見えない、・・・近くに行けないのが残念です。

さらに右側に、聖母子像があり、ここでは優しい光を投げかけていました。

その右横に、赤い文字からすると・・・ 何かを訴えています

教会、鐘楼、2016年10月30日のイタリア中部地震で深刻な被害を受けました、・・・義援金募集

そうでした、まだ記憶に残っていますイタリア中部地震・・・TVで地震の被災地映像が流れました。

 イタリアも日本と同じく活火山が多く地震大国です。

調べてみると、このチヴィタは、何度も地震の被害を受けているようです。

1695年の大地震は、ローマ教皇らの教会復興で再建されるも、1764年の地震では周囲の道が崩落したようです。

想像では、高台の街並みは周辺部が崩落し、町は相当狭くなるしバニョレージョに行き来するのも難しい、物流も滞り、・・・

この時期あたりから・・・住民が町を捨て始めたようです。

・・・元々この地の祖先は、エトルリア人と聞いてビックリ・・・

古代より優秀な技術屋のイメージがあるエトルリア人が興した町?

エトルリア人の起源について良く分かってないようですが、イタリア半島では先住民とのことです。

ギリシア文明が先にありました、南部のシチリア島やナポリにギリシア人が移ってきますが、当時現在のローマなどに都市は無く、

中部以北にエトルリア人が住んでいて・・・歴史の教科書はそうでした。

何故かエトルリア人は、鉄鉱石などから精錬法も考え出し、鉄器の製造技術が・・・あったといいます。いつ頃?

ローマ建国の神話(紀元前753年)の頃には、・・・信じられないが、完成していた、・・・銅や銀、錫も精錬できて加工する技術も身に付けていた。

山岳地帯に住むのは、鉱山に関心があり、地震が多発しても断層などから各種の鉱物を発見できたからでしょうか。

後のローマ帝国では、橋やトンネルなどの技術がエトルリア人から受け継がれ、優秀な土建集団がヨーロッパ全土に広めることになります。。

古代エトルリアは12の都市国家があり、紀元前6世紀頃まで繁栄したようです。

・・・ローマ建国の神話では、テヴェレ川の上流に、エトルリア人は都市を築いていたとあります。

ではこの地、チヴィタでは橋の先・・・丘の向こう東に10kmくらい、標高70~80mの低地にテヴェレ川が流れています。

テヴェレ川は、その先北東に水源があり、ペルージャのアペニン山脈から流れ出て、河口まで405㎞の大河です。

この付近から北にエトルリア人は住んでいたのでしょう。

このテヴェレ川を下流に下れば、・・・ローマです。

建国したローマは、ロムルスが初代ローマ王(父母は、・・・神話ですので略)、2代はサビーニ族、3代目はラテン系王、4代目サビーニ族、

5代目がギリシャ人とエトルリア人のハーフ、6代目:エトルリア人

この6代目の王の頃からローマは発展するが、エトルリアはイタリア北部で衰退し、やがて5代目の王の一人息子が6代目の王殺しで・・・

未承認の7代目王に・・・エトルリア人の王です。

・・・紀元前509年頃、ローマはエトルリア人の7代目王一族を追放し共和制になります。

244年間、ローマ建国からの王政時代は、エトルリア人は活躍していましたが・・・末路は残念、

・・・その後、共和制の弱小ローマ国にエトルリア国が攻め込んでいますが、攻略できず

・・・必死に守るローマ国、・・・何度となく戦い、やがてエトルリアは衰退、敗戦、

紀元前264年ローマ軍にほぼ征服されてしまったようです。 

これらの建物の石は、柔らかそうです。日本の大谷石と同じ種類なのでしょう。

紀元前のエトルリア人の痕跡は感じられないですが、

ローマ帝国末期からのカトリック教の影響は今日まで続いています。

地震が無ければ平和な町です。

この橋を戻ります、丘の向こうがテヴェレ川です。

地元の記事に、こんな画像がありました。

 そして、ミニバスで終点の駐車場へ

こんな雲海に浮かぶ画像が流れていました。

地震の災害に遭われないことを、お祈り申し上げます。

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トスカーナ州 Pisa、そしてSiena

2019-06-22 | 旅行記

トスカーナ州と言えば、ワイン、・・・キャンティ(Chianti)地区の名産品です。

伝統的な地域で生産されるキャンティ・クラシコもありますが、イタリア産では北部のピエモント州のワインも人気です。

廉価なワインは関税が有利なチリ産が販売を伸ばしましたが・・・今春からEUのワインも関税ゼロに、チリ産程廉価なタイプは少ないでしょうが、

・・・イタリアのワインは、生産量は世界一、イタリアでは、ワインは水より安いと言われます。

食事にワイン、ワインの席ではカンツォーネ、

突然歌手が登場し・・・こんな光景後、テーブルを回ってチップを頂く、長い伝統文化のようです。

さて、フィレンツエは、ミラノ、ヴェネツィアと争いながら、海路を支配したい、金融の街シエナも吸収したいと近隣ともゴタゴタが続いたルネッサンス時代でした。

グーグルの画像を拝借し、ピサとシエナの位置関係を確認し、・・・昔のピサとシエナの画像を探して・・・

フィレンツェからアルノ川に沿って下流、西の海に向かいます。

モノレールでは無く、ローマ帝国時代の水道橋が朝日に浮かび上がってきました。

わずかな傾斜を作り高低差を利用する、測量技術と土木工事の優秀さが有名ですが、

水源を探し、都市の人口を推定し、公共事業として長期計画を立てる・・・2000年も昔、このような壮大な発想に感心します。

車窓からアペニン山脈が見えてきました。雪が残っています。

情報では・・・標高1388mのアベトーネ(abetone)にスキー場があるようです。

フィレンツェから90km弱、中部イタリアの人々はバスが運行されるので冬はスキー、夏は避暑地で賑わうようです。

麓のルッカの街は標高19m、フィレンツェでも50m、これから行くピサは5m。

山があると季節が感じられていいですね。

・・・出発から1時間くらいでしょうか・・・高速道路を降りて海側から回り込んで、公共の駐車場へ。

そこから歩き、・・・オッ 売店が続いていた

このピサの隣の隣町 山麓にピノッキオの作者の縁でピノッキオ公園があるようです。

童話:嘘をつくと鼻が伸びる人形・・・その人形が、このピサでも多くの売店に置いてあります。

左の城壁の中が目的地

ゲートから内部に入ると・・・芝生が目に飛び込んできた。

ここは公園か?・・・綺麗な芝生に、整然と建物が配置された・・・ドゥオーモ広場のようです。

手前の洗礼堂、そして、ドゥオーモのファサードが見えて、・・・斜塔を探す・・・正面の奥に写真で見た建物が・・・あった。

鐘楼が、顔を出している。

こちら側が西側、太陽が東南から降り注いでいる。

一番奥の鐘楼は、建設途中で南に傾き、傾いたままその上部に石材を積み上げたら更に少し傾いた・・・そんな感じが出ています。

良く見ると、2階を積み上げる際に少し傾きが始まったようにも見えます。

斜塔の地面は、全てコンクリートで固められ、灰色の世界かと思っていたが、綺麗な広場だった。

さて敷地の東側に進み、振り返って鐘楼を・・・押し戻さなければ

支えるだけ?・・・そんな行為が流行りました。

右側の芝生の先の建物で斜塔の入場チケット購入、時間制限あり、・・・荷物を預ける所があり、そこに預けて鐘楼に登ります。

登り始めると・・・オット、南側(外側)に身体が持っていかれるので・・・階段の端を登ろう

半分周ると

徐々に・・・内側の壁に身体が寄って行く・・・結構身体が振られて、垂直に立てないので

気持ちが悪くなってくる記憶がよみがえってきた。

そして狭くなる階段を登って行くと展望台に出ます。

ここで眺望を楽しんでいると、更に上段に早く上がるように、女性係員にせかされ、事情が分からず・・・とにかく上に。

そして、最上階に上ると、リング状の展望通路が待っていました。

時間枠で入場者を入れ替えるので、一旦全員を最上部に挙げて、狭い階段を下り専用にして、順番に下ろす。

そんな交通整理をしている女性係員だったようです。

さて、展望台を一周したが、海が見えない。

かつては海洋王国だったはず、ジェノヴァ、アマルフィ、ヴェネツィア、そしてピサ、

海岸線は、西側・・・この方向・・・しかし直ぐ先から緑の森林地帯・・・湿地帯の先には・・・砂浜のようです。

その先が・・・海、・・・海岸線から相当離れているようです。

もう少し左側に向きましょう。

・・・左側をアルノ川が流れていて、下流が海・・・左前方が河口のようです。

ピサは、アルノ川の河口から少し上流に上った所に、街が発展していたのでした。

・・・以前の画像あれこれ・・・ピサの斜塔がこちら

さて、中世の時代に繁栄を迎えたピサには、ローマ建国のモニュメントがありました。

ドゥオーモ広場の芝生の上で、このように台座の上で目立っていました。

ロムルスとレムスの神話・・・「オオカミと双子」川に流され(捨てられ)た乳飲み子が、オオカミに育てられ・・・ローマを建国した双子です。

神話は別の機会として、このピサのドゥオーモ、そして斜塔にも、地元の名士 ガリレオ・ガリレイの有名な話が残っています。

落体の法則

身廊に並ばれた汗だくの信者達・・・遠路ご苦労様と頭上を振り子のように芳香剤の香炉が行き来する光景がありました。

振り子の等時性

1564年 ガリレオ・ガリレイが、ここ ピサ で生を受けています。

ガリレオは母校ピサ大学で3年間数学を教え、その後ヴェツィア領のパドヴァ大学(1222創立 ボローニャ大学に次いでイタリアで古い)で

数学教授の職を、ジョルダーノ・ブルーノという元ドミニコ会の優秀な修道士と争います。

1592年、28歳のガリレオが教授の職に就き、28歳でナポリを捨て各地を放浪していたジョルダーノが敗れた、44歳になっていた。

この年、コロンブス新大陸発見・・・そして8年後の1600年、日本では関ケ原の戦い、

・・・残念なことにローマでは、ドミニコ会の修道士が異端の罪で火刑にされています。

あのジョルダーノはガリレオに教授職で敗北し、間もなくヴェネツィアで官憲に訴えられ逮捕されてしまいます。

28歳で故郷のナポリを離れた理由が、・・・優秀な頭脳が貪欲に知識を吸収し・・・宇宙は無限と考え地動説を支持したから・・・異端の疑いを掛けられたのでした。

そして、・・・1593年、ローマの異端審問所に送られます。

地動説の本家コペルニクスも異端を指摘されたのでしょうか、そして異端審問で火刑にされたのでしょうか?

・・・1543年70歳で亡くなっているが異端審問どころか地動説をローマ教皇に説明したり、トラブルはなかったようで、逆にルターが反対したとか。

異端審問?とは、・・・聖書で何と書かれているのか、忖度しているのか?、教会の権威に何が傷付くのか?

