goo blog サービス終了のお知らせ 

気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

天守閣から濃尾平野を見渡す

2012-09-28 | 旅行記

岐阜城天守閣から濃尾平野を見渡す。・・・はるかかなたに伊勢湾・太平洋・・・この時期、霞んでぼんやりしているが、広い。

その昔、目の前を大小の河川が走り河原や湿地帯が点在し、少し離れて農道が縦横に走り、田畑の先に木立に囲まれた集落があり、高台には拠点の砦・城があった。

茶色の大地から所々で煙が立ち上る・・・アースカラーの世界・・・目の前にあったのでしょう

のどかな情景でしょうか?・・・洪水がなく天候に恵まれ、豊作になりますように・・・戦乱が終息するよう祈る毎日。

1560年5月、信長、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。この時、信長の居城は清州城でした。

休む間もなく、道三亡き後敵対している北の美濃・斉藤軍に攻め込む。

6月、8月と西美濃(墨俣)に拠点の砦を造ろうとするが・・斉藤軍の反撃に会い撤退する。

重要な攻防の拠点となった墨俣(スノマタ)は、現在観光・資料館として一夜城が建てられているが、合戦当時の場所は川を挟んだ南側といわれている。

江戸時代初期と思われる古地図を見ると、当時の雰囲気が多少伝わってくる。

Photo

右から木曽川、中央の上部右から長良川、そして中央やや左に揖斐川(イビガワ)、これらの三大河川に中小の川が流れ込み、下流では輪中が出来ている様子がわかる。

このような地形の中を、合戦になると大軍が移動する。

洪水になると河川の流れが大きく変わり、さらに湿地帯も拡大し、大軍が行進できる街道を確認することも諜報活動で重要なことだったでしょう。

1561年5月11日 斉藤義竜が急死した。(義竜は弟2人を殺害し、父斉藤道三を1556年4月長良川で討っている。これ以降信長と敵対する)

信長は、翌々日(5月13日)美濃に攻め込む・・・どのようなコースで北上したのでしょう。

織田軍約1500人、清州城から西に約20km、木曽川・長良川を渡り輪中の勝村(岐阜県輪之内町の南、旧平田町)に布陣する。

翌14日、長良川と犀川(イビ)が合流する(当時は木曽川も合流していたようです)北方の墨俣から斉藤軍が、豪雨の中約5000人、迎撃に動き森部まで進んできた。

下図は、最近の総理府の地形図です。

4


この動きを知り信長軍、長良川に沿い北上し、森部(岐阜県安八郡安八町森部)の敵勢に殺到した。

数刻にわたる乱戦の後、信長軍が数では劣性であったが、斉藤軍沼地に足を取られたりで大勝する。

この後墨俣を奪い、ここを本陣に北の十九条にも砦を構えた。

23日、態勢を立て直した美濃勢が、十九条に攻め込んでくる。

十九条の北方、十四条で合戦となる。

墨俣の本陣に援軍要請するが、信長軍劣勢。信長軍、軍を取りまとめ、更に北に位置する西軽海の古宮に陣を張る。

・・・夜半、攻めてきた美濃勢を撃退することに成功する。・・・美濃勢、夜間に撤退する。

信長軍も翌朝戦場を後に墨俣へ戻る。(信長公記)

しかし、美濃の攻略はできずに撤退する。

斉藤軍の有力武将で西美濃三人衆と呼ばれるのが、大垣城の氏家直元(ウジイエナオモト)出家後、卜全(ボクゼン)と名乗る、曽根城の稲葉良通(イナバヨシミチ)/一鉄(イッテツ)、北方城の安藤守就(アンドウモリナリ)。

・・・後に信長の家臣となる・・・

1562年3月 美濃を攻める・・・撤退・・・(戦場に行くだけで大変ですね)。

そこで居城を北に移そうと考え、1563年のある日、信長公、家臣を引き連れ遠出した。

二之宮山の高所に登り(犬山市二之宮)「この地に築城する」と突如宣言した。(参考、下図に地図)

1209


その場で家臣団に移住を命じ、屋敷割まで決定した。

清洲は、当時人口数万人の大都会です・・・清洲に帰ると家臣団、清洲の町民も迷惑な話で大混乱におちいった。

移転は決定事項、準備が進む・・・すると、「やはり、小牧山にする」といって移転先を変更した。・・・・・ここに信長公の知略があった。

難所の二之宮への移転を表明し、その後、場所を移りやすい小牧に変えたことで清洲からの移転そのものに対する不満をやわらげたのである。(信長公記)

小牧山:独立した峰で標高は86m、清洲から約10㎞、当時は木々が生い茂る原野だった。

山頂に本丸御殿、そして二の丸、三の丸と五段の曲輪(クルワ)、南斜面に大手道が作られ、道の両側に家臣の屋敷が並び、中段に馬場があり、裾野には堀と土塁で囲まれた武家屋敷が並ぶ、さらに多くの長屋に足軽や雑兵、各種職人街と続く城下町が現れた。

1563年(永禄6年)春、小牧山城を3ヶ月で築城し、新たな城下町に家臣団・町民も移ってきた。

木下藤吉郎(雑兵数十人を束ねる足軽組頭)は侍が住む地区に100坪の屋敷が持てた。

・・・ここからどう攻めるか?

目前に於久地城、その先に犬山城が見える。

犬山城:木曽川沿いの標高88mの丘に築かれた平山城。現在の国宝「犬山城」 HPより

Photo

城主の織田信清(信清の父信康は、織田信長の父信秀の弟で、信秀の誠実な家臣、斉藤道三との戦いで戦死)は信長に反抗的で美濃衆と連携の動きがあり、まずは犬山城の攻略。

当時、侍は合戦で敵武将の首を捕るために鍛錬をし、合戦の後は討ち取った首を持ち帰り、翌日の首実検で有力武将と認められれば褒美と出世が約束されていた。

侍は手柄を上げられる合戦が待ち遠しいが、自分の首を掛けての出陣となる。

自軍の武将・人材は貴重であり、戦わず諜報活動で敵の勢力を減少できれば有利になる。

・・・・諜報活動で実績のある斉藤家の元家来であった槍の名手、森与三可成(ヨシナリ)。

・・・・吉野(キチノ)の兄・生駒八右衛門家長、木曽川の中州や河原で生活する川中衆、彼らの頭領の鉄砲の名手、蜂須賀小六(本名、蜂須賀彦右衛門正勝)。

・・・・そして放浪時代生駒屋敷で世話になり織田家に雑用係として仕え、信長の草履取り・足軽組頭(配下の兵は藤吉郎の家来ではなく、織田家からの預かり)に出世した話術の達人、木下藤吉郎。

彼らに犬山城と周辺の攻略を命じた。・・・調略は、圧力と誘惑・・・。

小牧山城から連日響く築城の音、そして威圧する天守閣が姿を見せると、犬山城内ではいつ攻め込まれるか恐怖感に襲われていた。

・・・最初に犬山城の有力武将、黒田砦の和田新介を寝返らせた・・・(味方になる約束をすると、即行動で効果が要求される。)

味方となった和田は信長軍の介添え丹羽五郎左と共に、於久地砦の中島左衛門を説得し信長軍に寝返らせることに成功する。

犬山城の周囲、残るは北側、木曽川を挟んで斉藤軍の伊木城、上流に鵜沼(ウヌマ)城さらに上流に猿啄(サルハミ)城・・・・

これら美濃からの援軍が送れないように、伊木城主を織田側に寝返らせ、鵜沼城を取り囲む、その上流の猿啄城も落城させた。

間もなく鵜沼城主が降伏してきた。

周囲の脅威をなくして、犬山城を攻撃開始する。(織田戦争と呼ばれた)

1564年(永禄7年)敗北が決定的になると、城主の信清は城から逃げ出し犬山城は落ちた。

長く続いた織田ファミリー内での争いに終止符を打ち、尾張は信長によって統一された。

・・・稲葉山城の東側の勢力、東美濃の攻略に乗りだそう。

12092


nnn・・・ 難攻不落の稲葉山城が乗っ取られた ・・・ という情報が入ってきた。

織田軍、数日の諜報活動で判明したことは、

・・・若干21歳 竹中半兵衛重治(西美濃の岩手城主)が、人質である弟の病気見舞いと称し、17人の家臣と稲葉山城に入城した。

 その際、長持ちに武具を隠して持ち込み、夜間に武装して城内の守将を切り伏せた。

 城内の混乱に乗じて、舅(シュウト)の安藤守就ら西美濃三人衆の軍勢を城内に引き入れると、国主の斉藤龍興は降伏し、城を出たと言う。

・・・噂の通り、一夜にして稲葉山城が乗っ取られている

そして、無名の竹中半兵衛の名が諸国に知れ渡った。

・・・しかし、なぜ竹中半兵衛は城を乗っ取ったのか?・・・国主を殺害せず追い出したのか? 

