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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

セーヌ川 ナイトクルージング

2013-06-18 | 旅行記

セーヌ河、思った以上に水かさが増している。船で生活されている方は不安でしょう。・・・市内に近づくと、自然と高い塔を探してしまう。・・・中央に見えてきました。

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エッフェル塔は凱旋門と共にパリのシンボル。数あるエッフェル塔の人気撮影スポットの中で・・・、セーヌ河沿いの高台、ここが一番人気かも。
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夕日を正面から受けて、エッフェルブラウンの色が・・・

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ブラウンが一色ではなくて・・・グラデーション?・・・だから塔を4分割して撮影?

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・・・3分割くらいだったかな?

塔の上部がやや明るく、中央部と下部の3段階に明度を変えて塗装されているそうです。

高い先端は、遠方の効果をさらに強調し、明るくということのようです。

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この撮影ポイント、エッフェル塔の手前は、セーヌ河、そこに橋が架かっています。イエナ橋、その手前は噴水、それからトロカデロ庭園、高台にシャイヨ宮があります。

・・・1937年、万国博に合わせこの場所のトロカデロ宮殿を取り壊し、新たに建てられた宮殿です。現在は博物館・劇場などが入っています。

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第4回万国博覧会が、フランス革命100周年(1889年)を記念してパリで行われ、目玉事業としてエッフェル塔が建てられ当時の金属産業の象徴でした。当時の高さは312.3m、現在は放送用アンテナを含め324m。

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シャイヨ宮の中央テラス・・・素敵なパリジェンヌ、マウンテンバイクの夫婦と談笑?

nnn・・渋い表情?・・・これが機動力で有名なパリのマウンテンバイクお巡りさん、・・・婦警さんに違法物品販売で切符切られたの?・・・中国と違い賄賂も逆効果になるし、残念!

食後、ホテルで防寒対策をして薄暮のセーヌ河へ、近くのメトロ駅からお出かけです。

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9号線でアルマ橋の近く Alma Marceau まで、地上に出て、右に道路を渡ると・・・目の前にアルマ橋

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橋の向こうにライトアップされたエッフェル塔が・・・、橋の手前を横切りセーヌ河に沿って上流に歩く、・・数分もしないうちに・・・右側に遊覧船乗り場が近づく。

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BATEAUX MOUCHES バトー ムーシュ社、セーヌ河 イルミネーションクルーズ

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チケット売り場、 美人のO女史ガイドさんが ”セーヌ河が増水しているので残念ですがシテ島(ノートルダム大聖堂がライトアップされている)周回ができません。

付近の橋の下を遊覧船が抜けられないので、残念ですが手前でUターンしますがよろしいですか” と説明していただく。

自然の力には勝てない・・・コース変更を納得する。

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この画面、気になる国旗・・・観光客の国別上位9か国でしょうか、正確には言語圏でしょうが・・・仏語圏・英語圏・独語圏・スペイン語圏・イタリア・韓国・中国・日本・ロシア・・・アラビア語が無かった、中国か韓国が急激に伸びてきたのでしょう。

船内の日本語放送は無くなっていたが、有能なガイドさんの笑顔の交渉で10人弱の日本人観光客に船内放送をして頂くことができた。
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時刻はPM9時、右側後方のエッフェル塔がキラキラと点滅し始めた。

この点滅、数分間続き・・・あちこちから歓声が上がる。メーンイベントです。

さてクルーズがスタート、・・・左手前方に1791年完成の・・・かつて「ルイ16世橋」と名付けられた橋が見えてきます。フランス革命で破壊した建物の煉瓦も使ってこの橋が完成し、革命橋と呼ばれた時代もあったそうですが・・・

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現在は「コンコルド橋」、・・・橋より有名なコンコルド広場、そして季節限定・移動大観覧車が現われ・・・まもなくルーブル美術館が見えてくる。

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ルーブル美術館の先でUターン、・・・今度は右手にルーブル美術館、少し先の左手に19~20世紀の作品を展示しているオルセー美術館

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・・・1900年の万博で新造された駅舎が、30数年後ホームの長さが短くて時代に合わず閉鎖されてしまう。・・・長く廃墟となっていたオルセー駅、・・・近年、美術館として生まれ変わって20数年、元気なフランス時代を展示しているので、最近人気のようです。

進行方向の左手のエッフェル塔が徐々に大きくなる。・・・明るくライトアップされた左岸は・・・イエナ橋手前のパリジャン、ビュスと2つの遊覧船乗り場のようだ。

乗り場の真後ろにエッフェル塔が、首も疲れないちょうど良い高さかな・・・

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そしてイエナ橋を抜ける・・・続いて大きな橋が・・・100年以上前に完成した「ビル・アケム橋」という有名な2階建ての橋で、橋の中央部がレトロな2階建てになっている。

2階部分をメトロ6号線が走っている。この橋の中程から中州に降りる階段がある。

セーヌ河に900mくらい続く中州、シーニュ島(白鳥島)・・・この中州に、人気の遊歩道がある。白鳥の散歩道と呼ばれる・・・中洲の下流側にも階段があり次の橋、グルネル橋で橋の歩道に上がれる。

次のグルネル橋を抜ける・・・と、中洲の先端に小柄な「自由の像」が・・・10数年前、東京お台場で展示された日本名通称「自由の女神」・・・その後貸し出しは一度限りで、この場所に戻っている、・・・お台場には、許可を受けたレプリカが置かれている。

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ガイドブックによると、高さ11.5m(台座の上から?)、重さ14トン、(ニューヨークに贈った像は台座の上からの高さが46m位)、橋に背を向けて西を向いている。

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ニューヨークの像が左手に抱える銘鈑には、1776.7.4(独立記念日)、この像は、もちろん1789.7.14です。・・・セーヌ河の水位が高い・・・威圧感もなく、おだやかな現代の風景に溶け込んでいる。

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自由の像の先でUターンして、エッフェル塔に再び戻って行く。

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PM10時、エッフェル塔が再び瞬き始めた・・・

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セーヌ河の夜景・・・約1時間強、往復10㎞くらいのクルージング、

隅田川の夜景と何かが違う・・・石の文化と歴史建造物の重み?・・・決定的に違うのは、雑多な広告が無いこと、スクラップアンドビルド・商業主義を抑え、落ち着いた間接照明、色彩、この歴史的景観が世界遺産。

船上からの夜景写真は、船の揺れと手振れで、・・・拡大して・・・がっかりの方も多いでしょう、点滅チカチカにクロスフィルター効果なども面白いですが、やはり動画でしょうか。

そして翌朝、オペラバスティーユのあるバスティーユ広場を通り、リヨン駅へ

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この駅舎も古い、・・・TGVも・・・日本の新幹線開業から遅れること10数年、開業から30年以上経過しているし、車両も最新型は少ないのでは?

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そのT.G.Vでスイス ジュネーブへ・・・3時間チョットの列車の旅

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真面目そうな駅員と右端の男性は?・・・軍人かと思ったハンチングの男性・・・駅員でしょう?そして女性駅員も素敵な制服

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こちらは菓子・マガジンコーナー

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そしてSNCFマーク(フランス国鉄)、ホーム横の切符刻印機(コンポストゥール)

よけいな改札が無いから、ホームにも到着した列車にも出入りは自由。日本のようなホームに入るための入場券は無い。

しかし、車内検札が来るので、この刻印機で買った切符に駅名と時刻を印字しておかないと、お仕置きに会うことになる。

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このホームの終端は(駅舎側)は北西になる。先頭車両は南東を向いて発車を待っている・・・リヨン駅は、このパリからフランス南東方面に走る列車のターミナル駅。

動画・別途編集中ですが・・・10年ぶりの伊豆の磯釣りでアイナメに出合えたり・・・この季節が最高!

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ヴェルサイユ宮殿その2

2013-06-03 | 旅行記

この宮殿も大聖堂同様、時の権力者が空前絶後な建築物を願望していますから完成までには時間がかかっています。

1682年、国王ルイ14世は、約20年かけてヴェルサイユに宮殿を仮オープン、(日本は、五代将軍徳川綱吉の頃)パリから遷都しました。なぜパリのルーブル宮殿を捨てたのでしょう。

1643年に5歳で即位していますから着工が1662年24歳頃、遷都が44歳頃です。 

5歳で国王になると父親の幼少時代と同様に母后が仕切りました。父親(ルイ13世)も9歳で即位(1610~1643年)しています。 

この幼少時代、母后の腹心が支配階級の仲間、大貴族の権力を奪う政策を行い、貴族から乱を起こされ・・・腹心も、国王一家もパリを脱出、各地を転々とした辛い経験があり・・・ルイ14世は終生パリを嫌ったといわれています。 

ベルサイユ着工後の1664年に、当時の宮殿・ルーブル宮 東正面改築の設計を、超有名人・バロックの王者としてヨーロッパ中に君臨していたベルニーニをパリに招いて依頼しています。 

しかし、そのベルニーニの案は何と不採用になります。何かがあったのでしょう・・・ 

この宮殿にもベルニーニの作品があります。・・・(後程、ルイ14世の胸像の所で) 

現在の形に完成したのは、ベルサイユ宮殿着工後200年、19世紀の前半と言われています。

・・・・・

宮殿2階、北西側に豪華な国王の七つの部屋(各部屋の呼び名は多種あります)が続きます。自称太陽王 ルイ14世がイタリアの宮殿を参考に、権威の象徴として豪華絢爛な装飾を施しています。

ヘラクレスの間に続いて次が、「豊穣の女神の間」・・・夜になると軽い飲み物が提供された場所とあります。(パンフレットより)

古代ギリシャでは人々に土を耕す人間に、収穫という贈り物を与えてくれる女神様として古くから親しまれ豊穣の女神・偉大な女神とされています。

写真を省略し次の間・・・

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「ヴィーナスの間」 天井に「ヴィーナスが神々と精霊を従えた絵」が描かれていますが、古代ギリシャでは金星(ヴィーナス)と関連付けられています。

ヴェルサイユ宮殿全体の装飾のインスピレーションが惑星としての太陽系に求められているからです。(ヴェルサイユ・国王の大居室から)

主役はルイ14世の青年像(ギリシャ神話のイメージでしょう);右手は指揮杖、左手にはメヂューサの盾と言われるが? ジャン・ヴァラン作

・・・

次の間に進むと、「ダイアナ(月)の間」「ディアナの間」 古代ギリシャでは、狩りの女神ディアネ、天井中央部分に航海と狩りをするディアナの絵が描かれています。

天井から正面の壁面へと視線を下げ、この部屋を見渡す

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ルイ14世の頃、この部屋はビリヤードの間として利用され、拍手を送る夫人たちのために二つの壇が作られ、王の素晴らしいプレイのたびに拍手が送られ「拍手の間」とも呼ばれたともあります。

そして正面の壁、中央台座の上に

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風薫る男性像 ・・・ これも、ルイ14世・・・胸像が置かれている。

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何となく・・・優美、これがベルニーニの作品です。1665年作

1665年、フランス国王ルイ14世に招かれローマを立ちます。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、満66歳、頭脳と手先を使っている方は、ミケランジェロもそうですがこの年でもまだまだ現役です。 

多くの商業都市を抱えたイタリアに比べフランスは農業国、発展途上であり、パリも芸術の街にはほど遠い時代でした。 

ルーブル宮の改築案、ベルニーニはルイ14世の希望を入れプランを出すが、芸術よりは実用性・快適さを主張する監督官コルベールと対立します。 

ここはフランス・・・第3案は?・・・このプランを国王が気に入り決定したそうです。 

しかし、コルベールは、その後決定を引き伸ばす。・・・この間ベルニーニは、国王ルイ14世を・・・20代の若き英雄として、胸像の制作を開始しています。  

発展途上のフランス人からは、傲慢とも思えるイタリア人に対抗意識が強く、国王の主席画家や王室建築家、宮廷人らと、コルベールは決定していたベルニーニの案を・・・闇に葬る。

 当時のイタリア半島出身の芸術家は、仕事の依頼に対して前払いを要求したり、フランス宮廷の人間をあまり信用していなかったという話があります。

 ベルニーニは、満82歳を目前にして1680年11月28日亡くなっています。

そして次は、火星(マルス)の間
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天井画は、狼たちが引く戦車に乗ったマルスが描かれています。

他にも左右に豊穣、至福、勝利など多くの作品が掲げられ、側面の壁には

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「ルイ15世」と、そして「マリー・レクザンスカ」夫人の肖像画が掛けられています。作 カルル・ヴァン・ロー

ルイ15世は、2歳の頃父が亡くなり、5歳の1715年には叔父のルイ14世が亡くなり、叔父と同じ5歳で王位についています。7歳年上のポーランドの王女マリー・レクザンスカと、15歳で結婚しています。

政治は人任せ、愛人を多く持つことが趣味。私生児61人?。第二夫人(愛妾)は公式な席に同席するので、宮殿には愛人の売り込みも多く、高級娼婦から身分を貴族に捏造し、晩年の王に愛妾としてジャンヌ(デュバリー伯爵夫人)を宮殿に送り込んだ話も有名?・・・

国王の死期が迫ると愛妾の利権に集まった人々が一気に離れていきます。愛妾が宮殿から追放されるからです。

容態の悪化を悟った国王は、・・・地獄に落ちる事はできない。聖職者を呼び・・・神の許しを受けなければ・・・カトリック教は愛妾との生活は罪であり認めていない。

ルイ15世の告解(コッカイ)は王子によると16分かかったという。間もなく64歳で天然痘により亡くなります。

・・・この時代、カトリック教会の腐敗・堕落は相変わらず続き、高級僧侶は国土の10%を所有し、農民から吸い上げる税金で豪華な生活を送る特権階級でした。約12万人(0.05%)くらいでしょうか、第一身分と言われます。

カトリック以外の新教は、どうしてたのでしょう? ルイ14世の先々代が新教徒の弾圧を止め、信教の自由を認め(1598年)ていますが、・・・・その後、ルイ14世の愛人(カトリック信者)が信教の自由を廃止するよう王に迫り、廃止(1685年)が決まると中産階級が多かった新教徒は大量に国外亡命しています。

特権階級には、第二身分の貴族が約38万人(1.5%)、他は第三身分・・・金融業・武器商人や、奴隷貿易で稼ぐブルジョワが100万人、農業以外の職人・労働者の庶民が200万人、農民が2、300万人(約85%)

ルイ14世の時代でフランス人の読み書き能力は30%未満、女性は男性の半分、

ルイ15世の時代1790年頃で男性が47%、女性が27%くらいのようです。

次が、「マキュリー(水星)の間」、「メリクリスの間」

天井画は、2匹の雄鶏が引く戦車上のメリクリウス が描かれています。寝台が豪華で「寝台の寝室」とも呼ばれています。

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豪華なベルサイユ宮殿を建てたが、戦争をするたびに資金調達が厳しくなり、装飾的な寝室の調度品、銀製机・鏡・薪載せ台・銀細工のシャンデリア、銀製の手すり、金銀の糸で織った織物・・・ルイ14世の時代から、次々と手放すことになったようです。