・・・ユダヤ教の聖書はここから「初めに、神は天地を創造された」・・・この偉大なる言葉が全てなのでしょう。

コペルニクスは異端とされていない、・・・ジョルダーノは、ローマ教皇に自説の一部を撤回すればOKと思っていたようですが、拒絶されたそうです。

異端審問が開かれ、繰り返し全面撤回せよとの要求を拒絶し、四大河の噴水があるナボーナ広場のすぐ南、今日でも人気の カンポ・デ・フィオーリ広場で処刑されてしまいました。

・・・1979年、カトリック教会は「処刑判断は不当であった」と判決を取り消しました。

現在では、広場中央に彼の銅像が立っています。

ガリレオ:数学が得意で、実験をしデータを取る、検証・証明、力学の法則の発見、望遠鏡で天体を観測、「星界の報告」の発表・・・科学者です。

ローマカトリック教の信者、ガリレオは有名になり、出る杭は打たれた・・・「信じる者は救われる」一辺倒の人々達からでしょうか?・・・異端と訴えられ

1616年 最初の宗教裁判 コペルニクスの「天球の回転について」などが暫定閲覧中止、ガリレオに罰は無かったようですが、注意を周囲から促される。

1632年、ガリレオ「天文対話」発表、細心の気配りで天動説と地動説の対話スタイルとしたが・・・、

1633年、第2回異端審問所審査(宗教裁判)で異端の有罪判決、「天文対話」禁書となる。

火刑ではなく・・・70歳近いガリレオは、終身禁固刑から、地元のトスカーナ公国のローマ大使館での軟禁刑に減刑される。

判決を聞いてつぶやいたとされた「それでも地球は動く」は・・・彼にふさわしい言葉として、周辺から生まれたのでしょう。

1638年「新科学対話」を自国では、発行できずオランダで発行する。

1642年 78歳、永眠する。(1737年 教皇の許可が出て、フィレンツェ サンタ・クローチェ教会にやっと埋葬された)

・・・羊飼いの力は・・・想像以上です・・・いつも驚くことになります。

1992年、ガリレオ裁判の誤りをローマ教皇表明する。

ピサのドゥオーモ、フィレンツェでも見られた様式です。

ロマネスク建築、修道院から始まった、・・・当初は大きな建物は壁を厚くするしかなかった。窓は少ない。

天井は橋のアーチの実績がありますから半円形で上部の重量を受ける、室内は暗いので高所に採光窓を、

偶像崇拝は、十字軍から帰って・・・現地にはイエス・キリストの墓があった。人間だった。

具体的に崇拝する対象が見つかり、・・・アットいうまに威厳のある偶像が出現、この教会はファサードの最上部センターの位置です。

12世紀にはこのようなピサ様式と呼ばれるデザインがトスカーナを中心に広まったといわれます。

ではトスカーナのもう一つの古都、シエナに向かいます。

・・・・・

今年のカレンダーに・・・シエナがありました。

フィレンツェのヴェッキオ宮(かつてはフィレンツェ共和国の政庁)と雰囲気が似ています。

こちらは、プッブリコ宮(市庁舎)です。

13世紀から14世紀前半の建物ですから、ピサのロマネスク建築から約1世紀、技術も進みゴシック様式と呼ばれます。

シエナも、以前作成したこのような画像がありました。

旧市街の北西の駐車場から城壁を回り込み、左手はスタジアム、右手は崖・・・そんなミッレ通りから右前方の眺めです。

 

手前はサン・ドメニコ教会、ずっと奥にもクーポラと鐘楼が見えます、シエナ大聖堂でしょう。

この旧市街は3つの丘に囲まれた地形を利用しているようです・・・高台にはランドマーク・・・教会ですね。

200mも進むと右手に先ほど見えた縦長の大きな窓の教会がありました、すっきりしたデザインです。

この教会は、デザインがシンプルだが・・・入り口ファサードは?・・・この横から入るようです。

ということは、サン・ドミニコ会の修道院として、主に修道士達が使われていたのでしょうか。

・・・聖 カテリーナの礼拝堂があり、聖遺物として聖女カテリーナの頭部が納められていました。

1380年に亡くなったカテリーナは、1939年からイタリア全土の守護聖人として崇拝されているようです。

内部は窓が大きいので結構明るく、過剰な装飾もなく、安らぎの感じられる教会でした

この教会の前広場がサン・ドメニコ広場、鉄道のシエナ駅は遠いので、バスでこの広場で降り、ここから観光をスタートする方が多いようです。

さて、左側に進み坂道のサピエンツァ通りを下っていくと、賑やかなバンキ・ディ・ソプラ通りに突き当たります。

通路の向こうの広場が・・・建築様式を説明するのに便利な建物に3方向を囲まれた、サリンベーニ広場です。

広場奥で日向ぼっこの若者が座っている、正面の建物がサリンベーニ宮(14世紀のゴシック建築)

左側の日が当たっているのがタントッチ宮(16世紀)、一方右がスパンノッキ宮(15世紀後半)この壁面上部に有名人の頭部が並んでいる。

中央の銅像は、会計学者サルスティオ、正面の建物内部も素晴らしいようですが、当時は未公開でした。

・・・この広場を裏側に回り、先に見えるの丘の上に、修道院でドメニコのライバル、サン・フランチェスコ教会があります。

さて、メインストリートのバンキ・ディ・ソプラ通りを・・・中心部の南に進むと100mほどで左に

ここにも教会が、ガイドブックでは、サン・クリストフォーロ教会、12世紀頃建てられたとあります。

ギリシャ彫刻の流れでしょうか、両サイドの壁がん(ニッチ)に素敵な彫刻がありました。

12~13世紀には、これほどの彫刻作品は無いでしょう。

この教会は、ロマネスク様式ですが・・・何度も改造され・・・最終的に完成したのが1711年、

しかし、1798年に大地震が襲いファサード崩壊しています。

再建は、時代が変わりバロック・ロココの次・・・新古典主義と呼ばれる様式が流行っていました。

・・古きギリシャなど古典を見直す動きです。

作者は、Giuseppe Silini 1802年のようですが、詳細は・・・残念ながら、不明です。

BEATA NERA TOLOMEI  彼女も聖人と思われます。

この教会は修道女たちの修道院でしょうか。

 一方、どくろと本を持つ聖人は、法律を学んだ SAN BERNARDO TOLOMEI 

シエナ生まれの聖人です 聖ベルナルド・トロメイ ペストで1348年亡。

街の中心部に急ぎます、

ビルの間から、・・・見えてきます。こんな光景が

緩やかな下り坂になっています。

 ここが有名なカンポ広場、

プブリコ宮殿、マンジャの塔、ガイアの噴水・・・略

かつて、ガイドブックから、下記のような備忘録を作成していた。

続きが・・・チョッ見つからないが・・

さて、カンポ広場を左に見て、その先右手の丘の上に・・・回り込んで坂道を登ると・・・ドゥオモ広場に出てくる。

古代ローマ帝国の町があったカステルヴェッキオ山の頂上とのこと。

1260年。ライバル・敵国フィレンツェとのモンタペリティと言われる戦いに大勝利した頃に、このドゥオーモの建築は始まっていたようです。

当時の建築平均工期は、ロマネスク様式の時代は、凡そ着工から完成まで50年・・・携わったものが完成を見ることができるか微妙な工期です。

これがゴシック様式になると、既存の教会より威厳を求めさらに大きく高くステンドガラスに彫刻に、内装を華美に・・・

凡そ、着工から100年計画・・・国教である宗教団体ですから、誰の時代に着工したかが重要で・・・完成時期の責任も、保証もなし、目標は?

完成したら・・・新たに区割りを考え直そうということでしょうか。

この教会、1282年ファサードの建設が始まります・・・下側は13世紀末のデザイン、上部は14世紀後半のデザインといわれます

長期に渡るので、関わる人々も多くなり、デザインだけは、途中で調和を考え、上半分は最近のゴシック調で統一するぞ・・・などとなるのでしょう。

宗教は強い、・・・長年予算が無く建設が中座しても、後を引き継ぐ者がでてくる・・・地獄には落ちたくないでしょうから。

シエナは、ローマ帝国時代はローマの植民地であり、「オオカミと双子」は町のシンボルです。

このような彫刻以外にもいろんな所で、親しまれているようです。

ロムルスとレムス・・・ローマ建国の神話に登場しますが、神話ですから多少は無理があるでしょう、

双子の誕生までの前段がありますが割愛、テベレ川に流されオオカミの乳で大きくなり、羊飼いが登場・・・この後の進展も?

やがて兄弟の争い、弟レムスが殺され、一説ではそのレムスに二人の息子がいて・・・逃れた先で興した街がシエナ、

なるほど、・・・あちこちで良く見かけ、大事にされているわけです。

一方、テベレ川の川岸に近いパラティーノの丘にロムルスが建国し、都市として発展し、ローマと呼ばれるようになったといわれています。

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フィレンツェ あれこれ

2019-06-10 | 旅行記

フィレンツェ、アルノ川、河口からこの街の上流まで、船の往来ができた時代の地図のようです。

良く見るとジョットの鐘楼、花の聖母の大聖堂が中央に見えます。

右隣にシニョリーア広場のヴェッキオ宮も見えますが、現在、ウフィッツイ美術館として利用されている建物は建っていないようです。

ウフィッツイと呼ばれた建物、その回廊の上部2、3階が美術館となり、渡り廊下で隣の建物につながりイタリアで一番人気の美術館です。

 

今日のフィレンツェ旧市街の骨格は、16世紀に波乱のメディチ家・コジモ1世によって完成されたと言われます。

この建物ウフィッツィは、1580に完成したフィレンツエ共和国政府の政庁舎で、コジモ1世のお抱え芸術家が設計しています。

チマブーエからミケランジェロまで133人の「画家・彫刻家・建築家列伝」を1550年に出版した有名人、ジョルジョ・ヴァザーリです。

・・・さて、今日では個人での予約が取りにくいと言われるウフィッツイ美術館、回廊に入場ゲートらしきものができていた。

団体客が指定された範囲に順番に並び、・・・やっと・・・ゲートを抜け館内でセキュリティチェックを受け・・・3階に上がり、そこで改札

・・・フィレンツェのガイドの方は、この第一廊下で天井画のグロテスクについて説明、・・・そしてカメラ・ビデオは禁止、

・・・いや 撮影? できる?・・・。エーッ!・・・そうだった、忘れてた。

・・・確か数年前の秋から撮影可能に成ったはず、・・・ストロボは禁止とか・・・言っている。

慌ててカメラの設定を確認し、感度を上げて・・・ストロボOFF、

説明が終わったガイドさんに・・・独自で回りますのでと行動を伝えに・・・レンブラントやカラヴァッジョの展示室は変わっていない?

エッ!・・・展示されてない・・・2階に無い? 展示が変わった?、閉鎖中?・・・良く分からないが・・・

取り合えず、目の前の13世紀の作品・・・必ずガイドが最初に説明を始める作品・・・一応、節目の作品なので確認しに行こう。

・・・オッ、配置も変わっていた。

・・・チマブーエ から ミケランジェロ その チマブーエ です。

「マエスタ」:この主題で多くの宗教画が教会の祭壇などに掲げられています。

多くの信者たちが同時に見ることができ、神秘的な世界を信じられるような絵画が欲しい・・・聖母子とイエスが分り易く描かれ、背景は金色。

マエスタ:荘厳(ソウゴン・ショウゴン)などと日本語の訳が付けられ、さらに設置された教会名などが付記されて、作品の題名となっています。

チマブーエの作品、1280~90年頃の作・・・(サンタ・トリニタの)マエスタです。

大きな板絵に描かれています、425×243、板にテンペラ、昔の平面的な宗教画ですが・・・服地をグラデーションで彩色し立体感が表現され始めています。

・・・注目されている作品は、・・・ジョットの鐘楼の・・・そのジョットさんです。

チマブーエは、ジョットの師匠としての関連性もあって、比較できるように隣に展示されているのでしょう。

絵が描ける人は、多少基本を学べば、建築物の完成図も上手に描ける、完成予想図が描けなければ、大きな建物は心配で頼めません。芸術家は何でもできたのです。

 そのジョットさんの マエスタ(オンニッサンティの聖母):オンニッサンティ教会にあった信仰画。

「マリアの処女性と母性と威厳に対する賛歌が描かれる」とウフィッツイ美術館2011年の公認ガイドブックでは説明されています。

ガイドブックも含め評論は、作品に新たな発見が見つかったりしますと、当然大きく変わったりしますので、あくまで参考程度に。

 「玉座の聖母子」と紹介している本も多い

この作品は、左の天使が聖母に冠を差し出し、右の天使が、幼子イエスにキリスト受難のシンボル聖体器を差し出している

足元の天使は、マリアのシンボル、バラとユリの花瓶を捧げています。

これらの、いつしか伝えられた決まり事を重要視させ、型にはまった宗教画がこの時代も続いていました。

作品:1310年頃の作品 325×204 板にテンペラ

しかし、この作品は多くの著名人から(ダンテ、・・・ゴッホ)最高の画家だ!たくさん模写をしたい!イタリア絵画・西洋絵画の父などと絶賛されています。

・・・作品の技法が、立体感のある玉座に座った聖母の顔から表情が感じられ、左右の天使の配置も・・・前後に遠近法で描かれています。

この作品は、写実的で新しい時代の先駆けとして評判を呼び、この美術館で徐々に重要な展示位置を確保してきたいるようです。

大部屋の一角に展示されていましたが、今回の扱いで、ジョットはルネッサンス先駆者三人衆の主人公となって来たようです。

 ・・・三人衆のもう一人が、フィレンツエのライバルだった隣町シエナ、金融業務で競い合った街の画家の作品です。

チョット、優雅な雰囲気、この作品は凝っていて額縁に聖人など30人の半身像が描かれています。

 マエスタ:(ルチェッライの聖母)・・・画家:ドゥッチョ・ディ・ボンニセーニャ

1285年頃 450×293 板にテンペラ

ジョットの前の世代、フィレンツェのチマブーエと同世代の画家ですが、チマブーエより写実的でしょう。

これから注目されて人気が出てくると思います。

さて、撮影が可能となれば、展示室の雰囲気も重要です。

このような有名な絵画もあります。

ウルビーノ公爵夫妻の肖像、画家よりも肖像の主人公が有名です。1470年頃の作品、

ウルビーノ公国とは、ルネッサンス真っただ中1443年誕生した新興国で1631年まで存続した。

肖像画のフェデリーコ3世が統治したのは1444~1482年、フィレンツェから東に170~180km、アドリア海に面した小高い丘陵地に宮殿を持つ

小国の軍人でありミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長で無敗の名将、片目を失い横顔が多いとされるが、・・・鼻は合戦で折れた

