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塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 双頭レールなど

2010-12-12 06:10:44 | ミュージアム巡り
 出土物の中には“鉄ちゃん”なら垂涎の的のような品が並んでい
た。左下にカットされた「双頭レール」があった。このレールは上
下対称のI型と呼ばれるもので、片面が摩擦ですり減ったら反対の
面を使用する、現在でいえば、まさにエコレールだった。
 枕木にレールを固定する「犬釘」もあった。頭のところが犬に似
ているから名が付けられている。
 右上には「軸箱の蓋」があった。これは車軸を支える軸受けを収
容する鉄製の箱の蓋である。銘文の綴りから英国・バーミンガムで
1888年に製造されたものだ。
 その他、ニッパ、定規、ゲージ、労働者用のバッジなども発掘さ
れている。
(港区東新橋1-5-3)

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 改札鋏や車両銘板

2010-12-11 06:33:52 | ミュージアム巡り
 発掘調査の出土物は当時を物語る貴重な鉄道業務に用いられた品
が続々出てきた。
 最初に目についたのが「改札鋏」。子供の頃、親に連れられ国鉄
を利用して旅行をした時、改札に入る時にキップに鋏で入場したこ
とを示す切れ目を入れる。入れ終わると改札係は、鋏を改札枠に当
ててカタカタと小気味よいリズムを刻んでいたなあ。
 楕円形のものは「車両銘板」で、右上のものは明治10年とあり、
「IMPERIAL GOVERNMENT RAILWAY」「MAKERS TOKIO1877」
の英文が見える。
 左下には「チェッキ」(手荷物引換証)がある。これは、手荷物
を無料で預かり目的地まで運ぶサービスがあり、客に渡す金属製の
預かり証のこと。英語のCheckが転化したもので、手荷物全般を
“チッキ“と呼ぶようになった。
(港区東新橋1-5-3)

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 汽車土瓶

2010-12-10 03:16:32 | ミュージアム巡り
 1991年から始まった新橋停車場の発掘調査で数々の出土物が発
見された。そのひとつが「汽車土瓶」で、駅で売られていたお茶
を入れた陶製の容器である。
 お茶が駅で販売されるようになったのは、明治22年(1889)
に静岡駅の構内で始まったといわれる。その8年後頃から容器と
して土瓶が量産されるようになる。
 発掘された土瓶の表面には駅名や店名が書かれていたり、絵柄
の入ったカラフルなものや、“大勝利”と書かれた国威発揚の文
字もあり、現在のアドバタイジングスペースであったようだ。
 お茶を飲み終わると用が無く捨てる汽車土瓶であったが、かな
りの数が割れたり欠けたりしない良い状態で出土したという。
(港区東新橋1-5-3)

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 廃止直前の汐留駅

2010-12-09 06:34:10 | ミュージアム巡り
 鉄道歴史展示室のエントランスに大型の陶板壁画「新橋汐留蒸気
車鉄道局停車館之真図」が掛けられていた。
 これは1879年に三代目歌川広重が東京名所之内の中で描いたも
のを複製したものだ。この作品は当駅舎再建にあたり、壁面の石材
や外観の色合いの決定する参考資料として検討されたという。壁面
の色合いはほぼ完璧に忠実に再現されているといえる。
 さて、頂いたパンフレットには1986年に浜松町の上空から撮影
された廃止直前の汐留駅写真が掲載されていた。見るからにその場
所は広大だったことが伺える。
(港区東新橋1-5-3)

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 新橋駅構内

2010-12-08 04:18:07 | ミュージアム巡り
 新橋停車場駅舎は、アメリカ人のR・P・ブリジェンスの設計に
よる木骨石張り構造で、1871年5月に着工され同年12月に完成
し、翌年の10月14日に開業した。
 日本で最初の鉄道ターミナル駅舎は、モダーンな洋風建築で銀座
通りに向かって威容を誇っていたという。
 開業直後に撮影された駅舎の写真は、数多く横浜開港資料館に保
存されており、その鮮明な写真と平面図を基にして旧新橋停車場が
外観復元されている。
 ただし、それは表面のみで建物内部については信頼できる資料が
残されていなく、推測による再現は取り止められ、新たな設計とな
っている。
 その当時を物語る貴重な図は、1873年に三代目歌川広重によっ
て描かれた「東京汐留鉄道館蒸汽車待合之図」で、内部の様子が分
かる。
(港区東新橋1-5-3)

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 0哩標識

2010-12-07 06:25:32 | ミュージアム巡り
 日本国内最初の鉄道を新橋・横浜間に建設するため、両側から測
量が始まり、新橋の基点となったのが「0哩標識」だ。1914年に
東京駅が開業されるまで、東海道本線の起点であった。
 開業当時の駅舎は関東大震災で焼失、1934年に改良工事が行わ
れ3年後に0哩標識と線路の一部が再現される。この0哩標識は、
1958年に鉄道記念物に指定し、1965年には「旧新橋横浜間鉄道
創設起点跡」として国史跡に指定。
 汐留地区の再開発に伴い1991年から開始された発掘調査で、駅
舎やプラットホームなどの遺構が出土した。それは現在、展示室の
ガラス張りで駅舎基礎石の遺構を見ることが出来る。
 基礎石は火山灰が固まってできた凝灰岩の伊豆斑石で、駅舎やプ
ラットホームの大部分で使用されていた。
(港区東新橋1-5-3)
旧新橋駅構内

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 プラットホームとレール

2010-12-06 06:00:55 | ミュージアム巡り


 汐留シオサイトに生まれ変わった新橋停車場は、もとは葦の生い
茂る海辺だった。
 徳川家康が江戸に入ッた頃から埋め立てられ、溜池から江戸湾に
通じる水路が江戸城の外堀となり、この付近にあった土橋に堰が設
けられ潮の干満が中に及ぶことを防いだことから、汐留という地名
が付いたという。三代将軍・家光の頃には仙台藩伊達家、会津藩保
科家、龍野藩脇阪家がこの地を拝領されていた。
 江戸から明治となり、1870年にこの汐留の一角に鉄道建設の最
初の測量杭が打ち込まれ、2年後に鉄道が開業すると、この地は新
橋停車場として東京の玄関となった。また、1914年に東京駅が開
業されると貨物専用の汐留駅となった。
 1934年から3年間、さらに大きく改良工事が施された汐留駅は
本格的な貨物駅として発展していく。物流の一大拠点として重要な
役目は1986年10月31日、その使命を終えて廃止された。
 駅としては114年の歴史に幕を閉じたのである。
(港区東新橋1-5-3)
駅舎遺構  駅舎玄関遺構

ミュージアム巡り 旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

2010-12-05 06:54:17 | ミュージアム巡り
 11月20日、再開発された汐留シオサイト(新橋・汐留)にある
「旧新橋停車場」の鉄道歴史展示室(1996年完成)を訪れた。
 この建物は、明治5年(1872)10月14日に開業した日本最初
の鉄道ターミナル・新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に
再現されたものだ。そして、鉄道発祥の史蹟を目に見えるかたちで
残したいという願いも込められているという。
 当時の開業直前に撮影されていた駅舎の写真が、横浜開港資料館
に保存されていたことにより、残されていた平面図を基に菊池重郎
氏等が1980年に復元図を発表され、再建構想がスタートする。
 当時の写真や発掘調査で駅舎の基礎とプラットホーム遺構なども
わかり、当時と同じ外観の建物が再現された。
 延床面積1,351平方m、建築面積969平方m、地上2階(高さ
15m)、一部鉄骨の鉄筋コンクリートで田原幸夫氏の設計。
(港区東新橋1-5-3)
旧新橋停車場_模型  芝口南久保愛宕下之図

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 スクール

2010-12-04 05:21:19 | ミュージアム巡り
 教会と同じくミッションスクールも多く誕生した。
 現在東京にあるキリスト教系の学校の多くが、この築地外国人居留
地を発祥の地としている。明治6年にキリスト教禁制が解かれるまで
は、細々と家塾を開き布教の機会をうかがっていた。
 当時から熱心な教師や生徒たちが多く、年を追って規模が拡大され
ていく。明治3年から昭和3年まで、この地に14ものミッションス
クールがあった。
 現在の校名で上げれば次のとおり(統合されて現在は9校)。
 女子学院、明治学院大学、青山学院大学、女子聖学院、立教女学院、
慶應義塾大学、関東学院大学、双葉学園、工学院大学
(中央区明石町12-1)

ミュージアム巡り 東京・外国人居留地 教会

2010-12-03 06:26:58 | ミュージアム巡り
 江戸から東京に代わり、開国と供に日本には諸外国からキリスト教
の宣教師が送られてくる。まず、彼らは長崎や神戸、横浜で伝道して
東京開市されると同時に拠点を東京に移す。
 当時の居留地内には教会も多く建設され、カトリックやプロテスタ
ント各派のミッションが宣教師たちを派遣してくる。明治6年から大
正12年にかけて10もの教会が建っていた。
 その教会名は、東京基督公会、新栄教会、ユニオンチャーチ、築地
美以教会、築地聖ヨゼフ教会、サンモール修道会、聖パウロ教会、築
地福音教会、聖三一大聖堂、聖三一会館である。
「明石町遺跡」
(中央区明石町12-1)