気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ラ・マンチャ

2017-03-26 | 旅行記

早春の朝、この地は日の出が遅い。朝8時ホテル前、やっと明るくなりそうです。

ホテルから南に約140km・・・(昨日のトレドから更に南南東約60km先に向かいましょう)

バスはマドリード市街から抜けると、高速道路は単調な風景が連続します。

太陽の光に照らされて、このような風景が・・・しかし、なぜかまだ薄暗い。

やがて、昨日見慣れた赤茶色の・・・

・・・9時半過ぎ、トラクターで畝を作りブドウ苗木を植えているのか、・・・緑の樹木はオレンジかあるいはオリーブの木でしょうか。

オリーブ栽培の北限は、ここスペインではトレドといわれています。

・・・見渡す限り赤茶色、標高約600mの高原(北部マドリッドは平均標高500m、この先の向かう南部は平均標高700m)。

グーグルの航空写真を見てみましょう。

ここはイベリア半島中央部、ラ・マンチャと呼ばれる乾燥地帯・・・夜間-15℃に達することもある冬季と、

一方長く暑い夏季には日中45℃に達することもあるといわれる・・・

所々に尾根のような小山が見えてきます。

麓の植栽が・・・低木の木々はあるのでしょうか。降水量が少ないようですから地下水や水源は期待できないでしょう。

やがて出発から2時間になろうとする頃、目的地かな・・・と思われる表示が見えてきました。

 CONSUEGRA、この街外れには風車があります。(ラ・マンチャ一帯には、たくさん現存しています)

ここで一般道に出ると思う・・・ゲートが無いのでカーブで減速すると、いつの間にか一般道です。

市街地の外側を走るっていると予想外のビニールハウスが見えてきました。

トマトの栽培でしょうか・・・乾燥地帯です・・・、温暖の差の影響を受けないように・・・。

・・・10分ほど走ると、・・・朝の10時過ぎ、人通りのない街外れにさしかかりました。

振り返るとこの様な街並み、白壁、長屋構造です。右奥から来ましたが、この十字路を右側に曲がります。

すると前方の小高い山に、車窓からこんな風景が見えてきました。

風車です。

左の崖上の建物は・・・大昔からある要塞のようです。

間もなく手前の風車で一時停止、案内所とあります。案内所で入場の許可?駐車の許可?聞くのを忘れました。

グーグルの航空写真を拝借しましょう。上側は南方向になります。

中央下部①の風車が案内所です。風車が5基、手前の小山にあります。

 右側の丘の上にある風車を横目に・・・進むと、大型クレーンが要塞を修復しているようです。

振り返って要塞を見てみましょう。

 これはいつの時代の建造物でしょう。相当古い感じです、ローマ時代の末期でしょうか

ナポレオン軍との攻防で要塞は破壊され、近年修復をされているようですので、近いうちに観光資源に追加されるでしょう。

・・・奥の駐車スペースに到着。

奥の⑥の位置から要塞方向に5基、風車が並ぶ光景は・・・複雑ですね。

16世紀、ロバでこの山頂まで穀物を荷揚げし、製粉作業を終えると出来上がった袋を乗せて山道を下る

・・・昼飯持参で大勢で賑やかにやってきたのでしょうか、

あるいは専用で従事する人々が、周辺に仮設の山小屋でも建てて作業にあたっていたのでしょうか。

水辺の風車とは違い、・・・下界と標高差100mくらいの山頂です、労働環境が厳しいでしょう・・・そんな風車のある風景です。

斜めの長く太い棒は、風車を風向きに合わせて回転さてたのでしょうか、回転式風車はあるようですので・・・

風車からの眺望です。これは西側になります。

日が当たっている東側の眺望が

内部が公開されている⑤の風車に入ってみましょう。

入り口、この様な青銅製の騎士がこの地方ではよく見かけます。

1階は売店もありました。

ラセン階段を上ると2階でビデオが放映中、英語、日本語、中国語です。

風車翼が(多分木軸骨組みに、布を張っていたと思いますが)

水平方向のシャフトに

丸太製の歯車(ギア)を取付けた円盤を組み込み、

垂直軸に取付けた円筒型歯車に回転軸を直交させ変換し、垂直軸下側に取付けた石臼を回します。

2~3枚重ねで下側は固定、上側を回転しましょう。

上下の石臼接触面には放射状の溝が加工されて、・・・上側の石臼には中央周辺部に孔をあけてあります。

中央付近から投入された素材は、すり潰され、砕かれた材料が傾斜もあり周辺部に押し出される・・・

多分記憶では、日本のポータブルな石臼にそんな構造があったように思います。

・・・しかし、ロシナンテに乗った、ドン・キホーテ・・・この様な風車に体当たりをする作者の発想は?

遠目から見れば有でしょうか。

・・・危ない!急な崖から転落の危険があります。

とすると、・・・物語で風車の場所は特定をしていません、しかし、登場人物で姫のモデルとなった人物が住んでいた村

El Toboso エル トボソはこの場所から、東北東約60kmに現在もあります。

周囲に風車で有名な街は、・・・トボソの南・・・約20km、Campo de Criptana カンポ デ クリプタナ が本命とされています。

ここ Consuegra コンスエグラ から、東南東に約45km、特徴は街の直ぐ近くの丘・・・写真をグーグルからまた拝借しましょう。

この様に街から標高差が少ない場所に風車があれば、作者は旅の印象に強く残っていることでしょう。

・・・スペインが無敵艦隊時代の1587年、作者セルバンテスは40歳になっています。良い仕事が見つからず

このラ・マンチャやアンダルシアの広大な荒野を歩き回り、嫌われ者の仕事と呼ばれる、税の取り立て役や海軍の食料の取り立て・・・

そんな仕事を55歳頃まで続けて2度も投獄されたと言われます。・・・波乱の人生、旅を続けた人生を送っています。

・・・各地を旅して、宿屋が作中に色々登場します、この街 カンポ デ クリプタナ にも泊まったことでしょう。

ドン・キホーテ(もうすぐ50歳の主人公)騎士道物語に夢中になり過ぎて、仕事も忘れ、自らが騎士道のあるべき姿を実践するべく旅に出て

・・・そして、風車の部分は・・・短い内容です・・・

・・・サンチョ・パンサに・・・あそこに30かそこらのふらちな巨人どもが姿を現した、我は彼らと一戦を交え、

皆殺しにして、分捕ったものでお前と裕福になろう。逃げるでないぞ!・・・向かっていくと、一陣の風が吹き風車の翼が動き出す・・・

ドン・キホーテは「おぬしらが、かの巨人ブリアレーオより多くの腕を動かしたとて、わしが目にもの見せずにおくものか」

盾を構え、槍を小脇に・・・ロシナンテを全速力で駆けさせ、一番手前にあった風車に突撃した。

槍を突き立てた瞬間、激しい風・・・風車が回り・・・槍はへし折れ、馬もろとも反対側に飛ばされて、野原を転がる始末だった。

・・・「やれやれ、なんてこった!」とサンチョが言う。「あれはただの風車で巨人なんかじゃねえと」・・・

こんな調子の旅物語、・・・食事のメニュー、羊肉より牛肉の煮込みが多く、日曜日には小鳩の一皿・・・

そんな会話も登場し、読み手には疑似体験ができたのでしょうか・・・

・・・街の宿屋・・・歩き疲れて・・・一杯飲みながら夕暮れの風車を見ていたら、魔物に見えてきた、

気が大きくなり、槍を持って突進していたセルバンテス。・・・そうだ・・・旅を続ける騎士の物語を書こうと・・・。

この先、これからスペインらしい南部に向かいます。長距離移動となります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トレド 世界遺産