信長は事情が分からないが、急ぎ竹中半兵衛に使者を出す。

「2郡10万石で城を開け渡してくれ、半兵衛様には織田家の重臣として迎える」と、誘ってみるが半兵衛は応じない。

信長が条件を「美濃半国」に上げると、半兵衛は、「お考え違いをなされているようです、欲で城を奪ったのではなく、斉藤龍興に日頃の行いの反省を促すための行為です」

「上総介殿は美濃半国で城を譲れと言われるが、日本半国でも気持ちは変わらない、城は持ち主に返すつもりです」と言う。

使者が、「譲らぬと言うなら、攻め潰す」と脅すと、「半兵衛、弓矢にてお相手つかまつりましょう」と応対した。

実際、半年間占領した後、龍興が詫びを入れると半兵衛は、関係者に報復をしないこと等と条件を付けて城を後にし、家督は弟に譲り、若くして一線から身を引いた。

・・・その後の竹中半兵衛の消息がつかめない・・・。

現在の岐阜城から西南側、西美濃、そして関ヶ原方面

Photo

信長は、後方の三河の松平家康と同盟、東の武田晴信(後に出荷して、信玄)とも友好、西の浅井長政とも友好・・・越後の上杉輝虎(後に出家し、謙信)にも貢物を贈り敵対状況にはない。

残すは稲葉山城攻略、美濃を平定しその先に京の都が・・・もうすぐ 天下布武!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岐阜城

2012-09-05 | 旅行記

東京は連日の猛暑、暑さだけならまだしも、湿気が多いのは困りもの。湿気が嬉しいのは胡蝶蘭。

ブルーベリーの鉢が4鉢と減り、ハイビスカスの鉢、そしてぶどうの鉢が減ったので、この夏はゴーヤで緑のカーテンを作り、オクラとモロヘイヤを各々3m位並べて・・・緑の草原の雰囲気。

さて写真の整理が残っている、岐阜城について

戦国時代 稲葉山城(今日の岐阜城)は、この地域が井ノ口と呼ばれていたので「井口城」、あるいは金華山にある城で「金華山城」と呼ばれていたそうです。

信長が1567年8月この城を攻略し、この地方一帯を平定し、「井ノ口」の地名を「岐阜」と改称し岐阜城となったのは有名な話です。

この当時の城主について

1


その後、1600年8月 当時の城主織田秀信が西軍に味方したため、関ヶ原の前哨戦として東軍に攻められた。

東軍には、元稲葉山城主 池田輝政が参戦していた。・・・・・運命ですね、激戦の末落城する。

翌1601年6月 岐阜城は廃城となり、天守閣、櫓(ヤグラ)などは加納城に移された。

Photo

最後の城主が、織田信長の孫 織田秀信(幼名が有名な「三法師」、信長の後継者に担がれました) 落城当時若干21歳(数えで) 波乱の人生です。

織田秀信・・・父は信忠、・・・祖父は信長、曽祖父は信秀

当時は誕生すると1歳、年が明けると(元旦に)2歳、12月に生まれたら1か月後に2歳です。

年齢の数え方(数え年)と月(旧暦)が現在と異なるので注意が必要です。(誤記もあります、あしからず)

現在の城は、1956年(昭和31年)7月 当時の建築を推定して復興され、鉄筋コンクリート造り三層四階構造、棟高17.7m。

1階 「武具の間」

Photo

刀の鍔(ツバ)

合戦で斬り合いになった時重要なのは甲冑(カッチュウ)に負けじと突きの動作、この時、持ち手が刃先まで滑らないように柄の部分に取り付けられた。

斬り合いで相手の刃を受け止めるには大きいサイズが有利だが、合戦の組打ちでは大鍔(ツバ)は帯につかえて動きが妨げられ弱点にもなる。

刀の長さも色々で(腕の長さが抜き易い基準のようですが)、鍔の大きさ、仕上げも色々あり交換部品として商いされたようです。

鍔は付いていれば良い時代から機能美・そして加飾、名工も美濃を始め全国に生まれ、透かし、彫金、・・・技法も発達していきます。

Photo_2

刀剣も、太刀(タチ)は最初は刃が直線でした。徐々に刃に鎬(シノギ)があり、反り(ソリ)がつくようになる。

馬上での切り合いが主流の平安・鎌倉時代から室町時代までは、太刀が主流のようです。

太刀は刃を下(地面)にして腰に吊り下げる様式、鎧兜で防御した武者人形のイメージでしょうか。

戦国時代は、武士の中でも主に武将達が使っていたといわれています。

Photo_4

江戸時代の無名の刀・・・豪華な鞘袋ですね。鞘袋は鞘(サヤ)・刀身の損傷防止や雨対策もあったようです。

刀身、柄(ツカ)、鍔(ツバ)、鞘(サヤ)・・・武士は細部まで手入れを怠らず・・・

名刀が手に入ったら、実戦で即使ってみるでしょうか?・・・そうは簡単に戦場で使用できないでしょう。刃こぼれするし、破損するし、せいぜい試し切り?

機能・耐久性が向上したわけでもなく、高額な美術工芸品を購入して鑑賞できる喜びでしょうか。

名刀はコレクションされ、諸大名への贈答に重宝されました・・・茶器と同様ですね・・・そして新品同様の品が、このように展示され美術品として後世に残った。

信長が桶狭間の勝利で、敵将義元の名刀「義元佐文字」を手に入れ、茎(ナカゴ)に自分の銘を刻みなおしています(参考:建勲神社蔵)

武士は、武具にはお金をかけたようです。

江戸の初期、肥前の刀工に刀を頼んだら・・・金100貫(=1文銭1000枚) 約200万円とありました。貧乏武士は、数年のローンが必要なくらいの金額です。

ところで黄金が大好きな豊臣秀吉は、関白時代どの位刀剣を所有していたのでしょうか?

1598年8月死期を悟り、五奉行を枕元に呼びよせ息子の将来を頼み、そして形見分けに刀箱を7箱持ってこさせると・・・・・

名刀「一期一振吉光」(国宝)を含め、何と高価な刀が82振も入っていたそうですよ。・・・ザックリ 約300億円!ともいわれます。

前田利家、徳川家康らに形見分けされた名刀は、現在国宝指定となっています。

Photo_3

室町中期以降から江戸時代には、刀身の刃を上向きに鞘に納め、腰の帯に差す刀が主流になりました。

このスタイルの刀剣を打刀(ウチガタナ)と呼びます。

・・・抜いたら即袈裟に振り下ろす・・・一瞬の勝負

剣術の流派が数多く誕生します。

江戸時代は大小2本の打刀を差すようになり、これが大刀(ダイトウ)・小刀(ショウトウ)となり、今日TVで見慣れたスタイルになりました。

Photo_5

鎖鎌: 田畑で収穫時襲われたら草刈鎌など身近な農具で戦う、・・・農地を守るために武装した・・そして武士が生まれた、・・・身近な武器の発展系

1

兜:・・・馬上で自己主張した個性ある優雅な兜は、弓矢対策から鉄砲の時代へ進化していく

2


2階 「城主の間」

Photo_2

根性のある策士の顔ですね・・・、美濃、稲葉山城の元城主 斉藤道三

織田信秀(信長の父)が1547年、何度も美濃を攻めるが道三(美濃の衆)には勝てない。

そこで家臣の平手政秀が、我殿 信秀の息子・信長と何と道三の娘・濃姫(帰蝶)との縁談をまとめた。

その後、濃姫が信長に嫁いだ時期については、各種の説があります。

1548年 信長15歳(数え年)の説や、1549年3月23日 信長に嫁いだとの説・・・etc.

当時は縁談だけまとめて、嫁ぐのは未定という同盟協定が優先するのはよくあることでした。

この2階には、濃姫や明智光秀(地元 美濃土岐市)、この城を一時乗っ取った竹中半兵衛重治・・・などの肖像画も掲げられています。

 

3階 「信長公の間」

Photo_6

岐阜城3Fの信長の肖像:蛍光灯が映りこんで見難いが決断力・行動力がありそうですね。

但し、ワンマン、切れると容赦なし・・・ 

天下布武:1566年(永禄9年)9月 信長、斉藤龍興を破り美濃制圧に近づき、この頃から「天下布武」の印を使い始める。

Photo_7

天下布武:武力によって天下に号令する、

1565年5月、足利将軍が暗殺された。下克上の世の中とはいえ、天皇・将軍の権威が失墜する。

信長は思っていたのでしょう、武力の支えがなくてこの先世の中が安定するのか?

美濃を攻略できたら京に上る・・・武力によって・・・強い意志を印状で告知し始めた。

天下布武:有名な印章も徐々にデザインが変わります。

Photo_3

信長の黒印状です。信長の直筆でしょうか? 良く見ると、紙の上半分だけ使われています。

「折紙」(オリガミ)といわれ、上下半分に二つ折りにし、細長く半分になった片面に書き始めます。

長い文章は折ったまま裏返して同じように書いていきます。

開くと上半分は上向きに書かれ、同一面に下半分が下向きに書かれた状態になります。

(二つ折りにしたまま読み始め、反対にして読み続ける)

軽微な内容や、目下の者に略式で出される場合に使用されることが多く、信長は圧倒的に折紙が多いようです。

Photo_6

こちらは朱印状、折らずに書くのを「竪紙」(タテガミ)といい本来の古文書の使い方。(こちらも折紙のように見えますが)

印章が使われる前は、花押(カオウ)というサインの1種でしたが、幼少の大将が跡を継いだ場合サインが出来ず印象が用いられた。

朱印が使われ始めると、黒印・朱印の使い分けは?・・・朱印は豪華です、自然に公式で重要な文書は朱印状が多くなります。

この朱印状も信長の直筆でしょうか?

残念ながら、違うようです・・・抱えられていた書記役の家来が大半の文章の執筆をしています。

Photo_14

この椅子に座った信長の肖像、装束より室内の小物が気になりますね。

ペルシャの絨毯?、左のテーブル上の地球儀、右後ろの聖母マリア。

1569年、信長は異国の宣教師ルイス・フロイスと始めて会っている。

彼に質問する:年齢、人種、インド・ヨーロッパと日本の距離、月や星の運行、文化、風俗、デウスの教え、・・・多くの情報に触れることになります。

これより前、1549年、フランシスコ・ザビエル・・・イエズス会宣教師 鹿児島に上陸しています。

なぜ、地球の反対側まで生死の危険を冒し布教に来るのか、彼らは何者でしょう?