この作品は、夫妻の絵が向かい合うように2枚の板絵に描かれ、本のように連結されていた、裏側には地元の風景と馬車に乗っている絵があります。

ラファエッロの生家もあり、宮殿は美術館となっている、・・・坂道の街のようだが訪れたい都市です。

この作品は有名になり過ぎました。1465年頃

聖母子と二天使:フィリッポ・リッピ、修道士画家がよその修道女に恋し、モデル・・・そして結婚、娘は後に画家に

この柔らかな輪郭・・・特徴があります。ボッティチェッリも相当影響を受けたのでしょう。

これも有名?ですね 題材が

・・・そして、この美術館の目玉の部屋に進みます、レイアウト、展示変わりました。

プリマヴェーラ(春)1482年頃 板に油性テンペラ

壁面一杯の大作です。203×314 

そしてこちらに ヴィーナスの誕生 1484年頃 リンネル布 テンペラ(キャンヴァス画)

172.5×278.5

あれ、この作品もありましたが

・・・最近日本で公開された際、ポスターに使用されていましたのが

奥に見える作品です

パラスとケンタウロス  1482年頃 リンネル布にテンペラ 207×148

ロレンツォ・・メディチが所有していたなどで、多くの作品が焼失せずここに展示してありますが・・・

サンドロ・ボッティチェッリは、サヴォナローラに心酔していたようです。

メディチ家のような贅沢が批判され、ボッティチェッリは自分の作品も人々を堕落させていると考えたのでしょう

・・・多くの作品をシニューリア広場で焼き払いました。

こちらの多角形の一室には、メディチコレクションが展示されています。

彫刻、そして16世紀絵画が壁面に密集して、当時のスタイルで並べられています。

・・・美術館の南端、・・・廊下の窓からアルノ川が見えます。

天気が良くなってきました。下流まで・・・架かる橋が良く見えます。

遠くに・・・ピサの斜塔が・・・その先に海・・・共に遠すぎてもちろん見えません。

今日は穏やかなアルノ川です、ボート部の生徒でしょう舟艇が良く見かけられましたが・・・。

さて部屋が変わって、この絵も有名です。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のクーポラが完成し、その上に八角形のランターン(採光など)が造られ

更に最上部に球体のシンボルをヴェロッキオ工房がクレーンで吊り上げ据え付けていました。

そのェロッキオさんの、キリスト洗礼 180×152 製作年代は諸説:1473-1478年頃

左端のかわいい天使

弟子のレオナルドが10代で、工房の作品に参加し描いています・・・師匠もビックリ、こんなに技能が優れていたとは。

そして、レオナルド・ダ・ヴィンチによる 受胎告知 がこのようなスタイルでライトアップされていました。

受胎告知のイメージがこの絵で完成してしまったようです。

依頼主があっての宗教画ですから、あちこちで描かれているうちに、・・・人気のイメージに収束されていくのでしょう。

背景の描写も注目されていまして、結構描き込まれています。

右側の建物の3階から・・・渡り廊下です。

北側に・・・フェレンツェのシンボル、クーポラが見えています。

展示作品は・・ルネッサンス時代に限れば、レオナルドの作品を数多く模写したこの人

聖母像を描かしたらNo.1

ヒワの聖母 1505.6年頃 板にテンペラ 107×77.2

ローマで工房を持ち大活躍しています。

教皇レオ10世 など有名な作品も多いですが モナリザに雰囲気が似ている

 

マッダレーナ・ドーニの肖像 RAFFAELLO SANZIO と額に刻まれています。

そして、チマブーエ から ミケランジェロ 

ミケランジェロの作品が、こちら

「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」 1506-1508年頃 板にテンペラ 絵画φ120、額外径φ170

壁画以外の作品は・・・多分確認されているのは、この作品のみ、

この作品にも何故か5人の裸体の男性が登場しています。

額にも登場人物が5人・・・フィレンツエの商人ドーニのために描かれたとありますが・・・。

・・・ルネッサンスがフィレンツエからローマ、そしてヴェネツェアへと移り

そのヴェネツェアの有名画家 テッツアーノやティントレット、北欧のレンブラント

 そして、ルネッサンス後の個性派画家、イタリア出身カラヴァッジョ(Caravaggio)の作品も人気が有ります。

美術館はこれくらいにして、街中で有名になりたいと多くの芸術家を見かけます。

一方、これらの人々も有名人ですが、近づいてきたら関わらず、急いで離れなさい・・・と言われます。

イタリアでは、取られる人が悪い・・・親しそうに話しかけてくる人に関わらないこと・・・昔から言われ続けています。

このデザイン、機能美、インダストリアルデザインは歴史があります。

マネキンも近未来でしょうか、

人気のブランドショップが数多くあります

ミケランジェロが購入し一時は住居として使用し、その後一族、ブオナッローティの家もあります。

市内にも街路樹が欲しいが、鉢植えでした。

少し歩くと、またこの一角に出て来ます・・・クーポラの裏側です。

何度も見てくると、この教会は幾何学模様のデザイン、素材と強調されたラインのコントラストで重厚感、威圧感が強い

色大理石で多少マイルドになってはいるが、目的とする巨大な建物を建てたい・・・は達成されていました。

周囲は全て石造り

石畳の上をマッピングされたバスが通り、

石造りの建物から暖かい光が目に飛び込んでくるとホッとする。

ブランド品の並ぶ通りに、・・・ここにも古い教会が

活気のある、元気な所に行きましょう。

こちらは、裏側になるかも・・・入口です

ここは中央市場、中に入ります。

1階は食肉や鮮魚、チーズ、ワイン、オリーブオイル、2階は青果市場

テーブルがある片隅で食事もできる、地元の市場です。

閉店の時間が近く、急ぎ足でアチコチと、試食ももちろんできます。

地元のワインもありました。

ワインや乾燥ポルチーニ茸など購入し、市場を後にします。

そして、近くを散策

画材にひかれ店内へ、こちらでカレンダー類を購入

この倉庫のような建物、壇上で演奏会です。

この建物の左側に回り込んだ面が正面(ファサード)です、・・・ミケランジェロに制作を依頼してあったが

未着工のまま、何もない石積みの壁面のまま・・・今日へ。

この大きな側壁の祭壇に近い右端にも入口があります、・・・上部の紋章はメディチ家です。

ここは、サン・ロレンツォ教会、メディチ家の菩提寺です

そしてこの右側に、大きなクーポラのあるメディチ家礼拝堂が連なります、内部はメディチ家の墓所

ミケランジェロやドナテッロの聖具室など・・・多くの彫刻があります・・・有料となり公開されています。

さて、こちらも白、緑、ピンクの色大理石で積み上げられたゴシック建築の教会です。

ファサードの前は、目に易しい緑の芝生がありました。

1246年と着工は古いドメニコ派の聖堂です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

しかし、この教会のファサードも、周辺も最近このように綺麗になってきました。

フィレンツェ中央駅が教会のすぐ裏で、この近くに宿泊したこともあるのですが、今回はジックリ探してみましょう。

この教会よりも有名な、・・・1612年に認可され、一般に販売し始めた、現存する世界最古の薬局です。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局

 一度入ってみようとしたのですが、中々入り口が見つからず、教会前のスカラ通りを中央駅の方へ進んだ右側でした。

内部で喫茶室の手前に、薬草を栽培し、薬剤を調合した釜なども展示されていました。

オーデコロン、石鹸、など人気の商品を販売しています。

近くの中央駅に寄ってみましょう。

 かつてはイタリア国鉄が運営する Treni Eurostar エウロスターETR500、現在は民営会社トレニタリアが運行

ローマ、ナポリへ・・・快適な旅となります。

日も暮れて、夜の教会、これはサン・カルロ教会でしょうか

何故かピンクの光に吸い寄せられて、

建物の壁面や角々に窪みが設けられ、聖人などの彫刻が収まっているのが良くみられます。

これらの彫刻を持つビルが教会だったりして、ここにも教会という感じで・・・カトリック教の街でした。


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しまなみ街道から 高知へ

2019-05-22 | 旅行記

以前、瀬戸中央自動車道で瀬戸大橋から金毘羅さん、高松自動車道経由で徳島、鳴門海峡、淡路島と四国の一部を訪れたことがあった。

しかし、愛媛と高知は訪れたことが無かった。何か縁があればと思っていたら・・・

突然有効期限が残り少ないので2万マイルを使ってと勧められ、・・・手持ちのマイルも利用して、・・・、どこにしようか。

湯布院は空港からかなり遠いらしい、で、レンタカーは渋滞を考慮すると・・・断念。

未踏の道府県が3か所、青森、愛媛、高知・・・では四国の2県に行こうと。

10連休が始まる4月末、JALで早朝の松山空港に・・・降り立ったのでした。

翌日からは、レンタカーで計画も無くあちこちと・・・、まずは、地方に行けば必ず立ち寄るこんな場所へ

地元の松山の漁港、そして早朝の市場、どんな魚が上がっているのか・・・興味があります。

刺身用の鯛が・・・結構大きいが・・・何と800円です。

右奥に見えるのが・・・500円 鮮度が若干落ちたのでしょう、沢山揚がっていました。

こちらでは、・・・金目鯛、これも安いですね。羨ましいかぎりです。

この先、高知県にも回る予定なので、函買いもできず、日持ちのするものを購入。

連休に入ったので、市場は祭事が行われ、色んなコーナーに行列ができていました。

テッポー、ホシザメと書かれた場所で、歓声が聞こえてきました。

ちびっ子にサメを触れさせる人気のコーナのようです。

地場の魚市場や農協の即売会、道の駅は、その土地の特産品が売られていて、楽しみな場所です。

・・・では、レンタカーに、持参してきたドラレコを仮止めし、四国のドライブを記録しましょう。

早速トラブル、レンタカーのナビ操作、目的地入力できず・・・イライラ、・・・適当に海岸線付近をアレコレ走って・・・

・・・土地勘が無く、道路標識の地名も役に立たず・・・、ナビ画面の現在地を追いかけながら・・・しまなみ海道、今治ICを目指します。

今治から先は、瀬戸内海の島々をこんな鉄橋7本で本州と結んでいます。

最初に3連吊橋、正確には全長4,105m、世界初とありました。

来島海峡(クルシマ)は日本三大急流の一つと言われる程潮流が速い。

では、今治ICから、西瀬戸自動車道に入って・・・

この橋が、来島海峡大橋です。3連の最初の長い橋です。

平成11年5月から供用、桁下高46~65mと結構高いので景観が素晴らしいです。

この橋はサイクリングロードが併設されています。

サービスエリアにレンタサイクルもあるようです。

3連ですから、今治側から来島海峡第三大橋、来島海峡第二大橋、そして大島側が来島海峡第一大橋と名前が付いています。

・・・本州側から見て、第一・第二・第三と名前を付けたということですか。

そして、3連目の橋を通過すると隣りの大島へ

・・・大島では、今治側からは大島南ICで降りられるが、次の大島北ICでは降りられないようです。

二つ目の伯方島へ架かる橋が、伯方・大島大橋、

これは長い吊橋で海を渡り、続いて桁橋で伯方島の砂浜を渡っています。

吊橋の大島側が桁下高:32m、そして伯方側は、桁下高:26m、

共に昭和63年1月から供用とあります。・・・この間は先に運用されています。

そして、その隣の大三島までが愛媛県今治市の管轄で、その向こうは広島県尾道市のようです。

 この大三島橋は、昭和54年5月供用開始ですから相当古いです。

では、・・・伯方の塩(ハカタノシオ)有名ですね・・・伯方(ハカタ)島ICで一般道に降り、

道の駅、伯方S・Cパークの「マリンオアシスはかた」に立ち寄りましょう。

伊予柑は終わったのか、不知火(デコポン)、清美(キヨミ))オレンジや瓶ジュース、

伯方の塩など購入、食堂の塩ラーメンも人気のようです。

ここには公園、テニスコート、体育館もあり、 隣では・・・砂浜も

 

