気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

吉野の桜

2012-04-20 | 旅行記

東京は桜も散り、八重桜のシーズン。

吉野の全山、霞がかった桜色が見てみたい。吉野も今年は遅れて、まだ少し早そうかな・・・下千本が満開の様子。

4/13金曜日、AM9時天気も良いし絶好のドライブ日和。

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ここは足柄SA、・・・もうすぐ御殿場ICの先で、明日PM3時に東名高速から新東名高速が分岐し開通する。

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調整中・試験中の表示がされている。

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左車線から分岐し、右側の山側へ・・・帰りは新東名(第二東名)を走ろう。

渋滞も無いし、・・・この先寄り道をして、身延山 久遠寺の枝垂れ桜に行くには、微妙な時間になってしまった。

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またの機会にして日本平PAへ、・・・残念薄曇りになってきた。

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11時半だがこのPAで早い昼食にしよう。

さて、これからどうするか・・・450年前、駿府から三河へ侵攻した大軍があった。

軍勢は25,000人とも40,000人とも伝えられている。

そして、襲撃された・・・そんな古戦場を探してみよう・・・

豊明ICから1号線を中京競馬場前に向かう、右側遠くに沓掛城があったようだ。

・・・名鉄名古屋本線のガードを抜け一つ目の信号を左に折れ、細い道を進むと道の左側に通り過ぎてしまうような小さな公園があった。

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桶狭間古戦場跡、・・・駐車場は無い。路肩に止める。

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この公園と付近に点在する数多くの石碑の案内図が掲示されていた。

・・・この付近で、1560年(永禄3年)5月19日、今川義元が戦死したと伝えられている。

戦死から211年後の江戸時代に七石表が建てられたとあります。

また道の反対側には大きな寺院、高徳院があった。

高徳院境内には「今川義元 本陣跡の碑」、「仏式 今川義元の墓」、「古戦場資料館」があるそうです。

通りかかったミニパトの若い警官に、最近銅像が建てられた「桶狭間古戦場公園」への行き方を聞くが、知らない。

有松と言うと、今来た1号線をもう少し先に行けばあるようだ。

1号線を600m位か、次の信号「大将ヶ根」を左折し細道に入る、前方は小高い丘、坂道を登る。

頂上を左折し名古屋短大の方向に下る、この付近の小高い山が気になる・・・

・・・その昔、この付近の小高い山に織田軍が軍平を寄せたところで、突然の雷雨、織田軍には後からの追い風だったようで、

・・・桶狭間山に陣を据えた今川義元陣には向かい風(楠木の大木が東に倒れたとある)・・・すると織田軍の反対側に桶狭間山か?・・・

数百m位で幕山の信号左折、その先突き当りに公園が見えた。

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「桶狭間古戦場公園」 ここの住所は、名古屋市緑区有松町桶狭間・・・

先程の「桶狭間古戦場跡公園?」は、愛知県豊明市

直線で1km位、ひと山越えた所に、行政区が異なる二つの史跡<古戦場跡>があった。

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この銅像は最近据えられたようです。

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公園も、土地区画整理事業で造られたようです。このような看板もありました。

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義元公首洗いの泉、泉もありましたが割愛、

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この付近一帯が古戦場だったのは間違いないようです。

この近くに長福寺があり、今川軍に酒食を提供したようで、本尊は義元の茶坊主 林阿弥が持参したといわれる阿弥陀如来。

この寺の前に川があり、戦の後に川の流れは血で赤く染まり、鞍も流れてきた。・・・後に「鞍流瀬川」と呼ばれたが、今は埋め立てられています。

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「桶狭間の戦い」 1560年5月19日・・・旧暦です。<当時を新暦にすると、6月12日らしい>

信長の家来:太田牛一が江戸時代に入ってから書き残した「信長公記」などが桶狭間の戦いの資料と重要視されてきた。

戦いの記述は・・・夜明け方に(日の出は4時半頃、清洲城(この地より24㎞位)で)信長は、丸根・鷲津両城へ今川勢が取り掛かったと、おいおい注進あり。

午前8時頃、上知我麻神社(途中で熱田神宮(清洲城から13㎞)に祈願し)で信長に従う者は、六騎と雑兵二百名のみ。

信長軍、丹下砦を経由し、佐久間大学在陣の善照寺砦(清洲城から20㎞)に移動。そこで軍勢を整える。

正午 桶狭間山に陣を据えた今川義元が謡を三番うたった。

中島砦(清洲城から21.5㎞)に移動、この時点で信長軍勢二千人弱となる。さらに、中島から先に軍平を出す。(ここから桶狭間は約2.5㎞)

山際まで軍平を寄せたところで、突然の雷雨のため、戦い中断。

午後2時頃雨が上がり、再開。今川勢、算を乱して退散。

義元の旗本三百が五十に減る。

信長も下馬し、戦う。

味方の死者・負傷者無数。

義元を討ち取る。

日のあるうちに、清洲(桶狭間から24㎞)に凱旋。・・・

・・・・・

信長軍2,000人、今川軍25,000人とも伝えられているが(この両古戦場の案内板)

今川軍は織田軍の砦を攻めている軍(松平元康・のちの徳川家康)等に分散し、本陣は5,000人くらいだったのでしょう。

信長軍の奇襲により、1時間半~2時間で大将の首がはねられ、残りの大軍今川勢は雲散霧消。

桶狭間の戦いの戦死者、今川軍2,500人、織田軍830人・・・

他にも別働隊の織田軍は、丸根・鷲頭で1,000人弱、善照寺・中島で1,700人位の死者が出ているようです。

・・・熱田神宮に参拝しよう・・・

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駐車場は桜が満開

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境内案内図

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信長が桶狭間の戦い戦勝記念として奉納したのが

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信長塀が参道の左右に造営されている。

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日本三大土塀の一つといわれているとあります。

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本宮

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巫女さん

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ここから清洲城に行く前に、信長(1534年生まれ)が誕生し、21歳まで遊んでいた那古野城に行ってみよう。

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ここの二の丸跡に、那古野城があったそうです。

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エー・・・名古屋城のようですか?

確かに江戸時代に建てられた名古屋城です。

桜満開です。

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金の鯱が良く見えない・・・

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天守閣です。

清洲城もあります。

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現在の名古屋城の一角に清洲城が移設されています。この堀の右は名古屋キャッスルホテル。

夕方になってしまった。かつての清洲城跡にはまた改めて訪問することにして、高速で鈴鹿にと急ごう。

少し小雨が落ちてきた。・・・明日は朝までに雨が止んでくれれば良いが・・・

吉野の山、花矢倉からの布引の桜はまだ早いかもしれない・・・雨で人出が減れば人混みは避けられると前向きに解釈して出かけるとしよう。

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