当時大航海時代、ヨーロッパ人が見知らぬ土地に到着し(そこは他国の領土であり、住民もいる)新たに発見した土地に対し、自国の土地として勝手に境界線を引いた。

この境界線は、教皇アレクサンドル6世の勅書で教会保護権によるとされていた。

教会保護権には果たすべき義務があった。

新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならない(ということは宣教師が住民に布教をし教会を建て、学校を建てること)を義務付けていた。

当時のヨーロッパは、ポルトガル王とスペイン王に支配されていて、二つの国王はイエズス会による新大陸への布教に期待をかけていた。

イエズス会は1534年パリで結成、6人で活動を開始した。

従来の修道服の規定や歌唱など古い様式を廃棄し、「貞潔・清貧・教皇への絶対的忠誠」を誓い、厳格な軍隊式統制によってプロテスタントへの攻撃と全世界へのカトリックの伝道に従事することで、1540年、ローマ教皇パウロ3世の認可を受けイエズス会として発足した。

スペイン語では「イエスの軍隊」を意味する。

イエズス会はアフリカ、中南米、東南アジア・・・、信長の時代にすでに世界各地で布教している、福音伝道のために各地で学校を設立すること、これも役目である。

・・・・・そしてフランシスコ・ザビエルの時代も今日も、イエズス会の会員は2~3万人といわれる。

カトリック教(イエズス会はカトリック教)が世界の情報を集め、その頂点が、イタリア・ヴァチカン市国、ローマ法王です。

四百数十年前から、日本の情報もヴァチカンに届いていました。そして今日も。

最上階 「望楼の間」 展望台

Photo_12

展望台から西の方角・・・足元を鵜飼で有名な長良川が右から左へ流れてゆく。

この岐阜城では、特定の期間、夜間ロープウェイを運行し眼下の夜景が見られます。(上段の写真)

Photo_9

はるかかなたに名古屋城があります。南南東に直線で約30㎞くらいでしょうか。

清洲城は、南に約25㎞、遠いですねー

眼下を左から(東から)右へ(西に)木曽川が流れ、木曽川の向こうが尾張(信長の時代、木曽川の先は上四郡、その向こう 海側に下四郡)と呼ばれた。

信長は桶狭間に勝利した後、稲葉山城を攻略するまでが難しかった。

7年の歳月を簡単に整理したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清洲(清洲城)から稲葉山(岐阜城)へ

2012-07-25 | 旅行記

日曜夜の東名渋滞を避け、6/25日(月曜)平日にユックリ帰ろうと思ったら、日曜深夜から明け方まで、原因不明の激痛に襲われた。

食欲もなく、AM9:30出発、気分転換に東名阪自動車道から名二環(名古屋第二環状)の清洲東ICで降りる。

JR東海道本線「清洲駅」、名鉄名古屋本線「新清洲駅」が近くにある。

Photo


向こうに見えるのが再建された清洲城、車を停めた橋の手前の駐車場、この公園付近が清洲城跡のようだ。

案内板を見てみよう。跡地がJR東海道線と新幹線で分断されている。

参考に、案内板の下方向に向かうと東京方面。

Photo_2


那古野城(ナゴヤ)(現在の名古屋城二の丸跡)で1534年生まれた織田信長が、1555年、21歳でこの清洲城に移る。

大河ドラマでは、この頃木下藤吉郎が信長の草履取りから、この清洲城の割普請で石工達を競い合わせて短期間に完成させ、その功績で普請奉行になったと紹介されます。

この話は、江戸時代 秀吉人気にあやかった創作本(甫庵太閤記、絵本太閤記)の影響が強いフィクションようです。

木下藤吉郎の当時の働きは、信長に情報の提供をしていた生駒屋敷に出入りし、吉乃(キツノ)という女性に取り入り、行商人の経験も生かした、諜報工作での才覚を認められていくようです。

吉乃は信長の長男・次男・長女を生んでいる。

Photo_3

この橋の下を流れるのは五条川、右に東海道線、新幹線が走る。

Photo_4

残念、月曜日は休館でした。

尚、かつての清洲城の天守は、現在の名古屋城の築城の際に移築され(名古屋城御深井丸の西北櫓です)(4月のブログで紹介)重要文化財に指定されています。

目の前の清洲城(天守)は、1989年、地元清洲町町制100周年記念として、場所が多少離れるが川の反対側に当時を創造して建設されたとのことです。

・・・大昔

1560年5月19日、この地を信長が単騎飛び出したのが午前7時過ぎと言われています。

約12㎞離れた源太夫殿宮(熱田神宮)まで一気に駈け、午前8時頃、戦勝祈願をしています。

そして兵の集まるのを待ち・・・前線の砦へ・・・

午後1時過ぎ雷雨が上がると織田軍、今川義元の本陣に突入する。

「敵襲!」・・・親衛隊旗本300騎が円陣をつくり義元を囲み防御する・・・繰り返しの攻撃についに義元の円陣も50騎になり、織田勢の服部と毛利、義元に切りかかる。

「大将の首、討ち取ったり!」、毛利の勝ち名乗りに今川勢は逃げ出す。

合戦は約2時間、信長! 桶狭間で奇跡的な勝利!有名な戦です。

・・・

信長27歳、桶狭間の勝利から、美濃征服にその後何と7年もの歳月が・・・、34歳まで苦しい戦いが続いたようです。

現在の地図で見てみましょう。

Photo


木曽川、長良川、揖斐川(イビガワ)などが流れる肥沃な濃尾平野、

しかし、やっと下流域の尾張を統一したが当時20万石くらいでしょうか

武田信玄100万石とも言われます。石高が多ければ人口も多く、戦で戦闘員も多く抱えることができます。

この広大な地域を制圧するには、北方の美濃・稲葉山城を攻めることになる。

稲葉山城(現在の岐阜城)に行ってみよう。

・・・

一の宮ICから高速に乗り、一の宮木曽川ICで降りる。

この先3㎞位で東から西に横切る木曽川は川幅も広く、渡れば・・・そこは美濃(岐阜県)

その先北上すると正面に稲葉山(金華山)、そして山頂に城が見えた。

Photo_5

うっそうと木々が茂り、山肌が良く解らないがこれは山城だ。

この稲葉山城は標高329m、北側に長良川をのぞむ金華山頂に築かれていた。

車は南側から近づくと道路は直進できず北東にカーブする。

山の麓の岩戸トンネルを通り、東斜面の井ノ口トンネルと続く。そして山の北側長良川の手前に出た。

この北側は急斜面で右側は長良川、直ぐに金華山トンネルに入り岐阜公園側に出てきた。

金華山を南から反時計回りに3/4周したことになる。

Photo

公共の駐車場(バス他)の先に岐阜公園が広がる。公園の中央奥に金華山ロープウェー乗り場があり山頂横まで登れる。

尾根の右がロープウェーの終点、・・・左に城が見える。

時間は昼少し前、中華粥を無理して流し込み食事t休憩。

昔のイラストを見てみる。今とは植生が違い、一説には赤松の多い山だったとか。

Photo_6

多少元気になった、・・・ロープウェー乗り場に向かう。

Photo_2

Photo_3

営業は年中無休、夏季AM8:30~PM5:30 往復料金:1,050円

Photo_5

ロープウェーの右側の尾根は、馬の背口と言われ、山頂まで約1.1㎞、最短コースだが岩場もあり危険。

左側は、百曲口で、同じく山頂まで約1.1㎞、禅林寺から尾根を登る険しい道で、斉藤道三が造ったとされ、木下藤吉郎がこのコースを攻め上がったとされる。

Photo_7


眼下の中央を横切るのが長良川。右側が上流で、長良橋横から鵜飼観覧船の乗り場がある。

さて、この金華山の地形図を見てみよう。

Photo_6

南西から南の尾根を登るコースが一般的で、七曲口(大手道)と呼ばれ、距離は約1.9㎞。

この道も斉藤道三が造ったとされ、当時も信長の時代も大手道で、鷲林寺常在寺の前に総門があった。現在は道も整備され小学生でも登れると言われる。

ロープウェーを降りると、すぐ右側になぜか金華山リス村がある。

Photo_8

そして少し進むと、登山道の案内板が・・・

Photo_9


百曲口を下りたい衝動に駆られるが、今回は我慢しよう。

尾根沿いの道に、ゲートが(天下第一の門)

Photo_10

案内板を見てみよう

Photo_12

このような道が続きます。

Photo_13

途中、左側に歴代城主の案内が掲示されていた。

Photo_14

この付近平らな場所が続く、馬場跡とされている。

Photo_5


この先、少し登ると二の丸

Photo_15

Photo_16


石段を右に曲がると

Photo_17


二の丸門をくぐり、左に曲がると尾根に上がる道と真直ぐ進む道に分かれる。

Photo


塀が見えるその先にやっと見えてきた。

Photo_18

戻って、尾根に上がろう。山麓の東が見えてきた。

そして目の前に石垣、見上げれば天守閣

Photo_2

ここを右に折れ、石段を登ると時計台がある。

Photo_3

入場料を払って中に入ろう。入場料は200円、近くの資料館と共通です。

・・・岐阜城の歴史を紹介して、次回に

Photo_4












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿サーキット見学

2012-07-08 | 旅行記

三重県鈴鹿市、東名阪自動車道、鈴鹿インターは山側にあり、鈴鹿サーキットは海側の丘陵地にある。

日曜日昼、家族を迎えにサーキットの近くに出かけた。

Photo


50周年と書かれたゲート・・・鈴鹿サーキットは、1962年9月20日オープン、今年の秋開業50周年です。




C


B.Cコーナーが見えてきた。

Photo_2


迎えまでに少し時間があり、サーキットの内部を見学させて頂けることになった。

最近新装なったサーキットはどのような感じでしょう。

200903

上の工事中の写真は2009年3月。
Photo_3
これが新しいサーキット(コースの一部:正面スタンド付近)

Photo_4

パドックトンネルに向かう
ここからコースの地下を通って反対側のパドック(レースに参加する車やバイクの関係者が入るブース)に行ける。

この上に見えるスタンドは、V1、正面スタンドで一等席だ。

車は、別の地下トンネルでサーキットの内側に入れる。

コースと、観覧スタンドの地図を見てみよう。

Photo_5


エスカレータで地下トンネルへ

B1


さらに先に、もう一段地下に降りるエスカレータがある。

B2


このトンネルを抜けてエスカレータで上がると

Photo_6


振り返るとセンターハウス、その向こうに3階建ての建物が見える。

2階から渡り廊下でパドック側に

2f


ここが、レースに参加する方のパドック駐車場

2f_2


1回に降りよう。

1f


ここがパドック、通り抜けるとピットロード、そして右側に(東側)?