良い所ですね・・・海水浴シーズンは込み合うでしょう。

砂浜の向こうに・・・桁橋が架かり、その先、隣の大島との間に吊橋が見えます。

・・・この先、広島に行くと帰りが遅くなるので、ここでUターン、

隣りの大島の大島北ICで降りて、展望台に行きます。

・・・ナビが入力を受け付けないのは、運転中は操作ができない・・・成る程、そうでしたか

多分20数年前のSONY製品からPanasonicそしてPioneerと、使い勝手を良くして使用していたので、このナビは上手く使えない。

適当に走ろう・・・一般道を大島南IC近くまで進み、左折して山道へ、途中右折し狭い道を上った先に、展望台の駐車場。

そこから丘の上に徒歩で進む、売店横に大きな亀が

ここは、亀老山(キロウサン)展望公園、標高約308m

この階段を上り、その先の不思議なコンクリートの構造物に入り、階段の先が左右に分かれている・・・

2ヵ所の展望台が設けられていました。

ユニークなこの設計は、隈 研吾さんのようです。

・・・新国立競技場コンペで決定したザハさんの斬新なデザイン、審査員には安藤 忠雄さん、

しかし日本スポーツ振興センター事務局と政治家が大甘で、壮大な施設をコンペで要求していました。

結果、造ってみたら想像以上に高くなりましたが、何とかヨロシクと従来の手法で進めようとしたが、

この手法が非難され、施工主、政府・・・2015年夏に、耐え切れずコンペ採用案を没にしました。

再募集、・・・ありましたね。

大成建設が隈(クマ)さん設計案で現在建設中、突貫工事で問題なく本年11月頃完成しそうです。

 ここの展望台は、人気が高いようです。

この大島には、北の伯方島側に、標高232mカレイ山展望公園もありますが、

この四国に架かる来島海峡3連吊橋の景観、そして瀬戸内海の島々・・・行きかう船舶

船を追っても、ライトアップを狙っても・・・素晴らしい被写体です。

もちろん360度の展望台です

日の出も夕焼けも・・・四季折々の表情が・・・

これは、またの機会に

他にも、この瀬戸内海で戦国時代に有名になりましたが、海賊、村上水軍の博物館などもあります。

もう一か所、来島海峡SAに寄って行きましょう。

ここでも水道からジュースが飲めます。

正確には、・・・蛇口に口を付けないで、コップで飲みます。

そして、流れの速い来島海峡を航行する船・・・

このSAに、しまなみ海道の七つの橋の案内板があります。

四国側の三つの橋以外は・・・

広島側から、尾道大橋、因島大橋

そして、生口橋、その先の愛媛県との県境にある多々羅大橋は、世界一の長大斜張橋のようです。

この四つの橋と合わせて計七つの橋で本州、広島県と四国愛媛県が結ばれています。

西瀬戸自動車道の全線、向島ICからの総距離は約60km

普通車で、しまなみ海道全線の通行料金は、平日¥2,890-休日割引で¥2,260-です。

・・・暇になったら、今回行けなかった宇和島と愛南町に行こう、マイカーで、・・・スマが食べられなかった。

携帯用の釣り竿を持参したが、朝まずめ、夕まずめ・・・この時間帯、何かと忙しかった。

・・・さて、今治に帰って来て、今治と言えばタオル、タオル美術館が丘の上にあります。

・・・・・中断、

5/25週末から30度を超える真夏日、

遮を掛けて、取り合えず高温が嫌いな植物対策もしなければ・・・、

これから毎週末、神田、三社、湯島天宮と夏祭りが賑やかに続きます

そして、この時期学校では運動会、・・・今年は30度越え、・・・厳しかった

水分補給を十分して下さいとの放送が流れ・・・、

クーラーが利いている体育館などもご使用下さいと・・・、熱中症で倒れることのないように

グランドでは、大歓声の中、・・・頑張る生徒たちの姿が

初夏の異常な暑さにも負けず、熱戦が続きました・・・

・・・自宅に帰り、引き続き水分を補給するが・・・喉の渇きは治まらず、・・・多分軽い夏バテだったのでしょう。

・・・マズイ、未整理の画像が増える一方で、動画の編集は手付かず、名案が無く

整理とは、不必要なものを捨てること・・・画像は評価して残す方法があるが・・・

季節が変わってしまう、・・・

高速で、いよ西条ICで降り、石鎚登山ロープウェイ前まで山道を登り、ロープウェイに乗り、西日本最高峰の1982mの山。

日本百名山の天狗岳、その頂からは瀬戸内海を一望できる霊峰に上る計画を検討したが、半日コースとなり・・・断念。

高知自動車道で、県境のトンネルを何ヵ所か抜けて高知県へ

このパノラマ画像は、桂浜から東の方向です。

約10kmくらい東に高知空港(高知龍馬空港)南国市になります。

東の半島の先が、室戸岬、約80㎞くらいでしょうか。高速道路は無いようです。

桂浜東の岩礁地帯から西の海岸線を・・・こちらが桂浜、高台の円柱の建物は、国民宿舎

砂浜の右奥の建物が、桂浜水族館 

この一帯は、桂浜公園です。

前方の高台に移動します。

高知といえば、坂本龍馬、坂本龍馬記念館です。

現在地の案内板が

高台からの太平洋・・・東、室戸岬方向です

そして西側、太平洋に面した、高知の浜です。

一転して、翌朝、中心部の、はりまや橋商店街

これは早朝、AM8:00頃、まだ大半がこれから開店準備でしょう。

昨夜は夜8時頃には、この通り・・・飲食店が数件だけの営業でした。 

・・・松山市もこの高知市も・・・立派なアーケードが何本も走っています。

雨の日や真夏の日差しが避けられるので、アーケードは有難い存在です。

維持管理が大変でしょうが、

こちら、はりまや橋駅でも、維持管理しながら懐かしい日本の路面電車が走っていました。

欧州では、石造りのビルと石畳の風景に、トラム(路面電車)が地面を滑るように走って・・・妙にマッチしている。

目に易しい緑の雑草?と重量感のある台車が目立つレトロな電車は、・・・ローカル色豊かで親しみがあります。

 さて、朝の散歩を兼ねて、アーケードを西に進んで、一本右の道路に出ると・・・ 

日曜朝市です。相当歴史があるようです。

お城に向かう片側2車線の一方を通行止めにし、露天商が並んでいました。

野菜、果物、乾物、薬草、色んなものが並んでいました。

この先の左側の建物に入ります。

ここも有名な観光名所、

テーブルが沢山並び、市場の食材を買って、食事ができます。

ホテルで朝食を済ませてきているので、残念ながら購入せず、下見をしたので帰ります。

四国と言えば、弘法大師空海、四国八十八ヶ所霊場の内、高知県内に十六あります。

土佐市の有名なところが、第36番、青竜寺(ショウリュウジ)

高知県土佐市の浪半島突端にあります。

昭和48年に「宇佐の大橋」が湾口に架けられた。

その大橋を渡ってこの寺まで車で来ることができる。

しかし、かつては弘法大師も浦の内湾を船で渡ってこられ、この地に石造りの不動明王を安置された。

四国八十八ヶ所霊場会HPから抜粋

宗派:真言宗豊山派、本尊:波切不動明王

開基:弘法大師、創建:815年(弘仁6年)

第36番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺(トッコウザン イシャナイン セイリュウジ)

この手作り感のある石段が、歴史を感じさせてくれます。

先の山門を抜けて、左手の手水場から本格的な石段が続きます。

 

海風が感じられない、斜面を削り取ったのか、両側に木立が並んで・・・新緑の季節、清々しい。

最後の急な石段です。

そして、不動明王が・・・

階段を上って、境内の右側からの画像が

ブログ、急ぎ足で・・・

高知で、この場所を追記しなければ・・・高知城近くの県営駐車場に車を入れ

大河ドラマで・・・有名な女性です。

・・・信長が上洛した頃、馬の市があり、信長家臣名馬に出会うが、高値に誰も手が出せない

・・・これで買いなさいと一豊の妻・千代、持参金10両へそくりを一豊に・・・、

関ヶ原の合戦後、功成りて、この地の浦戸城(現、坂本龍馬記念館横)城主となったのが山之内一豊、

その後、高知城を築城し1603年一豊入城、1611年には三ノ丸も完成しています。

1727年、城下町の大火で城郭の大半が焼失、1749年天守閣などが再建され、何度か修理を受けながら今日に至る。

そんな高知城、一豊よりも有名人の・・・千代と名馬が迎えてくれました。

・・・城の東側から進むと、右の櫓門が追手門、高台には天守閣が見えています。

分り易い道順で右側の石段を登る

 

と、間もなく広場のある二ノ丸へ

ここで左側に、屋根付き通路状の建物に進んで行く

ここは土足で進みます。ここは2階建ての2階、この下に1階部分がある。

この向こう側が本丸で、こちらの二ノ丸側と掘割状に分断されていて、このような橋廊下で防御効果も。

標高44.4m、本丸に到着

同じ江戸時代の築城ですが、旧敵陣の中で建立した迷路状の姫路城に比べると、遥かに穏やかなお城です

ここで入場券を購入し、下駄箱に土足を収納し、天守閣へ。

階段が見える向こう側から、ジオラマの城内に入ってきました。

このような展示室もあります。

右が本丸、左の二ノ丸との間に渡り廊下(詰門)が見えます。

この天守の構造は、外観からは4重に見えるが、内部は3層6階建て

安土城や大阪城の天守に近い形式とあります。

天守閣の5階部分には、全国各地の天守閣の写真が掲示されていました。

中央にあるのが最後の階段・・・、上の天守閣の入場制限をしているのか・・・長い行列が出来ていました。

そして、天守閣から東側、日曜市が開かれている方角、左、高知駅から、右に、はりまや橋

 南側は、浦戸城の向こう側に太平洋、桂浜があります。

西側は、坂本龍馬の生誕地がすぐ近く、その先は・・・土佐市方面

そして北側、眼下に二の丸、・・・遠方に高知自動車道が走っています。

本場のカツオのたたき、それとフルーツトマトを食しに高知城を退城。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平成最後のフライト

2019-05-18 | 旅行記

早朝、羽田は小雨模様だった。

フライト時間は、1時間でこんな景色

さらに高度を下げ、・・・海から着陸態勢へ

サァ、リムジンバスで市内へ

この柑橘王国にやってきました。

先ずは、このミュージアムへ

このすぐ近くに生家がある秋山好古、秋山真之の兄弟、そして真之の友人正岡子規の三人が中心、

1968年~1972年、約4年間 産経新聞の夕刊に連載されたこの小説が

映像化は難しいとされていましたが、NHKでドラマ化され話題になりました、3年越しの3部作。

第一部が2009年年末、翌年も年末に第二部が放映され、

完結編が2011年年末、世界が驚愕 東郷艦隊 ロシア バルチック艦隊に大勝利!・・・スペシャルドラマでした。

・・・この建物は、安藤忠雄氏の設計で、コンクリート打ち放し モノトーン 独特の世界がありました。

ミュージアムとして、入場者の導線を一方向に導きながら、・・・このようなアクセントも設けてあります。

吊り橋構造です・・・少し横から見てみましょう。

3Fに、正岡子規の世界がありました、・・・今日TVで大ブームとなっているのを喜んでいることでしょう。

毒舌ながら的確な添削で人気の 夏井いつき 先生、正岡子規を再び有名にし、さらに・・・この街を元気にされたようです。

・・・近くの小高い山麓に・・・ポストが置かれていました。

その横には

この地出身の有名人が・・・並んでいました。

では、標高480mにある歴史遺産に向かって坂道を上って行きましょう。 

丘の中腹までケーブルカーやリフトもあるようですが・・・。

そしてケーブルカーの終点近くに、先程のポストが置かれていました。

坂道の先に・・・江戸時代の石垣が・・・

そして天守閣が見えてきた。

右に回り込んで、太鼓門を入ると・・・

広場を進み、八重桜の先に

茶屋のような・・・

ここで、天守閣に入場する観覧券¥510-/人を購入する。

一ノ門、二ノ門などいくつか通り・・・

この案内板、

下足を預け廊下を・・・天守に上がる前に、

小天守などに上がり

そこからの天守閣です。

このような武具の展示もあります。

そして、天守閣からの眺望は、・・・解説付きの展示パネルがこちら

画面左サイドが・・・瀬戸内海です。

もう少し左に松山空港が

東は、左の上方山裾に 道後温泉があります

そして、南に移り・・・右の斜め上に松山駅が・・・

西の解説付きの画像が・・・見つからないので、説明無しの画像です。

小高い丘の向こう側は、平地の先に・・・松山空港があり・・・瀬戸内海に面しています。

 

・・・こちらの城の案内板は沢山ありましたが、割愛・・・。

そうでした、・・・ここは愛媛県松山市、松山城

松山といえば、坊っちゃん・・・そして、この樹が

ナンジャモンジャ(モクセイ科のヒトツバタゴという珍樹)初夏にふさわしい白花、

なぜ、ナンジャモンジャと呼ばれるのでしょう?

