気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

根本大塔と金堂

2015-10-25 | 写真

青空と緑の木々に囲まれて、朱色の塔が鮮やかです・・・落ち着く風景です。

目指す根本大塔の手前に、柵で囲まれた木々が・・・三鈷の松です。近づいて、探し物を始めます。

競技場のトラックのように綺麗に整地された地面・・・松葉を探しているのですが・・・朝のお勤めで掃き清められたのかあまり落ちていません。

案内板があります。伝説の神話、三鈷杵(サンコショ)が・・・この松の木は三鈷の松と呼ばれ、三つ葉が特徴と書かれています。

・・・落ち葉を見つけ・・・幸運のお守りにする人が現れブームになっています。残念ながらこの時は落ち葉が少なく、三つ葉も見当たりませんでした。

では、目の前の根本大塔へ、正面の階段を上がり下足を脱ぎ、右端の扉から脱帽して入場します・・・原生林を切り開き密教・曼荼羅の世界観を表現された内部とは・・・。

残念ながら、内部は写真撮影禁止です。

左前方に祭壇があります。焼香に進む前に、卓上右側に山吹色の練香のような物が置いてあり、右手で少量取り、両手の平で擦り合わせ参拝します。

これは、後で調べると、塗香(ズコウ)と呼ばれる香のようです。参拝前に香を塗って身体を清める作法のようです。

ここで頂いたパンフレット等には、大塔は816年高野山開創の頃より着手し、空海(大師)と真然の二代を費やして887年頃完成とあります。

パンフレットには高さ50m、約30m四方と書かれていますが、一方拝観時の入場半券には、高さ49m、約24m四方の一層塔とありますが、多分この違いは、基準点が異なるからでしょう。

内部の写真は、高野山町のHPで公開されていますので借用しましょう。

中央は、胎蔵界の大日如来:大きい仏像です、四方に金剛界四仏といわれる、東に阿閦 (アシュク)、南に宝生、西に無量寿(阿弥陀)、北に不空成就 を安置するとあります。これらの四仏も、大きな仏像です。

春日野氏の「仏像観賞のしかた」によると、阿閦 (アシュク)は、鏡のようにすべての事象を映すという意味で「大円鏡智」(ダイエンキョウチ)、

宝生は、宝を生み出し、すべては平等と知る知恵「平等性智」(ビョウドウショウチ)、

阿弥陀は、サンスクリット語で無限の寿命を持つ者という意味、中国に入って無量寿(ムリョウジュ)とか無量光と訳され、阿弥陀は無量寿とも呼ばれる。お経、観無量寿経によれば、十万億土に極楽があり、死に臨み、罪を懺悔し、ひたすら念仏を唱えて極楽行を乞い願えば、阿弥陀が枕辺に迎えに来てくれる。

不空成就 は、成さねばならないことを成功させてゆく知恵を意味し「成所作智」(ジョウショサチ)の智を表します。

以上の四仏(如来)と大日如来を含め五智如来(ゴチニョライ)というそうです。

・・・密教の教理を推し進めていくうちに生まれた仏様が現れます。阿弥陀や薬師などの如来を統一したのが「廬舎那仏」(ルシャナブツ)、東大寺の大仏様です。

平安時代には釈迦以外に、明王、天など仏教の守り役もでてきて収捨がつかなくなり・・・仏の統一が必要となります、摩訶廬舎那仏が誕生し、摩訶は大きいとの意味から大廬舎那仏になり、大日如来となったようです。大日如来は、廬舎那仏をも統一する仏として生まれましたとあります。・・・偶像を説明することになると、縦横の関係を説明しそれらの調整も必要になることでしょう。

さて五智如来の他には、天地2m位の大きな円筒形の仏画がガードマンのように立ち並んでいます。これは柱絵で十六大菩薩が16本の柱に描かれています。

如来も四仏も十六大菩薩も、一段(推定60~70㎝)高い内陣に配置され、周囲に囲いが無く、曼荼羅世界の広がりを感じ取ってほしいという空海さんの思いが伝わってくるような感じがします。