Photo_7

走行前の打合せ

Photo_9

ピットロードの前まで行ってみよう。

Photo_8

ピットレーン側は低いコンクリートの仕切り、コース側は高いフェンスで仕切られています。

中段に開口部があり、ここからレーサに指示を出す。

覗いてみよう。

Photo_14


仕切りの柵からゴール方面を覗いてみる。

・・・時間は、PM1時近い

1


徐々に、エキゾーストノイズが高舞ってきている、・・・レースが始まるのか?

2



3


車が入ってきた。

Photo_10


レスキュウカー、そしてアナウンスがありバイクレースがスタート・・・

1_2


レースの邪魔にならないように、

多分1周2分20~30秒くらいでしょうか、直線250km/h位は出ているんでしょう

思った以上の迫力です。

F1のトップクラスですと1周、1分30秒くらい、直線Max時速300km/h以上でしょうか?

3_2


4

2_2


ピットに戻ってくるバイクも出てきた。

Photo_11


携帯が鳴った、迎えの時間だ、残念だがまた寄ることにしよう。

鈴鹿サーキットは今年春から、特定日予約制で若干数、自家用車でこのサーキットを走行することができるようになった。

ぜひ走ってみたいものだ。

Photo_12


エレベータで地下に降り、トンネルを出て、お礼を言ってサーキットを後にした。

・・・

Honda


サーキットから5分くらいで、HONDA鈴鹿製作所がある。

来客が出入りする敷地の一角を除き、緑の樹木が視界を遮っている。

Photo_13


内部にテストコースもある。

Honda_2

自動車産業は、HONDA、TOYOTAと日本の産業空洞化を必死に守ろうと奮闘中!

焼き畑農業と一緒で、人件費が安い所を探して次々と世界を移動し生産基地を変える、安い物を世界に輸出するのが企業の使命と豪語する会社が多くなった中で、企業は社会貢献・雇用も使命、・・・鈴鹿と埼玉で国内生産100万台を目標にするHONDA。

HONDAジェットも、もうすぐ就航・・・期待しています。

すみません、TOYOTAの愛車でサーキットに駐車しました。

来年にはTOYOTAからHONDAに乗り換えますので、寛大によろしくお願い申し上げます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひょんなことで古事記?

2012-07-05 | 旅行記


6月23日(土曜日) 朝早く、車で高速道路を西に向かう。

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)って誰 ?

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・・・? 難しくて読めないが通称「天孫」、「天照大神の孫」らしい。

・・・いつの時代の話でしょう・・・・・。

その昔、神代の物語(神話)に登場する有名人のようです。日本版、天地創造、その後の話

かつては神道が学校において、国民道徳の名で行われてきましたので、戦前に教育を受けた方はご承知のことでしょう。

今日、教育基本法で公立学校における特定の宗教のための教育は禁止されているので、天照大神(てんしょうだいじん?)・・・なに?、 となります。

神代の世界、古事記の世界の片鱗が見つかるでしょうか?・・・これから縁あって向かうところは。

AM9:00 四日市で渋滞したが AM9:30 鈴鹿インターを降りる。

右折すると直ぐに、大きな赤い鳥居が目に飛び込んでくる。

鳥居を通り抜けて振り返っても、神社名を記した額は鳥居の貫に付いていない。

ここから約5Km、椿大神社(つばきおおかみやしろ)の参道に掛かる鳥居のようだ。

道路をまたぎ2本の丸柱が立ち、最上部に水平に島木が置かれ、その下に貫が柱の内側まで平行に通っている。

非常に単純な形で、明神鳥居を見慣れているとあっさりしていて、何か見落としたような気がしてくる。

鈴鹿山脈の麓に鎮座するこの神社は、伊勢国一の宮・猿田彦大本営 非常に歴史のある神社のようです。

境内入口左には交通安全祈願の車が順番待ち。

Photo_2


境内を進むと、右側に案内板が・・・

Photo

神前結婚式も多いらしい。早速このような光景に出合った。今日は大安吉日!

Photo_3

季節は夏、そして、今年も半年が過ぎようとしている・・・

Photo_5

拝殿の手前に見慣れた大きな輪が・・・この時期良く見かける光景です。

「茅の輪くぐり」・・・今年の残り半年も健康で過ごせますよう祈願しましょう。

Photo_6

手水舎(てみずや)で手水を使い、その先に茅の輪が置いてある。

Photo


左側に反時計回りに1回、右側は時計回りに1回、そして拝殿に進む。

自分は茅の輪をくぐらず失礼しました・・・そして明日の夜、激痛に襲われることになる。

Photo_5

この椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、32神もの神様が祀られている。

改めて社務所でパンフレットを頂くと、祭神は複数あり主神(しゅしん)が、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)とありました。

「古事記」や「日本書紀」に登場する地上の神の一人です。

天上の高天原(たかまのはら)を治める天照大神(あまてらすおおみかみ)らが、地上世界も天照の直系の子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治るべきだと地上界に降ろすが、地上は乱れて騒がしいと戻ってきた。

地上界は、大国主神(おおくにぬしのかみ)が築いていた。

この神は天照の弟、須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫である。

・・・キリスト教の基となる福音書が書かれたのが約2000年前、古事記が書かれたのが約1300年前(奈良時代)

為政者が民衆を支配し易くするためには何が必要か?

第40代天武天皇が天皇家の系譜と朝廷の伝承に間違いが多く、再編集し誤りを正すように命じた。

朝廷中心の国家体制が確立するには天皇が治める根拠を示し、統治の正当性を語る証拠が必要だった。

これに答えたのが「古事記」であり、「国譲り」などの神話から天皇家の正当性を説くことが目的とされた。

大陸からの情報も参考にし、神代の世界・国生み・天地の始まり・神々の誕生・・・国譲り・天孫降臨・・・天皇の正当性・・・と創作された。

聖書でも、ナザレのイエスはアダムの血筋で有名なダビデの直系とされましたね。

創世記・神話の世界から何とイエス生誕までの系図が作成されたのも、権威・正当性の証拠となるよう関係者が創作したわけですね。

さて、大国主(おおくにぬし)は高天原(たかまのはら)からの使者を二度撃退するが、三度目の強力な武力神には逆らえず、・・・国譲りを承諾し条件を出している。

立派な神殿を建てて欲しい。

そして、その後創建された勇壮な出雲大社は、この大国主を祀っている。

大国王は地上を献上すると約束した。

天皇家が国を統治する正当性の根拠は、天照大神直系の子が、この時から地上を支配したと記録すればよかった。

日本書紀では、天皇家の祖神(皇祖神)は高皇産霊尊(高御産巣日神)(たかみむすひのみこと)としている。

この神は高天原の最高神で、国譲りの命令をした神とされている。

この神話が先に創られ、後の神話で天照大神(天照大御神)が皇祖神に変更された。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が降臨に指名された。

・・・しかし、この段階で当時の編集者が物語を変更した。

現実の世で持統天皇が幼少の孫に天皇職を譲位し、文武天皇が誕生した。

・・・このドラマを神話に取り入れ、天照の子が辞退し孫を代わりに指名することになったようです。

瓊瓊杵(邇邇芸)命(ににぎのみこと)が地上界に降臨することになった。

天照の孫に当たり、このために天孫と呼ばれる。

高天原は天孫に、8神を従わせ、八尺(やさか)の勾玉(まがたま)、八咫(やた)の鏡、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器(皇室の象徴)を与え降らせた。

降りる途中で、天と地を照らす不思議な神が現われた。

天之鈿女命(天宇受売命)(あめのうずめのみこと)が名前を聞くと、地上の神「猿田彦(毘古)神」(さるたひこのおおかみ)で案内役を買って出たと告げた。

Hp
 椿大神社の資料 より

一行は、九州日向の高千穂の霊峰に降り立った。

・・・・・山岳信仰の日本では、聖地として深山がふさわしかったのでしょう。

いかがでしたか、この案内役の神が主祭神です。

明治神宮・・・日光東照宮・・・熱田神宮・・・その昔の時代です。

Photo_4

現実に戻って、拝殿横の社務所・・・そして参道を戻る東側に

Photo

この先境内に、別宮 椿岸神社がある。

天之鈿女命(天之宇受女命)(あめのうずめのみこと)が祀られている。

Photo_2

天照大神が天の岩屋戸に隠れた時、半裸で舞って(かぐら舞)皆を笑わせ、大神を誘い出した神様で「芸能祖神」でもある。

Dsc_0101

近くに扇が鎮座している。

また・「美の神」、天孫降臨における猿田彦大神との出会いから「縁結びの神」でもある。

Photo_4

少し進んだ先に、水量多い「かなえ滝」があった。

2

振り返って整理してみよう。

椿大神社(つばきおおかみやしろ)、パンフレットより

太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」を西暦紀元前3年に、「倭姫命」(やまとひめのみこと)(垂仁天皇の皇女、甥の日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙の剣を授けた)の御信託により、「瓊瓊杵(邇邇芸)命」(ににぎのみこと)(天孫、天照大神の孫)、「栲幡千々姫命」(たくはたちちひめのみこと)(天孫の母親)を相殿(あいどの)(同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)として社殿を造営、日本最古の神社とあります。

神話の世界を今日まで伝承されてこられたことに驚くと共に、古事記の内容が一部創作であれ故人の智恵と努力に敬意を表し、改めて古事記、日本書紀を読んでみようと思った。

そんな由緒ある椿大神社でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新東名は快適

2012-05-03 | 旅行記

Dsc01183


吉野から高松塚古墳を通り、長谷寺・・・桜舞う季節・・・少し急ぎ足の工程になりました。

また機会をつくり、奈良大和路をユックリ訪ねることにしよう。

翌日は日曜日、鈴鹿市でフラワーパーク植木市に行き、午後はJR亀山駅に出迎えに行く。

Dsc_0774jr

シャープ・亀山工場などがあり、この地も少し有名になりました。

さて午後も3時近い、箱根の先は今日も渋滞かな・・・

鈴鹿ICから高速に乗り、三重から・愛知・そして静岡県に入ると、東京の渋滞情報が飛び込んでくる。

Dsc_07751

トンネルを抜けると三ヶ日・浜松

Dsc_0776_2

御殿場まで、東名も新しく開通した新東名も120分の案内が・・・

Dsc_0779jc

ここから新東名が走る山側へ、分岐する

Dsc_0782

午後4時20分ころ、空いている。走り易い。

Dsc_0784

新東名で一番長い、粟ヶ岳トンネル・・・約6.4㎞。

照明はLEDで2列、結構明るい、(他のトンネルは、1列の照明が多い)