・・・そんな造花のようなフワフワした白い花の・・・街路樹が続いていました。

昼食タイム・・・

ホテルチェックイン後・・・夕刻に、道後温泉へ

移動手段は、市電や坊っちゃん列車、バスなどがあります

そして道後温泉 到着!

 道後温泉駅前ロータリーの先に、立派なアーケードがあり、その右側には、有名なからくり時計も

アーケードを進み、途中で右に曲がると、この商店街の正面が目的地です。

途中、ユニークな人々が出迎えてくれていた。

その横に、 再会の 子らと道後の 初湯かな 入選作でしょう 掲示されていました。

で、こちらが道後温泉本館です。

1994年、国の重要文化財に指定されましたが現役の公衆浴場として営業しています。

1894年(明治27年)改築した木造3階建て、その後3回程改築があったようです。

 

 正面の右側、窓口に進むと、小さな衝立に「入口は左に進み・・・」と横の入口へ進むように・・・

そうでした、この本館はWebで調べたら・・・保存工事が始まったと 案内がありました。

霊の湯(男女)、新殿、ここの2階、3階休憩室は、残念ながら使えないとのことでした。

・・・左側に進むと、・・・人力舎が客待ち中です。

その先を、左に回り込むと

奥で工事関係者が仕事中、・・・その手前に入口があるようです。

見上げれば、立派な3階建て・・・火の鳥が目立っています。

この内部は撮影禁止、道後温泉本館HPより抜粋します。

 入口の番台で入浴料¥410-を支払い、(上の写真は、本来の正面からの入口のようです・・・通路が長い)

右が神の湯(女性)左が男性

浴室の画像には、下記のような案内文がありました。

「 石造りの浴室に砥部焼の陶板画が飾られ、大きな円柱形の「湯釜」と呼ばれる湯口が鎮座する浴槽は、

道後温泉本館の独特な雰囲気を作り出しています。」

何故か、湯釜を見ていると・・・夏目漱石もこの浴槽で泳いだような気がしてきます。

入り口横には、工事の案内看板がありました。

連休明けから・・・屋根にもシートが掛けられたでしょうか。

・・・翌日はレンタカーでドライブです。


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サンタ・マリア・デル・フィオーレ 花の聖母教会(クーポラを架ける)

2019-04-20 | 旅行記

ミラノのドゥオーモは、威風堂々 美しい容姿を誇っています。

広大な広場、その周囲に屏風のように建物が並び、東側の視線の焦点にどっしりと・・・ピンク&グレー色大理石の優美な教会です。

こちらのフィレンツェのドゥオーモは、・・・見上げるだけ・・・全景が収まるだけの周囲に広場が無いのが残念。

一番の撮影スポットが、・・・ドゥオーモ正面ファサードから鐘楼と洗礼堂の間を100m強西側に離れます。

ジョットの鐘楼が主役になっていますが・・・ここが最善のポイントでしょう。

正面入り口(ファサード)は、手前のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の真向かい(向こう側)となっている。

先に完成していたのが洗礼堂ですから、やむをえません。

では、ドゥオーモの南側は・・・細長い広場はあるのですが

(昔の画像)本堂に沿って、このような撮影はできますが、全景は、・・・南側には建物が建ち並び後ろには下がれない

南西のファサード側に進みクーポラを入れて全景が入らないかと・・・・右後ろに鐘楼があり・・・これも無理。

・・・昔、整理したものがありましたので参考に。

・・・洗礼堂の向こう側から、見上げる感じのドゥオーモの正面を画像編集して・・・全景がこんな感じ。

(これは以前の画像)

・・・まずは、教会隣のジョットの鐘楼・・・建物は、高さ:84.7m、階段414段、・・・ではこちらに登りましょう。

これも以前の画像から、チケットは鐘楼に入ってすぐの窓口で、・・・後は階段を一気に上がりましょう。

隣りのドゥオーモに比べ登る人が少ないので、空いています。

外観から想像できるように・・・四角柱の中に階段ですから、確か何もない狭い所を・・・ひたすら・・・単調な連続動作です。

 右の瓦屋根の間の所から、左の通路にでてきました。

隣のクーポラを見るために上がってきたが・・・

半球では無く、八角形をベースに補強用でしょうリブが頂上部に延びています。

8本骨の雨傘を引き延ばしたような縦長形状です。

よく見ると1辺に横3か所、穴のような跡が3段あります。

・・・これは二重クーポラの間の部分に採光と風の通風対策のようです。

採光の主力は、ドラムと呼ばれる部分に設けられた8か所の大きな朝顔状円形部です。

ここにステンドグラスが施工されていると思います。

・・・このクーポラは、フィレンツェの毛織物業界の威厳をかけて完成させなければと、・・・頑張っていたのですが・・・

1347年秋、インドから香料とクマネズミをジェノヴァ船が運んできて、・・・ペスト菌が拡散。・・・大打撃

その後1年間でフィレンツェ住民の80%が命を落としたといわれます

・・・10年後、他国から労働者も受け入れ・・・経済も少しは上向き、やっとクーポラを何とかしなければという雰囲気に・・・

歴史小説家:ロス・キング氏の ”ブルネレスキ” を参照して当時の様子を調べてみました。

・・・1418年8月19日、布告「目下、大聖堂造営局が建設中の大聖堂に主クーポラを架けるための模型ないし設計図・・・

または建材の引き上げ装置を製作しようと思う者は、9月末までに提出を、採用された者には、200金フィオリーノを与える」

この200金は、熟練工の2年分の収入を上回る大金(作者推定1500万円)です。

 この当時のフィレンツェは、どんな状況だったでしょう。

高さ約6m、外周8kmの城壁を50年かけて1340年に完成していますし、市庁舎(ヴェッキオ宮)と付属の90mの塔も完成していた。

1359年には、上っているこの鐘楼が20年かけてこちらも完成していた。

日常の様子は・・・建設現場にはレンガ工や鉛職人、鳥の巣のような足場によじ登る人々、炉から黒い煙が立ち上り、鍛冶屋が槌を叩く音、

牛が荷車を引く音、料理人や、職人にワインを売る者たち、そして指図(サシズ)の怒声が響き渡っていた。

まだこの時期には城壁の内側に麦畑や野菜畑、羊の群れが追われていたりと・・・農村の面影は残っていたそうです。

市内には砂岩の石切り場があり、アルノ川の砂はモルタルの原料であり、川底の砂利も利用でき、森は建材の確保に丸ごと接収され、

近隣の街から巨大な大理石が運べる状況にあった。

・・・この教会の礎石が据えられたのが1296年、設計者は石工頭のカンビオ。

彼は、ヴェッキオ宮と城壁を手がけた実績があった、しかしこの教会の着工直後に死去。

・・・石工達が数十年かけてこの地にあった二つの教会の撤去を行い、敷地の解体や整地も着々と・・・

当時、完成すればこんな教会と・・・建設中の南側廊に幅9mの縮小模型が注目され鎮座していた。

さて問題なのは、この縮小模型に巨大クーポラが架けられていたことだった。

カンビオも・・・それ以降の誰も・・・巨大クーポラを架けたいが・・・完成までの道筋を示すことができなかった。

建設が決定してから50年間、建造方法はいつか神が答えを与えて下さり、最新の知識を持つ建築家が現れることを祈っていたのだ。

・・・では、鐘楼の屋上部を一周して・・・降りましょう。

上部の階段は・・・こんなすれ違いが大変な幅の狭い所で、

・・・上がってくる方を待って、すれ違いです。

・・・フィレンツェ・・・日が沈み、照明は必要な所に最小限

夜のドゥオーモ広場です。

ドゥオーモ周辺は人通りも少なく・・・照明の少ない所に行くと・・・大理石に囲まれた非日常の空間は、

・・・ひんやりとした空気が流れ・・・一瞬、中世の人が飛び出して来た? 事件か? そんな気がして振り返ったが何もなかった。

フィレンツェの街中は、この後、道路・広場・中庭、平地を全て大理石などで覆っています。

・・・緑が必要?・・・郊外の邸宅にはブドウ園など保有している裕福で自己主張の強い人々が支配する・・・共和制の都市です。

さて今日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)のシンボルといえば、大きなクーポラ。

1418年の布告後、どうなったのでしょう?

・・・ローマで古代ローマ人の遺跡やパンテオン(悪魔の家と呼ばれた)などを10年以上調査した二人連れがいました。

その内の一人、時計職人・金細工師フィリッポ・ブルネレスキがコンペに参加し、最終2案に入った。

競合相手は、ロレンツォ・ギベルティ(金細工師)で、・・・宿敵だった。

・・・十数年以上も前の1401年に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉の新設コンクールが行われた。

7名の応募者があり、34Kgのブロンズ板を支給され、ブロンズ彫刻作品(43cm×33cm)を1年後に提出することとなる。

作品の主題は、創世記の22章の「イサクの犠牲」で、結果は、ブルネレスキと無名だったギベルティが今回と同じく最終2案に残った。

一説では優勝は両者、共同での制作案に対して、ブルネレスキは単独制作を主張、・・・審査員に拒否され・・・コンペから辞退している。

その護、残ったギベルディによって完成した扉がこちら

天国の門と言われ、主題の「イサクの犠牲」は右列の上から2番目、その左はノアの箱舟、聖書の各場面が描かれている。

・・・今回のクーポラのコンペは、またも羊毛組合の審査委員達、両者の模型を比較しても結論がでず・・・

(建築の素人審査員ですから無理もない、斬新な案には提案者から具体的に丁寧な説明がないと理解ができないでしょう)

従来の経験の延長線で大規模な保持型枠を沢山作れば可能という案と、型枠など無しに造れるという斬新な案のブルネルスキ

無難なギベルディを押す審査員にアイディアだけが盗まれるのを恐れたか、工法を公開しないで単独受注にこだわるブルネレスキ

・・・結局1420年春になり、優勝賞金の無きまま、審査会が38歳の石工頭を総監督に指名した。(設計はできない現場監督だった)

さらに、審査会は二人を総監督に追加する・・・(そうです、最終案に残った二人の提案者です)

他にも、60歳の知名人哲学者が建築経験の無いギベルティの補佐として総監督になります。

結局総監督は4人でスタートとなった。・・・(多くの船頭の一員の立場だったが、ブルネレスキは辞退しなかった。)

3か月後の1420年夏、ブルネレスキも建築経験は少ないが、ローマでの調査や透視画法の実力者として知られ、彼の模型を基に仕様書が採用された。

12項目の覚書には、しかし具体的な作業手順・施工方法は書かれていなかった。

ブルネレスキに賞金は支払われていない。・・・(不満は大いにあったが、調査した古代ローマの知識を生かすことに生涯をかけたのでしょう。)

・・・(クーポラ内部に上り、別途工法は考えてみましょう)