壁面には八祖大師が描かれています。

・・・さて改めてパンフレットを読み返すと、建立されてから5回の消失再建を繰り返し、現在の建物は昭和12年(1937年)に完成とあります。柱絵や壁面の絵は堂本印象画伯の筆でとあります。

中央の如来から四方に広がるこれらの壮大な空間が、今日立体曼荼羅と呼ばれています。この大塔は再度じっくり観賞したいものです。

 ・・・根本大塔を後にし、出口から視線を右に振ると、西側の伽藍が木立に囲まれています、ここは修行道場だったと思いだし、空海さんはすごいなぁー・・・、

目線を手前に引くと先程松葉を探した三鈷の松が見えました、今日ここは有名な観光地でもありました。

右手、目の前が金堂(本堂)です。こちら側からは入場できないので、正面(中門側)に向かいます。

前方に白い鐘楼があります。

大塔の鐘(ダイトウノカネ)、これも消失して三度ほど改鋳されたとあります。鐘も大火の際は重くて、運び出すのは後回しにされたのでしょう。

それでも現在の鐘は、1547年戦国時代の鋳造で、直径7尺(2m120㎝)重量1600貫(約6トン)もあります。

日に5回、計108の鐘の音が響くそうです。

・・・中門の正面に戻り、改めて見てみると落ち着いた建物、これが日本というような本堂(金堂)に・・・石段を5段ほど上がり、本堂の屋根の下で下足を脱ぎ、木製の階段を8段ほど上がると右手の扉が内拝入口となります。

金堂と呼ばれるのは、屋根の色からのようです。空海さんが創建された当時は講堂と呼ばれ、寛永時代に類焼に合い、・・・二層の銅瓦葺(ドウカワラブキ)に再建されました、・・・この輝きから金堂と呼ばれるようになったようです。

その後もしばしば火災にあい、現在の建物は7度目の再建となるとのこと。

昭和7年9月に再建され梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m、一部から反対もあったようですが、もう消失させてはならないと、鉄骨鉄筋コンクリートのようですが、木造建築と思うほど落ち着いてこの聖地に溶け込んでいます。

ここも撮影禁止、そして塗香で清め中央で本尊に焼香します。大塔もここ金堂も線香はご遠慮くださいと書かれています。

さて、ここの本尊の薬師如来、今年初めて開帳されました。高村光雲氏作、大きな仏像です。TVで放映されていました。

昭和の大火で本尊が焼失したとありますが、秘仏とされ誰も本尊を見ていない、記録も無い。そこで昭和の仏師が高野山金剛峯寺から製作依頼されて、ものすごく大きい仏像を完成された、・・・本尊は秘仏、今年本尊を1,200年の歴史で初めて一般公開されました。

思うに、秘仏である本尊も焼失してしまうと、・・・新しくなった本尊は、多くの関係者で開眼法要などは執り行われたでしょう、あるいは秘仏は関係者の目にさえ触れず収まったのでしょうか?・・・今後は秘仏から公開仏になったのですから、鑑賞できる芸術品の本尊として・・・定期的な公開を期待しましょう!

金堂内は、本尊の薬師如来(阿閦 (アシュク)ともいわれています)があり、一般には本尊の脇が日光菩薩と月光菩薩と言われています。

これら内陣は格子で囲まれその周囲を右回りで拝観します。周囲は思った以上に広く正面と東西は畳が横に6枚(5.4m)、裏側が3枚(2.7m)裏側に天井まで届くような黒くて大きい扉がありました。ここから本尊を搬入されたのでしょう。

金堂の内部は四方が高さのある障子戸で、高窓もあり採光もよく思った以上に明るい室内でした。さらに高窓の上からスポットライトも当たっています。内陣の東西の壁面に掛けられていました貴重な曼荼羅は、残念ながら格子越しで鮮明には見えませんでしたが。

