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気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

兼六園が開放日だった

2014-07-06 | 旅行記

信州中野IC を11時前に乗る。信越自動車道を北へ

高速道路周辺の風景は、・・・わき見運転に興味を持たせないように・・・? こんな風景とトンネルが続く

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約60㎞、30分も走ると北陸自動車道と交差する上越ジャンクションに、・・・ここからは西に、日本海に沿って南下する。

日本海を見ながら走れるかな・・・と期待していたが 、トンネル、シェルター、トンネル、トンネルと、この道路も退屈なドライブが続いた。

糸魚川を過ぎ、海岸線に近づいて、多少海が見えたのが 子不知(こしらず)、親不知(おやしらず)地区・・・この付近が、越後と越中を分断していた北陸の箱根峠でしょうか。

地名の由来の一説に、峠越えの難所で子を波にさらわれた悲劇の親子連れがあるそうです・・・ここの人達は郷土の地名をどう思っているのか・・・気になった。

海岸線の断崖絶壁は、国道8号を走れば体感できるのでしょうが、高速道路は海上に張りだす形の高架橋でした。アッという間に通り過ぎてしまう。

今日では、この海岸へ張り出した難所から2~300m先(富山寄り)には、高架の下に駐車場があり、海岸線には親不知海水浴場があります。

1㎞先が親不知IC、ここで一般道に降りてみるのを忘れて、・・・気が付くとまたトンネル。

トンネルが続き、目の前が開けたら・・・富山県、そして黒部川を渡り、上越JCから110km、1時間弱で富山ICで降りる。

国道41号を1㎞くらい走り、右側に海鮮市場があり、市場のショッピングと昼食。

富山駅前付近はかつて散策済みだし、ドラえもんトリムは、隣の高岡市だった・・・

金沢に急ごう・・・再度北陸自動車道で30~40分、金沢森本ICで降り、山側環線(金沢外環状道路)を10分も走り、右折して市内に入り5分、交通整理のお巡りさんが多い。

兼六園下交差点、左折、石川県兼六駐車場に車を入れる。

駐車場の道路反対側に、石川県観光物産館がある

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物産館の右横が兼六園交差点、ここを左折した道路に・・・警官が多い、有料観覧席の看板が目立つ。

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・・・第63回金沢 百万石まつり 金沢城入城行列 午後2時から・・・

3時少し前だが、行列は城の反対側金沢駅がスタート、先頭がこの地点に来るのは3時半頃かな?

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行列の主役はこの人 、加賀藩祖 前田利家

さて、隣の兼六園、庭園を拝見しよう。案内板は左が北、観覧席があったお堀通りを挟んで 金沢城が下側に、兼六園が上に書かれている。

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現在地は案内板の中央(上側の兼六園の左端)・・・桂坂口 です

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入場券売り場、¥310- 何かうれしい貼り紙が「遠路はるばるご苦労様です。本日は無料開放です。ご自由にお入り下さい」

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ありがとうございます。兼六園の横にかわいい桂坂の立札が案内してくれた。

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桜の時期に訪れたい桜ヶ岡を抜け眺望台へ、市内が一望できる・・・そして、庭園内を見渡すと、・・・月見橋から霞ヶ池方向

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趣のある構成になっている。

ここ兼六園のHP(ホームページ)に

「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大こうだい)を表そうとすれば、静粛と奥深さ(幽邃ゆうすい)が少なくなってしまう。

人の手が加わったところ(人力じんりょく)には、古びた趣(蒼古そうこ)が乏しい。

また、滝や池など(水泉すいせん)を多くすれば、遠くを眺めることができない」

と中国、宋の時代の書物「洛陽名園記」には六つの景観が共存しているのは湖園だけだと記されている。

・・・「この六勝(ろくしょう)を、兼六園が奥州白河藩主・松平定信によってその名を与えられました」・・・とあります。

この構図の中に 六勝、感じられますね! 

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大きな池に小島、手前に小さな橋、灯籠があり・・・

徽軫灯籠(ことじとうろう)と名前がついていました。高さは、2.67m

徽軫・・・読めないですね。琴柱(ことじ)に似てるところからついたそうです。

琴柱(ことじ):和琴の場合、胴の上に各弦に「人」の字形の具を立て、弦を支え音の高低を調整するもの。

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灯籠の足が二股でこの琴柱に似ていたから・・・和琴では柱を(じ)と読み琴柱(ことじ)と読む。

それで、更に類似の文字を当てたのでしょう・・・

徽も琴の節、弦を押さえる所を示す印、また支える台(ことじ)のこと、軫は琴の弦を巻いて調整する軸木のことを指します。(広辞苑より)

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ここ兼六園の中心となる池、霞ヶ池(1837年)広さ5800㎡、池の中の島は、蓬莱島(ほうらいじま)といい、不老長寿をあらわしており、また亀の甲の形をしているので、別名、亀甲島ともいう。(案内板)

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先程の 徽軫灯籠(ことじとうろう)の反対側、 内橋亭横からのパノラマです。

右側の大木をアップにしましょう。左下の案内板は、合成です。

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「唐崎松(からさきのまつ)13代藩主 前田斉泰(1822~1866)が琵琶湖の松の名所、唐崎から種子を取りよせ育てた」と記されています。

枝ぶりが見事な松で、11月1日から雪吊り作業が始まると、必ずTVで放送されます・・・あの有名な松です。

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 「蒼古そうこ」・・・時が流れると苔生して、「人力じんりょく」の跡も自然に呑み込まれ・・・いや!

ここは、管理されているからこのような素敵な状態が保たれているのでしょう。

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ここは「瓢池ひさごいけ」、池の中程がくびれて、瓢箪(ひょうたん)に似ていることから名づけられた。

池の中には不老長寿の島、神仙島をかたどった大小二つの島がある。

右の六重に重ねた塔が「海石塔」、加藤清正が朝鮮から持ち帰り」秀吉に献上し、秀吉から贈られた石塔と言われています。

中央奥の滝は、翠滝(みどりたき)、霞ヶ池から流れ出てくるので水量も豊富、高さ6.6m、幅1.6m

紅葉時に訪れるのもお勧めで、別名「紅葉滝」とも・・・。

・・・曇天の空に、パレードのにぎやかな音が聞こえてきた。時刻は3時半、・・・最後に噴水を・・・

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この噴水も霞ヶ池が水源で、水柱の最高点が霞ヶ池の水面と同じ・・・高低差を利用した自然の水圧で噴出しています。日本で最古の噴水と言われています。

・・・蓮池門通りから、にぎやかな下のお堀通りを

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ブラスバンド隊やバトン隊のパレードが進んできました。

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オッと、・・・危ない。

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大丈夫、危ないシーンはカット。

ミス百万石のパレードに続いて、獅子舞行列(市内5団体)

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子供、赤ちゃんが泣き叫び、お母さんが大喜び・・・

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加賀とび行列、木遣隊

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尾山神社御鳳輦(ごほうれん)・・・(聞きなれない言葉で)・・・つまり、鳳凰が乗っている神輿(みこし)で、利家公の御分霊の渡御(とぎょ)?・・・(神輿が進むこと)、目の前を通り過ぎました。

次々に行列が進み、兼六園下の交差点近くでは、5回目の演技が終了すると兼六園側に大きくUターンして、

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写真左端の公園に向かう坂道を上り、写真中央右上の石川橋から、金沢城公園(三の丸広場)のステージへと進みます。

利家公が武者を従え入城し勝ち鬨(どき)をあげる入城祝祭が午後6時まで続きます。

ホテルを6時チェックインにしているので、この辺で散策に行こう。

 

 

 

 

 

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万座から富山へ

2014-06-30 | 旅行記

6月上旬関東地方が大雨注意報の中、万座温泉に向かった。

その2日前、6/4(水曜) 昼のニュースでびっくりさせられた。

草津白根山の火山活動が活発になり、昨夜、気象庁が予知連絡会で噴火警戒レベルを1から2に引き上げたと発表した・・・との報道を耳にする。

続いて、一部の道路交通規制が実施されたと・・・。

これは大変、万座から渋峠経由で志賀高原に抜けられないと一大事

草津町の情報を調べると、国道292号殺生河原駐車場前(草津町)から万座三叉路(妻恋村)の間8.5Km、全面交通止め。草津で食事はキャンセルが必要なようだ。

草津町観光協会に電話を入れて、迂回ルートと万座から志賀に抜けられるのか、・・・万座の宿に電話を入れて様子を聞くなどした結果、二日後不安を抱えながら雨の中出発した。

急ぐ旅でもないので途中で散策し、万座・鹿沢口近くから有料道路の「万座ハイウェー」で登ることになる。

軽井沢方面からは、草津温泉経由で万座温泉に上る一般道が通行止めのため、この有料道路のみが万座に通じる道路となった。

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万座まで距離は20.3㎞、5分も走ると妻恋高原ゴルフ場が・・・そして料金所となる・・・消費税が8%になり、料金も¥1,050円と安くはない。

国土計画が万座を開発し、ホテル、スキー場、ゴルフ場と得意の囲い込み・・・この道路も現在はプリンスホテルの管理、

冬季は、草津経由の一般道が閉鎖され、パウダースノーの万座スキー場に行くにはこの有料道路の利用が必要になる。

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木立の中・・・もちろんカーブが続く。30分位で前方に赤茶けた山肌に建物が見えてきた。

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標高1800m、上信越高原国立公園内・・・しかし、雨模様で夕方、散策は断念し・・・明日の天候に期待して露天風呂に直行する。

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数ある露天風呂の中でも人気の「石庭露天風呂」8つの湯船がある硫黄泉で、案内図の右上が女性専用で、その先は混浴、男性は右下の入り口から。

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渓流に面して 、思ったより広い石庭温泉です。

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この万座温泉は、案内板に・・・豊富な湧出量(540万リットル/日産)と80度の高温の硫黄泉

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泉質は18種類以上で適応症も多彩とのこと。

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少し上流から万座高原ホテルを望む。ホテルの裏に見える道路を上ってきた。

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道路の右上が、「こまくさの湯」などの露天風呂がある、万座プリンスホテル。

「石庭露天風呂」と共通でどちらにも入浴ができる。

ホテルの更に右側が万座温泉スキー場のゲレンデ。

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・・・冬季のスキー場営業を除けば、温泉以外何もない万座温泉と同様、信号機もコンビニも無い、自然が売りの名湯が近くにありました。

すぐ近くの草津温泉街?・・・ここは有名な避暑地・観光地です。

同じ吾妻郡・・・渓流沿いに・・・四万(しま)温泉・・・ここにも素敵な露天風呂があります。

以前宿泊した際印象が良かったので、参考にご紹介

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露天風呂と女将が有名な「四万やまぐち館」、

上左が大岩にお題目を刻んだ大露天風呂、右が檜の香りの和風露天風呂 

屋外に岩山を配し東屋がアクセントになる露天風呂が多くみられますが、ここの露天風呂は岩山を取り込んでに建てた旅館の贅沢な内湯という雰囲気でしょうか。

ここ万座とは別水系ですが渓流四万川が流れ、壁を取り払った湯船につかりながら、川風に当たりせせらぎが心地よいそんな時間が流れていきます。

混浴ではなく、男女が利用できる露天風呂が時間帯で指定されていました。

・・・

翌朝・・・白根山が立ち入り禁止のため、近くの源泉地 姥湯(うばゆ)、

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硫黄の噴出で立ち入り禁止の囲いがあちこちに。

視界も悪く天候が好転しないので、尾根の反対側、長野県志賀高原に向かって渋峠を越えよう。

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この交差点を右に行くと草津白根山、山道を下ると草津温泉・・・右端に道路を塞いで通行止めの白い看板が立て掛けられていた。

左に進み群馬県と長野県の県境、渋峠 に向かう。(冬季:11月初頭から4月下旬は、積雪のため道路は閉鎖される)

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眼下に雄大なパノラマがあるのだが、視界が悪く残念!

通り過ぎて少しバックする・・・この中央分水嶺 この地点に降った雨は群馬県に流れ太平洋に注ぎます。

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群馬県吾妻郡中之条町が建てています。・・・長野県側(長野県下高井郡山ノ内町)は付近に建てていたのか探さなかったので不明・・・

しかし、中央分水嶺・・・北は青森、海を渡って宗谷岬まで、南は九州佐田岬まで(瀬戸内海は太平洋に含めるそうで中国地方の山陰・山陽の県境付近が分水嶺)

日本海側と太平洋側に注ぐ境界線を、日本の北から南まで一本の線で引いていますので、よく見れば各地に中央分水嶺の表示がされているのでしょう。

続いて、道路の右側に狭い駐車場と石碑、日本国道最高地点

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石碑の文面は

「日本国道最高地点 国道292号・志賀草津高原ルート 標高2,172m

 かつて善光寺から草津へ行きかう旅人で賑わった草津街道は、志賀草津高原ルート・国道292号線と姿を変え、湯田中渋温泉郷から志賀高原・白根山を抜け草津温泉に至る全長46㎞の風光明媚な山岳道路として多くの人々に親しまれています。

ここは、標高2,172mと日本の国道の中で一番標高の高い地点です。

また、長野県・群馬県の県境に接し尾根を走るこのルートは、山田峠を中心に分水嶺をなしており、長野県側に落ちる松川は峠の沢に端を発し、千曲川を経て日本海へ注ぎます。

一方、群馬県側は、日本有数の酸性河川である大沢川・谷沢川から利根川を経由して太平洋へと流れ込んでいます。」

・・・この先が長野県側 

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よーこそ 志賀高原!・・・この地点も標高2,172m

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尾根のこちらは北側斜面、南斜面とは大違いでこの時期でも残雪があります。

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国道292号線 熊の湯スキー場 志賀プリンスホテルの前を下り・・・4㎞くらいで信号のない交差点に・・・志賀高原スキー場の中心地

右に大きくUターンするとジャイアントスキー場を横切り、一の瀬、焼額山、奥志賀高原スキー場と上る道路だが・・・

右は、栄村/野沢温泉の案内があった。国道471号線は行き止まりと思っていたが・・・

この先左に丸池スキー場がある。その先にサンバレースキー場がありこの辺に宿を取り、リフトを乗り継いで北志賀まで上り、1日かけて周辺のスキー場を滑りながらこの地点に戻ってくる、そんな滑りができる志賀高原です。

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ビワ池ホテル前を通り、志賀高原を後にする。

湯田中温泉を右に見て、志賀中野有料道路を経由し

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信州中野ICから、上信越自動車道に乗る

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土曜の昼前、交通量は少なさそうだ。

富山で昼休みとしよう。

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日本の歴史絵巻 と ドイツ古城と大学の街

2014-06-18 | 旅行記

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素敵な庭園・・・、彫刻の森? 野点(のだて)?・・・失礼! これは合成写真でした。バックの緑を探していたら・・・つい合成を、

女性は時代絵巻に登場する姫様、バックはお城の新丸広場・彫刻の小路?です。

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石垣は、大阪城ではなくて・・・ 金沢城 石川門横の石垣です。

手前の兼六園の高台から、ブラスバンド、バトンのパレードを迎える。

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こちらは、2014年「ミス百万石」知恵里、愛夢、有都咲さん・・・。

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日傘付で特別扱いのお嬢様が・・・。沿道から拍手・・・お松の方と呼ばれています、利家公の奥方です。バックは、兼六園・蓮池門通りの木々新緑です。

場所を移って合同庁舎前 、獅子舞行列、とびの行列に続き、白馬での登場は尾山神社の宮司でしょうか。

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子供奴行列、珠姫お輿入れ行列もあり、大人奴に続いて「お松の方」行列となりました。

四代、五代藩主行列、数か所の観覧席前で演武があるが、鉄砲隊・・・一般人で特殊技能も訓練もないので・・・空に銃砲を向けて・・・空砲も無し、装束と頭数で勝負です?