2017-03-18 | 旅行記

トレドは、・・・約30年前 トレド大聖堂など旧市街全域が古都トレドとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

かつて都であり、1479年からは宮廷があった・・・マドリードに遷都するまでは、

・・・遷都、いつのことかと思ったら、1560年・・・日本では桶狭間の戦い・・・そんな大昔のことでした。

そうでした、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍していた時代までは都だった。

古代ローマ時代、(ローマ帝国東西に分裂)、西ゴート王国、後ウマイヤ朝、スペイン黄金時代・・・これらの痕跡を残し「16世紀で歩みを止めた街」ともいわれます。

・・・古都・トレド観光・半日間のオプショナルコースに参加して、観光バスで向かっています。

マドリードから約70km、無料の高速道をひたすら走る・・・風景は・赤茶色の大地に緑の筋・・・ブドウ畑や苗木の畝が続く・・・1時間が過ぎたころ、気が付くと景観が急に変わった・・・

タホ Tajo(切り傷・切断)と呼ばれる深くえぐられた川が見えてきた。

タホ川沿い進むと、写真で見た13世紀建造の古い橋、アルカンダラ橋が近づいてくる、橋の向こう側がトレド旧市街です

さらに川沿いを進むと、高台の旧市街を囲む城壁も見えてきた、遠目にはすっきりした城壁に見える。

・・・崖下のタホ川は、水量が結構多いように感じる。

スペイン、ここは標高600mの高地、乾燥地帯と聞いているが・・・最近天候が悪かったのだろう、濁流だった。


花崗岩の高台にある大地は、北側の一画を残し三方をこのタホ川に囲まれている、

山城よりも好立地でしょう、天然の要塞として発展して来たと書かれています。

・・・旧市街の対岸、急峻な崖の上の道路を進むと・・・この旧市街の全体が見えてきました。

南側から見た旧市街、もうすぐこの様子が鳥瞰図のようにわかると言う一等地に着きます。

すぐ近くのここが展望台、そしてこれは合成写真、パノラマ写真では・・・、

あまり変わらないですか。右側でひときわ高く目立つ建物がアルカサルと呼ばれるかつての要塞。

要塞と言うよりは宮殿の雰囲気です、この場所がこの高台で最も標高の高い地点と言われています。

ですからここに古代ローマ人が築城し、その後ムーアや西ゴートが利用して11世紀に新たな要塞が完成するが、

1227年解体してまた新たに築城・・1493年完成、16世紀にかけて改築され、近年に改装・・・やっと終了したようです。

現在は軍事博物館で、中世の武器、近代の兵器など展示されています。日本の鎧、兜、剣、なども展示されています。

・・・そうでした江戸時代、伊達政宗が家康の許可を得て1613年10月28日、スペインに遣欧使節を送っていました。

太平洋を渡り、メキシコ(スペイン領)経由で1年後、1614年10月5日スペイン南部に到着、セビリア、コルドバ、そして12月3日トレドにも立ち寄っています。

12月30日首都マドリードに到着。その時の宿舎が王宮の南500m、サン・フランシスコ修道院

もう少し離れると、天井部の立派なドームが見えてくるのですが。

多少、ドームが見えてます。しかしこの建物は1761年から建て替えられています。

1784年完成ですから、支倉(ハセクラ)一行は建て替え前の古い建物に宿泊されたようです。

一か月後の1615年1月30日、マドリードにて当時世界最強・・・(少し斜陽の国)、スペイン国王フェリペ3世に謁見しています。

(もちろん刀剣を含め、お土産をたくさん持参していました。その後、ローマでパウルス5世にも謁見しています)

支倉一行は驚きの連続だったことでしょう、赤茶色の砂漠のような荒野を延々と進むと、突然現れる城壁と石畳の道路、石造りの強固な高層建物。

・・・座礁したスペイン船から乗組員を救助してくれた恩のある極東の大切な日本からの使節団です。

先々で歓迎されたようですが、石の文化と木・紙の文化は違いすぎます・・・畳の上で横になりたい・・・障子が少し開いていて、縁側からやわらかい風が・・・と思ったかどうか。

今回のトレドの見学コースは不明ですが、主役はカテドラル(大聖堂、スペインカトリックの総本山)でしょうか、・・・正面右側にその鐘楼が見えています。

この場所がMirador del Valle(谷の展望台)、ここからの眺望です。眼下のタホ川はこんな感じです。

さて、観光バスは、タホ川に沿って旧市街を半周して、北側の駐車場へ向かいました。

上の画像は上が南側の先程の展望台になります、半周して下側(北)にやってきました。

下の緑色部が駐車場です。ここで下車して、現地ガイドさんと合流、徒歩で旧市街に入ります。

では、ガイドの後に続いて、迷路で迷子にならないように

・・・ここから右側(上の画像の赤い線)に沿って2~3分で

城壁の下に、トンネルか地下道か?見えてきました。

地下道の先に・・・エスカレーター。

このエスカレーターを3本くらい乗り継いで

下りも利用できるようです。これは便利です。

エスカレーター上部からの眺望、トレドの郊外です。

サア、高台の上に来ました。旧市街地の北端にいます。真っ直ぐ(南に)進みます。

大聖堂の次に観光地としての人気は、エル・グレコの作品がある教会でしょうか。いっぱいある・・・そうでした。

歴史地区ですから建物を勝手に増築、改造はできません。しかし狭い路地が多いです。

雨が少ないから歩けるのでしょうが、大雨が降ったら小川でしょうね。

・・・路地ですから日陰になっているようです?・・・高い建物、日影ができる・・・日陰の場所が多ければ・・・

・・・日中40度近くになっても・・・直射日光が当たらず、木陰と一緒、すごし易いのだそうですよ。

それで高い建物に、狭い路地、日影ができれば多少快適に過ごせる・・・この土地の工夫だそうですよ。

このような教会は数多くあります。ここは立派な紋章が付いている貴族の館です。

Residencia Universitaria Nuestra Señora de los Remedios、現在はキリスト教の女子学生寮

この街の建物は、通りに面する部分からは内部は見えない。大きな扉で塞がれています、しかし内部には中庭があり廻廊もある広い邸宅が多い。

この地でも何度となく争いがあり・・・戦争状態に入ると長期戦には食料と水が欠かせない。

中庭は樹木も茂り噴水もあったりと・・・そう、ローマ時代から・・・同じ光景が・・・ナポリ、火山灰に埋もれたポンペイの遺跡にも中庭様式がありました。

アラブ風でしょうか?、中庭は生活のオアシスであり、重要な水瓶の役目もあったようです。

この先を左に曲がり、コレヒオ・ドンセージャス通りと言う所に入ると目の前に、

 

・・・道路の目の前が、・・・左右の住居の屋根を繋いで、更にその上に建て増しをしたような構造です。

木製の梁や窓枠が・・・風雨にさらされて・・・歴史を感じます。これも日陰効果を求めて?

