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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

ミュージアム巡り 歴史と物語 吾妻鏡

2011-04-28 05:38:42 | 街を巡る_2011
 鎌倉時代に入ると将軍や幕府の歴史の物語が登場する。そのひ
とつが「吾妻鏡」。治承4年(1180)から文永3年(1266)ま
での歴代将軍の年代記となっている。編纂は鎌倉幕府であるもの
の、編者や成立年が判っていない。北条氏一門や幕府役人の手に
よって記述され、1300年頃に完成したのではないかと推定され
ている。

 吾妻鏡は六国史から打って変わり、鎌倉幕府の歴代将軍を中心
に武家社会の歴史書としており、当時の武将たちにも読まれたよ
うで、江戸を築いた徳川家康も武士のあり方や施政術をこの吾妻
鏡を手本に学んだという。
 展示されている資料は、北條氏から黒田孝高に贈られ、慶長9
年(1604)に孝高の子の長政から徳川秀忠に献上された“北条本”
とされる古写本と記してあった。現在、北条本は51冊が残って
いる。
(千代田区北の丸公園3-2)


ミュージアム巡り 歴史と物語 日本三代実録

2011-04-27 05:53:39 | 街を巡る_2011
 「日本三代実録」は、清和、陽成、光孝天皇の歴史を記した全
50巻の国史で、延喜元年(901)に完成。源能有や藤原時平、菅
原道真等が編纂に関わる。
 29年間の歴史を50巻に及ぶ記述は内容も詳しく、それまでの
国史の中ではずば抜けた記録集だ。展示資料は慶長写本のひとつ。
(千代田区北の丸公園3-2)


頑張れ、東日本!!

2011-03-17 06:13:18 | 街を巡る_2011
 被災された方には、心よりお見舞い申し上げます。
 ここ数日で、東北の各地から連絡の取れなかったクライアントさ
んから、みな無事ですとのメールが届き、ひとまず安心した。しか
し、周辺のライフラインが寸断されており、あらゆる物資が届いて
いないという。
 さらに昨日の被災地には雪も降り、厳寒の中での避難暮らしが続
いている。少しでも早い復興を願っている。頑張れ、東日本!!


ミュージアム巡り 名古屋市博物館 ネズミ取り

2011-03-16 06:11:37 | 街を巡る_2011
 昔、田舎の家ではよく見かけた「ねずみ取り」。まだどこかで現
役として活躍しているのだろうか。昔ほどネズミが家の中をほっつ
き歩くこともなくなったんだろう。
 昔はよくネズミを見たものだが、最近では家ではなく地下鉄の駅
ホームの線路辺りで拝見することがあった。あれは東京メトロ・日
比谷線の霞ヶ関駅だったかな。
 さて、子供の頃、取りかごを見たことはよくあったが、肝心のネ
ズミが捕獲できたところは一度もなし。きっと、親が気を利かして
捕ったネズミを見せなかったのかもしれないなあ。
(名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27-1)


街を巡る 洛中_3 弁慶石

2011-02-13 06:09:39 | 街を巡る_2011
 洛中巡りの最後は、その前年に時間アウトで廻れなかったパワー
スポットへ。そこは若者が集うストーリーに面したマンションのエ
ントランスにある「弁慶石」。
 武蔵坊弁慶は、石フェチだったのだろうか、石を女に見立てて可
愛がったようだ。なんといっても奥州征伐時に最期となる平泉まで、
この大きな石を持って行っている。弁慶の没後、地元では疫病が蔓
延したため享徳3年(1454)に、現在のこの地に移されている。
地名もそのまま“弁慶町“が残っている。

 この石を撫でると弁慶のような怪力無双なパワーが得られるとか。
(京都市中京区三条通麸屋町東入ル弁慶町)

街を巡る 洛中_3 壬生寺と屯所

2011-02-12 03:26:53 | 街を巡る_2011
 壬生に伺ったなら浪士の跡を訊ねたい。そう壬生浪士イコール新
撰組の屯所があったところ。ここは洛中観光地のメッカのひとつに
数え上げられ訪れる方も多い。

 私は前の年にジックリと探索したので、今回は鼻の先をかすめる
ように廻ってみた。壬生寺の参道横に「夜泣き地蔵」がある。また
の名を「おせき地蔵」と呼ばれ、病気平癒や幼児の夜泣き留めにご
利益があると伝わる。

 また近隣の「八木家」は以前、入館したことがあり刀を振り回し
た傷跡も眺めているので、今回は外観風景写真を一枚だけ撮った。
目を閉じると、浪士がその時のために研鑽している光景が瞼に浮か
んできた。
(京都市中京区坊城通仏光寺上ル)

街を巡る 洛中_3 元祇園梛社

2011-02-11 04:39:52 | 街を巡る_2011
 続いて四条大通りを西へ進み壬生まで来た。ここに「元祇園柳
社」がある。
 元とあるように、牛頭天王(スサノウノミコト)の神霊を八坂
神社に遷祀し、地元民が風流傘を立てた鉾を振り音楽を奏でて御
輿を八坂へ差し向けた。これが後の大祭である「祇園祭」の起源
と伝えられる。
(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)

街を巡る 洛中_3 道元示寂の地

2011-02-10 06:13:39 | 街を巡る_2011
 曹洞宗の開祖・道元禅師が生涯を閉じたと伝わる場所に出くわし
た。道元は正治2年(1200)に洛中で生まれ、比叡山で出家して
建仁寺の栄西の門に入り禅を学び、貞応2年(1223)に入宗する。
 帰国後、建仁寺に足を留めるものの、その後は深草に興聖寺を建
て布教活動を広げていく。晩年には権勢を嫌い越前の地に永平寺を
創建し、釈迦正伝の厳格な坐禅宗風を確立する。
 建長5年(1253)に病の療養のため弟子の懐弉を伴って上洛し、
この地にあった俗弟子の寛念の屋敷に滞在し、同年8月に54歳の
生涯を閉じた。
(京都市下京区高辻通西洞院西入ル)

街を巡る 洛中_3 住吉神社

2011-02-09 06:17:21 | 街を巡る_2011
 神社が続く。
「住吉神社」は、後白河天皇が和歌の参神を平安京に勧請される
ため、保元2年(1157)、藤原俊成に勅使された。俊成は摂津
国の住吉より五条室町に分祀し、新住吉として祀ったと伝わる。
以降、和歌所の別当が奉斉し社運隆盛を極める。
 ところが応仁の乱により社殿が焼失し、正親町天皇が永禄11年
(1566)に現在の地に遍座し正殿を造営。以来、歌道ご伝授では勅
使が派遣され代拝されている。

 境内右奥には「人丸神社」(柿本人麻呂が祀られている)もあった。
(京都市下京区醒ヶ井通高辻町南東角住吉)


街を巡る 洛中_3 繁昌神社

2011-02-08 06:24:14 | 街を巡る_2011
 次にはなんともめでたい社へお参りした。

 商売繁盛と良縁成就の「繁昌神社」だ。日本書紀のくだりに、
天照大神が“汝三神、道の中に降りて居して天孫を助け奉りて、
天孫のために祭られよ“と神勅を授けたと記されている。
 この3人の姫神は“京の弁財天”とも呼ばれ、弁財天の別名が
「針才女」でこれが訛り「班女」となり“繁昌”へ繋がっていく。
弁天さまは才気と技芸の神様で、その身の技能や才覚を磨き、道
を拓く者の標と呼ぶ女神だ。

 そのため、こちらの社が日本で唯一の“繁昌”を祈願する神社
として知られている。
(京都市下京区高辻通室町西入ル繁昌町)