Dsc_0786

都田川橋

新東名は坂道とカーブを少なくして (トンネルと高架橋が全体の6割)140㎞の設計速度と聞いたことがあったが・・・

事故が心配で、開通間際に120㎞、・・・そして従来通りに、100㎞区間に80㎞も

車線も3車線やら2車線と継ぎはぎになっている。

工事の途中で、道路公団が民営化され、紆余曲折があり・・・何とか開通

Dsc_0788

やはり、厚木から渋滞22㎞の表示・・・いつもの通り、PM4時~PM8時は横浜町田を通過するのに2時間以上

浜松・清水・沼津と散策して帰ろう。

Dsc_0790_2

石松ぎょうざ:行列ができていて、何と注文してからの待ち時間2時間・・・

それでも並ばれる方がいるのに感心しました。

入口近くの渋滞情報画面:御殿場・渋滞、が気になった・・・チェックすると、5時半頃事故発生・・・休日や連休は事故渋滞が多く、渋滞チェックは欠かせない。

Dsc01190

ここは、清水SA・・・ユナイテッドアローズが物販の店やフレンチトーストの店などを出店している。有名人の開店祝いが並んでいた。

夕食時間、フロアー入口近くで、タレントが早食いか何かの撮影中・・・イベントの混雑時に良く見かける光景、映り込みに注意して下さいの案内と、タレント撮影禁止とかで関係者が取り巻いている。

駿河湾沼津SAで食事をしよう。

Dsc01202

かもめの台所、盛んに「すき焼きめし」を宣伝している。

2階のレストランに、・・・ここも何と1時間以上の待ち時間・・・

Dsc011972f_2

2階、この左側からテラスに出られる。

Dsc01207

過疎化か、少し元気のない駿河湾、夜景はそれなりでした・・・左端からもう一段上に

Dsc01211

階段を上がり、3階部分にある鐘が鳴っていた・・・自由に鳴らせます。

Dsc01204

1階に戻り、すき焼きめしを食べて、8時過ぎ・・・

Dsc01217

清水、沼津と車が展示されていた。

渋滞が緩和された新東名も御殿場の手前まで、

この時間になると、御殿場の事故渋滞も解消された

残すは、伊豆方面からの帰り車が合流する厚木・横浜間、・・・大和トンネルを先頭に渋滞がどの位か・・・多分そこそこ走れるでしょう。

・・・・・結果は、大和トンネルまで10分間の渋滞でした。

この大和トンネル、下り坂に続き、ゆるい上り坂、登坂車線からの合流があり常時渋滞の名所

その先首都高は順調でした。

ゴールデンウィークは後半雨、2日のゴルフも中止、

これから午後も2時頃になれば、東北道も空いているでしょう。

新緑にはまだ早いが・・・。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花の御寺 長谷寺

2012-05-01 | 旅行記

吉野の山麓にパステルカラーが輝き始めると、週替わりで下・中・上・奥と頂に向かい淡い光が移っていく。

・・・吉野に負けじとこの時期きらりと光るのが、花の御寺(ミデラ)と呼ばれる長谷寺。

四季折々の花々が有名ですが、桜の時期には立ち寄りたい。

Dsc_0734

初瀬街道から参道に入る。

この先初瀬川に沿って参道を進み、やがて左側、山の断崖絶壁に本堂・舞台が見えてくる。

Dsc_0735

枝垂れ桜が迎えてくれた。

Dsc_0770

枝垂れ桜から振り返る

Dsc_0740

直進すると「仁王門」、平安時代の建立でしたが、現在の門は1885年(明治18年)の再建といわれます。

Dsc_0741

この左横に、大きな棚が・・・

Dsc_0739_3

仁王門から登廊(ノボリロウ)と呼ばれる屋根付の階段が本堂に続く。

1,039年に造られたといわれ、399段、下・中・上の三廊からなる。

Dsc_0766

下廊から右に折れ中廊へ、天狗杉の向こうに本堂が見える。

Dsc_0767

中廊の右端で左に折れ、上廊を本堂へ・・・

戻って・・・仁王門の手前、左の西参道に

Dsc_0744

その先、高台から境内と本堂が見える

Dsc_0748

この先は、陀羅尼堂

Dsc_0752

高台にある五重塔、高さ約27m。1954年(昭和29年)建立

・・・さて、ここは本堂の東横

Dsc_0761

正面に見えるのが愛染堂

・・・上廊を登ってきて・・・この西横に本堂・・・

Dsc_0762

この通路の中ほど、右側は正堂(ショウドウ)と言われ、「十一面観世音菩薩」・巨大な立像のご本尊が安置されている。

また通路左側が、礼堂(ライドウ)と言われる。

この様な形式を双堂(ナラビドウ)と言うそうです。

礼堂の前には断崖絶壁に外舞台がせり出しています。

Dsc_0763

・・・礼堂からの絶景が見られます。

この本堂、創建は奈良時代ですが、現在の本堂は1650年徳川家光により再建されました。

平成16年、本堂は国宝に指定されました。

さあ、外舞台です。西から西南側です

Photo

東から南側です。中央右、大きな杉の木が天狗杉です。

Photo_2

通路の先、西側の階段を下り振り返ると

Dsc_0754_2

双堂と外舞台の様子が良く解ります。

Dsc_0764

長谷寺はこの時期、境内・・・桜が満開・・・、その名の通り、花の御寺でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中千本から下千本へ

2012-04-27 | 旅行記

・・・神々が宿る聖なる山・・・と平安の昔から信仰されてきた吉野の山、

雨上がりの吉野・・・霧が立ちこめる世界、雨の多いこの地ではよくある光景

吉野杉の濃い緑とこの季節の・・・待ちに待った淡いパステルカラーは、癒しの空間、ひんやりした空気に触れ思いきりリフレッシュ・・・

サァ、目の前にこんな風景が

Dsc_0610

手前の桜は、花と葉が同時に咲き、赤茶色の葉が特徴のヤマザクラ。

Dsc_0603_3

これは、シロヤマザクラ?、白ではない?

表示がされてないので定かではないが・・・

Dsc_0609

これは、ヤマザクラ

Dsc_0616

午後1時頃、雨は上がったが、アスファルトの道路以外はこのような光景・・・残念、

Dsc_0626

それでも遠来の客の笑顔が見られると、こちらもなぜかホッとする。

Dsc_0628

中千本に下る道、人通りが多くなってきた。

Dsc_0633_2

中千本のシャトルバス乗降場近くの反対側の丘(峰)に登る、枝垂れ桜が多い。

Dsc_0642

この丘の先端から、やっと待ち望んでいた風景に巡り合えた。(案内板は合成ですよ)

Dsc_0643

向こうの尾根裾に見えるのは如意輪寺と思われる。

雨上がりの尾根の遊歩道は、足元が悪く注意が必要

Dsc_0657

この付近がこの吉野の中心地でしょうか、

御土産屋、食事処、宿屋が並んでいる。

柿の葉鮨、葛加工品、漬物・・・名産品

中央の建物「櫻花壇」に天皇陛下御泊所の石碑が建っていた。

Dsc_0659

道の左側に崖(谷)があり、ぎりぎりに建物を建ててあるので、反対側の斜面が一望できる。

こんな絶景が・・・太閤秀吉もこの付近で花見をしたのでしょう。

Dsc_0661

中千本から、参道を金峯山寺 蔵王堂へ向かう

Dsc_0667

蔵王堂 に到着。

有名な仁王門は、黒門から参道を登る・・・この反対側になる。

Dsc_0669

桜の木が神木となった吉野山、そして蔵王堂

この本堂は安土桃山時代に再建され(国宝)、高さは約34m、檜皮葺

秘仏金剛蔵王大権現が開帳されていた。(6月7日まで)

Dsc_0671


世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして登録されている。

Dsc_0675

こちらが仁王門、そしてこの左側に、日本三大鳥居の一つがある

Dsc_0677

写真写りが悪いが、銅(カネ)の鳥居といわれ、1455年建立、柱回り約3m、高さ約8m

他の二つは、石の鳥居が大阪四天王寺、朱塗りの鳥居が安芸の宮島。

Dsc_0676

この鳥居横・・・、参道横の店の屋根に、こんな看板が・・・法衣法具一式?