アポロン(ギリシャ神話の太陽神)の間・玉座の間、

・・・ルイ14世時代は絶対王政の最盛期、ボシュエの王権神授説を王が採用し、地上において神を代表するものとして絶対的な権力を持つことになる。

 自らを太陽系の中心、太陽になぞらえたから「太陽王」とも呼ばれる。

この部屋が最も豪華だったようです。天井画は、アポロンの太陽の戦車 作:ラフォッス、

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ベルニーニがパリに来る1年前の1664年に国王の首席画家となったル・ブランが、最初の王宮装飾をこの部屋で担当しています。しかし、完成は19世紀にドラクロワによってとあります。

鏡の回廊(1679-84年)、平和の間と戦争の間(1685-86年)などもその後担当していますが、高級官僚だったコルベールと共にベルニーニの作品を葬ったル・ブランも、コルベールが1683年に死去すると、ライバルが重用されるようになり、以後はキャンバス絵に専念しています。(ベルサイユHP)

次は角部屋の「戦争の間」、そして、長い「鏡の間」があり、その先の角部屋が「平和の間」と続きます。

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壁に飾られた楕円形の浅浮彫りは、ルイ14世が敵を蹴散らしている姿、・・・天井画はフランスの勝利をたたえ、周りは敵国ドイツ・スペイン・オランダの敗者が表現されています。

次の「鏡の間」、鏡の回廊、大回廊とも呼ばれる

宮廷人や外部からの訪問者の通路、待ち合わせと出逢いの場所として利用されていました。

「戦争の間」から「鏡の間」を

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時に儀式の場(外交使節団の接見や王族の結婚式の舞踏会・遊戯)で最大限の威光を示すには、奥の平和の間に続くアーケードを閉じ、玉座は回廊奥の壇上に設置された。

向かって右が広大な庭園で手前に二つの長方形の水面があり、光の反射が回廊を明るく照らしています。

回廊の左に手前から「閣議の間」、中央左に「王の寝室」、その先左に「牛眼の間」があります。

回廊に入ろう・・・

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回廊中央から、入口方面の天井を眺める。

天上の絵画は、ルイ14世が、1661年戴冠以来18年間の政治・経済、成し遂げた偉業、戦争・外交・フランス王国の歴史などが描かれています。省略

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回廊中央から、反対側の「平和の間」のほうを眺める。

全長73m、幅10.5m、高さ12.3m、回廊の各々の窓の正面(回廊の左側)に、整然とアーチが掛かった17のアーケードが並び、このアーケードに当時貴重な鏡が合計357枚も使用されています。・・・鏡の回廊です。

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宮殿建築には多額の国費が投入される、公共事業でしょう・・・フランスのガラス工場が発展します。(晩年には、支払いが遅れるのが普通になり、業者は割増しの請求をすることになる)

そして、回廊の中央部左、鏡のアーケード裏側に王の寝室があります。王の起床・就寝も毎日の儀式であり、王の寝室の隣に従者の控えの間があります。

控室の一つが「牛眼の間」楕円形の窓が牛の眼のようで・・・、豪華な室内・・・省略、そして隣が

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「王の寝室」・・・コの字型の宮殿中央部で東に面している。寝台に朝日が差し込み・・・太陽がこの寝台を中心に昇る・・・

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このブルボン朝(ルイ王朝) 国王は、行政・司法・軍事全ての分野で貴族などから制約を受けない、絶対的に王の権力(統治権)を行使できる体制を目指した。

 

この絶対主義を正当化するために、王権は神から直接与えられたもので、神以外に一切の責任を負う必要が無いと主張している。

 

ルイ14世、太陽王・・・王の法令を批判する貴族に対して、「我を措(オ)いて国家はない。国家、それは我(君主)のことである」と述べたと、当時の啓蒙思想家の書にあるそうです。

1715年9月1日、扉上に「洗礼者ヨハネ」「マグダラのマリア」など数々の絵画が掛けられているこの寝室で、ルイ14世は亡くなっています。

臨終の言葉・・・「ああ、私は馬鹿だった」とつぶやいたとか?・・・国家の財政破綻を気にしていたのか?・・・朕は最後の審判で復活できるか?と気にしていたのか・・・。

パリの大司教を呼んで、告解(コッカイ)をしたんでしょうね?・・・、国王が罪業とした本人の判断基準を、側近が記録に残してほしかったですね。

太陽王ルイ14世が77歳で没したとき、国民は歓喜の声を上げたといわれています。当時、王族・君主制度があるのはあたりまえで、庶民から大きな反対はなかったと思われます。

・・・、生まれた時と同様に、亡くなった知らせに歓喜の声が・・・・と記録に残されると・・・。すでに、フランス革命の芽が、啓蒙思想が生まれていたのでしょう。

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暖炉の上 アントワーヌ・コワズヴォ作 ルイ14世の胸像

続いて、・・・「閣議の間」・・・省略

金に糸目をつけずひたすら豪華絢爛に飾り立て、天井画、肖像画、絵画に埋め尽くされた部屋を見続けて、・・・皆の者、我はこのように権力があり、地上においては神として崇拝され、やがて太陽王として神話となる・・・偉大な国王だ!・・・と何度も聞かされ、見飽きてしまった。

回廊に戻り、庭園を眺めよう・・・
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人口の運河?が見えてきた、解りやすい、大きいことは良いことだ。

この宮殿は、昔訪れているが、ルイ14世が国費を使って豪華な私邸を造らせた。自己PRの豪華な館。その程度のイメージしか残っていないのは、有名な当時のトイレ事情が印象に強かったからでしょうか。

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王妃の寝室

南の大花壇に面し、歴代の王妃はこの部屋に常に住んでいたので、室内装飾は何度も模様替えをしています。

1789年からのフランス革命で、豪華な家具類は競売にかけられてしまいます。今日、買い戻しもしているようですが、(有名な観光資産ですから、継続的に設備投資をしなければ・・・)

寝台と手摺は、過去の資料をもとに再度彫り直しされました とあります。

この織物は、多分保存されていた下絵をもとにリヨン(ペルシャや中国ではない)で新たに織り直された物でしょうか。リヨンは絹織物の産地で、非常に高価な製品が主流で、この宮殿だけでも相当の金額です。

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ベルサイユ宮殿と言ったら、マリー・アントワネット(1755年11月2日~1793年10月16日没37歳)。

1770年5月16日、未来のルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日没38歳)と14歳で結婚。出身はオーストリアの皇女です。

14歳と15歳のカップルですがもちろん政略結婚で、当時女性は15~20歳で結婚しています。

マリー・アントワネット・・・宮殿に住んで驚いた、叔父の国王ルイ15世が鼻の下を長くして、美人の愛妾ジャンヌ(デュバリー夫人)と政務を行なっている。

叔母(叔父の妹達)VS愛妾VS王太子妃の構図になり、夕食後、賭け事の遊びも愛妾は好きで数千万円負けたり、幼くして宮殿内での交際は苦労が多かったようです。

更に夫(王太子)にも問題があり、夜遊びに熱が入った・・・あきらめていたが20歳頃、嫌がっていた包茎手術をしたので1778年、結婚後8年目にして長女誕生、81年長男、85年次男、更にその後次女と4人の子供が誕生しています。

さて、マリー・アントワネットの肖像画は数多くありますが、この絵は

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「会食の間」マリーアントワネットとその子供たち

右側の子供が指をさしている物は、「ゆりかご」・・・ここに産まれたばかりの赤ん坊が描かれていた・・・しかし絵が完成する前に次女が亡くなってしまった。描きかけの顔の輪郭が見えるとか

夫の話を・・・ベルサイユ宮殿最後の君主:ルイ16世はルイ15世の孫に当たり、兄二人が亡くなり1774年、20歳で王位を継いでいます。

ルイ16世は、王室では大豚とか呼ばれ、人は良いが決断力が無く、意志の弱い人物のようです。一方王妃は、首筋をスッと伸ばした気品の良さで、立っても座っても美の女神の彫像と言われた。

・・・この当時、宮廷は腐敗と堕落が続き、財政赤字の埋め合せで度々公債発行(借金)をしています、しかし宮廷の贅沢・浪費は続き、当然風紀も乱れ、いやギリシャ神話風・自由恋愛でしょうか・・・(ルイ16世は、愛妾は持たない)

ルイ王朝の衰退は、以下の一言で良く表現されている。

リシュリー公はルイ16世に向かって「ルイ14世陛下の御世では、人は口がきけませんでした。先代ルイ15世陛下の御世では、人は小声でつぶやくのがせいぜいでした。しかし、陛下の御世になってからは、大声でしゃべっておりますぞ!」

・・・年月が過ぎ・・・

国王として15年、1789年6月3日、自分達の長男(王太子)が亡くなり、パリ大司教にミサを依頼したいが、王室にはお布施にする金が無い。

国王(夫)は、王妃に銀器を売り払ってお金を用意しなさいと命じたそうです。かつては利権で近寄る者たちに、10億円、50億円とバラ撒いていたのが夢のよう・・・

時代が思想を創りだす・・・啓蒙主義運動(無知蒙昧(ムチモウマイ)な状態から人間を啓(ヒラ)く)・・・ヴォルテールは教会の伝統的権威や特権階級を批判し、ルソーは、人間は罪を背負って生れていない、自由なものとして生まれたと説く・・・

特権階級(第一身分の聖職者、第二身分の貴族)が全人口の約2%で、98%の人間を支配していた。議会に参加することがほとんどなかった第三身分(98%)に170年振りに招集の声がかかった、庶民の不満を抑えるセレモニーだ。

しかし、ここから、予想もできなかったドラマが、多くの血が流され展開する。

芝生瑞和著 フランス革命から抜粋

招集される議会の構成は、第一身分300名、第二身分300名、第三身分300名、計900名・・・このままでは第一・第二の特権階級連合には、98%の国民(第三身分)代表は勝てない。

第三身分は、招集される代表者の人数枠で、特権階級と対決する。結果、第三身分は倍増の600名となり、・・・選挙が交付される。

1789年5月2日、決定した三部会(第一身分・第二身分・第三身分)の代表達が、このベルサイユで国王に謁見する。

この時点で議会の採決が多数決で決定するのなら第三身分に勝てる可能性も残るが、部会別での決定では代表者の人数は関係なくなり、特権階級連合で可決される。

代表者の資格審査で直ぐにもめた。部会別での資格審査を求められ、第三身分が合同審査を要求、・・・この第三身分の抵抗で1か月が過ぎる・・・。

実力行使・・・第三身分が一方的に合同審査を開始する、参加しない者は放棄と見なすと宣言。招集する議会名を国民議会と決定。

6月19日、第一身分だが、現実は2/3の205人が下層の僧侶(司祭)で聖職者が割れ、僧侶部会が国民議会に合流。

24日 国王は、国民議会を武力で解散させようとして近衛兵を送ったが、進歩派貴族が剣を手に立ち塞がり・・・断念する。

25日 貴族議員47人が国民議会に合流。国王は数万の外人傭兵部隊を動かそうと・・・、

26日 王権側の貴族・僧侶が、国王に国民議会招集を進言。国王は国民議会招集に譲歩し同意するが、一方でパリとベルサイユに3万を超える軍を集結。

27日 優柔不断な国王は、貴族・僧侶の両部会議長に国民議会に合流するよう勧告をする。国民は選挙で政治意識が高まり、各地で集会が開かれる

29日 市民軍の動員計画、パリには60地区あり、各地区から800名…何と4万8千名の机上計画ができる・・・武器が欲しい・・・

7月7日 憲法制定委員会ができる。

8日 国民議会でミラボーが国王に軍の撤退を要求する提案を演説し、議会は国王に書簡を送って軍隊の引き揚げを要求。

9日 国民議会は立憲国民議会と名を改める。

10日 国王回答、議会の守りに軍を召集した。いやなら議会をパリから90㎞離れた軍の集結地に移す。

11日 国王、財務総監ネッケルを罷免、反動的なブルトィユ男爵任命

12日 29歳無名の弁護士がアジ演説・・・「ネッケル解任は国民への侮辱だ。愛国者たちが虐殺されようとしている。今すぐ武器をとれ、武器をとれ・・・」群集が興奮し、街頭を練り歩く。

夜、54の市民税取立所の内40が炎上した。武器商や貴族の邸宅から武器を探す人々。

13日 パリ市長、妥協して市庁舎の小銃360丁差し出す。市長は廃兵院にも武器を出すよう要請。しかし、院は応じない。

翌7月14日・・・・・(この日が今日の・・・・・パリ祭、花火が上がり市民革命記念日・・・バスチーユ奪取の日となる)

群集が廃兵院(礼拝施設と病院が一体の施設)とバスチーユ(古くは軍事要塞・当時は刑務所)を襲った。

AM9:00~10:00頃、武器を求めて廃兵院へ押し寄せた群衆(7、000~40、000人)と幅がある。やがて市庁舎から代表が廃兵院長官に武器の引き渡し交渉を・・・交渉中に群衆がなだれ込む。抵抗はない。地下から32,000の銃、12門の大砲と白砲が持ち出され銃はその場で分配された。

*近衛兵が駐屯する国王の私有地で、兵士がいるので武器もあるだろうと群衆が押し寄せた。

 *一方バスチーユは、400年も前に建てられた軍事要塞を17世紀に国立刑務所になり、王制反対の政治犯などが入れられていた。しかし、この時たったの7名、(4名は偽金造り、2名は精神異常者、1名は近親相姦の貴族)

AM10:30頃代表が要塞内で司令官と交渉、廃兵院から武器を手にした群集も押し寄せてくる。進展しない、群衆が中庭に侵入し戦闘が始まる。

第二の城門が突破できず数時間、午後遅く数門の大砲が到着、砲が門に向け発射され・・・要塞内に侵入した。相手側1名、市民側約100人の死傷者と70数名の負傷者、囚人7名は解放された。

司令官は殺され、勝利の行進の先頭で槍の先に首が掲げられた。市庁舎の前であいまいな態度の市長が射殺され首が槍の先につけられた。バスチーユから連行された3人の士官と3人の廃兵も殺された。

選挙人たちの自治体が市の権力を握り、市民軍の赤・青にブルボン王朝の白を加えた3色の帽章を国民衛兵のシンボルにする。・・・トリコロールカラーが誕生した。

・・・眠っている国王のもとに急報が届く。

「バスティーユが奪取されました。要塞司令官ロネーは殺され、群衆はその首を槍に刺して町中を行進しております。」

「では、反乱だな」

「いえ、陛下、革命でございます」

・・・

1789年8月26日 「人間および市民の権利宣言」・・・人権宣言が立憲国民議会で採択された。

10月4日 パリの主婦6千人「パンをよこせ」デモ行進、パリの市民軍2万人も続き、ベルサイユの国王・議会に、一部は侵入し「王妃の控えの間」まで侵入、マリー・アントワネットは国王の居室に逃げ込む。何人かの死者も出た。