ここを通り抜けて右に曲がり、・・・路地を進み、商店街?などを抜けて、旧市街の西側、フデリア通りに入った・・・

すると角の建物にこのようなシンボルが・・・1492年 BARRIO DE LA JUDERIA ユダヤ人街 ・・・何か訳ありでしょう。

1492年とは、コロンブスが大西洋を横断し新大陸発見しています。・・・ユダヤとの関係? 

1492年南部のグラナダがようやく陥落し、キリスト教徒がスペイン全土を奪還し、3月31日「ユダヤ教徒追放令」が発せられています。

全てのユダヤ人(一説では、ユダヤ教徒)は、キリスト教に改宗するか4か月以内に国外退去をせよ!

ユダヤ人は金融・医学・錬金術などに才能を発揮し・・・社会でも重要な地位に就くようになってくるとキリスト教社会から反発も生まれます。

・・・これ以前にもイスラム教徒、ユダヤ教徒に異端審判もありました・・・隠れユダヤ教徒の告発が目的とされたが、

実態は、改宗したユダヤ人が裕福になり、ねたまれて・・・財産を徴収することが狙いだったとの説もあります・・・

・・・追放令後約15~20万人が国外に去ったとの説がありましたが、脱出してくると近隣国も迷惑で受入れに抵抗もあり、最近では10万人以下との説が注目されてます。

トレドでは多くのユダヤ人が改宗して残り、彼らの集まりシナゴーグ(集会所・教会)は追放令以後も利用が認められました。

ユダヤ人街 1492 伝いたいメッセージは? ユダヤ人への迫害の歴史、それとも神に選ばれた民族の復興・・・? ユダヤ人も住んでいるユダヤ人街です。

・・・ここから左に折れ、間もなくサント・トメ通り、商店街を進むと時々見えた鐘楼が目の前に近づいてきました。

この煉瓦積み、モザイク模様で洒落ているでしょう。・・・素材が・・・タホ川の河原の石も陶器も利用しているそうです。

手前の路地を右に曲がり横の入口から・・・チケットが必要です。

この教会は?・・・期待して・・・では、帽子をとって、・・・写真撮影はできないようです。

ガイドに続いて、・・・一直線に・・・この作品の前に、

・・・サント・トメ教会の再建に尽くしたオルガス伯爵が1323年に亡くなる、この埋葬の際に天国から殉教者と聖人が降臨し参列者の目前で埋葬したという逸話が題材。

 

エル・グレコが1586年から1588年にかけて、この教会の聖母マリア礼拝堂に描いた作品で、今日でも鮮やかな色彩です、

祭壇画ですから天井まで届く、460cm×360cmと大作です。人物は特徴のある10頭身以上とも思えるプロポーション。

参列者は首回りのひだ襟(ラフ)を身に着けていますが、これは16世紀中頃から17世紀前半の流行といわれます。

題材の主人公オルガス伯爵の時代(14世紀当時)にはこの様なファッションは無く、ここに描かれている参列者は・・・

・・・エル・グレコが生活していた当時、トレドに実在した著名人を参列者として描きこんでいるとされています。

登場人物の一例 解釈としては左下は内縁の妻の子供、左から7番目はグレコ自身・・・といわれています。

・・・ところで、エル・グレコの名声を高めたジャンルは肖像画である。(プラド美術館ガイドブックより)

そして、パンフッレットの表紙にも

・・・この肖像画「胸に手を置く騎士」、モデルはトレドの上級公証人ファン・デ・シルバの可能性が指摘されています。

この肖像画は、「オルガス伯爵の埋葬」の参列者達と同じようなファッションです。

この方参列者の中に・・・左から8番目、顔をか少し傾けた人がこの肖像画の方でしょう。

肖像画は、スペインの騎士スタイルで描かれ、中指と薬指を合わせています・・・この手の形がスマートだそうでエル・グレコの特徴です。

不明とされていたモデルを今日でも熱心に調査されている方達が存在していることに・・・感心します。

 

「オルガス伯爵の埋葬」を鑑賞し、正面から出てくると、教会はこのような建物でした・・・近くて全景が映らない。

右隣が PALACIO DE FUENSALIDA  フェンサリダ宮殿、手前にEU(ユーロ)の旗も見えます。

これから・・・トレドの名物、刃物工業、象嵌・彫金の店に入ります。これらのコースも定番のようです。

スペインは大航海時代にボリビアやメキシコの銀山から大量の銀を手に入れ突然裕福になりました。

銀製品もその後、有力な商品となります、今日では、お土産の鎧、剣、短剣、ナイフ、民生品、アクセサリー、Etc.

このショップから少し離れた所に、このような工芸品のショップもありました。よく見るとショーウインドウ内は、

 レトロな日本、ジャポニズム・・・輸出用の陶器でしょうか。

日本語で店の人に話しかけられたが、時間が無く、商品の説明が聞けなかった。

この店の前の道路を渡り、路地の先に目指す別の高い鐘楼が見えます。上部に三輪のような・・・特徴的です。

この路地を下っていくと、視界が開け・・・広場に出ました。

ここがトレド大聖堂でしょう。

正面に奥行きのある3つの門があります、左に先程の鐘楼、広場がそれほど広くないので下から見上げることになります。

ファサード(正面)中央に大きな門、左右に小さな門の3廊式、ここまではフランスに多くあるノートルダム寺院(大聖堂)と同じですが

何故か左隣の鐘楼の幅が広くて上層部まで重厚感があり、塔の存在感が大きい・・・アンバランス。

・・・この大聖堂はスペインカトリック教会の総本山、トレド大司教座が置かれているといいます。(司教座:カテドラ、司教座教会:カテドラル)

 ここにも車が入ってきた・・・トレド警察!、・・・隣は、小さいセニョリータ 学校帰り?

 広場の反対側は市庁舎、これも古い・・・この市庁舎はエル・グレコの息子が設計したそうです。

・・・では大聖堂内部へ、右側の路地を進むとチケット売り場と入口があります。

入場券(一般の教会は入場料は無いのですが、ここも有料10€です)が必要となります。

ここが入口です。建築時は資材の搬入口といわれます。

 いざ内部へ、・・・教会内は予想以上に暗い、目が慣れればという感じ、天井は高いが・・・採光が弱いか?