時は流れ、その後クーポラの頭頂部、ランターンと呼ばれる八角形の小屋(採光・通風の役目など)は1461年に完成します。

さらに、その最上部に取付けた球体はヴェロッキオ工房が製作しています。

1466年にレオナルドが14歳でこのヴェロッキオの工房に弟子入りしています

” 球体の作り方を見た ” という レオナルドの話が伝わっていますが、巨大な建築物より歯車仕掛けの装置に関心が強かったようです。

これでクーポラの外観は今日のような姿、完成形になりましたが、この時点では、クーポラ内部には、・・・天井画は描かれていません。

入口のファサードも・・・強度に問題があり、建設途中で中断、1587年取り壊されて・・・未完成、仮設の状態と思われます。

レオナルドがフィレンツェ在住当時、目にしていた教会はクーポラ内部は仕上げられていないが、教会としては利用されていました。

(・・・今日のような正面ファサードの完成は、後年・・・1887年頃となります。

フィレンツェは1443年からメディチ家の統治となり、ギリシャ・古代ローマ時代の文化を積極的に発掘し、学ぼうとしています。

・・・高い建物の上部に銅製の球体が乗り、さらに突起部が伸びている(避雷針の知識はなかった)・・・雷も落ちたようです。

サヴォナローラの時代、このドゥオーモで日曜日には2万人もの信者に説教をしています。

・・・そんな中、1492年4月5日に落雷が起きたとあります。

落雷で頭頂部から何トン分もの大理石が落下し、その落ちた方角から人々は不吉な予感を感じた。

その時、芸術家のパトロン、豪華王と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチは熱病で別荘の病床だった。

石材が落ちた方角を聞かされたロレンツォは「私はもうおしまいだ」と叫んだ。落雷から3日目、亡くなった。

・・・ルネッサンス真っただ中のフィレンツェは・・・リーダーを失い・・・またもや紛争勃発の危機。 

当時レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ王国、ミケランジェロは教皇に呼ばれローマで仕事とフィレンツェにはいなかった。

・・・( 完成したクーポラに上ってみましょう )・・・

ドゥオーモの南西にある入口から、・・・階段は、合計463段のようです。

まずはクーポラが架かるドラム部までが地上43mです。

建設工事時、階段は本堂の周囲壁面に4か所設けられ、上りと下りは専用だった。

見学者はこの当時の階段を利用して上ることになるようです。(職人は40階建てに相当する階段を毎日上っていた)

扉の内部階段スペースは、四方が壁で薄暗い・・・数段くらい上り、右に90度曲がり若干上がり、また右に折れ数段と・・・

天井が高い2階分くらいに到達、明り取りの窓から、ドゥオーモ南の建物が見えた、

さらに1階分上がる度に明り取りの窓があり、

屋根が見えるので3階くらいの高さでしょう。

さらに明り取りの窓を3か所過ぎたころにようやく、変化が・・・広い所にでてきた。

この部分は多分 身廊部の屋根が架かる付近の高さで、クーポラとの接続部あたり・・・

このような儀式中の人々が出迎えてくれて、・・・

 この階で工事が長い間中断していて、石材や道具類の小屋などがあったのではと想像するが・・・

この位スペースがあれば、ブルネレスキが労働者向けに食堂を設置することも可能だったでしょう。

左に進むと、"禁止 壁に落書きしないで” と警告が掲げられていた。

内部に入ります・・・多分この先からクーポラの架けられる円筒部の建物になるのでしょう。

この先、右側に螺旋階段部が、

・・・これは時計と反対回りに上る・・・150段あるようです。

こちらは、ぐるぐると狭い範囲を上って行く。

(下りの螺旋階段は別の所にあり、時計回りに下りてきます)

 明かり窓が大きくなり、格子が入っている、下界の様子は・・・

目の前に右下がりのレンガの屋根が・・・これは翼廊と呼ばれる部分の屋根のようです。

 屋根より上まで上がってきました。もうすぐ・・・でした。

翼廊と円筒部の接合部あたりにいるのでしょう、らせん階段が終わり、右に進む通路が見えます。

この通路の先、左側に明り取りの窓があり、そこで直角に右に曲がります。

数メートル進むと・・・ゲートがありました。

今立っているのは内殻と外殻の隙間、・・・いや、二重構造の内側(内殻)の壁に開けた通路でしょう。

 

ゲートから内部に入ります。

右には進めず、左に一方通行

日本語も見えます、・・・「立ち止ま ず」

八角形のクーポラ内部を、約半周するのかな・・・内側には透明樹脂のフェンスが設けられています。

この高さから上部には・・・壁面に明り取りの丸窓があり、ステンドグラスが施されている・・・ドラム部が周囲にあります。

クーポラの基礎部として、円筒形のまま高さをかさ上げするために約9mも積み上げた部分がドラムと呼ばれている。

クーポラは難しくて架けられないが、当時の石工ができるところまで造ろうとしたのでしょうか、

1410年にドラムを完成させ、ガイドブックではドラム最上部では高さが55mとか

・・・参考にしたロス・キング著「ブルネレスキ」では、

1420年8月7日朝、地上43mの高さで大聖堂造営局が現場で働く石切工、石工ら労働者に朝食を振る舞い工事開始の祝宴を行っている。

ドラムの上部に上がらず、この階で祝宴を行ったとすれば大体話は合いそうですが・・・。

(・・・展望台からの下りでは、この位置より高い、このドラム部の上側の通路を周回します。)

この位置から天井のランターンを見上げると、採光効果が必要なのがよくわかります。

 

(これらの天井画:最後の審判の制作は、1572年~1579年 ヴァザーリとズッカリ作と言われています。)

1541年にヴァチカンのシスティナ礼拝堂の有名な「最後の審判」を仕上げたミケランジェロは、

1564年亡くなっていますので、故郷フィレンツェのこの天井画を目にし、批評することはなかった。

クーポラに進むため、周遊通路からまた二重クーポラの隙間に進みます。

 1426年には大聖堂造営局が作業を怠ける物がでないよう、石工が日中ドームから降りることを禁じています。

ブルネレスキは外殻と内殻の間に食堂を設けて、火も使えたといいますから、すごい状態ですね。

約800Kgもある砂岩の切石を何百個も、・・・地上からドラム上部にどうして引き上げるのか・・・

1418年のコンペで装置も募集したが、模型は1件も提案されなかった。

ブルネレスキは何か考案しなければ、作業が進まない・・・時計職人の知識もあり、このような巻き上げ機を開発した。

ピサで作ったロープの長さは・・・、何と180m、重さ450kg以上、・・・そして、この装置は1421年夏に完成しています。

性能は、牛1~2頭の動力で、一日平均50回、およそ10分に1回の割合で荷揚げを行ったとあります。

1421年秋ブルネレスキは賞金を要求した・・・結果、これまで使用していた者より有効として100フィオリーノを得ている。

しかし、まだ問題はあったようです。・・・この高所での、石材の微妙な水平移動が難しかった。

(完成するか保証も無く、完成目標も無く、良く予算をつけ、材料を入手し、大聖堂造営局は担当者を次々と引き継ぎ継続したものです。)

・・・クーポラには結構登る人が多いので、前の人と間隔を取り、あおらずユックリと・・・。

ドラムを上がります、右側に内殻があり、左の外殻との間は結構広い、・・・手すり付きの階段を上る

 今度は、内殻側に階段が付いているが幅が狭くなってきたようだ。

内殻は当初は漆喰が塗ってあったようだが、剥がれてレンガの表面が見えている。

こちらは・・・通風と採光の枠が大きくなったような気がしますが・・・。

やがて内殻と外殻の隙間が、上部で急激に狭くなるような場所にやってきた。

左右で階段があり右は上り専用、左が下り専用で、内外殻の隙間が広い場所だ。

ドラムから高さ17m位までは、多分過去の経験でクーポラの内側に石材を保持する木枠を組まなくても、

くさび形の石材を内側にズラシながら30度くらいの角度までならモルタルが生乾きでも摩擦力で石積みは崩れない。

ドラム上部で・・・架けようとするクーポラの内殻の厚みは2mもあった、頂部で1.5m弱。

外殻は基部で0.6mの厚み、天窓部分で0.3m強です。

・・・従来のクレーン(起重機)では役に立たず、またも大聖堂造営局より、アームが長く、重い物を操作できる装置のコンペを行った。

1423年4月、今回はライバルを差し置き、本命のブルネレスキの設計が選ばれた。

早速資材が調達され、3か月未満で完成・・・7月から稼働している。

後年、ヴェロッキオもクーポラ上部に高さ2.4mのブロンズ製の球体をランターンの上に設置する際にも使用していました。

これは、その時印象に強く残ったのを、レオナルド・ダ・ヴィンチがスケッチで残しています。

クーポラの比較も ”ブルネレスキ” の本より拝借

半球状の物体を伏せた状態で、上部に荷重をかけ更に自重も加えると垂直荷重で、・・・受ける石材はつぶれる事は無いようです。

垂直以外に外側に半球が広がろうとする力が非常に大きくなり、結果、クーポラ部が崩落する危険があります。

その解決策が、クーポラ(内殻)を囲む形で輪を作り広がらないようにしなければならない。

考えた結果、特注の石材を数多く使用して、連結することにした。

長い石材が長さ2.3m、幅0.43m、短い石材は0.6mくらいか・・・各々100個以上

輪といっても実際は八角形、角の部分は鉄の金具を作り繋いだ。長い石材は、レゴブロックのように凹凸の加工で接続している。

この抗張力環は、10m高くなる毎に必要とされ、徐々に複雑な形状となっていった。

・・・さて内外殻の隙間が狭くなったクーポラ上部を手摺につかまりながら、長い階段を上ります。

ここでは、湾曲した階段を踏みしめているうちに、丸屋根に上っているという実感がわいてくる。

上り終えると、外の光が差し込む踊り場に到着します。

降りる人とすれ違うのでここで待機。

振り返ると上ってきた階段が見えます。

そして右側に見えるのが・・・外の光を浴びた階段です。・・・10段弱でしょうか。

では右側の階段を登り、展望台にでましょう。

下の画像は・・・なにやら不可解ですが・・・

右は、テラスから階段を降りてくる人、左は地上から見たランターンとその周囲のテラス・・・この場所に出ます。

出て、横に移動し・・・この眺望です。

鐘楼が街色に溶け込みながらも存在感はあります。・・・洗礼堂は・・・隠れています。

・右(北)にメディチ家礼拝堂が見えます。

振り返れば・・・ランターンの巨大な大理石、

・・・これだけでも大変な作業です。

採光部は網入り?(模様?かな)ガラスのようです、・・・通風対策に角度が変えられるようです。

では、クーポラの真下を覗いてみましょう。

身廊の屋根との接続部まで見えます。

 

結構真下に近い所まで見えるので驚きます。 

若干汗をかき、心地良い風に当たりながらですが、ガラス窓越しの展望台では無く、高所恐怖症の方には厳しいかも・・・

南側に・・・アルノ川、ヴェッキオ宮殿、シニューリア広場

・・・その向こうに目に良い緑がたくさん見えます。

画面上部(西側)には、フィレンツェ駅、その手前左に、薬局が有名なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会

こちらパノラマ画像では、更に西側に・・・サン・マルコ修道院(美術館)が見えます。

もう一方のサンタ・クローチェ教会が遠く左端に白くファサードが見えます。

その向こう、丘の上にミケランジェロ広場があります。

先程の鐘楼を見てみましょう。

上部に瓦の屋根が見えます。

隣りの教会の屋根も同色の瓦です。

・・・とにかく巨大なクーポラは完成しました、木材を使用した部分は経年劣化し、補修や交換が必要ですが

石材の建築物はそのまま・・・有り続けます、それが良いか悪いは別として

便利さや、使い勝手、改造、建て増しを要求しないで、歴史観光の街として保全しながら使用する。

既にある物を何故と思わず、有難く受け入れる・・・疑問に思わず、まず信ずることから全てが始まる、この国の宗教の街でした。

 ・・・では、先程上ってきた・・・この階段から降ります。

この階段部は、屋根が無いので頑丈な蓋で閉じ、雨水を侵入防止する構造になっているようです。

階段部を上から覗くとこの様に・・・床面のレンガはクーポラの頂上部でしょうか。

右側の少し見える階段から上って来てました。

レンガの床面の高さで、内殻を半径約3m開けクーポラの架け工事は完成でしょう。

半径3m部の孔はランターンが取付けられる採光の開口部です。

下りは、多分この階段を降りて左に進み、屋根の内側は違う階段を降りたと思いました。

壁にどうして落書きがしたいのか、・・・

そして帰りのクーポラ内部の周回通路

こちらは目前に天井画が迫ってきます。この位置はドラムの上部に設けられた周回コースです。

・・・壁面が内側に傾斜している様子が良くわかります。

 