この鳥居がスタート地点、・・・第一の鳥居

そして、第二、三、四と鳥居が待つ・・・この地は熊野三山に向かう修験道大峯奥駈道が始まる所のようです。

Dsc_0682

更に参道を下ると、黒門が

Dsc_0687

この付近から下千本、ここは桜満開、遠くに吉野山ロープウェイ千本口駅が見えてきた。

Dsc_0710

かわいいケーブルカー

Dsc_0698

下千本、天候も晴れ・・・青空に全山桜色、そしてワンポイントの緑

Dsc_0704


休憩所から、下り斜面に続く七曲りの道路方面を(この細道は近道)

Dsc_0707

この下千本一帯は、七曲りの坂道が通っているのでのんびり散策ができます。

Dsc_0696

健脚の方は、狭い道幅ですがショートカットの近道もあります。

七曲りを下らないでそのまま進むと(100~200m)広い駐車場が見えてくる。

シャトルバスの下千本乗降場、その少し先にまた広い駐車場

こちらは観光バスが数十台以上・・・・団体客が次から次へ・・・

Photo

午後3時を過ぎた、

シャトルバスで駐車場に戻り・・・長谷寺には、寄らないと・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神々が宿る山 吉野

2012-04-23 | 旅行記

三重県亀山市、霧雨だがもうすぐ上がりそう。

名阪国道25号、高速道路で伊賀を通り奈良県 針ICで降りる。

少し小雨になってきた。宇陀市から又兵衛桜横を通るころは傘が必要な感じ。

AM10:00吉野川が見えてきた。週末は交通規制で上市橋を渡ると臨時駐車場に誘導される。

東京ナンバーは無料?とアルバイトの係員に聞いてみたが、協力金1,500円お願いしますと言われた。

外は霧雨、少し肌寒い。ここから無料のシャトルバスで、2か所に行ける。

04


中千本行きが出る所、(もう1っカ所は、下千本行)これに飛び乗る。

狭い街並みを抜け、近鉄吉野線、終点吉野駅の横を通り、吉野山ロープウェイ千本口駅近くから林道に入る。

Dsc_0733

吉野は林業の町、吉野杉が有名で枝打ちされた細い杉が見えてくる。

走るにつれ立派な山林が続くが、素人目に密集しているように思える。間伐する人手が足りないのか細い杉が気になる。

20分位走ると中千本地区に入り、道路の路肩を歩く観光客が増えてきた。

トンネルを抜けシャトルバスの終点に到着。

Photo

AN10:30過ぎ、霧雨・少し濡れそう・・・傘が必要だ。広場の奥にある女性トイレに行列。

このトイレと隣の善福寺の間にある階段を登ると、上の道に出る。

ケーブルバス乗り場:奥千本口行きのバス停がある。・・・広場にある案内図

Photo_4

道路側にも案内板があった。こちらの方が解りやすい。

2_4

この中千本付近はちらほら開花状態かと思っていたが、もうすぐ満開になりそう。

・・・霧雨でも観光客は多い・・・上千本に向かって道路を登ろう。

Dsc_0575
坂道を登ると土産屋が並んでいる。

この先を左に折れ、花矢倉を目指そう。

Dsc_0578

この先左側は、斜面のようだ

Dsc_0577

向こう側の尾根がぼんやり見えた。

朝もやが掛かった、パステルカラーの風景が飛び込んできた。

・・・布引の桜と呼ばれる一帯だろうか?

・・・花矢倉付近から見下ろすのが楽しみになってきた。・・・

吉野山全体では、200種類3万本とも言われるほどの桜が植林されているそうで、桜には寿命があり、毎年新しい苗木が植えられている。

Dsc_05821

こちらは道の右側、深い谷の斜面にパステルピンクのグラデーション

Dsc_0583_2

桜はご神木として保護されている吉野山

霧が晴れると素晴らしい風景に出合える

Dsc_0587

この付近一帯から上千本地区、桜は山桜が多いように感じる。まだ少し開花には早そうだ。

Dsc_0590_2

アップの写真を

Dsc_0589up_4

気温が上がったら一気に咲きそうな雰囲気

Dsc_0592

さぁ、目標の花矢倉展望台入口が見えてきた。

Dsc_0599

ここが展望台、・・・足元が泥だらけ・・・注意しないと

Dsc_0600

この一等席は有料、1時間:500円/1人。しかし、しいたけ飯の食事をすれば1時間まで無料

・・・但し、残念ながら視界0、ここの・・・布引の桜といわれる絶景・・・は霧の中

時間はAM11:30、食事休憩にしよう、熱いお茶でも頂いて

Dsc_0598

しいたけめしを頼んで屋根のある座敷に上がろう。

地元のタクシードライバーの方が、霧が晴れたらこのような絶景が見られると写真を見せてくれた。

Dsc_0596_2

女流カメラマン織作さんが下のホテルに宿泊し、5日間通われて撮影された作品とのこと。

Dsc_0595_4

中央に向かって中千本、中央から右下に下千本

中央その先に、金峰山寺 蔵王堂、この山の象徴が・・・

Dsc_0602_2

さて12時半、風が吹かないと霧は晴れそうにない。

これたらいつも絶景・・・も悪くはないが、植物も生きもので、自然界も生きもの、だから楽しい。

・・・2012年の4月14日昼、花矢倉 霧・・・これもまた良し

上千本と奥千本、桜の季節にまた立ち寄ろう・・・

ここから下り坂、中千本の尾根沿いを通り、下千本、そして金峰山寺(きんぷせんじ) 蔵王堂に参拝し

・・・最近JR東海が「うましうるわし奈良」金峯山寺のCMを始めましたね。

日が延びた、長谷寺にも寄って行こう。・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉野の桜

2012-04-20 | 旅行記

東京は桜も散り、八重桜のシーズン。

吉野の全山、霞がかった桜色が見てみたい。吉野も今年は遅れて、まだ少し早そうかな・・・下千本が満開の様子。

4/13金曜日、AM9時天気も良いし絶好のドライブ日和。

Dsc_0484


Dsc_0488

Photo_12

ここは足柄SA、・・・もうすぐ御殿場ICの先で、明日PM3時に東名高速から新東名高速が分岐し開通する。

Dsc_0497

調整中・試験中の表示がされている。

Dsc_0500

左車線から分岐し、右側の山側へ・・・帰りは新東名(第二東名)を走ろう。

渋滞も無いし、・・・この先寄り道をして、身延山 久遠寺の枝垂れ桜に行くには、微妙な時間になってしまった。

Photo_13

またの機会にして日本平PAへ、・・・残念薄曇りになってきた。

Dsc_

11時半だがこのPAで早い昼食にしよう。

さて、これからどうするか・・・450年前、駿府から三河へ侵攻した大軍があった。

軍勢は25,000人とも40,000人とも伝えられている。

そして、襲撃された・・・そんな古戦場を探してみよう・・・

豊明ICから1号線を中京競馬場前に向かう、右側遠くに沓掛城があったようだ。

・・・名鉄名古屋本線のガードを抜け一つ目の信号を左に折れ、細い道を進むと道の左側に通り過ぎてしまうような小さな公園があった。

Photo_14

桶狭間古戦場跡、・・・駐車場は無い。路肩に止める。

Photo_15


この公園と付近に点在する数多くの石碑の案内図が掲示されていた。

・・・この付近で、1560年(永禄3年)5月19日、今川義元が戦死したと伝えられている。

戦死から211年後の江戸時代に七石表が建てられたとあります。

また道の反対側には大きな寺院、高徳院があった。

高徳院境内には「今川義元 本陣跡の碑」、「仏式 今川義元の墓」、「古戦場資料館」があるそうです。

通りかかったミニパトの若い警官に、最近銅像が建てられた「桶狭間古戦場公園」への行き方を聞くが、知らない。

有松と言うと、今来た1号線をもう少し先に行けばあるようだ。

1号線を600m位か、次の信号「大将ヶ根」を左折し細道に入る、前方は小高い丘、坂道を登る。

頂上を左折し名古屋短大の方向に下る、この付近の小高い山が気になる・・・

・・・その昔、この付近の小高い山に織田軍が軍平を寄せたところで、突然の雷雨、織田軍には後からの追い風だったようで、

・・・桶狭間山に陣を据えた今川義元陣には向かい風(楠木の大木が東に倒れたとある)・・・すると織田軍の反対側に桶狭間山か?・・・

数百m位で幕山の信号左折、その先突き当りに公園が見えた。

Dsc_0509

「桶狭間古戦場公園」 ここの住所は、名古屋市緑区有松町桶狭間・・・

先程の「桶狭間古戦場跡公園?」は、愛知県豊明市

直線で1km位、ひと山越えた所に、行政区が異なる二つの史跡<古戦場跡>があった。

Photo_17

この銅像は最近据えられたようです。

Dsc_0517


公園も、土地区画整理事業で造られたようです。このような看板もありました。

Dsc_0513_4

義元公首洗いの泉、泉もありましたが割愛、

Photo_21

この付近一帯が古戦場だったのは間違いないようです。

この近くに長福寺があり、今川軍に酒食を提供したようで、本尊は義元の茶坊主 林阿弥が持参したといわれる阿弥陀如来。

この寺の前に川があり、戦の後に川の流れは血で赤く染まり、鞍も流れてきた。・・・後に「鞍流瀬川」と呼ばれたが、今は埋め立てられています。

Dsc_0516_4

「桶狭間の戦い」 1560年5月19日・・・旧暦です。<当時を新暦にすると、6月12日らしい>

信長の家来:太田牛一が江戸時代に入ってから書き残した「信長公記」などが桶狭間の戦いの資料と重要視されてきた。

戦いの記述は・・・夜明け方に(日の出は4時半頃、清洲城(この地より24㎞位)で)信長は、丸根・鷲津両城へ今川勢が取り掛かったと、おいおい注進あり。

午前8時頃、上知我麻神社(途中で熱田神宮(清洲城から13㎞)に祈願し)で信長に従う者は、六騎と雑兵二百名のみ。

信長軍、丹下砦を経由し、佐久間大学在陣の善照寺砦(清洲城から20㎞)に移動。そこで軍勢を整える。

正午 桶狭間山に陣を据えた今川義元が謡を三番うたった。

中島砦(清洲城から21.5㎞)に移動、この時点で信長軍勢二千人弱となる。さらに、中島から先に軍平を出す。(ここから桶狭間は約2.5㎞)

山際まで軍平を寄せたところで、突然の雷雨のため、戦い中断。

午後2時頃雨が上がり、再開。今川勢、算を乱して退散。

義元の旗本三百が五十に減る。

信長も下馬し、戦う。

味方の死者・負傷者無数。

義元を討ち取る。

日のあるうちに、清洲(桶狭間から24㎞)に凱旋。・・・

・・・・・

信長軍2,000人、今川軍25,000人とも伝えられているが(この両古戦場の案内板)

今川軍は織田軍の砦を攻めている軍(松平元康・のちの徳川家康)等に分散し、本陣は5,000人くらいだったのでしょう。

信長軍の奇襲により、1時間半~2時間で大将の首がはねられ、残りの大軍今川勢は雲散霧消。

桶狭間の戦いの戦死者、今川軍2,500人、織田軍830人・・・

他にも別働隊の織田軍は、丸根・鷲頭で1,000人弱、善照寺・中島で1,700人位の死者が出ているようです。

・・・熱田神宮に参拝しよう・・・

Dsc_0522

駐車場は桜が満開

Dsc_0547_4

境内案内図

Dsc_0523

信長が桶狭間の戦い戦勝記念として奉納したのが

Dsc_05252_3

信長塀が参道の左右に造営されている。

Dsc_0525

日本三大土塀の一つといわれているとあります。

Dsc_0532

本宮

Dsc_0532_3

巫女さん

Dsc_0534_2

ここから清洲城に行く前に、信長(1534年生まれ)が誕生し、21歳まで遊んでいた那古野城に行ってみよう。

Dsc_05501

ここの二の丸跡に、那古野城があったそうです。

Dsc_05512_2

エー・・・名古屋城のようですか?