内陣の東側後方に象に乗った仏像がありました。・・・象・・・平安時代初期、海の向こうに唐があり、はるかその西方にブッダの国インドがあり、・・・インドに聖なる動物 象がいた・・・どのように象の大きさを説明されていたのでしょうか。龍や麒麟と比較されたことでしょう。

後日仏像の資料を探してみると、これは・・・普賢菩薩のような・・・、しかし、分類はあまり意味が無い、・・・宗教を理解したいが、じっくり修行する余裕も無く、偶像を鑑賞し、その時代背景を考えることに興味を持つこの頃です 。

信じることから始まります、あなたは信じますかと言われ・・・無条件に何かを信じることはないでしょう。原理主義にならず、良いものは取入れて、消化して、独自に考え、判断をする・・・新しく価値観を再構築する、バラモン教、ヒンズー教も消化し中国で後期の仏教を吸収し、日本で熟成された独自の教えに・・・高野山で若干触れられたことに喜びを感じ、奥の院に向かいます。

 

 

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壇上伽藍へ

2015-10-14 | 旅行記

標高約850m~900m、周囲を山に囲まれ、東西4㎞、南北2㎞の盆地中央に伝説の三鈷の松(サンコノマツ)があります。

この松の周囲に、根本大塔(コンポンダイトウ)が816年頃から建てられ、それから約70年後に完成します。

さらに金堂(コンドウ)と呼ばれる本堂や、多くの伽藍が着工されます。そこでこの一帯の正門として819年、南側に中門が建てられます。

この未開の地に空海が伽藍を建て、さらに宿坊が建ち、多くの人々が生活するようになると大門からの道は参道というよりは街道になり、今では周辺に約4000人が生活する大きな街となりました。

学校、病院、銀行、警察、飲食店、雑貨屋と何でもあるそうです・・・遊技場、映画館、教会は無いようですが。

・・・この街のメインストリートをゆっくりと進み、中門前の駐車場に車を入れる。・・・目の前に鮮やかな中門が待ち構えています。

参拝客もそれほど多くなく、静かな時間を過ごせそうです。

時間は11時半前、平日、天候に恵まれ、はやる心を抑えて中門の前に立ち一礼。

・・・中門は長い間、幻でした、・・・819年に建てられて、焼失、再建の繰り返し後、1843年に大火があり西塔のみを残して壇上伽藍は残念なことに焼き尽くされたそうです。

それ以降中門は礎石の状態が172年間も続き、・・・幻から何と、今年4月2日現実に・・・そうです、再建され落慶法要がありました。

目の前の8代目の中門は、高さ16m、幅25m、奥行き15m、檜皮葺(ヒワダブキ)の屋根、木造2階建ての大きな楼門です。

さらに進むと、中門を守っている四天王がにらみをきかしています。

右手に槍を持つ増長天が南を守り・・・左手にも宝塔のようなものが・・・横から見てみよう

左手には宝塔のようです、・・・かなり前傾した状態で据付けられています。西隣には

剣を持った持国天が守っています。nnn・・高く掲げた左手が握っているのが・・・三鈷の松(サンコノマツ)の神話にも登場する三鈷杵(サンコショ)のようです。、しかし、持国天は東を守るのでは・・・?、こちらは南側で中央より西側(南西)のはずだが・・・、中門の内側へ進んでみよう・・・

ところで、何か画像がスッキリしていませんか?・・・四天王の像が、・・・色が違う?、新規に造られたからでしょう・・・、スッキリしているのは・・・鳥除けなどの金網が無いのです。

右手に筆、左手に巻物、この像は広目天、通常西を守ります。・・が、この位置は中門の北側であり中央から東側(北東)、西では無いですが・・・隣は

右手に宝塔、北を守る多聞天でしょう?。・・・多聞天はこの位置でOK。・・・イヤ、右手は何も持っていませんでした、左手に槍でした、多聞天でもないようです。

・・・さて資料によると、南側の黒いつや消しの2体の像は、1843年江戸時代の大火の中、何とか運び出されて保存されていたとのことです。

開創1200年に合わせ修理された像で、2体とは二天門で守ったようです。持国天と多聞天(毘沙門天)が修理されたとあります。

とすると、二天門の名残で、中門の南側(入口)から見て、右は増長天と思ったが宝塔を持っているし(厳密な決まり事も無いようで)修理された多聞天が正しいようです。左は持国天です。

修理された2体は、昨秋10月23日に据付けられています。そして、翌10月24日は、中門内側に新造された2体が据付けられて、四天王が完成しました。

中門の内側(北側)の像は、入口から見て右側の像は、広目天で間違いないでしょう。何か・・・蝉(セミ)がいます。

蝉は、地中にいる期間が長い、・・・この特徴は、関係ないようです。蝉の声、遠くまで届きます、この像・広目天は遠くまで存在感を示しているのでしょう。

さて、左が多聞天は・・・間違えで、増長天となります。こちらは、・・・日本最大のトンボが・・・

オニヤンマが話題になっています。トンボは前向きにしか飛ばない、・・・この増長天は、後ろに退却せずに守り抜く・・・トンボのように・・・

・・・高野山総本山 金剛峯寺からの発注により、北側の2体は松本明慶師によって造られたとあります。これらの四天王は、人気者になるでしょう。

中門から石段を少し上がると、本堂です。ここでは金堂、・・・正面のこちらに3本の回向柱(エコウバシラ)

が・・・紐が下がっていますのでこの紐を持ち軽く引きます・・・

紐は柱の上から金堂内部の本尊「薬師如来」につながっています、・・・念願の高野山に来ましたと参拝の挨拶をします。内部は後程ゆっくりと鑑賞させて頂きます。

・・・ここで、根本道場 大伽藍のパンフレットから、分かり易い案内図を

では最初に神社に向かいましょう。・・・すぐ近くに、今夏、TV番組でも紹介された仕掛けがある建物がありました。

六角経蔵(ロッカクキョウゾウ)です。

円形の石造りの基礎の上に木造の基礎が乗り、その上部は六角形の二層式建物、地上1m位のところにタコの足状に取っ手が出ています。

近寄って来られたご夫婦と周囲の4か所の取っ手を各々両手で持ち、セーノと4人で押して(建物を回転させる)もビクともせず、若いアベックに一緒にと声を掛けるが・・・体力が無いのか2組に遠慮され、チャレンジを断念する。

その西隣に立派な建物がありました。神社の拝殿として、六角経堂と同じ平安時代後期、平家が活躍している頃の建立とあります。

この山王院も焼失し、1845年の再建とパンフレット(当伽藍で受領)に書かれてますが、1843年の大火で全焼せずその前の火災(1521年)後1594年の再建とも言われています。

この裏に回ると目指していた神社があります。

御社(ミシロ)と呼ばれ・・・案内板がありました。昔、この西側は小高くなっていて御社山(ミヤシロヤマ)と呼ばれていたそうです。

空海さんは伽藍建設にあたり、山々に神が宿る日本の伝統を大切にしながら、密教(仏教)を発展させようとする神仏習合を最初に実践された方でしょう。 

自然を大切に敬い、多神教を受け入れる東洋の思想と、ユダヤ、キリスト、イスラム教が、神は唯一とする一神教と大きく異なるところです。

この御社(山王院本殿)で高野明神社、総社から大永2年(1522年)と記された部材が発見されたそうです。

この先にも歴史を感じさせる建物があります。この西塔は伽藍の西北の端に建てられており、1843年の大火での消失は免れています。

案内板です。

擬宝珠(ギボシ)高欄付多宝塔・・・一階は普通の四隅がある建物で、屋根は四隅が上部で円形になる四角錐、その上部は円筒になり、さらに屋根、四角錐でネギ坊主のような頭を付けた多宝塔です。