天井画を見上げると

等間隔で黒い丸は、天井画製作用の足場に利用した 鉄のリングか 差し込んだ跡と思ったが・・・

クーポラに描かれた人物達、下から3段目くらいになると多分内側に50~60度くらいの角度でレンガを並べることになる。

アーチ状に加工した木材で石材を支える迫枠(セリワク)が無くてどうするのか・・・。

・・・正確なことは不明のようですが、結局大聖堂造営局は膨大な木材の確保に数年以上も必要で難しくなってきた、

さらにこの高さまで木枠をくみ上げるのは不可能と思い、ブルネレスキに工法は任せたようです。

多分抗張力環で弾けるのを押さえながら、クーポラ中心点の垂直方向を基準にしたいので、木組みで細長い塔は建てたでしょう。

中心から紐を水平に回転させ内側にせり出す位置を確定、レンガを並べモルタルが乾いてから上の段へと・・・

そうでした、河原の砂地で原寸大のリブの図面を描き、松の木で木型(長さ2.6m、幅0.6m裏を鉄板で補強)を8本作った。

この木型をクープラの内殻の外側に設置し、内殻と外殻が一定の角度で立ち上がるように調整し、

リブのレンガを何段か積んでから、あいだの壁を積み上げていった。

・・・ここで下の段に上の段に連結する特注の長いレンガが用意され、頂部に向かって0.9m間隔でらせん状に組み込まれた。

上の段にレンガを並べる際には、下から伸びた特大レンガを一緒にモルタルで固定し、・・・レンガで縦方向に4~5層も連結しました。

内殻と外殻は同時進行し、八つの壁面全てでモルタルが固まり、レンガ積みが環状につながって十分な強度が得られてから、次の水平分を積む

1週間で1層弱、1か月で約0.3mの慎重なペースで進められた。

さらに、円に比べ八角形は難しいので、内殻が2mも厚みがあるので、壁内部に0.75m幅くらいで水平にレンガを積んで円形な輪になるように固定した。

外殻は厚みがあまり無いので、すぐ内側に円形の水平のアーチを埋め込んでいった。

幅0.9m、高さ0.6mのアーチは、上下の間隔を2.4m開けて、9本設けている。

これらは、1426年のブルネレスキの修正案の中で外殻の内側にレンガで水平アーチを設けるよう指示されていた。

このような工法の組み合わせで無事クーポラは閉じられ、取り合えず・・・ほぼ完成しました。

・・・(最期の階段を降りて、地上に到着)

ブルネレスキが途中から当然のごとく建築責任者となり・・・着工から、ここまで何と15年。

1436年3月25日献堂式が行われていますが、頭頂部はデザインはあるが、施工図はできていないなかった。

・・・アレコレ調べていたら、長くなってしまった・・・。

さて、教会内部に入りましょう。

内部は17世紀、正面ファサードは19世紀と完成までには、この教会も長い年月を必要としたようです。

この中央部では無くて、

案内があったようです。

では、内部に・・・

入ってきた入口上部に、有名な時計があります。

パオロ・ウッチェッロの時計と呼ばれ、ミサが行われる日没までの時間を示すようです。

文字盤はⅠ~ⅡⅣ、針は反時計回り(逆回り)とありますが、利用方法は?

教会内部から見上げると・・・こんな天井画、天地創造です。

1446年4月15日ランターンが工事に入るころ、ブルネレスキは69歳で急死します。

葬儀はこの教会で行われ、遺体は議論の結果、5/15日大聖堂の内部に埋葬される栄誉が与えられた。

場所は、南側の側廊の地下、・・・かつて模型が置かれていた場所だった。

記念碑など一切ないようで、「偉大なる発明の才を持つフィレンツェのフィリッポ・ブルネレスキ、ここに眠る」

墓石にこのように・・・発明の才を持つ・・・と書かれているようです。

 

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フィレンツェ、光と影

2019-04-06 | 旅行記

ダビデの顔にハートが隠れてる・・・昔そんな情報で、アップの画像を撮っていました。

・・・瞳の中のハイライト、・・・確かにハートがありました、・・・この作品はレプリカですが。

ここは観光の定番コース・・・、1875年に完成した、丘の上にあるミケランジェロ広場です。

・・・フィレンツェ・・・今年のカレンダーに掲載された建築物は、・・・花のドゥオーモでした。

フィレンツェのドゥオーモと言えば・・・

1296年、この頃には最後の十字軍も完敗して、パレスチナから最後の兵も撤退しています。

フィレンツェの街はヴェネツィア同様商売繁盛、最盛期を迎えつつあります。

北ヨーロッパから羊毛を買い付け、染色・加工の毛織物で財を成し、その財が貸金業・金融業で発展し・・・人口は5~6万人。

・・・14世紀には10万となりヨーロッパでは、ヴェネツィア、パリ、ジェノバと並ぶ大都市となります。

景気の良いフェレンツェでは・・・威厳のある教会を建てよう、石組で、見たことも無いような巨大な建物が良い・・・

やがて、外観ができてきました、・・・祭壇の周囲まで組み上がった、・・・が、なぜか空が見える。

・・・ポッカリと上部は穴が開いたまま、・・・雨、風が吹き込む・・・しかし、屋根が架けられない。

この巨大な石材では重すぎて、円形に橋を架けるようにはできない・・・延々と中断が続き、

諦めていたが、何とかしなければと・・・1418年、有志が設計コンペを行い・・・

・・・難産の末に、金細工師の二重ドーム案で完成したドゥオーモです。・・・やはり、印象的な作品、これが主役でしょう。

広場の展望台から旧市街のパノラマを見てみましょう。

 手摺の手前に、洒落た案内板があります。

 アルノ川は右が上流ですから左に流れています、下流にポンテ・ヴェッキオ、

もう少しアップにすると・・・

フィレンツェのランドマーク、目立ちます。

枢機卿の帽子のような、王冠のようなユニークな形状です。

四角錘の鐘楼も重厚感があります。ドーム(クーポラ)は・・・落ち着いた赤茶のレンガ色です。

の色調が統一されているので、青や緑の屋根はありません。電線や、パラボラアンテナ、空調設備も目立ちません。

トスカーナ地方は、街の景観を厳しく規制しています、例えば、窓枠の色は緑色か茶色・・・アースカラーです。

縦長のラグビーボールの上に、人が見えますが・・・展望台です。

もちろん、エレベータはありませんが、内側を階段で登れます。

・・・川向こう、目前に見える茶褐色の大きな建物は、サンタ・クローチェ聖堂、手前側に修道院

橋を渡って、この大きな建物の向こう側の通りを左側に歩いて行くと・・・教会前の広場に出る。

その先、目指すは、この時計台がある市庁舎:ヴェッキオ宮

 

 それから・・・シニョリーア広場を抜けて、その先を左に曲がるとやがて・・・ポンテ・ヴェッキオ・・・が。

ヴェッキオ橋の上、2階建てになっているヴァザーリの回廊が・・・ここから良く見えます。

・・・、前方から・・・この広場の横をジョギング、・・・羨ましい、・・・走って旧市街に行きたい・・・。

1km7分弱のジョギングペースで、広場まで2kmくらいですから14分・・・ ここは石畳では無いので、走りやすそう。

FitBitで脈拍を管理しながら、GPS機能でジョギング跡がスマホに表示できる機能もあり、最近のジョギングは楽しいですよ。

・・・ついて行くのは諦めて、バスで旧市街の城壁まで移動です。

さて、教会の横の通りから・・・サンタ・クローチ広場に出てきました。

中世の時代、贅沢三昧なキリスト教の聖職者達、・・・世の中は階級社会、しかし聖書の教えは少し違うのではと、

・・・アッシジの27歳普通の男性が、聖書の清貧の教えを聖職者のラテン語では無く、市民のイタリア語で説明すると、

評判になり・・・聖フランチェスコとして修道会を創設し、異端と指摘されることなく、法皇の認可も受け・・・新風が吹き始めます。

(同時期に同じように清貧を重んじたドメニコ修道会も結成されています、が・・・こちらは神学に重きが・・・。

ドメニコ派のサン・マルコ修道院は、コジモ・デ・メディチにより1443年頃再建されていて、この街では有名になる。

フランチェスコ派と同じように修道会として行動しているので、ライバル視されていたようです。)

フランチェスコ達は急激に信徒が増え、アッシジからこのフレンツェのアルノ川中州に移り・・・13世紀にフィレンツェ市民が費用を負担し、

この湿地帯に教会と修道院を建立します・・・15世紀頃にはこの教会・修道院などが完成しているようです。

サンタ・クローチェ聖堂、・・・色大理石のファサード、清楚な、華美でない、端正なゴシック建築です。

ガリエロ、ミケランジェロ、ロッシーニ、マキャヴェッリ・・・、非常に多くの有名人が埋葬されている教会です。

多分ここは入場が有料になったと思います。

・・・広場の端から北西に路地を進みます。

路肩の窪みに・・・水たまりが、結構気になります。

石畳みの表面の色も・・・黒ずんでいるようで、補修予算が少ないのかな・・・

四つ角に出ました、・・・右側にサン・フィレンツェ広場が見える

これは裁判所、・・・向こうの塔・・・

右に鐘が見えるのがバルジェッロ宮、塔は54m、13世紀の建物で現在は、バルジェッロ国立博物館

ここはルネッサンス時代は、警察署に使われていて、・・・悲鳴・うめき声も聞こえてきた、拷問によって。

その先の左、建物の向こうに、さらに高い70mの鐘楼が・・・ここはフェレンツェ最古の教会です。

10世紀ベネディクト会の修道院が建ち、清貧・貞潔・服従を説き、祈り・働け がモット-ですから厳しい修行です。

1071年には病院が併設されていますので、すごいですね。13世紀に建て直されその姿が・・・今日に。

・・・では、この角で左に折れ、次を右に曲がり

右の市庁舎と左の美術館を繋ぐ、渡り廊下が見えてきました。

アーチの渡り廊下の向こうにも、アーチの回廊のある建物があります・・・彫刻が沢山あるようです。

渡り廊下の下・・・こちらもアーチが続いています。

ウフィッツィ美術館です。

こちらの展示作品は、・・・今日でも光が当たり続けています。

以前の画像です。

ニョリーア広場に進みましょう。

設置場所で屋内だ、外が良い・・・ミケランジェロがこの位置、市庁舎前にこだわったという「ダビデ像」がこちらです。

これも劣化が進むのでレプリカですが(本物は、すぐ近くのアカデミア美術館)

シニュール広場は、観光地です。

警備も重要です。

ショルダーバッグ・・・厚みがありますね・・・違反切符の綴りでしょうか・・・

制服が無いと親子のようですね。

こちらでは、記念写真。・・・突然、ビックリしました? 動いた? 嘘・・・彫刻でしょう、ロボット?

最初に訪れた昔の画像がこちら

 花の都、でも色々なことがありました・・・

気になっていたことが・・・

男性二人が地面を見つめています。

 何やら視線の先には、マンホールのような物が

 これは、・・・1498/5/23、不正なる判決によって、修道士ジローラモ・サボナローラ・・・ 略。

あの ボッティチェルリの絵画も、・・・堕落させるという贅沢品が市民から集められ・・・焼き払われた。

貴重な品々もあり、ヴェネツィアの商人が〇〇で買い取らせてください。しかし、受け入れられず・・・焼かれた。

翌年もまた焼き払われた、その場所でしょうか?

・・・この街でイベントとなる歴史行列、5月23日の歴史行列では、この場所に花が置かれる。

当時の様子を描いたものが、・・・ここから北に約1kmのサン・マルコ美術館に作者不詳で掲げられています。

 1498年5月23日のニョリーア広場

市庁舎の左横、遠方にサンタ・クローチェ聖堂が、・・・左の角型の鐘楼はバルジェッロ宮、その隣にベネディクト会の修道院

花の大聖堂のドォーモも見えます。

気になるのが・・・市庁舎から花道のような・・・舞台が伸びた先で、焼かれているのは・・・贅沢品?