確かに江戸時代に建てられた名古屋城です。

桜満開です。

Dsc_05591_2

金の鯱が良く見えない・・・

Photo

天守閣です。

清洲城もあります。

Dsc_0568_2

2

現在の名古屋城の一角に清洲城が移設されています。この堀の右は名古屋キャッスルホテル。

夕方になってしまった。かつての清洲城跡にはまた改めて訪問することにして、高速で鈴鹿にと急ごう。

少し小雨が落ちてきた。・・・明日は朝までに雨が止んでくれれば良いが・・・

吉野の山、花矢倉からの布引の桜はまだ早いかもしれない・・・雨で人出が減れば人混みは避けられると前向きに解釈して出かけるとしよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨の京都

2011-12-13 | 旅行記

小雨の京都、龍安寺に行ってみよう。

Photo

この階段の上、本堂の右側に社務所があり、そこに数台の駐車スペースがあります。

駐車場入り口で、係員に許可を頂くと1時間以内に限り駐車することができるので、

指示された通り駐車場の右奥から小道を進みます。1~2分で着き、雨の日は大助かりです。

このお寺は大変広く、南側には回遊式庭園に囲まれた鏡容池(キョウヨウチ)があります。

そして境内北側にはこれから参拝する本堂(ここでは方丈と呼んでいます)があります。

その方丈の玄関を入ってすぐ左側に、このような石庭の模型が、

Photo_2

その前に、龍安寺の案内が下記のように書かれている。

もと徳大寺家の別荘を、宝徳2年(1450年)に細川勝元が譲リうけ、禅寺に改めたが、戦災で焼失し、明応8年(1499年)細川政元が再興した。

美しい鏡容池は藤原時代の由緒をとどめ、方丈前庭の枯山水庭園は俗に虎の子渡しと称されて有名である。

禅では自己が「三昧」「無」になりきることによって自他一如の世界を自覚し、その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間、空間を越えて、静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭といえよう。

・・・参考に、戦災は第二次大戦ではなく、応仁の乱か・・・そして、その後1489年に洛北に建造されたのが慈照寺銀閣・・・

左側に、明るい庭園が見えてくる。

Photo_3

白砂の反射光が右側の室内を明るく照らしている。

Photo

入口側から石庭をながめる。石庭は方丈の南に面している。

右側に、このような展示がされている。

Photo_8

江戸時代の石庭スケッチと説明分が

Photo_21


文章を拡大してみよう。皆川さんという江戸中期の儒学者がこの庭園について書かれている。

この時代ですでに、土塀の上に見える借景がずいぶん変わってしまったなどとあります。

スケッチの借景は、松林が描かれています。

1

ところで作庭の作者は誰か? 

龍安寺側の説明では、絵師の相阿弥と長く信じられてきたが確証はないといわれる。

Photo_26

75坪の白砂に大小15個の石を配置、「虎の子渡しの庭」、「七五三の庭」とも呼ばれる。

石の配置は左から、5、2、3、2、3でしょうか。

この時期、正面の高さ1.8mの油土塀に枝のみが何本か掛かっているが、春のシーズンには、しだれ桜が咲き誇る。

Photo


白砂は、左奥が排水を考えて低く整地されている。

このアングル・・・落ち着く

Photo_2


また右側(西)の土塀は、手前から奥に向かって低くなるように建てられ、より奥行感が強調されているとのことです。

Photo_28

石庭西側の紅葉、・・・この配色はさわやかですね。

さて、そろそろあわただしい俗世に戻ることにしよう。

*

近くの北野天満宮に寄ってみよう。

1_3

北野天満宮、天暦元年(947年)の創建

菅原道真公が祀(マツ)られていて、学問の神様として崇(アガ)められている。

東京の「湯島天神」・「亀戸天神」に対し、こちらの天神さまは、「北野の天神さん」と呼ばれているそうです。

1_4

本殿への道

Photo_30

中門(三光門)に掛かる 「天満宮」の額は、後西天皇の筆となるようです。

1

この右側に、立派な石造りの牛が・・・


Photo_31

天満宮では、牛が祭神の使者とされていて、道真公と牛に関しては数多くの伝承があり縁があるようです。

Photo_33

北野天満宮には神使とされる牛の像が、いろんな所に置かれています。

この立派な臥牛は、本殿から少し離れた右側にありました。

本殿は、豊臣秀頼が関ヶ原の戦いの後、慶長12年(1607年)に造営された。

Photo_3

道真公は梅を愛され、この天満宮境内にも多くの梅の木が見える。

また、梅林もあり開花時は有料公開もされている。

*

これから、夕方までに奈良に行こう。

途中、伏見の寺田屋に寄ってみよう。

*

2

この寺田屋も有名な観光コース、旅籠内部も公開されているが

AM10:00~PM3:40まで受付、見学は有料

幕末の坂本竜馬で有名な当時の寺田屋は、鳥羽伏見の戦いで(1868年)、焼失した。

-

4

*

この旅籠は、焼失したので旧宅にならい、明治時代に再建されたそうです。

-

3

*

この旅籠の右側に、旧寺田屋の跡地があり庭園の雰囲気となっている。

ここには、文久2年の寺田屋騒動(1862年)で戦死した討幕派薩摩藩士の石碑などが建っている。

*

すぐ近くに宇治川が流れ、その支流を少しさかのぼった所に船宿だった寺田屋がある。

1866年3月9日(慶応2年1月23日)深夜2時頃、幕府伏見奉行捕り方百数十人に囲まれた竜馬

・・・お龍が風呂から飛び出し2階に駆け上がる。・・・負傷した竜馬

この川の反対側、材木屋に隠れ、薩摩藩邸が川船を出して・・・竜馬は救出された。

*

そんな、伏見の寺田屋、145年前の冬、この場所で起こっている・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅葉の神護寺

2011-12-04 | 旅行記

嵯峨野・竹林の道から北に直線で4Kmくらい、京都盆地の北西、洛西(ラクセイ)に位置する三尾(サンビ)地区に向かう。

高雄・槇尾(マキノオ)・栂尾(トガノオ)、日本を代表する紅葉の名勝地と言われている。

Photo

「タカオカエデ」・・・最も美しく紅葉するイロハモミジの別名で、全山に数千本といわれる高雄山が目的地。

神護寺はその中腹にある。

天応(テンノウ)元年(781年)に和気清麻呂(ワケノキヨマロ)ゆかりの寺として創建され、空海(弘法大師)が809年から14年間住持し、その後荒廃したが、平安末期、文覚上人(モンガクショウニン)によって再興された。

真言宗の古刹(コサツ)…古く由緒あるお寺です。

Map

解り易い順路は、神護寺バス停横の道路から階段を下ります。

Photo_4

なだらかな石段を下ります。

Photo_6

この下を流れる川に向かい、山裾を右にカーブします。

Photo_13

売店の前を左に切り返すと、緩やかな坂になる。・・・川のせせらぎが聞こえてくる。

Photo_15

清滝川に架かる、高尾橋。

この橋を渡り、左に曲がると直ぐに急な階段が現われる・・・ サァ 登ろう。

1

凹凸があり歩きにくいが、それほど長い階段ではないので一気に登ろう。

1_2

なだらかな登り坂になり、左側に茶屋が見えてくる。

Photo_17

天候が良ければ、この雰囲気最高ですね。

しかし、小雨が降り続きテーブルには、ビニールシートが・・・残念。

2

硯石亭

Photo_18

ここの茶屋は、小雨も気にならず繁盛しているようだ。

Photo_19

坂道を進むと、この先山門前が急な階段となる。

Photo_23

楼門(ロウモン)が見えてきた。この門の左に参拝の受付があり、拝観料500円、・・・境内に入ろう。

2_8

水はけのよさそうな砂地だが、雨が続き足元に大きな水たまりがある。

水たまりを避けながら進もう。

右側には宝蔵、その奥に書院や茶室があるようだ。

2_10

和気公霊廟近くに、ひときわ目立つイロハモミジ(タカオカエデ)

