続いては洛中の中の中、「鉄輪の井」へ向かった。民家の路地の
奥にあり、入口には引き戸があって入るのをためらったものの、隣
家の方が丁度出てこられて伺うと、“どうぞお入りください”と促
され、入ることが出来た。
民家の路地通路を数メートル進むと右側に社があった。この社は、
伏見稲荷大社から勧請された「命婦稲荷社」で、その右脇に鉄輪の
井がある。

この井戸は“丑の刻参り”で有名で、鉄輪のそばに住んでいた女
が男に捨てられ、身を投げたところといわれている。この言い伝え
からここを“縁切り井戸”とも呼ばれ、水をくんで相手に飲ませる
と悪縁が切れるとの俗信も伝わる。

謡曲の「鉄輪」には、鉄輪の女が貴船へ丑の刻参りをして、相手
の男とその妻を祈り殺そうとする話で、顔には丹を塗り松脂で髪を
逆立て、五徳を頭に乗せて鬼神となる話だ。

そんな恐ろしい鉄輪の井も、1935年には「霊井」と呼ばれお参
りする方も多いという。
(京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町)
奥にあり、入口には引き戸があって入るのをためらったものの、隣
家の方が丁度出てこられて伺うと、“どうぞお入りください”と促
され、入ることが出来た。
民家の路地通路を数メートル進むと右側に社があった。この社は、
伏見稲荷大社から勧請された「命婦稲荷社」で、その右脇に鉄輪の
井がある。

この井戸は“丑の刻参り”で有名で、鉄輪のそばに住んでいた女
が男に捨てられ、身を投げたところといわれている。この言い伝え
からここを“縁切り井戸”とも呼ばれ、水をくんで相手に飲ませる
と悪縁が切れるとの俗信も伝わる。

謡曲の「鉄輪」には、鉄輪の女が貴船へ丑の刻参りをして、相手
の男とその妻を祈り殺そうとする話で、顔には丹を塗り松脂で髪を
逆立て、五徳を頭に乗せて鬼神となる話だ。

そんな恐ろしい鉄輪の井も、1935年には「霊井」と呼ばれお参
りする方も多いという。
(京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町)
続いては東山の坂道を駆け落ちるように降り鴨川沿いを目指す。
その途中に「崇徳天皇御廟」があった。

洛中の中で恨みを抱く怨霊を挙げるなら、まず一番が崇徳天皇
だろう。保元の乱で破れ後白河天皇に流刑にされた崇徳上皇は、
洛中を憎悪して亡くなっている。
流刑地・讃岐国で血書をもって洛中への遍幸を願ったものの、
その意が送り返され憤怒の如く自分の舌を噛みきり、その血でも
って送り返された血書の行間に“日本国の大魔縁となり、皇を取
って民とし民を皇となさん“などと書き込んで46歳で崩御。
その頃の洛中では、崇徳の怨念による祟りが相次いで発生した
ため、御影堂を建て慰霊に務める。現在は大きな楠樹の陰に隠れ
た御廟がひっそりと残っていた。

(京都市東山区安井北門通上ル万寿小路西側)
その途中に「崇徳天皇御廟」があった。

洛中の中で恨みを抱く怨霊を挙げるなら、まず一番が崇徳天皇
だろう。保元の乱で破れ後白河天皇に流刑にされた崇徳上皇は、
洛中を憎悪して亡くなっている。
流刑地・讃岐国で血書をもって洛中への遍幸を願ったものの、
その意が送り返され憤怒の如く自分の舌を噛みきり、その血でも
って送り返された血書の行間に“日本国の大魔縁となり、皇を取
って民とし民を皇となさん“などと書き込んで46歳で崩御。
その頃の洛中では、崇徳の怨念による祟りが相次いで発生した
ため、御影堂を建て慰霊に務める。現在は大きな楠樹の陰に隠れ
た御廟がひっそりと残っていた。

(京都市東山区安井北門通上ル万寿小路西側)
清水さんの境内の中に縁結びの「地主神社」があるが、拝観料
がいるのでパス。なんでも境内に丑の刻参りを行った釘跡が多く
残っているというので、伺うのは次の機会に取っておこう。そう、
丑の刻参りで有名なところは洛中にはまだあるので、この後に伺
う予定だ。
続いては近くにあるという「毛朱一竹塚」を探したが見つから
なかった。ここには妖怪・鵺の遺骨が埋められてあるという伝説
があるんだけれど、こちらも次の機会に。
清水さんの北側にある「成就院」へ向かう参道の脇に無縁の数
多くの「地蔵菩薩」が斜面一杯に並んでいた。大地が全てのいの
ちを育む力を宿すように、苦悩の民をその無限の慈悲心で包み込
み救ってくれるという、そんなお地蔵さんの集団だ。