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加賀八家老行列:騎馬隊が続き、・・・更に大きな歓声が!

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二代藩主利長公ら110名強と前田利家公の行列、パレードの主役が登場です。

初代藩主として1583年この地に入場し、礎を築いた、前田利家公です 。白馬に黄金の甲冑(かっちゅう)姿。

そして最後が、派手な赤母衣衆(あかほろしゅう)と呼ばれる一団。

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信長(18歳)の時に、14歳の犬千代は近衆(小姓)として仕えます。信長親衛隊には赤・黒の母衣衆(当初は布を風船のように膨らませ後方からの弓矢を防ぐ装束)があり、犬千代(後の前田利家)は赤母衣衆の筆頭でした。

・・・金沢100万石まつり 6月7日(土曜)午後2時20分金沢駅から スタートし金沢城公園まで約3.1Km、百万石行列が練り歩きました。

お松の方行列:お松の方は、女優 菊池麻衣子さん(39)、

前田利家入城行列:前田利家公は、俳優の 原田龍二さん(43)

行列に参加された人々は、小学生も含め約2500名・・・実行委員会の「百万石行列かんたんガイド」より。

関東は大雨の土曜日、ここ金沢は、幸い梅雨の合間の曇天でした。

・・・

さて、ドイツの旅も終わりにしましょう。

ハイデルベルク・・・まず食事をして、この街の魅力を探しましょう。

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お勧めメニュー? 忘れてしまった! 

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確か地元の特産ワインを頂いて、お土産にしたと思ったが・・・。

この街は、・・・街の中央、マルクト広場から・・・案内板を見てみよう。

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案内板の上は北、・・・右上東端の駐車場から少し歩いた地点です。拡大して、注釈を入れてみると

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そして広場から、南の丘の上にハイデルベルク城が見えます。

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ドイツの各都市が歴史に登場するのは、中世の終わり十字軍の遠征の頃からでしょうか。

腐敗したローマカトリックに対し宗教改革が起こると、この街ハイデルベルクはプロテスタント(カルヴァン派)に早くから改宗します。

・・・1622年あのバイエルンのティリー将軍にこの街も占領されます。1618年~1648年の30年戦争当時の話です。

ティリー将軍自身もカトリック教の信者です。・・・カトリック教の普及活動にイエズス会に入ろうか?いや、カトリック教に反対・敵対する者は潰さなければ・・・

武力で潰す軍隊に入り功績をあげていきます。

この街もティリー将軍と同じキリスト教なのに、・・・バチカンを批判して別行動をとるプロテスタント教の住む街を占領しました。

住民はもちろんカトリック教に戻されます。

ところが約10年後、1633年スウェーデン軍によって再び街は攻撃され、プロテスタントに戻ります。

しかし、翌年皇帝軍に奪還されカトリックを信じなさいと。・・・聖霊教会も右往左往・・・

街は復興できずに荒廃し続けます。

・・・その後、1688年~1697年プファルツ継承戦争(オルレアン戦争)。

この地のプファルツ選帝侯カール2世が、世継ぎが無いまま亡くなります。後継者の選考が問題となります。カール2世の妹がルイ14世の弟に嫁いでいました。

後継者の決定に異議あり・・・、当時勢いのあったフランスのあの太陽王ルイ14世が、弟の妃の出身地を理由に、プファルツ領地の相続領有権を主張して攻め込んできました。

1689年プファルツ領地であったこの街も占領され、略奪・破壊行為で無残な現在の姿になったといわれています。

・・・2度の戦争で破壊され、目の前に見える城は廃城です。廃城の状態で解体されずに300年以上も残り続けた理由は何でしょうか?

ケーブルカーで高台に上がると、裏側は(内側)は・・・裏の山からフランス軍に大砲を撃ち込まれ・・・無残何も無い廃虚、ハリボテのセットの状態になってしまった。

見上げているこの広場の周囲三方向をパノラマ合成で・・・

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そして広場の右側に、東から西へと旧市街のメインストリートが走ります。Dsc_0767

コルンマルクト(穀物市場)のマドンナの像(スイスと同じく、噴水・水道がシンボルです)

マルクト(英語ではマーケット・市場)、水曜と土曜の午前中 朝市開催。

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前方の広場がマルクト広場、右が市庁舎:1701年から現役(観光案内所有)、右下・・・ここに案内板があります。

正面は聖霊教会、鐘楼のある裏側(西)が正面ファサードになります。

残念ながら、ステンドグラスで覆われた祭壇がある教会の東壁面が広場に面していますのでこのカットになります。

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市庁舎広場とヘラクレスの泉(井戸のようです)

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旧市街中心部、

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歴史的建造物が並ぶ

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の建物は歴史を感じさせます。ルイ14世・フランス軍の焼打ちから耐え、残ったただ一つの建物です。

建物の頂上に、守護神ザンクト・ゲオルグ 騎士の胸像が据えられています。そこで「騎士の家:ツム・リッター」 と言われます。

ツム・リッター:Zum Ritter ロマンチックホテルとして現在使われていて、人気のレストランも営業中。

さて、先程の広場の角にある「聖霊教会」この教会は、1400年前後に建て始め、1544年頃完成のようです。

カトリック⇒プロテスタント⇒カトリック・・・混乱、内部を仕切って両派で運用・・・長い間色々とあったようです。1936年にプロテスタント派が、カトリック派から権利などを買い取り、決着しました。

尚、イエズス会の教会建設が30年戦争で占領したころから始まり、1759年ころ完成、大学の近く(案内板参照)にあります。

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広場に面したこの聖霊教会で特筆すべきは、内部に入ると外観から想像できない現代への強烈なメッセージが目に飛び込んできます。

側廊のステンドグラスに驚く・・・何だ! ドイツ語のメッセージだろうが(1~2年かじっていても、さっぱりわからない)聖書の言葉が引用されているとのこと

この教会は、近くにある1386年創立のハイデルベルク大学と関係が深い。

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現代の写真技術を組み込んだグラフィックデザインであり、緑、青、黄、更に強烈な赤色、・・・立ち止まり目を凝らしてしまう。

6.8.1945 右下のこの数字は、1945年8月6日を意味しています。

この日は?・・・広島に原爆が投下された日・・・何故こんなに歴史ある教会に?

赤く荒れくれた球体は、強烈に悲惨な状況が浮かびます。黙示録とは関係ないでしょうが。

その右上に E=mc2 ・・・アインシュタイン・・・「物理学の窓」とも言われるそうです。毎週教会で悲惨な出来事に出会うのはいかがなものかとの反対も多かったようです。

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ハイデルベルク大学はこの教会と関係が深く、学部を象徴するデザイン・メッセージで窓を飾ろうとされたらしいが、斬新すぎてでしょうか?全体構成は未完のようです。

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この教会から直ぐ近くにカール・テオドール橋があります。

アーチが9つ、全長198.5m、幅は約8mで車道もあります。建て替えること9代目、1788年製です。

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橋の左横に、サル(顔の部分が空洞で、頭を入れて記念撮影)の置物。

左手には鏡、光っているのは触ると〇△があるといわれているようです。

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橋の上から振り返ると、ハイデルベルク城、・・・城をバックに記念撮影の名所です。

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この街、旧市街はかつて城壁で囲まれていました。その一部が門となって残っています。その一つがサルがいた橋のところにもあります。

城壁門より目立つ白い対の塔は、・・・高い所・・・見張りに使われていました。

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さて、この立て看板 STUDENT  PRISON 学生刑務所 とあります。

観光コースに、ドイツで最も古い大学の学生専用刑務所があります。そして内部が見学できます。

学生による自治、秩序、統制を素直に受け入れる者がいる一方、若者は反体制が勲章だったり、秩序は壊したい・・・揺れる年代です。

1712年から1914年までおよそ200年間、学生は軽微な違反者はMin.3日間から、大罪はMax.4週間 牢屋に入れらたそうです。しかし、退学では無いので授業は受けられたようですが、

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ここが学生街

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1368年 ハイデルベルク大学が創設されました。当初は校舎が無く聖霊教会で講義が行われたとも。

この建物は旧校舎で博物館です。この右側に新校舎が建てられています。校舎は、他にも市内に分散して あります。

ドイツ南部を巡ってみて、どこもルターによる宗教改革の波が大きく、結果、宗教戦争(30年戦争)の戦場になり、戦のあとは・・・破壊された街・・・多くの戦死者・・・働き盛りの人口減で復興もままならず・・・

今日その遺産を見て回る、過去があり、・・・元気な今日がありホッとした。

将来を動かすのは・・・この子供たちです。

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そしてハイデルベルクの素敵なお母さん!

 

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ドイツ 古城街道

2014-06-03 | 旅行記

書きかけの内に時間が過ぎ、突然の猛暑がやってきました。エアコンが無いと無理・・

太陽が降り注ぐ最高の季節がすぐそこに・・・、若くないから夏の暑さは勘弁して!・・・?

若いけど、紫外線は皮膚に良くないので夏は嫌い!・・・紫外線は今が一番強いそうですが・・・

適度に紫外線も浴びないと、ビタミンD、特にD3が造られませんよ。免疫力・骨・がん予防いろんな効用があるそうですよ。

・・・昨年咲かなかったアマリリスが、見事な大輪を咲かせてくれました。

3週間前に1本の茎から大輪が四方に4輪咲き、花が終わると続いて同じ球根からもう1本の茎に2輪、遅れて2輪と咲いて楽しませてくれました。

毎週週末になると、胡蝶蘭、クンシラン、ポインセチア、と植え替えが続き、元気のない きんもくせい は薬剤散布が必要になり・・・、オクラをプランターに移植して・・・そんな週末です。

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さて、ようやく新しいPCがそこそこ動くようになってきた。写真の整理も一段落させよう。

・・・南ドイツの中世の街ローテンプルク。

ここは古くからドイツを南北に走り、イタリアに続くロマンチック街道の有名な観光名所。

さらに、西のマンハイムからローテンブルクを通り東のニュールンベルクまでの約300キロの道を第二次大戦後、古城街道と名付けられ観光促進として整備された。

今日では、東はチェコのプラハまで延び約1000㎞に達した街道となりこのローテンブルクで交差している。

下の地図は、ロマンチック街道から西側の古城街道を示している。

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さて出発です。ローテンブルクから南に20㎞くらい戻り、西に高速道路を70㎞くらい走ると、ハイルブロン、人口約12万人

ここで高速を降り、一般道をネッカー川の渓谷に沿って北西に進み、ライン川にそそぎこむマンハイムまでが古城街道と呼ばれる。

このハイルブロンから北上すること3㎞くらいで、ネッカーズルムの有名企業建屋が見えてきました。

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アウテ゛ィ(本社はミュンヘンから北に60㎞のインゴルシュタット)のネッカーズルム工場。

アウテ゛ィ(Audi)は、1910年設立、戦後の1955年同じくドイツのフォルクスワーゲンの傘下となり、現在株式は99%VW社が持っています。

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最近高級車にシフトしヒット商品が続き、生産は順調の様子。 完成車がレールの上を延々と流れて行く。

そして、同じくネッカー川沿いに水を利用する大きな建造物が・・・。

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白い水蒸気を吐き出しているのは、・・・原子力発電所です。

ドイツの原発依存は30%くらいのようですが、・・・最近、日本の原発の被害を目の当たりにして、原発0を目指すと宣言しました。

ハイデルベルクを目指し、川沿いに進みます。

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この付近は、まだ大きな街が点在し、街のランドマークは・・・教会の尖塔です。

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対岸に見えるのは、バート・ヴィンブフェンの街のようです。

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丘の上に見えてきたのが、・・・? よくわかりません、古城です。

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丘陵地帯の高台に・・・

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グッテンベルク城 でしょうか? それともホテル?

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この付近は川が大きく蛇行しているので、川の向こう 左に見えた小さな古城が

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徐々に大きくなると、いつの間にか

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道路の右上に見上げる感じになりました。

川の斜面にぶどう畑が続き、その高台にあるのがホルンベルク城です。

もうすぐ道路が分岐する。目的地ハイデルベルクは川に沿って直進・・・、右に進むとモースバッハの街です。

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ネッカー川は高低差があまり無いのでしょうか? 

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簡単な固定で、車ものんびりと・・・

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鉄道の駅がある、ドイツ鉄道・・・、Sマークの駅がある、都市近郊電車、ここはツヴィンゲンベルク駅のようです。

この街は、ハイデルベルクから東に40㎞、人口は700人くらい。

有名なのが13世紀に最初に築かれ、のちに再建されたツヴィンゲンベルク城とあります。

大きく蛇行している川の下流に古城が見えます。川の左岸はキャンプ場のコテージ風な建物が整然と並んでいます。

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城の真下に来ました。ツヴィンゲンベルク城。現在はバーデン大公の私邸として、維持管理されているようです。非公開

この城の裏側は深い谷で、ウェーバーが歌劇「魔弾の射手」を生むきっかけになったと言われ、これを記念して年1回行われる野外演劇に多くのファンが集まるようです。

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ヒルシュホルン城:古城ホテルとして営業され人気があるようです。

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この界隈は、古城ホテルの街 ヒルシュホルン 

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ネッカーシュタイナハの城

 

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ここから隣町、ハイデルベルクへは電車で15分くらい。そう、もうすぐハイデルベルグです。

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ここがハイデルベルク旧市街、東の入り口  カースル門(1781年建造)

旧市街はここから2㎞程の範囲で西側のビスマルク広場まで

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そして、ネッカー川にアーチ橋が架かっています。カール・テオドア橋・・・1788年建造・・・古い橋(アルテ・ブリュッケ)と呼ばれることが多いそうですが、単に古い橋より愛称があってもいいのに

この橋から左の山裾にあるハイデルベルク城の撮影スポットがあります。次回に

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伊勢・鳥羽観光 そしてナビが?