Photo_24

向かい側にも紅葉が素晴らしい大木がある。

右側に戻り、和気公霊廟前の紅葉を再度鑑賞しよう。

Photo_15

カエデの木が大きいので葉の裏側に回ってみよう。

Photo_18

和気清麿公は、平安京造営(794年)の最高責任者(造営大夫)でもあったと神護寺のパンフに書かれている。

墓は、この先ずいぶん登った所にあるようだ。

さらに右側を進むと、鐘楼に進む小道の先に明王堂が見えてくる。

明王堂の先から振り返って見てみよう。

2_16

明王堂の先に進むと左側に五大堂、その先右側の高台に向かって階段が見える。

この階段の両側の紅葉が素晴らしい。

少し階段から離れて紅葉を見てみよう。

Photo_19

そして、階段を登ると・・・

Photo_20


金堂が見えた。

階段を登った先、右側にもカエデの大木がある。

Photo_25


金堂の階段上から振り返ってみてみると、こんな感じです。

Photo_21

この楓の大木に近寄ってみると

Photo_27

緑・黄・橙・朱色と一本でこのグラデーション。朱色が鮮やか

金堂前を右に回り込むと

Photo_26

緑に朱色、橙、黄、そして白椿が咲いていた。

鐘楼や多宝塔、竜王堂が近くにあるが足元が悪いので次回にして、金堂の正面左側から、坂道を下る。

途中から右に折れると、100m位先にカワラ投げで有名な地蔵院がある。

この付近には樹齢500年のカエデが多いらしいが、ここもパスして金堂の階段下に出て大師堂に進もう。

2hp

この右側に少し見えるのは、五大堂。

その隣に毘沙門堂。

Photo_29

毘沙門堂を半周して、振り返ると大師堂が

Photo_28

静かに周囲に溶け込んでいた。

Photo_30


境内を一周して、楼門に帰ってきた。

連れが待っているので、高山寺前の市営駐車場に戻ることにしよう。

Photo_31

清滝川まで階段を下り、高雄橋を渡り角の店でエネルギーを補給し、川沿いに上流に進む。

槇ノ尾橋が見えてきた。

平安時代初期に空海の弟子が創建した西明寺に参拝するには、この橋を渡ることになる。

Photo_32

槇ノ尾橋から下流を振り返ると、崖の上に今通ってきた道のガードレールが見える。

Photo_33

10分も歩かないうちに、国道162号線に合流した。

Photo_34

路肩を歩いて1㎞位で栂ノ尾、高山寺参道が左に見えてくる。

高山寺:奈良時代に創建され、鳥獣人物戯画(複製)があるので有名。世界遺産。

この参道を過ぎ、駐車場が見えてきた。

2_17

広い駐車場だが観光バスも多く、行楽シーズンは満車になってしまう。

バスが便利のようだが、天候が悪いにもかかわらずバス停には長い行列ができていた。

11時を回ったようだ、幸い道路は空いていた。平地に降りて、仁和寺か龍安寺・・・、龍安寺に行こう。

その前にランチタイム・・・、3時頃には雨も上がる予報だが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨野 竹林の道

2011-11-27 | 旅行記

小雨の京都、嵐山。 

土曜日 朝9時過ぎ、あいにくの天候で人出は少ない。

1

残念ながら紅葉の嵐山が中腹まで霧がかかり、白一色。

Photo

渡月橋、全長154mとも155mとも言われ、嵐山のシンボルで”月が橋を渡るように見えた”ことから亀山上皇が命名、9世紀前半に架けられたといわれている。

Photo_2

渡月橋から下流の桂川左岸を眺める。

Photo_3

上流は保津川と呼ばれ、左が嵐山、右側に人力車の駐車場も見える。

Photo_4

渡月橋交差点横から、すぐ先に美空ひばり座があり、その先に天龍寺がある。

Photo

天龍寺総門、・・・天候が良ければ曹源池庭園(ソウゲンチテイエン)から借景の嵐山を含む撮影が目的だったが、霧で見えずに拝観を中止する。

法堂の天井画「雲竜図」も有名で、八方睨みの龍とも呼ばれている作品がある。

1

人通りが少ないから、バス停:野の宮を左折しよう。

両側にお店がある路地を注意してユックリ進む。

前方左に見える緑の一帯は、天龍寺の敷地

Photo_2

細い小道・竹林の道を静かに進み、・・・野宮神社に行き過ぎて、数メートルバックし左折する。

1_2

天龍寺 北門、カエデの紅葉が竹林に映えて鮮やかに主張している。

2

京都の寺院は、大半が8時半~9時頃から参拝できる。

天龍寺もAM8:30からですが、・・・「そうだ京都に行こう!」 ・・・紅葉の季節は、一番行楽客が多く稼ぎ時です。

天龍寺は11月19日から、AM7:30に1時間参拝時間を早めています。

拝観料は500円、駐車料金は、1日1000円、近くに800円/日もありますが、参拝時間は1時間以内でしょう、駅近くのコインパーキングをお勧めします。

Photo_3

今来た道を振り返る。人力車とタクシーがやってきた。

Photo_4

野間神社から、この先大河内山荘までの竹林の道がお勧めのコース。

HONDAのTV ・CM 竹林が登場します。多分この付近と思いますが・・・

この先、T字路を右折すると右下にトロッコ列車 嵐山駅が見えてくる。

落柿舎(ラクシシャ)も近くにあるが、三尾(サンビ)と呼ばれる:高尾(雄)、槇尾(マキノオ)、栂尾(トガノオ)の尾根に向かうことにしよう。

10時を過ぎたが、相変わらず小雨、・・・紅葉の神護寺は、小雨でも参拝しよう。

400段の階段の先にある神護寺、もうすぐだ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

養老の滝

2011-11-24 | 旅行記

11月18日金曜、中部・関西方面に出かけた。

東名高速、今回は順調に走れて、AM10時浜名湖SAに到着。

ここまで来れれば、一安心。

Photo_77


今年は秋らしい日々が少なく、紅葉も例年より遅れ気味、ここ数日の寒さで山麓まで紅葉が進んだようだ。

明日は豪雨の予想、もう一台と京都に行く予定だが・・・雨の京都は人出も少なくなり、渋滞も緩和されるから好都合と解釈するか・・・

さて、これからどうしようか・・・昼前に岐阜・養老の滝に行ってみよう

大垣ICで降りて、30分かからないだろう。

Photo

養老公園には、駐車場が多く、滝に向かうには、松風橋を渡り、左に進んだ先の養老公園入口駐車場が一般的かな?

橋を渡り右折して、その先を左折、山を上がり滝の右上方の駐車場もあるが下流から滝に登って行こう。

1

松風橋の上流、河川敷にピクニックの人達、・・・桜の季節、花冷えの陽気に似ていて少し寒そう。

駐車場横の鐘楼とカエデ

Photo_2

坂道を登り右側にふるさと館。簡単な養老の滝・昔話の展示とビデオ上映

Photo_3

少し上流に渡月橋が架かっている。この橋から下流を眺める。

下流は不動橋、手前左は桜並木

Photo_4

渡月橋を渡り、左岸の紅葉

Photo_7

渡月橋から上流を眺めるが、川がこの先右に曲がり上流の橋は見えない。

Photo_6

土産物店を通る。ひょうたん等のお土産が

Photo_10


道路から、右側の階段を少し上がった所に養老神社の案内が

Photo_11

案内板が見える、名水が・・・

Photo_17

親孝行と名水の案内板がある。

Photo_25

この階段を登った先が本殿

Photo_28

本殿の左にも鳥居があり、平らな道が上流方面に続いている。

滝からの帰りに養老神社に寄られるのがお勧めです。

河川に降りてみよう。この付近では川幅も狭く水量も少ない。

Photo_29

夏の大雨の影響かもみじ橋の先、左岸が工事中で右側の道路も細い迂回路を進むことになる。

階段を登り、リフト乗り場(滝の右上方まで、一人乗りのリフトが動いている)の下を通り

Photo_30

川の右岸、細い道を進む。

Photo_31

道が、分岐している。

①滝方向は直進

②右の階段を登るとリフトの終点や、駐車場から降りてくる道と合流し、滝の右側に下るコースとなる。

・・・右の階段を登ろう。・・・

Photo_33

5分くらいで登り終え

Photo_35

リフト降り場は左側の階段の先

Photo_40

左下に谷川を感じながら、滝に向かい下り坂を進む。

見えてきた・・・養老の滝

Photo_51

さて、もう一方の

①分岐点から直進のコースでは

2_3

このような道を進む

Photo_56

通行止めの左岸の道路が見える。ここでは川幅もそれなりにある。

少し上流の万代橋は川幅が狭い。

上流の水量は、秋はこの程度でしょう。

Photo_58

なだらかな道を、残り200m位で滝壺でしょうか。

1_5

滝の全景が見えてきた。この先50m位で滝壺に到着

2_8

更に、岩の間の階段を進むと

Photo_71

滝のすぐ近く、・・・右から回り込み、階段を登ると

Photo_74

ここが、養老の滝・・・

標高:290m、落差:30m、幅:4m スマートな滝があった。

滝壺から右後に下がってみましょう。

02_14

リフトから下り坂(一部階段)を降りてくると、ここに到着します。

記念写真を撮るには十分な平地があります。

養老の滝は、険しい道のりでもなく、初心者でも手軽に来れるところです。

軽装でも問題なく、リフトも必要ないでしょう。

左岸の工事が終了したら、幅広の道を通ってもっと快適に来られると思います。

・・・

では、雨の京都・・・嵯峨野・細い竹林の道を静かに車が通る・・・神護寺の紅葉は・・・整理中

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高尾山Ⅱ

2011-08-03 | 旅行記

高尾山の山頂もにぎやかになってきた。

12時を回った、周辺を散策する。

Photo

ウ・・・ン、静かさを求めて移動しよう

4号路、吊り橋のあるコースを下ろう。

41

山の斜面に小道が造られている。手摺はないのですれ違いは要注意。

Photo_2

奥に吊り橋が見えてきた。

Photo_3

揺れない、つり橋です。

3

このような所もあるので、足元に注意!

雨の後は、1号路をお勧めします。

Photo_4

遠くから騒音が聞こえるような気がした・・・中央高速、小仏トンネル

上り車:小仏トンネルを先頭に30km、渋滞で有名な場所だ

1

右側から4号路を進んできて、左の1号路と合流。

なだらかな1号路を下ると、たこ杉の横を通り、休憩処の広場に出る。

そして行列ができている左側を進むと、ケーブルカーの駅前に着く、後ろを振り返ると・・・。

Photo_5

行列は、ビアマウントに入りたい人の列、丘を半周、長蛇の列2時間待ち位か?

Photo_6

ケーブルカーの駅舎の右横を抜け、都心部が見える展望台に戻ろう。

3

左が池袋、新宿、スカイタワー・・・???

こんな案内板がありました。

Photo_3

都心を中心に、左は川口、右は川崎、アクアライン・・・これで左半分

Photo_4

右半分は、アクアラインから町田、横須賀、江の島、厚木

東京湾の先、千葉県富津、館山まで記入してあるので、地図を参照しないと解り難い。

Photo_7

Photo_8

Photo_9

空気が乾燥している冬場に、今度は素敵な夜景を!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする