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印刷局滝野川工場、滝野川警察を過ぎると、その先に「西ヶ原一
里塚」があった。
江戸時代、幕府は日本橋を基点に全国の主要街道に一里塚を築き
街道の道程を示す目安とした。慶長9年(1604)のこと。この西
ヶ原一里塚は、本郷追分けの次の塚で日本橋からだと日光御成道の
2番目の塚となる。
旧道を挟んで一対の塚が現存し、車道の中にある塚は「日本榎保
存之碑」も設置されている。当時、東京市電の軌道延長路線の改修
工事で撤去されそうになるところを、地元住民の保存運動により文
化財として記念碑が建てられている。
一里塚の北側奥に社が見える。こちらが「七社神社」で、寛政5
年(1793)の火災により古文書や古記録書が焼失し創建年は判ら
ない。しかし、その年の翌年に社が再建されており、西ヶ原・栄町
の総鎮守である。
(北区西ヶ原2-11-1)
西ヶ原一里塚 神明神宮
里塚」があった。
江戸時代、幕府は日本橋を基点に全国の主要街道に一里塚を築き
街道の道程を示す目安とした。慶長9年(1604)のこと。この西
ヶ原一里塚は、本郷追分けの次の塚で日本橋からだと日光御成道の
2番目の塚となる。
旧道を挟んで一対の塚が現存し、車道の中にある塚は「日本榎保
存之碑」も設置されている。当時、東京市電の軌道延長路線の改修
工事で撤去されそうになるところを、地元住民の保存運動により文
化財として記念碑が建てられている。
一里塚の北側奥に社が見える。こちらが「七社神社」で、寛政5
年(1793)の火災により古文書や古記録書が焼失し創建年は判ら
ない。しかし、その年の翌年に社が再建されており、西ヶ原・栄町
の総鎮守である。
(北区西ヶ原2-11-1)
西ヶ原一里塚 神明神宮