名もないお地蔵さんに頭を垂れ、お願いをひとつ唱えてみた。
1835年にこちらの寺の第24世住職になった月照の遺跡が南側
にあった。中央が月照の歌碑、右側が西郷隆盛の詩碑で左側が信
海(月照の弟)の歌碑である。
(京都市東山区清水1-294)
がいるのでパス。なんでも境内に丑の刻参りを行った釘跡が多く
残っているというので、伺うのは次の機会に取っておこう。そう、
丑の刻参りで有名なところは洛中にはまだあるので、この後に伺
う予定だ。
続いては近くにあるという「毛朱一竹塚」を探したが見つから
なかった。ここには妖怪・鵺の遺骨が埋められてあるという伝説
があるんだけれど、こちらも次の機会に。
清水さんの北側にある「成就院」へ向かう参道の脇に無縁の数
多くの「地蔵菩薩」が斜面一杯に並んでいた。大地が全てのいの
ちを育む力を宿すように、苦悩の民をその無限の慈悲心で包み込
み救ってくれるという、そんなお地蔵さんの集団だ。


名もないお地蔵さんに頭を垂れ、お願いをひとつ唱えてみた。
1835年にこちらの寺の第24世住職になった月照の遺跡が南側
にあった。中央が月照の歌碑、右側が西郷隆盛の詩碑で左側が信
海(月照の弟)の歌碑である。
(京都市東山区清水1-294)
続いて鴨川沿いの通りを北へ向かい、五条通りの手前の高瀬川
沿いに来た。こちらに小さな社と鳥居があり榎大明神が祀られ、
その手前に巨木の榎がデンとそびえていた。

この場所が、源氏物語の光源氏のモデルといわれている源融が
時の摂政、藤原基経の台頭により隠棲した邸第「河原院」があっ
たところで、贅の限りを尽くした大邸宅だったという。
嵯峨天皇の皇子である源融は、隠棲していたといえどもこの院
の林泉に鴨川の水を引き、殿舎・楼閣を建て風流を極めた生活が
なされていたという。そのあたりは、源氏物語・第一部・最終章
「藤裏葉」で描かれている。

そして、平安京時代の最大の心霊スポットでもあった。
(京都市下京区木屋町通五条下東側)
沿いに来た。こちらに小さな社と鳥居があり榎大明神が祀られ、
その手前に巨木の榎がデンとそびえていた。

この場所が、源氏物語の光源氏のモデルといわれている源融が
時の摂政、藤原基経の台頭により隠棲した邸第「河原院」があっ
たところで、贅の限りを尽くした大邸宅だったという。
嵯峨天皇の皇子である源融は、隠棲していたといえどもこの院
の林泉に鴨川の水を引き、殿舎・楼閣を建て風流を極めた生活が
なされていたという。そのあたりは、源氏物語・第一部・最終章
「藤裏葉」で描かれている。

そして、平安京時代の最大の心霊スポットでもあった。
(京都市下京区木屋町通五条下東側)
粟嶋堂宗徳寺の後、本願寺伝導院へ廻ってみたが、現在建物の改
修中で拝見できなかった。建築家・伊東忠太のデザインと六角桜閣
の車止め石柱を観たかったが、次の機会としよう。
続いて七条通りを東へ進み、鴨川に架かる七条大橋を渡り豊国神
社前にある「耳塚」(別名:鼻塚)へ。
16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役にか
かる遺構で、時の武将は戦功の印として首級の代わりに軍人や民間
人の鼻や耳をそぎ落とし、それを塩漬けにして日本に持ち帰った。
秀吉の命により、この地に埋められ供養されたという。

戦争とはいえ、なんとも心の痛む事件であり、そのモニュメント
である。
(京都市東山区正面通大和大路西入ル茶屋町)
修中で拝見できなかった。建築家・伊東忠太のデザインと六角桜閣
の車止め石柱を観たかったが、次の機会としよう。
続いて七条通りを東へ進み、鴨川に架かる七条大橋を渡り豊国神
社前にある「耳塚」(別名:鼻塚)へ。
16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役にか
かる遺構で、時の武将は戦功の印として首級の代わりに軍人や民間
人の鼻や耳をそぎ落とし、それを塩漬けにして日本に持ち帰った。
秀吉の命により、この地に埋められ供養されたという。

戦争とはいえ、なんとも心の痛む事件であり、そのモニュメント
である。
(京都市東山区正面通大和大路西入ル茶屋町)