国王ベルサイユ宮殿を捨て、パリに遷都することを同意する。夜10時パリ・チュイルリー宮殿に入る。

1790年7月14日 第1回 パリ祭

1791年6月20日 国王一家、国外脱出を図り、翌日捕らわれ・・・失敗、パリに連れ戻される。

1793年1月20日 ルイ16世に死刑の判決、翌日処刑。

(国王の裁判:1月14日 ①「有罪か否か」:683対28(棄権5)、②「国民投票で承認が必要か否か」:292対423(欠席29、棄権5)、③「死刑にするか否か」:387対334・・・但し、執行猶予付き死刑賛成が26、これを反対に含めると、③’361対360 1票差(従兄弟のドルレアン公は賛成)・・・・・④死刑を猶予すべきか否か・・・結果:No(否)・・・・死刑が確定した。

同年 10月16日 マリー・アントワネット、コンコルド広場で処刑。

・・・・・

ギロチンによる公開処刑、印象に強いですね・・・パリで正式にギロチンにかけられた人数:2600人、フランス全土では1万7千、あるいは4万人という数字があるそうです。多くの血が流れた・・・。

その後も、1796年3月11日 ナポレオンのイタリア遠征始まる。

1798年5月19日 ナポレオンのエジプト遠征始まる。

1804年12月18日 ナポレオンの戴冠式、

ルーブル美術館の作品と衣装などで若干異なっています。

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宮殿南側1階でマカロンを購入し、庭園に回ってみる。

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案内図

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80mと南北に延びた翼を持つ大宮殿、

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この丘には水源がなかった・・・10㎞離れたセーヌ川から水を引いています。

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さらに広大な庭園、1600m、1000mの2本の運河が直交しています。

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この庭園にはオレンジの鉢が1000鉢以上あります。春の訪れで温室から運び出され指定か所に置かれていきます。宮殿内外、青空トイレ・糞尿対策として消臭剤の働きが求められました。

全身に香水をジャブジャブ掛け、におい玉を持って臭気消しに苦労された時代もあったようです。

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この宮殿は各国に大きな影響を与えています。オーストリア;ウィーンのシェンブルン宮殿、ロシア;サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館、そして、東京港区赤坂離宮(迎賓館)も。

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パリ市内からヴェルサイユへ

2013-05-14 | 旅行記

秋のパリは最高と思うが、美術館や博物館をゆっくり鑑賞するには、すいている冬季が一番。しかし、この時期のパリ、朝は暗いし、天気のすぐれない日も多い。

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凱旋門も寒そう。

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かつて、多分この凱旋門放射状道路の南西にお店があったように記憶するが、シャンゼリゼ通りの一等地に本店を構える日本人御用達の有名なお店

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生活水準が上昇する過程で経験する物欲!、かつては内外価格差が3倍以上もあり、パリで正価で購入し日本で2倍以上で売れた時代があった。ブランド品購入ツアーも人気でした。

今や、ブランド品の購入は日本人から中国人成金に移っているようです。店内インフォメーションで中国語のパンフレットが目立つ。

問題は、メーカーが高級品のブランドイメージをどう保つか、従来の顧客が離れる例は多々あり、対策も必要とフェラーリ社(イタリー・スーパーカー)は、中国で年間500台も購入されたことを深刻に考えているとの報道がありました。

ここの1Fブランド品バッグ売り場でも中国人専用のコーナーがありました。

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このヨーロッパ最大の老舗デパートは、吹き抜けの天井にこんなものを取付けて有名になりました。

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天井を見上げる人人人・・・、照明が変わると

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1912年、ステンドグラスと鉄骨でドームが構成されています。

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そしてこのデパートの一ブロック前が有名なオペラ座、(裏側になるので)反対側に回るとライトアップされていた。

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このオペラ座もギャラリーラファイエットと同時期に建造され、重要な歴史的建造物となっています。

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サザエの類似品? を頂き、街中ブラリが希望だったが・・・かつてのフランスの成金、いや「王は神の代理人」・・・神に選ばれた人が住むという宮殿に、美術品を見に行こう。

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ベルサイユ宮殿・・・ルイ14世の騎馬像を横目に石畳の上をゲートに向かう。

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元々は1624年にベルサイユの丘にルイ13世が建てた小さな狩猟の館。パリ市内から南西に22km位の位置にあります。

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奥のゲートを通り右側の玄関ホールから2階に上り、ヘラクレスの間へと進む。

大きな絵画が現れる。ヘラクレス?の間?、ギリシャ神話と違う重い雰囲気・・・

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これは「シモンの家の宴」と言われます。・・・どこかで聞いたような・・・イタリア、ヴェネチアのパオロ・ヴェロネーゼ作・・・時代は、1570年。ヴェネチアが繁栄のピークを過ぎた時期・・・

ヴェネチアのセルヴィテス修道院の食堂に掛けてあったものを、1664年に時の総督がルイ14世に贈ったもので、トルコに攻められ対抗する支援を要請するためのものでした。

まだ天井画も完成していないこのヘラクレスの間に、1712年に取り付けられたとあります。

アーチが架かった天井一面にギリシャ神話・・・描かれています、鮮やかな彩色で・・・こん棒を持つ巨人がいます・・・ヘラクレスの栄光を描いたといわれます。

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1736年頃完成したようです。フロンソワ・ル・モワーヌ作、・・・特徴は画布を天井に糊で貼り付ける手間のかかる方式だったようです。

こちらは、隣の礼拝堂・・・天井画が続き、目線の先一等地、正面奥にパイプオルガンが見えます。

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ここは2階、パイプオルガンの真下が何と祭壇になります。王は特別な場合以外はこちらの2階特別席から礼拝しています。祭壇の真上にオルガン、その上方半円形の天井画にはキリストの復活が描かれています。

手前の丸天井には父なる神が、王の特別席の上には三位一体の三番目の位格とされる精霊の降臨が鳩によって描かれている。

これらの事も後の約束事・・・降臨・・・「白い鳩の姿」、「上方からさす光線」で現わされる。

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これは、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂 聖ヘレナの像に似ている

案内図があるので場所を確認しよう。

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ヘラクレスの間から鏡の間を通り、東側までコの字に公開されています。

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ルーブル美術館 絵画編2

2013-05-02 | 旅行記

エロス(ギリシャ語)がローマ時代にクピド(ラテン語)と呼ばれヨーロッパに広まり、キューピッド(英語)で世界に広まる。

アフロディテも、ラテン語でウェヌスと呼ばれていた。ルネッサンス時代再びギリシャ文明に光が当たるとアフロディテと呼ばれたり、ウェヌスと呼ばれたり・・・やがてヴィーナスが主流になる・・・「美と愛の女神」・オリンポスの十二神も国際化するにつれ呼び名も変わり・・・困っていることでしょう。

ヴィーナス、女神:優しい柔らかい響きですね!しかしギリシャ神話では、神は(人間の?)強欲をストレートに表現しています。

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ヴィーナス:美のライバルが現れると、嫉妬心そしていじめが強烈ですよ。 

誕生に秘密があるのでしょうか?・泡から生まれたのです。・・海に男根が漂っていた所の泡から。・・・何故漂っていたのか?・・・・神のその部分が切り取られ投げられた所が海の上・・・切り取られた理由は、遊び過ぎ・・精気のある部品さえあれば、女神は自分で誕生するようです。

さて15世紀末から16世紀ルネッサンスの中心はローマ、ヴェネツィアに移る。ローマでラファエロは1520年37歳で亡くなる。

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(ヴェネツィアのHOTEL、掲示絵画より)

港町・水の都、ヴェネツィアは東方貿易で豊かになり貴族趣味が流行する。ジョルジョーネが宗教画から世俗画に足を踏み出し、ティツィアーノ、ティントレットなどヴェネツィア派と呼ばれる人々が暖かい色彩で豪華な美を競う。

ティントレットと呼ばれる画家は「小染物師」と言う意味のようです。父親が染物師で息子は小染物師・・・近隣の人々が家業で呼ぶのは一般的でしょうが、画家名・通称「小染物師」のままでは他の染物屋が困ってしまうでしょう。本名は、ヤコポ・ロブスティと言うそうです。

テッツィアーノ 20代後半1515年頃の作 「鏡の前の女」 縦0.93m、横:0.77m 

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テッツィアーノの25歳頃の作品「聖愛と俗愛」は、イタリア・ボルゲーゼ美術館の代名詞としても有名な作品です。ふくよかなモデルは一緒のようです。

次もヴェネチィアの画家(生れはヴェローナ)、宗教改革の時代、宗教を口実として風俗画を描くと人気があった。

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「カナの婚礼」 1562~63年頃の作、 縦6.77m、横:9.94m、作者:ヴェロネーゼ(正式名:パオロ・カリアーリ)

総勢130人、16世紀のヴェネツェア、当時の宴会のシーンが描かれている。左端のテーブルに手前から新郎新婦が並び、横には当時の著名人、フランソワⅠ世、スレイマン1世、君主カール5世など

中央手前の楽団員には画家仲間が、左からヴェロネーゼ、パッサーノ、ティントレット、ティッツアーノ。

中央にイエスとマリアを描けば宗教画となったのでしょうか。カナの婚礼とは・・・

新約聖書 ヨハネ福音書に「ガラリアのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも婚礼に招かれた。葡萄酒が切れると、・・・イエスが空の水瓶に水を満たさせた。とあります。・・・

イエスが「それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」・・・すると水が葡萄酒に・・・イエスが奇跡を起こした最初の物語。

絵の題名は宗教画風だが、登場人物、時代背景は現代のヴェネチィアの宴・・・他に「シモンの宴」、「レヴィの宴」・・・これが宗教画と言えるのか?と、宗教裁判所で問題になる。

「シモンの宴」は、・・・画家が何を描こうと自由だと主張するが、裁判所から一部を描き直すように命ぜられている。

「カナの婚礼」はその後、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会修道院食堂から、1798年ナポレオン軍が戦利品として持ち帰ってルーブルに展示されている。

・・・

カラヴァッジョの作品が3点ほど展示されています。内2点を

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「女占い師」 (失礼:右側のブルーは色かぶり) 1595~98年頃の作品 縦:0.99m、横:1.31m ミケランジェロ・メリージ 通称:カラヴァッジョ 20代中頃の作品

ローマ時代、依頼主(顧客)は貴族階層の収集家やスポンサー、・・・この時代は聖書、ギリシャ神話、歴史物以外の題材も多くなり風俗画も人気があった。

しかし、宗教画、歴史画以外は殆どの知識人から批判される時代でもあったようです。

この絵のモデルも貴族階級の若者でしょう、女占い師が手相占いをしながら指輪を抜き取っていると説明されている有名な作品です。

カラヴァッジョの宗教画は、光と影の演出効果、構図がドラマチックで、モデルを使った写実主義が徹底し、迫力のある作品が沢山あります。

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この作品は「聖母の死」 1601~1606年頃 縦:3.69m、横:2.45m 大作でありローマのサンタ・マリア・デラ・スカーラ聖堂からの依頼であるが、レオナルドのように受け取りを拒否されています。

聖堂からの依頼です・・・天使が持ってきた棕櫚(シュロ)の枝、聖母は蝋燭(ロウソク)を手に持ち・・・北方ルネサンス絵画ではこんな約束があったようです。

ここはローマ、多少は自由が・・・しかしあまりにもリアルな写実主義に、依頼主は不快感を持ちます、話題にはなるが掲示すれば批判が押し寄せるでしょう。

この絵もモデルがいるの?・・・溺死した女性との説があります?・・・年老いたマリアが昇天した・、しかしモデルは、まだ若い・・でしょう、衰弱は無く、むしろむくみや皮膚のたるみ・・・観察が鋭くリアルですね。

カラヴァッジョは、人間・聖母の死を描きたい、教会が希望する単なる宗教画は卒業したのでしょう。

次の作品、大きい頭は、カラヴァッジョの自画像と似ていますが、旧約聖書の話ですネ。

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「ゴリアテの首を持つダヴィデ」 、この作者は、グイド・レーニ 1575-1642年、ラファエロの再来と言われた画家。

ローマで活躍していた時代、1601~05年頃の作、縦2.2m、横1.6m。 

時が流れて、かつてのフランス栄光の時代、為政者は歴史に名を残したい・・・、宮廷画家の出番です。

この大きな作品の前にジャケット姿の紳士が・・・彼も画家のようです。

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ルーブル美術館は、画家を育成しています。しかし、館内でこのように長期間模写するには力量が必要で審査があるようです。

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「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠」 1806~7年頃の作 カンヴァス 縦:6.21m、横:9.79m 

日時:1804年12月2日、場所は、ノートルダム大聖堂の内陣 戴冠式典の記念に皇帝首席画家に依頼された。

祝福を授けているのは教皇ピウス7世で、ナポレオンが皇后ジョゼフィーヌに戴冠する場面を描いている。

・・・次のフランスの画家の作品は、時代背景が気になる・・・

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1808年作 題名「アタラの埋葬」 縦:2.07m、横:2.67m

1801年発行のシャトーブリアンの小説<アタラ>はアメリカの一部族の物語で、恋人と結婚できずに、毒をあおる若く敬虔なキリスト教徒の女性が主人公。

葬儀・埋葬の場面・・・宗教とは?宗教の影響力について考えさせられる作品です。

何故結ばれることができないか・・・過去に、神に誓いを立てたから・・・。

・・・神との契約の内容が少し違うが、結婚も神との契約・・従って離婚が許されなかったイタリアで、法律が変わり離婚が認められるようになったのは最近のことです。

一転して、裸婦の画像

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この作品は、ナポレオンの妹のために描かれた、1819年パリのサロンに出展され、一部から批判が絶えない有名な作品。

1814年作 縦0.91m、横1.62m 作者:アングルはモデルの特徴を美化する、強調するために・・・脊髄を3本分付け加えたという有名な話

やはり誇張しすぎで・腰が長い・・気持ちが悪い・・・しかし、浴女シリーズは人気があったようです。

社会派・歴史物・・・

ジェリコー 、問題の作品が見えました。

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1819年作 縦:4.91m、横:7.16m 「メデュース号の筏(イカダ)」 作者:テオドール・ジェリコー

1816年悲劇が起こる、セネガル沖で軍艦メデュース号が沈没する。149人の乗客が筏1枚で生き延びようとしたが、発見されず1日・2日・・・12日後、15人だけが救出された。

この事件から間もなくジェリコーは死刑囚の遺体、危篤状態の人・・・デッサンを繰り返し写実的で地味な演出を考案し、強烈な悲壮感が漂う作品を完成させた。

1819年、サロンでの冷ややかな反応に傷つき、ジェリコー最後の作品となる。(ルーブルガイド抜粋)

補足:遭難の後にこの事件をもみ消そうとしたが、二人の生存者が漂流の手記を出版した。内容は軍艦は嵐で難破し、幹部は三つの救命艇に乗り難を逃れた、残された者が20m×7mの筏に・・・極限状態の人間がどのような行動に走ったか・・、この艦の未熟な艦長を人選した貴族支配者階級に非難が集まる、大きな事件に発展した。

ジェリコーの弟子、若きドラクロアもこの作品にモデルとして描かれているようです。

そしてドラクロワ、日本にも来ました大作「民衆を導く自由の女神」があまりにも有名ですが、この近くで、・・・この作品は、アラビアンナイトか悲劇の物語か?