先ずは、身廊(シンロウ)の全景を眺めながら、左前方の一角に案内された、

・・・左奥の部屋は宝物室、数々のお宝の中で、中央の台上の物が遠くから光り輝いている・・・

いきなり黄金と思われるお宝に遭遇、これは高さ3m、総重量200㎏、金、銀、宝石の置物が・・・

金の一部はコロンブスがアメリカから持ち帰ったものが使われていると説明されている。

16世紀の作品、これが聖体顕示台、祭りで市中に登場するお宝といえば、日本のお神輿と似ているでしょうか

 正面入り口近くに戻って、天井を見上げる。

採光を兼ねたステンドグラス、通称「バラ窓」と呼ばれる。ステンドグラスは、材料が進化するので作成された年代が新しいほど明るく鮮やか。

バラ窓も、多分この時代頃から作られたと思いますが。

 中央部の身廊、天井を見上げると、

 この天井のリブ構造はよく見かけます。天井を高くできるようになったゴシック建築の特徴です。

左右にステンドグラスがたくさんありますが、位置が高く壁面に占める面積が少なく、採光の効果や鑑賞をするには残念な結果になっていますが、

当時トレドの人々はこの教会に入ると、・・・天上界から彩色されたまばゆい光が差し込んで、

・・・多少薄暗い参列席に座ると、ここは異次元の世界だったことでしょう。演出効果は十分発揮されています。

身廊を東に進むと、中央部が仕切られていました。

一般の教会参列者はここまで、通路の左右の席に着席(我々は見学者で別)仕切りの向こうは聖歌隊席となり前後左右、四面ともに囲まれています。

聖歌隊席への入口は東側、回り込んで・・・

仕切られた鉄柵の内部は結構広い、西の正面側天井に先程のバラ窓が見えています。

そして、一般住民との中央仕切り部の上にも大きな彫刻があります、左右にも・・・

入口の扉から中に入ると、少し高い壇上中央に

マリア像、トレドの守護神が立っていました。

 そして聖歌隊席の側面に設置されているのが・・・

 パイプオルガン、音が出ていなくても重厚で威厳のある装飾物

反対側にもこのように豪華な

これらは歴史的に重要なパイプオルガンのようです。他にも周囲には、彫刻類がたくさんあります。

椅子などにもストーリのある彫刻が彫られています。

・・・そして、教会内部で一番重要な場所は・・・

ここで振り返ると、その先は内陣と呼ばれる場所となります。そしてそこに置かれた祭壇が見えます。

 この位置から見る内陣の荘厳さは、創造以上であり、トレドにこんな凄い教会があったんだと驚きました。

 よく見ると、この位置からは、背景の構造物が焦点をセンターラインに集め、縦方向のポイントで奥行き感が演出され、

色彩効果と合わさり、祭壇部の磔刑像が悲劇のヒーローとして視線が集まります。

ここの聖歌隊席から結構離れています・・・近づいて・・・黒いシルエットの柵は、エッ!ここにも頑丈な鉄柵?施錠されている。

・・・この間のスペース(聖歌隊席と祭壇の間)は、貴族や来賓などの特別席として使用されたと思います。

我々見学者は鉄柵に遮断されて内陣には入れません。

柵の幅が15Cm位だったので、何とかカメラのレンズを柵の間に入れて撮影しましょう。(もちろんストロボは禁止)

これが主催壇、凝ってますね。

鉄柵で下側が見えなかったが、磔刑のシンボルは天井に近いところにあります。

あえて失礼な表現をするならば、オッ! 時計仕掛けのカラクリ人形が次々に動き回るかな?と思ってしまう。

人物が彩色されて目立つ存在なのですが、各コーナーのバルコニー状の台座が気になる。

少しアップしてみましょう。

 凹凸のゴールドが眩しく、豪華な材料は気が散って、人物像・そして場面展開のストーリー?・・・集中できそうに無い。

新約聖書の20場面とのことですが・・・

講談社 世界美術大系 第17巻 スペイン美術 によれば、当時トレドに在中していた内外の彫刻家を総動員して、1504年に完成させたとあります。

・・・主祭壇の裏側にも、凝った彫刻が施された祭壇衝立があります、後期スペイン・バロック様式の最高傑作、1732年完成、トランスパレンテと呼ばれる。

後陣の一部を打ち抜き天上の窓からの光を大理石とブロンズの祭壇上部に降り注ぐような演出で劇的な空間を実現しています。

この写真、露光不足で作品の豪華さが表現できていないのをお詫びします。

隣の礼拝堂など・・・割愛。

・・・もう一か所重要な場所が、礼拝堂の横にあります。・・・聖具室に進みます。

左右にも著名人の作品がたくさんあるのですが、正面の存在感が大きすぎます。

赤い衣装の聖母ではなく、男性です・・・、・・・主人公の衣装が目立ちすぎます、ヴェネチア時代の師テッツィアーノ「聖母被昇天」の影響もあると思われます。

 この作品「聖衣剥奪」、エル・グレコ 有名な作品ですが、絵の構成、技法ではなくて・・・様々な解説があります。

 作品の制作年代:1577~1579年 サイズ:285×173cm

エル・グレコ 宮廷画家を目指したが・・・なれなかった。37歳の作品

題材は、ナザレのイエスが朝9時頃、ゴルゴダの丘の上、磔刑になる直前、衣類(聖衣)をはぎ取られる(剥奪)そんなシーンです。

左下に女性が1.2.3人・・・誰を描いたのでしょうか? 小ヤコブの母、聖母、マクダラのマリア、・・・だったのでしょう、

しかし、教会側は認められない人が含まれている・・・すると、マリアはOKなので、マリアがなぜ3人か?と作者に不満から文句が出てくる。

さらに、キリストの頭上に人々がいるのは、冒涜だろうとお怒りになり、教会からの支払いは1/3位に減額と言われた。

グレコは金額のトラブルは過去によくあり、訴えたが・・・敗訴、そこで作品を渡さず、・・・教会側は、異端審問にかけると脅したとか?

結局どうなったか? 多少金額が上乗せされたとの説がありますが出典元は不明で関心のある方は調べて頂けますように。

・・・

天井画の説明も受けたが・・・「聖イルデフォンソの昇天」も有名です。

他の作品を見ていて、確か・・・奥から手前に鑑賞者が移動すると・・・

天井画で、龍の目がどこに行っても睨んでいる作品がありますが・・・似たような話だったか?

天井画で同じような印象として残っているのが、2013.11.17 アップの南ドイツ ヴィース教会です。

天井には

何もない田舎に観光客がどっとやって来るドイツの教会です。

・・・他、割愛、他にも寄りたい所があったが時間のようです。 

追記です、グーグルの衛星画像から大聖堂配置をご参照ください。

では、街中に・・・ 

 商店街の散策もできず・・・休憩用の椅子?