2014-05-09 | 旅行記

近鉄 名古屋駅から名古屋線に乗る。天むすとお茶を持って・・・。ここから約80㎞、1時間弱くらい伊勢湾の車窓を楽しむことになる

市内を過ぎて木曽川を渡り、ハマグリで有名な桑名を通過。この下流にナガシマスパーランド(ジェットコースターなどが有名なレジャーランド)があり施設の一部が見えてくる。

まもなく四日市の湾岸地帯を抜け、鈴鹿市の平野を海岸に沿って南下する。

海の近くに白子駅・・この付近にアナゴ料理の美味しい店があった。

・・・当初の予定では、ブルーベリーの大きな鉢を3鉢ほど車に載せて鈴鹿に来る予定だったが、突然東京で車を手放すことになり、やむを得ず電車で来ることになった。

中古車は、型式・年式などで店頭価格の相場が分かります。中古車販売のデイラーは相場を参考に、業界のオークション会場での落札価格が想定できます。

この落札価格から各ディラーが適正利益を考慮して買い取り価格を決定します。(買い取り価格は取引金額によって異なるが、店頭販売価格の1/2~1/4位でしょうか)

しかし、ディラーの話によると、車を確保することが最優先の場合もあるようです。海外に持っていく場合は船便のコンテナ条件もあり・・・安く仕入れる以外に、人気の車を必要数入手するのも重要とか。

そんな事情を近くのディラーで説明され、店頭価格・オークション落札価格を聞かされて、通常買取価格は度外視し・・・距離は走っているが程度は良い、ワンオーナーで事故歴なし・・・

落札想定価格に鈴鹿までの電車賃を上乗せします・・・、赤字でも欲しいと頼み込まれて3時間・・・根負けし、東京で車を処分したのが1週間前でした。

・・・まもなく目的地 三重県 県庁所在地の津市に到着した。

駅前のロータリーで5人家族が迎えてくれた。

天候は曇り、明日は雨の予想・・・ここから車で国道を約40㎞、1時間弱くで外宮に到着した。ここ神宮は、昨年 第62回式年遷が行われ多くの参拝客で賑わったようです。

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最初に訪れる外宮(げくう)は、衣食住の守り神とされる豊受大神宮(とようけのおおみかみ)が祀られている。

第二駐車場に車を止め、玉砂利を踏みしめながら手水舎(ちょうずや) に向かい、清めると・・・その先に案内板が・・・

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小川に架かる小さな橋を渡り、道なりに進むと左からの表参道と合流する。

この合流する左角に神楽殿、合流して右に折れると参道の右側が豊受大御神を含め3つの建物からなる正宮(しょうぐう)となる。

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お知らせと書かれている手前の白い看板は、参拝停止の案内です。神宮行事で一日参拝停止の場合もあるので、個人旅行の場合は念のため調べておいたほうが良いですね。

常設の木製の看板は、夜間参拝停止の案内です。季節によって夜間の停止開始時間が午後5時、6時、7時と3種類・・・とあります。5月から8月が参拝停止が午後7時と夏時間になっています。

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この鳥居も式年遷宮で新しく建て替えられました。

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参道は短い距離だが、両側の大木が覆いかぶさり太古の森の中を進むような感じになる。

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そして神楽殿が、左に見えてきた。突き当りを右に折れると正宮が見えるでしょう。

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右側に歳月が感じられる塀が見えている。

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右手に大きな鳥居が、その両側に大木がそびえ、その奥に苔むした萱ぶき屋根・・・お役目が済んだ正宮でしょう。まもなく更地になり次の式年遷宮の出番を待つ。

左隣に真新しい板塀が見えています。

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この真新しい塀の先に、新しい鳥居ができていました。

 

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式年遷宮で昨年新しくなった正宮、この鳥居から先は撮影禁止、・・・では、神宮の資料を、・・・正殿は四重の垣で守られています。

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参拝は、・・・どこの位置でしょう?

内玉垣南御門で参拝・・・しているのでしょうか?

いえ、多分そんなに中までは入れません。一番外側の板垣南御門から鳥居越しに外玉垣南御門を見ることができます。この門を正殿?と思われる方も多いでしょう。

この外玉垣南御門には中央に白布が掛けられ、中が見えないようになっています。この門から先に更に鳥居があり内玉垣南御門、更に瑞垣南御門と続きその先が正殿と思われます。

正殿は資料によると、外宮は茅葺き屋根の上に水平に押さえている堅魚木が九本あるそうです。(内宮は十本)

では、今いる位置から正面の屋根の上、・・・鳥居で一本隠れていますが・・・堅魚木は五本ですね。

・・・正殿方向に参拝し、右に折れ板垣に沿って出口に進む。

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そしてここが出口。この右手が 古い正宮

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この苔生した茅葺き屋根の上にある堅魚木も五本です。向こうに内玉垣南御門が見えています。

時間は午後2時半頃、・・・次に内宮へと行こう。位置関係はこの案内板にて 、歩くと40分くらいでしょうか。

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外宮から南南東に2㎞、内宮に通じるおかげ横丁を散策しながら参拝するので、五十鈴川の河川敷有料駐車場に車を停める。

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五十鈴川から上流を眺める、この上流にも橋が架かっていて、二つ目の宇治橋が内宮の入り口になる。

参拝のみの場合は、上流にある宇治橋横の駐車場まで入れるのでそちらが便利です。

橋を渡った右側に赤福餅で有名な赤福がある。その脇、道路横の建物から地下に下りる階段が・・・

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内宮おかげ参道・・・の看板が掛かっている。ここから階段を下り、地下道で道路の反対側に出ます。

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こちらが反対側、左手にトイレがありここからおかげ横丁・・・。地図で調べると中程に「おはらい町」があります。

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一生に一度は お伊勢参りを!・・・時々聞くことがありました。お伊勢参りは人々に余裕ができた江戸時代末期、六人に一人(五人に一人の説も)はお伊勢参りに出かけたそうです。

あの手この手の方法で、援助も受けて伊勢路へ・・・無事に参拝ができた旅人は「お蔭参り」と呼ばれ、ここの地元商家ではお蔭参りの人達に食べ物を提供し、いつか「おはらい町」と呼ばれるようになったそうです。

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おかげ横丁は㈱赤福の子会社が、バブルがはじけた後の1993年に「おはらい町」を中心に門前町の街並みを再現した観光地で、特産品や土産物、飲食店など数十店が営業しています。

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おはらい町の中程では各種イベントも開かれ、式年遷宮の話題も重なり観光客は順調に増加しているそうです。

店が閉まるのは比較的早い・・・日暮れと共に?(AM9:30~PM5:00頃)夏はPM6:00まで。

・・・おかげ横丁の終点・・・ここが、内宮の入り口、宇治橋に架かる鳥居が見えます。

ここの鳥居は、少し年季が入っている?

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この宇治橋は式年遷宮の前に架け替えられました。

平成20年、年末に仮橋が出来、前回の参拝では下流の仮橋を渡った。平成21年11月に新しく架け替えられました。

橋の下を流れる清流 五十鈴川・・・、この景色落ち着きますね・・・

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当然ですが・・・はるか遠くの尾根に、鉄塔・送電線が見えないのが・・・雰囲気に浸れるのでしょう。

橋を渡り、右に折れしばらく進むと右側に・・・内宮の手水舎です。

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手を洗い、更にこの先、右に折れ五十鈴川の岸辺に・・・

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この五十鈴川で身を清めるのが本来のようでした。しかし増水、濁流の日もあります。手水舎の利用は、便利で安全です。

この内宮では、橋を渡り右に折れ、右側に手水舎、五十鈴川も右側・・・自然に右側通行になります。

左に見えてきたのが神楽殿です。左ですから帰り道に・・・

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参拝後、お札やお守りを購入します。・・・nnん!おみくじ?

おみくじは、無いです。ここで一喜一憂しないように・・・でしょうか?。

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神楽殿の先200mくらい進むと、左の丘に斜めの階段が・・・式年遷宮で正宮が左隣に移った。これまで使われていなかった階段が、参拝後の下り専用としてこれから20年間役目を果たすことになります。

参拝に上る階段はもう少し先になります。右に少しカーブして100mくらい。木立の間に階段が現れた。

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この階段の右隣が従来の正宮参拝用階段で、更に木立の右側に下りの階段があった。

・・・階段の上は撮影禁止!・・・以前、階段を上った先での写真をブログにアップしましたら・・・、

即、神宮に詳しい親切な方から・・・「階段上は撮影禁止の看板が出ています」と指摘されましたので・・・割愛。

外宮と正宮の配置は同じようです。階段上の門のところで参拝し、左の階段から神楽殿へ。

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ここ内宮は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。

かつて、神話で神の使いとされた「鶏」に再訪を伝え神宮を後にしましょう。

時間は夕刻、PM6時までに予約先の鳥羽に向かう。

・・・翌朝、天候 曇時々小雨模様

神宮に関係するもう一か所を訪れる予定だったが、変更して遊覧船に乗る。

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MIKIMOTO 真珠の故郷 ミキモト真珠島です・

市営駐車場に車を停め、鳥羽マリンターミナル から鳥羽湾めぐり 、

曇天、鉛色の空、しかし風は幸いに弱い・・・海は真夏が一番?、日差しが強すぎても困るが、水温が低いこの時期も・・・釣りには適しているが・・・養殖筏の先に小島が見えてきた。

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飛島・・・目の前に次々と・・・島に続いて鳥が・・・遊覧船の観光客からから投げられる餌に 、集まってきたカモメたち

15分ほどで大きな島が見えてきて、入港する。イルカ島、アシカやイルカのショーが用意されている。

かもめ劇場の場所が島の高台に作られていて、一人乗りのリフトが山頂駅まで動いている。

しかし、小さな子供や年寄りは一人での乗車は無理でしょう。

・・・裏山の神社に旧坂を上る、そんな感じの坂道がリフト乗り場の隣にありました。途中から道幅が狭く未舗装になり、階段状の坂道を・・・やむなくでしょうか、お年寄り、子供たち、結構登っていました。

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イルカ島では30分毎に観光船が入港するので、30分観光後乗船、約50分の湾内一周コースでした。

食事をして帰路、松坂で人気のお店に立ち寄り松坂牛を少し購入し・・・車を引き取りにディラーへ!

今回の目的は、手配していた車の引き取りに鈴鹿に来ることだった。

・・・さて、こちらのディラーの営業マン、当初下取りも含め交渉していたので、会うなり〇△円で売られたのですか?・・・予想の倍以上の売却金額に質問攻めに合ってしまった。

さて簡単な説明を受け、支払いを済ませ車を受け取る頃には、すっかり夕暮れになっていた。サイドブレーキを左足で踏み込んで、エンジンスタート・・・左・・・何も無い。

プッシュボタンのサイドブレーキが慣れないが、マァ 何とかなるだろう。

・・・今日は日曜日、帰りの渋滞を避けて鈴鹿に泊まる。

翌日、休暇を取ってきたので朝早く奈良に向かう。1時間後奈良市内、時間は朝9時頃、県庁前を過ぎ近鉄奈良駅近く、ナビで喫茶店を探す。

・・・ナビが使いこなせない。ストラーダ(パナソニック)からカロッツエリア(パイオニア)に替えたので操作がスムーズにいかない。音声入力は、大半が誤訳。

この辺店が多いからと、右折の看板で右に曲がるとお店はあるが・・・道幅が狭い。そうだ、古い都だった。

駐車場は無いし、道幅が途中で狭くなるし、普通この道幅では一方通行だろうと不安になる、奈良では知らない脇道へ入るのは危ない危ない。

何とか幹線道路脇の喫茶店でモーニングを頼み、ナビの簡単な操作ガイドを読む。

どこに行こうか・・・大阪? ナヒ゛に頼らなくても大丈夫だろう。

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大阪城公園の東に車を入れ、・・・外堀を渡って、ここは大阪城 豊国神社

豊臣秀吉公で有名な出世・開運の神社です。豊臣秀頼、秀長さんも祀られています。台座2m、像は3.2m・・・豊臣秀吉公の銅像です。

そして、その先天守閣が

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最近、大阪城はマッピングをしたり各種イベントが盛んなようです。

こんな看板がありました。

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目の前の大阪城ではなく・・・秀吉が建てた大阪城は、1615年大坂夏の陣で・・・落城・・・来年2015年は、それから400年・・・無念の落城を節目と考えるのが地元大阪ですね。

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(大阪城内 展示コーナー 大坂夏の陣)

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(人気の真田軍)

江戸の将軍・2代目徳川秀忠が1620年に大阪城を再築・・・それから10年、落成、1665年落雷で天守を消失。

1931年(昭和6年)天守閣復興・・・戦災に合いながら・・・博物館として現在に至る。

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秀吉が建てた元の大阪城、その石垣の公開に向けて奮闘中です。

・・・1614年、徳川軍大軍で大阪城を攻めるが、城内に攻め込めず、・・・和議、講和の条件に本丸は残して、二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。(大坂冬の陣)

この時代の難攻不落な城構えの大阪城は、看板の案内通り現在とは相当違ったようですね。

さてチケット(600円)購入し、1階から5階まで直通エレベータで、そこから階段で上階に・・・6階は回廊で立ち入り禁止。7階(秀吉の生涯)、8階が展望台

突然ですが、あなたはできます?  天守閣の真正面、桜門の前で

そう!  若いからできるのです。

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嫌だー!

・・・言ってないで、左端の彼女!あなただけですよ。   右端の貴方、目線はこちらに!