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1827年作 「サルダナパロスの死」 縦:3.42m、横:4.96m ウジェーヌ・ドラクロワ

バイロンの悲劇:アッシリア王(現在のイラク)サルダナパロスが敵の手に落ちるよりもと女性と側近を虐殺し、宝物を燃やしたというよくある話が題材です。

暴君は臨終の床に、死にゆく瞬間に生涯で得た喜びについて瞑想している。

さすがプロですね、悲劇の物語からイメージを膨らませ、どのシーンをカットし、構図は、配色は、フォーカスは・・・この大作も

フランス革命後の時代で、この作品の大胆さは民衆を当惑に陥れ批判の的となった。。(ルーブルガイド)

フランスの美術館です。作品の収集に戦地から戦利品として数多く持ち帰った功労者、栄光の記録・肖像画を残しました。ナポレオン・ボナパルト

1800年、雪のアルプスで騎馬にさっそうとまたがり、軍隊を鼓舞する姿が有名ですネ・・・。「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト」、ジャック=ルイ・ダヴィット作

本人の評判が良く、3枚描かれました。ウィーン美術史美術館、ベルサイユ美術館、マルメゾン美術館、若干色彩を変えて英雄伝説が残されています。

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あまり迫力がないですか?ポール・デラロッシュ作 1848年、作品名: 「アルプスを越えるボナパルト(ナポレオン)」、ルーブルにはこちらの作品がありました。

1800年、雪のアルプス越えをしました、歴史画です。ロバに乗って一歩一歩大変な進軍の様子が多少伝わってきます。天候に恵まれてロバで峠を越えました。

英雄の史実を後年、実際はこんな感じだったのでしょうとドラクロワ世代が描きました。

・・・さてナポレオンは、埋もれていた悲劇のヒロイン「ジャンヌ・ダルク」を再度、世に紹介しました。

これでヒーロー・ヒロインと役者が揃い、長く歴史に名を残す材料が整いました。


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1851~4年 ドミニック・アングル作 「チャールズ7世に奉献するジャンヌ・ダルク」 縦2.4m×横1.78m ・・・アングル?  有名画家です、もちろん浴女シリーズ以外も描いていました。

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ルーブル美術館 絵画編

2013-04-20 | 旅行記

ヨーロッパの大半で人物画といえば聖母マリア・・・長い長い1000年もの間続いた。キリスト教洗脳時代から我に返り、イタリア フィレンツェではボッティチェリーが脚光を浴び、そして 1452年レオナルドが誕生する。

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世界で最も有名な肖像画、後年フランソワⅠ世が取得し、その当時から「至宝」とされた作品:La Joconde (Monna Lisa)。この美術館のスーパースターの案内が目立つ。

ルーブル美術館では、コレクションが8部門に仕分けされ、内約3万点が公開され、他に企画展で順番に展示されている。(ルーブルガイドによる)

オリエント、古代エジプト・・・関心はあるが・・、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ・・・学習中、ピュアな宗教を持つイスラム、厳しく偶像崇拝を戒め、独自の文化を発展させた。

イスラム芸術だけでも1万点のコレクションがあり、主に工芸品1300点が公開されています。

ヨーロッパは中世の時代、カトリックが宗教戦争で勝ち残り、エロスのギリシャ神話・自然科学の継続発展を認めず、布教のためには偶像崇拝も奨励し、神学も三位一体説を掲げ、異教を弾圧してきた。

そして、教会の装飾芸術のみが発展してきた、しかし教会(聖職者)は俗化し・・・教皇が十字軍を送り込み、長期に渡る聖地奪還戦争・・・結果、敗退することになるが多くの人々が異国の文明に触れ、脱カトリック、宗教改革が起こる。

防戦する教皇派は華美な教会装飾で信者を引き留める・・・ミケランジェロもラッファエロも、教皇はスポンサー。

・・・少し時代を戻すと、13世紀の宗教絵画から発展の兆しが現れてきます。

フィレンツェのウフィッツィ美術館に通称ジオット(ジョット)のマエスタが展示されていて、平面描写に遠近法をプラスして、祭壇部が立体的に見える有名な作品があります。

他に、この作品と同じような構図のドゥッチョ・ディ・ポニンセーニャのマエスタもありました。額縁には、聖人や聖書の登場人物が円形画として30人も描かれている。

もう一人、チマブーエのマエスタも展示されています。

・・・・・

そしてルーブル美術館、ルイ14世の肖像画の先に・・・特徴ある額縁が見えてきます。見たことのあるような作品が・・・

チマブーエ 作品名「(6人の天使に囲まれた)荘厳の聖母(マイエスタ)」とあります。

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この作品も額に、キリスト、天使、預言者、聖人らが26のメダルで飾られている。1270年頃の作 テンペラ画 縦:4.27m、横:2.8m 大作です。

・・・チマブーエはジョットの師匠との説もあります。フィレンツェでは、13世紀人気が高かった画家職人のようです。

当時栄えた港町イタリア ピサのサン・フランチェスコ聖堂に掲げられていました。・・・1813年ルーブル収蔵とあります。

宗教画を描く人々は単なる職人でしたが、商業都市として発展しはじめたフィレンツェで、ジョットは人気が高く、絵画・工芸何でもこなし、晩年自分の名前が残った作品の指揮をとります。

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「ジョットの鐘楼」です。右の大聖堂が完成する100年前、鐘楼の設計をし基礎工事の段階で亡くなっています。1階はジョットのデザイン、2階、3回以上は各々弟子が手がけて完成させました。

鐘楼にジョットの尖塔案は実現せず、基本設計は変更されて完成となりました。しかし、今日でも「ジョットの鐘楼」として、名前が残っています。

・・・・・

キリストの磔刑が見えてきました。この作品、遠近法が見事に完成しています。

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作者:アンドレア・マンテーニャ、イタリア ヴェローナ サン・セーノ聖堂の3連作の一部

これらも、教会の祭壇画で、板絵、縦:0.76m、横:096m 1459年頃の作品。 背景のエルサレム・ゴルゴダの丘の描写は、・・・エッ こんな風景?しゃれこうべの丘は多分違うでしょう、残念。

・・・年代物と思われる額縁、描かれているのは、イエスの像でしょうか?

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両手の手の平を良く見てみると、・・・怪我をされてるようです。頭部からも額を良く見ると・・・

作家は:ジョヴァンニ・ベルリーニ、1465年頃の作、「祝福するキリスト」

手の平は、十字架に打ち付けられた痕跡?・・・埋葬された後、復活したイエスのようです。

・・・時代が進みます。

・・・明るいこの絵は?・・・美術作品になりました。・・・これが、サンドロ・ボッティチェリ(15世紀のフィレンツェを代表する画家)

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1470年頃(23~24歳頃)の作品 通称「バラ園の聖母」・・・「聖母子と少年聖ヨハネ」

彼の最も有名な作品・・・カトリック教の呪縛から解かれ、ギリシャ神話を題材にした「プリマベーラ」春 1478年頃、そして、「ヴィーナスの誕生」1486年頃がフィレンツェにあります。

若干年下のレオナルドは、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修行していた10代にボッティチェリに出会っています。

そして先に進むと、レオナルドの作品ゾーンです。少し暗く重いが優しいタッチの宗教画・・1483年頃~1486年頃の作、作品に光線が映りこんで写真は見難くてスミマセン

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「岩窟の聖母」、この大作はミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂のための三連祭壇画中央部として描かれたが、・・・当時のフランス王ルイ12世に献上された。

この作品は独立前の20代前半の作、レオナルドは、25歳頃独立しています。

師匠のヴェロッキオが多芸多才で画家・彫刻家・青銅鋳造家・デザイナーと手広く仕事を受け、マルチな仕事のできる環境で学んでいます。

近くにあったライバルのボライウエロの工房では、死体を解剖し筋肉構造を研究しています。見に行っているでしょう。

当時、メディチ家、貴族階級、取り巻きの知識人がフィレンツェを実質支配していたが、レオナルドは、メディチ家の援助は受けていないようです。

多芸で名声も高いが、仕事は遅く、途中で放り出される恐れもあり、メディチ家は手が出せなかったのか、・・・レオナルドも、ローマ貴族の宮廷人風の人種と肌が合わなかったのか、政治にも関心は持たなかった。

作品に戻ると中央が聖母マリア、右手で支えている幼子はヨハネ(後の洗礼者)、右の女性は天使で、横にいるのは幼子イエス。

さて完成した作品は何故かフランス王に、・・・依頼者には別途、後日レプリカが制作された。現在は、ロンドン・ナショナルギャラリーに所蔵されている。(ルーブルガイド)

岩窟の聖母・・・右側の天使、女性でしたね。誰?大天使ウリエル?(洗礼者聖ヨハネの守護天使らしい)

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素晴らしいでしょう・・・この天使の素描、レオナルドの素描は、幸いなことに今日多く残っています。何時もスケッチブックを持ち歩いていたそうです。個性の強い人物がターゲットで追いかけまわしたとか。

タイム/ライフブックス、LEONARDOレオナルドより

・・・中世の時代、いつの間にか宗教画には決め事が多くなっていました。洗礼者聖ヨハネには、十字の杖と獣の衣、登場人物には光輪を描くなど・・・

依頼者はレオナルドの作品を、”祭壇画にふさわしくない”と受け取りを拒否したそうです。

レオナルドは、もう一度書き直したのでしょうか?

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タイム/ライフブックス、LEONARDOレオナルドより

・・・構図はそのままに、模写をしました。一部を依頼者の希望通りに描きました。十字の杖も書き込みました・・・レプリカですから本人ではなく、デ・プレディス兄弟が描いたとも言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ ゾーンです。

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その右隣に、1490~1495年頃の作 貴婦人の肖像、ラ・ベル・フォロニエールがあります。

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当時流行の宮廷肖像画風に背景が塗りつぶされています。背景もメッセージスペースです。ベタ塗は、依頼主の希望に沿ったのでしょうか、手抜きでしょうか。

その少し前に制作した、1485~1490年頃の「白テンを抱く貴婦人(愛人17歳)の肖像」の方が有名ですね。

制作順では、1495年~1497年頃ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂食堂の壁面に取り掛かっています。現存する壁画の代表作「最後の晩餐」です。

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並行して、La Gioconda(Monna Lisa)1503年頃から

この至宝の作品は、ここではなくて特別室になります。

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防弾ガラスと柵に守られて、謎の微笑み・・・目線が合いました。

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La Joconde (Monna Lisa)とありました。 1503~1506年頃 縦:0.77m、横:0.53m 板絵

モデル論争があり、主流はフランチェスコ・デ・ジョコンドの妻、リーサ・ゲラルディーニの名前からモナ(夫人)リザ(リーサ、リザ)、Jocondeが「幸せな」と言う意味もあるのでこの美術館は、ジョコンダの作品名なのでしょう。

レオナルドのボカシ技法が賞賛されています。残念なことは、作品に近づけないことと作品の表面の透明ニスが古くなって経年変化で色調が暗くなってきているようです。

写真は、これも作品に光線が映りこみ、アップは作者に失礼な状態でした。

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画集で素晴らしい作品に触れ直してください。50歳前半の作品です。

以後、聖アンナと聖母子像:1508年~1510年頃

レダと白鳥(ギリシャ神話):1510年~1515年頃

イタリア、ボルゲーゼ美術館 (別ブログ)

特徴のある顔立ちの作品が・・・

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「荒野の聖ヨハネ」1510年~1515年頃、これはあまり見かけなかった作品でした。

そして人差し指を天に向けた有名な作品

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「洗礼者ヨハネ」1516年~1596年頃 縦:0.69m、横.57m レオナルド:晩年の最後の作品。

15世紀と16世紀の転換期に見直された明暗描法の完璧な実証であり、ダ・ヴィンチはその先駆者であった。(ルーブルガイドの記述)

・・・ヴェロッキオ工房時代、レオナルドと同年代で一緒に修行し人気もあったペルジーノ、彼の弟子で有名なのがラファエロ・サンティ

レオナルドの影響を受け、柔らかい優しいそして明るい肖像画が・・・ここにもあります。

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通称「美しき女庭師」、「聖母子と幼児聖ヨハネ」 1507年頃 円形板絵 縦:1.22m、横:0.8m

残念ながら37歳の生涯です。その間、数多くの聖母子像を描いています。

尊敬した、レオナルドのボカシ技法、構図、背景、すぐに自分のものにしたそうです。システィーナ礼拝堂で未完のミケランジェロの作品を覗いたり、・・・すぐに頭角を現しルネッサンス三大巨匠の一人に数えられます。

ラファエロ展、6月2日まで、東京・上野 国立西洋美術館で開催中

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ルーブル美術館 彫刻編

2013-04-12 | 旅行記

今日も曇り、雨が降らなくて幸だったがセーヌ川は濁流が流れ、相当水かさが上がってきている。

対岸のオルセー美術館前を見ると、セーヌ川に下り川辺を走る道路は通行止めのようだ。

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さて、今回のヨーロッパ、本命・ルーブル美術館に到着。

・・・4月10日でなくてよかった。ルーブル美術館の職員が暴力的なスリ犯らに耐えかねて200人がストに入った。スリ犯の多くは東欧系で、子供はただで中に入れるので時には30人にもなる。警備強化が約束されたので4月11日は開館するという。

年間1000万人もが訪れるそうで、館内にもスリ注意の貼り紙があった。

ルーブルといえば、すっかりなじんだガラスのピラミッド。

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上の写真は、美術館内部からの撮影です。

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これは、日本語のパンフレット。右上に方位があります。上が北、下が南でセーヌ川が流れている。

中央上部から左の建物が元大蔵省で、この部分(リシェリー翼)が1993年から美術館に使用されることになり、口+門・・・現在の形になった。

門型の東に連なる方形(四角)の建物が、シェリー翼と呼ばれる建物。この建物の南側・古代ギリシャ美術に進もう。

・・・では地下1階のピラミッド真下に

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1989年ガラスのピラミッドが誕生し、ふさわしい・ふさわしくないと大論争になりましたネ・・・

近年この照明が消費電力の少ないLEDに切り替わりました。

そして東芝がCMを流しています。

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ルーブル美術館のLEDは東芝の照明が採用されています。・・・お世話になった東芝さん!

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さて、このルーブル美術館、1793年8月16日フランス革命の喧騒の中で美術館として開館されました。

古代出土品などの収蔵品を整理し、博物館開館も準備されていきます。

1803年、ナポレオンの戦利品が加わりナポレオン美術館の名で開館。

1815年、「王立」となり、接収作品は変換せざるを得なくなったが、1821年「ミロのヴィーナス」が収められるなどコレクションは増えていきます。

地下のナポレオンホールに案内所、チケット売り場があり、

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SULLY の案内板が見える、シェリー翼に入場しましょう。

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右側の階段を登り、紺色の部屋を進む

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昔、地中からお宝がゾクゾクとでてきた。大理石の像、頭がない、腕がない・・・、ここにあるこれは何?

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手、子供の手・・・、作品名:「うずくまるアフロディーテ」 ローマ時代のコピー 

古代ギリシャのオリジナルは、紀元前3世紀頃の作品

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アヒルと戯れる子供、当時の地中海文明は、自由に自然観察ができて、明るい地中海の雰囲気が漂ってくる。

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非常に健康的な作品、多分ローマ時代のコピーと思われる。「カピトリーノのヴィーナス」と類似、オリジナルは紀元前4世紀頃の古代ギリシャ

そして、南の角に通称「ミロのヴィーナス」が・・・コピー品に何度もお目にかかっているが

ルーブル三大貴婦人の一つををじっくり鑑賞します。

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紀元前130~100年頃の作 女神の名は「アフロディーテ」、あるいは1820年にミロス島でこの像が出土、海の神アンフィトリテ では、とも言われる。

現物を、あらゆる角度から観察してみよう。高さ:2.02m

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上体がわずかに傾いて、布が落ちていく・・・合成写真の各々の傾きは多少ブレがあります、あしからず。

理想の美を追求していたのでしょうか、このような状況で驚くこともなく、目線は遠く、悠然と・・・

三大貴婦人の二つ目が、ドゥノン翼の2階に上がる大階段の上に見える。

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翼を広げた貴婦人?・・・頭部が無い、両腕も無い、右翼の上部も欠け石膏で補修されたが間違った位置に再構築されている。(ルーブルガイドによる)

「サモトラケのニケ」高さ3.25m 紀元前190年頃の作品、灰色大理石、エーゲ海の北東サモトラケ島で破片の状態で発見された。

一説では船の甲板で手を広げ、衣装が波しぶきで張り付いた瞬間、・・・勝利を予告しているとも、遭難を避けたい守り神とも言われています。

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「勝利」:ギリシャ語でNIKE(ニケ)、サモトラケで発見されたNIKE、スポーツ用品のNIKE(ナイキ)の社名はここからきています。

ドゥノン翼(南棟)の中央に最後の貴婦人「モナ・リザ」がありますが、その前にモナ・リザの真下1階に戻ります。

ここから西側ゾーンが、16~19世紀のイタリア彫刻、その先に17~19世紀の北方彫刻があります。中央部に段差があり門が据え付けられています。

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階段を下りると、イタリアの有名人 「ミケランジェロ」の作品。

二つの作品は、ローマ教皇ユリウス2世の巨大な霊廟を飾るはずであったが、構想は変更され、大理石に現れた欠陥もあり同郷のロベルトに渡され、さらにフランス国王に贈呈された作品とあります。

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作成年代:1513~1515年 高さ2.09m 作品名「奴隷」あるいは「囚人」


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ミケランジェロは、ユリウス2世からシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられています。

ユリウス2世の死後色々あり、これらの作品をどのように解釈するかも難しいですね。

・・・会場の雰囲気を、・・・奥にイタリアの門でしょうか年代物が見えます。


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右奥に人混みがある。

高さ:1.55m、幅:1.68m、奥行き:1.01m

作家:アントーニオ・カノーヴァ(1757~1822年) ローマ、1793年頃作成

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作品名:「クピドの接吻で目覚めるプシュケ」(ルーブルガイド)、あるいは「クピドとプシュケ」

プシュケの物語? プラトン哲学? ギリシャ神話?

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背中に羽根が生えている男性・・・天使ミカエルでしょうか? クピド=キューピット(英語)、エロス(ギリシャ神話)=クピド(ラテン語)・・・やはりギリシャ神話にでてくる弓と矢をもった愛の神

これがギリシャからローマ神話に引き継がれるとエロスはクピド(愛欲)と呼ばれる。

プシュケは、ギリシャ神話では、人間の女性として登場します。

学習院大学名誉教授:吉田敦彦氏の「ギリシャ神話」で調べてみましょう。(抜粋)

ある国の王の三人姉妹の一番下がプシュケ、その美貌は完ぺきで「美の女神」として評判になり大勢の人が拝みに来る。

その評判に憤慨した美の女神アフロディテが、息子のエロス(=クピド:背中に羽根が生えている)に、プシュケに災いを与えるように命じる。

しかし、エロス自身がプシュケの美しさに心を奪われ、二人は結ばれる。

二人の関係に気付いたアフロディテは、プシュケに災難を与え、数々の難題を命じる。

アフロディテから命じられた数々の難題を、エロスに味方するさまざまなものに助けられ、乗り越えるプシュケ。

そして最後の難題、死者の国から持ち帰った箱、絶対に開けてはならないと言われた箱を開けると(浦島太郎ですネ)・・・箱に入っていたのは「眠り」でした。その場に倒れ動かなくなってしまった。

エロスがプシュケを見つけ「眠り」を彼女からすっかり取り去り元の箱に戻した。そして手に持った矢で、傷つけぬようにそっとプシュケを突いて、起こしてやった。

エロスは、ゼウスの元に飛んで行き、人間プシュケとの結婚の許しを直訴した。ゼウスは承諾し、アフロディテにも承知させた。プシュケを天上に連れて来させ「不死の飲み物ネクタル」を授け、神々の仲間入りをする。

人間プシュケはついに不死の神となり、神の妻の座も射止めた。

ギリシャ神話、聖書の物語がヨーロッパの絵画・彫刻・芸術に数多く登場します。このギリシャ神話からも数多くの場面が切り取られています。

「クピドの接吻で目覚めるプシュケ」・・・nnnn 接吻で目覚める?・・・矢で突いたでしょう!・・・この位のアレンジは許容範囲なのでしょうネ。

プラトン哲学に関心はあるが、暗黒の中世からルネッサンスの時代がやはりドラマチックですね。

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モン・サン・ミッシェル修道院その2

2013-04-02 | 旅行記

北隣の回廊は他の建物につながる通路の役目も果たしています。食堂、共同寝室、古文書保管室、さまざまな階段へと行くことができます。

2列に並べられた小さな柱は、わずかにずらされ、常に変化する視覚効果を作りだしています、とパンフに記されています。

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ここは北側の斜面に13世紀建てられた3階建ての建物の3階。修道院には修道僧の瞑想と祈りの場のために回廊が造られている。

尖頭アーチが採用されているゴシック様式で、全体を軽量にするために屋根は木片、柱も細く柱頭アーチ部には葡萄などが彫刻されている。柱頭彫刻、アーチはロマネスク様式の修道院に多く見られる。

驚くのが、屋根の軒にクリヤーランプ(昔の透明ガラスの電球)が垂木(タルキ:屋根の傾斜に沿って取付けられている補強材)と垂木の間に電線が露出した状態で配線されている。

漏電、雨水によるショート、電球の寿命、消費電力・・・灯の数が多いだけに一昔前の電球が気になった。

この建物の1階は四角い太柱が特徴の部屋で食糧庫に使われているそうで、非公開です。

その上2階が騎士の部屋・・・修道院に騎士の部屋?

北の端から、合成写真を・・・この右側(西)にも増築予定だったが未完成のままとか

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このアングルでパノラマが撮りたかったが、廻廊の屋根上に登れないし、後方は海で・・・

教会の左側に先端がとがった建物は、控え壁と呼ばれる・・・聖堂の外壁を補強している尖塔でアクセントになっている。

東隣の建物に移動しよう。

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ここは、ベネディクト修道士たちの食堂,、最上階で窓も多く光が差し込む。

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片隅に屋根の模型が展示されていた、軽量化のためにここも木造、石積みと同じようにアーチが架けてある。


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両脇には59もの窓があるとのこと。ステンドグラスはシンプルな幾何学模様、現代風でもある。

さて、下の階に行く途中に、このお山に最初に聖堂を建立した人物とサン・ミッシェルの伝説が大きなレリーフになってスポットライトを浴びています。

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西暦700年の始め頃、アヴランシュの町のオベールという司教が夢の中で、大天使ミカエル(仏語・ミッシェル)から「あの岩山に聖堂を建てよ」と命じられたそうです。

夢だった・・・と思っていると、・・・その後、再び夢に現れたそうです。

だが、単なる夢とオベール司教は信じない。

行動を起こさないことに業を煮やしたミカエルは、3度目にオベールの頭に指を突っ込んだ・・・

その瞬間がレリーフになっています。

翌朝、オベールは自分の頭に穴が開いていることに気付き、大変驚き、お告げは本当だと思ったという。

・・・お告げ?実力行使もする?・・・天使は、神の使いだそうで、旧約聖書にみられるように相変わらず残虐で強引な設定だ・・・当時は、この位が当たり前?

・・・あの岩山と言われて、・・・アヴランシュの町から見える所なのでしょうネ。

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そう、高速道路の左、高台の城壁に囲まれた古い街アヴランシュ・・・
岩山は、西南西に直線で約12㎞先、遠いような、しかし見通しが良いから身近な存在だったのでしょう。

Msm

このころ天使ミカエルは、一部の教会・信者の間で話題になっていて、天使ミカエルを祀った聖堂も各地の山の頂などに建立されていたようです。

噂では天使ミカエルがこの世に現れた最初の聖堂が南のほうにあるという。

旧約聖書の「ダニエル記」・・・多分イスラエルの守護天使、新約「ヨハネの黙示禄」・・・サタンとの戦いを指揮するなど、ごく一部の物語でミカエルが登場している。

悪魔の象徴であるドラゴンと戦って踏み潰している図、天の軍団のリーダー、剣や槍を持つ武闘家、・・・戦う大天使ミカエルに守護して欲しいと願っていたので夢に出てきたのでしょう。

709年10月16日岩山にオベールによって礼拝堂が献納された。

・・・その後、一説によると大天使ミカエルを祀ったこの岩山、モン・サン・ミッシェルを聖地にするには・・・何かが必要だった。

司教オベールは、200年も昔の492年に始めて大天使ミカエルが人々の前に姿を現したという伝説の聖地、ローマの先に二人の使者を向かわせた。

この聖地、モンテ・ガルガノ・・・現在も洞窟内に大天使ミカエルの聖堂がある。

・・・

ナポリから東に山を越えアドリア海に面したシポント遺跡に近いガルガノ山(今日のサンタンジェロ山)で、492年、チョットした出来事がありその3日後、大天使ミカエルが司教の前に現れて、「ガルガノ山の洞窟はミカエルの保護のもとにある、神と天使の名のもとに洞窟を神聖な状況にせよ」と告げられた・・・その洞窟に行ってみる、と内部は聖堂にふさわしい構造になっていたという。

そして、この洞窟と地下を整備し聖堂が建てられた。・・・大天使ミカエルが現れたそうだ!・・・瞬く間に噂が広まり、大勢の巡礼者が押し寄せた。

・・・

そして半年かけて聖地にたどり着いたオベールの使者達は、モン・サン・ミッシェルの話をすると何とモンテ・ガルガノにある貴重な大天使の赤マントの一部、足の下にあったという岩の破片を頂くことができた。

オベールは二人によって、ミカエルの聖遺物と物語が手に入った。これでモン・サン・ミッシェルは聖地となるだろう。・・・

この件で聖地となったか否かは、分かりませんが、各地の教会が聖遺物にすがるのは確かなようで、信じられない話がたくさんあります。・・・

日本にも言い伝えはたくさんありますが・・・

・・・・・

階段を下りて2階に、・・・修道士たちの食堂の下の階、ここは王侯貴族達の食堂、金持ち巡礼者などもここでもてなされたそうです。

13世紀、絶頂のころタペストリーや絵画・工芸品で飾られていたことでしょう。

今は、修復された建物が残るだけ・・・Dsc_0338

ここにもユニークなステンドグラスが・・・
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ホタテ貝:いろんな説があるが今でも巡礼者が首から下げている人も多い。隣は壺、マクダラノマリアの香油壺?

サア隣に進む、ここが内陣の下、太柱の礼拝堂。15世紀の中頃に建てられた室内は、大半が補強柱と言う雰囲気だった。

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ここで天井を見上げると、丸い枠の中に、緑色を見つけた。


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ここが内陣の床にあった丸ガラスの真下になる。

次の部屋、南隣の礼拝堂、聖マルタン礼拝堂は11世紀の建築と古い建物で、当然壁が非常に厚い。

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礼拝堂から先に進み、南側の通路に出ると、

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巨大な巻き上げ機が据え付けてあった。ここはかつての修道僧の納骨堂で、牢獄として利用された1820年頃に設置された。(車輪は中世に工事用に使用されていた物の複製)

グルリと1周して、最後に再び北側に戻ってきた。

ここが2階の騎士の間、上の階は廻廊になる。

何故、騎士がいるの?・・・十字軍と同時期、ヨーロッパ各地に宗教騎士団が100以上結成されたようです、が、ここモン・サン・ミッシェルでは「聖ミカエル騎士団」が結成されたのは遅く、活動実績もないようです、名前のみ残った。

この部屋は修道僧たちの仕事部屋として使われていた。

・・・十字軍?・・・歴史の教科書に出てくるあの十字軍、

「ヨーロッパは貧しくみじめであるが、聖地イェルサレムこそ乳と蜜の流れるところ」

「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」

「これこそは神の御業(ミワザ)であり、神の御業に参加する者には罪が許されて、贖(アガナ)いは免除される」

と、1095年、公会議で・・・聖地に行こう!異教徒から奪還しなければならない!・・・熱弁をふるったとされる。群衆は熱狂した。そして、十字架の軍隊と定住を夢見て多くの信者も同行した。

熱弁をふるった人?・・・聖職者・カトリック教のトップ 教皇ウルバヌス二世。

・・・

台座の上で、剣を振りかざした天使ミカエルの像がある。翼の生えた男性でしょう。

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足元に悪魔ドラゴンがいる。拡大してみよう。

ミカエルの作者は、爬虫類が嫌いだったようだ。

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階段を降りると一階、ここもかつては食堂。ここは残された人々・・・そうです、貧乏巡礼者達の食堂です。

13世紀頃、巡礼ブームとなり、潤った教会も俗化します。ここの建物で見られるように階級と金で選別されました。祈る人・聖職者、王侯貴族・金持ち、貧乏人です。

パンフレットには、司祭の間、ここでは修道僧たちは貧しい人たちやあらゆる境遇の巡礼者たちを迎え入れていましたとあります。

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現在は、売店となっている。

出口に進もう、建物の横を通り、登ってきた階段を下ると磔刑像がある広場の上に出てくる。

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山裾から海岸線の城壁まで、狭い土地に住宅やお土産屋が立ち並んでいます。

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路地を通ってここが海岸線、修復工事中でした。

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南東方向から振り返ると、このような修道院が見えました。

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城壁の一部、円頭部は屋根付

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モン・サン・ミシェルの道路が撤去されて

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かつての厳しい風景に復元されるそうです。完成予想図・資料(www.projetmontsaintmicher.fr)より


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パリに帰るのはPM10時以降、夕食に立ち寄ったレストランで、土産を買った。

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日本では最近見られなくなった光景。太ったのが3羽、鳩じゃなくて雀、有名だそうです、ビスケットを与えるから・・・あの店の近くに沢山いました。買った土産?、レストランの屋根の上に・・・

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モンサン・ミッシェル修道院

2013-03-28 | 旅行記

天候は曇り、時々青空が雲の間から顔を出す、雲の流れが早い。

・・・階段左側を登って行くと、途中で建物に突き当たる。

右に曲がると数メートル先が別の建物の壁(修道院)、その一角に入場券売り場。

かつて英仏100年戦争が続き、この島もイギリス軍に長い間攻撃され、この建物は要塞化された。

ここは修道院の入り口、「哨戒の間」と呼ばれた。(パンフレットより)

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左側が入場券売り場、日本語のパンフレットを頂き、左に曲がりさらに階段を登って行く。(上の写真の中央白いパネルの左側)、(団体7?(ユーロ)、個人は9?)