 違いますね、車輛進入禁止、車止めです。エリア内の住民は、リモコンで上下させ通行可能です。

中心部から下り坂を進んできました。こちらの教会は相当古いようです。

この先、狭い路地を下れば、数百メートルでエスカレータ乗り場でしょう。

・・・

 駐車場から北に500m、古い円形の競技場、Plaza de toros de Toledo トレド闘牛場がありました。

ゴヤが闘牛場の石版画を描いていました。

様式化される前の荒々しい格闘スタイル、溢れた観客が場内の片隅で歓声を上げている・・・

 歓声が聞こえたような・・・トレドでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラド美術館 GOYAの時代

2017-03-09 | 旅行記

・・・ゴヤ(1746-1828)は、ルネサンスの主人公レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生から約300年も時代が進んだ頃に登場し、歴史に名を残した人物です。

プラド美術館のガイドブックによれば、「1819年のプラド美術館創立当初、存命中のゴヤの作品は3点が展示されたのみであった」と記されています。

それ以降、王室コレクションはじめ、各方面から収集し、約150点の絵画、500作の素描・版画シリーズなどを収蔵し、量・質ともに世界最大のゴヤ・コレクションを誇っています。

ベラスケス(1599-1660)とレンブラント(1606-1669)を師と仰ぎ、自然を愛した方のようです。

ゴヤの作品の前に、・・・プラド美術館にもルネサンス三大スターの作品がありました。

「枢機卿」(1510-1511頃)  ヴァチカンの枢機卿ですがモデルの名前は不明のようです。

この人物の表情、朱色と白で織りなす見事な衣裳の質感、立体感、濃淡・ハイライトの描画テクニック、美に対する繊細な感性が感じられます。

作者はラファエロ・サンティ(1483-1520)、宮廷画家であった父の血筋でしょう、天才肌です。

肖像画も多く描いています。彼をフィレンツエからローマに呼び寄せたのがユリウス2世。

教皇がスポンサーとなり「ローマ教皇ユリウス2世の肖像」を作成しています。人気者ですから、次の教皇レオ10世からも

「ローマ教皇レオ10世の肖像」

次々に依頼されています。ローマ時代には大きな工房を持ち大活躍します、スタッフを抱え、プロデューサーの才能も有り、社交的で若くして大成功した人物です。

優しく優美な聖母子像は、ラファエロ人気の作品で独特の雰囲気があります。

母を8歳で亡くし、年少から仕事を手伝っていた宮廷画家の父も11歳で亡くしています。母を想い理想の聖母を描いていたのでしょうか。

プラドにあるのは「聖家族」1518年(35歳)頃の作、・・・残念ながらこの後若くしてここローマで亡くなります。

・・・これらはローマ時代の作品です。彼は25歳の頃ローマに来ます。

その前の17歳頃~25歳までの頃、憧れのフィレンツエに何度か行くうちに、フィレンツェに数年間落ち着きます。

この頃フィレンツェで巨匠と新鋭の彫刻家、将来有望の少年とルネッサンス三大スターが顔を合わせる事になったのです。

・・・1498年、巨匠はミラノで46歳「最後の晩餐」を完成させ、争いが静まったフィレンツェに1500年ころ戻ってきました。ここで「モナ・リザ」や「レダと白鳥」などの制作に入ります。

一方フィレンツエで学んでいたが才能を見込まれ、若い彫刻家は1496年ローマに招待され、1498年から制作を始め2年後、25歳で2作目の作品として「ピエタ」を完成させ人々に衝撃を与えます。ミケランジェロです。

今日、「ピエタ」はサン・ピエトロ大聖堂1階右側防護ガラスの中に置かれています。

1500年頃フィレンツェに戻って「ダビデ像」の制作を依頼され、1504年完成させます。

「ダビデ像を」市庁舎広場のどこに据付けるか、依頼主や市、巨匠とカンカンガクガク・・・。今日では、当初の位置にレプリカが置かれています。

ここに、この時代、少年ラファエロが、熱気溢れるフィレンツェにやってきました。最先端の芸術に触れられたのです。

もちろん憧れのレオナルド・ダ・ヴィンチの工房に行き、制作中の「モナ・リザ」(1503~1506年頃)、や「レダと白鳥」などを夢中で模写しているようです。これらの模写作品も有名になっています。

 こちらもルーブル美術館で、防護ガラスに囲まれた特別展示室に展示されています。

巨匠はフィレンツェ政庁舎の大会議室壁画の製作依頼を受け、「アンギリアーリの戦い」に着手、

向かいに「カッシーナの戦い」を競作として描くことになり青年彫刻家に依頼されました。

・・・ところで、フィレンツェでは、有名なメディチ家が1494年に追放され、メディチ銀行は破綻、財産没収されましたが、

約20年後ローマにおいて、メディチ家当主のジョバンニ枢機卿が1513年「ローマ教皇」に選出されます。

ラファエロの先程の作品「レオ10世」がその方です。

・・・さてフィレンツエでは、巨匠のレオナルド・ダ・ヴィンチも気鋭の彫刻家ミケランジェロも、新作絵具の失敗や多忙なこともあり、

1505年頃には大会議室の壁画は共に製作途中で放棄された状態になったようです。

遠く南のローマ、カトリックの総本山では、1505年教皇ユリウス2世がサン・ピエトロ大聖堂の大改築を始めます。

ラファエロはローマ教皇ユリウス2世の招きで1508年からローマに移り、多くの大作を残しています。

・・・ミケランジェロは、ユリウス2世から1505年ローマに呼び戻され自分の(ユリウス2世)霊廟を造るように命じられています。

ラファエロは翌年には、教皇の宮殿の壁面にこの有名な大作を含む作品を一部完成させています。

今日、ヴァチカン宮殿のラファエロの間に、この「アテナイの学堂」(1509-1510)などがあります。

・・・彫刻家ミケランジェロはユリウス2世から、霊廟と並行して礼拝堂の天井画を描くように命じられます。題材は12使徒。

気乗りがしない・・・彫刻が一番・・・題材を勝手に12使徒から旧約聖書の「創世記」に変えて、着手します。

この礼拝堂は、ラファエロが「アテナイの学堂」等を制作していました宮殿とサン・ピエトロ大聖堂の間にありました。

1511年ミケランジェロが制作中で未完成の「礼拝堂天井画」を天井の足場を一部外し、大聖堂改築責任者のブラマンテが密かに見せたという話も有名です。

・・・ミケランジェロはラファエロを嫌っていたそうで、ラファイロの死後も彼の作品は盗作だと非難していたようです。

話が脱線・・・この時代に関心があるのでつい・・・

 ・・・・・

フランシスコ・デ・ゴヤ、Francisco Goya y Lucientes(1746年~1828年)