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パーフェクト!  スッキリ、・・・元気になれました。

この後、・・・帰路、大津方面渋滞、伊賀を通って鈴鹿に戻るのも面白くないので枚方・宇治・山越えで信楽と・・・ナビと格闘しながら何とか信楽ICに。

夕方4時近い、・・・何とか東京の自宅に9時半頃到着した。

ナビの取扱いは添付の小冊子は入門用、別途ユーザズガイドをPCで読み込み細部の確認が必要だが、400頁を一気に印刷も大変だし、普段はナビ必要ないし、

パイオニアさん・・・動画のチュートリアルくらい用意しないと、ユピテルとスマホに圧倒されますよ。

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ローテンブルク マイスター・トゥルンク

2014-01-07 | 旅行記

あわただしく師走から新年へ!

2014年正月、東京は穏やかな日差しに恵まれました。元旦に珍しく行列覚悟で初詣にでかけてみました。

例年元旦に車で交通規制の神社の前を通り、道路にならぶ参拝の行列にここもすごいなぁと感心していた東京大神宮に・・・。

境内が狭いから多くの人が並んでいるが1時間くらいだろうと最後尾に並ぶ。最後尾から通りを2~3渡った多分ここから200mくらい先の左に神社がある。

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これが何と境内まで約2時間、右側の手水に並び手を洗い清めると巫女さんから手拭き用の紙を手渡される親切さに驚く。

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鳥居の横で更に、「謹賀新年 お寒い中を ようこそ 東京大神宮へ。」 と挨拶文が添付された東京大神宮関連のご案内(パンフ)を頂く。

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境内に入ると、参拝者の列の右端に神官が・・・参列者に次々に・・・お祓いをして頂けた。

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この東京大神宮、東京のお伊勢さまといわれる。明治13年東京における伊勢神宮の遥拝(ヨウハイ)殿として創建されましたとあります。

遥拝:はるかに遠い所から拝む、 このため伊勢神宮のご分霊をおまつりされているとのこと。

昨今、縁結びの神様として大人気のようで若い女性が多く見られた。そして伊勢神宮といえば

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全国的に有名な赤福のコーナーもお正月の名物行事。心のこもった人気の「東京のお伊勢さま」でした。

・・・

ROTHENBURG O.D.T.(ローテンブルク・オプ・デア・タウバー)・・・その2

1142年から続いているといわれるこの風景、周囲を3.5Kmの城壁で囲み、周囲は穏やかな田園風景が一望できる。

1274年神聖ローマ帝国の直属の自由都市に認可され、約300年繁栄しました。もちろんローマ・カトリック教です。

しかしルターの宗教改革によって、新教派(プロテスタント)とカトリック教に分裂・対立します。

紆余曲折の末プロテスタント側に付いたこの町は1618年からの30年戦争に敗れ、1803年に自治権を失い、領土の半分を削除され・・・

中世の時代のまま発展できずに時は流れ・・・極貧生活、街は城壁の外側に拡大することもでず。

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(これは当時のカラー写真?・・・お店のディスプレーです。良く見ると人物が・・・)

その後、1945年3月米軍空軍機の誤爆で東部地区破壊・・・・

戦後、世界からの寄付・援助で当時の街並みのまま忠実に再建・復興しました。・・・時代から取り残された中世の町が、今日ドイツで一番人気のある観光地といわれています。

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町の南のホテルから北側に向かって緩やかなメインストリートを登ると、直ぐにマルクト広場に出る。

マルクト:市場の事で、ドイツ各地にマルクト広場の名称があるから注意が必要になる。土地の名前ではないので、ローテンブルクのマルクト広場といえば、この場所になる。

Photo

広場の北側(正面)に市議宴会館、あるいは参事宴会館(ラーツヘルン・トゥリンク・シュトゥーベ)と呼ばれる1446年造の三角切妻屋根の建物がある。

西側(左)は、二棟式市庁舎(ラート・ハウス)、前棟はルネッサンス式(1572~78造)で、アーケードが1681年造。市庁舎の壁面には当時のエンブレムが

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後棟は鐘塔60m、火災を免れた13世紀のゴシック造りの建物が残っている。

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この鐘塔には階段で登れるが、広場に戻ってみよう。

さて、始まるかな・・・30年戦争時代町を救ったある物語

マイスタートゥルンク (Meistertrunk)・・・「市長の一気飲み」とは?

・・・先程のディンケルスビュールの町は、改宗しないでカトリック教が続いていました。その結果、プロテスタント側のスウェーディン軍に敗北してしまいます。攻め込んだ将軍に町を壊さないように訴えたのが子供たち、願いが聞き入れられ町は救われたのでした。・・・

ここローテンブルクの町もカトリック教でしたが、ルターの宗教革命後、紆余曲折の末プロテスタントに改宗しました。

この町は1631年10月、カトリック側の連盟軍ティリー将軍の率いる3万以上の兵に包囲、占拠されました。

ティリー将軍は、この町のわずか700人余の兵隊と女・子供たちに、自軍が大きな損害を受けたことに腹を立てていて、町の議員達を全員処刑し、町も焼き払うという決定を下しました。

町の人々はマルクト広場に集まり、女・子供たちはティリー将軍に皆の命ごいをしたが、・・・聞き入れてもらえませんでした。(ディンケルスビュールのようにはいかなかったようです)

そこで少しでも将軍の気持ちをやわらげようとワイン管理人の娘が、この地方の美酒フランケンワインを、町の宝である選帝候の大杯についで将軍に差し出しました。

将軍は美酒に酔いしれ機嫌が良くなったのか、この大ジョッキのワインを一気に飲み干すものがいたら、町を救おうと言い出しました。

ヌッシュが名乗り出ました。当時の市長です。市長は将軍に念を押しました。

・・・「私は43才の今日ここで倒れて死んでもいい。しかし将軍、あなたは必ず約束を守ってくれるか。私がこのワインを飲み干したなら、死刑も、町に火を放つこともすべて許してくれるか」

約束を取り付けると今度は町の人に向かって叫びました。

・・・「見ててくれ、みんな!  これまで市参事会がある度に飲んできたのもダテじゃない。
今日は私がこの町のために飲もう!」

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そう言い終わると、10分間で3.25リットル入りの大杯を見事飲み干したのです。

町は救われ、この町の伝説(史実)となる。

                                
市議宴会館の切り妻部分は、上から日時計、帝国直属の自由都市を象徴する双頭の鷲、カレンダー時計、1683年に設置された町の主時計があります。

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ここに名物の Meistertrunk (マイスタートゥルンク)見事な一気飲み:約2分間の仕掛け時計です。

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左右の窓は時間になると開き、マイスタートゥルンクの主役の2人、ヌッシュ市長とティリー将軍が現れる。この仕掛け時計は1910年に設置された、ローテンブルクの名物です。

次は、聖ヤコブ教会・・・この広場から3分、市庁舎と市議宴会館の間を抜けて北西に・・・しかし、まだ時間が早く閉館中。冬季はAM10:00からでした。

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西側のブルク公園へ・・・

マルクト広場の南西に泉がある。

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この泉はゲオルクスの泉と呼ばれ、ドラゴンを踏みつける聖ゲオルクスが頂部に鎮座しています。冬季の間は破損しないように彫像が保護されていた。

角の建物に素敵な看板が掛かっている。

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コップに?の模様、さらに杖に何かが・・・拡大してみよう。

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これは薬局・・・、杖に蛇が巻き付いている。ギリシャ神話の医の神の名前に由来するようで、アスクレピオスの杖と呼ばれる。

医薬との関連は、蛇は毎年脱皮する・・・それで若返りを連想する。この杖と蛇の紋章はヨーロッパ中の薬屋のマークになっている。

この大きな看板は、動物が・・・

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HOTEL Goldener Hirsch 「金鹿館」 金色の鹿の看板でした。

壁面広告がなく袖看板も無い、入口の上部に一定の高さから腕を出す方式で、鍛冶屋が腕を競ったのでしょう。

ワイン、パン屋と楽しい看板が見られます。

マルクト広場の南端からブルク公園に向かう大通りがヘルン・ガッセと呼ばれ、左右には貴族の家が並びます。

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中央には泉ヘルン・ブルンネンが、昔ここは馬市が開かれていた。

そして広場の南から西に向かって、かつての馬市の場所がある。

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右端に見えるのがブルク門、ここは城外・・・ここがブルク公園です。

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右側前方で塔が数本みられるのが旧市街の南地区。

ローテンブルク オブ デア・タウバー:タウバー河沿いのローテンブルグの意味で、右の斜面の下がタウバー渓谷となる。

また広場のほうに進む

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この付近は住民の駐車場なのか・・・スロープ式で地下に駐車場を造ればいいのに・・・

旧市街の中は、掘ればあちこちから遺跡が発掘されるので無理なのでしょうか?

聖ヤコブ教会に戻ってきた。

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この町の主教会、1311~1484年に建立されたゴシック様式の重厚な建物。立派なステンドグラスが施されているようだ。

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内部に入ろう。

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天上界に届けと高く、より高くとスッキリした室内に驚く。正面の祭壇、その奥に見事なステンドグラスがあった。ステンドグラスは14世紀に造られ、高さは17m

中央は「キリストの生涯と受難の場面」、左「マリアの生涯」、右「キリストの救済」

主祭壇の扉絵は1466年に描かれていて、火災に会う前の市庁舎と広場が描かれているとあるが、扉が開いているので扉絵は見ることができなかった。

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主祭壇は木彫りで、塗装が施されている。磔刑のキリスト像、6人の聖者(左からエリザベート、ヤコブ、マリア、ヨハネス、レオンハルト、アントニウス、エレミタ)とのこと。・・・残念ながら勉強不足で聖者は詳しくない。

開いた扉の内側には受胎告知や東方三博士・・・などが描かれています。

下部の横長の部分(祭壇飾り台プレデラ部)にイエスと12使徒が・・・この主祭壇は「十二使徒祭壇」と呼ばれる。

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これも見事な作品

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左の側廊にこのような木彫りが置かれていました。この地で制作されたのか、十字軍が持ち帰ってきたのか・・・厳しい時代が思い浮かんできます。

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入口で2?を支払い、2階に登る階段から1階を振り返ったところです。1階は無料で開放してますがこの階段の上が有料です。

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2階西側にあるこの作品が、この教会を有名にしています。聖血祭壇

十字軍はローマ法王の招集で、ヨーロッパ全土から何度も編成されました。この地からも出陣しています。長い戦いの後、地元に戻るには聖地エルサレムから土産を持ち帰る必要があったでしょう。

十字軍はカトリック教徒、キリスト教の信者です。聖地から持ち帰るのに最高なのは、聖遺物と称される物でしょう。従って十字軍のお土産が、ヨーロッパ全土に広まりました。

この地でも1270年頃エルサレムから持ち帰ったというキリストの聖遺物、十字架の中の水晶の玉を祀ることになりました。

祀る祭壇は、元ヴェルツブルグ市長で彫刻家 ティルマン・リーメンシュナイダーが1499年~1505年にかけて市から注文を受けて制作します。

彫刻は地元の家具職人 エアハルト・ハルシュナーが祭壇に組み上げたとあります。

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中央の彫刻は「最後の晩餐」・・・木彫りです。構成・技能、見事な出来栄えです。

左側:イエスのエルサレム入場、右側:イエスの祈り(ゲッセマで)

上方を見てみよう・・・十字架があります。

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聖遺物の部分を拡大してみましょう。

二人の天使が支えている十字架、その中央に水晶玉があり、その中に聖血イエスの3滴の血・・・

血が本当に入っているのか?   ・・・今日では、そのようなことを詮索する時代でもなく・・・、800年前の中世の時代には、教会は聖遺物という錦の御旗と物語があれば信者が喜んだということでしょう。

ルネッサンス・・・、自然科学が発生し、新しい時代が到来し・・・、プロテスタントの教会が現われてきます。

・・・宗教の力とは?・・・全てを捨てて寄りかかると、自立できなくなるような強大な力があるようです・・・ユダヤ教、イスラム教、そして原理主義(教条主義)の影響力を思い知らされることになりました。

太陽の光と風に吹かれたくて、教会を後にする。

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中世以前のヨーロッパは、農耕・狩猟が中心で、地中海、エジプト文明とは大きな違いがあった。あちこちのお店に木のおもちゃや動物が目立つ。

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世界で最初、クリスマス用品専門店が何と1年中オープンしているお店も有名です。

もちろん、熊のぬいぐるみも有名です。

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Teddyland ドイツ最大級のテディベア専門店。他にも、ぬいぐるみ、絵本、食器、文具などもあります。約3000種以上とか。

伝説の市長が住んでいた建物、Roter Hahh(ローター・ハーン):ホテル・レストラン・お土産やが現存していて、宿泊したホテルからマルクト広場に行く途中、右側にあり写真に撮ったはずだが?・・・ドイツの家・・・皆似たようで見つからない、残念!

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ローテンブルク

2013-12-26 | 旅行記

暖かい夜景を思い出していたら・・・

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そうだ今日は12/25、真言宗は・・・関係無いですか、クリスマス。

クリスマスといえば、クリスマスツリー・・・今年日本でNo.2といわれて話題のツリーが・・・これです。gooランキング 「一生に一度 必ず見ておきたい」 クリスマスツリーランキング第2位
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滝?・・・「光の回廊」15万粒のクリスタルガラス、高さ9m、長さ10m   その向こうに?・・・

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これが高さ約10m、約7万5000粒のクリスタルガラスのツリー・・・、ホワイトツリー・・・プラチナツリーでしょうか。

サンセット・・・レインボーの眩しき輝きを見せてくれたのが少し前の事・・・

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ここは、先日TV(BS)でも放映された箱根・ガラスの森美術館でした。

ここはカップルのお立ち台・・・今年は

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そして、内部のツリーは

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表参道ヒルズでした。11月27日(水曜) 食事の後に散歩中 偶然試験点灯シーンに出合いました。

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イルミネーション期間中、シャンゼリゼ通りの歩道橋は通行禁止となります。このような歩道橋上からの撮影ができないので、貴重な時間でした。

さて、前回に続き南ドイツ編

フランクフルトとミュンヘンのほぼ中間にあるローテンブルク(Rothenburg)、旧市街は南北1.2km、東西も1km未満。

朝の散歩に出かけよう。

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窓の明かりが灯り、大型車も作業中・・・このベンツの車は・・・裏に回ってみよう。

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カラフル作業着の方がゴミ収集の最中でした。

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街の外れで道が分岐している。正面の建物は歪んでいるようだ、3階から上が水平でなく、2階の箱の天井部分が潰れたか、柱が折れたのか気になる建物でした。

右の坂を下ると城門が見える。コボルツェラー門、ここを抜けると場外に出られタウバー渓谷に降りることになる。

真っ直ぐ先にも城門が見える、塔ジーバース・トゥルムこちらの道を進んでみよう。

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門の先は救護院シュピタール区になり、旧市街の南の端ジュピタール門がある。

地図を見てみよう。

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左下がジュピタール門、左側の緑の傾斜はタウバー渓谷。左上はブルク門、ブルク公園

左下から城壁を歩けるようになっている。左側を進みタウバー渓谷を眺め、右下のレーダー門から城壁に上がり右端のガルゲン門まで歩いてみよう。

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旧市街は思ったより急傾斜なタウバー渓谷に面していた。

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この門は先程道が分岐していた所で見えたコボルツェラー門を裏側(南側)の城壁から見ています。

13~14世紀の頃、この城壁や目の前の塔から弓矢が飛び交っていたのでしょう。

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さて、西の渓谷から東側の城壁方向に街を横切り、素敵な窓辺が目に飛び込んできた。

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窓越しの白鳥?が気になった・・・イヤ、自然にアーチの上の紋章が・・・グーッと迫ってきた、

三角形が二つ重なったこのマーク・・・フリーメイソン?  ユダヤ教 1760 IEW

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考えながら歩いていると、・・・この角の建物は屋根の勾配が変わっている。旧鍛冶屋ゲルラッハ・シュミーデ、・・・そして奥に見える塔がレーダー門。

ここから城壁に登ろう。城壁の外側と内側に通路がある。

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1300年代の城壁の上部外側に設けられた通路、・・・足元の柵の部分をレンガにしてくれれば弓矢から伏せて進めるが、この通路で壁を背にしてこの位置では戦えないなァなどとアレコレ考えてしまった。

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ガルゲン門の手前で、城壁の内側に降りる。

ここで城壁の外に出てみよう。

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広い駐車場があった。広角のパノラマにして全景を・・・
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再び城内に戻り、中心部のマルクト広場に向かう。まだ静かな冬の朝だ。

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ここで日に何度か、30年戦争の物語が上演される。運が良ければ後でお目にかかれるかも。

お腹が空いた、ホテルに帰って朝食にしよう。

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ドイツといえば、ソーセージ・・・最高!

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中世の街  ディンケルスビュール

2013-12-21 | 旅行記

ロマンチック街道を約200km、北上する。

集落が見えると、中心部には尖がり屋根、・・・ドイツもキリスト教の布教が進んだ国土で、街は教会の尖塔がランドマークとなっている。

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ディンケルスビュール(Dinkelsbu?hl):ロマンチック街道にある中世の小さな街が、今日でもその姿を変えず残っているという。

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ロマンチック街道・・・夢・空想的なロマンとは残念ながら関係がなくて、北はバルト海からドイツを経由しローマに続く巡礼の道でもあったローマ街道をいう。

ドイツ バイエルン州のこの地は、ヴェルニッツ河が流れる西側に王宮が9世紀頃建てられ、この王宮を囲むように、油・壺・ワイン・パン・皮革製品・家畜と市があちこちに出現して街が発展していく。

南北にローマ街道、東西にニーベルング街道が交差し、10世紀には交差路の丘に要塞が築かれた。

14~15世紀にヨーロッパが発展するのと合わせこの街も毛織物などで最盛期を迎え、1372年から新たな城壁が造られ始める。

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この街にも戦火から街を救ったエピソードがあるようです。

ルター派VSカトリック教の宗教戦争の一面をも持つといわれる30年戦争が続いた時期、この街はカトリック教側でした。

1632年スウェーデン軍の攻撃で、このカトリックの街は破壊と略奪の危機に・・・ここで立ち上がったのが何と、子供達だったそうです。

・・・敵スウェーデン軍の将軍に子供達が慈悲を請います・・・純真な子供たちの願いが聞き入れられ、何とか破壊・略奪から免れたそうです。

この結果、中世の景観が無事に今日まで残された。・・・真っすぐな・・・純粋な、数多くの瞳の力は強かった。

毎年7月に、この伝承の祭りが行なわれているようです。

・・・上の地図で、右横になる駐車場から街並みを見てみよう。

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手前を緩やかに流れているのが、ヴェルニッツ河。

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小さな橋を渡り、城門をくぐり、円錐形の門や塔が守備している旧市街に入る。

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この看板は何かな?レストランかな?

旧ローマ帝国の都市は石畳が多い。馬車・荷車がぬかるみにはまらないようにと大変な労力で造られた道路だが、堅くて凸凹で滑るし歩きにくいし、膝にも良くない。

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大きな木造の建物が並んでいる。各建物の壁面はカラフルな彩色だが、彩度が抑えられ落ち着いた雰囲気で好感が持てる。

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素敵なご夫婦がお店から・・・黒のファッションがお似合いだ。

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500mも歩くと街の中心部、正面交差点の右角に教会の鐘塔がそびえ建っている。

交差点を渡り、小さな広場でこの街の象徴となるべきものを探すと・・・この銅像が。

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誰? あまり有名ではないようだが・・・帰って調べよう。

・・・地元出身の神学者・詩人のクリストフ・フォン・シュミート(1768~1854)さんと思われます。

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交差点(信号も無い街だが)の角の大きな赤い建物、屋根に塔のあるこの建物は、市参事宴会館「ラーツ・トゥリンク・シュトゥーベ」1600年前後に建造された。

神聖ローマ帝国皇帝カール5世やスウェーデン王グスタフ・アドルフも宿泊したとあります。

その右、3件目のピンク色の目立つ建物。

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これらは木組みの建物が特徴で三階部分から上に三角屋根、ここに四層の構造を持つ「ドイツの家」ドイチェス・ハウス。

戦火から救われたこの中世の街並み、歴史的建造物の中でこの建物が一番美しいと言われている。

2階より3階の方が大きい?・・・何故?建物の造り方がチョット違うらしい。箱を積み重ねる構造で各階が独立して造られている。

だから、3階と4階は天井を高くしてテラスを少し前に出し・・・通し柱が無い代りに、床面積が大きければ積み重ねても不安定にならないですね。

このような上の階が大きい建物は良く見かけられる。

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建物が並ぶこの景観で、壁面の色が個性豊かなのに気が付きました?

これは 条例で、切妻45度、隣の建物と異なる彩色、窓は木造十字の形などと決められているので、統一感がありながらカラフルなのですね。

このピンクの建物は、現在は人気のホテル兼レストラン・・・看板も派手な目立つ宣伝はできず店名のみ、書体は古書体と統一されています。

このような15~17世紀の歴史的建築指定が840棟もあると言われる・・・このような街に生を受けると、当然郷土愛が強くなるのは想像できるが、守らなければならないことが多すぎて、城壁の外に自由が・・・と思う人もいるでしょう。

せめて歩道は石畳風の融雪路面にしようなどと提案したら、異端児扱い門前払いでしょうか。

過去の文化遺産を利用し、旧市街を廃墟にしないで生活を維持するには、楽なようで利便性や快適な暮らしを一部犠牲にしてこそ守れる文化があるようです。 

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積雪は少ないが気温が低い・・・この地方の特徴で、これが防寒着対策をすれば、気合でスポーツを楽しむお国柄なのでしょう。

日本の雪国は、海側は横殴りの風が強く積雪は少ないが寒い、内陸部は雪は多いが、風は弱く気温もそれほど低くない。かまくら遊びとこたつでミカン・・・農耕民族の血筋でしょうか。

聖ゲオルク聖堂(ザンクト・ゲオルク・キルヒェ)

1448年~1499年の建立、角地の鐘楼は歴史を感じさせるが・・・美しいとはいえない、・・・何か継ぎ足しの塔に最上階は八角の小屋。

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ロマンチック街道のガイドブックによると、下の一部のみ本堂と同じ時期のゴシック様式だが資金不足で、1225年に築かれたロマネスク様式を継ぎ足して完了。

最上階の八角形の建物は、後の時代に夜警のために建てられたようです。

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横から見ると、本堂は天井が62m、後期のゴシック様式として天井は高い、それに対して横の鐘塔は中途半端な高さで煙突のようでもあり・・・外見より中身を見てみよう。

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すごい、統一感のとれた簡素で重厚な・・・これがドイツ! などと勝手に感心しながら主祭壇に進む。

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この身廊部は、エーゼラー父子が2代に渡りながら51年間と短期間に完成されたので、統一感のある素晴らしい教会内部となっています。

全ドイツでここだけにあるといわれる「聖体」を秘めた高さ12mの安置塔があります。
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側廊には主祭壇と同時期に造られた6つの祭壇がバランス良く設けられている。

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キリストの磔刑やマリア像、そしてドイツが誇るパイプオルガン・・・内部は素晴らしかった。

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街中の小さな広場、市が起つとにぎやかになるのでしょう。しかし、石畳に積雪があると車は滑りやすく大変でしょう。

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旧市街でも、ウインドウの中は現代の優れた工業デザイン

日暮れが近い・・・

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防寒具対策を施して、健康のために寒風に当たろう・・・オレンジ色の明かりが灯った。

さて、もう少し北上しよう。約53㎞先に、ローテンブルクの旧市街がある。、

同じく城壁に囲まれた中世の街並みが残る・・・ここと同じ?・・・ここより大きい街です。

すっかり日が暮れた。ここは城壁の中、同じく30年戦争の物語が・・・

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このマルクト広場で・・・明日は出合えるかな?

聖ヤコブ教会にも有名な・・・

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彫刻があるという。

城壁の中のレストランで夕食、

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お店は閉まっているが、フクロウがいっぱい!

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こちらも楽しい雑貨がいっぱい。
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そしてこの先右側にホテル・・・来過ぎてしまったか・・・

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玄関の先に、エーデルワイスと懐かしいスキー板が

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明日は、朝食前に街を散歩しよう・・・ではまた後で

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南ドイツ ヴィース教会 華美な巡礼教会

2013-11-17 | 旅行記

ドイツ南部 フュッセンから25㎞、ミュンヘンから75㎞、アルプス山麓の農村地帯、・・・村の小さな美術館、そんな感じの白い建物が見えてきた。

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広場の駐車場にバスが止まると、周りに土産物の売店が開いていた。

そう、この静かな村に観光客が年間100万人も押し寄せるらしい・・・横の売店が、ここは観光地と気づかせてくれた。

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では、100m先のこの白い建物・巡礼教会にご案内。

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目の前の建物は、現在の結婚式場のような明るい外観、・・・何か違和感を覚えながら、ルネッサンス以降に建てられた華美な教会の内部に入る。

入口から正面祭壇を・・・明るい・さわやかできれいだ・・・、巡礼者の汗の匂いに困っていた過去の教会の面影は全くない,

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イヤ、祭壇の手前に香炉が釣り下がっている光景は残っていた。

・・・両側の窓から降り注ぐ明るい採光は、白と金を基調とした室内装飾に輝きを与え、曲線縁取り模様に囲まれた柱には素晴らしい彫刻の数々・・・

鈍い光が差し込むステンドグラスに描かれた聖書の物語を、信者に読み解いて聞かせる中世の教会と違って、軽い豪華な世界があった。

・・・写真を合成してみよう、正面祭壇から天井画へ

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そして、天井からファサード側(出口)まで

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虹が逆になるので分かり難いが、(正面祭壇側から天井を追っていくとこの写真の上下が逆になります)その虹の上の人物が、復活されたイエズス(イエス)さまのようです。

その下に、天国への門

・・・しばし、考える。

ヨーロッパ(ローマ帝国)では、キリスト教が国教になり、これらの地で生を受けた人は最寄りの教会で洗礼を受け、毎週礼拝を欠かさず、そんなDNAが・・・千数百年の時間が過ぎた

・・・地球の反対側では、人は生を受けたら無意識のうちに背負う宗教が決まっていた。

その教えは、・・・人は生まれながらに罪を背負い、人生の最後では・・最後の審判・・裁きに会う・・

無宗教の者からは、暗く、一種の脅しをかけらた人生に思える。・・・救いの主を無条件に信じて精進して、最後の審判で地獄に落ちないように・・・・。

・・・キリスト教を国教と定めた為政者からは、一神教で妥協しないキリスト教信者は扱い難い、しかし倫理観をキリスト教が統一してくれれば、多神教と多様な価値観の人々をコントロールするよりは治め易い・・・国教にしてしまえ・・・と考えたのは、仏教で国内を治めようとした日本も同じことですが。

他の宗教を認めず、文字が読めない人々に旧約聖書では認めていない偶像支配をいつの間にか認め、教会の教えと矛盾する自然科学の発達を教会は認めず・・・

印刷機の登場により聖書が大量に印刷されると、聖書を学ぶ人々の中にヴァチカンの商業主義の最たる事件、免罪符の販売(罪を免れると言うのは間違いで、罰を免れると訳される)に異議を唱える人も出てきます・・・宗教改革の嵐がドイツから発生するが・・・しかし、ヴァチカンはこの嵐を乗り切った。

今日、カトリック教が存続し続けたその最大の功労者が、建築・彫刻・絵画・・・であり、芸術家でした。

ヨーロッパの文化に触れると、その背景の宗教にも関心を持たざるを得ない。

そして今日、ヨーロッパでは、キリスト教信者の数が減り続け、ヴァチカンでも深刻な問題になりつつあるようです。減った信者は、南米、アフリカ大陸で増やしているようですが・・・

・・・・・・・・・・・・・

この建物、建築依頼主の修道院から1743年ツィンマーマン58歳に委託される。1754年完成。

時代は、ミケランジェロが、ベルニーニが総力を結集したヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に人々が驚き、世界各地から人々が押し寄せ、そしてルイ・14世の豪華なヴェルサイユ宮殿もヨーロッパ中の評判になっていた。

そして、建築依頼が舞い込んだ1743年は、ルイ15世の時代に変わってきていた。各地の建築、美術工芸の流れをこの教会にも取り入れて、後にロココ調といわれる教会が完成する。

フレスコ天井画は、5歳年上の兄が65歳の頃から描いている。

今日の作業環境でも厳しい高所作業に、冷暖房・空調、照明、何もない時代に、この年齢で取り掛かるとは、心技体・・・若いですね。

委託された本人(弟)も主祭壇を担当しています。

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西洋の四大教父といわれる人々の彫像、この作者はシュトゥルム

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北の祭壇:ベルクミュラー作 と 南の祭壇:マーゲス作

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天使が見える説教壇

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そして正面祭壇、右側廊の先に

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何か、祭壇の上部奥まったアーチの中に髭面の・・・この教会は、この出来事から始まった。

農婦マリア・ロリーが、1738年みすぼらしい「鞭打たれる救い主の像」を譲り受けた。

この像は、1730年に神父と修道士が寄木で作り、関節部は亜麻布で覆い、血と傷・鞭打たれる主を彩色し、自分達の修道院に置かれた。

しかし、あまりの悲惨さのために信者たちの同情を呼び、この寄木の像は1734年には修道院から撤去され、修道院付属の食堂の主人の屋根裏に忘れ去られていた。

4年後、農婦が譲り受け、熱心な崇拝を捧げていた3か月後の6月14日、夕拝中に顔面に涙のように思われた幾つかのしずくを認めた・・・(当教会の案内より)

これが「涙の奇跡」と呼ばれ・・・非常な勢いで広まり、ヴィースにヴィースにと人々が押し寄せてきた・・・

急ぎ農場小礼拝堂と木造の本堂を建てるが、押し寄せる巡礼者を受け入れるには・・・本格的な教会を建てることになった。

そして1743年、建設依頼主は修道院・・・農婦は?


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主祭壇の「鞭打たれる救い主」

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完成したこの巡礼教会は、ロシア、スェーデン、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スペイン、フランスと全ヨーロッパから巡礼の波が押し寄せたと1779年ヴィースの巡礼司祭が小冊子に記しているようです。

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当時の様子は、こんな雰囲気でしょうか

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入口の上部に、パイプオルガンが・・・

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周囲は農村地帯、牧草地といわれる。雪が消えると、ヴィース ・・・のどかな放牧が見られるのでしょう。

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ノイシュバンシュタイン城 (新白鳥城)

2013-10-23 | 旅行記

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2012年12月まで、こちら側の城壁(北、西)が修復中だったそうで、この工事も無事終わりきれいになった城が見れそうだ。

ここはオーストリアに近いバイエルンアルプス山中の町フュッセン、その町外れの高台に目指す城がある。

近くの駐車場から山道を登る、距離にして1㎞強だろうか。歩くのが苦手な人は、・・・駕籠は無いが、馬車が利用できる。

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馬車はお土産を落としていくので、よそ見をしながら歩くのは危ない。

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下の地図のP4、(駐車場前の建物は2階建てのお土産屋さん)から歩くことになる。

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黄色の道はバスが走るが、この時期は運休のようだ。

ピンク色の道は、そんなに急勾配でもなく散歩気分で歩く。急いで到着しても城の入場は予約制で入れない。

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案内板がある。後で辞書で調べてみよう。

・・・schloβ(シュロス)城 <英:castle>、 neu(ノイ)新しい <英:new>、  schwan(シュヴァーン)白鳥 <英:swan>、  stein(シュタイン)石 <英:stone>とあります。

オッと、また見かけました。子供の遊具かと思っていたら、大人に人気があるんですね。

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しかし、このソリ こんな緩斜面を引いて登って・・・この先にスキー場があるわけでもなく、この道を帰りに滑って降りるのでしょうが、・・・女性の目的はダイエット?・・・仲の良い夫婦のようです。

しばらく歩くと木立の先の高台に、目指す城の見張り塔が見えてきました。

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道の左に建物が・・・ここで馬車は終点となる。この建物には、お土産も販売している。

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もう少しで城の手前の展望台に到着するだろう。城の北側斜面の下を進んで行く。
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道路の左側に広い展望台が貼り出している。

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ここから赤い城門が良く見える。澄み切った青空に、戦乱とは無関係なお城が建っている。

標高1000m、古い城跡の基礎を更に掘り下げて拡張し、ここに中世の夢の城?というより宮殿を建てた王様がいた。

展望台から右に大きく曲がり、急な坂道を100m位進む・・・城の真下に案内板が立っている。

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現在地から左に回り込むように・・・帰りは本館(右側)の横が出口となっているようだ。とすると、城内は一方通行で右からの道を降りてくるようだ。

・・・城壁に沿って左に進み、回り込むと赤の城門に到着する。
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門は開いていて、中に入れそう。

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中庭までは自由に入れる。さて、チケットを見てみよう。

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上はチケットの表、裏には、ツアー番号が印字されている。No.427、オーディオガイドが借りれるのでグループ分けされる。

下はホテルのパンフ。新緑の季節も良いですね!森と湖に囲まれた別荘地・・・

・・・別途、ジオラマの写真と、ポスターで城内の簡単な説明を・・・

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ジオラマの城は、昔 銀座伊東屋で買ったプラモデルで、周回するNゲージの中央に城を創ろうとしたら、この組み立て式の城を勧められた。

山、谷、トンネル、湖にマッチしそうで購入したが、悲劇の城と印象に残っていた。

・・・・・・・・・・

城門の先に中庭があり、奥の建物(本館)1階は調理場、1869年明治維新のころ建築に取り掛かっていますから、鉄骨も使用していますし、調理場には水道も引かれています。調理場で料理を作り4階の王の元へリフトで運ぶ最新式のようです。

見学は4階から・・・一番高い北の塔は68m・内部はラセン階段があり、そして南の塔にもラセン階段があります。

このラセン階段を登って4階玉座の間など・・・さらに階段を登って5階、歌人の間などを見学します。

2階は使用人の部屋があり、3階の隅に売店がありますが未完成の部屋も多く、この城は中庭に90mの天守閣、その1階に礼拝堂の建設予定だったが未着工の状態で王が亡くなり、後は資金も無く建設中止

・・・観光施設になり、今日まで少しづつ手が加えられていますが、公開されている部分が限定されています。

この城は現在バイエルン州政府の所有で(ホーエンシュヴァンガウ城はドイツ国の所有)、この地区はローマに続くロマンチック街道の終点となり年間100万人以上の観光客が訪れる重要な観光資源です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

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中庭に入り、城門の内側から振り返ると3階にバルコニーのある部屋が、・・・この城門館は最初に完成し(1873年頃)、王が建築中の城を眺め宿泊できるように・・・そのための王の部屋です。

この中庭に、何やら表示されています。426の数字・・・チケットの裏のNo.を確認するとツアーNo.427、次が入場の順番。
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自動改札機を通り、柵の向こう側を右に進み階段から中の廊下に進むことになる。

城内はカメラ・ビデオ撮影禁止となっている。

廊下で、オーディオガイドを借り、ツアーグループ単位で移動する。

ガイドブックから、間取りを見てみよう。

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北の塔ラセン階段を登り4階に、・・・最初が控えの間、壁画は「ニーベルンゲンの指輪」の基になった伝説から第一部の場面が壁面に描かれている。、

この上の5階の控えの間に第二部の場面が描かれていますが、ジーグルト伝説を知らないので・・・?

玉座の間(公開されている資料から)

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4~5階吹き抜けにした重要な玉座の間、階段の上手に玉座が・・・無い。玉座を据え付ける前に、王が亡くなってしまった。洞窟が最優先で玉座はその内に・・・

王の死後有料で公開するには、正面も天井もこの部屋は簡素すぎる?・・・右上に見える900㎏のシャンデリア、これは王の死後、1904年に据付けられた。

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居間などには、騎士、白鳥、中世の城など鮮やかな彩色の絵画、名場面と思われる物語が描かれている。

良く見かける著名人の絵画や、ギリシャ彫刻は見かけず・・・

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「白鳥の間」があったり、陶磁器製の大きな白鳥が置かれていたり・・・
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洞窟?・・・この本館の内装で最初に取り掛かったのが洞窟・・・居間と執務室の間に・・・鉄の枠組みで人口の鍾乳洞を創らせ、滝も配置し照明の効果も考え・・・舞台装置を城の内部に造らせた。

上層階は

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歌人の広間が中心です。

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王が22歳の頃、ヴァルトブルク城の「祝宴の広間」を見て感動し、自分の城にも素晴らしい広間を創ろうと思った・・・

さて、広間は・・・ワーグナーのオペラの題材にしたクリングゾルの魔の城を舞台にした「パルシファル」の伝説が描かれているという。

・・・この城を造った王様について調べてみました。第4代バイエルン国王。

バイエルン国は、6世紀頃からドイツ南部ミュンヘン一帯で公国や王国の時代が続いたが、第一次大戦後の1918年に滅亡しています。

1845年8月、主人公が長男として誕生、祖父が国王で、誕生から3年後に父親が国王に即位し、本人は王太子になった。

1864年3月10日父の国王が逝去し、王太子は18歳で、第4代バイエルン国王・ルートビッヒ2世の誕生となります。

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・・・父親が廃城を再建したホーエンシュバンガウ城(昨日の夜景)には、中世の騎士像や白鳥が描かれていて、ローエングリンの城とも呼ばれていた。

この城でルートビッヒ2世は弟らと英才教育を受けて少年時代を過ごしているが、友人も無く、孤独で、ケルト神話のローエングリンや中世の騎士の世界にあこがれを持つようになります。

・・・「聖杯の騎士・ローエングリンは、白鳥の姿をした天使の引く船に乗って現れ、公爵の娘エルザを救います。騎士は自分の身元や名前を決して尋ねてはならないとエルザに告げます。

・・・世界には似たような話があるものですね ・・・

エルザが聞き入れたので結婚します。・・・物語は、・・・訳あり結婚・・・悲劇の結末に」 。

この物語は、オペラ「ローエングリン」として1848年ワーグナーが発表します。

ルートヴィヒ2世は、12歳の時にミュンヘンでオペラ「ローエングリン」が上演されていることを聞き、台本を入手します。

15歳で、念願の「ローエングリン」を鑑賞できました。

18歳で、国王になり、ワーグナーに使いを送ります。

ワーグナー・・・波乱の人生を送っています。30台で貧乏生活からやっと宮廷指揮者になるが、ドイツ3月革命に参加して・・・革命は失敗

指名手配され、スイスに9年間亡命、この時期に「ローエングリン」を完成させる。作家の経歴もあり、オペラから発展させた総合芸術を目指し「楽劇」理論の論文も書いています。

生活は、・・貧乏→スポンサーが現れ(一転浪費の生活)→借金・貧乏を繰り返し、女性も数多く登場し、当時50歳

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ワーグナーは借金取りから逃げ回っていたので、探すのに時間がかかった。

ルートヴィヒ2世は、ワーグナーの借金を肩代わりしてやり、宮廷に招いた。

しかし、ワーグナーには悪いうわさが流れていて、家臣の反対が強く、1865年12月、ワーグナーを追放します。

若干19歳の国王は、これ以降国政を嫌うようになる。幼少時代から金は使い放題だったようで王室費・私財はあります。

オペラの舞台・劇中舞台の中に浸りたい、聖杯の騎士として・・・パリのヴェルサイユ宮殿は素晴らしかった。

・・・1868年、城の建設を発表します。新白鳥城です。

一方、追放されたワーグナーはスイスに流れ、人妻と不倫の後、再婚します。

1872年理想の「楽劇」を上演するには自前の劇場を・・・ドイツ、バイロイトで寄付とルートヴィヒ2世からの援助を受けて「バイロイト祝祭劇場」の建設を開始します。

1876年完成、ルートヴィヒ2世、31歳、8年振りにワーグナーと再会します

この頃建設中の城は、城門館が完成し、本館建設と進行中、大量のセメント、石灰、砂、大理石、レンガと多くの資金が必要でした。

資金繰り?・・・借金でしょう、国務を放棄して夢の実現に・・・ところが、金銭感覚がないから更に2か所で城を建設しています。

1881年本館の外観が完成し、5階の歌人の広間と4階の居住部分の内装工事が始まります。

・・・・・1883年2月、リヒャルト・ワーグナー旅行先のヴェネツィアで「人間における女性的なるものについて」の論文執筆中に、心臓発作で亡くなります。

1884年5月、早春の候、4階居住部分が完成し、王が入城します。

・・・・・1886年6月12日、バイエルン政府は計画通り王を形式的な診断で精神病と認定し、逮捕、そしてミュンヘン郊外のベルク城へ送られました。

翌日、グッデンと散歩に出かけた王が夕方になっても帰らず、・・・夜半に近くの湖で王の水死体とミュンヘン精神病院長で王を診断したグッデンの絞殺体が発見された。

・・・・・謎のまま時が過ぎ・・・、一方城は有料で公開されると・・多くの入場者が押し寄せたそうです。

1892年、城の中庭の横には崖・・・崖が見えなくなる効果があるから、ここには基本設計通りに貴婦人の館を建てようと、簡素な造りで建てました。

1904年、王座の間に玉座は無いし、せめてシャンデリアは取付けようと、上下動のできる900㎏のシャンデリアが据付けられました。

本来の基本設計では、上の中庭にシンボルである90mの主塔が建ち、その1階は礼拝堂になる予定だった。

1988年、多くの観光客が訪れるこの城に、主塔を建てるとこれまでとイメージが変わる、建築費も・・・中庭に白い石版を敷き、建設地が分かるようにしました。

謎の国王の死後、未完成のこの城を元手に商売している関係者が、この処置で完結?・・・とはならないでしょう。

静かなフュッセンの町外れ、その高台に、夢の城を造りたかった青年の物語、・・・物語が完結せずに埋め込まれた観光の城がありました。

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城から4㎞、フュッセン中心部、

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15~16世紀の建物が多い旧市街、銅像はフュッセンの守護聖人マグヌスでしょうか。

約2000年前、地中海からアルプスまで、古代ローマ人が建設したローマ街道が通っていました。

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南に1㎞位でオーストリアの国境のある町フュッセン

ここから、今日では南ドイツの観光街道(ロマンティック街道)が続く、全長385㎞
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フュッセンで食事後、また高台に見えてきたノイシュヴァンシュタイン城に別れを告げて、ヴィース教会へ、25㎞、農村の中に突然と・・・

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ファドゥーツはどこの国の首都

2013-09-25 | 旅行記

ユングフラウ登山鉄道の動画を作成してみました。アイコンの右下 http://・・・から 

サムネイル  http://youtu.be/Z6PIW7sik2g

・・・・・

さて、インターラーケンから北東に湖に沿って移動する。

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ヴァレン湖畔を東に移動し、この先でアルプスから流れてきたライン川に出合う。

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ライン川はスイスと隣国の国境を流れている。

このライン川を渡り・・・小豆島位の小さな国に入る、首都がファドゥーツと聞きなれない都市

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夕闇が迫る。これは市庁舎でしょうか。・・・人口5,000人くらいのこの街で、有名な建物は・・・

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このメインストリートではなく、崖の上にそびえる建物・・・ライトアップされているのが、首都の名前がついているファドゥーツ城。