写真の右側が、修道院の奥から出口へ出てくる人々。ここまでが階段中央を手すりで分離されて各々一方通行となっている。

入場し階段を少し登ると、空が開け、両側に建物が並んでいるのに気がつく。

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左が修道僧の2階建ての居住棟。14世紀から16世紀に建てられ、歴代の修道院長の住まいとして使用されていた。

居住棟から隣の建物に渡り廊下が架かり、ここを渡ると最短で教会に行ける。右側は3階建ての修道院、この3階部分(最上階にある教会)とつながっている。

居住棟は南斜面の岩山傾斜地に建てられていて1階部分が、右側の修道院の2階部分と同じ高さになる。

階段途中、右側の壁に大きな蛇口がある。

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この壁の内側は、雨水を蓄えるタンクで、7か所あるそうです。

この階段を登りきると、標高80mの山頂、左側に小さなテラスがある。右側の修道院付属教会に入り、側廊を左側(西の方向・出入り口)に進む。

山頂にしては広いテラスに出てきた。・・・予想以上の眺望に驚くが、景観としてはあまり特徴のない入り江が広がっている。

南の端に進むと、シャトルバスに乗ってきた陸地側が眺められる。Dsc_0297

写真の上部、右上から流れ込んでくる河川がある。クエノン川と言うそうで、川の右側(西)がブルターニュー、川の左がノルマンデイ地方。

中央やや左上から右下に橋の工事中・・・、完成すると海に囲まれた島!・・・という感じになるでしょう。

テラスで振り返ると、標高80mの岩山に建てられた修道院の教会ファサード(正面)が現れます。

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パンフレットによると、このテラスは当初の教会の前庭と、18世紀の火災で焼失した身廊(ミロウ)前部3列で構成されていますと書かれている。

前部3列?、その後ろの席は?・・・ 多分、後部から3列の誤字じゃないかナー。それとも祭壇が西にあった?

・・・プラットフォームのようにコの字型で高くなっている両サイドが、旧教会側廊(ソクロウ)の床・土台の跡?、後部から3列部分と推測しますが・・・。

いずれにしてもテラスが広くなり、多くの参拝客がこの広場で順番を待ったのでしょう。

教会ファサード(太陽光が最も強くなる西日に面した正面)は、1780年に再建されているので建物の中では比較的新しい。

そして、ファサードの少し左横から、尖塔部分を見上げる

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本堂の奥、内陣と呼ばれるところの上に1897年とさらに後年に建てられた鐘楼があり、

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その上の像は、剣を持っています。この教会の最高地点、尖塔部のミッシェル像(仏語)、天使だそうです、女性でしょうか?

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これは、南の道路から見上げた正面から見た姿、聖ミカエル像は銅製金メッキとパンフにあります。

このような広大な湾の一角で周囲を海に囲まれた小高い岩山、聖地とは皆このような近寄りがたい場所が多いですネ。

平らな海面から飛び出した山の上に教会を建て、たかく高く神の国、天にも届けとさらに尖塔で飾る・・・当然、雷は落ち易いです、その結果、火災にもなります。

度重なる落雷に、悪魔、ドラゴン・・・、何故このような苦難に・・・と、祈ったでしょうが通じません。ヤハウェ、イエス・天使からのアドバイスがなかったのでしょうか。

・・・金メッキの聖ミカエル・尖塔部分は、ヘリコプターで据付けられたそうですから、戦後の取付けですネ。この時に、当然避雷針も取り付けられていることでしょう。

教会に入ろう、身廊を進み奥の内陣に進むと、天井がひときわ高い。

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ロマネスク様式(ゴシック建築と呼ばれる前の10~12世紀頃の建築様式・・ローマ風のという意)内陣は、1421年に落雷や戦争で半壊してしまう。

英仏100年戦争に勝利した後、16世紀現在のように再建された、以前17mだった天井は25mまで高くなる。

長い戦争の時代が続いたが500年の時間の経過は、建築技術も進歩した。尖頭アーチ構造でもっと高く、そしてもっと光を・・・ステンドグラスから柔らかい光が内陣に差し込んでくるようになった。

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内陣にある祭壇の左手前の床に、丸いガラスがはめ込まれている。(中央左・緑色の部分)

この下、2階の太柱の部屋の天井で(順路は一方通行なので忘れたころ)見上げると、この丸ガラスが見つけられる。

この修道院・教会は、フランス革命で室内の高価なものは略奪されてしまっている。長きにわたって建て増しが続いた建物が主体の見学となる。

・・・多少当時の偶像も残っている。左の台座の上に中世の聖ミカエル像が、

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ドラゴンを足で踏みつけ、左手に天秤ばかりを持っている。

・・・他の宗教を認めず(一神教)、カトリック教を広め、信者を増やし、教会を維持するためには、偶像崇拝も解禁し、イエスやキリスト教を発展させた弟子以外に、天使の像まで登場してきた。

天使にも階級がつけられ、ミカエルは天使の軍団長であり、最後の審判では審判するキリストの補佐役として、心臓の重さをはかっている。

軍団長、武力に優れた・・・男性のようです。

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素朴な聖母子像、時代が感じられます。そして壁に磔刑像も

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キリスト教も、仏教も当初は固く偶像崇拝を禁止しています。

布教には、イエスの起こした数々の奇跡や、癒し、そして昇天や復活を説いていたそうですが、集団になり教会ができると・・・、教会の維持・発展が目的になるでしょう。

信者を増やすには話して聞かせるより、視覚に訴えるのが洗脳させやすい。人間を超越した神、・・・偶像崇拝。

しかし磔刑像はタブーでしたが、693年教会から教令が出されたそうです。十字架と子羊の宣伝OK。

このような拷問の絵画もありました。

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正面入り口方向を振り返ってみよう。この本堂の天井も高い。

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始めてみる質感の天井だ。高さは当初の内陣と同じ17m。出来るだけ軽量に仕上げるため天井部は薄い板張りで見事にアーチを掛けている。

そういえば、この島の民家の屋根も板張りが多かった。

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ノルマンディ地方の祖先は、海で暴れた北方のバイキング、板張りの造船技術が発揮されています。

この山は、聖堂・教会・修道院・修道僧の住居棟と改築、増築を繰り返してきました。

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「内部の展示模型より」

岩山にアヴランシュのオベール司教が円形の聖堂を建てたのが、708年。

オベール司教に選ばれた12人の修道士でスタートとなったようです。

模型にある966年は、この地を支配するノルマンディ公がベネディクト会の立派な修道院として建替えた。長さ30m、幅12m。

祖父はこの地方を荒らしたバイキングのドン。後に何とノルマンディ公となる・・・そんな訳で縁あるこの聖地、前任者を追い出しベネディクト派の修道僧30人をスカウトしてきた。

996年に火事があり教会は大きな被害を受ける。

古い教会の上に1023~1060年頃にかけて、教会は高さ17mとさらに大きく建立された。しかし支えている下の柱の強度不足で崩壊したり、火災にあったりしている。

東面の修復、地面から3階まで建物を建て、各階を岩山に固定して3階部分が、教会の最深部・内陣となるように改築される。

1階は、厚い壁で、その上の2階は太い丸柱を密集して強度を持たせ、更にその上3階部分にアーチで重量を分散する内陣を載せました。

その後13世紀、フランス王の寄進で修復された時、左側(北)の斜面に3階建ての建物が2棟改築された。上層部を軽く、下層部は太い柱でしっかり支える。これが、ラ・メルヴェイユ(奇跡)と呼ばれ有名になった建物。

、更に後年右側に修道僧の居住棟が建ち、これら周りの建物が寄り添う形で教会を支える・・・ほぼ現在の形が出来上がりました。

この頃十字軍の遠征が続き、ヨーロッパ全土でキリスト教巡礼者も熱くなっていました。当時世の中は聖職者・戦士・農民と三つの階級があり、それら人々も貴族・金持ち・貧乏人と階級ができていた。

多くの巡礼者がモン・サン・ミッシェルを目指した。

14世紀は英仏100年戦争、修道院は閉鎖、城塞となります。

戦争を乗り切ると大天使ミカエルへの崇拝は高まり、教会も修復され、巡礼者が押し寄せます。

そして世はルネサンスへ、そして宗教戦争へ(カトリックの教会はプロテスタントから攻撃を何度も受ける)

フランス革命後、囚人を送り込まれる監獄として使用された。

1874年から修復が開始され、1979年ユネスコの世界遺産に登録される。

・・・・・

教会から北側に連なる建物に移動しよう。

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中世に広まった修道僧、瞑想のための回廊・・・ここからラ・メルヴェイユ(奇跡)に足を踏み入れる。

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モンサン・ミッシェル観光

2013-03-23 | 旅行記

景観と参道のお店が人気のフランス西部の観光地、モンサン・ミッシェル。

パリから西へ350㎞、(東京-名古屋間位)高速道路を4時間も走るこの観光地は、遠いのであまり乗り気ではなかった。

家族の計画で強く望まれ、天使の山も一度は良いかと参加した。

2月上旬朝早くパリを出発

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この時期パリの日の出は遅い、左はセーヌ川、エッフェル塔を左に見て西へ向かう。

反対車線は、市内に向かう通勤の車で渋滞している。天候は変わりやすく曇り時々小雨。

そして走ること3時間強・・・ノルマンディー半島の西側サン・マロ湾に近づくと、高速道路の左側の高台に・・・・・高い城壁に囲まれている古い街並みが現われた。

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ここが、アヴランシュの街・・・これから行くモンサン・ミッシェル誕生に貢献された人が住んでいたという街

間もなく、高速を降りる。曲がりくねった道、のどかな農村地帯、羊が群れる牧草地を横に見て進む・・・前方に見えてきました。

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モンサン・ミッシェルは河口の先に突き出た小島で、この一帯はヨーロッパで最も潮の干満の差が大きく最大では15m以上にもなり、大潮では沖合18kmまで潮が引くそうです。

巡礼者は引き潮の時に島と行き来していたが、満ち潮になると潮の押し寄せるのが速く、溺れる事故も多かったそうです。

そこで1877年、島との間に巡礼者や観光客の利便性のために道路が造られた。

・・・すると海流の流れが変わり、その結果最近では2m以上も砂が堆積し、海に浮かぶ要塞とも言われたかつての小島の景観を見ることが少なくなってしまった。

この島は、フランス有数の観光資産です。今ある道路を撤去し、橋を架ける工事が進んでいます。

山頂の修道院テラスからの写真を後ほど。

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そこで車は以前のように島まで進めず、手前の地区で駐車。

ここからシャトルバスで(徒歩も可能)の島見学となる。

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1979年にユネスコの世界遺産に登録され、年間300万人以上の観光客が訪れる。
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島の西端、このように堆積物が増えている。

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人の住まない小島に、天使ミカエル(仏語:ミッシェル)を祀る小さな聖堂が建てられる。

その後バイキングにたびたび襲われるが守り抜き、やがて大きな修道院に改築され、英仏100年戦争もあり、このような城壁で囲まれた。

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さてシャトルバスを降り、少し歩くと島の南西に城壁の入口があり、この門(前哨門)から中へと入ります。

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入って右に折れ、城壁に沿って英仏戦争時代の大砲を横目に進むと二つ目の門(大通り門)があります。

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この門の先、左にマスコミが盛んに宣伝する店が見えてきた。

その先には、比較的大きな三つ目の門が見えている。

名物オムレツの店、メール・プラール(プラールおばさんの店)が参道脇で大きなスペースを占めていた。

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メニューは、・・・高い、 ・・・観光地ですから、一元客相手に稼がなくちゃ?。

先程、シャトルバス発着所近くのホテル・レストラン街で、ふわふわオムレツを味わってきた。

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十分に泡立てた卵の外側をしっかり焼いて、色も見た目のボリュームも満点だが、中はあっさり泡・空気・泡・・・特徴があり話題になる料理ですが、・・・想像がつきますネ、

今ではどこの店でも提供している。

さて城壁と反対側、ホテル横の狭い階段を登る。

Photo_2

斜面に小さなホテルや住居が点在し間を縫うように階段が続く。

プラールおばさんの墓もあり、その階段の先には、かつて村の小学校だった建物などもある。

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この付近は山麓の中段、斜面のすぐ上に修道院の建物が築かれている。

1

上の写真で、中央やや右に階段があり建物内部に続いています。階段中程で右側の修道院の一角で入場券を購入し先に進むことになる。

城壁の右側は修道院です。

中央階段の左横、建物との間の通路を奥の方から進んできました。通路下の壁面に・・・、坂道を少し下ってみよう。

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大きな磔刑像

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ここは広場になっている。その横は坂道で、参道になっている。

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少し下ると土産物屋・宿家が立ち並んでいる。

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そして平地まで下ってきた。

南斜面に建つ民家の間の階段を、修道院入口まで登り、周回して参道の坂道を下りてきた。

正面が渡り廊下を持つ三つ目の門(王の門)。

左右は、日本人観光客がたくさん購入する有名なクッキーの店

もう少し戻ると、ふわふわオムレツ発祥の店

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さて、これから修道院の内部見学に再度参道を登ろう。

参道途中にある教会? サン・ピエール教会、気がつかなかった。

参道中程の左横、斜め横の高台に、小さな教会がありました。

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入り口横の銅像は?剣を持った大天使ミッシェルでもなく・・・、壁の左端の像は教会と違和感が無いが・・・

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優しい聖母子像

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剣と鎧に身を包んだ乙女、ジャンヌ・ダルク・・・なぜここにあるのでしょう。