生誕の地はバルセロナの東、首都マドリードとの中間位にあるサラゴサという街の近くで、父親は金メッキ職人といわれる。

14歳から地元サラゴサで絵画の修行、・・・、24歳でイタリア、ローマに留学、翌年サラゴサに帰ると地元の教会などから次々と仕事が舞い込む。

やはり、この時代になってもイタリア帰りの看板は効果があったようです。やがて27歳で結婚し、マドリードで王立タペストリー工場で40歳頃まで下絵描きをしています。

タペストリーは、下絵を基にして織り込まれ織物が完成します。

この下絵が重要で装飾絵画の一分野とされ、彼の一連の作品は評判を呼び、178943歳、カルロス4世の即位と共に宮廷画家(国王の専属画家)となります。

人気肖像画家として貴族、政治家とも交際が広がり、社会的地位も得ていきます。

しかし、二つの不幸が襲います。179347歳の時、病気から聴覚を失います。

次の不幸は戦争の現実、ガイドブックなどによると、

・・・1807年フランス・ナポレオン軍がスペインに侵攻し支配下に置かれる。1808年、ナポレオンの兄がホセ1世としスペイン王国の王位に就く。

市民からはスペイン独立戦争が始まる、・・・複雑でしょう。

ゴヤは当時62歳、絶対王政スペイン政府が倒されて、・・・宮廷画家ではあるが知識人たちとも交流があり、宗教的権威に反対する啓蒙主義のホセ1世(ジョセフ・ボナパルト)政権を支持した。

時代遅れの王政から自由で理性的な新しい政治に期待して・・・。

しかし、現実の戦争は・・・残虐で不条理なものでしかなかった。圧倒的な失望感に襲われた。

・・・やがてフランス軍がスペインから駆逐され、フェルナンド7世(1813-1833)が復帰、・・・ゴヤは宮廷画家の粛清から免れたが、友人は新仏派、自由主義者の罪名で投獄される。

・・・181973歳晩年マドリード郊外に買った家の壁に謎の多い「黒い絵シリーズ」と呼ばれる絵を描いています。

1828年、亡命先のフランス・ボルドーで波乱の人生、82年間の幕を降ろします。

・・・どのような時代にどのような環境で生活されていたのか、作品と作品の背景に興味がわいてきます。

1800年 カルロス4世の家族 280×336㎝ ゴヤのコーナで人混みになる人気作品です。

詳細な解釈・説明が多方面でされています。

中央右の王子(末子)の描画には、・・・子供には優しさあふれる視線が感じられる。

宮廷直々の注文の王室一家の肖像画ですが、じっくり見て下さい。王子の右隣は国王です、理性と威厳が?・・・政治に無能な王様だったようです。

左側の端から二番目の青年は、皇太子、その後ろが弟の王子・・・その後・・・尊敬するベラスケスと同じように影の中からこちらを見ているのがゴヤ本人です。

右端は、パルマ公爵の妻(王女)腕には国王夫妻の孫、その左長身の男性が夫、さらにその左隣で国王との間の夫婦が王の弟とその妻(当時すでに故人)、

さて国王の王妃は、右手で娘(王女)を抱えて笑顔で素敵に?・・・顎を突き出して不満そうです。(こんな話も・・・王妃マリア・ルイサと愛人が実権を握っていた)

王妃からゴヤにクレームが当然出ました・・・が、ゴヤは毅然とありのままにと言ったかはわかりませんが、修正はしません。

皇太子と王妃の間に、左から4番目は王の妹(内親王)顔に黒い小片がありますが・・・膏薬(コウヤク)だそうです。(普通は描きませんが・・・)

その右側は、・・・肖像画ですから横向きは無いでしょう・・・皇太子が嫌いだったようで、まだ決まらないどこかの王女のようです。

ガイドブックによれば、ゴヤの王室に対する批判との解釈がされた時期があったが、フランスとの関係が険悪であった当時において、

スペイン・ブルボン家の正当性(フランス・ブルボン朝は当時すでに革命により断絶している)と、その重要性を主張したと見るのが妥当である

と書かれていました。(ご参考まで)

・・・ 

「裸のマヤ」制作年代が1800年以前とあります。98×191㎝ 

個人宅の壁面に飾っていたのでしょう。

依頼主も不明、もちろんカトリックの国です、裸体画は異端(カトリックの教えに反する)審問の対象になります。

当然有力な権力者からのポルノの依頼でしょう。リスク覚悟で描いていますが、1815年、国王に告発者があったのでしょう、ゴヤが異端審問所に召喚されたとする説があります。

異端審問、実はフランス統治下の1808年廃止されたが、1814年にフランスから独立すると復活します。

裸体の表現は、厳格なスペインではタブーで、・・・結果は?・・・警告くらいだったのでしょう。

125000人くらいの裁判があり、1~2%が死刑、大半は警告か、無罪だったようです。

「着衣のマハ」 1800~1808年 95×190㎝

「裸のマヤ」と「着衣のマヤ」は並んで展示されています。両作品とも有名ですから、ここも人混みとなっています。

この作品は、1808年のゴドイの資産リストにその記録があるそうです・・・1808年の作成?・・・この年は?・・・、

ナポレオンの侵攻で慌てて資産リストを作成したのでしょう、裸のマヤは記載されていませんが・・・。

・・・次が連作となっていますが、ゴヤの葛藤でしょうか 。祖国の一大事、1808年です。

「1808年5月3日の銃殺」 1814年~  268×347㎝  (ゴヤは、・・・無名の市民を英雄として描いた)

5月2日 市民が隆起する、・・・マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場で、素手やナイフで仏騎兵に立ち向かったが捕えられ・・・

その日午後から夜にかけて、フランス軍はマドリードの各所で反乱に加担した者を命令により銃殺で処刑した。

直視できず、フランス兵は目を伏せて撃っていたのでしょうか?