非武装中立国のこの国は、スイスと友好国で、・・・切手で有名なリヒテンシュタイン公国・・・

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歴史のある立憲君主国で、この城には元首が住んでいる。・・・一般公開はしていません。

・・・ 

本日の宿泊は、この地とドイツ ミュンヘンのほぼ中間、湖に囲まれたリゾート地、フュッセン。

オーストリアを経由して直線で約80㎞だが、山間部を走るので走行距離は約160㎞。

・・・

ホテルにチェックイン後、夕食を済ませフュッセン夜のスナップ

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聖マンク修道院

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ホーエス城

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この城は有名ですね。プラモデルやジグソーパズルも良く見かけます。

ノイシュヴァンシュタイン城。

寒いけど、温かそうな街並み・・・

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ホテルに帰ろう・・・

ノイシュヴァンシュタイン城  別途、編集中。

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90000ユングフラウヨッホから標高3571mへ

2013-09-16 | 旅行記

岩山のアルプスに全長7.1㎞のトンネルを掘る・・・明治28年 資金を集めて本当に実行したスイス人達がいた。

全長の3/4は、岩山に掘られたトンネルを走る登山鉄道だ。・・・風雨に影響されずに年中無休で運行している。

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このスイスの方は、ポイントの除雪作業

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これは除雪車、アイズ君?
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このアルプス三山、左端雲の切れ間に見えるアイガーの麓に向かいS字に登り始めます。

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サア、クライネ・シャイデック駅 標高2061mから、ユングフラウヨッホに向かって発車

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・・・車内は、しゃれたハイバックシートでビデオ鑑賞が1年前から出来るようになり、思った以上に快適。

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クライネ・シャイデックの駅が遠くなってきた。

上の写真では、この先左にユングフラウの氷河・・雪の斜面を見ながら、右にヴェッターホルン、グリンデルワルトを見下ろしながら進む・・・

短いトンネルで尾根を抜けると、アイガーグレッチャー駅 標高2320m に到着。

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眼が悪くなった・・・二重に見える?・・・画像が悪いのです。動画から切り出した静止画です。スミマセン。

この駅から北側斜面にスキー場が広がる。ここまでリフトで上がってくることもできる。・・・残念ながら視界が悪い。

この駅と始発の駅の中間位まで下ると、反対側の西側斜面スキー場に出る・・・雪が無ければアルプスのハイジ・・・ハイキングコースとして人気で、登山以外でも利用する人が多いようです。

間もなくアイガーの山腹から長いトンネルに入る。これだけ標高の高い所から3,454mまでトンネルを掘る・・・永久凍土と岩盤を相手に、低酸素と低温状態での過酷な肉体労働・・・作業者はどんな待遇で働いていたのでしょう・・・

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JUNGFRAU MAGAZIN からの当時の写真です。

受刑者でもなく、主にイタリア人労働者が安い賃金で働いていたようです。ストライキの写真もあります。

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トンネル内では、車両の前後に設置されたモニターでビデオが鑑賞できる。

・・・登りの電車は、途中2か所でトイレ休憩と山腹からの眺望が見られるように5分間停車する。

50分前後をかけ、ゆっくり登る理由には、登山者でもない一般の観光客、老若男女の身体を標高に慣らしながら登る。高山病対策が必要となったのでした。

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トンネル内最初の停車駅、アイガーヴァント(アイガーの壁)駅に停車。

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ホームから10m位でしょうかトンネルの先に岸壁にくり抜かれた穴、建設中の残土を捨てた所にガラス窓がはめられ、窓越しに絶景が・・・。

・・・視界が悪いが絶壁のようだ。ここは標高2865m、Eiger:アイガー北壁、映画や小説で有名なあの北壁の中央にたどり着いた。

ここは登山者の緊急避難場所、救助隊の出発場所にも利用されています。

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この北壁のパネル登頂ルートの中央左横に、小さな長方形の枠に囲まれた所が、この駅です。

急こう配の線路を既に標高差800mも登ってきたことになる。

そしてこの後、西に連なる三山の中央、メンヒの山頂真下に向かってトンネルは続く。

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赤枠の中央の山 Mo?nch(メンヒ) 4107m、その右がJungfrau(ユングフラウ)4158m

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次の停車駅は、アイスメーア(Eismeer) 標高3160m、氷の海と呼ばれています。

クライネ・シャイデックから見えない山の裏側になる南面にトンネルを通し、風穴を開けています。

視界不良・・・画像省略。

・・・この登山鉄道着工の前に山岳鉄道で成功した会社があり、観光客に大人気。・・・投下資本の回収が予想より早く、山岳鉄道新設ブームとなったようです。

急勾配を売りにするか、到達点の標高を目玉にするか、各社プラン競争で活気があった時代・・・

山と雪と氷に囲まれ・・・若者を傭兵として他国に送り出すしか外貨獲得が無かったスイス人は、観光が商売になるとは考えもしなかった。

自然保護で反対する人々もある中、鉄道王アドルフ・グイヤー・ツェラーと言う人物が、1893年12月、山頂を断念し、メンヒとユングフラウの間の尾根の低い部分(ヨッホ)まで鉄道を敷き、展望台を造る案で建築許可を申請。

1894年12月 スイス連邦議会から建築許可が下りる。

1905年3月 アイスメーアとアイガー山頂の間に空中ケーブルの建設許可を申請するが却下される。

1912年8月1日 16年に渡る工事の末、鉄道駅がオープン。

・・・ユングフラウの手前、尾根にあるユングフラウヨッホに向かう。

約50分位で、標高差約1,400mを登ってきた。もうすぐ標高3,454m 鉄道駅 ヨーロッパ最高地点に到着する。

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到着・・・トンネルの中で多少違和感があるがタラップを降りる。ここもプラットホームなどは無い。線路を歩き駅舎に向かう。

大きく深呼吸し、ゆっくり歩く。平地に比べ酸素濃度は60%位と言われるが、今のところ異常無し。

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車両の先端を左に回り込むと出迎えてくれるのがこの胸像、・・・関係者でしょうね・・A.Guyer-Zeller 1839-1899 とあります。・・・鉄道王、創業者のアドルフ・グイヤー.ツェラー この方でしたか。

自動ドアから中に入ると複合施設「ベルグハウス トップ オブ ヨーロッパ」0階ロビーとなる。振り返ると入口横に・・?

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これが有名な、日本から贈られた郵便ポスト。現役で利用されています。

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ホームから入ってきたのが北側、(上の写真で左側)、南側に進むとカフェテリア、ガラス窓の下は絶壁(別途動画にて)、天気が良ければアレッチ氷河が望めます。

階段上はレストラン、左の売店スーベニア・ショップの横を進むとこの階にもレストランがあるが、その手前を左に曲がる。

この鉄道の上得意客は日本人とインド人、・・・インドカレーのレストランも必要になります・・・営業してます。

さて、「TOUR」と順路の案内が目に入る。

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自働ドアを抜けて、トンネル進むと左の分岐トンネルの先にホームが見えた。

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ウーン、頭が重い・・・気分がすぐれない。トンネル内と思うと、吸い込む空気が微細なセメントの粉じんが舞っているような気分になる。

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緩やかな登り勾配のような気がする中、重い足取りだが早くトンネルを抜けようと気分は急ぎ足。やがて360度シアターに出合う。

ユングフラウ鉄道完成100周年記念で新設されたアトラクション「ユングフラウ・パノラマ」360度スクリーンに、4分間のアルプスの映像が繰り返し流されています。

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その先に、エレベータホールが見えてきてホッとする。ここから一気に108m、スイス最速のエレベータで27秒、スフィンクス展望台に上がる。

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エレベータを降りると、右側に時計売り場がある、その横のラセン階段を上がると

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時計ショップの真上にこのボードが(黄色いロゴがS字形に変更された)・・3571mと表示されています。記念撮影をどうぞ。

1996年に展望台がリニューアルされ、ビューテラスが設置され・・快適にガラス窓越しに・・・白い世界だけが見えた。

ビューテラスの先(このボードの裏側)に進むと石造りの建屋となり、通路先の回転ドアを抜けてその先の扉を開くと・・・


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・・・アルプスの空気を思いっきり吸い込んだ。一面銀世界・・・雪は珍しくもなく、視界が悪いのが残念。

この建物の上部は気象観測ドームです。


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フェンスの横に取付けられた長い板を見つけた。素手で雪を払い落し、宝探しのように案内板の文字を探し出す。・・・下は氷・・手先が痛くなってきた。

この位置から右手にメンヒがあるのだが、・・・アレッチ氷河の上でスノーパーク:そり遊びやレンタルスキー・スノボーも天気が良ければ最高です。

視界の悪い冬山もまた良しとして、アイスパレスに行こう。

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エレベーターで下るとホールの先に、メルヘンの世界、このアルパイン・センセーションも100周年記念観光アトラクション。2012年春から公開されています。
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エーデルワイスのライトに迎えられ第一ホールはスイスの小さな夢物語。

ここからアイスパレス(氷の宮殿)まで約250m、山岳観光の歴史があり、動く歩道のギャラリーでは創業者鉄道王の紹介映像が流れたり

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演出されたトンネルをしばらく進み、

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アイスパレスの表示に従い階段を降りると、ここからひんやりした別世界。1934年に麓に住む山岳ガイド二人が氷河の中に巨大な洞窟を掘ったことから始まる。

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トンネル上部の厚さは10m前後、アイスパレスを公開していくことに問題点が二つあった。

1.氷河は動いている、15cm/年間

2.観光客の体温で氷が解ける?

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氷の芸術作品の内容は、ご案内する程印象に残っているのが無いのですが、マイナス3℃に保つ特殊な空調システムや氷河の移動に対して常に補修が続くメンテナンスに脱帽します。

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富士山山頂で登山客に時計を売ろうとは考えないでしょうが、電車で登ってきた一般の観光客にスイスの精密工業の象徴、時計を売る発想(多くの販売員が従事している)には驚きました。

最近の日本人の発想では、富士山山頂で登頂記念のオリジナル時計(世界遺産記念)を売り出したら何が違うでしょう。

登山客相手です、経費を掛けない自動販売機で・・・となるでしょう。会社の利益が目的で雇用は生まないのです。販売員は経費と考える昨今の風潮は、困ったものです。

・・・クライネ・シャイデック駅が見えてきた。

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こちらの南側に到着する。反対側の北側にも2500m弱の山があり、スキー場がある。

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このテントは売店、この裏にスキー場が見える。

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天気も回復してきて絶好のスキー日和だが、目標物が少なく視界が悪くなると迷子になりそう。この右側は、リフト乗り場とレストランがある。登山電車で登ってきた方角になる。

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この人達は下の町に向かって滑って行くのでしょう。

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グリンデルヴァルト・グルント駅から登ってきたが、帰りは反対側の路線で下る。

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上の写真は、左からクライネ・シャイデック川が流れてきている。全山ゲレンデと言う雄大なコースを右に下って行く。

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途中駅で、大勢のスキー客が・・・多分、1日フリー切符で峠の頂上まで、また登るのでしょう。

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渓谷の村まで下ってきた。右に見える塔は教会の鐘楼でしょうか。この絶壁、昔は住むには厳しい環境でも、今日では観光資源。

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駅が近づいてきた。年季の入った車両が頑張っている。

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ラウターブルンネン駅、結構大きい駅だ。西の登山口、・・・切り立った崖から、ヨーロッパ第二の落差の滝シュタウフバッハが有名のようだが、残念だが迎いのバスが来ていた。

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アルペンリゾート地 インターラーケン

2013-08-26 | 旅行記

首都ベルンの南東に約50㎞、標高567mの高台にある二つの湖・トゥーン湖とブリエンツ湖の間に広がる街・・・”湖の間”から名前が付いたインターラーケンを目指して高速道路・・・。

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はるか前方に3000m級が連なるアルプスが・・・

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インターラーケンの表示が見えてきた。もう少しか・・

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前方左手に結構大きいトゥーン湖が・・・ベルンからの列車も到着したようだ。

この先がインターラーケン・ヴェスト(West/西)駅になり、終点がブリエンツ湖に近いインターラーケン・オスト(Ost/東)駅となる。

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高速はここで降り、少し山裾を走り、尾根を短いトンネルで抜けると右手に見えてくる。

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白い山・・・夕日を浴びたユングフラウの姿・・・ドキッ!・・・ やはり高い・・・4000m級の山並み、・・・よく登ろうとするものだ。

アイガーの北壁で有名なアイガーはこの街からは左手に手前の山があって見えない。

2001年に世界遺産に登録されたのが、アイガー:3970m、メンヒ:4107m、ユングフラウ:4158mとアレッジ氷河エリア(2007年にはエリアが拡張された)

メンヒは場所によってはこの街でも見えるようだ。道路を左に曲がり、ユングフラウは後方になってしまった。

数分で街に入り、間もなく道路の左手にホテルが見えてきた。

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このホテルが宿泊するホテル。こちら側の窓からユングフラウが見えそうだ。インターラーケンの街とホテルは、グーグルの航空写真で位置関係を確認してきていた。

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すぐ横の小山に登り写真を撮る予定だったが少し到着が遅すぎたようだ。もうすぐ日没、断念しよう。


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取り急ぎホテル2階に駆け上がり、夕日に染まるユングフラウを改めてガラス越しに見る・・・巨大な壁だ。

ロビーに戻り、ルームキーを受け取り、旧式のリフトで4階の部屋へ・・・広い部屋の窓辺に進みカーテンを開け、出窓を開けて180度のパノラマ風景に・・・しばし感動する。

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1991年アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で、登山ルートから離れた所を歩いていた観光客が、偶然氷河が解けて一部が露出していたミイラを発見し話題になりました。

最近、このミイラ、・・・アイスマンがイタリアで解剖され、NHKでも特集として放送されました。

5300年前に生存していたとされるアイスマンは、このアルプスの標高700mとこの地より高い山麓に住み、標高3000m以上の冬山にも縫製された毛皮の装束を身に着け登っています。

靴も立派な熊の毛皮、純度の高い銅製の斧を持ち・・・想像できない文明がこのアルプスにも存在していたことになりました。

ギリシャ文明よりも、エジプト文明よりも以前に、このアルプス近郊にどんな文明があったのでしょう。

伝えられている歴史は本流としても、支流には発見されていない、歴史を覆す驚くべき事実が沢山眠っているのでしょう。信じられないが事実のようです。


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荷物の整理をし、着替えていると何となく暖かい光が・・・窓に次々と灯がともり・・温かいスープと楽しい団らんが始まるのでしょう・・・我々も食事の時間だ

