きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

不知火検校と座頭市

2012年03月18日 | 健康・養生・鍼灸
「不知火検校」は極悪人の按摩「杉の市」の物語であり、宇野信夫の同名戯曲をベースに森一生監督、勝新太郎主演で1960年に作られました。一方、1962年に子母沢寛原作、三隅研次監督で製作された、按摩でやくざ者で居合いの達人の「市」を主人公とした「座頭市物語」は、以後「座頭市シリーズ」として大映での勝新太郎の代表作となったが、いずれも主人公は盲目のアウトローが特徴で大菩薩峠の机(この字だったかな?)龍之介もこれに属するかな、60年代は安保闘争やベトナム戦争などもあり、その後の70年代とともになにかと世情不安定な時代であったことが思い出される、がここでは映画の話ではありません。

 鍼灸を生業としている立場から・・・題名にある「検校」、「座頭」とは何なのかという話をしてみましょう。

 検校も座頭も室町時代から定着した盲官(視覚障害者の役職)の一つであり、最高位が「検校(けんぎょう)」続いて「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」となり、最下位が「座頭(ざとう)」となります。

 仁明天皇の子であり、自分も若くして盲人となった人康(さねやす)親王に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられたのが盲官の最初といわれています。また室町時代に「平家物語」をまとめた明石検校(あかしけんぎょう)が幕府から庇護を受けて、盲人の組織(後代には琵琶、平曲、三味線、筝曲、胡弓、鍼灸、按摩、将棋などを業とする者の組織に発展)である「当道座(とうどうざ)」を作ったとされています。

 江戸時代には寺社奉行の管轄下で当道座は発展し、組織のトップに立つ総検校は十万石を超える大名と同等の権威、財力と格式を持っていたといわれています。鍼灸の世界では、日本独自の管鍼法(細い管を通して鍼を刺入する、現在の刺鍼法の主流)を創出した杉山和一検校(すぎやまわいちけんぎょう;杉山流)が有名で、今でも毎年「杉山祭」が催されています(江ノ島にて)。

 良い腕をもった鍼医者であったからこの地位まで上り詰めたかどうかは定かではありません。当道座(視覚障害者)への幕府の保護政策の一つに貸付金の制度があったようで、この貸付金を元手に金融業(金貸し)をして儲けていた人たちも多く、この財力で官位を手に入れていったということもあるようで、鍼や按摩の名人というよりは経営者としての能力が高かったから検校まで上り詰めたのではないかと私などは考えています。
 杉山検校は紀国屋文左衛門との交流も深かったと伝えられていますし・・・。
邦楽を支えてきたのも検校たちです。お正月に良く流される筝曲「春の海」を作った宮城道夫さんも視覚障害者でしたね。

 一方座頭は「座頭市」で分かるように、流しの按摩さんレベルであり、「あんま上下(かみしも)十六文」(上下、つまり全身をもんで、料金はかけ蕎麦一杯と同じ十六文(二八蕎麦。二八の十六文)という厳しい状況にあったようで、真面目にこれだけで稼いで位を上げていくのは無理だったでしょうね。いつの世も経営的センスのある人が成り上がれるのですね。

 座頭市は「俺たちゃな~ご法度の裏街道を歩く渡世なんだぞ~」と自ら言うように無宿人(住所不定)ですから、当然貸付金も借りれなかったでしょうが、博打の才能をいかして結構稼いでいますね。各地の親分の所を回っていれば、客人として食・住には困らないしね・・・その割にはいつも汚い恰好をしているのが変ですね・・・。

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