中央から右に処刑を待つ人々の列が・・・

フランス軍の外燈の光が照らし出す・・・この場所は、マドリードの外周門プエルタ・デ・ラ・ベガ付近と思われ、

背景の塔は、サンタ・マリア・レアル教会かサン・ニコラス教会と思われるとあります。

この絵の細かい説明が色々ありますが、割愛。

・・・(それから6年間抗仏戦争の後、1814年にフランス軍を追い出す。)

このような社会性のある絵が、その後ピカソらに影響を与えました。

・・・

他にもあるプラド美術館、人気画家の作品を3点ほど

この画家も波乱の人生、モデルを使用して考えた、構図、光と影、ドラマチックな作品の数々

「ゴリアテを負かしたダヴィデ」1600年頃の作品 110.4×91.3

カラヴァッジオ 1571年生まれ

「ゴリアテの首を持つダビデ」:ローマ「ボルゲーゼ美術館」も有名です。

 ・・・

「三美神」 1630~1635年頃の作品 220.5×182

ルーべンス 1577年生まれ 

このような(現実的な)肉感あふれる女性美は・・・ご覧になるのは?始めてでしょう。

肉屋のルーベンス、血の通った生身の身体の美しさが好き、(太った女性が好き)のようです。

 ・・・

「ユディト、ホロフェルネスの晩餐会の席にて」 1634年頃の作品 142×154

4

レンブラント 1606年生まれ

オランダ絵画の巨匠、この作品も従来の1887頃の写真では左奥に袋を持った老女やカーテンがあることで解釈が変わって来て・・・

題名も、・・・晩餐会の席にてと変わってきています。

また、有名な「夜警」1642年作・・・も背景の黒は経年変化で茶色く変色していたためで、市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)の行進を命令する

との記述がある素描が見つかり、昼の情景を描いていることに解釈も変わりそうです。

 ・・・

そう!、最後にガイドさんの重要な一言が・・・

ここに展示されている「モナ・リザの複製」は1666年からスペイン王室のコレクションとなっていました。

・・・18世紀に背後に広がる景観が黒く塗りつぶされていたが、最近(2011)無傷の状態で洗浄が済むと、上塗りで隠された変更点、訂正箇所が発見された。

これらはオリジナルのルーブル美術館と大部分で共通しているので、ダ・ヴィンチの工房の作者不明「モナ・リザの複製」は、オリジナルと並行して同時に描かれた作品である。

但し、スフマート技法とはかけ離れたイラスト的作風で弟子の作品と思われるが、高価な顔料が使われ保存状態も良く単なる複製ではないことがわかる貴重な作品とのことです。

(背景の描写・色彩が分かり易いですね、この作品から背景について新しい解釈が生まれてきそうです。)

何度でも見たくなる、そんな作品がたくさん増えると楽しいですね。では、

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラド美術館

2017-03-02 | 旅行記

何故、欧米の大半でカトリック教がベースにあるのか? ・・・ローマ帝国の歴史を学ぶと多少理解できたつもりが、今日、何故それらの関係者が一神教を捨てないのか、なかなか理解できないでいます。

・・・ユダヤ教からキリスト教が枝分かれし、さらにイスラム教が遅れて地中から芽を出し、同じ神のみを唯一信じる集団がお互いを憎しみ合っている構図があります。

しかし現実に地球上には、彼らが敬う神以外に無数の神を信じる人々が存在する多神教の世界であり、神から選ばれたと主張するユダヤ人は自己中だが、彼らが金のみが力と・・・世界を動かしていることも現実であるようです。

多神教だったギリシャ・ローマ帝国初期、・・・キリスト教が治世のために国教となり・・・結果、停滞した中世(ビザンティン・ロマネスク・ゴシック)・・・そして再び人間は元々自由だ・・・とギリシャ・ローマ文明を見直す時がきた・・・ルネッサンス・・・

この時代から少しづつ自由を勝ち取っていく軌跡が見えてきます。この時代の生き証人の作品に触れられるのが一番の楽しみです。

・・・かつて、15分間と時間制限のある静寂の空間で・・・この作品に息をのみ

教会・食堂に描かれた レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に感動し、

また、より高く、より高く、天に近づくようにと・・・このような所まで描かれた力作を手が届く位置で鑑賞し

各地のドゥオーモ(大聖堂)に登り、当時の建築技術に驚き(上記はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂内部)、

偶像崇拝が禁止された宗教ではあるが、教会壁面にPR絵画を描くことで作品が人々に感動を与えることができた。

旧約聖書や新約聖書を題材にしながらも、過去の様式にこだわらず依頼主と渡り合い、自由な発想で構成し芸術の域に仕上げた人々の作品に出合える

バチカン宮殿 システーナ礼拝堂のミケランジェロの大作も旧約聖書が題材です。

隣接するサン・ピエトロ大聖堂(カトリック教の大本山)は堕落したと指摘され、プロテスタントに流れる信者を引き留めるには

市民を圧倒させる作品により非日常的な空間が必要だった。

後にルネッサンスと呼ばれる16世紀に、これらの人々は教会に出入りする絵描き職人から、職業画家や彫刻家として名声を得られる時代となりました。

そして日本で家康が権力を握るころ、イタリアでは「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛されたジャン・ロレンツオ・ベルニーニが活躍します。

ローマには多くの作品がありますが、ボルゲーゼ美術館(要予約)にも、素晴らしい作品がありました。

その中の1点、「プロセルピナの略奪」1622年、ベルニーニ23歳ころの大理石の彫刻作品です。 

芸術の都はイタリアでしたが、このような時代に、ここスペインでも著名な画家が登場しました。

・・・ スペイン・マドリード

緑の並木道と広大な公園の一角にプラド美術館があります。

道路から階段を降りて、振り向くとGOYAの銅像がありました。ここがゴヤ門。

美術館正面から左に回り込んで

左の高台に教会が見えます。その階段の下が一般の人の入り口です。

冬の季節は、美術館めぐりには好都合です。混雑していることが少ないからですが、時々課外授業で生徒が大勢で来館している場合もありますが・・・どうでしょうか。

館内は写真・ビデオ撮影禁止です。プラド美術館ガイドブックなどから雰囲気と作品を転用します。

・・・こちらは、スペインのお宝の一つです。

実物に接すると、その作品が依頼された状況や掲げられた空間を考えると、多少なりとも作品の理解に役立つ気がします。

 美術館の展示品は、一般的に収蔵されている作品のごく一部が展示されているにすぎません。

お宝の作品は常設でいつでも鑑賞できますが、人気の作品は貸し出し中の場合もあります。

このプラド美術館は世界3大美術館のひとつ、3万点の所蔵品を有し、自慢は略奪品が無いことだそうです。

この中から約3000点が展示され、絵画だけでも約1000点を超え、中世から18世紀のスペイン絵画が半数を占めるとのこと。

スペイン三大画家と呼ばれる人々の中で最も早い時期に活躍した方が、エル・グレコ(El Greco)。

本名は別にあるのです:ドメニコス・テオトコプーロス、1541年ギリシャ アテネの南の大きな島クレタ島生まれ、クレタ島時代の作品(20代中頃の作品)は中世の宗教絵画風、

ヴェネツィアへと旅立ち、テッツィアーノに師事し色彩を学んだのでしょう、しかしこの地は競争が激しい。

ローマに移り工房を開き、頑張っていると顧客ができ、多少自信がついて、・・・憧れのミケランジェロ(亡くなって6年後にローマに来た)の「最後の審判」を時代に合わせ描き直しましょうと言ったといわれる。

--

ミケランジェロ作 システィーナ礼拝堂の祭壇画 「最後の審判」(1535着手-1541完成)