西駅の近くで食事、ここから1.5㎞くらいかな、・・・バスで案内して戴けることになった。

途中大通りから住宅街の中を通って・・・、交差点(ロータリー)は大半が十字路でなく、右側通行で入り放射状に(例えば120度)回って抜け出ていくので、方向感覚が解らなくなってくる。

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間もなく市街地に入り、3、4回折れ曲って10分もかからず到着。帰りは、来た道を歩いて帰れるだろう。

ドイツ語圏のスイス・レストラン・・・ソーセージにビールでしょう・・・が、ワインで我慢しよう。


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ここにもお面が・・・観光地として発展する以前の時代、13世紀の英雄ウィリアム・テル時代、民話に登場するのでしょうか

この街は、約200年前にメイヤー兄弟がユングフラウの登頂に成功して以来、英国人などから登山ブームが始まって、1857年にメンヒ、1858年にアイガーが西側ルートで登頂に成功する。

山岳観光ブームとなり、宿泊施設が建設ラッシュとなり発展した町とのこと

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さて、気さくなマッチョがアルプホルンを披露してくれます。この店のオーナーか?そして音を出せる者はいないかとお客をあおり、チャレンジさせる。

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・・・次々にギブアップ、一人現役のトランペット奏者が高い音を出した。

そこで、挑戦してみました。木管部が長いのとマウスピースが大きいので、つい興奮して力み高い振動音・・・きれいな音色とは言えない・・・もう一度と言うので、本来の音色とは異なる高音が鳴りOK

アルプホルン・・・直管部が長く圧倒されたが、良く考えれば長くてジャマなので丸めているのが普通の金管楽器であり・・・唇をリラックスさせ吹く楽器でした。

食後、駅前商店街はまだ営業しているようだ。バスに戻らず一人でウインドウショッピングして帰ることにした。

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ヴィクトリーノックスの看板が見える、軍用の多機能ナイフ(アーミーナイフ)やアウトドア関連グッズの会社で日本にも輸入されている。

木製の玩具なども扱っているお店だが、時計やアーミナイフは仕事柄よく知っているので、次のお店へ。

・・・そして商店街の端、

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ロータリーだ。これが方向感覚を狂わせる・・・右側から来たと思うが・・・しばらく進むとT字路、左に折れ直ぐ右に折れる道路とやや右に進む道路10m位先に左に折れる道路と複雑な交差点。

さてどうするか・・・手前の右に折れる道を通り過ぎ、先の道を道なりに右に進む・・・

街から離れ、右側に住宅街が続く。やがてまたもロータリー、右に曲がらず直進する。左手にひときわ明るい建物が、背後の山に星のネオンが点滅したり・・・

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多分、どこかのロータリーで道を間違えた・・・時間もあるし、更に進むと直進方向は住宅の明かりも少なくなってくる。・・・明るい建物に入り、街の地図を見せて頂こう。左折して遠くにco.opのネオンが見える。

近づくと・・残念、閉店していた。その先の大通りを右折すると左に駅舎が・・・Kioskに入り地図を探すが置いてない。店員に聞いても・・・?  眼の前の店を勧められた。

思い出した西駅から多分東駅に来てしまった。途中何度か右折するのを断念し、左折したのでこうなったのだろう。

ここはユングフラウの登山電車の始発駅、夜の8時過ぎでは人通りも少ないが、朝はにぎやかだろう・・・

隣のガラス貼りの建物(暗くて全体像が分からないが大きな建物)のショップに入る、時計や宝飾品のお店のようだ、・・・地図が無いか?店員とやり取りしていると直ぐ日本人?と聞かれた・・・そして

日本人の女性を紹介された。助かった話が早い・・・早速地図を広げて頂いて、どこのホテル?と聞かれた。

・・・そうか、うっかり地図もホテルのパンフも持ってこなかった。・・・が、大丈夫、地図を見ればホテルの場所はすぐ解る。地図上で街外れにある小さな山裾を探しだし、この付近と指し示す。

彼女が〇△ホテル?と聞くが・・・覚えていないから返事が出来ない。ガラスのショーケース上のカメラのスイッチを入れ、液晶画面をサーチする。

ユングフラウとホテルの写真、ホテル名も写っているし、ついでにレストランの写真と通ってきた住宅地横の広場の写真・・・

エー西駅からこんな暗い住宅地の道を通って来られたのと驚かれたが、途中で右折するところが解らず、灯のある所がここでしたと説明する。

何かお店の製品を買いたいとケースに目を走らせたが、聞くともう閉店の時間と言う。、・・・彼女から暗い道で心配ですから携帯電話に連絡入れましょうかと、心配させてしまった。

ポーチの中に・・無い・・・携帯電話もホテルに置いて来てしまった。

大丈夫です・・・アルペン通りに戻り、パーク通りから大通り(ハウプト通り)に出ればホテルは解りますからとをお礼を言って、教えて頂いた広場の向こうに明るい建物(カジノ)のあるところまで戻り、ロータリーを左折して二つ目の大通りを左折する。

大通りに出た・・・この通りは記憶がある、左手にビリヤードの店、営業中だ。ブラブラ散策し、レストランを出てから1時間位経った頃、右手にホテルが見えた。大半が暗い夜道でいい写真も撮れずホテルに帰った。

サァ、明日は早起きだ、ユングフラウヨッホ(標高3454m)に登山電車で登る。

・・・スイス人は働き者だ、そして多分、辛抱強い国民性なのでしょう。

明治28年に、目の前の壁のようなユングフラウの岩山に7000m以上のトンネルを掘ろう・・・そして急こう配の坂道に歯車式でスリップしないで登る列車を走らせれば、大勢の観光客を呼び込めると工事が開始された。

途中難工事と予算も無くなり、16年の歳月が流れやっと1912年に開通・・・すごいことです。スイスの工作機械が優秀なのもこのような歴史があるからでしょう。

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登山電車で、クライネ・シャイデックを目指す

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そして、トンネル内で故障・・・・・救援電車に乗り移り

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クライネ・シャイデックに到着したのでした。

赤い登山電車に乗り換えて、高山病対策が必要なユングフラウヨッホに向かいます。

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スイスの首都 旧市街散策

2013-08-21 | 旅行記

スイスと言えば、スキー・登山・山と湖と氷河・・・アルプスとハイジの国・カウベル・・・時計・アーミーナイフ・チョコレート・・・傭兵の歴史・・・永世中立国・・・スイス銀行

レマン湖の畔・・・国連がある国際都市ジュネーブから、首都ベルンへ移動する、1時間45分位。

ベルンの街は、アルプスから流れてくる清流が台地にぶつかり蛇行しU字形に3方を削り、断崖に囲まれた自然の要塞を利用して、1191年築かれたが、木造の街並みは1405年の大火で焼失してしまう。

その後、石造りの都市として街並みは再建された。

中立国のスイス・ベルンは、近年の世界大戦の戦火を無傷で逃れ、中世の街並みが残り今も生活に溶け込んでいる。

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旧市街(ゲレヒティクカイト通り)、2階の窓辺に、・・・いつ頃から続く風習だろう、時代の面影が・・・

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日本では、黄金色の田んぼにカカシが立っていますが、こちらでは魔除けでしょうか?楽しいキャラクターですが・・・

こんな風景もあちこちに、

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これらの像が誕生した物語・・・興味がありますネ

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旧市街の東の端、アーレ川に架かるニーデック橋を渡り、右手にベルン(ドイツ語で熊:ba?ren)公園

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2009年10月オープンのこの施設に熊は2頭位・・・奥の建物でトイレとカフェが利用できる。

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左手に折れて坂道を登り、丘の上右側に18世紀に墓地だった所がバラ公園になり高台から、川越しに旧市街が見渡せる。

グリムゼル湖を源流としインターラーケンのブリエンツ湖からトゥーン湖を経て・・・流れてきたアーレ川は橋の左手から手前の土手下を流れ、右手上方に大きく湾曲し・・・ビール湖に入りドイツとの国境でライン川と合流する。

中央右奥に高い塔が見える・・・旧市街の中心部にある大聖堂・・・アーレ川に架かる橋(ニーデック橋)に戻ってみよう。

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橋の左がアーレ川上流、川岸まで民家が・・・そして橋の向こうに見える塔はニーデック教会。橋を渡ると旧市街の大通り

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橋からの眺め・・・川岸まで広がった街並み

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住居が川岸と高台の麓に続いている。レンガ色が落着いた景観となっている。

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さて橋を渡った高台の広い石畳の大通り、・・・ここから西に向かって、ゆるやかな登り勾配が続く。

中世の要塞都市は、この地から発展する度に西へ西へと拡張してきた歴史があり、約1.5㎞先には近代都市のベルン駅がある。

Photo_2

噴水の向こう側がニーデック橋、橋を渡ってゆるやかな坂道をここまで登ってきた。

ベルンは道路中央を水路が流れ、交差点などに100以上の噴水があり、中世の時代から大切な水飲み場だった、噴水の上部には像が・・・。

この像は、「正義の女神」

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・・・よく見ると目隠しをしています・・・どうも戒めのようで「先入観でものを見てはいけない」・・・正義の女神の噴水。

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大通りの両側の建物にはアーケードが続き、雨や雪の日も濡れずに歩けるが、ドキッとするディスプレィも多い。

2

左・中央の人形は、動物と華燭の式なのでしょうか?・・・右の人形も深い意味があるのでしょうが・・・?

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道路の端に落とし穴が・・・蓋を開けると地下倉庫?・・・階段を降りると立派なお店が・・・入口の蓋が・・・たくましい商魂です。

大通りから路地を横切り一本南のユンケル通りに出ると・・・ドーンと大聖堂がそびえ建っています。

尖塔部が四角柱だ・・・修理の足場が組まれて長期間の修理中・・・残念

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1421年に着工、ゴッシック様式・・・より高く天までと・・・着工から完成まで100年、200年はよくあること、この聖堂は約470年、1893年にこの辺で完成にしようと献堂式を行なったのでしょうか

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正面入り口・有名な最後の審判のレリーフ、1495年、エルハル・トキュング作とガイドブックにある。

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一部を拡大してみると・・・左が天国、右が地獄

そして教会内部へ進む

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ステンドグラスが側廊と正面祭壇にあり、充分な採光があり非常に明るく天井も高い。

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祭壇後方のステンドグラス、後期ゴッシック頃の製作

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鮮やかな色彩のステンドグラスが・・・

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そして物語が・・・もちろん、聖書の一場面でしょうが

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教会入り口横にあるこの像も、イエスと聖母マリアです・・・Pietà:哀れみ・慈悲・・・と呼ばれるのでしょう。

教会の前にも噴水が・・・

Photo_2

この像は、モーゼの噴水

そして大通りに戻る途中に、天才科学者アインシュタインが結婚し1903年(24歳)頃から3年間住んでいた部屋が公開されている。

EINSTEIN-HAUS・・・特殊相対性理論などを発表した新婚青春時代・・・
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大通りは、この大聖堂付近から前方の塔までクラム通りと名前が変わる。大聖堂と反対の北側の通りには市庁舎がある。

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この石畳の道路は、バスも路面電車(トリム)も走る。

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観光名所の時計塔が近づいてきた。約800年昔の時計というから驚く、1256年製


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左が24時間時計に・・・右が仕掛け時計、・・・何時の間にか終わってしまった。

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この先の大きい交差点を渡ると、この先はマルクト通りとなる

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よく見かける連結式の赤と黒、近代的なデザインです。

Photo

案内板も素敵なデザインで中世の建物と違和感はない、右は路線図

Jpg

ベルン、・・・中世と近代のデザインが両立した素敵な街、古い物を大事にする文化が根付いている街でした。

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モン・サン・ミッシェル散歩&セーヌ河ナイトクルージング

2013-07-05 | 旅行記

パリを離れ、TGV   Lyria で一路ジュネーブへ 

Tgv

ジュネーブ・・・、三方をフランスに囲まれたスイスの大都市

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早速・・・検札、お待ちしていました。大丈夫です、切符に刻印、打っていますから。

・・・ところで、スイスに到着する前に・・・

モン・サン・ミッシェルの坂道ぶらり歩き・・・約8分

サムネイル http://youtu.be/787MNXJsPic

パリ・セーヌ河ナイトクルージング・・・2分44秒

サムネイル http://youtu.be/wjziwp1A_hE

の2本、youtube に限定公開でupしました。 

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TG.V.からの田園風景・・・やがて天候も変わり、青い空に白い雲、赤い屋根と緑の絨毯、のどかな風景が続く・・・

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そして、スイスに到着
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スイス ジュネーブ、・・・フランス国鉄のマップではジュネーブ駅、ホームにもジュネーブの看板が・・・、ここはTGVが乗り入れする7、8番線ホーム・・・

フランス国鉄、正確にはフランスとスイスの両国で運営するLyria SAS(リリア サービス運営会社)の管轄で、TGVの路線もTGV Lyria と呼ばれている。

この駅は、1~6番線はスイス国鉄のホームであり、駅名はCORNAVIN(コルナバン)駅であり、ホームに改札なしで入れる。

<iframe src="http://map.mezza9.biz/map.php?v=3&mtc=1&dmt=2&w=1920&h=1080&s=17&x=6.141298318246529&y=46.21010192424995" width="1920" height="1080" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe><p style="margin-top:0;padding-top:0;font-size:xx-small"><a href="http://map.mezza9.biz/" target="_blank">グーグルマップ</a><a href="http://www.dff.jp" target="_blank"><img src="http://map.mezza9.biz/img/dff.gif" border="0"></a><a href="http://mezza9.net/news.php" target="_blank">ITニュース</a></p>

7、8番線には切符とパスポートが必要になる。・・・

駅に到着し、ホームから階段を下り通路の途中でチェックを受ける・・・フランスからスイスに国境を通過する儀式が残っていた。
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さて、この駅東側のレマン湖側の駅舎は重厚だが、西側は東京・新橋駅のような雰囲気、この先にジュネーブ空港がある。


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ジュネーブ・・・第一次世界大戦後の国際連盟の本部が置かれてから発展した都市であり、湖と公園、そして遠くにアルプスの山並みが


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蛍光カラーのパトカー
近くのI.C.から高速道路に

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遠くの山並みが・・・山岳国家スイスの雰囲気を感じさせてくれる。

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首都、ベルンに向かう。

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