この教会は、11世紀頃から岩山を掘り下げ、洞窟を利用し・・・完成したのは17世紀。

この銅像の乙女は、暗黒の時代とも言われる中世に生を受けた。当然のように熱心なカトリック教信者になる。

13歳のある日、光の中から神の声を聞く、・・・時は後に英仏100年戦争と言われた時代。

何度となく、神の声を聞いた。大天使ミカエルの声も聞いた。

17歳ジャンヌは、天の光の中から啓示の声を聞いた。「・・・シャルル王子を戴冠させ、フランス王にせよ」と。

神の声に洗脳されたジャンヌは旅立つ、そして、途中サンカトリーヌ・ドゥ・フィエルボワの教会で、初代フランス王が使ったとされる幻の剣を神の声で発見する。

残るは身を守る鎧が必要だった。職人の街トゥールで鎧を特注させ身に着けた。

歴史に残る最初の記録があるという。

「オルレアンの囲みを解いて王太子をランスで戴冠させるために王太子のもとに行く、と語る乙女がシアンの町を通過した・・・」

この噂は町々に広まった。仏軍の士気が上がり・・・ご承知の通り、英仏100年戦争にフランスが勝利し、ジャンヌ・ダルクはヒロインに・・・

そんなフランスの守り神、ジャンヌ・ダルクにこの山の守護を願うのか。

それとも英国軍に売り渡され魔女と判決され、火炙りの刑にされた・・・炎の中で「イエズス様」と叫んだ19歳の無念の霊を祀るのか。

磔刑よりも残酷な火炙り、公衆の面前で生きた生身の人間を火炙りにする、カトリックの信者としては辛い、焼かれて灰になることは最後の審判で復活できる身体が無くなってしまうこと。

魔女を多く輩出したイギリス・・・、イギリス軍の連中は、公衆の面前でジャンヌが確かに灰になるのを見届け、その灰をセーヌ川に流したという。・・・復活・生存説を恐れ完全に抹消した。

大天使ミカエル(仏語:サン・ミッシェル)の銅像も教会内にある。

ミカエル繋がりで、ジャンヌ・ダルク像が建てられたとしましょう。

あまり興味のない空想の大天使よりは、実在したジャンヌの像を見ると、考えてしまう。

…処刑を想像してみるが・・・平和ボケした頭では、残酷さに怒りが沸く。・・・しかし当時の尺度で推測する・・・、無実の魔女の火炙りや18世紀のマリーアントワネットのギロチン刑など残酷なことはショーとしてよくあったのでしょう。

為政者が民衆に対する見せしめに効果のある演出を考える、為政者に対して不満が多い民衆にとっては、罪人の悪行と処刑の日時・場所を公開すれば、赤の他人の処刑はストレス発散・祭事となったのでしょう。

パリ市内にジャンヌ像は数か所、

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これはルーブル美術館横のピラミッド広場、黄金のジャンヌ・ダルク像

この向いている方向は、ライン川の先南西約130㎞オルレアンと言われている。

1431年5月30日処刑、それから25年後母親の訴えで裁判はやり直され、ジャンヌの名誉は回復された。

1803年ナポレオンが忘れられていたジャンヌ・ダルクの英雄伝説を話題にし、・・・ジャンヌはフランスの英雄となった。

1919年ローマ教皇庁がジャンヌを「聖女」と認めた。

ジャンヌの像は、パリ市外にも数多くありベルサイユ宮殿にも置かれている。

ジャンヌ?、本人が裁判で名前はそう呼ばれていたと証言している。他には、ラ・ピュセル(乙女)、ジャネットとも呼ばれていた。

父親はジャック・ダルクだったので、死後「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになったそうです。

・・・

サァ、修道院の入口へと急ごう。

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桜咲く

2013-03-18 | 旅行記

3月になって真夏日があったりで、一気に桜の開花が進んでしまった。

ここはもう満開

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江戸城?

天守閣がある・・・

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もう少し高台から

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海と半島、春うらら、・・・全国どこにでもあるような風景です。

山国ですから、少し海岸から山を登ると

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湯煙

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ここは

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仮設店舗、・・・大型バスの駐車場などを拡張工事中

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そして、西方には

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よくわからない・・・気温が上がってしまった。

今年の1月中旬の様子です。

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富士山!

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ここは

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箱根、大涌谷、

昨秋、某ホテル従業員のお勧めの神社が

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九頭龍神社新宮、この左隣が

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箱根神社です。

(九頭竜神社本宮は、湖尻の遊覧船駐車場から、1㎞強、その近くに白龍神社もあります)

雪の季節はスキーも良いが、やはり春が過ごしやすいですね。

昨今の話題は、システーナ礼拝堂でのコンクラーベ、・・・イエズス会から初の法王誕生!

エッ 話題になってませんでした。

ところで、モンサンミッシェル!なぜ、日本の女性に人気があるのでしょう?

イエスも弟子も祀られていない・・・、ライトアップされた景観が有名な観光地、・・・家族の付き合いで山頂の修道院を見学してきました。

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別途

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ユングフラウ鉄道

2013-03-14 | 旅行記

赤い電車はユングフラウ鉄道、現在地は

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緑の線路をを登山電車で登ってきた。そして中央の駅がクライネ・シャイデック。

右側の青のラインも同じ鉄道会社で、どちらからのルートでも同じくらいの時間で登って来れる。

しかし、登って来た電車が峠の駅で停車し、その先反対側に降りていく事はできない。

山の勾配に合わせた登山電車はその向きが変わらないように登ってきた線路をそのまま降りていくそうです。

ユングフラウ鉄道全線開通100周年、・・・2012年のことでした。この記念にカラー30頁のパスポート小冊子日本語版を乗車時にいただいていました。Photo

この中の路線図が一番わかりやすいので、再確認しよう。

Jrarea_map2_2

Aの路線が、ユングフラウ鉄道(JB)で、クライネ・シャイデック⇔ユングフラウヨッホ間

Bの路線は、ヴェンゲルンアルプ鉄道(WAB)、緑と青の路線

C,D,E,F,Gの路線もユングフラウ鉄道グループの運営で各種割引キャンペーンがあるようです。

年間70万人もの観光客が、このスイス、標高3454mヨーロッパ最高地点の駅ユングフラウヨッホ目指して来られるわけですからサービスしなくちゃ。

さぁ、スキー場から戻り、線路を渡り駅の裏側(南側)に

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山腹を右から左に何やら動いている、徐々に大きくなると・・・赤い電車が下ってきた。

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大きくカーブして、小振りのかわいい電車が近づいてきた。

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ご覧のように、雪は舞い降りていないが空も山もスノーホワイト、アイガーもメンヒもユングフラウも雲の中・・・残念

AM9時半、ここから約50分でユングフラウヨッホに到着する。

・・・別途、100周年アトラクション 3Dシアターなど放映されていて、編集中・・・

PM1時過ぎこの地点に戻り、昼食・・・

すると視界が開けてきた。

目の前にアイガーが・・・こちら側があの北壁になる。

登頂ルートとして最難関のあの有名なアイガー北壁が見えてきた。

パノラマにて

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左端がアイガー、中央にメンヒ、右の雲の中にユングフラウが

この左側はこのような感じ、

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そして、1Fにレストランも入っている クライネ・シャイデックの駅舎の南側全景です。

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こちら側にもスキー場があり、赤い電車で1つ目の駅、アイガーの麓 アイガーグレチャー駅(標高2320m)からも滑れる。

そして、この駅の目の前、この人は何をしているのでしょうか?

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写生中? 日光浴? 昼寝? 

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この合板製のソリは、売れ筋のようです。

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このデザインは、キックボードの様な・・・それにしても接地面が細長い、標高が高く、締まった雪質だから沈み込まないのだろう。

日本では降雪が少なくなった3月、氷点下に冷え込んだ午前中、野山の雪面が固く締まった同じような状態になる。

この乗り物は大きく体重移動ができ、急なコーナーも曲がれる・・・面白そうだ。

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先程の人は、これに座っていた、そしてクライネ・シャイデック駅前から、ラウターブルンネン駅方面に長距離を滑り降りていくのだろう。

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午後から絶好のスキー日和になってきた。

スキー最高!



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2,061m

2013-03-12 | 旅行記

2月中旬から咳と微熱が2週間、早寝で悪化はしないがスッキリせず、冬越し初挑戦の胡蝶蘭も3鉢元気がなくなり、・・・春が待ち遠しいこの頃です。

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トンネル内の写真?

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そうなんです、電車から降りて線路上を歩いています。

かなりの急こう配で線路の間に、ギザギザ歯車のラックレールが走っています。

電車は最後尾で、客車を押して走るスタイル。客車の横を歩いて先頭まで進む。

救援の電車らしき車両に乗り移り、少しはホッとする。

「小さい峠」という意味の独語 クライネ・シャイデック駅に向かっているところだった。

間もなく、暗いトンネル内を抜けるとそこは雪国だった。

・・・訂正、この登山電車に乗るときも雪国だった。

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インターラーケンのホテルを朝早くバスで出発し、山道をグリンデルワルトの街までやってきた。

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登山鉄道に乗るには、この駅(グリンデルワルト・グルント)が広く利用されている。

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左の三角屋根が駅舎、正面がKIOSK、右が改札、2Fがレストラン

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駅員の横に、胡蝶蘭が咲いていた。夜間の温度管理が大変難しいが・・・

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2Fレストラン横から、ホームの風景、電車が入ってきた・・・

余談(朝食は持込みで、サンドイッチとジュースとフルーツ、そして高山病対策に有効らしい甘いチョコレートバー)

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さあ、この電車に乗り込み席を探していると、後から中国人の団体が駆け込んできた。

マナーが悪いのは有名で、添乗員も同様のようだ、ハンドマイクで乗り遅れないように怒鳴っている。

後ろの座席が中国人で埋まった、大歓声、そして雑談・・・、1~2分後、注意しようと思っていたら、本来の指定された車両があることが解ったようでドッと移動していった。

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そして空いた座席、

右方向が列車後部、進行方向は左、・・・分かりにくいが、登山電車仕様で山の勾配に合わせ進行方向の座席が高い

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ヴァンゲルアルプ鉄道(WAB)で、標高2,061mのクライネ・シャイデック駅に向かったのでした。

通常乗車時間約33分、途中の2か所の駅を通過して最後のトンネルでトラブル・・・

何とかトンネルを抜けたら、スキー天国だった。

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車内検札をするので、到着駅の改札は無い。電車を降りたら、ホーム・・・即 自由!

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線路の上も滑って反対側に。

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クライネ・シャイデック駅、大きな駅舎だ、1Fにレストランも土産店も入っている。

そしてこの右側に続いて事務所があり、右別棟はトイレ。

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Jungfraujoch の案内板が見える。この駅舎の裏側が・・・

・・・裏側は後にして、まずは手前側のご案内

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朝の9時からスキー客、元気な連中が多い。

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スキー板用の台車をけん引している。

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この電車の最後尾、踏切がある、コカコーラの円錐テントの方に移動しよう

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板を担いでその先は、

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スキー場だ、この電車以外にもリフトで下から上がって来れる。この右側が

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レストラン、その右側をリフトが動いている。

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ウワァ、雪質は最高だ!

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滑りたい、滑れない、電車に乗らなければ・・・

駅事務所横の情報板の表示は

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氷点下11度

そして、駅舎の裏側にパンフで良く見る赤い登山電車が、・・・

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天候が悪く、グリンデルワルトでも見えなかったアイガーが、・・・すぐそこに見えるでしょうか?














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志賀高原スキー場

2013-01-30 | 旅行記

志賀高原スキー場・・・久しぶりに奥志賀からジャイアントスキー場まで縦走しようと計画したが、あいにくの天候で予定を大幅に縮小することになった。

1月14日(祝日)、朝から上信越自動車道が長野~碓氷軽井沢間通行止めとなっていた。

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関越自動車道 上里SA AM9:00 案内板を見ると、松井田妙義まで通行止めが近づいてきていた。

・・・ゲレンデが空く今日の午後から、明日を予定していたが・・・ 

夕方までにホテルに着けばマァイイカ・・・と言うことで先に進むことにする。

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通行止めにされた松井田妙義は、このような状況、出口に進む。

渋滞している一般道を碓氷峠に向かい

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大型貨物を追い越し進むが、所々で動けない車が停車し、渋滞している。

何とか軽井沢を抜けるが

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高速道路は、トンネルまたトンネルで気がつくと長野だが、一般道は抜け道が少なく、幹線道路をノロノロ進むことになる。

東京でも大雪とのニュースが流れている。

・・・・やっと長野から再度高速に載る事が出来た。

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この位で雪国の有料道路がストップしては困ります。

これで何とか夕暮れまでに、志賀にたどり着けそう。Photo_12


信州中野、ここで一般道に降りる。

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思ったより積雪が少ない。

正面の湯田中経由、山道に向かう。

道路の除雪は行き届いている。地元の路線バス、観光バスを含め交通量は多い。

カーブと坂道、ループ橋にトンネル・・・道路幅が確保されているので走り易い。

正面右の山裾に、ナイター照明が入った一の瀬スキー場が目に飛び込んできた。

YAKEBIのホテルはもうすぐ。

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PM5:00 ホテル着 長い一日だった。外気温は、-8℃。

今日は、みぞれ交じりの小雨だったようで、スキーには最悪のコンデション、

明朝の天候が良いことを期待しよう。

H

AM8:00からスタートを予定していたが・・・フロントの説明ではAM9:00からゴンドラを動かす予定とか。

ゴンドラで焼額山に登り、裏の奥志賀高原スキー場に滑り降りる計画は中止しよう。

車で奥志賀に移動することに。

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ここが奥志賀のゴンドラ乗り場、・・・・残念、運休だ。

しょうがない、山裾を回り奥志賀高原スキー場のゲレンデに足を延ばす。

・・・小雪と風、視界が悪く、奥志賀をあきらめる。・・・

YAKEBI の 第一ゴンドラ乗り場に戻ろう。

時間はAM9:00 を少し回った。

相変わらず視界が悪いがゴンドラは動いている。取り合えず山頂に行ってみよう。

カメラを持参して、ゲレンデ案内をYouTube にアップできるかな?

YouTube にアップしました。

<iframe width="1280" height="720" src="http://www.youtube.com/embed/nJu4fbT856I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

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秋だ!金時山に登ろう

2012-11-02 | 旅行記

やっと秋らしくなってきた10月上旬の週末、適度な運動と疲労回復に出かけた。

秋の潮騒!  ここは真鶴、三つ石

・・・数年以上、土日が忙しくて釣りをしてないなぁー、

Web

海・山・温泉・・・

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翌朝、ハイキングコース案内板、左上に金時山と書かれている。

金時山は足元が悪い所も多く、ヒールの高い靴では危険です。底の厚い運動靴は必要で、雨の後はさらに足元が悪くなるので注意しましょう。

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ここは、公時神社(キントキジンジャ)駐車場。

ここに駐車したら途中の公時神社に参拝しよう。

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この先に拝殿があるが、この先階段の上左側に・・・

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これは、まさかり・・・まさかり かついで 金太郎!