3人が火刑にされています。ショッキングな史実を描いた絵です。

火刑にされたのが、サン・マルコ修道院院長サヴォナローラ、そして他修道士2名、・・・

塩野七生女史:「神の代理人」では、サヴォナローラと法王の書簡、フレンツェの商店店主、法皇の秘書官の日記で構成されたドラマが描かれています。

当時の様子がリアルに描かれていますので、抜粋させていただきます。

まず、この火刑から・・・さかのぼること50日、

1498年4月7日、やっと真実が証明される日がやってきた。法王から破門された預言者をフィレンツェの人々は信じ続けていた。

フィレンツェの人々が、朝からこの広場に続々と集まってきた。

ビッキオ橋の方面から進んできた人々は、角を右に曲がると時計台が見えてきた。

日記の薬種香料商人(近くのお店の主人)は、もう1本裏の通りからこの広場にやってきた。

ドォーモの鐘楼の方からの人々は、カルツァイウォーリ通りを進むと、

 

正面にランツィのロッジア(回廊)が見えきた。ここに本日の主役が並びます。

東地区方面から集まってきた人々は、市庁舎の横から入ってきたのでしょう。

4月7日、仕事などする人は誰もいない、広場の入口は閉鎖され、3か所だけの入口は武装兵士が警備している。

女・子供は入れない。さて何が始まるのでしょう。

政庁が昨日実行と決定し、準備が進んでいた。・・・政庁から斜めに、広場中央に舞台がせり出していた。

レンガを積み重ねた土台は、高さ1.5m、その上に幅6m、高さ2.4mの廊下は両端に大量の薪の束が並び、中程1.2mが通れる通路だった。

(火刑の絵画にあった木製の通路と違い、耐火れんが造りで重厚な造りのようです)

この廊下が30m続き、木材と薪の間には所々に火薬が置かれ、油も振りかけられた。

広場は立錐の余地もないほどの人だ。正午の時刻が迫ってきた。

・・・サンタ・クローチェ教会(広場の東側 0.5km)の方角から、フランチェスコ派の修道士たちが入場してきた。

静かな人々で・・・こげ茶色の修道衣に縄の帯、ロッジ(回廊)の政庁側の席に着いた。

・・・サン・マルコ寺院の(広場の北側から 1km、ドゥオーモの方向)方角からドメニコ派の修道士たちが入場してきた。

二列縦隊で聖歌を合唱しながら・・・黒の僧衣の修道士250人位の中に火のような色のビロードの長衣を付けた修道士ドメニコ、

大きな十字架を捧げ持ち、その後ろにキリスト像をかかげた修道士サヴォナローラの姿が見える。

修道士たちの列に続いて多くの人々がたいまつやろうそくを手に持ちそれに続く。

サヴォナローラ崇拝者たちは広場を半周してロッジの反対側に着いた。

・・・準備がすべて整った、早朝から待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。

昨日、政府委員会が ”火の試練” をサン・マルコ修道院に伝えたのだった。

・・・ご存知の方も多いでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ1452年生まれ

 

ジローラモ・サヴォナローラ:ドメニコ派修道士です。・・・これも、サン・マルコ美術館

・・・フィレンツェといえばメディチ家、当主のロレンツォ・イル・マニフィコが知人からサヴォナローラを推薦され、サン・マルコ修道院に呼んでくれた。

1491年、39歳でサン・マルコ修道院院長に就任、

1492年、メディチ当主のロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなる。

サヴォナローラは花の大聖堂ドゥーモなどで、メディチ家のような贅沢を批判し、質素な生活を説きます。・・・さもなければ敵の手に堕ちると。

同年、ローマ法王の選出(コンクラーベ)は、枢機卿の買収合戦の末、アレクサンデル6世が誕生した。

この法王は、キリスト教会史上最も悪名高い法王といわれる。聖職売買、親族登用が盛んに開始され始めた。

1494年 フランス王国のシャルル8世が9万の軍勢でナポリに向かう途中、領国内通行の自由と必要物資の提供を要求してきた。

サヴォナローラは、民衆に説教した”私の預言は的中した。神自らあの軍勢をひきいておられる。神の怒りの試練、鞭がふりおろされる。・・・”

メディチ家の当主を継いだピエロがフランス軍勢に弱腰の対応をした結果、民衆が暴動、メディチ家一族は追放される。

・・・フィレンツェでは共和制が復活した。

・・・サヴォナローラは、敵の手に堕ちると予言した救国の預言者として、政治にも影響力を持つことになる。厳しい禁欲生活を強要して・・・。

1496/2/7 商店店主:頭巾をかぶった少年少女たち、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身に付けていれば人々からそれを取り上げ、子供たちの玩具まで奪う事件が起きた。

修道士の少年たちが近づくと逃げる者もいたが、それでも堕落した習慣を追放する、この行為をほめたたえていた。私も新しい時代に生きる幸せに恵まれたものである。

・・・法王からサヴォナローラに書簡が届く”・・・預言は自分が言うのではなく、また人間的な知識から得たものでも無く、神の啓示によるものだ”と言ったという。

これは、私の羊飼いとしての義務に属することなので、じかに会って、神が選んだというおまえの口から神の啓示を聞きたいと思う。訪ねてくるように。

・・・聖職者としての法王を批判し、再々の呼び出しを書簡で断り続け、・・・サヴォナローラは法王から説教の中止、さらには・・・破門にされる。

1498/2/18 日曜日、花のドゥオーモで説教を再開し、その後も毎週のように説教が続いた・・・神の預言者としての振る舞いで。

・・・法王は、目に余るサヴォナローラを異端者として処刑する、と・・・殉教者となられては困るのである。

聖職者としての法王は多分失格者だが、俗界の人間としては知識は優秀、家康のように我慢強かった。

法王は、フィレンツェの大使から再々の赦免願いに・・・サヴォナローラの教理は間違っていないが、説き方が問題という。

説教師の立場の重要性を考えると、多数の民衆と同時に接する唯一の立場なのだ。

ざんげが 1 対 1 であるのに比べ、その重要性は計り知れない。

説教師の責任が問われ、教理の根本が正しいだけでは不十分だ。

根本を把握し理解できる人は少数で、素朴で単純な人々は説き方次第でどんな方向にも動いてしまうものだ。

根本などは忘れてしまい、説くのに使われた材料の方が、大きく印象づけられてしまうのだ。

説教師は、どう説くかにも責任を持たねばならない。

サヴォナローラの説き方が、扇動的でその責任を感じていないことを・・・フレンツェの大使に伝えた。

・・・3/27、サンタ・クローチェ寺院で説教したライバルとされるフランチェスカ派の修道士が、

サヴォナローラが、真の預言者であることは神が奇跡によって示される と言う・・・では、実証しよう”火の試練”で挑戦する。

・・・フランチェスコの挑戦は、彼とサヴォナローラが、相前後して燃え盛る火の中を歩いて通り抜ける。

サヴォナローラが焼かれなかったら、預言者として認め、彼に従うと言う。

3/28、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花のドゥオーモ)で説教した修道士ドメニコが、昨日の挑戦を受けると発表した。

その足で政庁に行き、”火の試練”の署名をした。

3/30 フランチェスコ派の修道士ロンディネッリも署名した。相手にサヴォナローラを指名したが・・・受けなかった。

4/5 フィレンツェ大使がローマ法王を訪問し、

「本国政府は、”火の試練”について、猊下(ゲイカ)はどのようなお考えなのかを知りたいと申しております」

・・・「私は不賛成である。それどころか、非常に不愉快な気持ちで、この知らせを受けた。

なぜならばこれは、神を試すことである。キリスト者にはあるまじき不遜な行為だ」

4/6 ローマ、ヴァティカンでは、誰一人、修道士が無傷で出てくると信じている者はいない。

焼死の可能性の方が強いくらいだ。予言者も気の毒だ、民衆を満足させるため、奇跡を行ってやらねばならないとは。

だが、自ら始めたこと、後始末は、やはり自分自身でするしかない。

・・・話を戻そう ”火の試練” ・当日 ・・ところが、催し物はなかなか始まらない。

朝から何も食べていないのに、正午から3時を過ぎても、両派の修道士の対決が始まらず・・・不穏な空気が流れたが、兵士に制止された。

・・・ドメニコ派がキリスト像を持って火に入ると言う・・・それは神への冒涜だとフランチェスコ派、ドメニコ派が譲らず・・・政府と協議が、何度も・・・

夕方5時頃、突然 パラパラと雨、・・・すぐに豪雨になった。

その時、屋根のあるロッジにいたドメニカーノの何人かが立ち上がり「奇跡だ!奇跡だ!神が”火の試練”を望んでおられないという証拠だ!」と叫んだ。

われわれは怒った。何時間も待たされ、雨まで浴び、怒声が飛び交う・・・ドメニコ派はやる気がなかったんだ。

・・・結局、政府が中止を決定、・・・群衆は叫んでいた。「われわれは欺かされたのだ。あの偽預言者のために欺かされたのだ」

・・・

結果は、両派とも引き上げ、市民の外出禁止、預言者サヴォナローラを増悪する群衆が彼を殺そうとしていると噂が広まる。

( 夜のシニョーリア広場 )

4/8 民衆の怒りが爆発し、花のドゥオーモではドミニコ派の修道士を引きずり降ろし、”サン・マルコ”へ・・・

修道院襲撃、関連先の襲撃・略奪も続き、・・・政府代表はサヴォナローラと配下の二人をやっと深夜2時逮捕、・・・

警察署で拷問・・・「自分は預言者ではない、説教は神の啓示ではないと」自筆で書いたものが、後の裁判で読み上げられた。

4/9 4年間に渡ってフィレンツェを支配したサヴォナローラ、一夜にして崩れ去ったと法王の秘書官は書き残している。

・・・

5/20(日曜日) 政庁内で公開裁判、人々はミサにも行かず、それを見に行った。

司教は、サヴォナローラに「神の言葉を聞いたこと、預言者であることは、嘘でしたと言ったことを認めるか?」

・・・「認めない!、自分は預言者だ!」

サヴォナローラは、結びつけられた縄で高々と吊り上げられ・・・

・・・「認める!私は罪人だ!神の声は聞かなかった!」

裁判はこれで終わった。

5/22 商店店主:サヴォナローラ、修道士ドメニコ、修道士シルヴェストロの3人に死刑の判決が下った。

罪名は、異端の罪、分派運動を行った罪、聖ローマ教会に対する反逆の罪である。

処刑は、まず絞首刑、その後に火刑、日時は・・・翌朝と決められた。

----気になる処刑の絵について、こんな状況であったかも---

商店店主:5/22 夕刻に広場を通った時、準備は完了していた。

見ていた人から”修道士たちは十字架に掛けられるのだ”というだ声がした。そうだ、そうだの声

・・・役人が出てきて、横木の上に出ていた柱の先が削られた、T字形にして十字架に見えないようにするためだろう。

5/23 政庁前桟敷席、法王特使、政府高官、地区高位聖職者、そしてあらゆる会派の僧たち、

広場の群衆は、”火の試練”の日よりも多いほどだ。

三修道士が連れだされ、最後にサヴォナローラがつるされ、彼を信じていた者は、軌跡でなくても、何か言ってくれるに違いない・・・。

・・・だが、彼は何も言わなかった。多くの人をがっかりさせ、彼への信仰を失わせた。

火が点けられ、火は高い柱を駆け上がり、・・・四肢が下に落ちてきた。残った胴体を落とそうと群衆は石を投げた。

落ちた胴体も徹底的に焼きつくされた。信者の手に、何も渡らないようにするためである。

手押し車が運ばれ、焼きつくせなかった骨片と灰が積み込まれた。

武装兵に囲まれて、ポンテ・ヴェッキオへ向かった。

昔の画像です。

100m先は橋

肉屋街が立ち退かされて、金・銀・宝飾店が多くなり

ウインドウ・・・商品が気になるが・・・良く見えない?

値段が?

サヴォナローラは、今日の教育を受ければ、宝飾品販売や販売促進行為、贅沢をすることは悪とは言わないでしょう

格差社会と貧富の差に対して、どのように発言するでしょうか、・・・羊飼いは、世の中の羊が多くなって大変でしょうが。

・・・この中央部あたりから、・・・手押し車の骨片と灰が撒かれたのでしょう。

橋の中央から振り返えると、下流側には銅像と回りの手摺に南京錠が・・・思ったより少ないが・・・

 

銅像は16世紀、金細工の父として近くの宝飾店たちが建てたようですが・・・

アルノ川に遺灰ではなく、・・・ここで南京錠に鍵を掛け、二人で小さなカギを川に投げ捨てると・・・この南京錠が永遠の愛の鍵とか?

昔は山のように付いていましたが、・・・160€ 罰金となったようです。

結構な金額です・・・昔はOKだったのですが、知らなかったでは済まないでしょう。

・・・そうです・・・昔は良くても・・・川に物を投げ込むのはやめましょう。

 

 

 

 

 

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