高さは、27.27m、内部には本尊の胎蔵大日如来・・・

先程の金堂の東側に建つ根本大塔(この後、内部の立体曼荼羅を見学します)と、この西塔で(二基一対)密教の世界を具体的に表現されたようです。

胎蔵界、金剛界の世界観、・・・この辺は一夜漬けでは理解できず機会を見て勉強しましょう。

近くに、これぞ和風というべき鐘楼がありました。この被写体にこの風景、・・・四季折々に訪れると実に良い写真が撮れるだろう・・・自然と調和し、うれしい時間が流れる・・・

隣は清潔感のある建物・・・これは孔雀堂(クジャクドウ)ですね、立札があります。

江戸時代ではなく、昭和元年(1926年)金堂より出火した大火で焼失とあります。昭和58年(1983年)弘法大師御入定 1150年記念事業で再建されました。築32年、なるほど綺麗な建物です。

孔雀堂の本尊は、快慶作重要文化財の孔雀明王像です、(昨秋、サントリー美術館で拝見しました、豪華で大きく素晴らしい本尊でした)・・・本物は霊宝館にあります。

隣は准胝堂(ジュンテイドウ)。創建は973年以前のようですが、明治16年(1883年)の再建と書かれています。

ここまで来ると左に御影堂(ミエドウ)がありますが、前方が気になってきます。

前方の朱色の宝塔が、大塔です。根本道場から、根本大塔と呼ばれているようです。

右側は、金堂(本堂)です。そして右手前に、緑の木々があります。これが三鈷の松です。

松葉も探してみましょう。・・・

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高野山 大門

2015-10-05 | 旅行記

慈尊院から紀の川の南側を下流に向かって走っている。

・・・慈尊院から空海が歩いた山道を歩きたかったが・・・今回は時間が無いので断念。高野山へは高野七口と呼ばれる七本の参詣(サンケイ)の道がありました。

さて、ここ慈尊院からの道は・・・武士も皇族も登ったといわれる・・・表参道です。

雲海の上、標高約850mの高野山の中程に、壇上伽藍(ダンジョウガラン)、根本大塔(コンポンダイトウ)があります。そこから西に進むとほどなく大門(ダイモン)、その先は急な下り坂、

・・・峠を上って下ってを繰り返し、標高約450mの雨引山を下ると山麓に現在の慈尊院があります。

平安時代の816年に、空海が高野山参詣の玄関口に慈尊院を建てられたのは、もう少し北側の河原近くだったそうです。それから700年、戦国時代の1540年、紀の川の大洪水で慈尊院は流失してしまったそうです、しかし弥勒堂は1474年に現在の地に移っていたので助かり、当時を忍ぶことができます。

空海の母親が82歳の高齢でなんと讃岐国(香川県善光寺市)からこの地まで出て来られたが、高野山は空海が七里四方女人結界の聖地と定めていました。母親といえども登れずこの慈尊院にやむなく滞在。(明治5年まで女人禁制)

そこで空海が月に九度もこの地の母親に会いに山を降りてこられたという話から、この辺は「九度山」(九度でなくても、月に何度も)が地名に付けられた。

山道を距離にして約22㎞、当時の人は足腰が強かったでしょうが、それでも片道5~6時間はかかるでしょう。

さて、高野山の根本大塔から大門を経てこの慈尊院までの表参道に、道標(ミチシルベ)として木造の卒塔婆が、・・・当時の長さの単位、1町(チョウ)毎に番号を付けて立てられました。1町は109m、36町で1里です。

慈尊院の南、丹生官省符神社に登る石段(下の写真中央)の途中に180番目の石塔があります。

上の写真の左端に立っているような木造卒塔婆は、時が過ぎると朽ち果ててしまいます、・・・高野山の人気は続いていました・・・そこで鎌倉時代に、高さ約3m、幅33㎝の石塔(五輪卒塔婆形)に替える工事が始まり・・・20年も続き、200基以上(起点から伽藍まで180基、伽藍から奥の院 御陵まで36基)が石塔になりました。

高野山町石道(コウヤサン チョウイシミチ)と慈尊院に看板が掛かっていましたが、この180町石が表参道の起点となります。

参詣者は、この180町目の石塔(卒塔婆)に礼をし、次の179番目を目指しますが、この間隔は絶妙ですね、・・・疲れを感じる前に次の卒塔婆に励まされ・・・元気が出ます。現在鎌倉時代の石塔が約150塔が残っているそうで、信者の信仰への道は1200年も続き、今日も人気がある表参道です。

・・・慈尊院から10分弱で西高野街道(国道480号)が交差する東渋田交差点、左折すると高野23㎞の表示が出てきた。大きなカーブが続く国道を順調に進み

10数分でしょうか、12㎞位走ると九度山から登ってくる370号線と合流します。この付近で標高500m弱、ここから山の尾根を小回りしながら一気に300m登るので小さなカーブが連続します、道幅もそれなりに狭まるので注意してドライブされたし。

合流地点から10分位走ると左が山肌、右に崖、右側の木立の間に看板が見えてきました。左に大きくカーブをする、三差路・・・減速し左斜面の上を確認する、・・・そして、近くの側道に停車し、振り返る。

上の写真で、向こう側から走ってきたのでした、・・・進行方向左手に大門(ダイモン)があります。

・・・着きました。ここが高野山の入口です。

横断歩道の左側、歩道の端が傾斜しています、・・・左の斜面の下から町石道を登ってこられ、ここで平地にたどり着き、目の前に大門が現れるのです。

では町石道と同じく、参道側から大門へと進みましょう。

道路側から見つめていると、ここに道路ができたのは残念に思えます。せめてこの付近100mだけでもトンネルになっていれば、自然と一体となった聖地としての雰囲気が残せたと思うと・・・。

正面に見える大門は何度となく焼失しています。高野山の資料よると・・・この地で、鳥居の形から門になったのが1141年と言われ、1230年五間二階建ての楼門へ、1577年焼失、1640年に再建、1688年焼失、1705年再建・・・1986年に全面解体修理され、白木の表面が昔の丹(ニ,アカ)塗りに戻されました。

高さは25.1mもある大きな楼門です。

正面右端に、案内板があります。

昭和の解体修理が、資料より少し早くから開始されたようです。この位置からは大門の一階部分が見えます。

左右に仁王が配置されています。そして中央の2本の柱に掲げられているのは

 

資料によると、「日々影向文」(ニチニチヨウゴウブン)の後二句が柱聯(チュウレン)として掲げられています。

柱聯とは、柱や壁に相対に掛けて、飾りとする細長い書画の板・・・なるほど2句ですが、右は「不闕日日之影向」、左に「検知處々之遺跡」、

日々の影向(ヨウゴウ)を闕(カカ)さずして、処々の遺跡を検知す・・・影向とは神仏が一時姿を現すことだそうです。

「お大師様は毎日御廟から姿を現され、所々を巡っては私たちをお救い下さっている」という意味とのことです。

仁王様、右側の阿形像は5.46m、・・・密教で阿はサンスクリット語の最初、吽は最後の音・・・転じて宇宙の始まりと終わり、さらに、一対・・・いろいろと進化してきました。

 左の吽形像は5.58m、特筆すべきは奈良の東大寺南大門の仁王像に次いで2番目に大きい巨像で、江戸時代1696年から7年にかけて、当時の著名仏師が仁王像の仕様書、見積書などを提出されていた資料が伝わっています。

高野山の案内図が右端にありました。 

これから向かう、壇上伽藍を拡大してみましょう。チョット見にくいですね。

では、車に戻り・・・三差路を直進すると・・・この春、高野山開創1200年記念大法会に間に合うように3月28日に開通しました「高野山道路」に進みます。

通常約5000台のバスや乗用車が入山しているそうです。連休や催事には、ここから奥の院まで街中が大渋滞します。この街中のバイパスとして街の南側にトンネルが半分を占める道路が開通していました。

では三差路を左折し、街に入りましょう。壇上伽藍へ・・・

 

 

 

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