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足柄山の金太郎・・・、ここは箱根町です。

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この階段の上が、公時神社、参拝を済ませ右隣に並行している登山道に戻る。山頂まで約3㎞くらいの工程。

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スタート地点からしばらくは、木漏れ日の小道を進む。

なだらかで、ウォーミングアップに適しています。

しかし、間もなくこのような風景

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そして林道に出る、ここを渡り、山頂まで約55分とある。

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途中、右矢印で、奥ノ院(公時神社)とあった。寄ってみよう。

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祠(ホコラ)があった。
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金太郎伝説に登場する大きな岩が何カ所かある。これも裂け目のある大岩。

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雨水に流されて、川原状態、雨が降ると更に土が流される。

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歩道管理Noとある、50mごとに置かれているが、名称は歩道となっている。

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この付近は、樹木もかわいそうに、転倒の危険もありそうだ。

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やっと山の斜面に出てきた、眼下に箱根・仙石原、その先に芦ノ湖が見える。

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斜面の小道、もうすぐ合流地点。

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仙石原からの道と合流する。仙石原まで40分、金時山頂上へは20分との案内板。

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急坂な登りが続き、その先周囲が低木になると尾根横に出てきた。

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ここがチョットした難所?  右側の土手にロープがあり、ロープの助けを借りる。交互通行で大岩を乗り越えよう。

もう少し進むと、右前方木立の間から、山頂休憩所の屋根が見えてくる。

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そして突然、目の前に空! ・・・尾根に出る手前左側に、このような案内板。そして下に小さく・・・終点!と

・・・

空・・・その先は、金時山の山頂です。パノラマ写真で山頂の雰囲気を。Photo_2

この山頂は、南足利市、小山町、箱根町の一市、二町の境界です。

Photo

金時山 標高1213m

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各々の案内板が置かれている。

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小山町の案内板

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富士山の頂が顔を出した。夏富士!

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富士山との位置関係は

Web

金時山から富士山は、西北西

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山頂の祠、この横に2軒の休憩所、ここで昼食にしよう。

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ここは終点と案内があった場所。

ここから下山する。

午後はゆっくりしよう、2時から姥子温泉:「姥子(ウバコ)の名は、金太郎伝説(坂田金時)に由来する。枯れ枝で傷めた金太郎の目を、母親である山姥が箱根権現のお告げでここの湯で洗い、完治させたと伝えられる。」で汗を流そう。

姥子温泉は、湯本のように温泉街といった雰囲気の所はなく、ホテルの温泉になる。にごり湯が好きだが無職透明無臭の温泉、仙石原のプリンス系ホテルで汗を流す。

夕食までの間、売店の女性と雑談中・・・広島の厳島神社に片道10時間かけて車で行ってきました。

・・・エー、若いのに、昨今、若い女性に戦国武将が人気なのは聞いたことがあるが・・・神社?

もちろん伊勢神宮は良いのですが、伊勢の近くに椿神社って、あるんですがあそこも良い神社ですよ。・・・椿神社も行ったことがあるの?

猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)・・・ニニギノミコト(天孫)を地上界へ案内した「みちびひの神」が主祭神で、これらの事は最近勉強したばかりだが、彼女の口からスラスラと出てくる。

宗教に関心があるの?・・・古神道です。このようなお話ができる空気・気が好きです。

古神道? 詳しくはないが、多神教、山岳信仰、滝修行、吉野から熊野古道、金峯山寺・・・熊野那智大社は・・・神社に詳しいのに驚く。

箱根神社は行かれました?・・・数年前に参拝しました。

九頭龍神社と白龍神社がありますが、6月13日は例祭、毎月13日も月次祭です。ぜひいらして下さい。

話は尽きないが食事の時間になった。

巫女さんでもないOLのMさんがどんなきっかけで神社・古神道に関心を持たれたか聞かなかったが、パワースポット・・・神社・・・神道と関心が移ったのでしょうか?

育った環境、悩みごと、偶像としての作品鑑賞、学問としての好奇心・・・

いずれにしても、社会に関心を持ち行動されている姿に感銘しましたが、作者は何事もまず広く、そして浅くを実践しているようです。

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稲葉山城炎上

2012-10-24 | 旅行記

岐阜城天守閣からの眺望、現在の東美濃の一部です。

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かつて、・・・犬山城の川向いに伊木城、その上流約2.5㎞に鵜沼(ウヌマ)城、さらに上流約3.3㎞に猿啄(サルハミ)城・・・ここまでは攻略した。

1564年、斉藤家の家臣、竹中重治が造反し、安藤守就(モリナリ)らの協力で稲葉山城を乗っ取り、斉藤龍興は城を捨てる。

しかし半年後、半兵衛(竹中半兵衛重治)らは龍興に城を再び明け渡す。

これ以降斉藤氏の衰退が明らかになり、家臣らの離反が目立つようになる。

1564年9月 藤吉郎は信長から 「坪内党、川並衆を率い稲葉山城下に侵入、放火し、騒乱に乗じて加納に砦を築け」 と言う命令で動き始める。

稲葉山の西に隣り合う瑞竜寺山に侵入し薪を蓄えた、・・・11月下旬西風の強い日、稲葉山城・城下の長森口等に坪内党が放火し、続いて川並衆が瑞竜寺山の各所にも放火した。

西風の強風にあおられ全山大火となる、この騒乱に乗じ加納口を占領し、8㎞程に渡り、馬柵等で砦を固めた。

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木曽川沿いのこの地を坪内党が守備し前線基地となった。

1565年(永禄8年)5月 征夷大将軍 足利義輝(30歳)が下克上の世とはいえ白昼、三好三人衆らによって暗殺された。・・・各地の大名に衝撃が走った。

・・・この頃から、信長に天下布武の意識が強くなる・・・。

さて、猿啄城から約20㎞奥の加治田にも美濃勢の拠点があった。

1565年(永禄8年)7月、加治田(カジタ)城の佐藤親子が丹羽長秀を通じて信長公に忠節を申し入れてきた(斉藤方から織田方へ寝返った)。

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加治田の西に関城があり、南約2.7㎞に堂洞(ドウホラ)城(砦)があり、各々同盟して信長の侵攻に備えていた。

しかし、加治田の佐藤親子が寝返ったのを知ると、堂洞の岸信房に嫁いだ加治田の佐藤忠能の娘は殺害され、その娘の首が何と長尾丸山にさらされた。

そして9月、斉藤方が加治田城を奪還しようと、堂洞(ドウホラ)砦に兵を集め、関(セキ)城に本陣を構えた。

信長公の織田軍が加治田城危機に際して援軍を送り、9月28日、佐藤親子も出陣し、三方が谷となって落ち込んでいる堂洞砦を囲み風が強いのを利用し火攻めにした。

この堂洞の戦いについて、信長公記の筆者太田牛一(当時の名前は、太田又助)が、堂洞の二の丸が炎上し焼け残った屋根にただ一人登り、本丸の敵を矢で射続け信長公から知行を与えられたと書いている。

この堂洞城(砦)は夜になり落ちた。

信長公は加治田に出て佐藤親子に対面し息子の屋敷に泊まっている。

翌29日、信長公は首実検を行った後、帰陣の支度にかかっていた。そこに知らせが・・・

斉藤龍興自ら出勢し、関(セキ)城の長井勢と合流押し寄せてきた。その数約3000人。

信長公わずか7~800人、手負いの者も多く、急ぎ退却した。

・・・戦国時代、城主は領土保全が第一で、あわよくば拡張したいと考える。

しかし隣国で拡大戦略の動きがあると近隣の情報収集に明け暮れ、・・・結果、疑心暗鬼になり、親子・兄弟も状況の変化によっては殺害対象になる。

同盟も密約も保証されず、競争に生き残るのが優先される。

残虐?・・・友人・知人と戦い、感情を捨てて首をはね、戦勝後「首実検」、持ち帰った首の切り口を洗い、化粧を施し(担当は女性、・・・無表情に作業をするのでしょうか?)・・・これが日常・・・

制御が聞かない放縦の状況ですが、人間の本質の姿でしょうか?・・・・・

・・・ふと、頭に浮かんだのが「シエナ」で聞いた「八百長のない競馬」・・・

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騎手の談合・買収は当たり前(合法)、肘で相手を押し倒そうが、騎手が落馬しても馬がゴールすれば成立・・・

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イタリアの中世に栄えたシエナの街、今も伝統が残るこの競馬、地元の人々は、一番汚れのないスポーツと自慢する・・・

スポーツと戦争では、次元が違いすぎますか・・・

・・・

1566年4月上旬 信長公再び木曽川を渡り、美濃の国各務野へ侵攻する、斉藤龍興も新加納へ、この地は地勢が悪く(沼・沢、湿地)軍の進退が難しいため信長公は交戦を断念し、その日のうちに帰陣した。

・・・・・この頃、西美濃を調略していたのが木下藤吉郎・・・

信長は竹中半兵衛を近江の東で探し出し、何度も使いを送り織田家に仕えるよう誘うが断られていた。

この話を信長から聞き、藤吉郎は半兵衛を説得、客分として木下の陣地で居候することになった。(陣地とは、蜂須賀小六・川並衆の協力で墨俣に築城した墨俣城の説が有力)

「西美濃三人衆」は斉藤家の前任、土岐(トキ)家の頃から由緒ある家柄で、その筆頭家老が安藤守就(モリナリ)である。稲葉、氏家はともに頑固で保守的、織田側への調略は難しかった。

1567年・・・西美濃の調略は手詰まりの状況が続いた、そんなある日藤吉郎は、半兵衛から安藤宛ての手紙を託された。

安藤は半兵衛の舅(シュウト)にあたる。

藤吉郎が差し出した手紙は効果があった。その後、安藤は、稲葉、氏家と協議し、織田家に忠誠を誓う「誓紙」を藤吉郎に差し出して、その証拠に人質を供出すると申し出た。

藤吉郎は半兵衛を伴い小牧の信長公に拝謁し、美濃三人衆の織田家寝返りを取付けた「誓紙」を提出した・・・そして信長様に褒美の代わりに半兵衛を傍に置いて頂けるよう土下座して願い奉り承諾された。

・・・竹中半兵衛重治は、この日から織田家の臣となり、信長の軍監(グンゲン・副将軍の次の官、第3等官、グンカン)として、藤吉郎に付くということになった。

8月1日 美濃三人衆の使者が到着し、信長公は美濃三人衆の申し出を承諾し、人質受領に村井、島田を向かわせた。

信長公は人質の到着を待たず、「兵を集めよ!」と・・・急きょ出陣、小牧山城から木曽川を渡り、新加納に布陣した。

ここから稲葉山城まで約5.5㎞、尾張の守備兵まで動員し、最大勢力8000強の兵力、さらに美濃勢も加わり総数12000人。

これに対し斉藤勢は、侵攻を聞いて城に急ぎ集結したのが4000人、さらに困ったことに兵の士気は低い。

織田軍は稲葉山から西方にあり、かつて山焼きをした瑞竜寺山に駆け登った。

正面から総攻撃をかけるが、さすが天下の堅城、猛攻を楽々と跳ね返していたが、稲葉山城下の井口が焼き払われ、山麓に放火して回ると城は裸城になってしまった。

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翌8月14日、城の周囲に鹿垣をめぐらせて包囲した。・・・この頃美濃三人衆が到着した。

斉藤方は西美濃三人衆が寝返ったことを知り、東からも西からも援軍は来ない現実を知ることになる。

・・・わずか10日ばかりの攻防で斉藤龍興は命の保証を条件に、稲葉山城を開城した。

8月15日 龍興は数人の近衆に守られ、長良川を舟で伊勢長島へと落ち延びていった。

1567年(永禄10年)8月15日 稲葉山城落城・・・信長公は井口を岐阜と改称した。

織田信長は、岐阜城を修築し、城下町を再構築し復興しなければならない。

焼け出された人々、寺院、移転して来る小牧山城下の関係者などに資材(木材など)を提供した。(尾張小牧の城は廃城)

この地は東西交通の要、楽市楽座を保護し岐阜の発展に尽くした。

木下藤吉郎は、信長に「美濃攻め功名第一ぞ!」言わせ、地位と名声、そして織田軍の有力武将の仲間入りをし、この時から歴史に登場し始めた。

その後も活躍し、1574年城持ち大名となり現在の長浜に築城する・・・1576年完成し、長浜城城主となる。

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秀吉死後解体され、彦根城の資材にされる・・・1983年推定復元された。


1576年(天正4年) 安土城が完成し安土に移る。

・・・最近の発掘事業で安土城の城跡から秀吉の屋敷跡も発掘されています。

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秀吉邸の案内板

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ここが大手道階段から左に入った秀吉の敷地内、階段の右側は前田邸、もう少し階段上部に徳川邸

ここの階段にも各地の石仏が所々に使われている。

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秀吉の屋敷は2段で、ここは下の段、結構広い、馬6頭が飼える厩があり武士が控える部屋もある、左側は広場。

斜面の石垣に幅2mほどの階段があり、上の段の裏手に上がれる。上の段には、主人の住居・台所など3棟がある。もちろん直接大手道から入ることもできる。

3棟の建物群の平面積は366㎡と案内板に記載されていた。

安土山全体では、大手道以外にも2~3本登城する階段があり、大変な宅地造成工事が想像できる。

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山頂に天守閣跡はありますが、天守閣などの復元はされていません。
・・

ここは、現代の岐阜城、

北の眺望

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城の前の尾根、稲葉山は岩山のようです。

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尾根に、このような建造物が(手前はトイレ、奥は岐阜城資料館)資料館は昔の武器庫、食糧庫を隅櫓(スミヤグラ)城郭造りに1975年4月、復元したものです。

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資料館の案内板

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資料館の内部入り口横に、さざれ石(細石が集まって固まった岩)

尾根を下って戻る途中、尾根横に井戸の跡があり水の確保もできていたことに感心する。

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ここは、尾根近くの100曲りの道です。

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平地に降りて、長良川の鵜飼で有名な金華橋を渡り、鵜川町付近から岐阜城を見上げる。

エレベータの無い高層ビルの最上階を連想する・・・眺望は良いが上り下りが大変、・・・感心する。

さらに北、関城のあった刃物の町、関市に向かう。

そして東海環状自動車道で美濃加茂ICに、夕方になってしまった。

ここから北西に数キロ、堂洞城(砦)跡が残っているようだ。

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東に約1㎞、公園と道の駅、そして日本昭和村がある。

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・・・二日後の昼過ぎ、激痛で病院に駆け込むことになる。胆石と確信し超音波の検査をするとその通り、(その後、運動と水分の補給で流れた)

東名高速 横浜をPM9:00頃通過すれば渋滞も少ないだろう。・・・ゆっくり帰ろう。

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