ミケランジェロを超える自信があるとまで・・・この作品はローマ市民のお宝であり、サンピエトロ大聖堂も彼の功績が大です、イタリアの英雄です。

・・・当然でしょう、若者はローマ市民の反発を受け、仕事は減り・・・ローマを離れる・・・、どうするか。

この事件の少し前に、イタリア南東のレバント沖で海戦(1571年)があり、無敵艦隊のスペインが、長く地中海の制海権を握っていたオスマン・トルコ海軍を破って制海権を取り戻しています。

この話題は各地に届いていたでしょう。(先のセルバンテスさん:ドンキホーテの作者、この海戦で左手を負傷)

・・・34歳で、決心したのはクレタ島へ・・・戻らず、世界最強の国スペインに渡ることでした。

・・・新しい都マドリード(1561年にフェリペ2世が王宮を移す)にも行ったでしょうが、歴史のある旧首都トレドで、1577年36歳で工房を開きます。

人気のイタリアからやってきたギリシャ人、・・・彼は地元の人に、あだ名で El Greco エル・グレコ(ギリシャ人)と呼ばれるようになります。

早速新築の教会から祭壇画を依頼され、8枚の作品を描きあげます。

今日その中で有名な「聖三位一体」が、ここプラド美術館に展示されていました。(画像 略)

エル・グレコは、ティントレットからも影響を受けたと言われ、構図や、動き、色彩など個性のある作品です。

この作品は、エル・グレコ晩年の作で、自分が永眠する教会の祭壇装飾の一部で、

誕生したイエスの覆いを聖母マリアが取り去ると光が聖ヨセフ、羊飼い、そして天界まで照らしているとされます。

エル・グレコの作品は、トレドに数多く残っています。(別途)

ベラスケス (ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス:1599-1660)

ガイドブックによると、このプラド美術館には、ボス、ティツィアーノ、ルーベンス、ゴヤなど巨匠と呼ばれる作品が数多く所蔵されているが、

看板として挙げるならベラスケスをおいて他にはない。彼の作品約120点のうち、50点を所蔵しているとされます。

その作品は1899年以来、施設内の最も地位の高い場所に展示さてれきました。

 ベラスケスとはどんな人物で、どのような経歴なのでしょう。

作品の背景が気になって調べてみました。年代は、1599年セビリア生まれ、1660年没、同年代にイタリア、ナポリ生まれのベルニーニがいます。(1598年~1680年 20年長生きしていますが)

最高傑作とされる晩年の作品です。

この展示場所は2階(現地は1F表示)中央。彼のコーナーの中で最高傑作とされるのが「女官たち」「ラス・メニーナス」1656、318×276㎝

・・・登場人物は、中央に王女:マルガリータ、その左右に白い洋服の女官(マリア・・・・)、(イサベル・・・・)、右下の犬を踏んでいる女の子が道化(ニコラシート・・・)、

その左で結構目立つ顔の人物は、軟骨無形成症(小人)(マリバールボラ)、その後ろ、ぼやけている人物の名前は不明、隣が(マルセラ・・・)、

左端の絵筆の人物が、当人のベラスケス、奥の階段からこちらを見ているのが配室長・王妃の侍従(ホセ・ニエト)、

登場人物は総勢9人と犬1匹、4人の視線の先にベラスケスのモデルが立っている。

モデルは国王夫妻、その姿が王女の右後ろ、鏡の中に描かれています。鏡の中の夫妻は実像が移っているのか、ベラスケスの描いているキャンバスの作品が映っているのか、鏡の角度からして実像でしょうか。

モデルの立ち位置から見た構図です。

ベラスケスはある日の一場面を忠実に描写する・・・王女以外の登場人物も丁寧に描写しています。

遠近法などの技法を巧みに使い立体感のある作品です。

作品も大きいですが、作品に描かれているキャンバスも大きく、また王室内部も天井が高く、数多くの作品が掛けられています。

この作品は、どこの場所に置かれたのでしょうか?国王の書斎という説がありますが。

マドリードのフェリペ4世の王城で火災に会い損傷し左右のサイズが小さくなり、王女の顔も修復されたそうです。

その場所に現在の王宮が建てられているようです。・・・10m以上離れても存在感のある作品でした。

・・・ベラスケスも若くして画力があります。1619年20歳「東方三博士の礼拝」(画像 略)などすぐれた作品が展示されています。

フェリペ4世即位後1623年にマドリードに移り、間もなく宮廷画家として召し抱えられる。

フェリペ4世の時代、まだ絵画は工芸で芸術とは見なされなかった。

ベラスケスは肖像画中心に描いていたが歴史画も描け1628年から宮廷内の役職を任命され、徐々に高い地位に上って行きます。

1629年8月から国王の許可を得てイタリアに2年間留学。(後にもう一度イタリアに行って皇帝の肖像画も描いています)

宗教画の依頼よりも肖像画の依頼が多く、その中で1632年(33歳)修道院の依頼で「十字架上のキリスト」248×169㎝ を完成。 

4本釘の様式で、従来の慣習と異なり背景が無く、傑作と言われスペインで最も多く模写された作品という。

・・・肖像画は時の国王より権力者だったこの人物「オリバーレス公伯爵 ガスパール・デ・グスマーン騎馬像」 1636年頃 313×239㎝

伯爵の肖像画は、威厳のある作品に仕上がっています。

実力があり国王よりも伯爵を尊敬していたとか。

こちらは、新しい宮殿にと描かれた将軍の装束の国王の肖像画です。

前年1635年頃の作品 「フィリペ4世騎馬像」303×317㎝

振り返ってこちらを見下ろす伯爵のポーズに対して、国王は・・・。

・・・1640年代から宮廷画家とフェリペ4世のコレクション収集の兼任担当となり、収集品の責任者です。

1651年2、侍従長に任命されました。このポストを得てから、地位と収入が得られるようになります。

この頃から鑑定家としての活動も始め、プラド美術館の大半のコレクションはベラスケスの指示で収集しています。

そして彼は宮殿内の描いていた部屋を、宮殿美術館・アトリエとして使用することを許さるようになります。

この部屋に度々国王一家が訪れ、「ラス・メニーナス」もここで描かれたようです。

その後ベラスケスは、サンティアゴ騎士修道会の称号を得るために労力を費やし、国王の口添えや教皇の支援を受け1658年に何とか獲得し、貴族集団に名を連ねます。

・・・フェリペ4世の娘、マリア・テレサ王女と従妹にあたるルイ14世との婚礼が、フランスとの国境近くのフェザン島で執り行われ、ベラスケスは宮廷配室長として列席しています。

調べてみると上昇志向が強く、公務が多忙なようですね。まもなく病で、61歳の生涯を閉じます。

・・・城中(書斎?)に掲げられていた「ラス・メニーナス」のベラスケスの胸に、念願だった騎士団の赤い十字架を、書き加えるように・・・・・誰が? フェリペ4世が自分で書き加えたという伝説が残っています。

・・・三大画家の最後は、少し遅れて登場し波乱の時代を生き抜いた「ゴヤ」です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする